2018年11月13日
11月13日は何に陽(ひ)が当たったか?
354年11月13日は、ラテン語でキリスト教の著述活動を行ったラテン教父、アウグスティヌス(アウレリウス・アウグスティヌス。ヒッポのアウグスティヌス)の生誕の日です(354.11.13-430.8.28)。
アウグスティヌスは4世紀末期のキリスト教世界における最大の教父と呼ばれました。397年から翌398年にかけて書かれた全13巻の自伝『告白(録)』によりますと、彼は若い頃に演劇鑑賞や女性との遊蕩に耽り、その後マニ教(善なる光と悪なる暗黒の二元論が基盤の宗教)に狂信しましたが、マルクス・トゥリウス・キケロ(B.C.106-B.C.43)のストア哲学や新プラトン主義(ネオプラトニズム)に感銘を受けて、真理追究に関心を持つようになり、ミラノ教会の司教アンブロシウス(340?-397?。ラテン教父)の影響を大いに受けて、その後キリスト教に改宗したと記述されています。386年、ミラノの自宅にいたアウグスティヌスが、隣家にいる子どもたちから歌声のようなもの"取りて、読め(Tolle, lege)"が聞こえてきたので、手元にあった聖書を取りました。そして『新約聖書』に記されている、パウロの「ローマ人への手紙」の第13章の13節と14節の部分を読みました。
"宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いと妬みを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか。あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない(同章から引用)。"
あらゆる精神的遍歴の末、アウグスティヌスがキリスト教にたどり着いた瞬間でした。人は神に向けてつくられているため、神のもとへたどりつくまでは安らうことはできないという冒頭が記されたこの『告白録』には、このキリスト教への回心、そして翌387年の母モニカ(331-387)の死とともに洗礼を受けたことなどを告白したアウグスティヌスの前半生が書き綴られました。
アウグスティヌスは391年、ローマ帝国属州である北アフリカのヒッポ教会の司祭に、5年後の396年に同地で司教に任じられ、異教徒との論争や、正統教義の一本化に努めるなど、終身その職務を全うしました。410年のゲルマン一派、西ゴート族のローマ侵入を契機に、神に守られたキリスト教の大国ローマ(当時は西ローマ帝国。395-476)が、異教徒(西ゴート族は当時異端とされたアリウス派キリスト教徒だった)によって、一時的にせよ首都を攻め落とされたことで、キリスト教への非難が急激に沸き立ちました。そこでアウグスティヌスは、神への愛に基づいてつくられた"神の国"が、地上のローマ帝国などの、罪深い人類の高慢な自己愛によってつくられた"地の国"をはるかに超越したものであり、平和な"神の国"と、戦争を繰り返す"地の国"との闘争で歴史が作られていき、そして、その闘争は"神の国"が勝利をもたらし、永遠にこれを維持することで、人間は神と教会を信仰することで平和を取り戻すと論証したのです。人間が原罪(生まれながらの罪)から救われるには、神の無償の愛と恵み、つまり神の恩寵が必要と説きました。これが、413年から427年にかけて書き記されました、アウグスティヌスの全22巻の渾身の力作、『神国論(神の国)』です。
417年、アウグスティヌスは『三位一体論』を完成させました。神は、実体(サブスタンシア)は一つですが、"父"なる神、"子"なる世に現れたキリスト、神の愛を伝える"聖霊"という三つの位格(ペルソナ)を持つことによって永遠に存在するという教義です。これは"三位一体"の名付け親テルトゥリアヌス(2世紀にでたラテン教父の先駆。160?-220?)が最初に論じたもので、その後325年のニケーアの公会議で三位一体を主張するアタナシウス派によって、三位一体を正統な教義として認められ(これにより対立していたアリウス派は異端となります)、そしてアウグスティヌスの『三位一体論』によって、神学的な論証でもって三位一体が明確に定義づけられたのでした。
その後も北アフリカのヒッポで活動を続けていたアウグスティヌスでしたが、折しも民族大移動時代にあたり、当時の西ローマ帝国(395-476)は属州を次々とゲルマンに奪われ、その勢力は大きく縮小化していきました。ローマ領だった北アフリカも、ガイセリック王(389?-477。位428-477)率いるゲルマン一派、ヴァンダル族の侵入が429年頃から激しくなり、ヒッポも包囲されました。ローマの勢力はヴァンダル族を駆逐できる力が残っておらず、北アフリカ属州はヴァンダルのなすがままでした。こうした中で、アウグスティヌスはヒッポの行く末を憂慮しながら、翌430年8月28日に病没しました。
アウグスティヌスで完成した教父哲学は、のち中世における西ヨーロッパ神学の活動や発展に大きな影響を与え、神学は中世西欧学問の代表となり、聖書およびアウグスティヌスの思想などを論拠として用いられる、スコラ学が発展することになるのです。
