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2023年12月03日

弐 【第五章 日向に於ける石器時代の遺蹟と先住民族 第一節 彌生式土器の名稱 その1】まで 

 第三章 天孫降臨
           第四節 高天原の所在に關する諸説 
            私按、 天孫渡來説は國體を傷つくといふことに就きて からの續き


第三章 天孫降臨
 第五節 天孫降臨の經路
高天原の在所既に之を地表上に求むべく、而して天孫降臨の地が、假りに日、肥、豊三國の境上附近にありとすれば、果して如何なる徑路を取りて、天孫の此の地に來り給ひきと信ぜられたりしか。
是當然次に起るべき問題なりとす。

東亞民族南下の情勢
つらつら亞細亞東部に於ける民族南下の情勢を考ふるに、孔子の所謂未開勇猛なる北方の強者が、南方温暖なる好地を求め、黄河の流域なる中原地方に向って其の歩を進むるの事は、志那歴代の史の常に繰り返す所なり。
而して朝鮮半島に於ける民族の遷移、亦實に同一の經過を取れるもの多きを見る。
有史以前の事は考古學の撥達を俟って後決すべく、暫く架空の忖度を避く。
されど其の今日迄に世に知られたる石器時代遺物分布の系統を案ずるに、我が本州の西半、並びに四國、九州等の地方の遺蹟より發見せらるる所の或る種類の遺物は、南は臺灣より、北は朝鮮、滿洲にまでも連絡を有するものの如く解せらるるなり。
是れ蓋し嘗ては同一系統の民族によりて、是等の諸地方が時を同じうして、又は時を異にして、棲息せられたりしことあるを示せるものなるべし。
降りて志那に於ては、殷末に當り、箕子殷の遺民を率ゐて東の方朝鮮に來り、ここに古朝鮮國を建てたりと傳へらるる。
其の事必ずしも信ずべきにあらざらんも、亦以て朝鮮歴史の始原とすべからんか。
後久しくして燕人衞滿東に遷りて、箕氏を逐ひ、箕氏乃ち更に南に遷りて、韓國を建てたりといふ。
是れ今の全羅南北道の地方にして、所謂馬韓の地なりと稱するなり。
然らば朝鮮は、當初漢族によりて建てられたりとなすものの如し。
然れどもこは韓人が志那の文明に憧憬して、祖先を其の賢哲の名に附會せしものか、然らずば漢人が古賢哲箕子の末路を粉飾し、若くは己が民族の勢力を誇張して、唱へ出せし附會説にてもあるべく、韓族は蓋し、古書にて知り得る朝鮮半島最古の住民なるべし。
志那の古代に之を干夷といふ。
彼等もと廣く北部地方にまで蔓延せしが、西北より侵入せる漢族其の地の壓迫によりて、先づ南下するに至りしものなるべし。
かくて衞氏代りて朝鮮に王となりしが、後久しからずして漢の武帝の遠征に遇ひ、其の地遂に漢の郡縣となる。
馬韓の東に秦韓あり、弁辰と雜居す。
今の慶尚南北道の地方なり。
其の國人もと秦の亂を避けて流移し、馬韓王其の東界の地を割いて是に與ふ。
故に秦韓と名づくと稱せらる。
秦韓人漢の樂浪人を稱して阿殘といふ。
我等黨與の遺留者の義なり。
亦以て秦韓人が、自ら漢族たることを覺知せし證とすべし。
蓋し秦人韓の地に入りて、其の土人と混じ、而も自ら漢族を以て任ぜしものならん。
弁辰一に弁韓と稱す。
辰韓と雜居し、習俗頗る相類す。
其の之を分つは、蓋し土着韓人の要素多きに居りしものならんか。
叉別に扶餘族あり、遼東より南下して半島の中部以北に繁延す。
高句麗、沃沮、濊、貊等の族、皆之に屬するなり。
中にも高句麗の族最も勢力あり、遼東の地方より半島の北部に渉りて國を建つ。
其の族の南に遷りて馬韓の地に興れるもの、之れを百濟となす。
是れ實に朝鮮史の語れる古代民族遷移の大要なり。
固より事古代に屬し、載籍不備にして其の委曲を知るを得ざれども、大體に於て朝鮮半島に民族南下の事の屢々行はれたりし事は、到底之を否定すべからず。
而して其の南下して朝鮮半島に在りしもの、他の壓迫により、若くは自ら好地を求めて、更に是れより南下せんには、必ず我が群島國に來らざるべからず。


東亞民族の渡來
應~天皇の十四年秦始皇帝の後と稱する弓月君が、百二十縣の民を率ゐて百濟より我に歸化せりと傳ふる如きは、其の一例なり。
是れ所謂秦人(はたびと)にして、其の部族甚だ多く本邦各地に蕃延す。
彼等は其の自ら謂ふ如く、果して志那秦朝の遺民なりや否やは固より之を確知するに由なきも、ともかく一旦南下して朝鮮半島に居住せしものが、更に大擧して我が皇の徳を慕ひ、好地を求めて我に移民せりと傳ふるものなることは、毫も疑を容れざるなり。
ついで同天皇の二十年には、後漢の靈帝の後と稱する阿知使主(あちのおみ)及び都加使主(つかのおみ)の父子、十七縣の黨類を率いて帯方より來歸す。
帯方は半島に於ける漢人設置の郡なり。
蓋し彼等もと志那より來りて一旦此の地方に居を定め、後更に我に大擧移民せしものと解すべく、之を我が國に於て新漢人(いまきのあやびと)と稱す。
「新(いまき)」は「今來(いまきた)る」にして、新に海外より渡來せる漢族の義なり。
彼等多く大和高市郡に住し、奈良朝末に於てなほ郡民十の八九は此の族なりきといはる。
而して此の郡に嘗て今木(いまき)郡の名あり。
新漢人(いまきのあやびと)の郡の義なり。
其の今來の漢人の名稱に對しては、必ず舊く來れる漢人ありしことを認めざるべからず。
たとへその事古史に見る所なくとも、其の今來の語よく之を證す。
蓋し嘗て其の以前に於て別に漢族の渡來ありし事は、考古學の研究上よりも之を想像し得べきものあるなり。


銅鐸の發見と漢族の渡來
之を遺物遺蹟に徴するに、本邦往々にして銅鐸と稱する一種の銅器を土中より發見する事あり。
其の埋藏の範圍は、近畿を中心として殆ど其の左右數國の域に限られ、其の器は志那三代文化の影響を受けたるものと解すべく、其の製作意匠等、本邦に於て發見せらるる他の古代遺物と殆ど何等の關係を認むるを得ざるものなり。
蓋し太古志那の文化を享得せし一種の民族が、恐らく朝鮮半島より南下して、近畿を中心とせる四近の地方に蕃延し、此の銅器を造りて之を遺留せしものなりと解せざるべからず。
而して其の民族の蕃延の頗る盛なりし事は、銅鐸の發見數の意外に多きによりて察することを得べし。
之を我が古記に徴するに、新羅王子天日槍渡來の傳説あり。
事恐らく~代に屬し、當時未だ新羅國あるなし。
蓋し秦韓人の渡來を意味するものなるべし。
日槍の傳説亦近畿を中心として、其の四邊の地方に存す。
是れ或は古く渡來せる漢族の事蹟を傳ふる片鱗の遺れるものにして、先秦文明の影響を有すると認めらるる銅鐸の如きも、亦是等秦韓渡來の民族によりて、製作せられたるものなりと解せらるるなり。
或は素戔鳴尊の御子~等が、韓ク(からくに)の島より我が大八洲國に渡來し給ひきと傳へ、延喜式に韓國(からくに)の~を祭れる古社の少からず見ゆるが如きも、太古朝鮮より我に來りし民族の、各地に其の蹟を止めし事蹟を反映するものと解すべし。
ともかくも我が古代に於て、朝鮮半島より、又は朝鮮半島を經由して我に來れる民族の、其の數頗る多かりしことは、到底之を認めざるべからず。
而して天孫民族の渡來、亦實に是等と類似の經路を取りしものにはあらざるか。
これ啻に傍例を以て類推すべしと謂ふのみにあらず。
既に言へる如く、我が國語の系統が、朝鮮半島を經て滿洲方面の諸民族と同系の關係を有するが上に、更に其の祖先に關する傳説に於て、又風俗、習慣等に於て、相互の間に少からざる類似の點あるを認め得るによりてなり。

東亞民族の祖先に關する古傳説の類似
高句麗、百濟は共に扶餘族の國なり。
其の高句麗の英主好太王の碑に曰く、「惟昔鄒牟王之創基也、出自北夫餘。
天帝之子、母河伯女郎」と。
我が桓武天皇の御生母高野氏は百濟王家の出なり。
而して續日本紀に之を傳して曰く、「其遠祖都慕王者河伯之女感日精而所生」と。
ここに都慕(つも)王とは、好太王碑に所謂鄒牟王なり。
かくて其の鄒牟王の父が天帝なりといひ、日精なりといふもの、實に我が皇室が日~卽ち天照大~を以て御先祖なりと仰ぎ奉るに類し、彼に其の母を河伯の女なりといふは、我に海~の女なりといふと極めてよく相類せり。
ただ彼は大陸國なるが故に河伯となし、我は海洋國なるが故に海~と爲すの差あるのみ。
而して斯くの如きの傳説は、ひとり高句麗と百濟とのみならず、廣く傍近の諸國の諸民族間にも行はれたりしものの如し。


降臨地名の類似
天孫の降臨給ひし高千穂峯は、一に之を槵觸(くしふる)峯と稱す。
是が類似を朝鮮の開闢説に求むるに、六伽耶國祖の降れる地之を龜旨(きし)峯といふ。
龜旨は卽ちクシにして、フルは韓語村落の義なれば、龜旨(くしぶる)村卽ち加羅國祖降臨の傳説を有する地は、我が槵觸と類似の地名なりとすべし。
高千穂峯又一に添峯(そほりのたけ)ともいふ。
これ亦類似を朝鮮に於て見るを得るなり。
古事記に、素戔鳴尊の御子~なる大年~の子に韓~(からのかみ)、曾富理~(そほりのかみ)あるを云ふ。
百濟の國都泗沘を、亦一に所夫里(そほり)といふ。
共に「そほり」の名に縁あるが如し。
又新羅の都之を徐羅伐(そらぶる)とも、蘇伐(そぶる)ともいふ。
蘇伐は發音ソホリといふに近く、後世訛りて京城をソールといふ。
其の義蓋し王都を意味するなり。
果して然らば我が「そほり」の峯、亦王都の義にてもあるべし。
而して其の斯くの如きは、必ずしも我が古傳説の朝鮮半島に存すといふにあらざるべきも、彼に於て傳ふる所が、我が太古の傳説と相因縁する所あることは、之を認むるに難からざるなり。


