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2019年12月28日
オッサンのブラリ一人旅(當勝神社)
これは、今年の1月に他サイトで公開したものです。
粟鹿神社をスマホのナビ機能で検索していた時、偶々當勝神社というのにヒットしました。どうやら粟鹿神社の近くらしいと言う事で、粟鹿神社にお参りした後行くことにいました。距離的には粟鹿神社から1kmと離れていません。
どんな神社なのか?思いをめぐらせながら當勝神社にやって来ました。當勝と書いて「まさかつ」と呼ぶそうです。
神社にやって来た時、参道には駐車場に向かう車の列が続いていました。
當勝神社にやって来ました。登りには當勝稲荷大明神となっています。石段を登ると境内です。
一の鳥居と参道の石段です。神門迄6つの鳥居が有ります。
石段を登りきると、神門が見えてきます。此処の神門も随身門と言います。
随身門とは、随身姿の守護神像を左右に安置した神門を云います。随身と言うのは、平安時代に貴族の警護に従事する官人のことです。
随身を潜って境内にやって来ました。神殿と狛犬です。此処の狛犬は屋根の下に鎮座しています。
當勝神社は奈良時代に創建されたと伝えられる古社で、旧社格は村社になります。
現在の拝殿、本殿共に江戸時代末期に建てられたものだそうです。主祭神が正哉吾勝勝速日天之忍穗耳尊、配祀神には高皇産巣日神と栲幡千千姫命が祀られています。それぞれ開運繁栄、万物創生、織物の神として祀られています。
拝殿と本殿です。
當勝天神、靖霊社、逆杉社です、當勝天神の社は當勝神社の旧本殿だったそうです。更に當は当の字の旧字と言う事で受験生が多く参拝するそうです。
本殿の裏側に、稲荷神社への参道が有ります。
急な石段を登りきると、當勝稲荷大明神が有ります。稲荷神社です。
他にも、この神社は、社叢林が境内を中心に3haに及び貴重な植物が群生し市指定の天然記念物となっています。
2019年12月27日
オッサンのブラリ一人旅(但馬五社巡り 粟鹿神社)
これは、今年の1月に他サイトで公開したものです。
公約通り、元日の午前、初詣がてら粟鹿神社にお参りしてきました。
粟鹿神社は、北近畿豊岡自動車山東ICを降りてすぐのところに有ります。
当日は好天に恵まれたのですが、年末寒波の影響で雪が残っていました。
粟鹿神社に到着しました。
鳥居をくぐって参道を進むと、勅使門が有ります。
勅使門の勅使とは、天皇の使者で、資格を以て天皇の代理として宣旨する事から、勅使を迎える側が勅使より上位の者であっても天皇として敬意を払う事とされました。しかし江戸時代、江戸城においては将軍が上座、勅使が下座に座るという逆転現象が有りました。
その勅使を迎え入れる為の施設が残されているところが有り、粟鹿神社では勅使門が残っています。
粟鹿神社では、四回の勅使参向があったという記録が残っているそうです。此処の勅使門は建築物としても貴重な物の様です。現在、この門からの出入りは出来ません。
勅使門の隣に、神門が有ります。この神門は随身門、日の出門ともいうそうです。
神門の左右には木造著色随身倚像が安置されています。製作年代は不明ですが、江戸時代前期に修理された事と、1683年に再興された事は判っています。
境内に入り少し進むと神殿が有ります。狛犬も雪を被っています。
粟鹿神社は但馬國で最も古い神社とされており、2000年以上の歴史が有ると云われています。但馬国造の日下部氏との関係も深いとされています。主祭神は彦火々出見命、日子坐王、そして大国主の子、阿米美佐利命の3柱となっています。
粟鹿神社には、鹿が粟を3束銜え山から現れ人々に農耕を教えた事から、その山を粟鹿山と呼ばれ、鹿を祀った事から粟鹿神社となったようです。
粟鹿神社の格式は但馬一宮又は二宮となっていますが、諸説あるようです。
拝殿と本殿です。
主祭神にお参りした後、境内を散策します。
いくつもの境内社が有ります。神社の境内に有る本社以外の社を、境内社、摂社、末社などと言いますが明確な定義は無い様です。簡単に言うと、その神社の本殿以外の社を境内社と呼ぶ様です。その中で御祭神と縁の深い神様を祀った社を摂社、それ以外の社を末社と呼ぶ様です。また、境内の外に有ってもその神社が管理管轄する社を境外社と呼ぶ様です。
少し奥に入ると石段が有りました。それを登りきると稲荷神社です。保食神が祀られています。
こちらは猿田彦神社(祭神は猿田彦神)です。社のなかを覗いて視ると、神馬像が鎮座しています。
外へ出ようとすると、随身門には木彫りの狛犬が鎮座しています。丁度木造著色随身倚像の裏側に当たります。木造著色狛犬像と言います。製作年代は不詳ですが、作風は鎌倉時代風ですがそれほど古くはなく江戸時代前期のものと思われます。
外に出て、近くにご神木が有るそうなので、行ってみます。
ご神木です。
神社の南側にもう一つ鳥居が有りました。南側の参道です。その風景です。
これで但馬五社を全て廻った事になります。約2ヶ月掛けて回ったのですが、ご利益が有るでしょうか?
