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2019年03月11日
3月11日は何に陽(ひ)が当たったか?
1864年3月11日は、前日に即位したバイエルン国王のルートヴィヒ2世(位1864-86)が、午前10時にてバイエルン憲法に宣誓を行った日です。
ドイツ南部のバイエルン地方では、バイエルン公国(907-1623)時代の1180年、ヴィッテルスバハ家のオットー1世(公位1180-83)が初代バイエルン公に即位して以降、バイエルン選定侯領(1648-1805)、バイエルン王国(1806-1918。首都ミュンヘン)を経て、ドイツ革命(1918-19)により王政が廃止されるまでの間、ヴィッテルスバハ家の支配が続きました。1806年、神聖ローマ帝国(962-1806)の完全滅亡にともない、バイエルンはナポレオン1世(位1804-14.15)の結成した国家連合であるライン同盟に加盟させられ、王国に昇格しました。これがバイエルン王国で、前身のバイエルン選定侯領の選帝侯であったマクシミリアン4世(選帝侯位1799-1805)は初代バイエルン王マクシミリアン1世となったのです(マックス・ヨーゼフ。王位1806-25)。
やがてライン同盟は1815年のウィーン議定書によってオーストリア(1804-67)を盟主とするドイツ連邦(1815-66)となります。ウィーン体制下のバイエルン王国ではマクシミリアン1世没後、長子のルートヴィヒ1世(位1825-48)が即位したましがドイツ三月革命(1848.3)の時に取り沙汰された愛人問題によって退位を余儀なくされ、長子マクシミリアン2世(位1848-64)が即位しました。
マクシミリアン2世はプロイセンの王族であるホーエンツォレルン家出身のマリー王妃(1825-89)と結婚し、長男ルートヴィヒ(1845-86)、次男オットー(1848-1916)の2男をもうけました。父マクシミリアン2世は執務が多忙であり、性格も冷淡で禁欲的な人物でした。養育は担当者によって行われ、父母が直接関わることは少なかったですが、やがて厳格な教育が組み込まれていきました。しかし次期王位継承者である兄ルートヴィヒは、帝王学の習得を不完全のままにしていました。
ルートヴィヒ、オットーの兄弟は、幼年時代を父マクシミリアン2世が4年がかりで改築したホーエンシュヴァンガウ城(画像はこちら。以下、wikipediaより)で過ごしました。木々と湖といった自然に囲まれた城で、壁面にはアーサー王伝説に登場する白鳥の騎士"ローエングリン"をはじめとする中世騎士伝説の壁画が描かれており、兄ルートヴィヒはやがて、中世に生きた白鳥の騎士"ローエングリン"に強い愛着をもつようになり、やがて自分をローエングリンに重ね合わせる空想をおこすようになりました。そしてロマン主義音楽家で、歌劇王の異称で知られるリヒャルト・ワグナー(ヴァーグナー。1813-83)のオペラ『ローエングリン(1848作)』への執心も激しくなり、1858年にミュンヘンで上演された"ローエングリン"を観劇し、完全に魅了されたのです。こうして、"ローエングリン"に心酔したルートヴィヒは、現実と空想の境界線がぼやけていくようになっていきました。
ローエングリンとは、ブラバント公爵の娘エルザを救い保護した白鳥の騎士が、決して名前を問わないことを約束に結婚するも、約束を破ってしまったエルザと別れる話で有名です。ルートヴィヒが観劇したワグナーの『ローエングリン』はエルザとの結婚から別れまでをオペラ化したものでした。ルートヴィヒは『タンホイザー(1845作)』『トリスタンとイゾルデ(1857-59作)』などのワグナーの作品、またワグナー自身にも興味を持ち始めました。