風俗習俗の類似
又馬韓の俗、「瓔珠を以て財寶となし、或は以て衣を綴りて飾となし、或は以て首に懸け、耳に垂れ、金銀錦繍を以て珍となさず、五月種を下し訖るを以て鬼~を祭り、群聚歌舞飲酒して晝夜休むなく、其の舞は數十人俱に起ち、相隨ひて地を踏み、手足を低ミして、節奏に相應す。
鐸舞に似たるあり。
十月農功畢らば亦復かくの如し。
鬼~を信じ、國邑各一人を立てて主として天~を祭る。
之を天君と名づく。
又諸國各々別邑あり、之を名づけて蘇塗となす。
大木を立てて鈴皷を懸け、鬼~に事ふ」とあり。
是れ魏志に見ゆるところにして、亦頗る我が古代の俗に類するものあるを覺ゆ。
而して斯くの如きもの、必ずしも悉く暗合とのみ見るべからず。
是れ蓋し我が古俗に類するものが彼の地にも存して、朧氣ながら彼是相因縁するところあるを示すに似たり。
蓋し我が天孫民族と比較的關係深き民族が、古く朝鮮、滿洲等にも存在して、斯くも類似の言語、傳説、土俗等を傳へたるものなるべし。

ひとり言語、傳説、土俗の類似あるのみならず、我が古代の文献の上に於ても、朝鮮地方との關係を説けるもの亦少からざりしが如し。
素戔鳴尊及び其の御子~達の、彼の地に往來し給ひしことを云へるが如きは、蓋し其の傳説の一部分の、たまたま存するものなり。
而も中頃我と朝鮮と、政治上の關係中斷せしより、邦人其の關係を言ふを好まず、隨って記、紀亦多く之に及ばず、桓武天皇の御代に至りて、悉く是等の書類を焼かしめたりと傳へらる。
従って今其の徴證を古書の上に求むべきものは多からずとするも、太古彼此の間に深き因縁のありしことは、到底之を蔽ふべからざるものなるべし。
されば今暫く天孫降臨に關する古傳説を以て、古代の人士が我が天孫民族渡來の事實を語れるものなりと假定して、所謂高千穂の古傳説地の所在に基づき、其の我に來りし經路を地理上に考察せんに、ほぼ古人の思考せし所を推測するに足るものあるが如し。

朝鮮交通の兩路
按ずるに太古朝鮮半島より我に往來するに當りて、普通に經由せし道筋に、凡そ東西兩路ありしものの如し。
東路は則ち鬱陵島、隠岐島等を經るものにして、山陰、北陸方面に到り、西路は則ち對馬島、壹岐島、若しくは越前沖の島等を經るものにして、九州北部に達すべし。

海北道中
朝鮮半島古へ我に於て之を海北と稱す。
日本紀引く所の一書に、天照大~其の生み給へる市杵島姫(いちきしまひめ)命、田心姫(たごりひめ)命の湍津姫(たぎつひめ)命の三女~を以て、筑紫洲(つくしのくに)に天降らしめ、「汝三~道中に降り居まして、天孫を助け奉り、天孫の爲に祭られよ」と教へたまひきとあり。
或は曰く、「三女~を以て葦原ノ中ツ國の宇佐島に降り居(す)ましむ、今海北道中に在り、號して道主貴(みちぬしのむち)といふ」と。
海北道中とは卽ち朝鮮への交通の航路にして、前説に道中とあるもの亦是に同じ。
蓋し是等の三女~は、其の海北との航路を守り給ふが故に、道主貴(みちぬしのむち)の名はあるなり。


東路
而して其の宇佐島とは、古へに所謂于山國(うさんこく)にして、今の鬱陵島なるべく、卽ち東路の船懸りの島なり。
隠岐に知夫里島あり。
道觸の義にして、海路を守る道觸(ちぶり)~を祭れるより此の名を得たり。
此の隠岐より鬱陵島に航する、舟人の難事とせざるところ。
隠岐の島人は今も扁舟によりて、容易に此の島に往復するなり。
以て古代航海の狀を察すべし。
而も又一方に於て、其の市寸島姫命は筑前沖の島なる奥津宮(おきつみや)に鎭座し、田心姫命は大島なる中津宮に鎭座し、湍津姫命は海濱なる邊津宮に鎭座し、通じて宗像の~と呼ばれて、西路の道中を守護するの~として崇祭せらる。
(以上日本紀一書に依る。古事記には多紀理毘賣命(たきりびめのみこと)は胸形の奥津宮に座し、市寸(いちき)島比賣命は胸形の中津宮に座し、田寸津比賣命は胸形の邊津宮に座しますとあり。何れか是なるを知らず。)
蓋し東路、西路、共に道中の~として此の三女~を祭りしものなるべし。
日本紀に素戔鳴尊が出雲より韓國に入り給へりといひ、又其の御子五十猛(いたける)~等の諸~が韓國より我に渡り給へりといふは、其の東路により給へりと傳へらるるものなり。


西路
又崇~天皇の末年に任那王子蘇那曷叱智(そなかしち)の我に來るや、始め穴門國(あなどのくに)に到りしに、國人伊都比古(いとつひこ)之を欺きて抑留せんとせしかば、去りて北海より出雲を經て、越前敦賀に着せりといふ。
ここに穴門とは海峡の義にして、其の國人を伊都都比古(いとつひこ)と稱するによれば、蓋し漢史に見ゆる伊都國、卽ち古へ云ふ伊覩縣(いとのあがた)にして、筑前怡土(いと)郡なるべし、此の地志摩郡との間にもと海峽を通じ、所謂穴門の國をなす。
後に兩者連續して、今日糸島郡と稱するなり。
然らば則ち蘇那曷叱智の來れる、其の西路によりしものなるべし。
~功皇后の征韓亦實に此の路に由り給ふ。
魏志に朝鮮なる帯方郡より、我が九州なる倭人國に通ずる順路を記するを見るに、狗邪韓(くやかん)國卽ち加羅國より、對馬に渡り、更に壹岐を經て、末廬(まつら)國卽ち肥前松浦に着し、それより伊都國、卽ち筑前怡土郡、奴國、卽ち古へに所謂儺縣(なのあがた)等に到るとなす。
亦西路なり。
天孫の群~を率ゐて大擧渡來し給ひしもの、其の如何なる路に由り給ひしか、固より今にして忖度すべき限りにあらねど、恐らくは亦西路によりて、肥前又は筑前の北岸に着し給ひきと信ぜられたりしものか。


高千穂への徑路
かくて更に南行筑後川の流域に出で、上流に向って豊後に入り、更に阿蘇より五箇瀬川(ごかせがわ)上流なる、今の高千穂地方に着き給ひしものと解すべきが如し。
ここに於て三代~都の地たりきと稱せらるる日向の海岸地方より之を觀れば、天孫は實に五箇瀬川上流の山地より、東南に向って平地に降り給ひしものとなる。
其の西北隅なる高千穂の山地に降臨の傳説を止むる、洵に故なきにあらざるなり。
而して其の經由する所、九住山あり、祖母山あり。
ここに於て天孫既に天より降り給へりとの傳説を口にするに於ては、各自其の地に於て最も天に近き高峯を求め、豊後方面の人々は其の山を九住卽ち槵觸(くしふる)の峯なりと傳へ、日向方面にありては之を祖母卽ち添(そほり)の山なりと唱ふるに至りしものならんか。
更に又之を霧島山なりとする説に就いて見れば、筑後より南下して球磨川の流域に出で、内地に進みて我が日向に入り給ひしものと解する、亦以て通ずべきなり。


第三章 天孫降臨
 第六節 天孫の日向降臨に關する疑問に就いて
天孫の日向降臨に關する疑問
天孫瓊瓊杵尊日向の高千穂峯に降臨し給ふ。
是れ邦人の古來堅く信じて子孫に語り傳へしところなし。
然らば天孫は、何が故に曩に大國主~をして避け奉らしめたる出雲地方、又は大國主~の一族が、御魂を鎭めて皇孫尊の近き護りたらしむべく契り置きしと傳へらるる、大和の地方に降り給はずして、遠く此の僻陬の地に~蹟を止め給ひしかの疑問を生ずべし。


