2020年08月12日
【安楽死の権利】苦しくても生きるという選択、生きるという”終身刑の延長”を断る選択。
※誰かを殺したい、自殺したいなどの意図はありません。
個人の死生観についてのお話です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
生きることは素晴らしい
命だけは助けて
死にたくない
苦しくても生きろ
日々
「生き辞めたい」と思って生きてる僕の心には、
これらのメッセージは心の深くまで響いてくれない。
なぜ”生きろ”とだけ押しつけられるのに、
”生き辞める”ことはタブー視され否定されるの?
命を続ける選択と同じように、
命を終わらせる選択をしたっていいんじゃないの?
だって、多くの人は勘づいてるでしょ?
”生きることは苦しい”って。
だったら、そんな”終身刑の延長”を
断る権利があったっていいんじゃないの?
ー目次ー
誤解があるかも知れないので、
あらかじめ伝えたいこと。
僕は決して、
人の命を救おうとしている人たちを否定するつもりはない。
人の命を救うことはとても尊い行為。
入院や救急車を数えるほどしか経験していない僕でさえ、
医療現場の過酷さを見ては、ただ尊敬するばかり。
僕が言いたいのは、
人の命を救うことの大切さを理解した上で、
「生き辞める」選択肢があってもいいんじゃないか
ということ。
それを日本語では、どうやら『安楽死』と呼ぶらしい。
命とは何かを定義するのは難しい。
僕は専門的なことは何もわからないけど、
身体と脳が動いて、食べて寝ていれば、
それだけで”命がある”と呼べるんだろうか。
つねづね疑問に思っている。
いくら身体が動いていようと、
「生きろ」という身体の要求と
「別にそこまでして生きたくないし」という心の要求が
一致していないことだってある。
身体と心は別物か、一体か、そんな議論もある。
別物でも一体でも、
死にたいことと
生きていたくないことは同じじゃないし、
死んでいないことと、
生きてることも同じじゃないと思う。
そして、この不一致は
生きることへの苦しみをもっと大きくする。
「そこまで生きたくもない」と思っている心を、
「生きろ」と訴える身体の思想へむりやり近づけるか。
それとも、不一致のまま生きるのは苦しすぎるから、
そこで終わらせる選択をするのか。
「身体の思想へ心を近づけろ」と言う。
「命を粗末にするなんてとんでもない」と言う。
それ本当に、本当の本心で言ってる?
最後のメッセージ
「どんなに苦しくとも、生きねば」
僕は最後まで同意できなかった。
腐海に怯え、瘴気に怯え、蟲に怯え。
人間の残虐性に、狂気に怯える。
そこまで苦しいのに、むりやり生きる?
「生き辞める」のも選択肢として有りじゃない?
国民の大半は極貧生活。
年貢が少しでも足りないと
村人全員が罰せられ、処刑される
どれだけたくさんの米が収穫できようと、
村人は一切、口にできないまま、
年貢を納める道中で餓死していく。
そこまでして生き延びたって
年貢が少しでも足りないと
村人全員が罰せられ、処刑される
に怯える日々が延長されるだけじゃないか。
だったら、処刑されて「生き辞める」のも
選択肢として有りじゃない?
僕は小さい頃から
漫画『ブラックジャック』が大好きだ。
簡単に殺す人々に対し、ブラックジャックは
「こっちはひとり助けるだけで精一杯なんだ…」
命を救うことの尊さに震える一方、
心から同意できない自分もいた。
「助かってよかった」
「どうして助からないといけないんだろう」
矛盾する思いを抱えて読みながら
僕は安楽死の外科医”ドクター・キリコ”の信念にも共感した。
戦場で瀕死になり
「それでもまだ死ねないでいる悲惨な患者をごまんと見てきた」
だから
「安らかに終わりたい」
その願いを叶え、キリコは最期の注射器に魂を込める。
日本では「自殺幇助だ!」と言われてしまう。
けど、
個人が選択した生き方であり死に方だということも、
もっと尊重されていいんじゃないか。
生き延びることは”苦しみの延長”であり
”終身刑の延長”。
死にたくないと言う人だって、
「では生きることは楽しいですか?」
と質問したら、
全員が「楽しい」と答えるわけじゃないだろう。
多くの人が骨身にしみてわかってる。
「生きることは苦しい」と。
にもかかわらず、どうして口をそろえて
生きることは素晴らしい
命だけは助けて
死にたくない
苦しくても生きろ
などと声高に叫ぶの?それは本当に本心?
