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2019年03月01日
3月1日は何に陽(ひ)が当たったか?
1445年3月1日は、イタリア・フィレンツェの画家サンドロ・ボッティチェリ(1445-1510)の生誕年月日とされる日です(生誕年月日は諸説あり)。
メディチ家の当主、コジモ・デ・メディチ(1416-69。期1464-69)の支配期のフィレンツェ(当時はフィレンツェ共和国というイタリアのコムーネ。1115-1532。13世紀より共和政。1532年より公国化)には文化人の保護育成(いわゆるパトロン)も積極的に行われ、イタリア・ルネサンスも興隆期を迎えていきます(1450年から1527年が最盛期。盛期ルネサンス)。その中で、コジモがパトロンとして支援したフィレンツェ派の画家、フィリッポ・リッピ(1406-69。聖母子像やプラート大聖堂壁画で名高い)に弟子入りした若き画家がいました。アレッサンドロ・マリアーノ・フィリペピ(1444/45-1510)という人物で、彼の長兄が"ボティチェロ"という渾名で知られていたため、本人もその後サンドロ・"ボッティチェリ"と呼ばれるようになりました。この語は"小さな樽"という意味で、長兄が小樽の体型をしていたのが由来と言われています。
皮なめし工職人の子として世に出たボッティチェリは、1460年頃にリッピのもとで師事したとされますが、その後はヴェロッキオ工房にも入りました。修業時代を積み、1470年、商業裁判所における寓意画として『剛殺』を発表、ボッティチェリの処女作品となりました。その後はメディチ家のパトロンとして多くの作品を発表し、フィレンツェにおける初期ルネサンスの代表的画家として成長を遂げました。主な作品(以下の外部リンクはWikipediaより)に『東方三博士の礼拝(1475頃)』『書斎の聖アウグスティヌス(1480/81)』『春(プリマヴェーラ。1478?/82?)』『サン・マルコ祭壇画(聖母戴冠と4聖人。1483?)』『ヴィーナスの誕生(1485頃)』など、宗教画、人物画、神話画を残したが、異教的・官能的な女性美の創造が主題となっており、優雅かつ繊細な画風は、ボッティチェリの円熟期(1480年代)における集大成でした。
その間、若い画家がボッティチェリに弟子入りしていました。フィリッピーノ・リッピ(1457-1504)と言い、フィリッポ・リッピの子です。母はフィリッポ・リッピが修道院から連れ出した修道女で、これが原因でローマ教皇の怒りを買い、修道院の出入りを禁じられたことで知られます(のちに還俗と結婚を教皇より許される。還俗(げんぞく)とは俗人に還ること)。色事の多いフィリッポ・リッピの有名な逸話です。子フィリッピーノは『エラト〜音楽の寓意〜(1500頃)』など、父とボッティチェリに通じる甘美な作品を主に描き、彼は"アミーゴ・デ・サンドロ(サンドロ(・ボッティチェリ)の友人)"と称されました。
フィレンツェ共和国の政治的支配権はこれまでメディチ家によって握られていたが、15世紀末期になって、徐々にその勢力が揺らぎ始めます。ロレンツォ・デ・メディチ(1449-92。期1469-92)が43歳の若さで没し、子のピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ(1472-1503)が20歳の若さで家督を継承しました(1492期1492-94)。
