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2018年11月30日

11月30日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1974年11月30日は、アメリカのロック・グループ、Styx(スティクス)の4枚目のアルバムでインディ・レーベル時代における最後のスタジオアルバム、"Man of Miracles(邦題:ミラクルズ)"が、Billboard200アルバムチャートにて最高位154位を記録した日です。
 11月16日のブログにて、Styxのアルバムチャート・アクションにおける最初の順位アップを記録したアルバムとして取り上げましたが、今回は中身もたっぷりご紹介したいと思います。

 当時のメンバーは、John Panozzo(ジョン・パノッツォ。drums)、Chuck Panozzo(チャック・パノッツォ。Bass)、Dennis DeYoung(デニス・デヤング。vo,key)、John [JC] Curulewski(ジョン・クルルウスキー。gtr,vo)、James [JY] Young(ジェームズ・ヤング。gtr,vo)の5人です。前作"The Serpent Is Rising(邦題:サーペント・イズ・ライジング)"でようやくアルバムチャートのランクインを経験した彼らは、これまでの Paragon Recording Studios(シカゴ)に代わって、イリノイ州テイズウェルのGolden Voice Studiosにて"Man of Miracles"のレコーディングを行いました。プロデューサーはカナダ人プロデューサーのJohn Ryan(ジョン・ライアン。1928–2010)で、エンジニアには後のStyxにとって必要不可欠な人物となるGary Loizzo(ゲイリー・ロワイツォ。1945-2016)が迎えられ、Styxと初対面を果たしました。ただし、本作は再発の際にB面1曲目の収録曲が差し替えられており、その1つとしてデビュー曲の"Best Thing(邦題:ベスト・シング)"が収められている場合がありました。この際はプロデューサー名義として、John Ryanに加えて、Styxの産みの親で所属レコード・レーベル、Wooden Nickel(ウッドゥン・ニッケル。活動期間1971-77。RCA傘下)設立者の一人、Bill Traut(ビル・トラウト。1929-2014)の名前もクレジットされました(B-1収録曲の変遷は後述)。
 ジャケット・デザインはLeon Rosenblatt(クレジットはLee Rosenblatt)によるもので、タイトルの名にふさわしく、ミラクル・マンばりの男性が環のかかった星で何かを起こそうとしているイラストです。星が手に乗るぐらいなので、ミラクルの男は星よりも巨大な印象を受けます。

 収録曲は以下の通りです。
A面(アナログ盤)
  1. "Rock & Roll Feeling(邦題:ロックンロール・フィーリング)"・・・ JY, JC作
  2. "Havin' a Ball(邦題:ハビン・ア・ボール)"・・・JC,JY作
  3. "Golden Lark(邦題:ゴールデン・ラーク)"・・・DeYoung作
  4. "A Song for Suzanne(邦題:ア・ソング・フォー・スザンヌ)"・・・DeYoung作
  5. "A Man Like Me(邦題:ア・マン・ライク・ミー)"・・・JY作

B面
  1. "Best Thing(邦題:ベスト・シング)"・・・JY,DeYoung作
  2. "Evil Eyes(邦題:イーブル・アイズ)"・・・DeYoung作
  3. "Southern Woman(邦題:サザーン・ウーマン)"・・・JY, Ray Brandie作
  4. "Christopher, Mr. Christopher(邦題:ミスター・クリストファー)"・・・DeYoung作
  5. "Man of Miracles(邦題:マン・オブ・ミラクルズ)"・・・DeYoung,JY,Brandle作


 さて、問題のB-1収録曲の変遷ですが、上記の収録リストは初回リリース盤のラインナップで、当時のシングル・カットは"Best Thing"でした(B面は"Havin' a Ball")。しかし2回目のリリースではこの"Best Thing"に代わり、アメリカのロック・グループThe Knickerbockersが1966年に20位(Billboard HOT100)を記録したシングルのカバーで、"The Serpent Is Rising"からのシングル・カット、"22 Years(邦題:22イヤーズ)"のB面に収録された"Lies(邦題:ライズ。Buddy Randell, Beau Charles作)"に差し替えられました。その後1979年から1980年にかけてはRCAレーベルから再発されましたが、この時はアルバム・タイトルも"Miracles(邦題:ミラクルズ)"と改められ、ジャケット・デザインも"ミラクルの男"から別のイラストに差し替えられましたが、そのイラストとは女性がプールサイドで腰掛けている絵と、砂漠に立つピラミッドらしき絵と、上空に巨大な飛行物の絵とが合わさったようなものでした。そして"Miracles"B面1曲目は、"The Serpent Is Rising"のもう1つのシングル・カット曲"Young Man(邦題:ヤング・マン)"のB面に収録された"Unfinished Song(邦題:アンフィニッシュト・ソング。DeYoung, Charles Lofrano作)"に差し替えられました。その後1990年によるCD化による再発では"Lies"に再び差し替えられるという複雑な経緯をたどっています。この頃はデビュー・アルバムの"Styx(邦題:StyxT)"はCD化が遅れていたため、これに収められていた"Best Thing"は、CD化された"Best of Styx(邦題:レディ〜スティクス・ベスト。1977)"でしか当時は聴くことができず、"Unfinished Song"にいたっては2005年にリリースされた、StyxのWooden Nickel時代のスタジオ・アルバムの全収録曲を収めた2枚組コンピレーション盤、"The Complete Wooden Nickel Recordings"に収録されるまでは、"幻のCD未収録ナンバー"として重宝されました。また"Unfinished Song"はStyxの2作目、"StyxU(邦題:スティクスU。1973)"の2016年デジタル・リマスターCD再発の際にBonus Trackとしても収録されました(2016年度の邦題:レディ/スティクス・セカンド+1)。

 "Man of Miracles"は前作"The Serpent Is Rising"の暗い部分を吹っ飛ばしたような、どちらかと言えば若い女の子が喜ぶようなキャッチーで元気になるような明るいハード・ロック・ナンバーが多く、プログレ感は前作よりも半減した感があります。"StyxU"や"The Serpent Is Rising"で、とりわけJCがヴォーカルをとるナンバーは、他のDennisやJYと比べると、やや憂いを帯びたなプログレ感があり、Styxのサウンドに耳馴染みのない人が聴くと気怠さが先行したかもしれませんが(私個人的にはJCの歌う作品は味があって大好きなのですが)、本作ではJCはバック・ヴォーカルがほとんどで、メインでヴォーカルをとる作品は収録されておりません。A&M移籍後の次作"Equinox(邦題:分岐点。1975)"では1曲("Mother Dear。邦題:マザー・ディア")でメインヴォーカルが復帰していますが、"StyxU"や"The Serpent Is Rising"で聴かせてくれたシブい、ブルージーな味わいをもった歌声ではなく、キーを上げた、どちらかと言えばバックコーラス時に用いるヴォーカルでした。残念ながらこの"Equinox"を最後にJCはグループを脱退しています。

