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2018年11月20日

11月20日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1910年11月20日は、メキシコ革命が勃発した日です。1867年のメキシコからご紹介致します。

 1867年のメキシコ。フランス第二帝政(1852-70)・ナポレオン3世(位1852-70)の敢行したメキシコ傀儡帝政(メキシコ第二帝政。1864-67)に対して抵抗を続け、ついに帝政を倒してフランスを撤退させ、メキシコ大統領に再任したベニート・ファレス(1806-72。大統領任1861-63,67-72)は自由主義改革者で、メキシコ近代化を目指してさまざまな民主改革を進めていきましたが、1872年に惜しまれつつ病没し、セバスチャン・レルド・デ・テハダ大統領(任1872-76)の政権となりました。

 ファレス政権時代、フランスの干渉や革命運動に参加し活躍した、ポルフィリオ・ディアス(1830-1915)という元軍人がおりました。彼は打倒ファレスを掲げ、1867年のメキシコ大統領選挙戦でファレスと争うも敗北、二度目(1871.6)の選挙戦にも再出馬しましたがこれも敗北しました。結果的にはこの直後に武装蜂起という手段に出ましたがこれも失敗、逮捕され収監されました。ファレスは1872年に没し、政権がテハダに移ると、ディアスは特赦で釈放者となり、1876年の大統領選挙で三度目の出馬を試みました。しかし結果はテハダの再選となりました。ディアスは前回同様に武装蜂起に出てテハダ政権を打倒、テハダはアメリカへ亡命しました(1876)。

 1876年11月、ディアスは自ら大統領選挙のやり直しを実施して、自ら再出馬して勝利を収め、自身初の大統領のイスを勝ち取ることに成功しました(ディアス大統領就任。任1876-80,1884-1911)。途中、軍人マヌエル・ゴンザレス(1833-93)に大統領の座を明け渡した時期もありましたが(任1880-84)、結果的には1911年までの長期にわたる強権統治を現出しました。これは、憲法改正によって大統領任期の延長を可能にした結果でした。この点ではファレスの民主化とはかけ離れた、強力な専制政治でした。

 ディアス大統領はメキシコ近代化に取り組むため、まず数十人の有識者の力を借りました。彼らは行政を科学でもって成功に導くことをディアスに助言、ロス・シエンティフィコス(Los Científicos。スペイン語で"科学者たち"の意味)と呼ばれました。彼らの助言による計画をもとに、鉱山開発、 鉄道網拡大、そして蒸気機関の導入などが行われ、産業発展が促されました。またディアスは積極的にアメリカなどの外資も導入して殖産興業につとめ、農産品関連の通商自由化に取り組んで市場の活性をはかり、社会と財政の安定に努めました。このディアスの資本主義政策で労働供給は増加、首都メキシコ・シティの経済は活性化しました。しかしながら、こうした産業発展と経済活性化を招く反面、貧富の格差がいっきに拡大、ディアス政権批判の火種の1つとなっていきました。

 ディアスは土地政策にも着手しました。メキシコは17世紀以降、これまでのエンコミエンダ制(スペイン国王がアメリカ大陸支配を行っていた時代、征服地の先住民をキリスト教に改宗させることを条件に、国王が大陸植民者に、征服地の統治を委託する制度。先住民は賦役労働を課される)に代わって、大土地農園制度のアシエンダ制が主流となっていきました。これは、大土地所有者がメキシコ先住民やメスティーソ(白人と先住民の混血)出身の農業労働者に労働力を依存して経営を行う大農園制度でした。ゆえに、メキシコの農村地帯はアシエンダ制度によって長く守られていたのです。近代化の妨げになるかと思われた旧来のアシエンダ制に対し、ディアスは理解を深め、地主勢力に支持基盤を依存していきました。このため、農業労働者は弾圧され、大地主によって土地を収奪される始末でした。そもそもメキシコ農民は農村共有地に依存するため、農民の土地所有権が明確ではなく、登記も曖昧でしたので、土地収奪における格好のターゲットとなったのです。
 ディアスはこれらの土地を次々と接収して大地主や海外の資本家に売却したため、これらの下で従事する農業労働者のほとんどが土地を失い、低賃金労働者として、過酷な労働を余儀なくされていきました。土地奪還を目指してディアス政権に楯突く貧農たちはたびたび蜂起して反乱を起こすも、政府や地主、海外資本家が差し向けた軍や憲兵によって激しく弾圧されたため、屈服せざるを得ませんでした。ディアス政権への不満は徐々に拡大化していきました。

 1905年、メキシコの無政府主義者リカルド・フロレス・マゴン(1874-1922)がディアス政権打倒を目標に、左翼政党であるメキシコ自由党を結党しました。自由党は農民の労働条件に関する綱領を発表して、労働問題の改善を指摘し、数度蜂起しました(結果は失敗)。こうした中、アメリカで金融恐慌がおこり(1907.10)、その余波でメキシコ経済も停滞し始めました。大土地所有者は土地を手放したり、農園を閉鎖する状況に見舞われ、多くの農業労働者が失職していきました。またメキシコ・シティ南方のモレロスでは、小作農出身で、メスティーソのエミリアーノ・サパタ(1879-1919)が農民を率いて反政府運動を展開し始めました。

 そして、次の大統領選挙が近づいてくると、任期延長を可能にしたディアスは経済停滞、大地主の経営不振、労働争議、農民反乱などが渦巻く中で立候補しました。ディアスの再選を阻むべく、メキシコ北部のコアウイラ州から出たディアス再選反対運動の筆頭、フランシスコ・マデロ(1873-1913)が立候補しました。彼はディアス政権打倒を掲げて農民や貧困層を支持基盤に遊説をおこない、これに呼応した支持者は反政府運動を増幅させていきました。このためマデロはディアスの行政に楯突くものとして逮捕され(1910.6)、ディアスはマデロが収監中に選挙を実施、反対者を抑えたディアス側が勝利を収め、大統領に再選しました(1910.9)。ディアスは直後にマデロを特赦で釈放し、マデロはアメリカのテキサスへ亡命しました。亡命先でもディアス再選の無効を主張したマデロは10月、"サン・ルイス・ポトシ綱領"を発表してディアスを革命的な武装蜂起で倒すことを支持者に呼びかけました。するとメキシコではサパタをはじめ、革命家パスクアル・オロスコ(1882-1915)、政治家ベヌスティアーノ・カランサ(1859-1920)、また貧農の出で、チワワ州のマデロ派政治家アブラーム・ゴンザレース(1864-1913)に学んだパンチョ・ビリャ(1878-1923)、北西部ソノラ州出身のアルバロ・オブレゴン(1880-1928)らマデロ支持者たちが地方各地で蜂起し、反乱をおこしました。これが1910年11月20日、革命勃発の瞬間です(メキシコ革命勃発)。ディアス大統領は革命軍に屈服し、ついに大統領を辞任(ディアス大統領辞任。1911.5)、パリに亡命しました。その後ディアスは同地で没し(ディアス死去。1915.7)、モンパルナス墓地に埋葬されました。