この後、近くに當勝神社というのが有るそうです。ついでに行ってみる事にします。
2019年12月26日
オッサンのブラリ一人旅(但馬五社巡り 養父神社)
この記事は、今年の1月に他サイトで公開したものです。
出石神社からの帰り道立ち寄ったのが養父神社です。格としては出石神社や粟鹿神社が一宮、二宮に対し、絹巻神社、小田井縣神社と同じ三宮になります。
当日は、工事中で境内の伐採作業をされていました。それでも参拝は可能です。神社は高台に有ります。
参道を登りきると、山陰本線と円山河を望むことが出来ます。
振り返ると、養父神社が有ります。
境内には2対の狛犬が鎮座しています。
1対は普通に座っている狛犬です。
もう1対が、絹巻神社にも鎮座している。構え型の狛犬が居ます。実は狼像だそうです。
養父神社は、地元では「養父の明神さん」と呼ばれ、農業の神とされています。養父市は古くから但馬牛の市の中心地で今でも競り市が行われています。
神社の創祀は崇神天皇の頃と伝えられており、737年の但馬国税正帳には、出石神社、粟鹿神社と共に養父神社の名前があったそうです。三宮といえども一宮に近い格式のある神社ではないのか?と思います。
祭神は倉稲魂命、大己貴命、少彦名命、谿羽道主命、船帆足尼命の5座となっています。
江戸時代の地誌には弥高山の山頂にあった上社に大己貴命、中腹の中社に倉稲魂命と少彦名命が、現在養父神社が有る場所(下社)に谿羽道主命を祀ると記されていますが。しかし、昭和初期の養父群誌では上社に保食神、五十猛神。中社が少彦名命、下社に谿羽道主命と船帆足尼命が祀られている事になっています。只、いつ現在の場所に五つの祭神がまとめられたのかは?不明です。
江戸時代は、神仏習合していたようで、水谷山普賢寺と呼ばれ神前で般若心経が奉読されていたそうです。
拝殿と本殿です。
本殿の横には朱色の橋が架かっています。橋の向こうに社務所が有ります。養父神社は紅葉の名所としても有名だそうです。紅葉の季節にはこの橋も見応えがあるようです。
境内には、他にも社がありますが、ここでは摂末社ではなく境内社と称しています。摂末社と境内社の違いは?よくわかりません。
お正月は、残りの一社、粟鹿神社に初詣と行きたいと思います。
2019年12月25日
オッサンのブラリ一人旅(但馬五社巡り 出石神社)
これは、今年の1月に他サイトで公開したものです。
お正月に、但馬五社巡りをすると大変ご利益が有ると言う事ですが、5つの神社を一度に周る事はとてもハードルが高く回れるものではありません。そもそも、お正月に周るとご利益が有るというのも、絹巻神社を公開するために調べていて知った位ですから・・・、そこでブログの公開だけはお正月前に公開しょうと、行ってきました。今回は、クリスマス前に、出石神社と養父神社に行ってきました。
先ずは、出石神社へと車を走らせます。
駐車場に車を止めて、出石神社に到着です。
参道は神社迄真っ直ぐに続いています。
神門です。この鳥居は両部鳥居と言う形状らしく、神仏習合の神社に多く見られるそうです。出石神社が神仏習合の神社かどうか?は不明です。
鳥居には一宮の表示が有ります。但馬には、一宮が2つ在るようで、一つがこの出石神社、もう一つが粟鹿神社と成っていますが、サイトで調べていると、出石神社が一宮で粟鹿神社は二宮であったり、出石神社の記載がなかったとするものや出石神社が二宮とするサイトも有りました。
神門をくぐると境内に入ります。
出石神社は出石盆地東縁に鎮座しています。過ってはこの辺りが出石の中心市であったとの事です。現在の出石市街地は山名氏が居城を移してからの発展となっています。