やがてイタリア戦争が勃発し(1494-1559)、フランス軍がナポリ侵攻を行いますが、このとき国を仕切るはずのピエロがこの侵攻に怖じ気づき、フランス軍を易々とナポリに入城させて、フィレンツェも占領されてしまいました。これによりメディチ家は人心を失うことになります。しかしこれを予言していた人物がいたのです。ドミニコ修道士のジローラモ・サヴォナローラ(1452-1498)という人物です。サン・マルコ修道院長の肩書きを持っていたサヴォナローラは、かねてよりフィレンツェの行政や経済、そしてルネサンスを代表とする文化的風潮について批判していました。大富豪によって仕切られたフィレンツェでは、市民は信仰心を忘れて享楽に耽ってしまった結果、待ち受けているものは不安と混乱であり、イタリアは外敵に攻めを強いられるだろうというのが彼の主張でした。この主張は当然メディチ家への批判として集中し、彼はメディチ家専政体制によって政治腐敗を招いたと酷評したのです。またサヴォナローラは政治・経済・文化のみならず、教会までもメディチ家の支配となり、真のキリスト教の教義もどこかへ行ってしまったと嘆き、キリスト教における真の教義、そして神の至上性を信仰心の薄れた市民たちに説教していきました。
しかもこうしたサヴォナローラの予言が的中したことにより、彼にたちまち人望が集まり、メディチ家に代わる新しいフィレンツェのリーダーとして支持が集まったのです。またロレンツォ・デ・メディチの死に際して、ロレンツォは臨終前にサヴォナローラと対面し、罪を告白したという逸話も広まり、ますます信奉者が集まりました。
1494年、ついにピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ政権は崩壊、メディチ銀行は破綻、ピエロも国外追放となりました(メディチ家、フィレンツェ追放。1494-1512)。これに代わり、サヴォナローラによるフィレンツェ支配となりました(支配期1494-98)。
サヴォナローラの政治は神権政治でした。神によって守られる国を理想に掲げ、これまで享楽に耽った市民生活を禁じて厳格と質素を重んじました。その一環として人文主義を基本精神として確立されたルネサンスを批判、特にメディチ家が保護した芸術品を押収し、市庁舎広場で"火刑"と称し、焼却処分にしたのです(1497,98"虚栄の焼却")。この結果、市民は生活が貧弱となり、殺伐としてしまいました。
さらに攻撃の的はもう1つ、当時のキリスト教です。真の教義を教えないローマ・カトリック教会にも異論を唱えたサヴォナローラは、ローマ教皇アレクサンデル6世(位1492-1503)との対立を生むことになり、その結果、サヴォナローラは破門となってしまいました(1497)。
こうした彼の一連の活動は、ドミニコ修道会と同じく清貧を重んじた托鉢修道会の1つ、フランチェスコ修道会もサヴォナローラのやり方に苦言を呈しました。
この政変によって、メディチ家のパトロンとして保護されてきた芸術家も少なからず影響を及ぼしました。最も大きく影響を受けたと言われるのがボッティチェリでした。至上の神は人智の及ばないところにあるものとするサヴォナローラの教えはすぐさまボッティチェリの画風の変化に現れました。例えば『ラ・カルンニア(誹謗。1495?)』『神秘の降誕(1501)』などがそうであり、内容は神秘主義的で、彼本来の"優しさ"に代わり、"激しさ"が現れた緊張感溢れる作品が製作されたのです。
そして、サヴォナローラの圧政が遂に崩壊する時が来ました。フランチェスコ修道会が"火の裁判(火の試練)"と呼ばれる、火中をくぐって主張の真偽を問う裁判を要求したのです。フランチェスコ修道会の主張は、サヴォナローラが神を知る預言者であるならば、火中をくぐっても焼けないはずだというものでした。この要求をサヴォナローラは拒否しましたので、多くの信奉者の離反へとつながりました。サン・マルコ修道院では市民の暴動が起こりました。1498年4月、ついにサヴォナローラは逮捕され、拷問を受けたあげく、裁判ではローマ教皇も参加し、判決では、市庁舎前広場においての絞首刑後、火刑に処されることが決まりました。5月に刑は処され、遺骨はアルノ川に投じられました(サヴォナローラ殉教。1498.5)。
ボッティチェリの『神秘の降誕』は、サヴォナローラ処刑後に製作されました。この作品の上部に記された銘文は以下の内容によるものです。