1864年、厳格に子どもたちを教育した父マクシミリアン2世が死去しました。そして3月10日、18歳のルートヴィヒがルートヴィヒ2世として、バイエルン国王に即位し、陽の当たった1864年3月11日にはバイエルン憲法に宣誓を誓いました。ルートヴィヒ2世が最初に行ったのは、ワグナーのバイエルンへの招聘でした。ワグナーはドイツ三月革命の最中、ドレスデンでの革命運動がもとで亡命生活を送っていました。さらには放蕩に耽った代償として多額の借金を背負い、窮地に陥っていました。さらにワグナーはハンガリーの音楽家であるフランツ・リスト(1811-86)の娘コジマ(1837-1930)との不倫問題もありました。ワグナーより24歳年下のコジマは、既に指揮者ハンス・フォン・ビューロー(1830-94)の妻で、2児の母でしたが、1862年にワグナーと知り合い愛人関係となっていた状態でした。スキャンダルにまみれ、周囲からも悪い噂しか耳に入らない状態で、ルートヴィヒ2世の家臣たちはワグナー招致を拒みましたが、ルートヴィヒはその反対を押し切って、ワグナーをミュンヘンの宮廷に招待しました。ルートヴィヒはワグナーの債務を負担したばかりか、豪邸を贈与し、公演会場や音楽学校の設立も関わりました。これは、エルザを保護したローエングリンと、ワグナーを保護したルートヴィヒ2世が見事に重なった瞬間でありました。
しかし、エルザはローエングリンと別れたのです。ルートヴィヒとワグナーの別離は時間の問題でした。家臣はワグナー追放を叫んでいました。さらにワグナーは人妻であるコジマを愛しており、コジマはワグナーの子を妊娠していました(1865出産)。ルートヴィヒ2世もワグナーの不倫問題は快く思わず、結果的にミュンヘンから追放されることとなりました(1865)。ワグナーはスイスに戻ってその後コジマと同棲を始め、1869年コジマはビューローと離婚(1869)、ワグナーと再婚しました(1870)。
ドイツ連邦内では、プロイセン王ヴィルヘルム1世(普王位1861-88)及びオットー・フォン・ビスマルク(1815-98)の率いるプロイセン王国(1701-1918)と、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(墺帝位1848-1916)の率いるオーストリアとの間を中心とする普墺戦争(プロイセン・オーストリア戦争。1866)が起こりました。戦争はプロイセンの勝利となり、ドイツ連邦はオーストリアとドイツ南部諸邦を除いた北ドイツ連邦(1867-1871)となった。オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に嫁いだ皇后エリーザベト(1837-1898。墺皇后位1854-98)はヴィッテルスバハ家出身で、エリーザベトの父はバイエルン公であったことと、当時のバイエルン王国及び王家ではプロイセン寄りではなくオーストリア寄りだったことも一因して、バイエルン王国の北ドイツ連邦加盟は見送られました。そして、普墺戦争に勝ったプロイセンから敗戦国オーストリアを支持したバイエルン王国政府に対して、戦争による賠償請求がおこされました。
普墺戦争終結後、ルートヴィヒ2世は婚約を交わしました。オーストリア皇后エリーザベトの妹、ゾフィー・シャルロッテ・アウグステ(1847-97)が婚約相手でした。ルートヴィヒ2世はもともと男色を好んだ人物でしたが彼には生涯、心を許した女性がいました。それは彼の8歳年上のエリーザベトでした。窮屈な宮廷を嫌い、現実を見つめず理想を追い求めるのエリーザベトの姿はまさに、ルートヴィヒ2世の幼少期から理想の女性像でした。しかしエリーザベトはすでにオーストリア皇后の身分でした。エリーザベトはルートヴィヒ2世の行く末を心配しており、妹ゾフィーを婚約相手に薦めたのでした。
1867年1月にルートヴィヒ2世はゾフィーとの婚約を果たし、ルートヴィヒ2世の誕生日にあたる同年8月25日に挙式が組まれました。しかし現実を受け入れられないルートヴィヒ2世は愛していない女性と結婚する現実と向き合うことができず、ついに彼は同年10月12日に挙式の延期を発表し、その日が近づくとさらに11月末への延期を示唆したため、ゾフィー側の家族はルートヴィヒ2世に早急の意志決定を迫り、次に延期したら婚約を破棄すると通告しました。結局ルートヴィヒ2世はそれに対する書簡をゾフィーに送りました。内容は婚約破棄の返事でした。しかもこの書簡が婚約を破棄する内容でありながらゾフィーに対する呼びかけが"親愛なるエルザ"というふざけたもので、バイエルン公である父は勿論のこと、推薦したエリーザベトはこの行為に対して激怒し、これを機にルートヴィヒ2世に対して疎遠になっていきました。