引用文献『世界史の目 205話』
アウグスティヌスは4世紀末期のキリスト教世界における最大の教父と呼ばれました。397年から翌398年にかけて書かれた全13巻の自伝『告白(録)』によりますと、彼は若い頃に演劇鑑賞や女性との遊蕩に耽り、その後マニ教(善なる光と悪なる暗黒の二元論が基盤の宗教)に狂信しましたが、マルクス・トゥリウス・キケロ(B.C.106-B.C.43)のストア哲学や新プラトン主義(ネオプラトニズム)に感銘を受けて、真理追究に関心を持つようになり、ミラノ教会の司教アンブロシウス(340?-397?。ラテン教父)の影響を大いに受けて、その後キリスト教に改宗したと記述されています。386年、ミラノの自宅にいたアウグスティヌスが、隣家にいる子どもたちから歌声のようなもの"取りて、読め(Tolle, lege)"が聞こえてきたので、手元にあった聖書を取りました。そして『新約聖書』に記されている、パウロの「ローマ人への手紙」の第13章の13節と14節の部分を読みました。
"宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いと妬みを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか。あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない(同章から引用)。"
あらゆる精神的遍歴の末、アウグスティヌスがキリスト教にたどり着いた瞬間でした。人は神に向けてつくられているため、神のもとへたどりつくまでは安らうことはできないという冒頭が記されたこの『告白録』には、このキリスト教への回心、そして翌387年の母モニカ(331-387)の死とともに洗礼を受けたことなどを告白したアウグスティヌスの前半生が書き綴られました。
アウグスティヌスは391年、ローマ帝国属州である北アフリカのヒッポ教会の司祭に、5年後の396年に同地で司教に任じられ、異教徒との論争や、正統教義の一本化に努めるなど、終身その職務を全うしました。410年のゲルマン一派、西ゴート族のローマ侵入を契機に、神に守られたキリスト教の大国ローマ(当時は西ローマ帝国。395-476)が、異教徒(西ゴート族は当時異端とされたアリウス派キリスト教徒だった)によって、一時的にせよ首都を攻め落とされたことで、キリスト教への非難が急激に沸き立ちました。そこでアウグスティヌスは、神への愛に基づいてつくられた"神の国"が、地上のローマ帝国などの、罪深い人類の高慢な自己愛によってつくられた"地の国"をはるかに超越したものであり、平和な"神の国"と、戦争を繰り返す"地の国"との闘争で歴史が作られていき、そして、その闘争は"神の国"が勝利をもたらし、永遠にこれを維持することで、人間は神と教会を信仰することで平和を取り戻すと論証したのです。人間が原罪(生まれながらの罪)から救われるには、神の無償の愛と恵み、つまり神の恩寵が必要と説きました。これが、413年から427年にかけて書き記されました、アウグスティヌスの全22巻の渾身の力作、『神国論(神の国)』です。
417年、アウグスティヌスは『三位一体論』を完成させました。神は、実体(サブスタンシア)は一つですが、"父"なる神、"子"なる世に現れたキリスト、神の愛を伝える"聖霊"という三つの位格(ペルソナ)を持つことによって永遠に存在するという教義です。これは"三位一体"の名付け親テルトゥリアヌス(2世紀にでたラテン教父の先駆。160?-220?)が最初に論じたもので、その後325年のニケーアの公会議で三位一体を主張するアタナシウス派によって、三位一体を正統な教義として認められ(これにより対立していたアリウス派は異端となります)、そしてアウグスティヌスの『三位一体論』によって、神学的な論証でもって三位一体が明確に定義づけられたのでした。
その後も北アフリカのヒッポで活動を続けていたアウグスティヌスでしたが、折しも民族大移動時代にあたり、当時の西ローマ帝国(395-476)は属州を次々とゲルマンに奪われ、その勢力は大きく縮小化していきました。ローマ領だった北アフリカも、ガイセリック王(389?-477。位428-477)率いるゲルマン一派、ヴァンダル族の侵入が429年頃から激しくなり、ヒッポも包囲されました。ローマの勢力はヴァンダル族を駆逐できる力が残っておらず、北アフリカ属州はヴァンダルのなすがままでした。こうした中で、アウグスティヌスはヒッポの行く末を憂慮しながら、翌430年8月28日に病没しました。
アウグスティヌスで完成した教父哲学は、のち中世における西ヨーロッパ神学の活動や発展に大きな影響を与え、神学は中世西欧学問の代表となり、聖書およびアウグスティヌスの思想などを論拠として用いられる、スコラ学が発展することになるのです。
引用文献『世界史の目 205話』
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posted by ottovonmax at 00:00| 歴史