2018年06月23日
グランクレスト戦記 22話感想 主要キャラの死について考えさせられるプリシラの最期
22話 聖杯
あらすじ
エーラムへと進軍する皇帝軍の前に、聖印教団の教皇レオーネが率いる集団が立ちはだかる。
力なき信者への攻撃を避けたいテオたちは、前指導者エルネストの娘であるプリシラを交渉に送る。
聖印を示したプリシラは信者の説得に成功しかけるが、レオーネの凶刃を受け命を落とす。
プリシラの聖印は死後も混沌核に戻らず、真の聖杯として証明されたことで戦闘の回避に成功する。
テオはプリシラの聖杯を預かり、混沌の時代を終わらせることをプリシラの亡骸に誓う。
感想
いろいろ忙しくてだいぶ感想が溜まってしまいました。遅れた結果すでに最終話が放映ずみということで原作も最終巻まで購読。その前提で感想を書いてみたいと思います。OPが再び変更されて最終決戦バージョンになっている。カッコいい。
「明朝、信者らを前面に出し攻撃を仕掛けます」「御意」
信者を盾とすることを厭わない絵に描いたような外道、教皇レオーネとギュンター団長。しかしフラッグを編むところの描写はテオ以外では初めてなのでそれなりの難敵感は受ける。
「聖印教団と魔法師協会がつながっているということだろう」
「根拠はあるのですか」
テオが皇帝として上に立ったことでマリーネの口調が敬語に変わっている。
シルーカ・アーヴィン・アイシェラという最強の布陣がプリシラに同行。勝ったな。原作での同行者はなんとアニメ未登場の君主1人のみであり、大きな改変となっている。アイシェラはプリシラに2度命を救われたという関係性を消化できており、このエピソードは原作よりかなり彩られたと言っていいと思う。
「へぇ↑民出身の若造がやっていいことではなぁ↑い!!」
ワカメ頭は三下と相場が決まっている、という僕の偏見を裏付ける本作2例目。ジョセフ司教のCVは益山武明さん。アイドルマスターSideMの紅井朱雀役として勇壮な姿をライブで拝見したばかりなのでお名前を見てびっくりした。朱雀と真逆の小物キャラの演技もお見事である。
信者を説得するプリシラさんの目が怖い。神がかり的な表現なのだろうが笑顔だと邪悪に見える。結局このモードのときに自死を選択したことになるので、通常プリシラの意志がどれほど介在しているのかが気になるところである。
助けようとするアーヴィンを目で制するプリシラ。アーヴィンがプリシラの意を汲んだか気圧されたかでとっさにやめたのか、プリシラが原作にある邪紋使いを退ける力を使ったのか、どちらなのか気になるところである。力が発現したような描写はないので前者のように見えるが……。本来なら原作に回答があるところだが、展開が違うためわからない。
「これが私の……成すべきこと……なのです」
通常プリシラは聖女たる自己犠牲精神で運命を受け入れ、神プリシラは粛々とプログラムを実行したように思えるがそもそも人格が分かれているのかどうかも謎である。上記のセリフから察するに状況は把握しているようだ。映像を見ずに、CV高森奈津美さんの演技だけを聞いてみると、あえて変化させていない(=人格が分かれていない)ようにも聞こえる。プリシラの描写自体が少なかったこともありミステリアスに作用しているように思う。
邪紋がなくてもそのへんのモブには負けないアイシェラ。ただ敵に刺さった武器を引っこ抜くのに手こずっている描写はパワーダウンしているという表現だろうか。
聖女を殺したことに怯えるレオーネ。原作では教祖であるプリシラの父を心から敬愛していた心情が描かれており、テオが到着する前に自死を選択している。アニメでは脇役の性格がある程度単純化される傾向にあるが、レオーネはパンドラの手先として動きつつも信仰心は真に強い人物として描かれている。
「これが彼女の成すべきことだったと言うのか!!」
テオの感情の発露シーンはかなり希少なのだがこういう形では見たくなかった……。
「俺はそう簡単には死なんよ」
臣下モードと親友モードで敬語とタメ口を使い分けるラシックすき。
混沌核に戻らない聖印、という形でプリシラの特別性が証明されたのが設定の活用として興味深い。聖杯を預かるテオの抱きしめるような動作が哀しい。別にキリスト教がある世界ではないだろうが、信者の海が割れていく様は視聴者的には「十戒」等の有名なシーンを思わせる演出となっている。
はたしてプリシラを死なせる意義とは。作中の意義としては信者7万の命を救うために死をもって真の聖杯であることを示す必要があったということだが、メタ的な、物語構造上の必要性としてはどうか。個人的にはメインキャラを死なせるには”相応の意義”と”相応の掘り下げ”が必要だと思っている。考えてみたが、混沌をすべて消す大決断への強い動機を主人公に与える、ということかもしれない。魔法師協会は単純な悪の組織ではなく彼らにも相応の信念と正当性があるわけで、それを上回る(と視聴者が感じられる)動機がテオにも必要になってくる。平和な世界を目指すという普遍的でマクロな動機に加えて、プリシラの死を無駄にしないという個人的でミクロな動機は十分に後押しになると思われる。
一方で掘り下げについてはどうか。原作は初期では一つのテーマにまるまる1巻を費やしている印象だが、プリシラの最期は10巻の1/3くらいで消化されており、急いで死なせた印象がかなり強い。それまでの出番についてもアニメは要所でヒールしたくらいだし原作も参加した戦いがあと2つほどあるくらい。ということで掘り下げに関してはかなり不足していると感じる。
ただ、掘り下げをキャラクターの性格描写とするなら今回こそがそれに相当するのかもしれない。描写しきった末に死を迎えるのではなく、死を迎えることによって描写が完成する、という特殊な性質(=聖女という個性)を持ったキャラだったと考えれば個人的に納得はできる。”初見の印象”と”考えた末の納得”が異なる場合、評価をどう結論付ければいいのか、というのは個人的な悩みではあるのだが。
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タグ:グランクレスト戦記
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