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高原茂
メンタル心理カウンセラー・上級心理カウンセラー・行動心理士の高原茂です。宜しくお願い致します。 「このサイトはアフィリエイト広告(Amazonアソシエイト含む)を掲載しています。」 など
プロフィール

2024年04月07日

【 “道” とは何か?】

『老子』にある “道” とは、

真の実在のことをいいます。

宇宙全体を創り出している根源的な知性のことです。

“道” について、

『老子』(訳者 福永光司 ちくま学芸文庫)

に、こう書かれています。

「これが道だと規定しうるような道は、恒常不変の真の道ではなく、

これが真理の言葉だと決めつけうるような言葉は、絶対的な真理の言葉ではない。

天地開闢以前に元始として実在する道は、言葉では名づけようのないエトヴァスであるが、

万物生成の母である天地が開闢すると、名というものが成立する。

だから人は常に無欲であるとき、名をもたぬ道のかそけき実相を観るが、

いつも欲望をもちつづけるかぎり、あからさまな差別と対立の相をもつ名の世界を観る。

この道のかそけき実相およびあからさまな差別と対立の相の両者は、

根源的には一つであるが名の世界では二つに分かれ、

いずれも不可思議なるものという意味で玄とよばれる。

そして、その不可思議さは玄なるが上にも玄なるものであり、

造化の妙用に成る一切万物は、そこを門として出てくるのである。」(7頁)


「道はからっぽで、いくら注いでも一杯になるということがない。

それは奥深くて万物の生まれ出る大本のようだ。

それは万物の鋭さを挫き、万物の紛れを解きほぐし、

万物の輝きを和らげ、万物の塵れに己を同じくする。

それは深くたたえて常存不滅の存在のようだ。

わたしにはそれが誰の子供なのか分らない。

どうやらそれは天帝に先だつ実在のようだ。」(17頁)


「目をすえて見ても何も見えないから、『夷』――色が無いという。

耳をすまして聴いても何も聞こえないから、『希』――声が無いという。

手で打ってみても何も手ごたえがないから、『微』――形が無いという。

だが、この三つの言葉では、まだその正体が規定しつくされない。

だから、この三つの言葉を混ぜあわせて一つにした存在なのだ。

その上部は明らかでなく、その下部は暗くない。

だだっぴろくて名づけようがなく、物の世界を超えたところに立ち返っている。

これを状なき状、物の次元を超えた象というのだ。

これを『惚恍』――ぼんやりとして定かならぬものというのだ。

前から見ても、その頭が見えるわけでなく、後ろから見ても、その尻が見えるわけでない。

太古からの真理を握りしめて、今も眼前の万象を主宰している。

歴史と時間の始原を知ることのできるもの、それを道の本質とよぶのだ。」(49頁〜50頁)


「大いなる徳ある人の容は、ただ道にこそ従っている。

そもそも道という実在は、ただ仄暗く定かならず、

定かならず仄暗い中にも何やら象があり、

仄暗く定かならぬ中にも何ものかが実在している。

奥深く幽かな中に霊妙な精気がこもり、

その精気はこの上なく真実で、その中に創造者としての明証がある。

それは昔から今に至るまで、変わることなく道とよばれて、

いうなれば、あまたの族長たちを統べる本家の総領。

族長たちの実状が、どうしてわたしに分かるのかといえば、

それは総領である道によって分かるのだ。」(79頁〜80頁)


「混沌として一つになったエトヴァスが、

天地開闢の以前から存在していた。

それは、ひっそりとして声なく、ぼんやりとして形もなく、

何ものにも依存せず、何ものにも変えられず、

万象にあまねく現れて息むときがない。

それは、この世界を生み出す大いなる母ともいえようが、

わたしには彼女の名前すら分からないのだ。

仮に呼び名を道としておこう。無理に名前をつければ大とでも呼ぼうか。

この大なるものは大なるが故に流れ動き、

流れ動けば遠く遥かなひろがりをもち、

遠く遥かなひろがりをもてば、また、もとの根源に立ち返る。

かくて道は大なるものとよばれるが、

大なるものといえば、天も大であり、地も大であり、帝王もまた大である。

つまり、この世界には四つの大なるものが存在するが、

帝王がその中の一つを占めているのだ。

その帝王は人類の支配者として大地の在り方に法ってゆき、

大地はさらに天の在り方に法ってゆき、

天はさらに道の在り方に法ってゆく。

そして、道の根本的な在り方は自然ということであるから、

道はただ、自然に法って自在自若である。」(94頁〜96頁)