 ディアス辞任にともない、マデロが大統領に就任することになりました(任1911.11-1913.2。マデロ大統領就任)。カランサが国防大臣に就任し、軍司令官にディアス政権時代から引き続いてビクトリアーノ・ウエルタ(1850-1916)を起用、ゴンザレースはチワワ知事、オブレゴンはソノラ州のワタバンボ市長にそれぞれ就任しました。マデロ政権の新体制が始まりました。

引用文献『世界史の目 第229話』より

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タグ:メキシコ
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2018年11月19日

11月19日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1863年11月19日は、南北戦争(1861-65)中のアメリカ、ペンシルベニア州ゲティスバーグにおいて、第16代大統領エイブラハム・リンカーン(大統領任1861-65)が有名な演説を行った日です。

 1863年7月1日から3日間、ペンシルヴァニア州のゲティスバーグ近郊での戦闘で、南北戦争は山場を迎えます(ゲティスバーグの戦い)。ゲティスバーグでの3日間の戦闘は、開戦以来の最大の激戦と化しました。ロバート・リー将軍(1807-70)率いる南軍はゲティスバーグ侵攻後に合衆国首都のワシントンを攻め入る計画をたてていました。補給が尽きて肉弾戦を展開する南部軍に対して、兵量豊富な北軍は容赦ない砲撃で次々と南軍の兵士を倒し、両軍合わせて5万人以上の戦死者を出しました。遂に南軍はゲティスバーグから撤退、ワシントン侵攻も断念する方向をみせました。

 リンカーン大統領は、陽の当たった1863年11月19日、ゲティスバーグの国立墓地となった戦場で戦没者慰霊集会に出席、民主主義の本質を示すための、たった2分間の短い演説を行いました。これが「....人民の、人民による、人民のための政治を地上から消滅させてはならない....(抜粋)」で知られる、ゲティスバーグ演説として歴史的に有名な演説となったのです。全容とみられる演説内容(原文)はこちらです(Wikisourceより)。

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タグ:アメリカ
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2018年11月18日

11月18日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1978年11月18日は、アメリカのロック・グループ、Styx(スティクス)のシングル、"Blue Collar Man (Long Nights)(邦題:ブルー・カラー・マン)"が、Billboard HOT100シングルチャートで最高位21位を獲得した日です。

 8枚目のスタジオ・アルバム、、"Pieces of Eight(邦題:古代への追想)"からの先行シングルで、グループのギタリストであり、この曲のリード・ヴォーカルを担当した、Tommy Shaw(トミー・ショウ。gtr,vo)の作品で、この1978年は前作"The Grand Illusion(邦題:大いなる幻影)"のシングル活動が続いており、同年4月22日付HOT100で、"Fooling Yourself(The Angry Young Man)(邦題:怒れ!若者)"が最高位29位を記録しています。この曲もTommyの作品かつリード・ヴォーカルで、Dennis DeYoung(デニス・デヤング。vo,key)と並ぶStyxの顔として、Tommyがいよいよ頭角を現してきた時期にもあたります。

 "Blue Collar Man (Long Nights)"はDennis DeYoungの躍動感あるシンセサイザーでイントロが始まるハード・ロック・ナンバーで、サビ部分でのTommyの熱唱とバック・コーラスとの掛け合いやTommyの迫力満点のギター・ソロなど聴き所満載の名曲です。どちらかと言えばこれまでのStyxのシングル曲は、Dennis DeYoungの"Lady"や"Come Sail Away"、Tommyでも"Mademoiselle"や"Fooling Yourself(The Angry Young Man)"などポップで耳に馴染みやすいメロディーでしたが、"Blue Collar Man (Long Nights)"は、Styxの原点回帰ともいうべき純粋なハード・ロックで挑んだシングルで、Tommyの代表曲として、後年ライブでも定番のナンバーとして使用されています。

 Tommyの活躍を反映してか、このシングルのB面(アナログ盤)は初回リリースでは"The Grand Illusion"から"Superstars(邦題:スーパースター)"、2回目リリースでは""Pieces of Eight"から"Aku-Aku(邦題:アク・アク)"と、Tommyがメインの作品が選ばれました(詳細は不明ですが、1975年の"Equinox"収録の"Lorelei"をB面に収めたシングルもあるとのこと)。またプロモーション・ビデオ(当時はプロモーション・フィルム)も存在し、Queen(クィーン)の "Bohemian Rhapsody(邦題:ボヘミアン・ラプソディ)"やGenesis(ジェネシス)の"A Trick of the Tail"など、数々のプロモーション・フィルムの監督をつとめた人物として知られる、Bruce Gowersが手掛けており、70年代後半のStyxメンバーの溌剌としたパフォーマンスを観ることができます。

 1978年9月16日付HOT100で73位にエントリーした"Blue Collar Man (Long Nights)"は、翌週より59位→52位→47位→43位と駆け上がり、6週目にして38位とTop40入り、その後は31位→25位→23位と上がり、陽の当たった11月18日付から2週連続で21位を記録、その後は下降し、14週チャートインしました。Top10入りは果たせませんでしたが、当時としては、Tommyがメインの作品としては全米最高位の記録でした。しかもカナダのシングル・チャート(RPM)では9位まで駆け上がり、カナダにおける1978年のYear-Endシングルチャートでは99位を記録しています。

 "Pieces of Eight"からのその後のシングル活動では、"Sing for the Day(邦題:この一瞬のために)"、続いて"Renegade(邦題:逃亡者)と、Tommyの作品がカットされ、"Pieces of Eight"はTommyの出世作となりました。"Sing for the Day"はHOT100のチャートではTop40入りを逃しましたが(1979年2月10日付から2週連続41位)、このシングルのB面にも収められたことのある"Renegade"を改めてA面でシングル・カットしたところ、1979年6月9日付で16位を記録し、"Pieces of Eight"から出たシングルの全米最高位、そしてTommyの作品での当時の最高位が誕生するのでした(のちに"Too Much Time on My Hands"が1981年5月23日付HOT100で2週連続9位を記録し、StyxのシングルでTommyの作品としては現時点での全米最高位です)。

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2018年11月17日

11月17日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1558年11月17日は、イングランド、テューダー王朝(1485-1603)の女王、メアリ1世(1516.2.18-1558.11.17)の没年月日で、同時にエリザベス1世(1533-1603)が即位した日です(位1558-1603)。

 1547年、イングランド国教会を導いた国王ヘンリ8世(位1509-47)が没し、彼が残した唯一の王子エドワード6世(1537-53。位1547-53)が9歳で即位しました。エドワード6世の治世では、ヘンリ8世支持派プロテスタントのヒュー・ラティマー(1485?-1555)や同じく支持派でケンブリッジ大学教授トマス・クランマー(1489-1556。カンタベリー大司教)らの尽力で、イングランド国教会の教義・規則が書かれた一般祈祷書(共通祈祷書。聖公会祈祷書)がつくられました(1549)。これにより旧教(カトリック)とローマ教会からの脱却策が本格的に行われ、イングランド国教会における諸制度が整えられました。