 A-1、A-2、A-5は前述の女の子が喜ぶキャッチーなハード・ロック・ナンバーで、自然に身体を揺らして踊れるようなノリの良いサウンドです。特にA-5の"A Man Like Me"はサックスが登場していますが、"22 Years"でもサックスを吹いたBill Trautがノンクレジットで参加したのでしょうか?詳細は不明です。この3作品はJYがメイン・ヴォーカルですが、A-1,A-2はJCもJYと共にソングライティングに関わっています。

 A-3とA-4はDennisの作品です。両曲間のブリッジには雷など嵐の効果音が使われ、Gary Loizzoの特徴が出ております。この2曲はDennisの歌声で、ゆったりとしたスローテンポのA-3(ある意味Queenっぽさも感じられる一品です)、そしてプログレがかったドラマティックなA-4の展開が印象的です。A-4の"Suzanne"とは、おそらくはDennisの愛妻Suzanne DeYoung(旧姓Feusi。1970年結婚)のことと思われます。

 B-1の"Lies"は明るくポップな曲調で、Dennisの歌声に乗せて軽やかに進行するダンサブルなロック・ナンバーです。もう一つのB-1、"Unfinished Song"はうって変わってスローなテンポで、メロトロンをバックにDennisがドラマティックに歌い上げるナンバーです。どちらも3分以内の短いナンバーですが、シングルカットされた"Best Thing(こちらは3分13秒)"に匹敵する、シングルカットしてもヒットしそうなナンバーです。"Unfinished Song"はDennisと、Dennisの親友であり、妻Suzanneの姉(妹?) Pamelaの夫Charles Lofrano(1949-2010)がクレジットされております。軍役経験もあったCharlesは、"The Serpent Is Rising"でもタイトル曲および"Winner Take All"でソングライティングにクレジットされておりますが、2010年に61歳で死去したことがDennisの公式サイトで知らされました。

 B-2はしんみりとしたイントロから中間にやや迫力あるロック・サウンドへ展開し、最後にまたしっとりと締める、この時期のDennisの作品でよく聴かれるドラマティックな作品です。Dennisのヴォーカルで、まるで遠くから聞こえて来るようなピアノ音をバックに「イ〜ブルァーイズ」と出だしでタイトル曲を熱唱するパートが印象的です。Wooden Nickelの全作品を収めた前述のコンピレーション盤"The Complete Wooden Nickel Recordings"が出るまでは、Wooden Nickel時代のベスト盤である前述の"Best of Styx"や、1980年にリリースされたベスト盤"Lady"、1999年にリリースされた2作目から本作までの編集盤である"Best of Styx 1973-1974"には収録の機会が得られませんでした。

 B-3は私個人的にもアルバム中で最もお気に入りのハード・ロック・ナンバーで、JYがStyxでリードヴォーカルをとるナンバーの中でも屈指の名曲です。JYのダイナミックな歌声、Dennisらのバック・コーラス、キーボード・ソロとJohnの速攻ドラミングの合わせ技、何処を取っても隙がない名曲中の名曲です。JYのソングライティング仲間で、JYの兄(弟?)のRick Youngと地元シカゴでバンド活動をしていたRay Brandleの名前もクレジットされております。

 B-4はB-2同様、Dennisのヴォーカルによる哀愁漂うドラマティックな作品で、"Crystal Ball(邦題:クリスタル・ボール。1976年)"収録の"This Old Man"を彷彿とさせます。"This Old Man"だけでなく、アルバムの後半にはDennisのこうしたペーソスを帯びたドラマティックな作品が収められ、たとえば"Equinox"収録の"Suite Madame Blue"、"The Grand Illusion(邦題:大いなる幻影。1977年)"収録の"Castle Walls"、"Pieces of Eight(邦題:古代への追想。1978年)"収録のタイトル曲"Pieces of eight"などに踏襲されていきます。

 B-5のタイトル曲は当時のStyx流プログレッシブ・ロックともいうべき作品で、JYのヘビーなヴォーカルにのせて、スリリングな展開を次々と聴かせてくれます。アルバム・ジャケットのミラクルの男をイメージさせるにふさわしいナンバーです。5分に満たないですが、10分前後の大作のようにも感じます。Wooden Nickelのベスト盤においても、"Best of Styx"や"Best of Styx 1973-1974"、"The Complete Wooden Nickel Recordings"ではアルバムの"大トリ"に収録されており、当時のStyxのプログレッシブなサウンドを凝縮したような作品です。

 このアルバムは1974年11月9日付のBillboard200アルバムチャートで180位にエントリー、前作"The Serpent Is Rising"の最高位192位を悠々と塗り替えました。そして11月16日のブログで話したとおり、16日付で初めてのアルバムチャートでのランクアップを経験する170位を記録し、次も162位と上がり、陽の当たった11月30日に最高位154位を記録しました。その後は174位→197位→195位→196位→193位→191位→182位→193位と下位にしがみつくようなチャート・アクションでしたが、前作をはるかに凌ぐ計12週間のチャートインとなりました。

 シングルは前述にも記したとおり"Best Thing"をリカットしましたが、再チャートインもなく反応は鈍かったようで(これが原因で"Lies"に差し替えられたのかは不明です)、本アルバムからは"Lies"や"Unfinished Song"のプロモ盤は存在したものの、シングルカットはなぜかその後は行われず、代わりに"StyxU"収録の"Lady(邦題:憧れのレディ)"を改めてリカットしたところ、1974年12月14日のBillboard HOT100シングルチャートで95位に初登場し、その後はヒット街道をスムーズに通るかのように83位→72位→62位→51位と上位に駆け上がるようなチャートアクションを見せ始めたのです。この頃"Man of Miracles"も前述の通り、"Lady"がエントリーした12月14日は197位まで下がり、圏外に消えそうなところにいましたが、"Lady"がラジオのエアプレイにもかけられてチャートを上がっていくと、これまで下がっていた"Man of Miracles"が少し上昇を見せているのです(195位→196位→193位→191位→182位。前述参照)。明らかに"Lady"が認知されていった効果だと思います。51位にたどり着いた"Lady"は1975年1月18日付で堂々の39位でTop40デビューを果たしました。その後、31位→27位→21位→17位→14位と駆け上がり、3月1日付で10位とTop10入りを果たし、次の3月8日付から2週連続で6位を記録、Styxにとって最初のTop10ヒットとなったのです。その後は12位→23位→42位と降下し、結果17週間チャートインする大ヒットとなり、1975年のYear-Endチャートでも100位中60位を記録したのです。5月17日付HOT100では"StyxU"から再度シングル・カットされた、JYがヴォーカルをとる"You Need Love(邦題:ユー・ニード・ラブ)"が88位にエントリーし、2週間同位につけました。アルバム"StyxU"もこの効果で、193位が"Man of Miracles"の最終アクションとなった1975年1月25日付のアルバムチャートで160位に初登場、リリースから1年半経ってようやくチャートインを果たし、しかもStyxのアルバムチャート最高位でのエントリーとなりました。結局"Lady"の効果でアルバム"StyxU"は1975年3月8日付から2週連続20位を記録し、ゴールド・ディスクを獲得するヒット・アルバムとなりましたが、この成果でStyxは大きな飛躍を遂げていくのです。"Man of Miracles"のシングルではなく、1973年の"StyxU"のシングルを改めて売りに出したことで、本当の"Miracle"が起きたというお話でした。そして、大成功を収めた1975年12月1日、勢いを持続するため、彼らはさらなる前進を遂げていきます。続きはまさに陽の当たる翌12月1日へ。

