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2018年11月01日

人々が巧みに操る言葉の大切さ


取り扱う議題は、人間同士のコミュニティで欠かせないモノ。

「無意識」の中に隠された、人の意志・本心についての見解。

当たり前の中にある本質と理解を、論考して自分なりの解釈を作る。





論点の共有。

言葉から文章が成り立ち、意味が成立される。
その際には伝える側と受け取る側が存在し初めて成り立つ。
故に、その言葉は伝える又は受け取る当人が知る知識でなければ語り得ない。

逆説。知識が無ければ語れない。
即ち知識として保管した情報をもとに製作する文章。
これほど高度でありながら文明人は無意識に絶技を披露する。

疑問。すべての人間が使えるなら共通のルールがある。
そのルールは人に伝達できるだけの信頼性と確証があった。
だとすれば私たちはどの段階で手に入れ、使うようになったのか。だ。




第一の疑問。

言葉には様々な使用方法がある。最も使われるのは伝達だ。
その次くらいに感情を表すために用いたりもする。

伝達に焦点を当てる。
事の際に重要なのは対象とする知識を双方が知っているかどうかだ。
対象に対する情報のストックの相対値が「話が分かる」の基準となるだろう。

しかし愚かなことに知識は虚構を混ぜ、嘘に仕立て上げることもできる。
だがこの「嘘」ですらも、人類の可能性を広げる重要なパーツであったことに間違いはない。
「嘘」は現実にない脅威を相手に伝え、認識させることが出来る技術だ。
つまり、相手の行動を制限したり活性化させたりできるという事だ。

話を戻すが、対話スキルに関しては集団を統治する上でも頻繁に使われていた。
古くから確立されていた知識の中の一つだという事だ。
それなのに私たちは。この対話スキルについて全くの無知である。

幼少のころ耳にした、耳障りの言い文句。
「嘘を吐くな」「暴言を吐くな」「周りの人を見ろ」。
今私が翻訳すれば。

「嘘を吐くな」…虚言で人を驚かし、迷惑を与えてはなりません。
「暴言を吐くな」…無暗に敵対を促すような言葉を使い、迷惑を与えてはなりません。
「周りの人を見ろ」…違う行動で場を乱し、迷惑を与えてはなりません。

つまりは。私たちは環境を破壊せず。環境に従事するように教育された。
結果。知性という牙を無くし、環境を妄信的に崇拝するようになった。

悪い事と言い切ることは難しい。
全ての対象者に可能性を万遍なく与えるには最適な解だからだ。
「同じスタートライン」に建てる環境を整えること。
それは階級制度が始まって以来、困窮な民が抱く唯一の希望だった。

だからそれ自体は尊く、素晴らしく、高貴なものだった。



今は。  違う。

同じスタートラインに立つという事は、階級ではなく能力がすべての時代になった。
能力が劣ると貧乏くじを引き、能力が高いものが「嘘」を巧みに使う時代。
弱肉強食なまでに残酷な格差が広がり、自らの意志で立てない人が増えた。

だから伝達には最上級の智慧を使い、芸術の如く人の心を揺さぶらなきゃいけない。
綺麗事だとしても、そうしなければ落とされて敷かれる運命が見えていたからだ。


第一の疑問の内容は
「情報と知識の偏りによる、格差。なぜ、どうして。」

私の解は。
「同じ知識を共有するための学校と言う製品工場。
 当然すべてが同じ製品はなく、基準値と言われた平均のライン。
 上だと優良。下だと粗悪品。
 粗悪品が見る、優良製品として生まれ変わる願望。
 より粗悪品に磨きがかかり、それは別の商品となる。」

格差という言葉の裏には、必ず対象となる人間がいる。
そこから優良基準が発生し、天秤の傾きで上と下を決定づける。
故に格差や知識の偏りはあるべくして作られたシステムだという事になる。

逆説。格差や知識の偏り無くして、この世界と言うシステムは存在できない。
解釈。格差や偏りは個人レベルではなく集団のレベルで有益な意味を成す事象ではないか?