之を説明せる諸説
是れ實に古來史家の説明に苦しみし所なり。
随って從來學者の之に關して下したる解説を見るに、孰れも不徹底の憾あるを免れず。
鴨祐之大八洲記に邊要を論じて曰く、「火瓊瓊杵尊日向の高千穂峯に天降り給ふ、これ邊要を守り給はんが爲なり。
運鴻荒に屬し、時草昧に鐘(あた)れり。
故に蒙以て正を養ひ、此の西偏に治すとは、正に此れを言へり。
古事記に曰く、邇邇藝(ににき)命竺紫ノ日向に天降り坐し、詔してのたまはく、此の地は韓國に向へりと、是を以て上世大宰府を置いて、以て邊寇を戌る所なり」と。
又長谷士清は日本書紀通證に於て此の説を補ひ、蓋し伊弉諾尊禊祓の蹤を追ひ、三女~降居の基に依り給へりとなす。
又久米邦武博士は、「神武帝以前の都は日向なり。
日本を統治するには甚西に偏したり。
又朝鮮を兼治するに筑紫の香椎港、又は出雲の杵築港等こそ相應の地なるべし。
何の故に日向には都せられしや、是を究明するも亦緊要の疑問なり。
古事記に瓊瓊杵尊の奠都を記して、『於是詔之、此地向韓國、眞來通笠沙之御前而、朝日之直刺國(たださすくに)、夕日之日照國也。故此地甚吉』とあれば、日向奠都の假初ならぬを知るべし。
『向韓國』は朝鮮渡海に便なるなり。
『夕日之日照』は常世國へ渡海に便なるなり。
三土聯合の説を得れば、史の文は自然に氷解する此の如し」とも言はれたり。
而も是等の諸説は、天孫が筑紫に降り給ひしことに就きてのみ、一往の説明となるべきものにして、大國主~をして國を避け奉しめたる事蹟の説明に關しては、之を没却せるものならざるべからず。
天孫西偏の地を重しとして、跡をここに垂れ給ひしは則ち可なり。
之が爲に一旦譲り奉らしめたる六合の中心の地を以て、之を蠻夷に委し、其の跳躍に任ずるの可ならざるを如何せん。
何事も古傳のままに説明せんとする本居宣長は、「皇孫命の此の山にしも降り着きませりし事は、書紀に、猿田彦命に、天鈿女復問曰、汝何處到耶、皇孫何處到耶。
對曰、天~之子則當到筑紫日向高千穂槵觸之峯云云。
果如先期皇孫則到筑紫日向高千穂槵觸之峯」とあれば、もとより然るべき所ありしことなるべし」と云ひて、何等の忖度をも之に加へんと試みざるなり。
洵に古書のままを信ぜんには、すべての事窺ひ知り難き~業なりとして、猥りに推測を加へざるを可とすべし。
然れども假に人事を以て之を解せんには、到底矛盾を免れざる古傳説其のものに就きて、先づ之が由來を一考するの要あるべし。
既に言へる如く、記紀載する所の古傳説は、主として帝國の起原を説き、皇室の由來を明かにすべく、統一せられ、整理せられたるものにして、語部(かたりべ)及び諸家の傳へしあらゆるものを、其のままに網羅せるにあらず。
古事記の序にも、「諸家賚らす所の帝紀及本辭既に正實に違ひ、多く虛僞を加ふ」と云ひ、「舊辭を討覈して、僞を削り實を定む」ともいへり。
以て古傳説の區々なりしを知るべし。
又日本紀は、材料の取捨に關して頗る愼重の態度を取り、其の~代巻には、本文以外多くの一書の記事を並存して、輕々しく其の異説を捨てず。
而もなほ其の採録せるものの外に、異聞舊辭の後に存するもの少なからず。
嘗て世に傳へられたりし所の、甚だ多かりしを疑はざるなり。
されば古への國史編纂者が、區々たりし古傳説を統一整理するに當り、捨てて取らざりしものの甚だ多かるべきは勿論、其の採録せるものの中にも、時に首尾一貫を缺き、彼是矛盾するが如き説の並存するものあるは、洵に已む能はざりしなり。
随って是が研究に從事するもの、徒らに其の章句の末に拘泥する事なく、其の大體に就いて之を世界の傍例に徴し、更に我が遺物、遺跡の上に考へて、是が大要を求めんには、ほぼ太古の事情を髣髴すべきものなきにあらず。
蓋し我が天孫民族の渡來は、ひとり我が日向に於てのみ傳へたりしにはあらず、叉前後ただ一囘のみにてもあらざりしなり。
今之を僅に存する記、紀の古傳説のみに就いて見るも、天孫民族の渡來が前後數囘に行はれたりけんことは、之を想像するに難からず。
而して我が高千穂降臨の事蹟は、實に其の中の一に居るものならざるべからず。
ただ我が天孫瓊瓊杵尊は、天ツ~の正しき御裔(みすゑ)として、其の依ざしによりて、大八洲國を安國と治ろしめすべき使命を帯び給へりと傳へらるるを特異とするのみ。


饒速日命の天降
日本紀を案ずるに、~武天皇の東征に先だちて既に大和に降り、土人長髓彦等を從へ給へる饒速日命あり。
是れ實に亦天ツ~の御子にてますと稱せらるる。
舊事本紀には之を以て、瓊瓊杵尊の御兄なりとし、降臨の狀を記すること頗る詳なり。
天皇の大和に入り給ふや。
長髓彦人をして天皇に奏せして曰く、「嘗て天ツ~の子あり、天の磐船に乗りて天より降り止まる。
號して櫛玉饒速日命と曰ふ。
是が我が妹三炊屋媛(みかしやひめ)を娶りて遂に兒息あり、名を可美眞手命(うましまでのみこと)と曰ふ。
故に吾れ饒速日命を君となして仕へまつる。
夫れ天ツ~の子豈に兩種あらん。
いかんぞ更に天ツ~の子と稱して、以て人の地を奪はんや。
吾が心に之を推すに、未だ必ずしも信と爲さず」と。
天皇答へてのたまはく、「天ツ~の子亦多し。
汝が君と爲す所是れ實に天ツ~の子ならば、必ず表物(しるしもの)あらん、相示すべし」と。
長髓彦卽ち饒速日命の天蹄猪(あめのはばや)一隻、及び歩靭(かちゆき)を取りて天皇に示し奉る。
天皇覧てのたまはく、「事虛ならず」と。
ここに饒速日命は、實に~武天皇より、同じく天ツ~の御子にますと認められたることを謂へるなり。
然らば則ち天ツ~の裔の我が國土に降れる、必ずしも高千穂降臨の瓊瓊杵尊のみにてましきと謂ふべからず。
而して其の大和は、後に其の瓊瓊杵尊の御會孫とます~武天皇の奠都し給ふところなり。
嘗て大國主~が一族の御魂を鎭めて、皇孫尊の近き護りたらしむべく定め給ひし幽契は、ここに實現を見るに至れるなり。

天穂日命の天降
大國主~の國を避け奉りし出雲地方には、夙に忍穂耳尊の御弟~とます天穂日命の天降あり。
大國主~を和(なご)め給ひて、其の後裔は出雲國造家となり、一族遠く東國地方にまで繁延せりと傳へらる。
されば其の勢威頗る盛にして、一時は大和朝廷と對立する程の狀態となり、古事記に出雲建(いずもたける)の名を以て呼ばるるまでに至りき。
而も終には大和朝廷の武勇者たる日本建(やまとたける)の威武に服して、其の國は長しへに皇孫尊の統治の下に歸し、武甕槌、經津主二~の使命は、ここに完全に實現せられたり。

天津彦根命の後裔
天穂日命と同時に生れ出でませる天津彦根命は、古事記に、河内國造、山代國造等の祖なりとありて、亦何時の頃にか天降り給ひ、畿内地方に迹を垂れ給ひたるものの如し。

天火明命の天降
又瓊瓊杵尊の御兄~にてますと傳へらるる天火明命は、日本紀一書に尾張連等の遠祖なりと注せらるる。
蓋し瓊瓊杵尊のとは異りたる經路によりて、夙に我が國土に降り給へりとするものなるべし。
而して舊事本紀は實に饒速日命を以て、此の~と同~なりと傳ふるなり。
而も日本紀本文の説によれば、火明命は瓊瓊杵尊の御子にして、彦火火出見尊の御同胞にますといふ。
蓋し古事記に隼人の祖なりとある火照命(ほでりのみこと)と混同せるものか。
或は火明命卽ち火照命にして、一方には火照命の名を以て隼人の祖と傳へらるると共に、他方には火明命として、尾張連等の祖として信ぜられたるものにてもあるべし。
火照命は海幸彦なりと稱せられ、火明命の後裔に海部(あまべ)氏あるも縁なきにあらざるなり。


天照大~の天降
尚更に言はば、日本紀垂仁天皇の條には、伊勢~宮の地を以て、天照大~の始めて天より降りますの處なりとも傳ふるなり。
天照大~天降の御事、他に傳ふる所なし。
伊勢の~宮は、云ふまでもなく垂仁天皇の御代に於て、皇女倭姫命が八咫鏡を奉じて、天照大~を祭り奉れる所なりと傳へらるる。
而してここに大~が始めて天より降ります所なりとの記事あるは、古へ別にさる傳へもありしものならずやと解せらる。

忍穂耳尊天降の説
忍穂耳尊は初め此の國に降り給ふべく、天ツ~の定め給ひし御子にてまししを、其の未だ降り給はざる中に御子瓊瓊杵尊生れ給ひたれば、代りて此の~を降し給ひ、御身づからは高天原に留り給ひきと傳へらる。
而も豊前の香春嶽には、古く此の~を祭り奉れる社ありて、古風土記には、其の香原の~を以て、新羅より渡り給へる~にてますことを傳ふるなり。
ここに於て學説或は、此の~亦嘗て新羅より我が國土に降臨し給ひしことの古傳の存在を信ぜんとす。
ともかくも天ツ~の裔の我が國土に降臨する、必ずや前後數囘に行われたりしは疑を容れざるなり。
同じく漢人の文明を享得せる民族が、史前史後に於て、數囘に我に移民せることある、亦以て類推の料たるべし。

英國に於ける移住の實例
更に之を外國の例に就いて見るに、多くの點に於て地理上の條件我に類似する英吉利島にありては、亦前後數囘に大陸より諸種の民族の渡來せるありき。
中にもノルマン族の如きは、初めに其の本國たる丁抹地方より直接に渡來せるものあり、後に至りて、其の一旦佛蘭西に移住して羅馬の文明を受け、所謂フレンチノルマンとなりたるもの、更に來りて居を此の島に定めたり。
是れ亦以て我が太古の事情を推測せしむるの料たるべし。
然らば則ち大國主~の避け奉りたりと信ぜられたる出雲地方には、天孫天穂日命あり、又大和地方には饒速日命あり、尾張地方には天火明命あり。
夙に先住土着の民衆を從へて、各々其の國を建つ。
而して天孫瓊瓊杵尊は、更に遠く西の方筑紫の島に向って、此の日向高千穂ノ峯に降臨し給ひ、ここに皇室の基を開き給ひしものと解すべきなり。
其の他にもなほ所謂數多き天ツ~の御子の中には、降りて諸所に國を建て給へるもの亦これなかりしを保せず。
而して是等の天孫民族の諸國は、先住土着の豪族、卽ち所謂荒振~たちの諸國と交錯して、當時交通不便の時にありては、互に連絡を缺き、統一を保つ能はざりしならんも、中に就いて高千穂に降臨給へる天孫瓊瓊杵尊は、特に大八洲國を安國と定め給ふべき天ツ~の使命を帯び給ひしものとして、其の徳化最も洽ねく、其の勢威最も盛に、遂に此等の天ツ~の御子の諸國と、他のあらゆる荒振~等の諸國とを併合し、ここに大日本帝国は成立せるものなりきと信ぜらる。
されば大國主~の國譲りに關する傳説は、一般的に、國ツ~が天ツ~に其の國の統治を委任し、天ツ~が之を其の暖き懐に抱擁し給へる事を語れるものとして解すべく、而して後の之を傳ふるもの、是等天ツ~系統に關する由緒を混同し、傳説彼此紛淆を生じて、遂に種々の疑惑を生ぜしむるに至りしものなるべし。
なほ更に之を遺物、遺蹟の上に徴するも、ほぼ同一の結論に到達するを得るものあり。
そは次章に於て詳説すべし。