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posted by ottovonmax at 00:00| 洋楽

2018年11月29日

11月29日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1378年11月29日は、ルクセンブルク家の神聖ローマ帝国(962-1806)の皇帝、カール4世(1316-78)の没年月日です(帝位1346-78)。 

 元来ルクセンブルク家はフランスの貴族だったアルデンヌ家を祖に持ち、同家からでたジークフロイト(ジーゲフロイト。ジークフリート。922?/928?-998)が963年に現ルクセンブルク大公国(1815年ウィーン会議にて成立)の首都であるルクセンブルク市の一帯を支配し、小さな城砦(リュシリンブルフク。lucilinburhuc)を築いた。この"リュシリンブルフク"が"ルクセンブルク"の語源とされております。
 1308年、ルクセンブルク家からドイツ王として選出されたのは、本来ルクセンブルク伯(伯位1288-1310)のみに地位がとどまるはずでした、ハインリヒ7世(王位1308-13)という人物でした。アルブレヒト暗殺によりドイツ王位がめぐってきたハインリヒ7世は、1308年にドイツ王となりました。彼はドイツ王として、当時混乱していたイタリア情勢を沈静させるため遠征を起こしました(1310)。翌1311年には子ヨハン(1296-1346)をベーメン(ボヘミア。現チェコ西部)王の妹と結婚させたことにより、ヨハンはベーメン王ヤンとして即位しました(ベーメン王位1310-46)。ハインリヒ7世は続く1312年に枢機卿より皇帝戴冠を果たして念願の神聖ローマ皇帝となりましたが(帝位1312-13)、南イタリア遠征のさなかに没しました。このためベーメン王ヤンは父の後を継いでルクセンブルク伯ヨハン(伯位1313-46)としても即位しました。ベーメンではヤンに始まるルクセンブルク家の支配が4代続くことになり(ベーメン・ルクセンブルク朝。1310-1437)、勢力を強化していきました。

 ハインリヒ7世の死によって、ドイツ王位および神聖ローマ帝位が空きました。選帝侯たちは自身の権力保持のため、大空位時代(1250年代半ばから1273年の間、ドイツ王が神聖ローマ帝国の帝位につくことがありませんでした)の経験から、君主の強権化を抑えようとする風潮にありました。これは、大空位時代の到来によって生まれた皇帝権の弱体化と、ドイツ王を選出する強力なドイツ諸侯、つまり選帝侯の強権化が背景にあり、弱小の君主を選べば、選帝侯たちは都合よくドイツ国家を動かせた当時の状況によるものでした。大空位時代を終わらせたのは、当時まだ弱小貴族だったハプスブルク家のルドルフ1世(位1273-91)です。今回も選帝侯たちはルドルフ1世を選出した時と同様にルクセンブルク朝の強勢を嫌ったため、結局バイエルンのヴィッテルスバハ家から出たルートヴィヒ4世(ドイツ王位1314-47。皇帝戴冠は1328年)と、その対立王としてハプスブルク家から出たフリードリヒ3世(美王フリードリヒ。ドイツ王位1314-30。戴冠なし。1325年から対立が解消されルートヴィヒ4世と共同統治)が即位しました。ルクセンブルク伯ヨハンは、ハインリヒ7世で始まった、ルクセンブルク家の神聖ローマ帝国による帝位世襲とはならなかったため、自身の子カール(1316-78)に帝位奪還を託しました。そのカールはベーメンの支配下にあったモラヴィア辺境伯(伯位1334-49)を父ヨハンから引き継ぎました。カールが地盤を固めている間、フリードリヒ3世は1330年に没し、高齢にさしかかったルートヴィヒ4世が単独統治者となったことで、ルクセンブルク家としてのドイツ王位奪還の機会が訪れました。

 病気のためヨハンはのちに失明したにもかかわらず(彼は"ヨハン盲目王"の呼称がある)、百年戦争(1339-1453)の一戦場となった北フランスのクレシー(クレシーの戦い。1346)でフランス援護による対英戦に挑みました。しかしヨハンは戦地で陣没(ヨハン戦死。1346)、結果、子カールはルクセンブルク伯も引き継ぐこととなりました(ルクセンブルク伯位1346-53)。そして、ルクセンブルク家はヨハンの遺志を果たすべく、子のカールをルートヴィヒ4世の対立王としてたてたのでした(ドイツ王位1346-78)。この人物こそが、ルクセンブルク家の君主として燦然と輝く、カール4世です。

 翌1347年、ルートヴィッヒ4世が没し、カール4世はついにドイツの単独統治者となりました。ヨハン没後はベーメン王カレル1世としても王位につき(ベーメン王位1346-78)、神聖ローマ帝国の都をベーメンの中心都市であるプラハに遷し、プラハ城を再建してこれを王城としました。またカールは青年期にパリで養育を受け、語学において高い教養を身に付けた経験から、ドイツ語圏において最初の大学であるプラハ大学(現在のカレル大学)の創設を決めた他(1348)、カレル橋の建設(1357年着工)などプラハの有力都市化およびベーメンの発展に尽力しました。こうした功績により、カール4世は"文人皇帝"、"ベーメンの父"と称されました。

 カール4世は1355年に戴冠を受けて、ついに神聖ローマ帝国皇帝カール4世としてその名を轟かせました(帝位1355-78)。この間ルクセンブルク伯もルクセンブルク公へと昇格し、カールの後を受けてルクセンブルク伯となっていたヨハンの子ヴェンツェル1世(伯位1353-55)はルクセンブルク公ヴェンツェル1世となりました(公位1355-83)。
 同1355年、カール4世が召集したニュルンベルク帝国議会、および翌1356年に召集したメッツ帝国議会において、皇帝カール4世はいわゆる"金印勅書(黄金文書)"を発布しました。これは、これまでの悪習であった、選帝侯の強権によって弱小貴族からしか王位を継承できない状態から脱するための手段であり、君主を選定する聖俗の選帝侯を7人定め(7選帝侯)、選挙王制の安定化をはかったのです。7選帝侯とは3名の聖職諸侯と4名の世俗諸侯で定められ、内訳はケルン大司教、マインツ大司教、トリーア大司教、ザクセン選帝侯、プファルツ選帝侯(ファルツ選帝侯。ライン宮中伯)、ブランデンブルク辺境伯(ブランデンブルク選帝侯)、そしてベーメン王の7名です。これにより、選帝侯の格付けや権力が定まり、過去のルートヴィヒ4世と同時に対立王としてフリードリヒ3世が選ばれるような重複選挙といった不正・不合理を防ぐことが可能となりました。 また皇帝選出に関して、ローマ教皇の承認も必要としなくなり、これまでローマ教皇との結びつきを重視するために神聖ローマ皇帝がとってきたイタリア政策を第一とする考え方が弱まることで、カール4世は強い皇帝権によって統一された領邦国家体制によって、強力なローマ帝国を築くことを目指していきました。
 しかし結局は選帝侯を強化したことだけが一人歩きし、皇帝権強化というよりは諸侯の強権化、つまり領邦(帝国を構成する地方諸侯の国家的性質をもつ領域や有力都市)の主権国家的性質をかえって助長することになってしまい、領邦の自立化がはかられて帝国の統一性は妨げられる形となっていくのです。

