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2019年03月26日

3月26日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1871年3月26日は、パリ・コミューン政府が発足した日です。

 1870年、ナポレオン3世(位1852-70)の普仏戦争(1870.7-1871.2。プロイセン-フランス戦争)での敗北で、フランス第二帝政は崩壊しました。直後の9月、パリで国民防衛政府(国防政府)が市民・労働者・ブルジョワ共和主義者によって成立、共和政を宣言しました(第三共和政。1870.9-1940)。政府では将軍トロシュ(1815-96)、共和派の内相ガンベッタ(1838-82)や七月王政で首相を務めたことのありますティエール(1797-1877。旧オルレアン派)らがおり、政府はプロイセンへの抗戦継続を主張しました。その後パリはプロイセン軍に包囲され、ガンベッタは気球で包囲網から脱出、地方から国民軍を組織して抵抗しました。

 しかしプロイセンのオットー・フォン・ビスマルク(1815-98)の手で完成されたドイツ統一とドイツ帝国成立の宣言(1871.1.18)を、フランスのヴェルサイユ宮殿鏡の間で行われたことで、敗色濃厚となったフランス国防政府は、1月末、独仏休戦協定を受け容れ、事実上の降伏を決意しました。休戦条約による総選挙後、ボルドーで国民議会が成立、2月、ティエールが政権を掌握する行政長官に任命され、臨時政府が樹立されました(ティエール政権。1871.2)。その後、フランスの鉱産資源の宝庫であったアルザス・ロレーヌの割譲と、50億フランの賠償金支払いと合わせて、ドイツと合意、5月のフランクフルト講和条約で正式に決定されました。

 実は、七月王政下の1839年に、革命家で社会主義者のルイ・オーギュスト・ブランキ(1805-1881)が結成しました"四季の会"による襲撃事件がありました(暴力革命)。ブランキは七月革命にも参加して勲章を受けたこともありましたが、徐々に左傾化して数回投獄され、次第に、暴力の徹底と、労働者保護による社会主義化・プロレタリア独裁を目指してきた人物でありました。彼の一派は少数派でしたが、ブランキストと呼ばれた武力団体で、行動理論はブランキズムと呼ばれました。マルクス主義者たちには反感を買われながらも、革命実現を信じて、政府に真っ向から勝負を挑んだ"39年の革命"は失敗、"四季の会"も解散、ブランキも投獄されました。二月革命期においても、ルイ・ブラン(1811-82)による政府の社会主義的政策が施されましたが、完全ではないとのブランキの見方から、国会へ乱入、暴動を起こしました(五月暴動。この1ヶ月後に六月暴動が勃発)。しかしこの暴動も失敗して懲役10年の判決後、アフリカへ追放されました。帰国後もナポレオン3世の第二帝政に睨まれて投獄され、帝政崩壊後の1870年においても武力行動をおこしましたが、ここでも失敗し、逮捕・投獄されています。
 こうしたブランキの行動において、パリ市民の一部には、徐々ではあるがブランキズムの存在が脳裏に焼き付くようになっていきました。市民全体がブランキのシンパサイザーではなく、また純粋なブランキズムではありませんでしたが、これまで数々の革命において、下層市民の味方となって立ち上がった彼の姿は、たちまち市民の記憶に留まっていき、そして下層市民らによる国政改革の意識が芽生え始めたのです。
 これが決定的となったのは、ティエール政権による、国民軍への制裁です。1871年3月18日未明、ティエールはパリ市民の自治体(コミューン)による反発を防ぐため、国民軍の武装解除を目的として、モンマルトルとペルビルにある国民軍の中央委員会の大砲を奪取する作戦を政府軍に発しました。

 和平交渉をドイツと行ったティエール政権に対し、パリ市民は落胆を隠せない上での追い打ちでした。ドイツ軍に包囲されたパリで、食糧不足が深刻な中、国民軍は市民のたった1つの拠り所でしたので、政府の国民軍解散命令は、パリ市民の無念、失望、そして怒りを引き起こし、革命熱は頂点に達したのでした。

 18日、パリ市民は、コミューンの直接民主政を掲げて、政府軍に対して各地区で武装蜂起し、指揮官を虐殺するなどの行為に出ました。できたばかりの政府が統轄する軍隊であるだけに、統治能力も結成当初から不安定だった政府軍は次々と敗退、ティエールは遂に臨時政府と政府軍に対し、ヴェルサイユへ撤退を命じ、パリを離れました。18日夜には、国民軍中央委員会による、パリ市民による自治政府・パリ・コミューンが誕生しました。

 その後、パリ市民による選挙が行われ、陽の当たった1871年3月26日パリ・コミューン政府を発足1871年3月28日、パリ・コミューン政府の成立がパリ市庁舎のバルコニーから宣言されました。世界史上初の、労働者階級を中心とする中小市民層の自治政府です。『オルナンの食後』『石割り』などで知られるパリの写実派画家、クールベ(1819-77)もパリ・コミューンの議員として選ばれました。
 コミューンでは、全役職直接選挙案、議決公開案、女性参政権案、児童の夜間労働禁止案、汚職死刑案、政教分離案、共和暦導入案といった、当時としては斬新な法案が次々と出されました。

 ヴェルサイユに政局を移したティエール政権は、ドイツに支援を受けることになり、再度パリ・コミューン制圧に乗り出すことになりました。5月21日、政府軍がパリ入城、コミューン軍との壮絶な戦闘が始まりました。コミューン軍は善戦しましたが、結果、5月28日のペール・ラシェーズ墓地での抗戦を最後にコミューン軍はねじ伏せられました。セーヌ川の水が、血で赤く染まるほど、多くのパリ市民とコミューン関係者が虐殺され、4万人の逮捕と300名近くの処刑が行われました("血の一週間")。クールベも逮捕され、巨額の罰金後、スイスへ亡命しました。

 パリ・コミューンを圧殺したティエールは、ブルジョワ共和派として、第三共和政の初代大統領に選出され(1871.8。任1871-73)、本格的な第三共和政がスタートしました。しかし、王党派や極左共和派からの反発が激しく、1873年の国民議会でティエールは解任させられ、1877年9月に没しました。ティエールの後大統領となったマクマオン(任1873-79)は、1875年、第三共和政憲法を制定しました。

 ドイツのカール・マルクス(1818-1913。哲学者・経済学者・社会主義者として有名)は、『フランスの内乱』を著し、パリ・コミューンを支持、"血の一週間"で虐殺されたコミューン参加者の名誉を主張しました。またマルクスは、労働者階級のために国家的コミューンは存在するのであり、プロレタリアートの革命でこそ社会主義が実現するものであるとも説いています。これにより、パリ・コミューンは後の社会主義(共産主義)の布石となった事件であるとも言えます。

引用文献『世界史の目 第105話』より

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