この神社は古事記や日本書紀などに記載されている、天日槍伝説の中心となる神社です。天日槍は祭神としても祀られています。祭神は伊豆志八前大神(出石八前大神)と天日槍命となっています。
拝殿と本殿です。
摂末社は4社有ります。
夢見稲荷神社と比売神社です。
市杵島比売神社と菅原神社です。市杵島比売神社は浮島の上に有ります。
出石神社は地元では出石開拓神として信仰されており但馬では代表的な古社です。
この後帰路に付きますが、その序でに養父神社に立ち寄ります。
2019年12月24日
オッサンのブラリ一人旅(但馬五社巡り 小田井縣神社)
この記事は、2018年12月に他サイトで公開したものです。
絹巻神社を後にして、小田井神社を目指します。JR豊岡駅から東へ1kmほどの所に小田井神社があります。
小田井神社は但馬五社の中では、絹巻神社と同じく三の宮に位置する神社ですが、絹巻神社と比べると境内はかなり広く末社も四社あります。
鳥居をくぐって、神社へ向かいます。
神門は、簡素な作りです。
小田井神社は延喜式内神社で、国作大己貴命が祭神です。
昔、豊岡の辺りは一帯が泥海で、湖水が氾濫し平地が無いときに水を北の海に流し、水利を治め農業を開発したのが国作大己貴命だと言う事です。その後、丹羽道主命(ヒコタタスミチノウチ)が功績を称え、10代崇神天皇に報告し、神霊を鎮祭したと云われています。その後代々の縣主がこの地方の開拓を進め祭祀を営んだと伝えられています。
その事から、当地開拓の神。遠征成功による交通安全、戦乱からの復興に基づく再生の神などとされています。
拝殿です。本殿に狛犬が居ました。
境内には他に、四つの摂末社がありますが、ネットなどでは五つ有るそうです。しかし四つしか確認は出来ませんでした。
稲荷神社です。祭神は豊遠加姫命。
恵比須神社です。祭神は事代主命(ことしろぬしのみこと)エビス神と同一神とされています。つまり恵比須様の事?
柳の宮です。祭神の五男三女神(ごなんさんにょしん)は須佐之男命と天照大御神の誓約により生まれた五柱の男神と三柱の女神の総称です。八王子と呼ぶことも有るそうです。
川下社です。祭神は祓戸大神(はらいどのおおかみ)、罪や穢れを救い清める祓戸四柱の神の総称です。穢れを救う神として境内の入り口辺りに祀られる事が多いようです。
境内の紅葉も色づき始めていました。
紅葉を期待して出かけたのですが、この日は11月の上旬、色付くには未だ早すぎた様です。
2019年12月23日
オッサンのブラリ一人旅(丹波もみじめぐり 丹波三山 岩屋山石龕寺)
丹波もみじめぐり、最後にやって来たのは石龕寺です。
丹波三山に挙げられている紅葉の名所です。
参道の紅葉です。かなり色褪せて居ます。
参道には、至る処に石仏や、石碑が鎮座しています。
山門にやって来ました。
山門の仁王像は、1242年慶派の「肥後法橋定慶」作とされ、国の重要文化財となっています。
弘法大師像です。石龕寺は高野山真言宗のお寺で、弘法大師は真言宗の象徴です。
紅葉の参道を通り抜けると、本堂はもうすぐです。
本堂にやって来ました。
石龕寺は、587年聖徳太子の創建と云われています。毘沙門天を本尊とし、鎌倉時代から室町時代に隆盛を極めましたが、戦国時代明智光秀の丹波攻めで全山を焼失し仁王門だけが残ったということです。江戸時代に入ると徐々に復興されてゆきます。
南北朝時代には、足利尊氏が観応の擾乱に敗れ、播磨に逃れる際、この地に留まった事から足利氏縁の寺とされています。
こちらは薬師堂です。柱には札が有ります。(おんころころせんだりヨとうぎそわか)と書いてあります。どういった意味でしょうか?