 カール4世は1378年11月29日に没し、62年の生涯を終えました。ブランデンブルク選帝侯をつとめていた子のヴェンツェル(1361-1419。伯位1373-78)が選出されて、ドイツ王ヴェンツェルとして即位しました(ドイツ王位1376-1400)。
posted by ottovonmax at 00:00| 歴史

2018年11月28日

11月28日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1943年11月28日は、第二次世界大戦(1939-45)中、連合国軍による首脳会談、テヘラン会談が開かれた日です。11月28日から12月1日まで行われました。

 アメリカ、イギリス、ソ連の3国首脳が一堂に会した初めての首脳会談で、代表の顔ぶれは、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト(大統領任1933.3.4-45.4.12)、イギリス首相ウィンストン・チャーチル(首相任1940.5.10-45.7.26,1951.10.26-55.4.5)、そして ソビエト社会主義共和国連邦連邦(ソ連)共産党書記長ヨシフ・スターリン(書記長任1922.4.3-53.3.5)が中心となりました。

 会談の内容はナチス・ドイツに対するヨーロッパ西部方面からの反攻作戦、つまり西部戦線(第二戦線)の形成について話し合われました。
ヨーロッパ大陸にナチス・ドイツに対する第二の戦線(西部戦線)を形成することであり、ドイツに占領されたフランスへの連合軍の上陸(北フランスのノルマンディー上陸に始まるオーバーロード作戦)などが話し合われました。会談の結果、フランス上陸作戦は1944年5月に決行することが三国間で約束されました。また、ドイツ降伏後のソ連の対日参戦も話し合われ、ソ連はこれを約しました。

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posted by ottovonmax at 00:00| 歴史

2018年11月27日

11月27日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1095年11月27日は、フランス中部で開かれたクレルモン公会議において、ローマ教皇が群集に向けて十字軍の結成を呼びかけた日です。

 1054年以降、キリスト教会は、コンスタンティノープル総主教がローマ教皇庁と訣別し、西のローマ・カトリック教会と東の正教会(ギリシア正教会)とに分裂しました。そもそもローマ帝国は330年にコンスタンティノープル(当時の名はビザンティウム)へ遷都し、392年にテオドシウス帝(位379-395)の時代に国教化され、以降カトリック教会はローマ・コンスタンティノープル・アンティオキア・イェルサレム・アレクサンドリアの五本山が有力でした。しかしローマ帝国はテオドシウス帝の死後東西に分裂、さらに西ローマ帝国滅亡(476)に際し、コンスタンティノープルを首都とする東ローマ帝国(ビザンツ帝国。395-1453)では、コンスタンティノープル総主教はビザンツ皇帝を後ろ盾に、ローマ教会の首位性を否定し、コンスタンティノープルでの教会発展を推進していきました。こうして、西のローマ・カトリック教会と東のギリシア正教会は対立の方向を深めて、互いにその首位性を主張し始めるようになりました。布教者増大にむけて聖像崇拝を容認したローマ・カトリック教会に対し、皇帝の中央集権力を強めていたビザンツ帝国では、ギリシア正教会において聖像崇拝を禁止していましたが、これはビザンツ皇帝レオン3世(位717-741)が726年に発布した聖像崇拝禁止令によるもので、東西教会の対立を決定的としたのです。

 西ヨーロッパでは封建社会が成立していき、また修道士の必死の布教によって、ローマ・カトリック教会は国王や諸侯から土地の寄進を受けるなどして徐々に勢力が増大し、教皇・大司教・司教・司祭・修道院長というヒエラルキー(聖職階層)が成立していきました。基本的には政教分離形態で、ビザンツ帝国のように、皇帝が教会を支配下におく政教一致の皇帝教皇主義とは異なりましたが、農奴から十分の一税を負担させるなど財政にも着手する一面も見られました。このようにローマ・カトリック教会は、ローマ教皇を中心に権威を高めていきました。
 しかし、ドイツ皇帝とローマ教皇が聖職叙任権で闘争が起こり、皇帝と教皇が対立、1077年のカノッサの屈辱事件によって、教皇権はキリスト教国の皇帝・国王の権威を凌ぐ形となりました。それ以来ローマ教皇は、引き続き教皇権の絶対的な確立へむけて、東方・ビザンツ帝国におけるギリシア正教会の首長・コンスタンティノープル総主教を抑えて正教会を統合することを目指しました。

 11世紀、ローマ教会の発展に伴って、聖地巡礼がローマイェルサレムサンティアゴ・デ・コンポステラの"三大巡礼地"を中心に、次第に増加の傾向を辿りました。特に十二使徒ヤコブの墓があるとされたサンティアゴ・デ・コンポステラはイベリア半島西北端に位置するガリシア地方の都市ですが、イベリア半島では711年、トレドを都に持つゲルマン国家・西ゴート王国(415-711)がイスラム国家・ウマイヤ朝(661-750)に滅ぼされて以降、イスラム勢力が増大し、後ウマイヤ朝時代(756-1031)でもスペイン南部のコルドバでイスラム文化が栄えました。11世紀半ばになると、北アフリカの原住民ベルベル人(ムーア人。主にハム・ネグロ・セム系の混血)が急激にイスラム化し、マグリブ地方(現モロッコ・アルジェリア・チュニジア)のマラケシュに都を定めたムラービト朝(1056-1147)、ついでムワッヒド朝(1130-1269)を建設し、イベリア半島にも進出してきました。
 しかし負けじと半島北部のキリスト教徒らによる国土回復運動(レコンキスタ)が活発化して、カスティリャ王国(1035-1479)やアラゴン王国(1035-1137)といったキリスト教国も誕生し、イスラム勢力を駆逐していきました。こうした中で行われたサンティアゴ・デ・コンポステラへの巡礼熱は高まりをみせていきました。