 ヘンリ8世時代では王妃が6度入れ替わったことで有名ですが、エドワード6世は、第3王妃ジェーン・シーモア(1509-1537)の子です。ヘンリ8世には第1王妃キャサリン・オブ・アラゴン(1485-1536。カザリン。スペインのアラゴン家出身)との間に第1王女メアリ(のちのメアリ1世)、第2王妃アン・ブーリン(1507?-1536)との間に第2王女エリザベス(のちのエリザベス1世)がいました。
 生前ヘンリ8世は男子継承を望んでおり、また背景にはキャサリン・オブ・アラゴンへの疎遠と当時キャサリンの侍女を務めていたアン・ブーリンとの求婚問題があり、メアリは最初こそ大事に育てられたものの次第に関係が冷えてしまい、王女位は奪われて庶子扱いとされ、しかもアン・ブーリンから、自身の子エリザベスに従うよう命じられるなど冷遇されました(エリザベスはメアリの異母妹です)。またアン・ブーリンの伯父第3代ノーフォーク公トマス・ハワード(1473-1554。公位1524-47,53-54)もヘンリ8世に寵愛された貴族で、アン・ブーリンの結婚計画を支持しました。
 ところがアン・ブーリンも姦通罪で1536年斬首刑に処され、第3王妃ジェーン・シーモア(彼女も1537年に病死)が男子エドワードを産んだことで、アン・ブーリンの子エリザベスも庶子として冷遇されるようになりました。そこでメアリ、エリザベス、エドワードの教育を任されていた第6王妃キャサリン・パー(1512-48)の嘆願により、1543年にヘンリ8世が王位継承に関する法律を制定し、継承順位は1位エドワード、2位メアリ、3位エリザベスとなり、メアリとエリザベスはヘンリ8世と和解、王女としての身分と王位継承権を回復したのです(当時王女としての身分が回復したかどうかは疑問の声もあり)。

 エドワード6世は病弱のため夭逝の気配が漂うと、摂政をつとめていたノーサンバランド公ジョン・ダドリー(ウォリック伯位1547-53。ノーサンバランド公位1551-53。軍人出身)はある策謀を考えました。この頃のジョン・ダドリーはイングランド国教会を基盤に諸行政をなしとげて周囲の支持を取り付け、財産も地位も絶頂の時期に来ていましたが、これまでの王位継承順位でいくと、次はメアリです。彼女の母はカトリック国であるスペインの王家の出で、メアリも熱心なカトリック信者です。また彼女はスペイン王子フェリペ(1527-1598。のちのスペイン王フェリペ2世。位1556-1598)との結婚が秒読み段階に来ていました(1554年に周囲の反対をものともせず2人は結婚)。勢い盛んなスペインのカトリック政策の波にイングランドも呑まれる怖れがあり、失政により摂政ジョン・ダドリーは自分の身も危ういと察知しました。そこで1553年、ジョン・ダドリーは自身の六男・ギルフォード・ダドリー(1536-1554)を、テューダー朝初代国王だったヘンリ7世(位1485-1509)の曾孫に当たる、ジェーン・グレイ(1537?-1554)に結婚させたのです。そしてこの報告を病床に伏すエドワード6世に伝え、次期王位をジェーン・グレイに指名すると遺言させて、王位継承権を取得させたのでした。そして程なくして、エドワード6世は15歳で崩御し(1553.7)、ジョン・ダドリーはエドワード6世の遺言を発表、ジェーン・グレイを第4代テューダー朝国王として即位させることに成功しました(位1553.7.10-7.19。在位期間から王として認めない見方もあります)。

 メアリは身の危険を感じて、その間、アン・ブーリンの伯父である第3代ノーフォーク公のハワード家に匿われていました。もっとも、第3代トマス・ハワードはエドワード6世の治世の間、長男のヘンリー・ハワード(1517?-47)の起こした反逆の罪で父トマスと共にロンドン塔に幽閉されていたのです。メアリにとってトマス・ハワードとは、メアリの母キャサリンの離婚問題の時は敵も同然であったが、エドワード6世の治世となり、王室に執心するハワード家にとって、そして次期国王を約束されたメアリには貴重な存在であり、そもそもハワード家は反国教徒のカトリック信者であったため、メアリを保護するのは至極当然でした。トマス・ハワードは獄中からハワード家の一族にメアリを匿うように頼んだのです。

 ジェーン・グレイの女王即位で、ジョン・ダドリーは摂政として王政を手中に収めることができると鼓舞しました。しかし甘くはありませんでした。にわかにつくられた王室にイングランド議会は紛糾し、カトリック復帰を心配する声はあるものの、メアリを正当な次期王位継承者とし、ジョン・ダドリー政権は無効となってしまいました(1553.7.19)。こうしてメアリは直後に即位して、メアリ1世となりました(位1553-58)。ジョン・ダドリー他ギルフォードら子どもたち、そして10日天下となったジェーン・グレイ前女王は逮捕され、翌8月、ジョン・ダドリーは処刑されました(ノーサンバランド公も剥奪)。六男ギルフォードと女王ジェーン・グレイはロンドン塔に幽閉され、翌1554年2月に斬首刑されました(1554年1月から2月にかけて、ジェーン・グレイ王政支持派が起こしたワイアットの乱が起こったことで、処刑が決定したとされますが、メアリの婚約条件にジェーン処刑を要求したスペイン側の圧力があったともいわれています)。この年、メアリ1世によって釈放された3代目ノーフォーク公トマス・ハワードも病没し、ノーフォーク公は孫が継ぎました。

 カトリック国スペイン王・フェリペ2世を夫に持つメアリ1世は、正統と認めたイングランド初の女王となりました。母キャサリン・オブ・アラゴンを転落させたアン・ブーリンの娘エリザベスを、妹と思わずに冷遇しました。メアリは母の離婚でイングランド国中がカトリックから離れて、国教会に改宗したことに苛立ちを隠せず、国教会教義の無意味さを主張しました。エドワード6世の時代に祈祷書がつくられるも、各教区でもカトリックから抜けきれない状態でやきもきしている聖職者がおり、ローマ教皇との関係修復を第一に考えていました。

 そもそもヘンリ8世は離婚を成立させるため、カトリック離脱を決行しカトリックの首長であるローマ教皇と決別しました。そして、イギリス国王を首長とするイングランド国教会の設立を果たしましたが(1534年の国王至上法首長法。いわゆるイギリス宗教改革)、教義がカトリックと同義であることが多く、首長がローマ教皇からイギリス国王に代わっただけでした。
 1554年11月、イングランド議会は国王至上法の失効を決定し、遂にカトリック復帰を決めました。当時ローマ教皇ユリウス3世(位1550-55)の意向により教会財産は戻らなかったが、イングランドでは実に20年ぶりの旧教復帰でした。