第四章 天孫降臨以前に於ける日向地方の先住民族に關する傳説
 第一節 土蜘蛛
投稻の傳説
瓊瓊杵尊の高千穂ノ峯に降り給ふや、當時すでに我が大八洲國は、決して無人の境にてはあらざりき。
大國主~舊治下の民衆は固より、瓊瓊杵尊と其の經路を異にして、夙に此の國に降れりと天ツ~系統の民族の外に、更に土蜘蛛等、種々の名稱を以て呼ばれたる先住土着の民衆も、亦少からざりしなり。
日向古風土記に高千穂の土蜘蛛の記事あり。
天孫降臨の當時高千穂の地暗冥にして物色別ち難し。
ここに土蜘蛛大鉗、小鉗の二人あり、天孫に奏して千穂の稻を籾となし、四方に投散せしめ奉る。

高千穂の地名傳説
是より天開け晴れ、日月照り光けりと傳へらる。
按ずるに、土蜘蛛大鉗、小鉗の事、釋日本紀、並びに、萬葉抄所引日向風土記の逸文に存するのみにして、他に所見なし。
蓋し高千穂の地名を解説せんが爲に起れる、所謂地名傳説にして、史實としては固より信ずるに足らざるべしと雖も、天孫降臨の際既に日向に於て、特に此の高千穂地方に於て、後に土蜘蛛の名を以て呼ばるる先住異民族の、すでに少からず住したりきとの傳説ありしことは是に由りて知るを得べし。


土蜘蛛の名義
土蜘蛛の名、記、紀、風土記等の古書に多く散見し、其の傳説殆ど日本各地に普及す。
其の名義は、釋日本紀引ける攝津風土記の逸文に、
宇禰備能可志婆良宮(うねびのかしはらのみや)御宇天皇(~武)の世に偽者土蜘蛛あり。
此人恒に穴中に居る。
故に賤號を賜ひて土蜘蛛といふ。
とあるによりて知らる。
蓋し彼等は土穴中に住居するの俗あるにより、土籠りの民として之を賤稱せしものか。
或は之を土中に住む蟲類の土蜘蛛に比して、然か呼びしものなるべく、其の之を偽者といふは、彼等が劣敗者となりしが爲の貶稱にてもあるべし。
其の土穴中に住むとの事は、常陸風土記に、
古老曰く、昔國巣(くす)(俗語に都知久母といふ。又夜都賀波岐といふ。)、山の佐伯(さへき)、野の佐伯あり。
普く土窟置き掘り、常に穴に居る。
とある類にして、今なほ千島アイヌの俗に見るべく、樺太アイヌに於ても、近きころまで此の俗ありき。
北海道本島に住するアイヌ族の俗傳に、トンチカムイ、或はトイチセグルと稱するものの如き、亦實に是に當る。

穴居の民
トンチカムイ或はトイチセグルとは、土中の~域は土家の人の義にして、所謂コロボツクルなるものなり。
彼等は嘗て土中に竪穴を穿ち、之を被ひて其の中に住しき。
其の穴居の址は、奥秩A北海道等に於て、今もなほ少からず存在し、關東以西、四國、九州地方にも、表面土壌に被はれながら、土工の際などに往々發見せらるることあり。
所謂コロボツクルなるものは、同じくアイヌ卽ち蝦夷の系統に屬するものなるべけれども、彼等が後に其の俗を改め、屋居の生活を爲すに及びて、其の以前に住せし穴居の夷族を區別し、之をトンチカムイ或はトイチセグルなどと呼びしものなるべし。
或はいふ、ツチグモの稱呼は此のトンチカムイの名の轉訛ならんと。
亦一説とすべし。
而も此の穴居の俗は、アイヌ族のみの古き風習にあらずして、却って廣く、國ツ~の名を以て呼ばれたる一般先住民族の間に、行はれたるものなりき。
されば所謂土蜘蛛なる名も、亦實に攝津風土記謂ふが如きものなりしならん。
而も年序を經る久しきに及びて、此の語は俗傳的先住民族の汎稱となり、遂には蟲類の蜘蛛の、脚の長く、體短かきことに連想して、前引常陸風土記に見ゆる如く、土蜘蛛族の一名を八掬脛(やつかはぎ)などと稱し、日本紀には、特に「其の人と爲り身短く、手足長く侏儒と相似たり」などとの説明をさへ下すに至れるなり。
釋日本紀引越後風土記に、
美麻紀天皇(崇~)の御世に、越の國に人あり、八掬脛(やつかはぎ)と名づく。
其の脛の長さ八掬(やつか)あり。
多力にして太だ強し。
是れ出雲の後なり。
其の屬類多し。
とある亦同じ。


土蜘蛛の民族的研究
ここに「出雲」とは、疑もなく「土雲」の誤寫にして、土蜘蛛といふに同じかるべし。
土蜘蛛の名義果して右の如しとすれば、齊しく土蜘蛛の名を以て呼ばるるものといへども、其の種族必ずしも常に同一なるべからず。
土蜘蛛の名を有せざるものにても、時に同一系統に屬するもの亦少からざりならん。
歴史時代に於ける奥鋳n方の蝦夷族、及び北海道アイヌ族が、嘗て竪穴住居の俗を有したりけんことは、遺蹟上より之を證明することを得。
されどこはむしろ中ごろ以後の習俗にして、少くも奥鋳n方に於ては、彼等は石器時代に其の俗を有せず。
後に他民族の習俗を移入せしものに似たり。
されば邦人によりて普通に土蜘蛛と呼ばれたる傳説的民族は、通例所謂蝦夷とは區別あるものとして信ぜられたりき。
前引常陸風土記の文に、國巢卽ち土蜘蛛と、山の佐伯、野の佐伯とを區別して記したるが如き是なり。
佐伯とは、古へ邦人が蝦夷を呼びし名稱なり。
其の山の佐伯、野の佐伯とは、後に所謂山夷、田夷の類なるべし。
田夷とは其の實農業を解せる蝦夷の稱なるべけれども、其の以前には彼等亦實に野の佐伯たりしなるべし。
而して常陸風土記には、是等の徒と並べて、別に「國巢」を標出し、注して土蜘蛛又は八掬脛といふとあり。
彼等は同じく土窟に住むと言はれながらも、所謂土蜘蛛と佐伯との間には、其の指す所に或る區別の存することを認めたる書法と解すべきなり。
勿論俗傳上のことなれば、以て史實の證據となすに薄弱の嫌なきにあらず。
ここに於て更に前引越後風土記の文を見るに、これには明かに「其の屬類多し」とあり。
蓋し此の風土記編纂の時代、恐らくは奈良朝初の頃に於て、現實に越後には、土蜘蛛の後裔なりと稱せられたる八掬脛の屬類の、なほ多く存在せしことを認めたるものなり。
越後はもと蝦夷の國なり。
孝徳天皇大化三年渟足柵(ぬたりのき)を造り、翌年更に磐舟柵(いはふねのき)を治めて蝦夷に備ふ。
渟足は今の沼垂にして、信濃川の河口に當り、磐舟は更に其の東北海岸にあり。
蝦夷が此の頃に於て、なほ越後の中部地方にまで勢力を有し、此の地方移住の農民の爲に、柵を設けて之を保護するの必要ありしことを知るべし。
されば奈良朝初期の越後の住民は、蝦夷に關して知る所必ず多かりしものならんに、而もここに其れ等とは別に、土蜘蛛の屬類の現實に多く存することをいふ。
是れ實に彼等が當時蝦夷族に對して、明かに區別あるものとして認められたりし證とすべし。
常陸風土記には又、土蜘蛛を以て國巢の俗稱なりといふ。


國栖人
國巢は大和の吉野山中に住み、久しく異族として知られたりし國栖(くず)人に同じかるべし。
吉野の國栖は一種の異族として後までも朝廷の大儀に參列し、古風の歌舞を奏するの慣例を有しき。
蓋し先住民族が里人の文化に觸るることおそく、比較的後の世までも遺族として取り遺されたりしものなり。

飛驒人
往昔飛驒國に住したりし飛驒人の如きも、亦一種の異族として認められき。
承和元年の太政官符に曰く、「其れ飛驒の民は言語容貌他國人に異なり。
姓名を變ずと雖も理り疑ふべきなし」と。
彼等は山人(やまびと)として木材の扱に慣れ、京畿に番上しては常に工匠の役に服し、爲に飛驒工(ひだのたくみ)と呼ばれき。
此の外山間僻陬の地には、遺族の民の後までも殘存せしもの少からず。


山人
次に詳悉する如く、俗に鬼といひ、或は山男、山姥などと稱せられたる山人は、實に是等の異族に關する事蹟を俗傳化せるものなり。
蓋し先住の民族が、良好なる土地を優勢なる民族に譲り、或は夙に是に同化融合して、蹟を日本民族中に没せし後に於て、なほ山間僻陬の地に餘喘を保ち、所謂浮世の風に觸るること少く、永く武陵桃源裏の原始的生活を繼續せしうちに、いつしか一般社會の進歩に後れて、つひには異類化生のものとして認めらるるに至りしものなるべし。
而して俗傳に所謂土蜘蛛なるものは、亦實に此の種の遺民に關するもの多きに居るを疑はず。
但其の民族的研究に至りては、なほ未だ完からざるものあり。


