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2019年03月02日
3月2日は何に陽(ひ)が当たったか?
1855年3月2日は、ロマノフ家のアレクサンドル2世(1818-81)がロシア皇帝に即位した日です(位1855-81)。
クリミア戦争(1853-56)の敗色が決定的となり、近代化した西欧列強に遅れをとっていることを実感したアレクサンドル2世は、"上からの近代化"をモットーに、ロシア資本主義的「大改革」を行うことを決めました。それは鉄道建設、陪審裁判の導入、地方自治ゼムストヴォの設立、一般義務兵役制度、工場建設などの実施などでしたが、その中で最も近代化に弾みをつけようとしたのが1861年の農奴解放の発令でした。しかし現状では、自由権を無償解放で得た農奴も、有償解放となった土地の借金に苦しみ、しかもたとえ土地を購入しても、その土地は農村共同体(ミール)に属するため、真の所有地とも言えなかったのです。こうした状況から、解放発令後も生活改善は進まず、しかもポーランドでの反露独立を叫ぶ農民反乱(1863。反露ポーランド反乱)の勃発で、アレクサンドル2世は"改革"から"反動"支配に転じたため、ロシアの西欧に対する近代化の遅れは、王朝の専制体制に問題があるとして、革命主義を訴える人々があらわれます。彼らはおもに体制から疎外された進歩的貴族や、新興市民の子弟などに占められ、西欧的知識・教養を身に付けて、専政支配に対して一貫して戦う知識人階級、すなわちインテリゲンツィア(インテリ)でした。
専政王政から来るロシアの後進性の批判はなにもアレクサンドル2世の時代からではなく、前々皇帝のアレクサンドル1世(位1801-25)の時代から続いていたことでありました。当時のロシアは"ヨーロッパの憲兵"とも言われ、ツァーリズム(専制)の立場から、ウィーン体制保全による"神聖同盟(1815)"を提唱して、対外の自由主義者を抑圧していたのです。またナポレオン戦争に参加して自国の後進性を意識した青年貴族将校らは、アレクサンドル2世の父にあたる前皇帝ニコライ1世(位1825-55。アレクサンドル1世の弟)が即位した頃、ロシア反動体制に批判してデカブリスト(十二月党)を結成して反乱(1825)をおこしています。こうした経緯から、インテリゲンツィアの発生をうみ、変革の先頭を担うようになっていくのでした。
インテリゲンツィアは、アレクサンドル2世の大改革によって引き起こされたロシア資本主義を痛烈に批判しました。彼らは作家アレクサンドル・ゲルツェン(1812-70)の思想から、ロシアを再生する出発点は農村共同体のミールであり、西欧とは異なる独自の道を歩みうる"農民社会主義"の実現に努めることに集中していきました。1873〜4年頃になって、この思想は青年・学生を広くとらえ、彼らをナロードニキと呼び、農民の啓蒙からくる蜂起に期待して、"ヴ・ナロード(人民の中へ)"を叫んで農村に入りました。しかし官憲の弾圧をまねき、もともと農民もナロードニキ運動には無関心ということもあって、結果的には失敗に終わりました。
革命の挫折によって、希望を失ったナロードニキたちの一部には、アナーキズム(無政府主義)やニヒリズム(虚無主義)に走り、全ての国家権威や絶対的真理を否定してく者も現れました。作家イワン・トゥルゲーネフ(1818-83)が1862年に発表した『父と子』では、農奴解放令発令後のロシアが舞台となっており、やがて来るニヒリストの新時代をとらえていて、また1877年発表の『処女地』では、70年代のナロードニキを描写しています。さらに政治的手段として暗殺・暴行(テロル。テロ)を行うテロリズム(暴力主義)も70年代から横行しはじめ、立憲制を求めて、アレクサンドル2世を暗殺する計画を立てていきます。1881年、ナロードニキの中の"人民の意志"派のテロリストは、ロマノフ朝の首都ペテルブルク(後のレニングラード。現サンクト・ペテルブルク)にて、憲法草案に同意の声明を行おうとしたアレクサンドル2世に爆弾を浴びせました。このテロにより、皇帝アレクサンドル2世は亡くなりました。