 しかしメアリ1世はこれだけでは収まりませんでした。母を離婚に追いやったヘンリ8世の支持者、ヘンリ8世にならって改宗したイングランド国教徒を弾圧する策に出たのです。イングランドの非カトリック教徒は異端とする法律を基に、メアリ1世最大の汚点と評された過酷なプロテスタント迫害が始まったのです。
 老若男女を問わず処刑された殉教者数はおよそ300人、ヘンリ8世を支持してきたヒュー・ラティマーやトマス・クランマーも処刑台の露と消え、メアリの半生で積み上げてきた怨恨の復讐は思わぬ形で爆発しました。この過酷な迫害によって、女王メアリ1世は"ブラッディ・メアリ(流血好きのメアリ)"と呼ばれました。このため、メアリ退位とエリザベス即位を望んだ庶民が反乱を頻発させるようになっていきました。

 1556年、メアリの夫フェリペがスペイン王フェリペ2世として即位しました。翌1557年、イギリスはフェリペ2世の要望でスペインの対フランス戦に武力支援を求めました。戦争に加担したイギリスでしたがフランスに敗れて、百年戦争(1339-1453)以来、当時唯一の大陸領土であったカレーを奪われてしまいました(1558.1)。このときカレーを奪ったフランス諸侯はギーズ公フランソワ(公位1550-63)です。メアリ王政の信用を失墜させた象徴的事件でした。

 メアリ1世はフェリペ2世と結婚後、懐妊騒動が幾度かありました。しかしそれはメアリ1世の想像妊娠であり、卵巣腫瘍を患っていたため、子孫を残せませんでした。結局在位5年余の後、1558年11月17日、メアリ1世は没しました。

 メアリが亡くなる前日、彼女が次期後継者として認めたのは、皮肉にもメアリが嫌うエリザベスでした。ローマ教皇はアン・ブーリンの娘をイングランド国王に置くことは反対であり、スコットランド国王だったカトリックのメアリ・ステュアート(1542-87。スコット王位1542-67)を推戴するほどでありました。メアリ1世のエリザベスに対する復讐は酷く、前述のワイアットの乱でエリザベスも加担したとして一時ロンドン塔に幽閉されていた時期もありました。しかし反動政策とも取れるメアリ1世の悪政はイングランド国民からは不満が増大し、諸侯も次期国王としてエリザベスを推す声が高まっていたため、メアリ自身も次期国王として認めざるを得なかったとされます。

 そして陽の当たった1558年11月17日、メアリ1世の死とともに、ついにエリザベスは第6代テューダー朝国王エリザベス1世として即位しました。エドワード6世が即位した1547年に始まり、メアリ1世が崩御した1558年に終わる、狂い荒れた11年の歴史に幕を下ろし、イングランド国教会に基づいた父ヘンリ8世の政策に原点回帰して、安定した本当のイギリス絶対王政が始まるのでした。

引用文献:『世界史の目 第163話』より

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2018年11月16日

11月16日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1974年11月16日は、アメリカのロック・グループ、Styx(スティクス)が、始めてBillboard200アルバムチャートで、始めてランクアップを記録した日です。Wooden Nickel所属にして最後のスタジオ・アルバムで、通算4作目、"Man of Miracles(邦題:ミラクルズ)"で記録されました。

 前作"The Serpent Is Rising(邦題:サーペント・イズ・ライジング)"では1974年2月9日付で記念すべき初チャートイン(192位)を果たしますが、翌週は最下位にあたる200位にダウンし、圏外へ消えていきました。"Man of Miracles"は1974年11月9日付で前作の最高位をぬりかえる180位にエントリーし、陽の当たった2週目、11月16日は170位にジャンプ・アップしました。
 このアルバムの詳細は、最高位を記録した日にて、詳しく解説するつもりです。再発のたびにアナログB面1曲目の収録曲を入れ替えたり、シングル・カットを前々作"Styx II(邦題:スティクスU)"から選んだりして、結果的に飛躍を遂げていくのですが、いろいろな意味で"Man of Miracles"はターニングポイントとなる重要な位置を占めております。今回はStyxの初のランク・アップを見せたアルバムとして、"Man of Miracles"紹介しました。

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2018年11月15日

11月15日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1986年11月15日は、アメリカのロック・ミュージシャン、Eddie Money(エディ・マネー)のシングル、"Take Me Home Tonight(邦題:テイク・ミー・ホーム・トゥナイト)"がBillboard HOT100シングルチャートで最高位4位を記録し、Eddieのキャリア・ハイのポジションを獲得した日です。陽の当たったこの日は、メインストリームロックチャート(当時は Album Rock Tracks)でアクションを終える最終ランクイン日となり、49位にランクして15週のチャート・アクションを終え、次週は圏外に消えていきます。シブいロックソングで、個人的にも長く愛している名曲中の名曲です。

 ニューヨークの警官出身という異色の経歴を持つEddie Moneyは、この時まで5枚のスタジオ・アルバムをリリースし、うち1977年の1作目"Eddie Money(邦題:噂のエディ・マネー)"から1982年の4作目"No Control(邦題:ノー・コントロール)"までは順調にBillboard200アルバムチャートでTop20位内にランクする大ヒットを記録しましたが、1983年の第5作"Where's the Party?(邦題:パーティの夜)"は67位に終わり、シングルもヒットせず、私生活でもドラッグ依存が危ぶまれて、文字通り"No Control"の状態となって次作の制作が停滞、その人気に翳りが出るかと思われました。

 "Where's the Party?"のリリースから3年が経過し、EddieはNeil Sedaka(ニール・セダカ)やYvonne Elliman(イヴォンヌ・エリマン)、Joe Cocker(ジョー・コッカー)といった大御所ミュージシャンのアルバム制作に関わった名プロデューサー、Richie Zitoらの協力を得ました。レコーディングは1985年から始まりましたが、先行シングルとなる"Take Me Home Tonight"の制作にあたり、Richieはこの曲をEddieが復活を遂げるための重要な作品としていました。

 "Take Me Home Tonight"の歌詞には"Listen, honey, just like Ronnie sang Be my little baby"という部分があり、"Be my little baby"の部分はガールズ・グループ、The Ronettes(ロネッツ)が、Phil Spector(フィル・スペクター)のプロデュースで1963年10月12日付HOT100シングルチャートで3週2位を記録した大ヒット曲、"Be My Baby(邦題:ビー・マイ・ベイビー)"の歌詞から取られており、"Ronnie sang"の"Ronnie"とはThe Ronettesのリード・シンガーであるRonnie Spector(ロニー・スペクター。Phil Spectorとの結婚前はVeronica Bennett)を指します。Eddieは"Be my little baby"は自分自身ではなくて女性に歌ってもらう方が際立つと考えて、友人であるMartha Davis(マーサ・デイヴィス。カリフォルニア・バークレーのロック・グループ、The Motelsのヴォーカリスト)に"Be my little baby"のフレーズを歌ってもらうように依頼したところ、MarthaはEddieにRonnie Spector本人に歌ってもらったらどうかと奨められ、結局EddieはRonnieの家に電話したのです。この時電話の向こうでガチャガチャ言う音が聞こえてきたので、Eddieがこのことを尋ねると、Ronnieはちょうど洗い物をしている最中であり、他の家事も忙しく、またPhil Spectorへの法的訴訟もあるなどして音楽活動も辟易しており、シーンに戻ることを嫌がっているとのことでした。Eddieは偉大なシンガーの名曲を導入したこの"Take Me Home Tonight"を本当に素晴らしい曲であり、この曲をRonnieに捧げたいと気持ちを伝え、一緒に歌わせて欲しいという願いをRonnieに強くうったえたところ、Eddieの熱心な依頼に共感したRonnieはEddieの依頼に快く引き受けることになりました。