1869年、ルートヴィヒ2世はホーエンシュヴァンガウ城の近隣に新たな王城の建設を開始しました。ルートヴィヒ2世は名だたる王城専門の建築家を呼び寄せると思いきや、招致したのは舞台美術家のクリスチャン・ヤンク(1833-88)という30代半ばの人物で、彼が手掛けた城は、ルートヴィヒ2世の空想に任せた、まさにロマンの追求そのものでありました。最初に着工された王城はノイシュヴァンシュタイン城(画像はこちら)であり、中世騎士伝説やワグナーのオペラから着想を得て建設され、これらのロマンチズム溢れる壁画や装飾が至るところに作られました。一方、礼拝堂は造られず、玉座(ぎょくざ。君主の座具)が置かれる広間は後回しに造るという、王の欲求通りに建設が進行していきました。
この間、プロイセンはフランスと交戦し勝利しましたが(普仏戦争。プロイセン・フランス戦争。1870-71)、プロイセン王国のビスマルクはプロイセン中心の連邦体制よりも、対仏で芽生えたドイツ・ナショナリズムを利用したドイツ統一を考えました(ただ国王ヴィルヘルム1世は当時プロイセン中心主義者でしたのでドイツ統一には消極的でしたが、ビスマルクの説得で不承不承ながら譲歩したとされます)。北ドイツ連邦に参加しなかったバイエルン王国を含むドイツ南部の諸邦に支持を取り付け、プロイセンをドイツに組み込むことを決断し、ドイツ統一を実現させました。1871年1月18日、敗戦国フランスの王宮・ヴェルサイユ宮殿にて、初代カイザー(ドイツ皇帝の帝号)としてヴィルヘルム1世が即位し(帝位1871-88)、北ドイツ連邦は解体されてドイツ帝国(1871-1918)となりました。
ドイツ帝国に組み込まれたバイエルン王国は、さらにドイツ統一を支持し、帝国の領邦とされました(神聖ローマ帝国時代の領邦は1648年のウェストファリア条約で国家主権が認められ、領邦国家体制が敷かれましたが、今回の統一における領邦における国家主権は失われ、帝国を構成する諸邦となりました。バイエルン王国もドイツ帝国の構成国の1つとなりましたが、同じく帝国に組み込まれた他の諸邦に比べて緩やかな自治が認められ、"王国"を名乗ることもできたのです)。またバイエルン王国は普墺戦争における賠償を支払う一方で、普仏戦争時にプロイセンと同盟を組み、ドイツ統一を支持したことによるプロイセンからの謝礼金が転がり込んできました。
ルートヴィヒ2世は首都ミュンヘンには戻らず築城に専念し、その建設費用も王自身の私費と王室費から捻出しました。王室費に組み込まれたドイツ支持によるプロイセンからの謝礼金も散財していきました。1874年から2つめの王城・リンダーホーフ城(【画像はこちら)が着工され、1878年に完成しました。ルートヴィヒ2世在位期間中、最初に完成された城です。リンダーホーフ城は当時の近代建築様式とは違い、ヴェルサイユ宮殿の大トリアノン宮(画像はこちら)をモチーフに完成された城で、一昔前のルネサンス様式(優美・調和・均整)、バロック様式(豪壮・華麗)、そしてロココ様式(繊細・軽妙)といった中世近世の建築様式を大胆に融合させた城でありました。ブルボン朝(1589-1792,1814-30)の華やかな時代にも憧れていたルートヴィヒ2世は、ルイ14世(太陽王。位1643-1715)などの像も製作し、城館に設置しました。城内の庭園には、ルートヴィヒ2世が執着したワグナーの『タンホイザー』にも登場する鍾乳洞"ヴェーヌスの洞窟"が人工的に作られてあり、幻想とロマンを主張した造りになっています。ノイシュヴァンシュタイン城にもタンホイザー関連の鍾乳洞が人工的に造られましたが、これは"城内"に建造されました。
ヴェルサイユ宮殿もルートヴィヒ2世を魅惑する王宮の1つであり、1878年にはリンダーホーフ城に続いて、バイエルンのキーム湖に浮かぶ島上にてヘレンキームゼー城(画像はこちら)が着工されましたが、この城もヴェルサイユ宮殿がモデルでありました。1883年には4番目の王城であるファルケンシュタイン城(画像はこちら)をノイシュヴァンシュタイン城よりも高所に着工し始めました。またアジアやヨーロッパの有名な宮殿を模した王城の建設計画もルートヴィヒ2世によって挙げられました。