権力者に搾取されるため?
一部の富裕層の奴隷となるため?
苦しみの中にあるわずかな希望のため?
大切な誰かのため?
大切な誰かがいない人は?
生きろ生きろと押しつけるくせに、
死はまるでタブーかのように否定するのはなぜなの?
ケガや病気で苦しみながら
それでも生きようと戦っている人たちにとって。
僕がここまで書いたことは命への冒涜かも知れない。
そのことについては本当に申し訳ない。
僕は「生きるのは苦しい」と嘆きながらも、
自殺する勇気もない臆病者だ。
自殺する勇気がないから生きてる、
それは自覚している。
命は尊い、命を救う行為は尊い。
それは本当に思ってる。
その上で
”命を終わらせる”という選択が、
許されてもいいんじゃないだろうか。
苦しくても生きる、
それも人生の選択肢ならば、
”終身刑の延長”を終わらせることだって、
同じように人生の選択肢じゃないか。
はた目には生きがいを持ち、
充実しているように見えたって、
身体と心の思想の不一致に苦しむ人はたくさんいるから。
あくまで個人の選択として。
命にも、
続ける権利だけでなく、終える権利がほしい。
個人の死生観についてのお話です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
生きることは素晴らしい
命だけは助けて
死にたくない
苦しくても生きろ
日々
「生き辞めたい」と思って生きてる僕の心には、
これらのメッセージは心の深くまで響いてくれない。
なぜ”生きろ”とだけ押しつけられるのに、
”生き辞める”ことはタブー視され否定されるの?
命を続ける選択と同じように、
命を終わらせる選択をしたっていいんじゃないの?
だって、多くの人は勘づいてるでしょ?
”生きることは苦しい”って。
だったら、そんな”終身刑の延長”を
断る権利があったっていいんじゃないの?
ー目次ー
- 人の命を救うことは尊い、その上で”生き辞める”選択肢がほしい
- 身体は”生きろ”と訴え、心は”別に生きたくもない”と拒否する
- 同意できないメッセージ”苦しくとも生きねば”
- 生きろと押しつけ、死をタブー視するのはなぜ?
- ”生きたい”人たちへの謝罪
1.人の命を救うことは尊い、その上で”生き辞める”選択肢がほしい
誤解があるかも知れないので、
あらかじめ伝えたいこと。
僕は決して、
人の命を救おうとしている人たちを否定するつもりはない。
人の命を救うことはとても尊い行為。
入院や救急車を数えるほどしか経験していない僕でさえ、
医療現場の過酷さを見ては、ただ尊敬するばかり。
僕が言いたいのは、
人の命を救うことの大切さを理解した上で、
「生き辞める」選択肢があってもいいんじゃないか
ということ。
それを日本語では、どうやら『安楽死』と呼ぶらしい。
2.身体は”生きろ”と訴え、心は”別に生きたくもない”と拒否する
命とは何かを定義するのは難しい。
僕は専門的なことは何もわからないけど、
身体と脳が動いて、食べて寝ていれば、
それだけで”命がある”と呼べるんだろうか。
つねづね疑問に思っている。
いくら身体が動いていようと、
「生きろ」という身体の要求と
「別にそこまでして生きたくないし」という心の要求が
一致していないことだってある。
身体と心は別物か、一体か、そんな議論もある。
別物でも一体でも、
死にたいことと
生きていたくないことは同じじゃないし、
死んでいないことと、
生きてることも同じじゃないと思う。
そして、この不一致は
生きることへの苦しみをもっと大きくする。
「そこまで生きたくもない」と思っている心を、
「生きろ」と訴える身体の思想へむりやり近づけるか。
それとも、不一致のまま生きるのは苦しすぎるから、
そこで終わらせる選択をするのか。
「身体の思想へ心を近づけろ」と言う。
「命を粗末にするなんてとんでもない」と言う。
それ本当に、本当の本心で言ってる?