 かくして、Eddieの復活だけでなく、Ronnieの音楽シーンにカムバックするというダブル効果で、"Take Me Home Tonight"は世に送り出されました。モノクロのプロモーション・ビデオでもRonnieは抜群のスタイルで登場し、しかも登場をじらすように最初Ronnieはシルエットや影で姿はあれど顔は見えないように登場させ、"Be my little baby"の最初のパートで始めて、Eddieが歌っているステージ上部モニターにRonnieの顔が一瞬映るものの画面が粗くではっきり確認できず、歌っているEddieの元へ彼女は踊りながら顔を見せないまま会場にやってきます。そしてクライマックスあたりでようやくRonnieの顔のアップを登場させるというこの上ない素晴らしい演出でした。ネヴァダ州にあるスポーツアリーナ、Lawlor Events Centerを使用、Eddie一人でそのステージに上がりサックスを片手に熱唱し、Ronnieが客席側の通路から姿を現して一緒に歌うという設定で、現在においても個人的に非常に気に入っているビデオです。あくまでも推測に過ぎませんが、Eddieがステージに立ち、Ronnieが客席の通路で歌うという設定は、Eddieの復活ソングなので、Eddieの顔を立てて一緒にステージに立つのをRonnieは遠慮したのではないでしょうか。もしそうだとすればRonnieの人柄も垣間見えて微笑ましい限りです。
 EddieとRonnieの大復活を遂げた素晴らしい名作ビデオはこちらです(Youtubeより)。

 1986年8月にシングル"Take Me Home Tonight"がリリースされ、6枚目のアルバム"Can't Hold Back(邦題:キャント・ホールド・バック)"は10月にリリースされました。Album Rock Tracksチャートでは1986年8月9日付で34位にエントリーし、その後は12位→5位→4位→3位→2位とじわじわ昇りつめ、Eddieにとって1982年の"Think I'm in Love(邦題:アイム・イン・ラブ)"以来のロックチャート1位を記録しました。首位は2週守られて、あとは降下していき、陽の当たった11月15日の49位でアクションを終え。結果15週のチャートインを果たしました。
 そして、肝腎の総合チャートであるHOT100シングルチャートでは、8月16日に92位と下位でエントリーしました。このエントリーを考えても、やはり当時はEddieの人気がどん底に喘いでいたことが分かります。しかし次週は82位と上昇、その後74位→64位→56位→46位と順調に駆け上がり、7週目にして38位と、これも1982年9月18日付から3週連続で16位を記録した"Think I'm in Love"以来のTop40入りを果たし、Eddie自身5曲目のTop40ヒット・ナンバーとなりました。その後は33位→23位→19位→15位と、"Think I'm in Love"どころか、1978年6月10日に11位を記録したEddieのデビュー曲"Baby Hold On(邦題:ベイビー・ホールド・オン)"にも迫り、次週で一気に記録を塗り替える9位を記録、Eddieにとって、初めてのTop10入りを果たしました。次週で6位、そして陽の当たった11月15日付で最高位4位を記録し、以後は降下していきましたが、結果23週チャートインし、1986年のYear-Endチャートで100位内59位を獲得しました。1987年の the 29th Annual Grammy Awardsにおいても Best Male Rock Vocal Performanceにノミネートされました。

 Eddie Money最大のヒット曲を産み出した"Take Me Home Tonight"により、ゲスト参加したRonnie Spectorもシーンにカムバックを果たし、Ronnieは1987年5月、7年ぶりとなる2枚目のスタジオ・アルバム、"Unfinished Business(邦題:アンフィニッシュト・ビシネス)"がリリースされ、協力とヒットの恩返しとして、1曲目に収録された"Who Can Sleep"にて、Eddieはヴォーカリストとしてゲスト参加しています。その後の"Be My Baby"効果は絶大で、大ヒットした1987年の映画"Dirty Dancing(邦題:ダーティー・ダンシング)"のサウンドトラック盤にも収録され、1999年には Grammy Hall of Fame Award(グラミー殿堂入り)を果たすことになるのです。

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2018年11月14日

11月14日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1949年11月14日は、アメリカのロック・グループ、Styx(スティクス)のギタリスト、James [JY] Young(ジェームズ・ヤング。gtr,key,vo)の生誕日です。言うまでもなく、彼はデビューからStyxという暖簾を一貫して守り続けております。

 JYことJames Vincent Youngはイリノイ州シカゴの出身です。ギタリストとして名高いJYですが、そもそも楽器との出会いは5歳の時で、音楽が得意な父の影響でピアノやオルガンのレッスンを始めました。高校ではクラリネットやギターも始めますが、Jimi Hendrix(ジミ・ヘンドリックス)やEric Clapton(エリック・クラプトン)、Albert King(アルバート・キング)といったの名ギタリストにインスパイアされて、ギターに重きを置くようになり、弟(兄?)であるRick Young(リック・ヤングRichard Young表記もあり)らと音楽活動を始めていきました。
 JYはThe Catalinasという最初に加わったグループで、10代バンドのコンテストに出場して賞を勝ち取り、ヨーロッパに渡ってライブを行いました。その後大学進学を目指してイリノイ工科大学に入学し、航空宇宙科学や機械工学を学び、学士号を取得しました。その傍らで、1970年にJYは引き続き音楽活動も行い、ロック・グループ、The Monterey Handを結成しました。しかし2人のメンバーが宗教活動を行う理由で脱退したため活動が停滞し、John Panozzo(ジョン・パノッツォ。drums)とChuck Panozzo(チャック・パノッツォ。Bass)、John [JC] Curulewski(ジョン・クルルウスキー。gtr,vo)そしてDennis DeYoung(デニス・デヤング。vo,key)らが活動していたTW4(この誕生の詳細はこちら)からの誘いを受けて、JYはTW4に加入しました。このTW4がのちのStyxとなり、公式デビューをつかみます。

 Styxは演奏能力だけでなく、ヴォーカル/コーラスを重視したグループで、楽曲に応じてヴォーカルやコーラスのパートを使い分けていきました。メロディアスなDennis、ブルージーなJC、そしてダイナミックなJYといった、タイプの異なった歌声と美しいコーラスが最大の魅力となっていきました。1972年にWooden Nickelからファースト・アルバム"Styx(邦題では一般に「スティクスT」が知られていますが、「スタイクス」という邦題も存在します)"でデビューしました。13分以上に及び、四部構成からなる組曲"Movement for the Common Man(邦題は英語読みですが、「平凡な人間のための楽章」という邦題も存在します)"の、JYが作曲した第1章、"Chldren of the Land"では、リード・ヴォーカル兼ギターをJYが担当し、Styxの最初の歌声はJYから始まりました。このアルバムではDennisと作ったデビュー・シングル、"Best Thing(邦題:ベスト・シング)"でもDennisと共にJYも美声を聴かせてくれます。"Best Thing"は、Billboard HOT100シングルチャートで、1972年10月14日から2週連続82位を記録しています。このアルバムでは、"Movement for the Common Man"以外での収録された全5曲中の3曲が、JYがメイン・リードヴォーカルを担当しました("Right Away","Quick Is the Beat of My Heart","After You Leave Me")。デビューした1972年は記念の年で、デビューアルバム、デビューシングルのリリース、初チャートインもさることながら、同年10月18日にガールフレンドのSusieとの結婚を発表しています。ちょうど"Best Thing"が最高ランクを記録していた日です。