「道の本来的な在り方は、人間のような作為がなく、

無為でありながら、しかも為さぬということがない。

もしも支配者が、この無為の道を守ってゆけるならば、

万物はおのずからその徳に化せられるであろう。

もしもその万物がその徳に化しながら、なお欲情を起こすとすれば、

わたしはそれを『無名の樸』――荒木のように名を持たぬ無為の道によって鎮めよう。

荒木のように名を持たぬ無為の道であれば、

さても万物は無欲に帰するであろう。

万物が無欲に帰して心静かであるならば、

天下はおのずからにして治まるであろう。」(141頁〜142頁)



“道” とは、

『純粋意識の場』

『純粋な可能性の場』

『統一場』

『知性の泉』

古代インド思想でいうところの

『ブラフマン』

今風に言えば、

『ゼロポイント・フィールド』

のことです。

換言すれば、

“道” とは、

宇宙全体を創り出している

“the Creator”

“造物主”

“万物の創造主”

則ち、

“神” です。


『科学を真剣に追究する人は誰でも、人間の意志よりも優れているある意志が、はっきりと宇宙の法則を示していると確信するようになる』『私が知りたいのは神の考えだ。それ以外はすべて些細なことでしかない』(アルベルト・アインシュタイン)


(推薦図書)
『老子』
(訳者 福永光司 ちくま学芸文庫)

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2024年04月06日

【自重】

【自重】

憲法で、

『言論の自由』

が保障されているので、

個人が大衆に向けて、

自身の見解を表明するのは自由です。

しかし、

個人が他者(個人)に対して、

自身の意見を述べるのは自由ではありません。

他者の感情を害さないように “思いやる心” が大切です。

SNSやブログを見ていると、

時々、投稿者を批判・非難・誹謗するコメントを見かけますが、

自重しましょう!

『危言危行』

『男は辞儀に余れ 男は礼に余れ』

(参考図書)
『老子』
(訳者 福永光司 ちくま学芸文庫)

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2024年04月05日

【すべてを受容する】

【すべてを受容する】

作家・講演家の小林正観さんは、

『すべてを受け容れることの重要性』

について、著書、

『悟りは3秒あればいい』
(だいわ文庫)

の中で、こう述べています。
(9頁〜10頁)

「 私が言う『悟り』とは、

『受け入れること』。

何か特別な勉強をしなくても、

何年も修行をしなくても、

受け入れることさえできれば

『悟る』 

ことはできるのです。

短ければ最短 

『三秒で』 

悟ることができます。

一秒目、

過去のすべてを受け入れること。

今までの自分の身に起きたことは、

すべて自分に必要だった、

と『過去』のすべてを受け入れること。

二秒目、

現在のすべてを受け入れること。

そのすべてが自分にとってプラスだった、

自分を成長させてくれた、

それがなければ今の自分がなかった、

と『現在』のすべてを受け入れること。

三秒目、

未来のすべてを受け入れること。

今までのすべてに感謝し、

これからのすべてに感謝できる、

と『未来』のすべてを受け入れること。

『悟る』ためには、

過去・現在・未来のすべてを受け入れることです。

受け入れるためには三秒あればいい。

そして、

その結果、

『悟った状態』 

が得られるようになると、

悩みがなくなり、

心が穏やかで、

イライラしなくなり、

にこやかに、

幸せに生きることができる。

と同時に、

流れに身をゆだねる、

不平不満を言わなくなる、

その結果として、

自分の役目や役割も見えてくる、

それを自然とやらされるようにもなり、

何が起きようとも動じない自分になれるのです。」

過去に起きたこと、

今起こっていること、

未来に起こること、

すべてを受容しましょう。

すべては学びです。

すべては良きことのために起こります。

すべては、

自己意識を進化・向上させるための糧となります。

『宇宙の英知』 

に全幅の信頼を寄せましょう。

すべてはうまくいっています。

ウェルビーイング(身体的・精神的・社会的に良好な状態)分野の第一人者であるディーパック・チョプラ博士は、著書

『富と成功をもたらす7つの法則』
(訳者 渡邊愛子 大和出版)

の中で、

『あるがままに受け容れることの重要性』

について、こう述べています。 (75頁〜76頁)