3.同意できないメッセージ”苦しくとも生きねば”
1.『風の谷のナウシカ』原作を読んで
最後のメッセージ
「どんなに苦しくとも、生きねば」
僕は最後まで同意できなかった。
腐海に怯え、瘴気に怯え、蟲に怯え。
人間の残虐性に、狂気に怯える。
そこまで苦しいのに、むりやり生きる?
「生き辞める」のも選択肢として有りじゃない?
2.『火の鳥4 鳳凰編』を読んで
国民の大半は極貧生活。
年貢が少しでも足りないと
村人全員が罰せられ、処刑される
どれだけたくさんの米が収穫できようと、
村人は一切、口にできないまま、
年貢を納める道中で餓死していく。
そこまでして生き延びたって
年貢が少しでも足りないと
村人全員が罰せられ、処刑される
に怯える日々が延長されるだけじゃないか。
だったら、処刑されて「生き辞める」のも
選択肢として有りじゃない?
3.『ブラックジャック』を読んで
僕は小さい頃から
漫画『ブラックジャック』が大好きだ。
簡単に殺す人々に対し、ブラックジャックは
「こっちはひとり助けるだけで精一杯なんだ…」
命を救うことの尊さに震える一方、
心から同意できない自分もいた。
「助かってよかった」
「どうして助からないといけないんだろう」
矛盾する思いを抱えて読みながら
僕は安楽死の外科医”ドクター・キリコ”の信念にも共感した。
戦場で瀕死になり
「それでもまだ死ねないでいる悲惨な患者をごまんと見てきた」
だから
「安らかに終わりたい」
その願いを叶え、キリコは最期の注射器に魂を込める。
日本では「自殺幇助だ!」と言われてしまう。
けど、
個人が選択した生き方であり死に方だということも、
もっと尊重されていいんじゃないか。
4.生きろと押しつけ、死をタブー視するのはなぜ?
生き延びることは”苦しみの延長”であり
”終身刑の延長”。
死にたくないと言う人だって、
「では生きることは楽しいですか?」
と質問したら、
全員が「楽しい」と答えるわけじゃないだろう。
多くの人が骨身にしみてわかってる。
「生きることは苦しい」と。
にもかかわらず、どうして口をそろえて
生きることは素晴らしい
命だけは助けて
死にたくない
苦しくても生きろ
などと声高に叫ぶの?それは本当に本心?
権力者に搾取されるため?
一部の富裕層の奴隷となるため?
苦しみの中にあるわずかな希望のため?
大切な誰かのため?
大切な誰かがいない人は?
生きろ生きろと押しつけるくせに、
死はまるでタブーかのように否定するのはなぜなの?
5.”生きたい”人たちへの謝罪
ケガや病気で苦しみながら
それでも生きようと戦っている人たちにとって。
僕がここまで書いたことは命への冒涜かも知れない。
そのことについては本当に申し訳ない。
僕は「生きるのは苦しい」と嘆きながらも、
自殺する勇気もない臆病者だ。
自殺する勇気がないから生きてる、
それは自覚している。
命は尊い、命を救う行為は尊い。
それは本当に思ってる。
その上で
”命を終わらせる”という選択が、
許されてもいいんじゃないだろうか。
苦しくても生きる、
それも人生の選択肢ならば、
”終身刑の延長”を終わらせることだって、
同じように人生の選択肢じゃないか。
はた目には生きがいを持ち、
充実しているように見えたって、
身体と心の思想の不一致に苦しむ人はたくさんいるから。
あくまで個人の選択として。
命にも、
続ける権利だけでなく、終える権利がほしい。
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