 一方、中央アジアに目を向けると、10世紀、遊牧民族トルコ人がイスラム化し、マムルークと呼ばれるトルコ人奴隷兵を親衛隊として組織していました。そしてイラン東部ホラサーンでトゥグリル・ベク(995-1063)がトルコ系セルジューク族を率いて自立、1038年、スンナ派のセルジューク朝をおこした(1038-1194)。トゥグリル・ベクは1055年に穏健シーア派イラン人の軍事政権・ブワイフ朝(932-1062)に迫った。ブワイフ朝は946年のバグダード入城後、それを都に持つカリフ国アッバース朝(750-1258)に迫って"大将軍"(アミール・アル・ウマラー)の称号を受け、イスラム法施行権を掌握しました。トゥグリル・ベクはセルジューク軍を率いてそのブワイフ朝を駆逐(1055)、バグダードに入城して、アッバース朝カリフより称号・スルタン("支配者")を授けられ、初代スルタンとなりました。教権保持者カリフによる神権政治は衰退し、スンナ派国家君主スルタンのイスラム世俗的支配による統治が始まり、セルジューク時代が到来しました。

 第2代スルタンのアルプ・アルスラーン(位1063-72)は、宰相ニザーム・アルムルク(任1063-1092)と共に国家体制を整えました。そして1071年、遂にセルジューク朝とビザンツ帝国が、小アジアのマンジケルト(マラーズギルド)で激戦を交わします(マンジケルトの戦い)。戦力はビザンツ軍には及ばないものの、マムルーク隊の活躍でビザンツ帝国ドゥカス朝(1059-81)皇帝・ロマノス4世(ディオゲネス帝。位1068-71)を捕虜、小アジアのニケーアを都として分国ルーム・セルジューク朝(1077-1308)をおこしました。またエジプトにカイロを建設した過激シーア派(イスマーイール派)のカリフ国ファーティマ朝(909-1171)からシリアとパレスチナを獲得し、同年イェルサレムを領有しました。セルジューク領イェルサレムはファーティマ朝総督治下のもとで管理され、第3代スルタン・マリク・シャー(位1055-92)の時代、セルジューク朝は安定した全盛期を迎えます。

 イェルサレムはユダヤ教の聖地でもあり、イエス・キリスト(B.C.7/B.C.4?-B.C.30?)が同地郊外のゴルゴダで十字架刑に処され、3日後に復活したとされることから、キリスト教の聖地でもありました。それにイスラム教聖地(イェルサレムは、メッカ・メディナに次ぐ第3のイスラム聖地とされる)として加わり、三つの一神教の都として同地では混乱が続きました。キリスト教徒のイェルサレム巡礼熱が高まり行く中、イスラム教徒による巡礼者の迫害は増え続けました。特にファーティマ朝のカリフ・ハーキム(位996-1021)の時代に迫害は激化していました。
 ルーム・セルジューク朝の誕生によって危機をつのらせたビザンツ帝国・コムネノス朝(1081-1185)のアレクシオス1世(位1081-1118)は、1095年、ローマ教皇ウルバヌス2世(位1088-99)へ、イェルサレム巡礼者迫害を織り込んだ内容を含む、セルジューク朝のキリスト教世界への進攻による危機的状況を、書簡にして送りました。

 アレクシオス1世より書簡を受け取ったウルバヌス2世は、聖職叙任権を皇帝と争っているさなか、教皇の権威絶対化が確立できるのと同時に、ビザンツ帝国のギリシア正教会を吸収して東西教会を統一させる絶好の機会とみなし、同1095年、フランス中部のクレルモンにて教会会議を召集しました。これがクレルモン公会議です(1095.11.17-11.27)。ウルバヌス2世は、教会改革案を議題としてあげていき、陽の当たった閉会終了日の1095年11月27日、東方教会や聖地イェルサレムが異教徒により苦しめられており、団結して聖地を奪回することを発表し、さらに、これらはすべて神の指導によるものであり、「神の兵士」として、正義のためにためらわず戦うことを協力すれば、これまでの罪は許され、莫大なご褒美が期待できると告げ、会議参加者は"神、それを欲したまう("Dieu le veult!")"と叫んだといわれます。
 教皇ウルバヌス2世は各国に使節を派遣して、免罪の贖宥特権の付与を約束して、軍を集めました。神の兵士の証拠に、集まった軍人は十字架の印を与えられました。こうして教皇の提唱により、聖地イェルサレム奪回を目的とする大遠征軍が組織され、十字軍(Crusades)が結成されたのです。

引用文献『世界史の目 第48話

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2018年11月26日

11月26日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1971年11月26日は、イギリスのプログレッシブ・ロック・グループ、Yes(イエス)のスタジオ・アルバム第4作"Fragile(邦題:こわれもの)"がリリースされた日です。全盛期のメンバーによる代表的なアルバムとして現在でも愛聴されている名盤の登場です。

 1971年2月リリースの前作"The Yes Album(邦題:サード・アルバム)"発表後、Yesではキーボーディストのメンバーチェンジがあり、1971年7月末にTony Kaye(トニー・ケイ。key)が脱退し、イギリスのフォーク/プログレッシブ・ロック・グループ、Strawbs(ストロウブス)のメンバーだったRick Wakeman(リック・ウェイクマン。key)が加入しました。これによりメンバーはJon Anderson(ジョン・アンダーソン。vo)、Chris Squire(クリス・スクワイア。bass,vo)、Steve Howe(スティーヴ・ハウ。guitar,vo)、Bill Bruford(ビル・ブラッフォードにRickを加えた5人でアルバム制作を行うことになりました。

 この頃は、前作からのシングル、"Your Move(邦題:心の光)"がチャートインしていた時期で、Billboard HOT100シングルチャートでは1971年12月4日付から2週連続40位を記録、Yesにとって記念すべき初Top40入りヒットが記録されました。

 前作同様、Yesと共にプロデュース、およびエンジニアリングをEddie Offord(エディ・オフォード)が担当し、アルバムのカバー・イラストには初めてRoger Dean(ロジャー・ディーン)のデザインが採用されました。

 収録曲は全9曲、うち4曲がグループとしての作品(A-1,A-4,B-2,B-5)で、残り5曲はメンバーのソロ作品です。リストは以下の通りです。
A面(アナログ盤)
  1. "Roundabout(邦題:ラウンドアバウト)"・・・Anderson,Howe
  2. "Cans and Brahms(Extracts from Brahms' 4th Symphony in E minor Third Movement)(邦題:キャンズ・アンド・ブラームス )"・・・Johannes Brahms,arranged by Wakeman
  3. "We Have Heaven(邦題:天国への架け橋)"・・・Anderson
  4. "South Side of the Sky(邦題:南の空)"・・・Anderson, Chris Squire

B面
  1. "Five Per Cent for Nothing(邦題:無益の5%)"・・・Bruford
  2. "Long Distance Runaround(邦題:遙かなる思い出)"・・・Anderson
  3. "The Fish(Schindleria Praematurus)(邦題:ザ・フィッシュ)"・・・Squire
  4. "Mood for a Day(邦題:ムード・フォー・ア・デイ)"・・・Howe
  5. "Heart of the Sunrise(邦題:燃える朝やけ)"・・・Anderson, Squire, Bruford