「 『今日私は、人々や、状況や、環境や、出来事を、起こったとおり受け入れます』

このことは、

『この瞬間はあるべくしてある』のだ、

なぜなら宇宙全体があるべくしてあるからだ、

と知るということを意味します。

この瞬間――あなたが今経験しているこの瞬間――が、あなたが過去に経験したすべての瞬間の絶頂です。

宇宙全体があるべくしてあるために、

この瞬間はあるべくしてあるのです。

あなたがこの瞬間に対して争い、もがくとき、

あなたは実際、宇宙全体と争っているのです。

そんなことをするよりも、

あなたはこの瞬間に対して争わないことによって、

宇宙全体と争わないと決めることができるのです。

これは、あなたのこの瞬間に対する 『受容』 が全体的で完全であることを意味しています。

あなたは物事を、この瞬間あなたが望んだようにではなく、

あるがままを受け入れます。

これを理解することは重要です。

物事に対して未来は異なるよう願うことはできますが、

この瞬間は、物事をあるがままに受け入れなければならないのです。」

人々・状況・環境・出来事をあるがままに全受容することが肝要です。

この瞬間はあるべくしてあります。

この瞬間は、

宇宙コンピュータが弾き出した最善の答えです。

物事をあるがままに受容しましょう。

世の中で起こること、

人生で起こること、

すべては神のお導きです。

すべては神の思し召しです。

“All must be as God will.”

運を天に任せましょう。

成り行きに任せましょう。

我を張らない、我を通さない。

ばたばた動き回っていると、

かえって期待はずれの結果に終わります。

流れに抗わないことが肝要です。

シンクロニシティに敏感になって、

流れを読む。

『全肯定』

『全感謝』

『全受容』

『全認容』

『全許容』

『寛容の精神』

が、肝要です。

『すべてを受け容れる』

『何が起きても、それを愛す』

『すべてはあるべくしてあり、なるべくしてなる』

(推薦図書)
『悟りは3秒あればいい』
(著者 小林正観 だいわ文庫)

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『富と成功をもたらす7つの法則 願望が自然に叶う実践ガイド』
(著者 ディーパック・チョプラ 訳者 渡邊愛子 大和出版)

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2024年04月04日

【教団は消滅する?】

【教団は消滅する?】

いずれ宗教団体(教団)は消滅するでしょう。

なぜなら、

人生哲学が確立し、

教団に頼らなくなるからです。

宗教について、

中村天風師は、著書

『運命を拓く 天風瞑想録』
(講談社文庫)