土蜘蛛と海人
其のひとしく土蜘蛛と稱せられたるものの中には、明かに隼人の系統に屬すと認めらるるものあり。
肥前風土記値嘉島(ちかのしま)(今の五島をいふ)の條に、景行天皇西征の時、此の島の土蜘蛛が死を免されたるが爲めに、御贄(みにへ)として代々水産物を奉る事を記し、「此の島の白水郎(あま)の容貌は隼人に似て、常に騎射を好み、其の言語俗人に異なり」とあり。
値嘉島の海人(あま)の容貌が隼人に似て、言語も亦俗人に異なりきとは、風土記編纂時の實際なり。
而して彼等は、實に土蜘蛛の後裔として認められたりしものなりき。
當時隼人は現に薩隅地方に住して、一種の異族として認められたりしものなり。
而して値嘉島の海人は、容貌此の隼人に類似し、言語亦普通人に異なりきと言はる。
蓋し彼等もと所謂隼人と同一系統に屬するもにして、ただ遠隔の地方に殘存したりしが爲に名稱を異にし、土蜘蛛なる俗傳的先住民の後裔として傳稱せられしものなるべし。
同風土記には亦、大家島の白水郎(あま)が同じく土蜘蛛の子孫なることを記す。
隼人はもと海幸彦(うみさちひこ)の後なりと言はれ、主として漁撈を業とする民族なりきと察せらる。
其の族類の海人(あま)として、斯る僻陬の地に殘存するもの、洵に其の故なきにあらざるなり。


土蜘蛛は先住民族の俗傳的稱呼
九州地方には、此の以外にも土蜘蛛に關する傳説甚多し。
日本紀には景行天皇西征の時、豊後に數多の土蜘蛛ありしことを記す。
又~功皇后征韓前に、筑後の山門縣(やまとのあがた)なる土蜘蛛の女酋田油津媛(たふらつひめ)を誅し給ふの記事もあり。
山門縣は漢史に見ゆる邪馬臺國なるべく、此の國は倭人國の一として、有名なる女王卑彌呼之を統治し、卑彌呼の死後一旦男王を立てしも國人服せず、更に宋女壹與を立てて王となすとあり、之が爲に女王國の名を以て漢人間に知られたりしものなり。
而して所謂土蜘蛛田油津媛なるものは、是が年代を案ずるに、實に其の女王國の王位を繼承せし一女王なりしものなるべし。
彼等は夙に志那と交通して其の文化を享受し、固より穴居の蠻族にあらず。
居るに屋室あり、葬るに土を封じて大塚を作る。
卑彌呼の邸には樓觀あり、城柵嚴に設け、常に人あり兵を持して之を守衛す。
其の死するや墳墓の徑百餘間、葬に殉ふもの奴婢百餘人に及びきといふ。
而も日本紀には、其の卑彌呼の後と認めらるる敗殘の女王を俗傳化して、呼ぶに單に土蜘蛛の稱を以てせるなり。
土蜘蛛の意義以て解すべし。
蓋し九州地方に於ける土蜘蛛傳説は、多くは先住の民族に關するものにして、上は石器時代の未開、半開の民族より、下は志那の文化を移植して、頗る開明の域に進める倭人王までをも包括し、其の皇命を拒みて敗殘者となれるものは、熊襲、隼人等、特別の名を以て呼ばれたるものの外、一般に貶稱して之を土蜘蛛と呼びしものなるべし。
然らば天孫降臨の際に於ける高千穂の土蜘蛛とは、そも如何なるものなりしか。
是は遺物、遺蹟研究の結果に俟ちて後之を推定すべく、更に次章に於て詳説すべし。


第四章 天孫降臨以前に於ける日向地方の先住民族に關する傳説
 第二節 山~の族
大山祇~
天孫の降臨し給ふや、啻に高千穂に土蜘蛛の住みたりしことを傳ふるのみならず、笠狭崎(かささのさき)には事勝國勝長狭(ことかつくにかつながさ)と稱するものありて其の國を奉り、大山祇~(おおやまづみのかみ)はその女木花開耶姫(このはなさくやひめ)を納れて妃となし奉りきと傳へたり。
長狭は日本紀の一書に伊弉諾尊の子なりとあり。
又其の大山祇~は、古事記に、伊弉諾、伊弉冉二尊の婚(みあ)ひまして生みませる~なりとあり。
一説には伊弉諾尊が、其の妻~の火~軻遇突智(かぐづち)を生み給ふことによりて崩りませるを恨み、軻遇突智を斬りて三段となし給ふ時に、其の一段化して雷~(いかづちのかみ)となり、次の一段は大山祇~となり、最後の一段は高龗(たかおかみ)となれりとも、又之を斬りて五段となし給ふときに、其各段化して五つの山祇の~となる、頭は則ち大山祇、身中は則ち中山祇、手は則ち麓山祇(はやまづみ)、腰は則ち正勝山祇(まさかやまづみ)、足は則ち䨄山祇(しぎやまづみ)となりたりとも、或は其の斬り給へり劒の頭より垂るる血激りて、闇山祇等の~生れ出でたりとも傳へらる。
この外にも異りたる山祇の名の傳へらるるものあれども、ともかくも長狭及び大山祇~は、伊弉諾尊の御子にして、夙に此の國土に住し、高天原を祖國とする天孫民族とは、おのづから別系統に屬する國ツ~なりとして信ぜられたりしなり。


天~と地祇
論者或は言はん。
天照大~亦伊弉諾尊の御子~にませば、天ツ~、國ツ~畢竟皆同一系統に屬すべしと。
然り、廣く之を言はば、諾冉二尊は世界の初にあらはれまして、人類の起原をなし給へる~なれば、一切の人類は亦悉く同一系統のものとなるべし。
されどこは人類を以て一源に歸するの論と同一にして、更に細かく之を言はんには、ここに數多の人種の別あり、更に同一の人種の中にも、數多の民族の區別あるべきなり。
既に天~、地~の別あり。
之を狭義に解して、別系統と見んも妨なかるべし。
されば彼の平安朝初期の編纂に係る新撰姓氏録を見るに、~別諸氏を分ちて天~、天孫、地祇の三となせり。
其の天~とは、高天原なる諸~の後裔なり、天孫とは同じく高天原の~の後ながらも、特に天照大~を祖~と仰ぐ~々の後裔なり。
而して之に對して地祇とは、天孫降臨以前より此の國土に存在せる諸~の後裔を云ふ。
姓氏録に、素戔鳴尊の御子~として傳へらるる出雲の大國主~の後裔諸氏を、地祇の中に列したるが如き是なり。
されば此の天~と天孫とを以て、皇別諸氏と共に、假りに天孫民族と稱せんには、之に對してここに所謂國ツ~、卽ち地祇に屬する先住の民族を、暫く別系統として區別せんは、其の理由なしと謂ふべからず。


大山祇~と出雲民族との關渉
國ツ~の一としての長狭の事は、海~と共に次節に説くべし。
同じく國ツ~たる大山祇~は、ただに此の日向のみならず、迹を各地に垂れて、古傳説上にも其の關係する範圍頗る廣汎なり。
彼の出雲の簸ノ川上にありて、八岐ノ大蛇の迫害を蒙りたる手摩乳(てなづち)、脚摩乳(あしなづち)の如きも、共に此の~の子なりと傳へらるる。
されば其の手摩乳、脚摩乳の女なる奇稻田姫の腹に生れまして、出雲系諸氏の祖と仰がるる彼の大國主~は、母系に於て實に此の大山祇~の曾孫にてますなり。
又同じ大山祇~の女~大市比賣(かむおほいちひめ)は、別に素戔鳴尊の妃として、大年~と宇迦之御魂~(うがのみたまのかみ)とを生み、木花知流比賣は素戔鳴尊の子八島士奴美命の妃として、布波能母遅久奴須奴~(ふはのもちくぬすぬのかみ)を生めりと傳へらるる。
更に古事記によれば、大國主~は此の布波能母遅久奴須奴~の玄孫にますともいふ。
孰れにしても此の~は、出雲系の諸~と交渉最も深き~として傳へらるるなり。
又其の外孫の~に、五穀の~なる大年~及び宇迦能御魂~のますことは、此の~が我が農業にも深き關係を有することを傳ふるものと謂ふべし。
宇迦能御魂~は一に倉稻魂~(うがのみたまのかみ)ともありて、稻荷~として祭らるる~なり。


大山祇~と天孫族との關渉
かく大山祇~は出雲系の民族と深き關係を有すると共に、一方には其の女木花開耶姫が、瓊瓊杵尊の妃として彦火火出見尊等の諸~を生み給ふとも傳へられて、大山祇は我が皇家にとりても、實に亦外戚の~にてまししなり。


大山祇~と山岳の~
大山祇~は、其の名の如く山岳の~として仰がるる~なり。
ここに於てか中世以後火山の活動することなどある際には、これ山ノ~の怒りませるなりとして、屢々此の~を祭るの例となれり。
此の場合、或は其の御子~達を祭ることもあり。
其の他諸所の山地、此の~を祭れるもの多し。
天書に曰く、
大山祇~は中國にありて山を掌る~なり。
惠草木に及び、大に蕃息す。
仍て天~山嶺を掌らしむるなり。
と。
古人の解するところ以て見るべし。
然れども是はむしろ後の思想にして、當初此の~は山人(やまびと)の祖として仰がるる~なりしならん。
先住の民族新に優勢の民族と接觸せば、往々其の地を優先民族に譲りて、自ら山間に棲息の地を求め、或は當初より山間生活の習俗を有するものが、新來の里人(さとびと)と同化融合するの機を得ずして、其のまま山地に止まりて所謂山人(やまびと)と爲ることあるは、既に言へるが如し。
固より是等山人と稱せらるるものの中には、種々の系統の民族あるべく、随って山ノ~として仰がるる~の中にも、由來を異にするもの亦これなきにあらざらんも、而も是等の山人の祖~崇敬の思想が、山岳崇拝の思想と合致するに及びて、はては山を掌るの~として、一般的に大山祇~の名を以て祭らるるに至りしものならん。