クリミア戦争(1853-56)の敗色が決定的となり、近代化した西欧列強に遅れをとっていることを実感したアレクサンドル2世は、"上からの近代化"をモットーに、ロシア資本主義的「大改革」を行うことを決めました。それは鉄道建設、陪審裁判の導入、地方自治ゼムストヴォの設立、一般義務兵役制度、工場建設などの実施などでしたが、その中で最も近代化に弾みをつけようとしたのが1861年の農奴解放の発令でした。しかし現状では、自由権を無償解放で得た農奴も、有償解放となった土地の借金に苦しみ、しかもたとえ土地を購入しても、その土地は農村共同体(ミール)に属するため、真の所有地とも言えなかったのです。こうした状況から、解放発令後も生活改善は進まず、しかもポーランドでの反露独立を叫ぶ農民反乱(1863。反露ポーランド反乱)の勃発で、アレクサンドル2世は"改革"から"反動"支配に転じたため、ロシアの西欧に対する近代化の遅れは、王朝の専制体制に問題があるとして、革命主義を訴える人々があらわれます。彼らはおもに体制から疎外された進歩的貴族や、新興市民の子弟などに占められ、西欧的知識・教養を身に付けて、専政支配に対して一貫して戦う知識人階級、すなわちインテリゲンツィア(インテリ)でした。
専政王政から来るロシアの後進性の批判はなにもアレクサンドル2世の時代からではなく、前々皇帝のアレクサンドル1世(位1801-25)の時代から続いていたことでありました。当時のロシアは"ヨーロッパの憲兵"とも言われ、ツァーリズム(専制)の立場から、ウィーン体制保全による"神聖同盟(1815)"を提唱して、対外の自由主義者を抑圧していたのです。またナポレオン戦争に参加して自国の後進性を意識した青年貴族将校らは、アレクサンドル2世の父にあたる前皇帝ニコライ1世(位1825-55。アレクサンドル1世の弟)が即位した頃、ロシア反動体制に批判してデカブリスト(十二月党)を結成して反乱(1825)をおこしています。こうした経緯から、インテリゲンツィアの発生をうみ、変革の先頭を担うようになっていくのでした。
インテリゲンツィアは、アレクサンドル2世の大改革によって引き起こされたロシア資本主義を痛烈に批判しました。彼らは作家アレクサンドル・ゲルツェン(1812-70)の思想から、ロシアを再生する出発点は農村共同体のミールであり、西欧とは異なる独自の道を歩みうる"農民社会主義"の実現に努めることに集中していきました。1873〜4年頃になって、この思想は青年・学生を広くとらえ、彼らをナロードニキと呼び、農民の啓蒙からくる蜂起に期待して、"ヴ・ナロード(人民の中へ)"を叫んで農村に入りました。しかし官憲の弾圧をまねき、もともと農民もナロードニキ運動には無関心ということもあって、結果的には失敗に終わりました。
革命の挫折によって、希望を失ったナロードニキたちの一部には、アナーキズム(無政府主義)やニヒリズム(虚無主義)に走り、全ての国家権威や絶対的真理を否定してく者も現れました。作家イワン・トゥルゲーネフ(1818-83)が1862年に発表した『父と子』では、農奴解放令発令後のロシアが舞台となっており、やがて来るニヒリストの新時代をとらえていて、また1877年発表の『処女地』では、70年代のナロードニキを描写しています。さらに政治的手段として暗殺・暴行(テロル。テロ)を行うテロリズム(暴力主義)も70年代から横行しはじめ、立憲制を求めて、アレクサンドル2世を暗殺する計画を立てていきます。1881年、ナロードニキの中の"人民の意志"派のテロリストは、ロマノフ朝の首都ペテルブルク(後のレニングラード。現サンクト・ペテルブルク)にて、憲法草案に同意の声明を行おうとしたアレクサンドル2世に爆弾を浴びせました。このテロにより、皇帝アレクサンドル2世は亡くなりました。
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タグ:ロシア
posted by ottovonmax at 00:00| 歴史