しかし、ルートヴィヒ2世の理想を追求した王城建築は、築城費問題において国家財政を脅かすところまできており、プロイセンに普墺戦争による賠償分を残した状態でありながら、建設費がなくなると公債を乱発するという悪循環をおこしました。ただ、この頃のルートヴィヒ2世は王城建築しか興味を示しませんでした。さらにはドイツ統一前に弟のオットーが精神に異常をきたすようになり、療養の一環としてミュンヘンのニンフェンブルク宮殿、その後近郊のフュルステンリート宮殿に引き籠もるようになりました。弟と離れたルートヴィヒ2世は、王室における執務なども忘れて、ますます現実から逃避するようになり、常に自身の理想を追求すべく築城に邁進しました。ルートヴィヒ2世は常に一人で動くようになり、食事も一人でとり、真夜中に外出し、朝昼に寝ると言った生活が続きました。リンダーホーフ城では城館に置かれたフランス・ブルボン朝のルイ14世の像などに対し、あたかも生きた人間であるかのように対話をするなどの奇行もみられたといわれております。1883年にはこれまで心の大きな支えとなっていたワグナーが心臓発作のためヴェネツィアで客死したことも影響しました。
翌1884年には建設中におけるノイシュヴァンシュタイン城に居住するようになり、城内に引き籠もるようになっていきました。寝室と同階にある人工の鍾乳洞を癒しの空間として一日入り浸りました。
ルートヴィヒ2世の国王らしからぬ行動は、さすがに王室だけでなくバイエルン政府も危機感をおぼえ、1886年6月12日朝、遂に国王は精神科医ベルンハルト・フォン・グッデン医師(1824-86)によって精神疾患と診断されました。直後、ルートヴィヒ2世は家臣団によって捕らえられ、バイエルン南部のシュタルンベルク湖畔のベルク城(現バイエルン州シュタルンベルク郡)に移送、幽閉処分となりました。王位は廃され、叔父のルイトポルト・ヴィルヘルム(1821-1912)が摂政を務めることが決まりました(任1886-1912)。ルートヴィヒ2世には主治医としてグッデン医師が常に随伴しました。ルートヴィヒの退位により、ノイシュヴァンシュタイン城、ヘレンキームゼー城、ファルケンシュタイン城の建設は中断されました。
そして翌6月13日夕方、ルートヴィヒはグッデン医師とともに散歩に出かけました。しかし、ベルク城には戻って来ませんでした。そして、同日夜遅く、シュタルンベルク湖畔で2人は水死体となって発見されたのです(ルートヴィヒ2世没。1886.6)。現場は溺死するほどの水深ではなく、グッデンには顔に傷が残されてはいたものの死因は謎とされ、現在においてもなお未解明です。発見された湖畔には木製の十字架が建てられ、湖を訪れた多くの人々が40年の生涯を閉じたバイエルン国王を偲びました。国王の死を聞いたオーストリア皇后エリーザベトは大変ショックを受けたといわれております。そして、次の言葉が寄せられました。「彼は精神病ではなく、ただ、夢を見ていただけ...」
ルートヴィヒ2世没後、弟のオットーが精神疾患の病状のまま、バイエルン国王オットー1世として即位しましたが(王位1886-1913)、職務は遂行できず、ルイトポルトが引き続き摂政を留任しました。ルイトポルト没後は子のルートヴィヒ・アルフリート(1845-1921)が摂政を引き継ぎましたが、議会の決議によりオットー1世は翌年廃位となり、摂政のルートヴィヒ・アルフリートがルートヴィヒ3世として即位し(位1913-18)、最後のバイエルン国王としてドイツ革命が勃発して帝政が崩壊するまで在位しました。オットー1世は1916年、68歳で没しました。
ルートヴィヒ2世の没後、中断されていた3つの王城の建設、およびその他の王城建設計画はすべて中止されました。国王の理想とロマンを求めるために、後回しにされたノイシュヴァンシュタイン城の玉座の広間に設置される予定でありました"玉座"は、最後まで置かれずのままでありました。