大山祇~と吾田
木花開耶姫は海濱にありて、秀起(さきた)つる浪の穂の上に八尋殿(やひろどの)を建て、手玉玲瓏(てだまもゆら)に機織りましきと、日本紀一書に見ゆ。
木花開耶姫一に鹿葦津姫(かあしつひめ)とも、~吾田津姫(かんあだつひめ)、豊吾田津姫、吾田鹿葦津姫などとも稱せらる。
鹿葦津姫とは、~吾田津姫の名の轉訛なるべく、其の「~」といひ、「豊」といふは、共に敬語美稱にして、吾田津姫といふぞ本名なるべき。
蓋し吾田の女子の義なり。
吾田は日本紀に吾田の笠狭の崎ともありて、天~遊幸して此の女を見給ひきといふ地なり。
別に隼人の首領に吾田ノ君あり。
隼人の部族に阿多ノ隼人あり。
隼人の國として知られたる薩摩國を古へ阿多國とも稱しき。
然らば吾田を名に負ふ木花開耶姫は、阿多ノ隼人に拘はりて、語部(かたりべ)によりて語り傳へられたりしものなるべし。
隼人は海幸彦(うみさちびこ)の後として海濱に縁あれば、木花開耶姫が浪の穂の上に八尋殿を建てて、機織り給ひきといふも、亦故なきにあらざるが如し。
更に釋日本紀所引伊豫風土記の逸文には、
乎知郡(越智郡)御島にます~の御名は、大山積~、一名和多志大~なり。
是の~は難波高津宮御字天皇(仁徳天皇)の御世に顕はれましき。
此の~百濟國より渡り來まして、津國の御島(攝津國三島郡)にませり云々。
とありて、これには大山祇~が百濟より渡り來り給へる~なりとの異説を傳ふ。


大山祇~と海人
いぶかしき限りなれども、さる古傳の存在せしことは否定すべからず。
此の~延喜式に、「伊豫越智郡大山積~社」とあり、今も大三島に鎭座し、もと河野氏の氏~として祭る所なりき。
而して其の河野氏は豫章記によるに、西國の海人(あま)を下人とすともありて、位置といひ、氏子と云ひ、此の~むしろ海に縁ある~の如くにも見ゆるなり。
これ蓋しもとは海部(あまべ)等と同じ系統に屬する~にして、其の族の山間に退きて山人(やまびと)となれるもの、其の祖~を山~として崇敬するに至りしにはあらざるか。


歴史時代の山人
山人の名は往々古書に見ゆ。
正倉院文書山作所告朔解文に、木材を運搬する人夫の中に山人九人、山人五十九人など見え、平野祭儀式には、山人二十人に酒肴を賜ひ、彼等賢木を執りて机前に列び立ち、又薪を祭場に立てて~壽詞(かんよごと)を申すとも、或は冬祭に和舞を奏すともあり。
又宮中の園韓祭にも、絲竹の音を發して山人を迎へ、彼等薪を採りて南北の炬火屋に置くとあり。
其の他梅宮祭にも、山人參列の古例ありき。
勿論平安京にては、事實上山人之に參列することなく、左右衛士を以て山人に代ふるの例なりしも、此れ等の~々のもと大和に鎭座せし頃には、實際に山人が山中より下りて、賢木を捧げ、薪を進めしものなりしならん。
古今集に、「纏向の穴師の山の山人と、人の見るがに山かづらせよ」とあれば、彼の里近き纏向如き端山にも、古へ山人と目せられし民衆なほ住居したりきと見えたり。
元正天皇の御製にも、「足びきの山行きしかば山人の、朕(われ)に得しめし山づとぞこれ」と仰せられたり。
大和各所の山麓に山口~社とてあるは、もと里人等が山人の祖と仰ぐ各地の山~を祭りて、之を和め奉り、かねて旱時に際し雨を祈りしものなるべし。
又靈異記には、熊野の河上の山人、美作の山人などの談もあり。
古今物語等中古の物語にも、屢々散見す。
山人の中にも早く優秀民族と款を通ずるを得たるものは、大和吉野川上の國栖部(くずべ)の如く、其の祖井光(ゐひか)の地祇として認めらるる類もあれど、其の抵抗して追討を受けたるものは、景行天皇西征の際に於ける豊前の菟狭(うさ)川上、御木(みけ)川上、高註上、緑野(みどの)川上などの山人の如く、殘賊として擯斥せられ。
或は豊後速水の土人、直入縣(なおりのあがた)の禰疑野(ねぎの)などの土人の如く、土蜘蛛として貶稱せらるるにも至りしなり。


山人と鬼
彼等は山中に住み世間に近からざる故に、世人其の眞相に通せず、往々一種の常人に異なるものの如くに誤解し、遂に中古の鬼の物語をも生ずるに至る。
此の鬼必ずしも惡鬼羅刹の鬼にはあらず。
當初はむしろ超人間の能力者として認められしものの如し。
されば後世に至りても、山間なほ往々鬼の子孫を以て自認する部落あり。
大和吉野山中の前鬼、山城高野川上の八瀬童子の如き是なり。
此の外大和の諸地方には、今に鬼筋と目せらるるものも住めるなり。
而も山人の或るものは、年と共に山間生活の困難となれるにより、屢々出でて里人を脅かし、物品を掠むるものもありて、爲に恐るべき妖怪變化の者として解せられ、はては天狗、山男、山姥等の、俗話の材料となるに至るなり。
されど又一方には、木地挽などの如く一定の職業を有して、山より山に渡り住し、或は傀儡子(かいらいし)などの如く、水草を逐うて轉居しつつ、俗間に交はりて其の生を全うするものも生じたり。


山部
古へ又山部或は山守部と稱するものあり。
應~天皇の五年に諸國をして海人部と山守部とを定めしむるの事、日本紀に見ゆ。
海人部の事は後に言ふべし。
山部或は山守部は、蓋し山人を統轄したる部族の稱なるべし。
邦語に一般人民を呼びて「タミ」といふ。
蓋し田部(たべ)の義にして、もと農民の稱なり。
而して山部は農民の田部なるに對して、山人の稱と解すべきものなるべし。
應~天皇其の皇子大山守命をして、山川林野を掌らしめ、大鷦鷯尊をして、太子を輔けて國事を知らしめ給ふとあるは、大山守命が其の御名の如く、山川林野の山部を領し給ふの義なるべし。
又清寧天皇吉備ノ上道ノ臣の不臣を責めて、其の領する山部を奪ひ給ひ、顯宗天皇來目部小楯の功を賞して、姓を山部連と賜ひ、山守部を以て民と爲すとあるは、功罪によりて山人の部族を與奪し給ふの義なるべし。
是等の山人も、其の本源を尋ぬれば、嘗ては平地に住し、海岸に居して、國ツ~として知られたりしものたりき。
而して大山祇~は、實に其の祖~として仰がれしものなりとする。


第四章 天孫降臨に於ける日向地方の先住民族に關する傳説
 第三節 海~の族
  三柱の海~
山の~として大山祇~あるが如く、海の~として綿津見~あり。
ワタとは海洋の義なり。
海原を和田の原といふも亦同じ。
蓋し「渡」の意なるべし。
此の~大山祇~と共に、伊弉諾、伊弉冉二尊によりて生れましきと傳へらる。
而も亦一方に於ては、伊弉諾尊が軻遇突智を斬り給ふ事によりて、數多の山祇の~成り出でしを傳ふると同じく、此の尊が檍原の禊祓し給ふ事によりて、三柱の綿津見~(少童~とあるに同じ)成り出で給ひきと傳ふること既記の如し。
此の三柱の綿津見~は、其の子宇都志日金折(うつしひかなさく)命の後裔なる阿曇連(あづみのむらじ)が、祖~として祭れる筑紫の志賀~なりとあり。
筑前志賀島に志賀海~社あり。


海~と天孫民族
忍穂耳尊の御子彦火火出見尊、海~の宮に到りて其の女豊玉姫を妃とし給ひ、鸕鷀草葺不合尊を生み給ふ。
海~其名を豊玉彦とも、叉綿積豊玉彦ともあり。
海を領してすべての魚類を掌れる~なりと傳へらる。
葺不合尊の妃玉依姫、亦海~の女にまします。
ここに於て~武天皇の皇兄稻氷命は、妣(はは)の國として海原に入り給ふともあるなり。
されば綿津見~は、皇家に於て二代の外戚と仰がれ給ふ~にてまししなり。
海~の後裔阿曇連の族は諸國に蔓延して、後世、筑前、近江、信濃、伯耆等の郡クに其の名を止め、其の他にもアツミを名とする地少からず。
蓋し山ツミに對するアマツミの義にして、海を領するの名なるべし。


海人
海人の部族之を海部(海人部とあるも同じ)といふ。
山部、田部に對するの語なり。
もと沿海漁業の民にして、おのづから一種の風俗を有す。
香椎宮の祭時に當り、筑前志賀島の白水郎(あま)男十人、女十人、風俗の樂を奏すとあり。
志賀島の海人は海~志賀~を祖~と祭れる部族なるべし。
古語に黥を稱して阿曇目(あずみめ)といふ。
蓋し安曇の部族に黥の俗ありしによる。
されば山人の祖を鬼といふものあると同じく、海人の祖を土蜘蛛と呼べるの例、既記肥前風土記値嘉島の白水郎に見ゆ。
源爲朝鬼ガ島を伐つ説話の如く、海島人を鬼ともいふも、亦之を異族視せし思想の反映なるべきか。
今昔物語には、漂泊的海人の滞留地たる能登海上の七つ島を、鬼の寝屋と稱し、今も出雲にて、或る海岸人を夜叉と呼ぶことあるもの、皆同じ。
伊豫河野氏配下の海人が、膕(よぼろ)の筋を斷たれたる夷族の後裔なりと言はるるが如き、亦參考すべきなり。
應~天皇の御代に諸國の海人訕〇(へんが口、つくりが尨)きて、皇命を奏せず。
蓋し海部の連合して反抗の擧に出でしものならん。
卽ち安曇連の祖大濱宿禰をして之を平げしむ。
よりて大濱を海人の宰となすとあり。
ついで海人部、山守部を定め給ふ。
蓋し從來統率する所なかりし海人等を統べて、安曇連をして之を領せしめられたるることを云へるなり。
かくて安曇連は海人を率ゐて内膳司に奏仕し、奉膳の事を掌るを例とす。
されど海人を領するもの、必ずしも安曇氏のみに限らず。