境内から観る紅葉です。
薬師堂の隣には三社が祀られています。三社で八つの祭神が祀られていました。
三社の奥にあるお社は焼尾神社です。
焼尾神社は石龕寺の鎮守として、弁財天が祀られていました。明治の神仏分離令により市杵島比売命を祀る事になりました。
弁財天は石龕寺に保管されていますが、焼尾神社では未だに弁才天の幟が立てられています。幸運、財宝、福徳神として芸術家に人気があるそうです。
焼尾神社から境内を望みます。
岩屋山には、石龕寺の発祥とされる奥の院が中腹の高台にあります。石窟に仏像が祀られ見晴らしのよい高台に鐘楼が有ります。鐘楼から奥の院拝殿迄の参道には石灯籠が立ち並び、近くには足利義詮の将軍屋敷も有るそうです。
岩屋山超えると、三寳寺の本光山に続いているようです。
奥の院には残念ながら行くことを断念いたしました。
焼尾神社から、寺務所へ向かいます。
社務所内の紅葉です。
水琴窟も有りました。
御朱印は前もって書いてあるものでした。
帰路は、対岸の遊歩道を歩きます。銀杏も黄色く色付いています。
何とか丹波もみじめぐり完走です。本堂を撮影出来なかったりと、残念な処もありましたが紅葉を堪能した秋でした。
2019年12月22日
オッサンのブラリ一人旅(但馬五社巡り 絹巻神社)
丹波もみじめぐりの執筆が遅れています。最後の石龕寺を公開してからこの記事を公開しようと思ったのですが、先に公開することにしました。
これは、2018年11月に他ブログで公開したものです。
最近、各地の一宮神社に興味を持ち、一宮巡りをしてみようと思っています。
但馬地方の一宮を調べると、但馬には但馬五社という5つの神社が有ります。
但馬五社とは、絹巻神社、小田井神社、出石神社、養父神社、粟鹿神社の5社を総じて但馬五社と言います。正月にこの5社を回ると大変ご利益が有るそうです。とは言え1度にこの5社を回るのはかなりハード?と言う事で紅葉も期待しながら、11月の始めに絹巻神社と小田井神社に行ってきました。
スマホのナビシステムで絹巻神社を設定し出発します。北近畿豊岡自動車道日高神鍋ICを下車して、城崎温泉を超えて暫く走ると絹巻神社が有ります。
ところが、スマホのナビシステムが案内したのは、その先の天神様です。
どうやら、違う事が分かり引き返します。
有りました。絹巻神社です。
絹巻神社を調べると、但馬国名神大社十社中の一社に数えられた一社と言う事なのですが、その十社がどの神社かは今のところ分かりません。調べたり、五社を廻っているうちに判るのだとは思います。
絹巻神社は、丹後国一宮籠神社と同一神で主祭神を「天火明命(あまのほあかりのみこと)」とされています。天火明命は太陽の光や熱を神格化した神で太陽神・農業神として信仰されています。
本殿です。狛犬がお尻を持ち上げています。「構え型」と言われる狛犬の形だそうです。その事から運気の上昇や大願成就を祈願される方もいるそうです。
絹巻神社は丸山川河口の港大橋東詰に、鎮座しています。
港大橋から丸山川河口の景色です。
神社の背後の絹巻山は玄武岩で形成されており、原生林は県の天然記念物に指定されています。また「ひめはるぜみ」の生息地としても知られているそうです。神社から南に進むと玄武洞公園に続きます。
この頃は、御朱印を頂くという発想はありませんでした。
2019年12月20日
オッサンのブラリ一人(丹波もみじめぐり 苅野神社本殿)
柏原八幡神社を参拝した後、近くにどうしても気になる神社が有り、ついでに訪ねてみました。
国道176号沿いに有るその神社は国道のすぐ脇から急な石段を登った処にあります。
参道を登っていくと、まさかの紅葉が生えていました。手入れはされていないようで、気の高いところで茂っていました。
門まで来ました。苅野神社と掲げられています。
苅野神社は延喜式内社で鎮守社として江戸時代からこの辺りの、集落の「宮の党」という宮座に守られて来たそうです。
本殿からは、上棟式に使用されたであろう木槌が発見され、正徳4年の墨書が有る事から1714年に建立されたと考えられています。
御祭神までは分かりませんが、言い伝えでは、鐘を盗んで逃げて行った神様が祀られている神社だそうです。
拝殿です。
社務所も無い小さな神社です。
こちらが本殿です。
裏山は伐採されていて、禿山状態です。災害があった訳でもなさそうなのですが・・・。
御朱印は勿論頂きようが無いです。もしかしたお正月三が日なら頂く事が出来るかも。
2019年12月19日