引用文献:『世界史の目 第214話』より
ドイツ南部のバイエルン地方では、バイエルン公国(907-1623)時代の1180年、ヴィッテルスバハ家のオットー1世(公位1180-83)が初代バイエルン公に即位して以降、バイエルン選定侯領(1648-1805)、バイエルン王国(1806-1918。首都ミュンヘン)を経て、ドイツ革命(1918-19)により王政が廃止されるまでの間、ヴィッテルスバハ家の支配が続きました。1806年、神聖ローマ帝国(962-1806)の完全滅亡にともない、バイエルンはナポレオン1世(位1804-14.15)の結成した国家連合であるライン同盟に加盟させられ、王国に昇格しました。これがバイエルン王国で、前身のバイエルン選定侯領の選帝侯であったマクシミリアン4世(選帝侯位1799-1805)は初代バイエルン王マクシミリアン1世となったのです(マックス・ヨーゼフ。王位1806-25)。
やがてライン同盟は1815年のウィーン議定書によってオーストリア(1804-67)を盟主とするドイツ連邦(1815-66)となります。ウィーン体制下のバイエルン王国ではマクシミリアン1世没後、長子のルートヴィヒ1世(位1825-48)が即位したましがドイツ三月革命(1848.3)の時に取り沙汰された愛人問題によって退位を余儀なくされ、長子マクシミリアン2世(位1848-64)が即位しました。
マクシミリアン2世はプロイセンの王族であるホーエンツォレルン家出身のマリー王妃(1825-89)と結婚し、長男ルートヴィヒ(1845-86)、次男オットー(1848-1916)の2男をもうけました。父マクシミリアン2世は執務が多忙であり、性格も冷淡で禁欲的な人物でした。養育は担当者によって行われ、父母が直接関わることは少なかったですが、やがて厳格な教育が組み込まれていきました。しかし次期王位継承者である兄ルートヴィヒは、帝王学の習得を不完全のままにしていました。
ルートヴィヒ、オットーの兄弟は、幼年時代を父マクシミリアン2世が4年がかりで改築したホーエンシュヴァンガウ城(画像はこちら。以下、wikipediaより)で過ごしました。木々と湖といった自然に囲まれた城で、壁面にはアーサー王伝説に登場する白鳥の騎士"ローエングリン"をはじめとする中世騎士伝説の壁画が描かれており、兄ルートヴィヒはやがて、中世に生きた白鳥の騎士"ローエングリン"に強い愛着をもつようになり、やがて自分をローエングリンに重ね合わせる空想をおこすようになりました。そしてロマン主義音楽家で、歌劇王の異称で知られるリヒャルト・ワグナー(ヴァーグナー。1813-83)のオペラ『ローエングリン(1848作)』への執心も激しくなり、1858年にミュンヘンで上演された"ローエングリン"を観劇し、完全に魅了されたのです。こうして、"ローエングリン"に心酔したルートヴィヒは、現実と空想の境界線がぼやけていくようになっていきました。
ローエングリンとは、ブラバント公爵の娘エルザを救い保護した白鳥の騎士が、決して名前を問わないことを約束に結婚するも、約束を破ってしまったエルザと別れる話で有名です。ルートヴィヒが観劇したワグナーの『ローエングリン』はエルザとの結婚から別れまでをオペラ化したものでした。ルートヴィヒは『タンホイザー(1845作)』『トリスタンとイゾルデ(1857-59作)』などのワグナーの作品、またワグナー自身にも興味を持ち始めました。
1864年、厳格に子どもたちを教育した父マクシミリアン2世が死去しました。そして3月10日、18歳のルートヴィヒがルートヴィヒ2世として、バイエルン国王に即位し、陽の当たった1864年3月11日にはバイエルン憲法に宣誓を誓いました。ルートヴィヒ2世が最初に行ったのは、ワグナーのバイエルンへの招聘でした。ワグナーはドイツ三月革命の最中、ドレスデンでの革命運動がもとで亡命生活を送っていました。さらには放蕩に耽った代償として多額の借金を背負い、窮地に陥っていました。さらにワグナーはハンガリーの音楽家であるフランツ・リスト(1811-86)の娘コジマ(1837-1930)との不倫問題もありました。