 
 "Fragile"は、A-1の"Roundabout"で幕を開けます。アコースティック・サウンドからヘビーなロック・サウンドへ劇的に展開する、8分を超える大作で、Jonの強力かつ透明感ある歌声が非常に印象的なナンバーです。3分少々の編集ヴァージョンでこのアルバムからのシングルとして選ばれ、1971年4月15日付Billboard HOT100シングルチャートで2週連続13位と、初のTop20入りを果たしました。カナダのRPMシングルチャートでは9位、全米でも Cash BoxのシングルチャートTop 100でも10位とTop10入りを果たしました。また日本では近年アニメの主題歌にも適用されました。Jonのヴォーカルだけでなく、Chris Squireの強力なベースのリフや、Steve Howeのアコースティック・ギター・ソロ・パート、その2度目のアコースティック・ソロのバックに遠くから聞こえてくるRick Wakemanの早弾きシンセ・ソロなど、メンバーの"静"と"動"といった変幻自在で卓越した奏法は聴き所が随所にあり、8分という時間も忘れさせてくれます。

 A-2はJohannes Brahms(ヨハネス・ブラームス。1833-97)の"交響曲第4番ホ短調作品98"からの抜粋で、Rickのアレンジによるソロ作品です。Rickはこの作品で扱う楽器を、すべてピアノやオルガン、ミニムーグなどで使い分けて演奏するという非常に奥の深い一品になっており、これを12回のテイクで完成させたと言われています。

 A-3はJon Andersonのソロ作品で、聴くことができるヴォーカル・パートのすべてはJonが担当しています。Paul McCartneyやSteve Winwoodの声を真似たりしているようで、改めてJonの声域の広さを思い知らされます。

 吹き荒れる風の効果音とBill Brufordの迫力ある連打でスタートするA-4は8分の大作です。ヘビーでスリリングな楽曲ですが、音の迫力とは対照的にJonの透明感ある歌声も素晴らしく、"all of eternity"の最後の語尾を伸ばす歌い方も印象的です。また中間部のRickの重厚なピアノ・ソロも聴かせ所です。

 B面1曲目はBill Brufordのソロ作品で、30秒少々の32小節の中にジャズの雰囲気もしっかり醸し出す一方で、複雑な短音の展開を鏤めたテクニカルな作品です。

 シングル、"Roundabout"のB面にも収められたB-2は、ライナー・ノーツによれば、"Corporal Salt(ソールト伍長)"のタイトル案もあったとされますが、The Beatles(ビートルズ)の"Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band"の"Sgt. Pepper(ペパー軍曹)"の捩りと誤解されることから、改題したというエピソードがあります。この曲のエンディングにSteveのギター・ソロが入り、流れるようにB-3に入ります。

 B-3はChris Squireのソロ作品で、ミステリアスな雰囲気にChrisの独特の響きあるベース・リフが繰り返され、後半にはヴォーカル(おそらく副題の"Schindleria Praematurus"の語を発していると思われます)も入ります。タイトルの"Fish"はChrisのニック・ネームとして有名ですが、副題はその魚の名前"シラスウオ"を指します。"シラスウオ"はハゼの種類らしいとのこと。

 B-4はSteveのソロ作品で、前作に続いてアコースティックギターのソロ・ナンバーです。前作の "Clap"と同様、スパニッシュな雰囲気を持つ、落ち着いたナンバーです。

 最後を飾るB-5は、のちのYesのライブには必要不可欠なナンバーで、Yesサウンドの醍醐味を味わうことのできる11分の大作です。本作5人のラインナップで初めてプレイした作品がこのナンバーです。ベース、ドラム、ギターのヘビーなイントロで始まり、合間に入るRickのキーボードとの絶妙な掛け合いは見事で、その後RickのメロトロンをバックにChrisのベース・ソロに入りますが、その間にSteveの遠くからスーッとフェイド・インして入るエレキ・ギターの登場が非常に圧巻です。緊張感に包まれた3分半の長いインストの後、Jonの" Love comes to you and you follow"の囁くような歌声が入ると、より宇宙的な広がりが促され、"Sharp"、"Distance"のかけ声が強くなるにつれて音の展開もドラマティックに進んでいきます。7分後のスリリングに展開するインスト・パートは神業ともいうべきプレイで楽しませてくれます。B-5が終わった後に、なぜか隠しトラック風にA-3がリプライズで流れるのも非常に興味深いです。

 "Fragile"は本国イギリスではUKアルバムチャート7位、カナダのアルバムチャートでは6位、アメリカのBillboard200アルバムチャートに至っては1972年2月26日付から4週連続で4位と躍進し、アメリカではダブル・プラチナに輝いて、Yesを代表するアルバムとなりました。2003年と2015年には収録曲の別テイクや未発表曲などを加えた、"Fragile"の再発売が施されております。

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2018年11月25日

11月25日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1978年11月25日は、アメリカ出身の女性歌手、Nicolette Larson(ニコレット・ラーソン)のデビュー・シングル、"Lotta Love(邦題:溢れる愛)"がBillboard HOT100シングルチャートで86位にエントリーした日です。終わりゆく70年代にて、ウエストコースト・ロックおよびカントリー・ロックにおける不朽の名作が誕生しました。

 1952年7月17日、Nicolette Larsonはモンタナ州の州都ヘレナで誕生しました。10代後半よりサンフランシスコの音楽業界で活動を始めていたNicolette Larsonは、その澄み切った歌声が早くから評価されてカントリー界等でセッション・ヴォーカリスト等で経験を積みました。1975年頃にロサンゼルスへ拠点を構えると、彼女はEmmylou Harris(エミルー・ハリス)やLinda Ronstadt(リンダ・ロンシュタット)ら既に全米での人気を獲得したカントリー界、ロック・ポップス界からの女性歌手に激励され、多くの著名なアーチストのバック・シンガーとしてレコーディングに参加しました。知られるところでは、Emmylou Harrisの1976年のアルバム、"Luxury Liner(Billboard Top Country Albums1位)"収録の"Hello Stranger"でのデュエットや、カナダのシンガーソングライター、Neil Young(ニール・ヤング)がCrazy Horse(クレイジー・ホース)と組んでリリースした1977年のアルバム"American Stars 'n Bars(Billboard200アルバムチャート21位)"でのゲスト・ヴォーカルがあり、"American Stars 'n Bars"では同じくゲスト参加したLinda Ronstadtと一緒に全9曲中、5曲参加しています。また1978年にはウェストコースト・ロック・グループの代表格、Doobie Brothers(ドゥービー・ブラザーズ)の、のちの大ヒットアルバムとなる"Minute by Minute(全米1位。1978年12月リリース)"収録の"Dependin' on You"および "Sweet Feelin'"のバック・ヴォーカルを担当し、プロデューサーのTed Templeman(テッド・テンプルマン)に高い評価を得ました。