第二の疑問。

では、格差という意味を含め同族を蹴落としても作りたかったものは何か。
我々は個人でしか動けない為、見落としやすく受け入れがたい。
だからこそ、論考で持ち合わせる知識で答えを導き解釈を得ないといけない。

仮定。人が一人存在し資源が潤沢で生活の不安要素が取り除かれている。
推定。「個人水準での安定、労力と対価が調和されている。」

仮定。人が一人存在し資源が乏しく生活が困窮している。
推定。「このままでは確実に崩壊し、生命として途絶える運命にある。」

圧倒的なまでの格差を決定付けた要因。それは資源である。
では次のパターンを考える。

仮定。5人での集団生活、1人は老人。資源が潤沢で生活の不安要素が取り除かれている。
推定。「4人分の労力で5人分の資源を確保出来れば、安定した生活を営める。」

仮定。5人での集団生活、1人は老人。資源が乏しく生活が困窮している。
推定。「4人分の労力でも、4人分の満足な資源が確保できない。対策を講じなければ途絶える。」

この場合、残酷な話だが老人は既に「動力としての人員」から外れている。
能力の差を格差とした場合、どの様に対処しそれはどのような結果になるのか。



集団に必要なのは、偽善や綺麗事ではなかった。
種としての生命の存続。人間というカテゴリーの歴史。
今の日本では考えられないほどの非道残虐な歴史があった。

種としての生命の存続は、時に人種間での争いでも垣間見えた。
お互いに脅威と認識したことで、分かり合えなくなった関係。
国と言う隔たりは、移動と言う逃避の概念がなかった為に必然的に争った。
お互いが明日を生きるという看板を掲げて衝突し、摩耗しすり減った。


明日を生きる為ならば生活のすべてを犠牲にするという、生物としての本能がある。
この本能こそが、格差というシステムを生み出した土台に他ならないと考えている。


第二の疑問の内容は
「本能が作り出す格差。生存のための代償。それは?」

私の解は。
「人を1人「動力」として増やすには絶大なコストがかかる。
 だが増やすことによって人間種が絶滅の危険から遠ざかっていく。
 
 人間種の存続には優れた生産技術と潤沢な資源が必要だった。
 移動ではなく集落を作ることで農業の生産拠点を確立し、安定した資源の供給を図る。
 しかし飢饉、害虫、災害により多くの犠牲者は存在した。
 
 だが人間種全体の母数では上昇の一方であり、1000人が犠牲になっても10000人が増えるシステム。
 失敗のコストよりも成功のリターンが高く、投資のように増えていったのだ。
 人間種の絶滅への危機回避は確立されたが、当然問題点も沢山出た。

 集落同士の諍いであり、潰しあいである。
 人間種としての本能。生存願望。即ち危機的状況下での略奪の許容である。
 これを平常的に行うしかなかった時代には、正しい倫理観など到底なかった。

 やがて、集団は淘汰され国家となり。国家は新しい問題を抱えていた。
 国家内での集団の小競り合いである。国が亡びる可能性もある為、問題は解決せねばならない。
 しかし、人間の本能であった生存願望や欲望をシステム化することは容易ではない。

 そこからは日本という国が証明する。何が生まれ何が無くなったのか。」

格差と呼んでいた「動力としての数値の違い」は、あるべくしてあるものだった。
それは、集団を運営していくうえで重要な数値になり得たからだ。
故に、格差は優秀な先導を決めるという意味で大きな意味を持っている。

誰にでも図れる物差し、基準。すがる物が無かった時代では、重要な精神安定剤だった。




今は。   違う。

「格差」は評価ではなく差を別ける単語となった。
生存本能ではなく、自己肯定における材料として使うようになった。
だからこそ。その使い方は間違ってると私は思っている。








では最終的なまとめに入る。

今回のタイトルであった「人々が巧みに操る言葉の大切さ」に関してだが。
使えているようで使えていない人が圧倒的に多く私は感じている。

確かに私自身もまだまだではあるが、それにしても酷く誤解している言葉が多いように感じる。
例えば「情報が不十分なのに常識と信じて出来ると思い込んでいる。」等だ。

100知って1000試して1成功した人間だったら、大したものだと本気で思う。

しかし、
1知って1試して成功しなかった人間が、才能がないと落胆するのは違う。

私自身が最も重要だと思うのは。
言葉の本質と理解をしたうえで、文章を描き伝える必要があるという事だ。
































































必要はないかもしれないが。

逆説。本質と理解がなければ、誤解を生み不必要な苦しみを受けるだろう。







posted by Seeker at 18:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 人道

2018年09月06日

【雑記禄】・5

さて、今回の読みにくい記事は「得意分野」についての雑記だ。
得意分野ってのは、人をやる気にさせたり自信を持たせたりする。
何故なら、完璧とまではいかなくても人並み以上に出来る自負があるからだ。