の中で、こう述べています。

「宗教には、唯神論と汎神論というのがある。

唯神論というのは、

初めに神がいて、

神がこの宇宙を創ったのだということである。

汎神論は、

宇宙が出来てから、

その中に神が現われたのだということである。

いずれも、神を相手に考えようとする考え方で、

これは、

今のように、まだ科学が発達していなかったときの人間としては、無理のない考え方である。

私がいつもいっているとおり、

今から千年二千年経つと、

今あるような宗教という宗教は、

地上から姿を消してしまうでしょう。

それは、

人間の理智が、

既成宗教などに頼らなければ活きられないような、

哀れで無自覚なものではなくなるからである。

純粋哲学の立場から観察すると、

この宇宙というものは、

形ある宇宙以前に、

すでに形のない宇宙が在った、

という真理の探究というものが、

行わなければならないのだ。

神とか仏というのは、

人間が便宜上、付けた名前だから、

このようなものに捉われてはいけない。

あなたがたは、

抽象的で、あまりにも漠然としたものを、

やれ、神だ、仏だ、と思っているが、

では

『神とはどんなものか』

と聞かれたら、

なんと説明するか。

『仏とはいかなるものか』

と聞かれたら、どう説明するか。

見たことも聞いたこともないものに、

説明の与えられるはずはない。

そう思うと、何となく安心ができるといったような、

同時に、

自分が一種の信仰というようなものを、

何となく気高いと感じる、

という感じで考えられるだけではないだろうか。

だから、

私からいわせれば、

やれ神だ仏だ、といっている者は、

安直な気休めを人生に求めている哀れな人だといわざるをえないのだ。

第一、もし、あなた方が考えているような神や仏が、

この世の中に存在したら、

この世界に戦争などあろうはずがないではないか。

キリスト教の人間達が、

地球をも破壊するかもしれないような原爆や水爆を、

考え出す必要もないじゃないか。

もし本当に、

あなた方が思うような神や仏があり、

それに信仰を捧げたなら、

即座に、神や仏のような綺麗な気持ちになれそうなものではないか。

この中には、クリスチャンもいるだろう。

また仏教信者もいるだろう。

信者という名前だけで、

その人達は、相変わらず、怒ったり、悲しんだり、怖れたり、

という繰り返しの日々を送っていはしないか。

ここに集まっている多数の会員の諸君を目の前にして、

じっと見つめているときに、

後光のさすような尊い人が一人もいないことを遺憾とする。

それは、あなた方の体から出る、オーラの一切が証明している。

ともかく、

安定打坐が、少しの間、出来たときだけは、

綺麗なオーラが見えるけれども、

そうでないときには、もう、見えない、

濛濛たる毒ガスが、あなた方の体からでている、

といってもいい過ぎではないほど、

あなた方の心は汚れている。

そして、

醜い、弱々しさを持っている。

それというのも、

当てにならないものを当てにして、

救われようとか、

助かろうとか、

極めて、さもしい、気の弱い、哀れな、依頼心の強い気持ちで、

それを信仰と名づけているからである。

本当の真理から論断すれば、

何も神だの仏だのと頼らなくてもよろしい。

むかしからの歌にもある。

心だに 誠の道に かないなば

祈らずとても 神や守らん

先祖を敬い、先祖を忘れないための、

追善供養は必要である。

だが、

あなた方の神仏に対する信仰は、

いつも自己本位な自分の生命や、

自分の運命の安全ばかりをこいねがうだけが、目的になっていはしないか。

これを第二義的信仰というのであるが、

そのような信仰を持っている人間は、

何となく神があり、仏があるように思い、

その神や仏がこの宇宙を創っているように思っているが、それは違う。」(33頁〜36頁)

さらに、天風師は、著書

『心を磨く 中村天風講演録』
(PHP研究所)

の中で、こう述べています。

「『宗教』とはそもそもいかなるものであるべきか。

一般常識的だと言われているキリスト教に、

そういう訳のわからないことが教義の中に存在している。

別に私、今キリスト教をけなしているわけじゃないんだよ。

真面目に考えさせられる点を言っているわけで。

私はキリスト教で救われなかった。

心の問題に悩み、悩んで、もう世界の三分の二を歩いて、

キリスト教はもちろん、

仏教ももちろん、

フイフイ教までやって救われなかったんだ。

それは私の心が極めてこれはもう極度にけがれて、

汚れていたから救われなかったとおっしゃるでしょう。クリスチャンや仏教家は。

しかし盗人にも三分の理ありで、

洗い清められるものは洗ってやるけれども、

洗い清められざるものは洗わないじゃ、

ちょっと宗教の本旨と違ったところが出てこやしないかと思う。

また仏教のごときでもですよ、

『縁なき衆生は度し難し』

と釈迦をはじめとしてからに、

現代の仏教家はみんなそう言ってます。

そうでしょう。

『信ぜざれば救う能わず、縁なき衆生は度し難し』

しかし私、人を救うという建前で考えつかれた宗教である以上は、

縁なきものにも縁をつけてやって救ってこそ、

本当の慈悲じゃなかろうか、

情じゃなかろうかと私は思うが、

いかがですか。

迷っている、苦しんでいるというやつは、

全然何にもに頼る気持ちがなくなっているやつが陥った、心のもつれですもんね。

何かしらにまだ頼れる人間だったら、

迷いも悶えも、それだけ大きかないもの。

ところが、

どん底に陥ってる人間を、

あいつは救えないからって、

救わないのが宗教だとしたら、

宗教なんてものはもう、

絵に描いたぼた餅よりもまだ頼りないものだと言わなきゃならないと思うが、いかがでしょう。

(中略)