海人と火明命
但馬ノ海直(あまのあたへ)は天孫火明命の後なりと稱す。
此の~叉尾張氏の祖として、尾張に海部(あまべ)郡あり、但馬クあるを見れば、彼是因縁する所あるを知るべし。
丹後の籠(こもり)~社叉海~を祭る。
而して其の祠宮海部直は、亦火明命と稱するなり。
火明命は既に言へる如く、隼人の祖火明命と所傳頗る混淆する所あるが如し。
而して隼人は海幸彦(うみさちびこ)の後と稱し、もと漁撈を主とする民族なりき。
随って海人との間に縁故頗る深きものあるに似たり。
なほ此の事は第七章隼人の條下に讓らん。
その海人と稱せらるるものの中には、固よりアイヌ等他の民族の系統に屬するもの亦これなきにあらざるべきも、其の多數は綿津見~を祖~と仰ぐ族なりしなるべく、其の後裔時として内地に移りて農民となる。

海人の内地移住
大和の蔣代(こもしろ)の屯倉の田部が、もと淡路の野島の海人なりしが如き是なり。
信濃安曇郡に海~の祠あり。
是れ亦安曇氏に屬する海人の移住せるを示す。
此の信濃の海人は、もと伊勢より移れるものか。
伊勢の海人は古來有名なるものにして、此の沿海には海人部(あまべ)の民後までもなほ多く住す。
古語に伊勢人といひ、伊勢部といふもの、蓋し之に當る。
伊勢風土記には、~武天皇東征の時、伊勢の國ツ~伊勢津彦、風波を起して信濃國に移るとあり。
蓋し其の故地を優勢の民族に讓りて、内地の住民となれるなり。
こは一旦海部として知られたる民衆の、後に内地住民となりし一例たるに過ぎずして、民族本來の系統を尋ぬれば、山~の族、海~の族、もと同一系統に屬する先住民族にして、彼等が優勢の民族に接觸するに及びて、其の多數は是と融合同化して蹟を日本民族中に没し、其の機會を捉へ得ざりしものが、一は山地に退きて山人となり、一は海岸に止まりて海人となりしものにてもあるべし。
而して我が古傳説に、山~、海~共に皇家の外戚たることを言ふものは、山海悉く皇家の御稜威に服したることを示し、叉我が皇祖が、是等の山海の先住民族をも綏撫し、之を同化して、悉く日本民族に融合せしめ給へる、徳化の洽ねきを示したるものと解すべきなり。


事勝國勝長狭
天孫降臨の際逸早く國を奉りし事勝國勝長狭は、一に鹽土老翁(しほつちのをぢ)と稱すと傳へらる。
彦火火出見尊の海~宮に到り給ふや、鹽土老翁之を指導し奉る。
古事記に之を鹽椎~(しほつちのかみ)とあり。
~武天皇の東征に際して、東方に青山四周の美地あるを教へ奉りしも、亦此の翁なりと云ふ。
鹽土は蓋し「潮路(しほつみち)」にして、海路を熟知する~の謂か。
然らば叉海~に縁あり。
此の~が笠狭の沿海の地を領して、天孫を迎へ奉るといふもの、蓋し海人服屬の義と解すべし。
舊説或は此の~を以て、住吉三柱の筒男(つつのを)ノ~と同體にますと云ふ。
住吉~は亦我が日向なる檍原の禊祓によりて生れませるところにして、實に海事を掌る~にてますなり。


海人山人と日本民族
之を要するに、海~の族といひ、山~の族といふも、同じく先住の民族にして、もと國ツ~の後裔に屬するものなり。
其の山~の間にありて、農業に從事する一般普通の民衆といへども、其の初めは、勿論同系統に屬するもの多きに居るを疑はず。
されど彼等は早く俗を改めて日本民族に同化融合し、山人、海人等が比較的後の世までも、固有の生活をつづけて其の風俗を異にし、おのづから異民族視せられたるものとは頗る趣を異にす。
ここに於てか山部(やまべ)、海部(あまべ)に對する田部(たべ)、卽ち農業者の稱が、タミと轉じて一般民衆を示すの義に用ひらるるに至る。
タミは卽ち普通民の稱にして、もと直ちに農民を意味す。
崇~天皇の詔に、農は天下の大本なりとある是なり。
而も其の農民以外、山人、海人として、狩獵、漁業の原始的生活を續けたりし人々も、悉く天孫の徳化に抱擁せられて、いつしか同一の日本民族をなすに至りし次第以て解すべし。
なほ山人、海人の民族的性質は、次章に於て説き及ぶ所あるべし。


第五章 日向に於ける石器時代の遺蹟と先住民族
 第一節 石器時代槪説
遺物遺蹟研究の必要
古傳説によりて僅に其の存在を推測するを得るに過ぎざる我が國ツ~系統の諸民族は、果して如何なるものなりしか。
彼等は果して如何なる地を擇びて住居を定めしか。
其の生活の狀態は如何。
其の文化の程度は如何。
是等の諸問題は、到底古傳説のみによりては解決し得べからざるの事に屬す。
何となれば、所謂古傳説なるものは、本來歴史事實を忠實に傳ふるものにあらず。
叉後の之を傳ふるもの、往々其の現時の知識によりて知らず知らずの間に變化調節を加ふるを免るべからざるものなればなり。
ここに於てか廣く古代の遺蹟を探り、其の保存せらるる遺物を實地に尋ねて、考古學的研究を之に加ふるの必要あり。
蓋し遺物、遺蹟は、實物を以て太古の事情を眼前に展開し、是によりて最も正確なる材料を研究者に提供するものなればなり。


石器時代
太古の遺物、遺蹟として、今日に存するものは、先づ指を石器時代の其れに屈せざるべからず。
石器時代とは、人類が未だ金屬の用を知らず、石を打ち砕き、或は之を研磨して、利器を製作使用せし時代をいふ。
此の時代は人類進歩の階段として、如何なる人種たりとも、必ず一度は經由したるべき筈のものにして、我が邦に於ても實に其の遺物、遺蹟は、全國到る所に發見せらるるなり。
其の年代は地方により、叉人種によりて一定せず。
或る進歩したるものにありては、數千年前に於て既に此の境遇より脱し、夙に金屬器時代に遷れるものあれども、或る未開の地方にありては、なほ今日に於て依然石器利器使用の狀態に止まれるもの亦これなきにあらず。


石器金屬器併用時代
勿論石器時代といひ、金屬器時代といふも、其の間判然たる限界あるにあらず。
人智大いに進みて、自ら金屬鑄冶の術を解するに至り、若しくは交通によりて他の文明社會より其の術を傳へ、或は其の器物を輸入するに至りても其の當初にありては、金屬材料は極めて僅少貴重なるものとして、以て一般の需用に供給するに足らず、随って有力者のみ僅に之を所有し、一般多數の民衆は、なほ石製利器の使用に滿足せざるべからざりし時代の、其の中間に於て或る期間繼續せし事は疑を容れざるなり。
此の時代を石器金屬器併用時代とも名づくべきか。
我が國に於て、特に我が日向地方に於て、金屬器の使用が何時の頃より始まり、併用時代が何時の頃に終りしかは、今日の我が考古學進歩の程度に於ては、未だ之を決定するの域に達せず。


大崎の併用時代遺蹟
されど、我が舊南諸縣郡(現今大隅國囎唹郡)大崎なる砂丘中に保存せらるる古代村落の遺蹟を見るに、ほぼ併用時代の行はれたりし年代を髣髴すべきものなきにあらず。
此の遺蹟は廣大なる範圍に渉りて、砂丘の中腹に露出し、中に多數の土器の破片を包含す、先年其の中より、金屬を研磨せりと認めらるる砥石と、粗造なる石器とを發見せり。
遺蹟は被ふに厚さ一二尺の黒土の層を以てす。
是れ蓋し霧島山噴火の際の降灰の堆積せるものにして、甞て此の砂丘上に存在せし併用時代の一村落が、此の降灰のために埋没退轉せることを示せるものなり。
而して更に其の上に、風の爲に齎らされたる細砂の厚層を堆積するに至りたるものなりとす。
されば此の噴火の時代にして明かならんには、以て其の遺蹟の年代を知るを得べからんなり。
續日本紀を按ずるに、既引の如く延暦七年に霧島山の噴火あり。
峯下五六里に砂を降らし、委積すること二尺ばかり、其の色黒しと見へたり。
ここに五六里とは今の一里ばかりにして、大崎との距離甚だ遠きに過ぐと雖、そは當時被害地調査の不十分なりしものなりとも解すべく、委積二尺ばかりにして、其の色黒しといふは、正に此の遺蹟の黒土の層に匹敵するなり。
されば廣く霧島山麓地方に於ける土層調査の結果として、此の黒土が果して當時噴火の遺物ならんには、少くも此の地方にありては、千百數十年前までも、一部に於てなほ石器が併用せられしことを認め得べきものなりとす。