 Neil Youngとの出会いは運命的なものとなり、Nicolette LarsonはNeilの次作"Comes a Time(邦題:カムズ・ア・タイム)"のレコーディングにも参加することになります。"Comes a Time"でNicolette Larsonは10曲中8曲バック・ヴォーカルで参加していますが、不参加の2曲のうち1曲が"Lotta Love"で、Nicoletteがこの曲を気に入り、Linda Ronstadtの後押しやNeilの提供も手伝い、Nicolette自身のデビュー曲として歌うことが決まりました。そしてTed Templemanのプロデュースのもと、"Lotta Love"を含むデビュー・アルバム"Nicolette(邦題:愛しのニコレット)"の制作が始まりました。

 Nicolette LarsonのデビューアルバムにはRinda Ronstadtもバック・ヴォーカルで参加し、Ted TemplemanがプロデュースしているアーチストからDoobie BrothersやLittle Feat(リトル・フィート)のメンバーが参加した他、デビューして間もないEdward Van Halen(エディ・ヴァン・ヘイレン)もギターで参加しました。多くのサポート・ミュージシャンが集まった"Nicolette"はついに完成し、1978年9月29日にWarner Bros.レーベルよりリリースされました。ウェストコースト漂うロック・サウンドを筆頭に、R&BやAOR、カントリーを取り込んだ、実に馴染みやすい音作りで、その中にNicolette Larsonの爽やかな歌声がしっかりと溶け込んでおり、アルバム全編を通してゆったりと楽しく聴くことができます。カバー・デザインの長い髪を垂らして可愛くポーズをとるNicolette Larsonの愛らしい表情が素敵です。

 このアルバムから先行シングルとして選ばれた"Lotta Love(邦題:溢れる愛)"も非常に爽やかで聴き心地良いポップ・ナンバーで、イントロのサックス、間奏のフルートが印象的です。プロモーション・フィルムも残っており、Nicolette Larsonのパフォーマンスが確認できます(映像はこちらYoutubeより)。

 陽の当たった1978年11月25日、Billboard HOT100シングルチャートで86位にエントリーした"Lotta Love"は翌週に76位にジャンプアップ、その後51位→41位と駆け上がり、エントリーして5週目に27位に飛び込み、Top40入りを果たしました。ただこの日は12月23日付ということもあり、翌週12月30日付はチャートが休業日のため、チャートは同じく27位でとどまりますが、1979年1月6日付で17位に大幅にアップし、Top20入りを果たしました。
 この頃のHOT100ではRod Stewart(ロッド・スチュワート)の"Da Ya Think I'm Sexy?(邦題:アイム・セクシー)"、The Pointer Sisters(ポインター・シスターズ)の"Fire(邦題:ファイア)"、Earth, Wind & Fire(アース、ウィンド&ファイア)の"September(セプテンバー)"、Olivia Newton-John(オリヴィア・ニュートン・ジョン)の"A Little More Love(邦題:愛は魔術師<マジシャン>)"といった強豪が揃いも揃ってチャートを駆け上がっており、これらに押されたのか、"Lotta Love"のチャートアクションは翌週付は16位、その後15位→13位→11位と上昇はやや緩みますが、次の2月10日付で10位とTop10入りに成功、2月17日付から2週連続で8位を記録、これが最高位となりました。その後は9位→12位→24位→37位と下降、そして次週付94位まで下がった3月31日付には、次のシングル、"Rhumba Girl(邦題:ルンバ・ガール)"が84位にエントリーしました(最高位は5月12日付から2週連続47位)。結局"Lotta Love"はHOT100内に19週、Top40内に14週のチャートインで、1979年のYear-Endチャートでは100位中41位にランクされました。カナダのシングルチャート(RPMチャート)ではNeil Youngの効果があったのか4位と健闘、カナダのYear-Endチャートでは46位にランクされました。

 Adult Contemporary部門での"Lotta Love"はまさに威力を発揮して、Billboard Adult Contemporary(当時は Easy Listening Chart)で堂々の全米1位、カナダのAdult Contemporaryチャートでも1位を獲得しています。1978年から79年にかけてはNicolette Larsonのキャリアで全盛期となり、Nicolette Larsonが参加した、Neil Youngの"Comes a Time"は"Nicolette"からちょうど1ヶ月遅れてリリースされ、Billboard200アルバムチャートで30週間チャートインし、1978年12月16日付から2週間7位を記録しています(カナダでは4位)。また1979年後半にはNicoletteがゲスト参加した、Doobie Brothersの"Minute by Minute"からのシングル、"Dependin' on You"が1979年10月13日付HOT100で25位を記録しています。またNicolette Larson自身2枚目のアルバム、"In the Nick of Time(邦題:愛の季節)"では全米47位(1979年12月8日付Billboard200)を記録、21週間チャートインしています。

 その後もコンスタントにアルバムを発表し続けて、1990年にはセッション・ドラマーのRuss Kunkel(ラス・カンケル)と結婚、同年に一女を授かり、1994年には母親として愛娘に捧げる子守歌的なアルバム"Sleep, Baby, Sleep(邦題:スリープ・ベイビー・スリープ)"を発表し、音楽だけでなく家庭でも大きな幸福を得たNicolette Larsonでしたが、1997年12月16日ロサンゼルスにて、脳浮腫のため、惜しまれながら45歳でこの世を去り、全米で悲しみが広がりました。翌1998年にRinda RonstadtやLittle Featらによる追悼コンサートが開かれました。

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2018年11月24日

11月24日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1963年11月24日は、ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ大統領(1917-63。任1961.1.20-1963.11.22)暗殺事件の実行犯とされたリー・ハーヴェイ・オズワルド(1936-63)が、逮捕直後に暗殺された日です。

 暗殺犯とされたオズワルドは、先月末に大統領の自動車パレード(直後に暗殺)が行われたディーレイ・プラザ沿いにある教科書倉庫ビル内での従業員として採用され、大統領狙撃前後に複数からあらゆる場所で目撃されていた人物でした。逮捕時は大統領狙撃後に起こった警官射殺事件の容疑者としてでした。オズワルド容疑者は職務質問を行おうとした警官に発砲したとされ、近くの劇場で逮捕されました。そして、当夜にはケネディ大統領暗殺事件の実行犯として再逮捕されました。彼の素性や犯行動機、組織の陰謀かあるいは単独犯行か、そもそも彼による犯行かどうか、尋問は山のようにありました。これから時間をかけてオズワルドを徹底的に問い詰める予定でしたが、予期せぬ出来事が起こりました。暗殺事件の2日後にあたる1963年11月24日、ダラス市警本部留置所から拘置所へ移送する際の、報道関係者が数多く集まっていた市警本部の地下通路で、オズワルドは人混みから出てきた1人の男性によって射殺されたのです。

 この地下通路内での一部始終は全米で生中継されたので、さらなる衝撃が走りました。オズワルドを射殺した人物はジャック・レオン・ルビー(1911-1967)で、ダラスでナイトクラブを営んでいた人物でした。オズワルドを殺した動機として、最愛の夫(→ケネディ大統領)を失ったジャクリーン未亡人(ジャクリーン=ブーヴィエ。1929-1994)と子ども達のためとルビーは供述しているものの、マフィアやキューバ要人との関係も取りざたされた人物でもあったため、信憑性は薄いものでした。事件の真相は推論ばかり浮かび上がり、オズワルドとルビーとの関係もわからないまま、ルビーも4年後に獄中で病死しました。これにより、ケネディ大統領暗殺事件の真相は現在においてもなお掴められてはいません。

引用文献『世界史の目 第127話』より

有名未解決事件と真犯人像




ケネディ大統領を殺した男


タグ:アメリカ
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2018年11月23日

11月23日は何に陽(ひ)が当たったか?