いや、私も最初は宗教にすがったんだから。

もうせっぱ詰まって、理屈も何もあるかと。

迷信と言われようが、

邪心と言われようが、

そんなことは構わない、

宗教に頼って救われなきゃと思って、

さんざん苦労した挙げ句宗教に行って、

かえって私の失望と落胆は余計倍加されただけでもって、

救われなかったんです。

もちろんそりゃ教会に行ってる人、

お寺参りをしている人、

みんなあれ救われたいから行ってるんですからね、きっと。

それともあれですか、

日曜のたんびに教会に行き、

また節会の折々、お寺にお参りしている人は、

おれが行ってひとつキリストを救ってやろうとか、

おれが行ってひとつ釈迦を得度させてやろうとかいうつもりで行ってるんですか。

そうじゃないでしょう。

死ぬまでお通いになってらしても、

なんかこう救われるだろうと思う、

いわゆる望みなきにあらざる気持ちで行ってらっしゃる。

本当に天風会に入って、

こういう教えによって自分の心を本当に納得のいくだけ救われたという人は、

私はほとんど一人もいないと思うが、

どうだろう。

いると思う人、手を挙げてください。

私、聞きたいこといくらでもあるんだから。

宗教的に、私の心の中に生じている疑義が。

私の精神科学や心理学の中から、

宗教と照り合わせてからに、

どうにも割り切れないものが宗教のほうで、

割り切れないものが割り切れたような顔をして説いてて、

しかも結果において割り切れないことを平気で言ってるのがバイブルにも経文にもありますわね。

これも別にけなす意味じゃないんですよ。

できれば教えてもらいたいから言うんだけど、

『人、もしもわが右の頬を叩かば、笑って左の頬を出せ』って。

これはいい言葉のようですけども、

これはなし難き計画なんじゃないかと思う。

ちょうど日本にある、

『なる堪忍はだれもする、ならぬ堪忍、するが堪忍』

と同じようなことで。

クリスチャン、ひとつひっぱたかせてくれませんか。

力道山のパンチほどは効かないかもしれないけど、

かなり効くパンチを私持ってますから。

そして、右ひっぱたいてあげて

『さあ、どうぞ左も』

とお出しくだされたらば、

その心持ちを伺ってみたいと思う。

まして、頼んだら出すかもしれないけど、

いきなり往来を歩いているやつを、クリスチャンかなと思って、

ぺーっとひっぱたいて、

笑ってからに、

『お手が痛みませんか、こちらもどうぞ、おついでに』

と出す人、いないでしょう。」(86頁〜90頁)

私は宗教を頭ごなしに否定するつもりは御座いませんが、

イエスや釈尊は、

教団をつくりたかった訳ではありません。

教えを広めたかっただけです。

愛(慈愛・博愛)の精神を伝えたかっただけです。

宗教と信仰を混同してはいけません。

宗教は団体で、

信仰は個人的なものです。

教団に所属せずとも信仰することはできます。

大切なことは、

individual・personalな信仰心を持つことです。

なぜなら、

人生は、

自己の “魂の修行” の場であり、

個人的なものだからです。

『私が知りたいのは神の意思だ。それ以外はすべて些細なことでしかない』

我は神なり愛と光なり

汝も神なり愛と光なり

我は救世主なり

汝も救世主なり

世界中の一人ひとりが救世主

世界平和と人類全体の幸福の実現に寄与しましょう。

地球ユートピアの実現を目指しましょう!

(推薦図書)
『運命を拓く 天風瞑想録』
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2024年04月03日

【お節介を焼かない】

【お節介を焼かない】

人には人の修行があります。

人の “魂の修行” の邪魔をしない、

お節介を焼かないことが大切です。

病は天からの啓示です。

『生活習慣を見直しなさい』

『考え方を変えなさい』

『生き方を反省しなさい』

という、天からのメッセージです。

霊力を使って、

人の病を治すのは、いかがなものか?

ましてや、

それで、お金をもらうなんて・・・。

『魂の法則』
(著者 ヴィセント・ギリェム 訳者 小坂真理 ナチュラルスピリット)

に、こう書かれています。

「レイキの段階を取得するための有料の講習がある、と話しているのを耳にしましたが。

その件に関して、どうお思いですか?

お金と引き換えに、天国に行けると文書で約束した免罪符と同じような商売だ。

最初にレイキを始めた臼井甕男氏が無償で行ったというのに、

その継承者たちがどうしてお金を取るのだろうか?

繰り返すが、レイキを始めるために、イニシエーションをする必要などない。

どれほど有名であろうと、

見返りとしてお金を要求するような人から受けるイニシエーションであれば、なおさらだ。

なぜなら、

それでお金を儲けようとしているのなら、

自称するほどレベルが高くはないからだ。

真のマスターは、

万人のエネルギーでお金を取ろうとしない。

伝達者に過ぎず、謙虚であるので、マスターと名のろうともしない。

ここに、イエスの手本がある。

エネルギーで多くの人を癒やし、

弟子たちへの伝授もしたが、

誰からもお金を受け取らなかった。

講習だけでなく、レイキのセッションでお金を取る人もいますよ!

これについては、どう思われますか?