ワグナーより24歳年下のコジマは、既に指揮者ハンス・フォン・ビューロー(1830-94)の妻で、2児の母でしたが、1862年にワグナーと知り合い愛人関係となっていた状態でした。スキャンダルにまみれ、周囲からも悪い噂しか耳に入らない状態で、ルートヴィヒ2世の家臣たちはワグナー招致を拒みましたが、ルートヴィヒはその反対を押し切って、ワグナーをミュンヘンの宮廷に招待しました。ルートヴィヒはワグナーの債務を負担したばかりか、豪邸を贈与し、公演会場や音楽学校の設立も関わりました。これは、エルザを保護したローエングリンと、ワグナーを保護したルートヴィヒ2世が見事に重なった瞬間でありました。
しかし、エルザはローエングリンと別れたのです。ルートヴィヒとワグナーの別離は時間の問題でした。家臣はワグナー追放を叫んでいました。さらにワグナーは人妻であるコジマを愛しており、コジマはワグナーの子を妊娠していました(1865出産)。ルートヴィヒ2世もワグナーの不倫問題は快く思わず、結果的にミュンヘンから追放されることとなりました(1865)。ワグナーはスイスに戻ってその後コジマと同棲を始め、1869年コジマはビューローと離婚(1869)、ワグナーと再婚しました(1870)。
ドイツ連邦内では、プロイセン王ヴィルヘルム1世(普王位1861-88)及びオットー・フォン・ビスマルク(1815-98)の率いるプロイセン王国(1701-1918)と、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(墺帝位1848-1916)の率いるオーストリアとの間を中心とする普墺戦争(プロイセン・オーストリア戦争。1866)が起こりました。戦争はプロイセンの勝利となり、ドイツ連邦はオーストリアとドイツ南部諸邦を除いた北ドイツ連邦(1867-1871)となった。オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に嫁いだ皇后エリーザベト(1837-1898。墺皇后位1854-98)はヴィッテルスバハ家出身で、エリーザベトの父はバイエルン公であったことと、当時のバイエルン王国及び王家ではプロイセン寄りではなくオーストリア寄りだったことも一因して、バイエルン王国の北ドイツ連邦加盟は見送られました。そして、普墺戦争に勝ったプロイセンから敗戦国オーストリアを支持したバイエルン王国政府に対して、戦争による賠償請求がおこされました。
普墺戦争終結後、ルートヴィヒ2世は婚約を交わしました。オーストリア皇后エリーザベトの妹、ゾフィー・シャルロッテ・アウグステ(1847-97)が婚約相手でした。ルートヴィヒ2世はもともと男色を好んだ人物でしたが彼には生涯、心を許した女性がいました。それは彼の8歳年上のエリーザベトでした。窮屈な宮廷を嫌い、現実を見つめず理想を追い求めるのエリーザベトの姿はまさに、ルートヴィヒ2世の幼少期から理想の女性像でした。しかしエリーザベトはすでにオーストリア皇后の身分でした。エリーザベトはルートヴィヒ2世の行く末を心配しており、妹ゾフィーを婚約相手に薦めたのでした。
1867年1月にルートヴィヒ2世はゾフィーとの婚約を果たし、ルートヴィヒ2世の誕生日にあたる同年8月25日に挙式が組まれました。しかし現実を受け入れられないルートヴィヒ2世は愛していない女性と結婚する現実と向き合うことができず、ついに彼は同年10月12日に挙式の延期を発表し、その日が近づくとさらに11月末への延期を示唆したため、ゾフィー側の家族はルートヴィヒ2世に早急の意志決定を迫り、次に延期したら婚約を破棄すると通告しました。結局ルートヴィヒ2世はそれに対する書簡をゾフィーに送りました。内容は婚約破棄の返事でした。しかもこの書簡が婚約を破棄する内容でありながらゾフィーに対する呼びかけが"親愛なるエルザ"というふざけたもので、バイエルン公である父は勿論のこと、推薦したエリーザベトはこの行為に対して激怒し、これを機にルートヴィヒ2世に対して疎遠になっていきました。
