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2020年12月22日
檍原の古傳説地 その7
橘小門檍原の義
之を要するに、神代悠久の際の傳説に就いて、之を解するに強ひて人事を以てし、其の遺址(いし)を現在の地理上に求めんには、自ら牽強附會(けんきょうふかい)に陥るの嫌なしとせずと雖、而も古人が伊弉諾尊の禊祓し給ひきといふ橘ノ小門の檍原を以て、我が日向國にありと信じ、かく語り傳へ、書き傳へたりし事は疑ふべからず。
小門とは小なる水門(みなと)の義なり。
又檍原とは古事記傳に、「松原、檜原、榊原、柞(ははそ)原等の類」といへる如く、檍の叢生(そうせい)したる原野の稱なり。
檍は和名抄に、「説文云、檍、梓の屬地也。
日本紀私紀云、阿波木、今按、又橿ノ木ノ一名也。見爾雅註」とあり。
又「唐韻云、橿(かし)、萬年木也、和名加之(かし)。
爾雅集註云、一名杻(もち)、一名檍」とあれば、橿のことを古へ「アハキ」と稱したりしものならん。
後世之を青木といふは訛れるなり。
橘の小門の檍原、或は小戸の橘の檍原ともあり。
共に同義にして、日向海岸なる橘と稱する小さき水門のほとりに、橿の叢生せし地なりしなるべし。
偖(さて)之を日向の域内なること明白なりとして、更に其の地點を考ふるに、古來亦異説なきにあらず。
然れども、之を宮崎地方の海岸なりとする説の外は、殆ど其の徴證を得るに難ければ略しつ。
之を要するに、神代悠久の際の傳説に就いて、之を解するに強ひて人事を以てし、其の遺址(いし)を現在の地理上に求めんには、自ら牽強附會(けんきょうふかい)に陥るの嫌なしとせずと雖、而も古人が伊弉諾尊の禊祓し給ひきといふ橘ノ小門の檍原を以て、我が日向國にありと信じ、かく語り傳へ、書き傳へたりし事は疑ふべからず。
小門とは小なる水門(みなと)の義なり。
又檍原とは古事記傳に、「松原、檜原、榊原、柞(ははそ)原等の類」といへる如く、檍の叢生(そうせい)したる原野の稱なり。
檍は和名抄に、「説文云、檍、梓の屬地也。
日本紀私紀云、阿波木、今按、又橿ノ木ノ一名也。見爾雅註」とあり。
又「唐韻云、橿(かし)、萬年木也、和名加之(かし)。
爾雅集註云、一名杻(もち)、一名檍」とあれば、橿のことを古へ「アハキ」と稱したりしものならん。
後世之を青木といふは訛れるなり。
橘の小門の檍原、或は小戸の橘の檍原ともあり。
共に同義にして、日向海岸なる橘と稱する小さき水門のほとりに、橿の叢生せし地なりしなるべし。
偖(さて)之を日向の域内なること明白なりとして、更に其の地點を考ふるに、古來亦異説なきにあらず。
然れども、之を宮崎地方の海岸なりとする説の外は、殆ど其の徴證を得るに難ければ略しつ。
タグ:伊弉諾尊
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