2020年12月23日
檍原の古傳説地 その10
一ノ宮巡詣記檍原
降りて延寶三年九月橘三喜の一ノ宮巡詣記にも、
此の地大淀川西北より來りて海に注ぐ。
之を一に赤江川と云ふ。
河口に近く宮崎あり。
橘橋を架して南の方大淀に通ず。
架橋以前は渡船場にして、是れ卽ち所謂小戸の渡なりといふ。
嘗ては河畔の上別府を小戸別府とも稱しき。
今、河口に近き吉村、新別府、江田、山崎の諸村を合して、檍村(あをきむら)と呼び、其の北方なる鹽路、芳士、新名爪、廣原、島之内の諸村を合して、住吉村といふ。
こは其の地が諾尊禊祓の舊蹟なりと稱することによりて、新に命じたるものなれば、之を以て直に其の古傳説地たるの證とすべきにはあらざれども、説の由來する所、必ずしも近時の事にあらざるは之を認めざるべからず。
✧ 閑話休題 橘三喜(たちばなみつよし)は江戸時代の神道家で延宝3年(1675年)から23年かけて全国の一宮を巡って「諸国一宮巡詣記」を著した。✧
降りて延寶三年九月橘三喜の一ノ宮巡詣記にも、
十六日江田の御社へ參り、それよりあをきが原の住吉に詣でて、とも見ゆるなり。
尋ね來て聞けば心も住吉の、松はあをきが原の松原。
此の海邊に伊弉諾尊の身そぎし給ふ、上中下の三つの瀬ありと傳へし。
十七日、鵜戸山法花嶽へ參りたる山伏を、花が島より案内に頼み、うどの岩屋へ赴き、上別府を通り、赤江川舟あり。此の處を小戸の渡りと云ふ。此にも三つの瀬あり。古歌に、
日向なる小戸の渡りの鹽せみに、顯れ出でし~ぞまします。
此の鹽せみとは、北山大明~立ち給ふ上の瀬を云ふと聞きて、
あなたふと、詣でぬる身の心まで、あらふあかゐの北の~垣。
此の三つの瀬より諸人は初まりけり。
日向なる、小戸の瀬の浦こそは、人草の初めなりけれ。
と賤しき渡守の古歌を語りければ、所がらやさしくぞ思ひける。
此の地大淀川西北より來りて海に注ぐ。
之を一に赤江川と云ふ。
河口に近く宮崎あり。
橘橋を架して南の方大淀に通ず。
架橋以前は渡船場にして、是れ卽ち所謂小戸の渡なりといふ。
嘗ては河畔の上別府を小戸別府とも稱しき。
今、河口に近き吉村、新別府、江田、山崎の諸村を合して、檍村(あをきむら)と呼び、其の北方なる鹽路、芳士、新名爪、廣原、島之内の諸村を合して、住吉村といふ。
こは其の地が諾尊禊祓の舊蹟なりと稱することによりて、新に命じたるものなれば、之を以て直に其の古傳説地たるの證とすべきにはあらざれども、説の由來する所、必ずしも近時の事にあらざるは之を認めざるべからず。
✧ 閑話休題 橘三喜(たちばなみつよし)は江戸時代の神道家で延宝3年(1675年)から23年かけて全国の一宮を巡って「諸国一宮巡詣記」を著した。✧
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