 1973年のセカンド・アルバム、"Styx II(邦題では一般に「スティクスU」が知られていますが、「黄泉の国より」や「レディ/スティクス・セカンド」という邦題も存在します)"では、Dennisの作った楽曲で占められましたが、このアルバムの1曲目で、スピード感ある格好いいロックナンバー、"You Need Love(邦題:ユー・ニード・ラヴ)"でJYはリード・ヴォーカルをつとめており、ラストに収録された"I'm Gonna Make You Feel It(邦題:アイム・ゴナ・メイク・ユー・フィール・イット)"では演奏時間が短いものの迫力あるJYの歌声と卓越した演奏力でアルバム最後の取りを飾っています。"You Need Love"は"Styx II"の先行シングルで、リリース時はヒットしませんでしたが、のち(1975年)に同アルバム収録の"Lady(邦題:憧れのレディ)"のヒットを受けて、シングルとして再リリースされ、1975年5月17日から2週連続88位を記録しています。

 Styxは1973年には3作目"The Serpent Is Rising(邦題では一般に「サーペント・イズ・ライジング」が知られていますが、「サーペント・イズ・ライジング/スティクスV」という邦題も存在します)"を、1974年には4作目"Man of Miracles(邦題では一般に「ミラクルズ)」が知られていますが、「ミラクルズ/スティクスW」という邦題も存在します)"をそれぞれリリースしますが、Wooden Nickelでリリースされた4枚のアルバムには、結果的にすべて各収録の1曲目にJYのワイルドなリード・ヴォーカルを収めるナンバーが収録されました("Chldren of the Land","You Need Love","Witch Wolf","Rock & Roll Feeling")。ちなみに"The Serpent Is Rising"にはJYの兄弟Rick Youngとの共作"Young Man"が収められているほか、Rickの仕事仲間で作詞家のRay BrandleもJYとの共作で、その後Styxのアルバムに数曲クレジットされました。

 1975年はA&Mへの移籍、その後のJC離脱およびTommy Shaw(トミー・ショウ。gtr,vo)加入と、グループにとっては激動の1年になりました。A&M時代ではDennisとTommyが看板メンバーとして売り出されたため、JYはPanozzo兄弟と共にグループを陰で支える役割となり、その後リリースされるStyxのそれぞれのアルバムからは、収録曲中1曲ないし2曲のみのメイン・リード・ヴォーカルとなりました。その後Styxは全盛期を迎えますが、圧倒的に迫力あるJYの歌声はバラードやポップ・ロックに傾倒しつつあるStyxサウンドの中に、昔を忘れさせないヘビーでワイルドなサウンドを各アルバムに1曲は必ず残しながら、アルバム全体を引き締める役割でもありました。JYがリード・ヴォーカルを手掛ける楽曲の中で、1976年の
Tommyが初参加した"Crystal Ball(邦題:クリスタル・ボール)"での"Put Me On(邦題:プット・ミー・オン)"や1978年の8作目"Pieces of Eight(邦題:古代への追想)"での"Great Wihte Hope(邦題:グレイト・ホワイト・ホープ)"では、Wooden Nickel時代のように両アルバムの1曲目に収録されて、パンチ力のあるJYのナンバーでアルバムに勢いを付ける役どころを担いました。

 1983年にStyxが活動を小休止することになったため(詳細はこちら)、1985年、JYはチェコ出身のミュージシャン、Jan Hammer(ヤン・ハマー)との協力で、初のソロ・アルバム"City Slicker(邦題:シティ・スリッカー)"をPassport Recordsからリリースしました(James Young with Jan Hammer名義)。1985年のJan Hammerといえば、8月に"Miami Vice(邦題:特捜刑事マイアミ・バイス)"のテレビ・サントラに収録されたテーマ、"Miami Vice Theme(邦題:マイアミ・バイスのテーマ)"がBillboard HOT100シングルチャートで1位を記録し、勢いに乗っていたアーチストです。JYとは妙な組み合わせな気もしましたが、それだけにJYの懐は深く、どんな音楽も吸収できる才能の持ち主だけに、ジャンルを問わない交流も多かったものと思われます。
 "City Slicker"の1曲目に収録されたタイトル曲は、Ten Years Afterの"Good Morning Little School Girl"を彷彿とさせるギターリフが力強く、ダイナミックなヴォーカルとキャッチーなサビで非常に聴き応えのあるナンバーです。このアルバムからは9曲目(アナログ盤ではB面4曲目)に収録された"Wild Dogs In The Night"がシングルとして選ばれ、プロモーション・ビデオも作られました。ビデオは、モノクロの中で檻に入れられたJYが、街を出てセクシーに踊る女性に囲まれたり、オープンカーに乗ったりなどしてギターを弾きながらワイルドにパフォーマンスしています。またJan HammerとベーシストColin Hodgkinson(Janのセッション・メンバー)の作による8曲目(B面3曲目)の"Prisner of War"のようなミステリアスな楽曲をJYが歌うのも興味深いです。
 続く1988年には、JYのソロ第2作で、純然たるソロ・アルバム"Out on a Day Pass"をリリースし、全9曲JYの単独プロデュースに挑みました。Jan Hammerは離れましたが、Janと活動を協力するヴァイオリニストJerry Goodmanが参加しています。この作品では3曲目(アナログ盤ではA面3曲目)に収録された"Toys For American Boys"ではStyxのJohn Panozzoがドラマーで、またRick Youngがベースでそれぞれ参加しています(Johnは5曲目のタイトル曲、Rickは9曲目のBigger They Areにも各参加。スピーディーなタイトル曲におけるJohnのドラミングは圧巻です)。また"The Serpent Is Rising"収録でRick Youngとの共作"Young Man"のセルフカバーを行っているのも非常に興味深いです。1曲目の"Sitting On Top Of The World"はシングルとしても売り出され、宇宙空間を背景にJYがギター片手に歌うプロモーション・ビデオも制作されました。