石器時代と王莽錢
是れもとより未決の問題なれども、之を他の地方の傍例に徴するに、筑前糸島郡松原村、及び丹後熊野郡函石濱等の遺蹟よりは、志那に於て前後兩漢の中間なる新の王莽時代に鑄造せし貨泉と共に、石器の發見せられたる事實あり。
此外筑前鞍手郡の某遺蹟よりも、叉我が宮崎市大淀町曾井よりも、此の貨幣は發見せられたりと言はる。
王莽の時代は今より約千九百年前の古なり。
而して九州地方の住民が志那に交通を始めたりしは、それよりも更に古き前漢の時代にありき。
されば當時是等の地方に於て、假りに金屬鑄冶の術が多く發達するに至らざりきとするも、既に金屬利器の少からず輸入されたりしは疑を容れず。
我が古代の刀劒舶載のものを貴しとす。
素戔鳴尊の御劔に韓鋤之劔(からさびのつるぎ)の名あり。
推古天皇の御製に「太刀ならば呉(くれ)の眞鋤(まさび)」の句あり。
狛剣(こまつるぎ)の名亦屢々古代文學上に繰返さるるなり。
韓(から)と云ひ、呉(くれ)と云ひ、狛(こま)といふ。
いづれも其の刀劔の舶載にかかることを意味する。
然るにも拘らず、千九百年前に於て鑄造せられたる志那の貨幣が、時に石器と共に發見せらるるものあるを見れば、我が國に於ける石器の使用は、少くも是等の地方にありては、案外に後の時代にまでも繼續せしことを知るべし。
北海道山地の土人は、徳川時代に於てなほ石の小刀を使用し、千島の土人は、彼等が露西亞人と接觸するに至るまで、なほ實に石器時代の狀態にありしなり。
是れ亦以て文化推移の次第を察すべきなり。


石器使用の民族
我が國に石器時代の遺蹟を止むる民族が、果して悉く所謂國ツ~の系統に屬する先住民族のみなりしか、我が天孫民族が此の國土の渡來する頃に於て、果して既に悉く金屬器使用の文化の程度に達したるものなりしか。
天孫民族渡來の際に於て、先住民族はなほ悉く金屬の使用を知らざるものなりしか等の問題も、今日の學界進歩の程度に於ては、未だ之を決定するの域に達せず。
されど~武天皇の東征に從ひし久米部の兵士が、頭椎(かぶづつい)の太刀と共に石椎(いしづつい)を使用しきとの古傳説あるを見れば、古への傳ふる所、當時なほ金石併用時代なりしことを認めたりと解せざるべからず。
論者或るいふ、所謂天孫民族も、亦嘗ては此の國土に於て石器時代の狀態にあり、後漸次進歩して、金屬器時代に移れるものならんと。

然れども我が古傳説は、高天原の諸~が既に刀劔を佩き、珠玉を帯び、鏡鑑を使用し給ひきと傳ふるなり。
勿論こは後の之を傳ふるものの思想より、其の當時の風俗を古へに及ぼして語れるものなりと解し得られざるにあらず。
随って、毫も是等の古傳説を信ぜずと言はんには則ち已まん。
されど三種の~器を始として、饒速日命の十種の~寶、天夷鳥~の出雲の~寶等、高天原より將來せられたりと信ぜられたりし金屬性寶物の傳へも少からねば、暫く此の古傳説のままに、我が天孫民族が當時既に金屬器使用の程度にありしことを承認し、純石器時代の遺蹟より此の天孫民族の遺蹟を除外して、是等の遺蹟を悉く先住民族の遺せるものなりとの假定の下に、暫く彼等の狀態を觀察せんとす。
かく假定するに就きては、其の實單に古傳説に盲從すといふのみにあらず、叉他におのづから其の理由の存するものあるなり。


古墳墓と天孫民族 その1
天孫民族の遺蹟として最も顯著なるものは、通例、刀劔、珠玉、鏡鑑等の器物を包藏する、高塚式の古代の墳墓なりとす。
考古學者は普通に之を古墳と稱す。
勿論是等の古墳が、必ずしも悉く所謂天孫民族の遺せるもののみなりとは謂ふべからず。
中には先住民族の有力者にして、夙に天孫民族の俗に化し、之に傚ひてかかる墳墓を築造せしものも亦多かるべし。
されど、少くも其の古墳の存する地方は、我が國に於て斯かる形式の墳墓を築造するの習慣を有せし時代にありて、既に天孫民族の文化の布及せしものなりしことを認め得べし。
否是等の古墳を築造せる民族が、よしや系統上先住民族に屬するものなりとすとも、事實に於てはすでに天孫民族に同化融合して、所謂日本民族をなし、其の間もはや區別するの必要を見ざるの程度のもの少からざりしことを認め得べきなり。


古墳墓と天孫民族 その2
我が國に於ては、九州の南端と北海道地方とを除いては、殆ど各地に所謂古墳の存在を見ざるなし。
是れ則ち所謂古墳を築造するの習慣ありし時代に於て、天孫民族の文化の及びし範圍を示すものなり。
否其の地に於ける先住民族も、既に天孫民族に同化融合して、所謂日本民族を構成せし地方なりと見るを得べし、當時九州の南端にはなほ隼人族勢力を有し、北海道の地方には、未だ日本文化の及ぶこと少からざりしものなれば、是等の地方が其の範圍以外に存するは當に然るべきものなりとすべし。
(古墳の事は第二編第七章に於て詳説すべし)

天孫民族と石器時代 その1
北海道の事は暫く擱く。
所謂古墳の存在を見ざる九州南端の地方にありては、天孫民族の文化の夙に及べる他の地方に於て、普通に發見せらるるものと全然同一なる、石器時代の各種の遺物、遺蹟甚だ多く存在す。
ここに於て考古學者或は、是等の系統の遺蹟中の或るものを以て、所謂天孫民族と同一の民族の遺せるものなりとす。
こは隼人を以て天孫なりとする我が古傳説の言ふ所に一致するものにして、古典學者の共鳴を得易き説の如くなれども、此の種の説をなす考古學者は、所謂天孫民族も亦、本來石器時代の狀態に於て此の國土に生存し、後漸次進歩して、或る外來文化の輸入によりて、金屬器時代に移れるものなりと解せんとするものなれば、我が古典の云ふ所と到底一致する能はざるなり。
況や所謂隼人族は、後章に云ふ如く、明かに異族として認められたる事實あるをや。
叉若し其の或る種の遺物、遺蹟を以て、直ちに天孫民族の祖先の遺せるものなりと假定し、九州南端地方にありても、亦石器時代當時より既に此の天孫民族の繁延したりし事を承認せんには、何が故に彼等が他の地方に於ける同族文化の進歩に後れて、ひとり此の地方にのみ同種類の墳墓を築造せず、同種類の文化の遺品を留めざりしかの疑問に逢着すべきなり。


天孫民族と石器時代 その2
ここに於て論者或は更に言はん、隼人族を以て天孫民族と同種族なりとするも、天孫民族は石器時代に於て廣く是等の地方にも住し、數多の遺蹟をここに止めたりしが、後一旦隼人族に其の地を譲りて、古墳築造の風習ありし時代にありては、既に其の地方に跡を絶ちしにはあらざるかと。
然れども、九州南部に於ける或る種の石器時代遺蹟は、他の地方に於ける同種類の遺蹟と同じく、引き續き金屬器時代にまで最も圓滑に連接せるなり、何ぞ其の地を他に譲りて、夙に跡を此の地方にのみ絶ちたりといはんや。
なほ此の事は後(第六章第二節)に詳説すべきも、要するに天孫民族が我が國土に於て、甞て純石器時代の狀態ありきといふことは、學術上未だ證明せられざるものと謂ふべきなり。


石器時代の二系統
所謂或る種類の遺蹟とは何ぞ。
考古學者の所謂彌生式土器を伴へる遺蹟是なり。
我が石器時代の遺蹟には、大體に於て二個の系統あるものの如し。
一は關東、信越、奥駐凾フ地方に多く存するものにして、甞て考古學者によりてコロボツクル民族の遺せるものなりと謂はれたる所のものなり。
一は主として近畿以西、四國、中國、九州地方等に多きものにして、所謂彌生式土器を伴へるものなり。
勿論西部地方にも前者の系統に屬するものあり。
東部地方にも、後者の系統に屬するものなきにあらねども、其の大勢に就いて言はば、ほぼ之を東西の兩系統に分つを得べし。


土器研究の必要
石器時代の遺物は言ふまでもなく石器を以て主要なるものとなせども、石器は其の材料の性質上より、形狀用法ほぼ一定して、民族的特色の表はるる所比較的少なし。
之に反して土器は、製作者の意匠によりて、自由自在に其の形狀文様等を表現し得るが故に、民族的特色は爲に十分發揮せらるるものなりとす。
ここに於てか考古學者は、主として遺蹟に保存せられたる土器の調査上より、其の遺蹟の性質を定めんとするなり。

縄紋土器と彌生式土器
關東、信越、奥駐凾フ遺蹟より多く發見せらるる土器は、其の形態文様、共に複雑なるもの多く、意匠豊富、變化に富めり。
其の文様には好んで曲線を巧みに應用し、往々縄目を印したるが如きもの多きを以て、普通に之を縄紋土器と稱す。
事實縄紋なきものと雖、縄紋土器と共存して發見せられ、其の性質上縄紋あるものと同一の民族によりて製作使用せられたるものと認めらるる土器は、假りに通じて縄紋式土器と稱するなり。
之に反して彌生式土器は、其の形態甚だ簡單にして、變化少なく、文様を有せざるもの多し。
其の文様を有するものと雖、多くは直線、孤線、或は圓形等を幾何學的に規則正しく配列し、或は其の一部叉は全部に、刷毛目を施せる類にして、縄紋土器の唐草風に曲線を應用し、變化多きものとは甚しく相似ざるなり。


彌生式土器の名稱 その1
之を彌生式土器と稱するは、當初東京市彌生が岡なる縄紋土器を出だす貝塚の中より、偶然一個の異りたる系統に屬する壺を發見し、始めて考古學者の研究臺上に上されたるより得たる名なり。
彌生が岡なる此の遺蹟は、もと縄紋土器使用の民族に屬する貝塚にして、少くも其の終末期に於ては、彼等が直接もしくは間接に、弥生式系統の民族と交通を開きし證とすべきものなりとす。
縄紋土器の遺蹟は、大體に於て金屬器時代と交渉少く、是を遺留せし民族は、他の進歩したる民族との接觸によりて是に併合せられ、石器時代の狀態より脱離すると共に、他の文化を移入して、固有土器の製造をも發せしものの如し。
蓋し彼等が他の優勢なる民族と接觸せし時代には、兩者文化の差比較的多かりしかば、彼等は是に接觸すると共に、其の固有の生活を捨て、舊俗を改むるに至りしものなるべし。





弐 【第五章 日向に於ける石器時代の遺蹟と先住民族 第一節 彌生式土器の名稱 その1】まで 
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