宇宙エネルギーは、

それを扱う人の所有物ではなく、

お金を払わずに使用できるものなので、

同じく無料で与えねばならない。

レイキでお金を取る人たちは、

自分自身のエネルギーや自分が努力して周囲からかき集めたエネルギーを扱うのだろう。

だが、

高波動の霊的存在たちからの手助けは期待できない。

彼らと同調するためには、

心を浄化し、

他者を助けたいという無私の思いが必要となるが、

お金を取る者には無私の志はなく、

金銭的な利益を得ることに関心があるからだ。

でも多くの人が、レイキで儲けようとしているのではなく、それで時間が取られるとサラリーマンはしていれないし、何かで暮らしを立てる必要があるから、と言っていますよ。

それなら、エネルギーの伝達では生計を立てようとしないことだ。

経済的にやっていけるように、

他の活動で報酬を得られる仕事を持ち、

自由な時間にレイキをすれば良い。

これは、意志の問題だ。

しかし実際には、

レイキでお金を取る者の多くが、

生活を維持するだけでなく、

それによって儲けようとしている。

レイキの料金は、オーラを綺麗にするというよりも、

それにひっかかった愚か者の財布の中身を綺麗にしてしまうほど高いことがあるからだ。

イエス自身も、

『神のものは神に、皇帝のものは皇帝に返しなさい』

と言っている。

物質的に自立する必要があるのなら、

実際的な仕事でそうするように努めなさい。

霊的な仕事を介してはならない。

霊性にお金を関与させるのは、やめなさい。

霊性が穢れてしまうのだ。

君たちを助けている指導霊たちは、

君たちからお金を取るのだろうか?

彼らがそうしないのならば、

彼らを見習って君たちもそうしてはならない。

しかも、

自分には能力があるのでお金を取る資格があると思っていると、

本当にそうなって、自分自身のエネルギーしか使えなくなってしまう。

『神と富とに兼ね仕えることはできない』

ということを肝に銘じて欲しい。

現在の言葉に置き換えれば、

愛とエゴとに兼ね仕えることはできないという意味だ。

それらは、相容れられない対立する概念なのだ。

エネルギーを貰う代わりに、お金であろうと他のものであろうと何かを引き換えにあげる必要があるので、これは交換しているに過ぎない、と言う人たちもいますが。

それならその人たちは、

無条件の愛という、何の見返りもなく与える行為を知らず、また理解したくもないのだ。

見せかけの霊性で外側を装おうとしていても、

見習うべき手本とはならない。

それを忘れないようにしなければ、

霊性復興運動も、

あげくの果てにはキリスト教と同じことになってしまう。

つまり、

皆の偉大なマスターだと勝手に名のり出る者が現れて、

自分の富と権力への渇望を満たすために、

聖なる教えを管理し操作し始めてしまうだろう。

でも、有料レイキに効果はあるのですか、ないのですか?

効果はあるかもしれないが、

無料で行うレイキよりは、

常にずっと貧しい結果しか得られない。

効果は、助けたいという思いの強さ次第だからだ。

大半の場合には、

他者を助けたいという思いと、

何かと引き換えに行おうというエゴとが混在している。

善意によって得られる効用も、

私欲で失われてしまう。

一つはっきりさせるが、

エゴがあると与える前に貰おうとしてしまうので、癒やしにはならない。

エゴに委ねる人は、

本当は他者を助けようとは思っていないので、

助けてあげることができないのだ。

お金を取っているならば、

それが他者を助けるためなのか、

自分が有名になるために他者を利用したいのか、

あるいは自己の物質的な欲求や期待に沿うためなのかを、分析してみるがよい。

イエスがあれほど優秀なエネルギーの担い手で、

奇跡と思われたほど素晴らしい強力かつ迅速な結果を得ることができたのは、

一体どうしてだと思っているのかね?

それは彼が、

無条件の愛を感得するに至った魂だったからで、

その愛が、

エネルギー次元で顕現する時に高振動のエネルギーとなり、

それに肉体的または霊的な障害を癒やす力があったからだ。

多くの者が、

イエスがしたことをできるようになりたいと思っているが、

彼らには本質的なものが欠けている。

それは、

無条件に愛するということで、

エゴを――虚栄心・自尊心・自負心を――放棄しなければならないのだ。

イエスがしたことをできるようになりたいか?

それなら、

他者に何かをしてあげる度に、集金してまわるのはやめなさい。

イエスが癒やしに対してお金を取っていたとしたら、

高次の存在ではあり得なかったし、

高次の霊たちからも支援されなかったので、

癒やしそのものが不可能だったろう。

病気とその意味について、最後に言っておきたいことはありますか?

病気は、

運命のいたずらでも神の罰でもなく、

霊的成長の糧となるものだ。

今生で患う病気は、

今回の転生で立ち向かわねばならない試練を知らなかったり受け容れようとしなかったのが原因か、

または心に従って行動や生活せずに霊的な内面を抑圧したのが原因だ。

このような場合、

肉体的な病は内部の病気の警報として作動し、

自分を変えるように誘導する。

先天的またはカルマによる病気のケースでは、

原因は前世での行為の中に見出せる。

それは、

溜まった負債を精算するための試練であり、

魂が霊的により高い段階へと昇るために障害となる心理的毒素を肉体に受け渡すプロセスなのだ。」(304頁〜308頁)

実は、釈尊も弟子も霊力を使えたのですが、それを封印しました。

なぜだと思いますか?