 11月23日は宮中祭祀の一つ、新嘗祭(にいなめさい)が行われる日です。

 作物を無事に収穫できることを感謝し、今後の豊穣を祈ります。天皇は新穀をあらゆる神々にすすめるとともに、みずからも食して収穫の恩恵を感謝します。天皇が即位の礼の後に行われる新嘗祭を大嘗祭(だいじょうさい)と言います。

 新嘗祭が行われる11月23日は、「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」(1873-1912)、「休日ニ関スル件」(1912-48)により祝祭日とされました。これに代わり、1948年に「国民の祝日に関する法律」で改められてからは11月23日を、"勤労をたつとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう"ことを内容とする「勤労感謝の日」とし、国民の休日となっています。祝日が流動的になりつつある現代で、最も長く続いている固定された休日でもあります。

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タグ:日本史
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2018年11月22日

11月22日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1963年11月22日は、アメリカの大統領、ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ(1917-63。任1961.1.20-1963.11.22)の没年月日です。パレード中の暗殺事件として世界に衝撃が走りました。

 ケネディは、1964年からの2期目の大統領選挙再選に向けて活動を始める際、民主党の力が弱かったテキサス州での得票を目的とし、1963年夏、リンドン・ジョンソン副大統領(副大統領任1961-63。次期大統領。任1963-69)たちからの提案より、テキサスのダラス遊説を計画し、11月22日に実施することを決定しました。自動車パレード後、ダラス郊外にあるダラストレードセンター(商品館)で演説を行う予定でした。

 就任して1037日目となる22日の正午前、晴天のダラス、ラブフィールド空港に降り立ったケネディ大統領一行は、各自数台の自動車に乗り込みました。ケネディが乗った自動車はリンカーン・コンチネンタルのオープン・カーで、同乗者は、当時"史上最年少のファースト・レディ"であったジャクリーン・ケネディ夫人(ジャクリーン・ブーヴィエ。1929-1994)、テキサス州知事ジョン・コナリー(1917-1993。知事任1963-69)とその夫人、あと、ドライバー含む2人の護衛(シークレットサービス)で計6人でした。自動車パレードコース周辺にはケネディ一行を一目見ようと、大勢の民衆が詰めかけていましたが、一方でケネディを批判する団体がプラカードを掲げたり、黒枠広告が当日朝刊に掲載されたりなど、歓迎を拒む者もいました。

 自動車でのパレードが始まりました。パレードはダラス市の都市公園であるディーレイ・プラザまで進みました。ディーレイ・プラザでのパレード・コースは、メイン通りからヒューストン通りへ右折、テキサス教科書倉庫ビル(現・6thフロア博物館)のところでエルム通りに左折し、そのまま突き進む形をとりました(図はこちらを参照。Wikipediaより)。詰めかけたダラス市民に笑顔で手を振るケネディ夫妻でしたが、オープン・カーが教科書倉庫ビルを通過してエルム通りを通過していた午後12時30分、爆竹のような乾いた音が3発響きました。それは銃声でした。
 この銃弾はケネディ大統領に命中し、またコナリー知事も被弾しました。パレードは中断となりそのまま病院へ直行しました。しかし午後1時、ケネディ大統領はその被弾がもとで死亡しました。

 メディアのほとんどは到着予定地であったダラストレードセンターに集まっていたため、大統領狙撃の決定的瞬間は中継されませんでした。しかし、同地近くで婦人服製造業を営んでいた民主党及びケネディ大統領支持者のエイブラハム・ザプルーダー氏(1905-1970)が、パレードを見物するためディーレイ・プラザに入り、たまたま持ち込んでいたサイレント動画撮影用カメラで大統領を撮していました。これは"ザプルーダー・フィルム"として一躍有名になり、また事件解明の手がかりとなる重要資料となりました。

 ケネディ大統領の死亡は事件が起こって1時間後に公表され、その直後リンドン・ジョンソン副大統領が大統領に緊急就任を宣言しました(任1963-69)。数々の功績を打ち立てた若き大統領の暗殺という衝撃は、全米、全世界に瞬く間に伝わりました。
 ジョンソン大統領は調査のため、公式調査委員会であるウォーレン委員会を設立しました。調査結果によると、エルム通り通過中発砲、銃弾は3発の内2発直撃、まずケネディ大統領ののどを貫通しコナリー知事に当たりました。もう1発は大統領の頭部でした。ケネディ大統領は頭部への被弾が致命傷となりました(享年46歳。ケネディ死去)。またコナリー知事も重傷を負いました。発砲は車列後方の教科書倉庫ビルからのものであるとされました(ライフルの薬莢が発見されています。しかし大統領は被弾した際、頭部が後方に動いた記録が残っており、前方からの射撃の可能性も残されました)。これは大統領を狙っての発砲であり、暗殺目的とした犯行とされたのです(1963.11.22。ケネディ大統領暗殺事件)。

 11月25日、ジョン・F・ケネディの葬儀が行われました。亡骸は国立アーリントン墓地に埋葬され、海軍賛歌、"Eternal Father,strong to save"が演奏されました。

引用文献『世界史の目 第127話』より

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タグ:アメリカ
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2018年11月21日

11月21日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1806年11月21日は、フランスによる経済政策、大陸封鎖令がベルリンで発せられた日です。ベルリン勅令ともいいます。

 ナポレオン1世(帝位1804-14,15)によるフランス第一帝政(1804.2-14,15)の時代、フランスによるヨーロッパの大陸市場独占を計画し、幾度と対仏大同盟を発してフランス包囲網を行ってきたイギリスを経済的に封じ込めようと考えました。イギリスはヨーロッパ大陸諸国との通商を全面的に禁止させ、大陸諸国に対してはフランスとの通商を優先させました。

 しかし大陸封鎖令に思わぬ落とし穴がありました。封鎖が発令されるまでは、ロシア・プロイセン・オーストリアは、産業革命で生産が活発となったイギリスから工業製品を輸入し、イギリスには穀物を輸出していました。フランスはヨーロッパ一の農業国であり、ロシア・プロイセン・オーストリアから穀物の輸入を受ける必要がなく、またイギリスよりフランスの方が工業製品が高いため、国民経済に圧迫が生まれたのです。ヨーロッパ諸国はナポレオンに不満・反感を持ち始め、遂に民族意識が目覚める結果となり、スペインでは反乱、プロイセンでは新たな反ナポレオン改革がおこり、ロシアも大陸封鎖令に反して対英通商を再開(ロシア遠征の発端)、ナポレオン政策がついに翳りを見せ始めたのでした。

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