得手、不得手はどこから来るのか考えたことはあるだろうか?
さて私が真理だと思っている「選択肢」と言う言葉を活用しよう。
私は、「得手とは物事に対し、成功へ導く選択肢を知っている」事が起因すると考える。

これは簡単な話。「ある一定の関連ある物事を、数回以上連続で成功できる。」
という後ろ盾があって初めて起こりうる心理だと仮定しているという事だ。
この事は「人道」を歩む中で必要な情報の一つだと思っている。

そして得手とは、信頼を生み出すツールでもある。
人から見て「人並み以上に物事を成功に導ける」なら、任せる事が出来るからだ。
それが需要があり、大きな金額に直結する事なら尚更価値がある。

これが人材価値や即戦力とか言った、聞きなじみのある言葉に変わるだけ。
そして「全てにおいて成功の方程式が組める人間の事を、才能がある」という言い方もする。
すなわち「才能」という敷居の高い言葉は。単純にだが。

「成功を収めるための選択肢を知り尽くして、それを使える人間」だという事だ。
この言葉に変換してしまうと。敷居が高いのではなく自分の勉強不足だという事がしみじみ分かる。
だがら人はより良く成功できるよう勉強したり、考えたりする。

この勉強は別に学校で教わるような、堅苦しい勉強などではないものだ。
例えば、日常生活の中で趣味の事をスマホで調べたりして、知識見聞を深める。
そういった意味合いの勉強である。テストはなく時間も定められてはいない。

まあ最近の風潮で勉強という言葉に嫌悪感を抱く若者が多い。よく気持ちはわかるが。
しかし、それで本もろくに読まず難しいことは考えないでいるなら、時代に流されてしまう。
「成功する方法」よりも「失敗した人間の正当性」ばかり調べてしまうからだ。

それでは来るべきタイミングで私たちは成功できない。
だから、勉強して自分が得手だと思う事を増やしていかなければならない。
今上に立っている人達もいつかは引退してしまうのだから。
posted by Seeker at 22:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 人道

2018年09月05日

【雑記禄】・4

金ってのは本当に面白いシステムだと思う。
「数が多ければ多いほどいい」だとか「何にでも変えられる」という特性は類をみないものだ。
だからこそ、人は切望し欲する。当たり前だけどさ。

システムの根幹を担うという事は、なくてはシステムを享受できない仕組みになっているという事。
だからこそ人は自分の対価を払って、システムを享受する権利を手に入れる。
ここで間違ってはいけないのが、システムを利用するのは人間だという事だ。

人間は贅沢をしようとも、自分がいなければ出来ない。
人のために贅沢をするなんて聞いたこともないから、間違ってもないんだろう。
だから人間の贅沢基準は、満足と優越感が大半を占めている。

逆もまた然り。だが重要なのは満足と優越感の代償だ。
金というシステムの大前提は生活基盤の確保を個人のコストで行わせるものだ。
国内の労働力がこのシステムによって有用となる。

だがしかし、それが一切なく生活基盤だけ手に入るとしたら。
本来のコストである、労働がボランティアになってしまったとしたら。
生活基盤の根底すら考えなくなってしまったら、生活を自立する事が出来なくなる。

だから働くという行為は、人のためでなく自分の為であることを前提とする。
自分に能力がないからと言って、避ける事が出来ないシステムになっているのだ。
今の子供たちは裕福な家庭で育ち、故に気付かず見落としたものも多い。

でも。未来を支えていくのは我々の世代であり。過去の記憶は時代とともに減ってしまうから。
少しでも今、変化させるために動かなくてはならない。
若者に「未来」を見せるのは紛れもなく、希望に満ちた先駆者の背中だけだ。

だからって政治に参加したり、大人に自分の意見を主張しろってわけじゃない。
自分がなりたい事を目標に設定できるまで、考え尽くすこと。
その上で到達するために「思想」という判断基準を作って、成長させ続けること。

自分の「人道」を貫きたかったら人に聞く前に自分で作る。
作り方は誰かの生きざまを参考にして、自分に当てはめて出来る事だけ試していく。
後悔のない世界で生きたいのだったら、是非真剣に悩んでみてほしい。