人には人の修行があります。

『人の “魂の修行” の邪魔をしない』

『心身共に健康になる為の智慧を与える』

『個人ではなく大衆に向けて法を説く』

これが王道です。

『私が知りたいのは神の意思だ。それ以外はすべて些細なことでしかない』

(推薦図書)
『魂の法則』
(著者 ヴィセント・ギリェム 訳者 小坂真理 ナチュラルスピリット)

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2024年04月02日

【縁にしたがう】

【縁にしたがう】

縁を大切にしましょう。

縁にまつわる成句が沢山あります。

一部を御紹介します。

『縁は異なもの味なもの』

夫婦関係は不思議な巡り合わせによって成立するもので、

それまで全く無縁であった両人がにわかに結び付いたり、

第三者の目から見ると到底気の合いそうもない者どうしが一生を添い遂げたりして、

天の配剤としか言いようのないことだ。――新明解国語辞典――

『袖触り合うも多生の縁』

袖が触れ合うようなちょっとしたことも、前世からの深い因縁によって起こるものだ。――明鏡国語辞典――

『縁なき衆生は度し難し』

仏の広大な慈悲をもっても仏縁のない人は救えない。

人の言葉を聞き入れない者は救いようがない。――大辞林――

『縁と浮世は末を待て』

良縁と好機会とは、時節の来るのを待つべきもので、あせってもだめである。――広辞苑――

『縁に連るれば唐の物』

何かの因縁で思わぬものと関係が生じるの意。――広辞苑――

『縁あれば千里』

縁があれば千里も離れた所の人と会うこともあるし、

結ばれることもあるということ。

『躓く石も縁の端』

世の中で出あうことすべて、

不思議ななんらかの縁で結ばれているということ。

ふとつまずいた石も、

多くの石の中で何かの縁があってつまずいたのであるとの意から。

『一樹の陰一河の流れも他生の縁』

この世の中で起こるいっさいのできごとはどんな小さなことでも、

すべて前世からの因縁によるのだということ。――故事ことわざ辞典――

『因縁生起』

「因」は直接の原因、「縁」は間接の原因の意。

一切の事象は、この因・縁が相合して成る、というのが仏教の基本的な考え方。――新明解国語辞典――

『行きずりの宿世』

道を行ってすれ違うのも前世からの因縁であるということ。――広辞苑――

行きずりの恋もまた縁です。

『類は友を呼ぶ』

似た者同士は自然と寄り集まる。
――広辞苑――

良縁を引き寄せる為には自身の意識レベルを高めることが必要です。

広義に解釈すれば、

“成り行き” も縁です。

天の配剤です。

だから、

流れに身をゆだねる。

我を張らない、我を通そうとして無理をしない。

ばたばた動き回っていると、

かえって期待はずれの結果に終わります。

運を天に任せることが肝要です。

『運は天にあり』

“All must be as God will.”

人生は、

出会いであり、縁であり、シンクロニシティです。

出会いはすべて “学び” となります。

魂の成長の糧となります。

縁にしたがうことが大切ですが、

縁に執着しないこともまた大事です。

袂を分かち、孤高を目指すのも一法です。

『去る者は追わず、来る者は拒まず』(孟子)

(参考図書)
『縁にしたがい』
(著者 松原泰道/松原哲明 潮流出版)

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2024年04月01日

【読者へのメッセージ】

【読者へのメッセージ】

ウェルビーイング(身体的・精神的・社会的に良好な状態)分野の第一人者であるディーパック・チョプラ博士の、日本の読者へのメッセージが、著書

『富と成功をもたらす7つの法則』(角川文庫)

