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2019年04月30日

手を繋いで、歩きたかった。

おかしいぜ海賊が財宝に興味ねェなんてよ
お前一体何が欲しいんだァ?

おいニューゲートォ!!

白ひげ
「…ガキの頃から…欲しかったものがある」

おお!!あるのか教えてみろ!

白ひげ
「……家族。」

ONE PIECE 59巻 より


晴れた日の公園に行って
芝生に寝転んだり、ベンチで読書していると、

両親と手を繋いだ子どものシルエットを多く見かける。

→「公園のベンチで読書。
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/141/0

その姿を見て、
ほほえましい、あたたかい気持ちと同じくらい
うらやましさ、非充足感、寂しさが押し寄せてくる。

いいなぁ、こんな関係がほしかったなぁ。
あんなふうに公園で遊んで、親と手を繋いで歩きたかったなぁ。



僕は家族がほしかった。

それは、機能的に両親がいて、子どもがいてという
キャストが揃っているという意味ではない。

戸籍的に血が繋がっている、というような
組織・集団としての呼び名という意味でもない。

言葉では上手く言い表せないが、きっと
「愛され、存在を認められ慈しまれている証」なんだと思う。



子どもと手を繋ぎ、守るように両側を歩いている親、
彼らは嫌々、仕方なく手を繋いでいるんだろうか。

怪我や事故に遭ったら責任を取らねばという
義務感で手を繋いでいるのだろうか。

きっとそんなはずはない。
そんなはずはないと信じたい。

子どもがかわいいから、愛しいから、守りたいから
少なからずそんな思いがあってのスキンシップだと信じたい。

手を繋がれているあの子は
それを感じ取れているのかと思うと、

本当にうらやましくてしょうがないし、
なんだかどうしようもない気持ちにもなる。



母とはどうかわからないが、
僕は父と手を繋いだ記憶がない。

幼い頃はただの恐怖の対象でしかなかったので、
たまに機嫌がいい時でさえ、避けていた映像ばかりが蘇る。

(構成キャストが揃っているという意味での)家族で
公園に行ったことは一応ある。

キャッチボールをしたことはある、
だけど手を繋ぐどころか触れた記憶はない。

そしてそのキャッチボールは2〜3球で終わった。

父は子どもの頃、変化球を投げ過ぎて
肩と肘を痛めてしまったからあまり投げられない
というようなことを言っていたのは憶えている。



彼らが愛情だと思っていること、
彼らが信じる「理想の息子」への導き方、
彼らが正しいと思っている子どもへの愛情の伝え方、

どこまでも僕の渇望と食い違い、すれ違う。

僕は家族という「組織」の中にはいたが、
決して組織に受け入れられ、守られた一員とは思えなかった。

親がいて、家があって、食べ物があって、学校に行って。
このこと自体はもちろん恵まれている、だけど
生かしてもらっていればそれでいいわけではなかった。

1度でいいから、手を繋いで一緒に歩きたかったな。

独りぼっちではない、繋がってるんだと感じたかったなぁ。


posted by 理琉(ワタル) at 16:59 | TrackBack(0) | 家族

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自閉傾向の強い広汎性発達障害。鬱病から再起後、低収入セミリタイア生活をしながら好きなスポーツと創作活動に没頭中。バスケ・草野球・ブログ/小説執筆・MMD動画制作・Vroidstudioオリキャラデザインに熱中。左利き。 →YouTubeチャンネル
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