2018年09月04日

【雑記禄】・3

自分の出来ることは限られている。
芸術分野で自分が生み出す作品はどれも似たり寄ったりだ。
変えようと思って変えられるほど臨機応変さがあるわけでもない。

例えば、歩行中に雨が降ってきたとする。
最善策は間違いなく傘を所持している状態で、傘を広げる事だ。
しかし「傘」というモノを持っていないのなら、それは出来ない。

知識とはモノを持つことであり、選択肢を増やすきっかけとなる。
だが見える選択肢に飲まれ、翻弄される可能性も極めて高い。
選択肢の外側に希望がないかと言われれば、外側にもあるにはあるんだろう。

だが外側というのは、認識範囲外の偶像であって容易に干渉できない。
つまり人生は自分が知っている知識だけで構成されていることが大半だ。
最善の一手とは本当は最善ではなく、思い込んでるだけにすぎないかもしれない。

さて、最も重要なのは選択肢を増やすことではない。
当然。増やすことで視野は広がるが、それだけの話だ。
必要なのは選択肢の先を見極める力と決意であり、真に考えるべき箇所だ。

情報や価値観は時代によって異なる以上、選択肢も同一なものでは流される。
だからこそ、自分の求めた「人道」を歩めるように考え行動していく。
まあ今の時代は分かりにくいから。出来ない人もたくさんいるんだろうけど。

これだけは言えるが、人間の身体機能に優劣が基本ないのなら。
上手く立ち回れる奴も、失敗する奴も皆そこに至るまで「人道」を歩んでるはずだ。
でもこれを教えてくれる人は少ない。知っていて行動する人間自体が少ないからだ。

知る、知らない。は個人の自由だが苦痛に歪んだ顔で生きるのはこの時代もったいない。
前回の言葉のイメージの話はここに直帰する。
万人が「すごい」という事には集団心理が働いてるだけなのか?実際はどうなのか?だ。

人に流されるとはこの様な「思想」ですらも、簡単に自分から切り離してしまう。
そんな情報社会の闇を。乗せられることが当たり前になっている世の中を。
「人道」はそれとは対義になるよう考えた。だからこの言葉を使うのである。
posted by Seeker at 10:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 人道

【雑記禄】・2

さて読んでいる方々は「雨」という言葉にどんなイメージを持つだろうか。
まあ世間でいう「〇〇男」にも入るように陰気臭い感じじゃないかな。
そんな「雨」だが人間の営みに重要な役割を果たしていることを忘れてはいけない。

昨今、「雨」による被害が一般概念として認知された為か。
「雨」と言えば洪水・土砂崩れとか怖いイメージを多く孕むようになった。
でも大まかに括れば自然現象であり、山から水が流れてくるのとセットで教えられるだろう。

自然現象はハイテクノロジーと違って旧来より確かに在った事だ。
どんな生活を営んでいても逃れることはできない災害で、生活の基盤だった。
今量販店に売られている食材も、水がなきゃ育たないものばっかりだろう。
水は本来、恵みであるはずなんだ。

じゃあ何故水が恐ろしいイメージを内包するのか。
簡単だが名詞に形容動詞をくっつけた文章を、額面道理に受け取ったからだ。
(形容動詞はイメージを内包する。そのイメージは個人の記憶に直結するなにかとなる。)

イメージとは数学でいうXであり、代入可能で解が数値によって変わるアレだ。
では、人間の数だけ偏差があるはずのXが予測可能なラインまで統一されているのは何故なのか。
考えればすぐにわかる。同じイメージが定着する拠り所が存在しているからだ。

さて拠り所とは何か答えるまでもないが、それは日本が起こした奇跡ともいえる。
日本国家が完成する明治時代に、日本人とはかくあるべきであると論じた賢人がいた。
教育とは、国家を形成する集団の意識統合を基礎としている。国家なくして日本人はない。

まあ、いい。歴史の教科書は本屋で読んでもらうとしよう。
詰まる話は「日本人には日本と言う環境によって共通概念が深層に存在している。」という点だ。
そこに焦点を当てなければ情報に翻弄される運命がやってくる。

人間が何よりも人らしいと思うのは考えて納得する時だ。
喜怒哀楽なんて言葉に毛が生えたようなもので、実際は深層意識が重要だ。
自分が知らない自分を認め、目を凝らして世界を見ないといけない。
今までの喧嘩の原因がイメージが違った事に起因しているなら尚更考えるに値する対象だ。
posted by Seeker at 03:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 人道
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