オッサのブラリ一人(丹波もみじめぐり 柏原八幡神社)
三寳寺の後、車で5分程のところに柏原八幡神社が有ります。丹波もみじめぐりのコースからは外れていますが、三寳寺まで来たら行かねばなるまいと、立ち寄りました。
駐車場に車を停めると、いきなり紅葉が迎えてくれました。こちらの紅葉は丁度見頃でした。
一の鳥居に来ました。参道は緩やかな石段になっています。
参道にも、少ないのですが鮮やかな紅葉が生えています。参道から紅葉を観ると、下のお寺を見下ろしていました。
中腹まで来ると社務所があります。この日は、神社で御朱印は頂くようになっていました。
社務所で折り返して神社へと向かいます。
神社に着きました。柏原八幡神社です。
柏原八幡神社は、舒明天皇の時代(629〜641)出雲の連が、入船山に素戔嗚尊(スサノオノミコト)を奉祀したのが始まりとされます。入船山というのは、柏原八幡神社が鎮座する山で正にここが入船山と言う事になります。
その後、1024年後一条天皇の勅意によって京都の石清水八幡宮から分霊を勧請、柏原別宮として創建されました。
祭神は誉田別命、息長足姫命、姫三柱之命で、ご利益としては厄除開運、家内安全、勝負必勝、病気平癒、健康長寿等となっています。
南北朝時代には争乱の兵火で社殿を焼失し、1579年にも例にもれず明智光秀の丹波攻めによってふたたび焼失しました。現在の社殿は1585年羽柴秀吉の命によって再再建されたものです、国の重要文化財となっています。
社殿です。
社殿の横に回ると、朱色の三重塔が飛び込んできました。
この三重塔は、1469年創建されたものです。本殿同様度々焼失しています。現在の三重塔は1815年に再建されたもので、県の重要文化財となっています。
明治時代には神仏分離令により、棄却の危機に瀕しました。以前、インターネットで見た時には例外的に神仏習合を認められて三重塔と鐘楼が残ったという文章があったと記憶しているのですが、いつの間にかどこを調べてもその文面がありません。どうやら、神仏習合を認められた訳では無い様です。しかし、八幡文庫と称することで、存続を認められたそうです。
塔が現存する神社は珍しく全国で18社のみとなっています。
鐘楼です。
この鐘は天正年間、秀吉が大砲を造るためこの地方の鐘を1か所に集めた際特に優れていたため八幡神社に寄贈したものだそうです。鐘には年号が2つ刻まれていますがどういう事なのか?は分かりません。
この鐘も神仏分離令の時に棄却の対象から免れていますが、その経緯は不明です。
境内の紅葉です。
厄除神社です。毎年2月には柏原の厄神さんと呼ばれる三丹一の厄除大祭が行われます。
特に2月17日の深夜に行われる、「青山祭壇の儀」は日本最古の厄除け神事とされています。
厄除神社の隣で御朱印を頂く事が出来ました。どうやら、参拝のタイミングによって境内で頂ける場合と、社務所で頂く場合があるようです。
神社の周りにも摂末社がいろいろあるのですが、紹介しきれませんでした。
2019年12月18日
オッサンのブラリ一人旅(丹波もみじめぐり 本光山三寳寺)
慧日寺、小新屋観音の翌日、訪ねたのは三寳寺。
こちらも、紅葉終わりかけではありますが、残っている紅葉は鮮やかな色です。
参道も、散った紅葉が絨毯の様になっています。
山門にやって来ました。脇の石碑には本光山三寳寺と有ります。
山門の奥に見えるのが本堂です。
残念ながら、本堂の写真が撮れていませんでした。
境内の紅葉です。散っているのが、又、良い味を出しています。
三寳寺は、室町時代臨済宗の傑僧快川和尚の命で鎌倉仏と云われる十一面観世音菩薩が寺として、太宗和尚により建立されたと言う事です。
建立当時は、伽藍宏壮を極めた寺と云われていましたが、三寳寺も他寺と同様,明智光秀の丹波攻めにより焼失しました。その後、直ぐに再建されたのですが、度々災火により焼失しました。ようやく天保年間に再興されました。
本尊の十一面観世音菩薩です。
本堂から、境内を望みます。
散った紅葉がきれいに敷き詰められています。
本尊の裏庭の紅葉です。机に映る紅葉は1週間早ければもっと綺麗だったと思います。御朱印を頂く時に話を聞くと京都や他の観光地の机に映る紅葉を意識されたとの事でした。
三寳寺の御朱印です。
三寳寺の参道の隣には、キャンプ場施設でレストランも併設する悠遊の森があります。そこの入り口にも紅葉や銀杏が色付いていました。
三寳寺も小さなお寺で、短い記事になりました。
この後、柏原八幡神社まで足を延ばします。