1869年、ルートヴィヒ2世はホーエンシュヴァンガウ城の近隣に新たな王城の建設を開始しました。ルートヴィヒ2世は名だたる王城専門の建築家を呼び寄せると思いきや、招致したのは舞台美術家のクリスチャン・ヤンク(1833-88)という30代半ばの人物で、彼が手掛けた城は、ルートヴィヒ2世の空想に任せた、まさにロマンの追求そのものでありました。最初に着工された王城はノイシュヴァンシュタイン城(画像はこちら)であり、中世騎士伝説やワグナーのオペラから着想を得て建設され、これらのロマンチズム溢れる壁画や装飾が至るところに作られました。一方、礼拝堂は造られず、玉座(ぎょくざ。君主の座具)が置かれる広間は後回しに造るという、王の欲求通りに建設が進行していきました。
この間、プロイセンはフランスと交戦し勝利しましたが(普仏戦争。プロイセン・フランス戦争。1870-71)、プロイセン王国のビスマルクはプロイセン中心の連邦体制よりも、対仏で芽生えたドイツ・ナショナリズムを利用したドイツ統一を考えました(ただ国王ヴィルヘルム1世は当時プロイセン中心主義者でしたのでドイツ統一には消極的でしたが、ビスマルクの説得で不承不承ながら譲歩したとされます)。北ドイツ連邦に参加しなかったバイエルン王国を含むドイツ南部の諸邦に支持を取り付け、プロイセンをドイツに組み込むことを決断し、ドイツ統一を実現させました。1871年1月18日、敗戦国フランスの王宮・ヴェルサイユ宮殿にて、初代カイザー(ドイツ皇帝の帝号)としてヴィルヘルム1世が即位し(帝位1871-88)、北ドイツ連邦は解体されてドイツ帝国(1871-1918)となりました。
ドイツ帝国に組み込まれたバイエルン王国は、さらにドイツ統一を支持し、帝国の領邦とされました(神聖ローマ帝国時代の領邦は1648年のウェストファリア条約で国家主権が認められ、領邦国家体制が敷かれましたが、今回の統一における領邦における国家主権は失われ、帝国を構成する諸邦となりました。バイエルン王国もドイツ帝国の構成国の1つとなりましたが、同じく帝国に組み込まれた他の諸邦に比べて緩やかな自治が認められ、"王国"を名乗ることもできたのです)。またバイエルン王国は普墺戦争における賠償を支払う一方で、普仏戦争時にプロイセンと同盟を組み、ドイツ統一を支持したことによるプロイセンからの謝礼金が転がり込んできました。
ルートヴィヒ2世は首都ミュンヘンには戻らず築城に専念し、その建設費用も王自身の私費と王室費から捻出しました。王室費に組み込まれたドイツ支持によるプロイセンからの謝礼金も散財していきました。1874年から2つめの王城・リンダーホーフ城(【画像はこちら)が着工され、1878年に完成しました。ルートヴィヒ2世在位期間中、最初に完成された城です。リンダーホーフ城は当時の近代建築様式とは違い、ヴェルサイユ宮殿の大トリアノン宮(画像はこちら)をモチーフに完成された城で、一昔前のルネサンス様式(優美・調和・均整)、バロック様式(豪壮・華麗)、そしてロココ様式(繊細・軽妙)といった中世近世の建築様式を大胆に融合させた城でありました。ブルボン朝(1589-1792,1814-30)の華やかな時代にも憧れていたルートヴィヒ2世は、ルイ14世(太陽王。位1643-1715)などの像も製作し、城館に設置しました。城内の庭園には、ルートヴィヒ2世が執着したワグナーの『タンホイザー』にも登場する鍾乳洞"ヴェーヌスの洞窟"が人工的に作られてあり、幻想とロマンを主張した造りになっています。ノイシュヴァンシュタイン城にもタンホイザー関連の鍾乳洞が人工的に造られましたが、これは"城内"に建造されました。
ヴェルサイユ宮殿もルートヴィヒ2世を魅惑する王宮の1つであり、1878年にはリンダーホーフ城に続いて、バイエルンのキーム湖に浮かぶ島上にてヘレンキームゼー城(画像はこちら)が着工されましたが、この城もヴェルサイユ宮殿がモデルでありました。1883年には4番目の王城であるファルケンシュタイン城(画像はこちら)をノイシュヴァンシュタイン城よりも高所に着工し始めました。またアジアやヨーロッパの有名な宮殿を模した王城の建設計画もルートヴィヒ2世によって挙げられました。