の冒頭に載っていますので、抜粋して御紹介します。

「随分前になりますが、

内科医として、

病気を取り除こうというアプローチは機能しないことに私は気がつきました。

ひとつの問題を治療すると、

異なる問題が表面化するのです。

残念なことに私たちは社会にも、

お金が幸せの源だという概念、

技術が私たちを健康にしてくれるという考えや、

武器や軍隊が安全の源であるという信念などの、

間違った約束事をもち込んでしまっています。

そんな中で、

東洋に古くから言い伝えられている英知では、

すべてのウェルビーイング(身体的、精神的および社会的な健康)の源が、

私たち一人ひとりの中にあると教えています。

また、

人類の意識は『無限の可能性の場』であり、

もし私たちの洞察、直観、想像、インスピレーション、意図の源が私たちの存在の本質に根ざしていれば、

私たちは願望を実現し最高レベルの創造力を発揮することができるとも教えてくれています。

これが真の『成功』です。

それは私たち自身の中にある創造の源を見つけることであり、

価値ある目標を実現していく能力を兼ね備えることであり、

愛と思いやりをもち絶え間なく奇跡に満ちた日常を送ることです。

本著、『富と成功をもたらす7つの法則』が世界中の方々に長い間支持されている理由は、

私たちの存在の目に見えない部分が、

私たちが現実と呼ぶすべてのものをどうやって作り出しているかを、

非常にシンプルな言葉で説明しているからです。

左記の7つの法則は、

実現されていないものが実現される過程(=創造の過程)で使われている原理です。

法則一 純粋な可能性の法則

法則二 与える法則

法則三 原因と結果の法則

法則四 最小限の努力の法則 

法則五 意図と願望の法則 

法則六 手放す法則 

法則七 人生の目的の法則

日本は長い歴史の中で仏教の影響を受け、

独自の伝統である座禅などで『意識』の理解には古くから馴染みがある文化なので、

日本のみなさんはこれらの法則を理解し実践することはとても簡単で、

ライフスタイルにも取り入れやすいことでしょう。

この作品が再び日本の皆さんに紹介されることを非常に嬉しく思っています。

日本のすべての人に真の成功がもたらされ、

願望が自然に叶うようになることをお祈りしています。

    ディーパック・チョプラ」

本書、
『富と成功をもたらす7つの法則』
原題 “THE SEVEN SPIRITUAL LOWS OF SUCCESS” は、

『世界の自己啓発50の名著 エッセンスを読む』(著者 T・バトラー=ボードン ディスカヴァー・トゥエンティワン)に載っていて、

世界中の人に支持されている、チョプラ博士の代表的著書です。

精読されることをおすすめします。

(推薦図書)
『富と成功をもたらす7つの法則』
原題 “THE SEVEN SPIRITUAL LOWS OF SUCCESS”
(著者 ディーパック・チョプラ 訳者 渡邊愛子 角川文庫)

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(参考図書)
『世界の自己啓発50の名著 エッセンスを読む』
(著者 T・バトラー=ボードン 訳者 野田恭子・森村里美 ディスカヴァー・トゥエンティワン)

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クリントン元米大統領、ゴルバチョフ元ソ連大統領から賞賛され、タイム誌による「20世紀の英雄と象徴100人」にも選出されたスピリチュアル・リーダーが明かす、宇宙の英知を活用する方法。

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2024年03月31日

【神の為に生きる】

【神の為に生きる】

四の五の言わず、

汗水たらして働く。

神の為になることさえしていればいい。

なぜなら、

私たちは神のアバターだから。

私たちは、

神の意思を実現させるために生きている。

宇宙の進化と創造に喜んで参加すればいい。

『科学を真剣に追究する人は誰でも、人間の意志よりも優れているある意志が、はっきりと宇宙の法則を示していると確信するようになる』『私が知りたいのは神の考えだ。それ以外はすべて些細なことでしかない』(アルベルト・アインシュタイン)

我は神なり 愛と光なり

汝も神なり 愛と光なり

我は救世主なり

汝も救世主なり

世界中の一人ひとりが救世主

(参考図書)
『ゴッド・コード――遺伝子に秘められた神のメッセージ』
(著者 グレッグ・ブレイデン 訳者 島津公美 ダイヤモンド社)

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2024年03月30日

【自戒の念を込めて】

【自戒の念を込めて】

あなたは、

金儲けをして自身のエゴを満足させる為に生まれてきたのですか?

金儲けが悪いと言っているのではありません。

お金持ちになるのは結果であって、

目的ではないということです。

つまり、

『金儲けそのものにうつつを抜かすな』

ということです。

世の為人の為神の為になることをしていれば、

お金は後からついてきます。

大切なことは、

天性を活かし、

天職に就き、

天命を全うすることです。

『私が知りたいのは神の意思だ。それ以外はすべて些細なことでしかない』

(推薦図書)
『富と宇宙と心の法則』
原題 “CREATING AFFLUENCE”
(著者 ディーパック・チョプラ 訳者 住友進 サンマーク出版)

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2024年03月29日

【魂の修行】

【魂の修行】

宗教は団体である。

哲学は個人的なものである。

人それぞれ人生観・人生哲学を持っている。

人生は、

Individual・personal なものでなくてはならない。

なぜなら、人生は、

『自己の魂の修行の場』

だから。

要するに、

『自己啓発・自己研鑽・自己陶冶が大事である』

ということです。

『百尺竿頭一歩を進む』(伝灯録)

(推薦図書)
『心を磨く 中村天風講演録』
(著者 中村天風 PHP研究所)

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