 1990年と1995年のStyx再始動にも参加し、Styxの活動に率先する傍ら、JYはMichael Baran(gtr)、Lou DePasqua(key)、Hank Horton(bass)、そしてKen Harck(Drums。ロックグループ、TAMI Showに参加してヒット歴あり)とグループを組み、JY自身のバンド、James Young Group(ジェームズ・ヤング・グループ。JYG)を結成しました。1995年にJYのプロデュースでハード・ロック・アルバム、"Raised by Wolves"がリリースされました。JYGにとって唯一のアルバムです。ハードロックといっても、ヘビーになりすぎず、ポップで耳に馴染みやすいロック・ナンバーが収録されました。JY自身の作は全9曲中、2曲にとどまりまった分、Enuff Z'nuffのベーシストChip Z'Nuffや、Styxの主要メンバー、Glen Burtnik(グレン・バートニック。gtr,vo,bass。在籍1990-91,1999-2003)らの楽曲提供も大きなアクセントとなりました。Glenが書いた楽曲では、8曲目に収録された、Lou DePasquaが歌う"Heaven In Your Heart"のロック・バラードは非常に卓越しています。
 1998年にはイリノイ州シカゴのロック・グループ、7th Heavenの制作に関わったり、彼らをStyxツアーにジョイントさせるなど、後続バンドへのサポートも行っています。現在のStyxはTommy Shawがフロントマンをつとめておりますが、デビュー以来、Styxの看板を陰で背負い、ヘビーでワイルドなパートを担当するJames Youngの存在は非常に大きく、2017年リリースのスタジオ・アルバム第16作"The Mission(邦題:ザ・ミッション)"でにおいても4曲目収録の"Trouble at the Big Show"で変わらない歌声を披露しています。

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2018年11月13日

11月13日は何に陽(ひ)が当たったか?

 354年11月13日は、ラテン語でキリスト教の著述活動を行ったラテン教父アウグスティヌス(アウレリウス・アウグスティヌス。ヒッポのアウグスティヌス)の生誕の日です(354.11.13-430.8.28)。

 アウグスティヌスは4世紀末期のキリスト教世界における最大の教父と呼ばれました。397年から翌398年にかけて書かれた全13巻の自伝『告白()』によりますと、彼は若い頃に演劇鑑賞や女性との遊蕩に耽り、その後マニ教(善なる光と悪なる暗黒の二元論が基盤の宗教)に狂信しましたが、マルクス・トゥリウス・キケロ(B.C.106-B.C.43)のストア哲学や新プラトン主義(ネオプラトニズム)に感銘を受けて、真理追究に関心を持つようになり、ミラノ教会の司教アンブロシウス(340?-397?。ラテン教父)の影響を大いに受けて、その後キリスト教に改宗したと記述されています。386年、ミラノの自宅にいたアウグスティヌスが、隣家にいる子どもたちから歌声のようなもの"取りて、読め(Tolle, lege)"が聞こえてきたので、手元にあった聖書を取りました。そして『新約聖書』に記されている、パウロの「ローマ人への手紙」の第13章の13節と14節の部分を読みました

 "宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いと妬みを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか。あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない(同章から引用)。"

 あらゆる精神的遍歴の末、アウグスティヌスがキリスト教にたどり着いた瞬間でした。人は神に向けてつくられているため、神のもとへたどりつくまでは安らうことはできないという冒頭が記されたこの『告白録』には、このキリスト教への回心、そして翌387年の母モニカ(331-387)の死とともに洗礼を受けたことなどを告白したアウグスティヌスの前半生が書き綴られました。 

 アウグスティヌスは391年、ローマ帝国属州である北アフリカのヒッポ教会の司祭に、5年後の396年に同地で司教に任じられ、異教徒との論争や、正統教義の一本化に努めるなど、終身その職務を全うしました。410年のゲルマン一派、西ゴート族のローマ侵入を契機に、神に守られたキリスト教の大国ローマ(当時は西ローマ帝国。395-476)が、異教徒(西ゴート族は当時異端とされたアリウス派キリスト教徒だった)によって、一時的にせよ首都を攻め落とされたことで、キリスト教への非難が急激に沸き立ちました。そこでアウグスティヌスは、神への愛に基づいてつくられた"神の国"が、地上のローマ帝国などの、罪深い人類の高慢な自己愛によってつくられた"地の国"をはるかに超越したものであり、平和な"神の国"と、戦争を繰り返す"地の国"との闘争で歴史が作られていき、そして、その闘争は"神の国"が勝利をもたらし、永遠にこれを維持することで、人間は神と教会を信仰することで平和を取り戻すと論証したのです。人間が原罪(生まれながらの罪)から救われるには、神の無償の愛と恵み、つまり神の恩寵が必要と説きました。これが、413年から427年にかけて書き記されました、アウグスティヌスの全22巻の渾身の力作、『神国論(神の国)』です。

 417年、アウグスティヌスは『三位一体論』を完成させました。神は、実体(サブスタンシア)は一つですが、""なる神、""なる世に現れたキリスト、神の愛を伝える"聖霊"という三つの位格(ペルソナ)を持つことによって永遠に存在するという教義です。これは"三位一体"の名付け親テルトゥリアヌス(2世紀にでたラテン教父の先駆。160?-220?)が最初に論じたもので、その後325年のニケーアの公会議で三位一体を主張するアタナシウス派によって、三位一体を正統な教義として認められ(これにより対立していたアリウス派は異端となります)、そしてアウグスティヌスの『三位一体論』によって、神学的な論証でもって三位一体が明確に定義づけられたのでした。

 その後も北アフリカのヒッポで活動を続けていたアウグスティヌスでしたが、折しも民族大移動時代にあたり、当時の西ローマ帝国(395-476)は属州を次々とゲルマンに奪われ、その勢力は大きく縮小化していきました。ローマ領だった北アフリカも、ガイセリック王(389?-477。位428-477)率いるゲルマン一派、ヴァンダル族の侵入が429年頃から激しくなり、ヒッポも包囲されました。ローマの勢力はヴァンダル族を駆逐できる力が残っておらず、北アフリカ属州はヴァンダルのなすがままでした。こうした中で、アウグスティヌスはヒッポの行く末を憂慮しながら、翌430年8月28日に病没しました。

 アウグスティヌスで完成した教父哲学は、のち中世における西ヨーロッパ神学の活動や発展に大きな影響を与え、神学は中世西欧学問の代表となり、聖書およびアウグスティヌスの思想などを論拠として用いられる、スコラ学が発展することになるのです。

引用文献『世界史の目 205話

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2018年11月12日

11月12日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1035年11月12日は、"北海帝国"の支配者として君臨した、クヌーズ(995-1035)の没年月日です。

 デンマーク王スヴェン1世(位985-1014)の治世に、デンマークを構成するデーン人によるイングランド征服の機会を得ました。それは1013年のことです。時のイングランド王、エゼルレッド2世(イングランド王位978-1013,1014-16。無策王)を1013年に退位させ、空いたイングランド王位にはスヴェン1世が立ち(イングランド王位1013-14)、イングランドにおけるデーン王朝を誕生させました(第一次デーン朝。1013-14)。デーン人によるイングランド征服です。

 ところが、スヴェン1世は翌1014年に急死したため、デーン人によるイングランドの征服はわずか1年で終わりました。デンマークでは長子のハーラル2世(デンマーク王位1014-18)が即位し、イングランドではエゼルレッド2世が復位しました。ハーラル2世の治世では版図は母国のデンマークだけで、父スヴェン1世のようにノルウェーやイングランドといった領域を失っておりました。