しかし、ルートヴィヒ2世の理想を追求した王城建築は、築城費問題において国家財政を脅かすところまできており、プロイセンに普墺戦争による賠償分を残した状態でありながら、建設費がなくなると公債を乱発するという悪循環をおこしました。ただ、この頃のルートヴィヒ2世は王城建築しか興味を示しませんでした。さらにはドイツ統一前に弟のオットーが精神に異常をきたすようになり、療養の一環としてミュンヘンのニンフェンブルク宮殿、その後近郊のフュルステンリート宮殿に引き籠もるようになりました。弟と離れたルートヴィヒ2世は、王室における執務なども忘れて、ますます現実から逃避するようになり、常に自身の理想を追求すべく築城に邁進しました。ルートヴィヒ2世は常に一人で動くようになり、食事も一人でとり、真夜中に外出し、朝昼に寝ると言った生活が続きました。リンダーホーフ城では城館に置かれたフランス・ブルボン朝のルイ14世の像などに対し、あたかも生きた人間であるかのように対話をするなどの奇行もみられたといわれております。1883年にはこれまで心の大きな支えとなっていたワグナーが心臓発作のためヴェネツィアで客死したことも影響しました。
翌1884年には建設中におけるノイシュヴァンシュタイン城に居住するようになり、城内に引き籠もるようになっていきました。寝室と同階にある人工の鍾乳洞を癒しの空間として一日入り浸りました。
ルートヴィヒ2世の国王らしからぬ行動は、さすがに王室だけでなくバイエルン政府も危機感をおぼえ、1886年6月12日朝、遂に国王は精神科医ベルンハルト・フォン・グッデン医師(1824-86)によって精神疾患と診断されました。直後、ルートヴィヒ2世は家臣団によって捕らえられ、バイエルン南部のシュタルンベルク湖畔のベルク城(現バイエルン州シュタルンベルク郡)に移送、幽閉処分となりました。王位は廃され、叔父のルイトポルト・ヴィルヘルム(1821-1912)が摂政を務めることが決まりました(任1886-1912)。ルートヴィヒ2世には主治医としてグッデン医師が常に随伴しました。ルートヴィヒの退位により、ノイシュヴァンシュタイン城、ヘレンキームゼー城、ファルケンシュタイン城の建設は中断されました。
そして翌6月13日夕方、ルートヴィヒはグッデン医師とともに散歩に出かけました。しかし、ベルク城には戻って来ませんでした。そして、同日夜遅く、シュタルンベルク湖畔で2人は水死体となって発見されたのです(ルートヴィヒ2世没。1886.6)。現場は溺死するほどの水深ではなく、グッデンには顔に傷が残されてはいたものの死因は謎とされ、現在においてもなお未解明です。発見された湖畔には木製の十字架が建てられ、湖を訪れた多くの人々が40年の生涯を閉じたバイエルン国王を偲びました。国王の死を聞いたオーストリア皇后エリーザベトは大変ショックを受けたといわれております。そして、次の言葉が寄せられました。「彼は精神病ではなく、ただ、夢を見ていただけ...」
ルートヴィヒ2世没後、弟のオットーが精神疾患の病状のまま、バイエルン国王オットー1世として即位しましたが(王位1886-1913)、職務は遂行できず、ルイトポルトが引き続き摂政を留任しました。ルイトポルト没後は子のルートヴィヒ・アルフリート(1845-1921)が摂政を引き継ぎましたが、議会の決議によりオットー1世は翌年廃位となり、摂政のルートヴィヒ・アルフリートがルートヴィヒ3世として即位し(位1913-18)、最後のバイエルン国王としてドイツ革命が勃発して帝政が崩壊するまで在位しました。オットー1世は1916年、68歳で没しました。
ルートヴィヒ2世の没後、中断されていた3つの王城の建設、およびその他の王城建設計画はすべて中止されました。国王の理想とロマンを求めるために、後回しにされたノイシュヴァンシュタイン城の玉座の広間に設置される予定でありました"玉座"は、最後まで置かれずのままでありました。
引用文献:『世界史の目 第214話』より
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posted by ottovonmax at 00:00| 歴史