 ハーラル2世は失われた支配地の奪還に向けて、ハーラル2世の弟で、父スヴェン1世時代からイングランド遠征に加わっていたクヌーズ(カヌートクヌートとも)を戦地に送り込みました。クヌーズは父王が築いたデーン人のイングランドを復活させるため、幾度となくイングランド侵攻を重ねました。1016年4月、エゼルレッド2世は失意の内に病没し、直後に子のエドマンド2世が即位しました(王位1016.4-1016.11)。
 エドマンド2世は剛勇王と呼ばれ、その名にふさわしく、クヌーズ率いるデンマーク軍との攻防は優勢に進み、敵軍に包囲されたロンドンを解放するなど軍功を上げました。しかし同年10月、エドマンド2世はアサンダンの戦い(1016.10.18。イングランド東部のエセックス方面)でクヌーズ軍の猛反撃にあって敗北を喫し、直後の講和でクヌーズ側はテムズ以北の領土を獲得しました。
 そしてエドマンド2世は11月30日に20代後半の若さで突然謎の死を遂げました。死因は未だかつてわからず、病死説や暗殺説など挙げられるも確証がありませんが、エドマンド2世の支配地はすべてクヌーズに移譲する形となり、イングランドの全領土をクヌーズが支配することになったのです。そしてイングランドの重臣会議で、クヌーズが次のイングランド王クヌート1世として即位することが決まり(イングランド王位1016-35)、デーン朝が復活することになりました(第二次デーン朝。1016-42)。クヌーズは、父スヴェン1世が実現させたものの、その死で瓦解したデーン人のイングランドを再び再現させることに成功したのです。

 その後ノルウェーも手中に収めたクヌーズはノルウェー王としても即位しました(ノルウェー王位1028?/1030?-35)。自国デンマーク、イングランド、そしてノルウェーの王座を手に入れたクヌーズは、その版図を3国に加えスウェーデン南部まで拡大し、北海を取り囲む大帝国を築きました。これを北海帝国(1016-42。狭義では1030-42)と呼び、クヌーズは大王(the Great)の称号を得ました。

 30代半ばで北海の覇者となったクヌーズ大王は、イングランド王として直接統治し、デーン人による国家体制維持に努めました。クヌーズが大王として君臨したまさにこの期間が、ヴァイキング時代におけるデーン人の全盛期であり、北海帝国は盤石ともいえる安定政権を確保するはずでした。
 しかしクヌーズ大王は大王の称号を得て数年と経たないうちに、シャフツベリ(イングランド南西部のドーセット州)で没しました。陽の当たった1035年11月12日のことです。その後は子どもたちの支配でしのごうとしますが、ノルウェー、イングランドでは旧王家の逆襲にあい、1035年にノルウェー、1042年にイングランドの第二次デーン王朝は滅亡しました。

 イングランド統治が終わったデーン人は、母国デンマークにおいてもクヌーズ一族から王位が選ばれず、デンマークはノルウェーと同君連合となり(1042)、デーン人の黄金時代をもたらした北海帝国は、クヌーズ大王の死で完全に崩壊してしまいました。デーン人はその後デンマークに定住するノルマン人として、またイングランドに残ったデーン人も同地の民と同化していきました。

引用文献『世界史の目 第257話』より

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posted by ottovonmax at 00:00| 歴史

2018年11月11日

11月11日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1972年11月11日は、イギリスのプログレッシブ・ロック・グループ、Yes(イエス)のシングル、"And You and I(邦題:同志)"が、Billboard HOT100シングルチャートで83位にエントリーした日です。

 Yesとしては1972年9月にシングル"America(邦題:アメリカ)"に続くシングルですが、この曲は当時所属していたレーベルAtlanticの企画盤"The New Age of Atlantic"からのシングルで、のちの1975年にYesが出したベスト盤"Yesterdays(邦題:イエスタディズ)"に収録されました。この曲はHOT100で46位を記録し、これに続くシングルとして、Yesの第5作"Close to the Edge(邦題:危機)"からのシングル・カットです。

 Yesの純粋な大作主義を披露したこのアルバムはA面1曲、B面2曲という構成で、"And You and I"はB面1曲目に収録された、10分を超える組曲です。この曲は以下の通り、4部構成になっています。

  • I. "Cord of Life(邦題:人生の絆)" 3分47秒
  • II. "Eclipse(邦題:失墜)" 2分29秒
  • III. "The Preacher, the Teacher(邦題:牧師と教師)" 3分10秒
  • IV. "Apocalypse(邦題:黙示)" 0分42秒


 Jon Anderson(ジョン・アンダーソン。vo)、Steve Howe(スティーヴ・ハウ。"Eclipse"を除く。gtr)、Bill Bruford(ビル・ブラッフォード。drum)、Chris Squire(クリス・スクワイア。bass)による共作で、作詞はJon Andersonが手掛けました。トータルで10分9秒(8秒表記あり)の大作ですが、シングル・カットに伴いA面とB面に分割し、A面に5分45秒、B面に4分12秒に編集してリリースされました。ドイツではA面を3分25秒に編集されています。

 Steve Howeの美しい12弦アコースティックギターの音色をイントロに、Rick Wakeman(リック・ウェイクマン。key)によるミニムーグの心地良い響きが加わり、Jon Andersonの神秘的な歌声が空間に広がって曲はスタートします。 その後ベースとドラムのリズムが加わって躍動していき、サビの"And You And I 〜"で再び落ち着いて、"And you and I reached out for reasons to call"の最後"Call"をぐぃーと伸ばしながら"Cord of Life"から"Eclipse"に入り、Rick Wakemanのメロトロンとムーグ、Steveのスティール・ギターで幻想的でドラマティックな音空間に入ります。Jonのクリスタルな歌声が加わり、Yesサウンドの真骨頂を聴くことができます。
  "Eclipse"から"The Preacher, the Teacher"につなぐ部分でイントロでも披露したSteveの12弦アコースティックギターの美しい響きとRickのミニムーグが再登場です。"The Preacher, the Teacher"では "Cord of Life"から少しノリを入れた感覚で聴くことができ、一瞬のChrisのベース・ソロがあった後(個人的にはこのベースがたまりません)、BillのドラムやSteveのエレキが入ってソフトなロック・サウンドになり、"A clearer future, morning, evening, nights with you〜"でキメに入ります。そして、余韻を残すかのように "Apocalypse"で"And you and I 〜"と4行詩をJonが優しく歌い、組曲は終わります。

 AB両面に分割されたこの曲のシングル・ヴァージョンは、HOT100ではB面の"And You and I (Part II)"のタイトルでランクインしましたが、やはりアルバム内で聴くのとシングルで聴くのとでは、感じ方は違うでしょう。およそシングル向きではないこの曲ではありますが、しっかりとHOT100にエントリーしました。

 陽の当たった11月11日に83位でエントリーした"And You and I"は、その後73位→58位→54位→45位→42位と、Top40入り目前まで順調なアクションで来ましたが、この42位(1972.12.16付)を最高位に、次は82位へ降下し、結果7週のチャート・インに終わりました。やはり10分超えのアルバム・ヴァージョンを聴いてこの曲の凄さが分かるのでしょう。

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