サヴォナローラが没し、『神秘の降誕』完成後、ボッティチェリは製作活動を止め、それ以後の足取りは不明になりました。ただ分かっていることは、1510年、フィレンツェで孤独に没したことだけでした(ボッティチェリ死去。1510)。"小さな樽"で知られ、生涯独身を通し、初期ルネサンスから盛期ルネサンスに渡ってフィレンツェに生き、歴史に残る数多くの名作を生み出した大芸術家でありました。
引用文献『世界史の目 第169話』より
メディチ家の当主、コジモ・デ・メディチ(1416-69。期1464-69)の支配期のフィレンツェ(当時はフィレンツェ共和国というイタリアのコムーネ。1115-1532。13世紀より共和政。1532年より公国化)には文化人の保護育成(いわゆるパトロン)も積極的に行われ、イタリア・ルネサンスも興隆期を迎えていきます(1450年から1527年が最盛期。盛期ルネサンス)。その中で、コジモがパトロンとして支援したフィレンツェ派の画家、フィリッポ・リッピ(1406-69。聖母子像やプラート大聖堂壁画で名高い)に弟子入りした若き画家がいました。アレッサンドロ・マリアーノ・フィリペピ(1444/45-1510)という人物で、彼の長兄が"ボティチェロ"という渾名で知られていたため、本人もその後サンドロ・"ボッティチェリ"と呼ばれるようになりました。この語は"小さな樽"という意味で、長兄が小樽の体型をしていたのが由来と言われています。
皮なめし工職人の子として世に出たボッティチェリは、1460年頃にリッピのもとで師事したとされますが、その後はヴェロッキオ工房にも入りました。修業時代を積み、1470年、商業裁判所における寓意画として『剛殺』を発表、ボッティチェリの処女作品となりました。その後はメディチ家のパトロンとして多くの作品を発表し、フィレンツェにおける初期ルネサンスの代表的画家として成長を遂げました。主な作品(以下の外部リンクはWikipediaより)に『東方三博士の礼拝(1475頃)』『書斎の聖アウグスティヌス(1480/81)』『春(プリマヴェーラ。1478?/82?)』『サン・マルコ祭壇画(聖母戴冠と4聖人。1483?)』『ヴィーナスの誕生(1485頃)』など、宗教画、人物画、神話画を残したが、異教的・官能的な女性美の創造が主題となっており、優雅かつ繊細な画風は、ボッティチェリの円熟期(1480年代)における集大成でした。
その間、若い画家がボッティチェリに弟子入りしていました。フィリッピーノ・リッピ(1457-1504)と言い、フィリッポ・リッピの子です。母はフィリッポ・リッピが修道院から連れ出した修道女で、これが原因でローマ教皇の怒りを買い、修道院の出入りを禁じられたことで知られます(のちに還俗と結婚を教皇より許される。還俗(げんぞく)とは俗人に還ること)。色事の多いフィリッポ・リッピの有名な逸話です。子フィリッピーノは『エラト〜音楽の寓意〜(1500頃)』など、父とボッティチェリに通じる甘美な作品を主に描き、彼は"アミーゴ・デ・サンドロ(サンドロ(・ボッティチェリ)の友人)"と称されました。
フィレンツェ共和国の政治的支配権はこれまでメディチ家によって握られていたが、15世紀末期になって、徐々にその勢力が揺らぎ始めます。ロレンツォ・デ・メディチ(1449-92。期1469-92)が43歳の若さで没し、子のピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ(1472-1503)が20歳の若さで家督を継承しました(1492期1492-94)。
やがてイタリア戦争が勃発し(1494-1559)、フランス軍がナポリ侵攻を行いますが、このとき国を仕切るはずのピエロがこの侵攻に怖じ気づき、フランス軍を易々とナポリに入城させて、フィレンツェも占領されてしまいました。これによりメディチ家は人心を失うことになります。しかしこれを予言していた人物がいたのです。ドミニコ修道士のジローラモ・サヴォナローラ(1452-1498)という人物です。サン・マルコ修道院長の肩書きを持っていたサヴォナローラは、かねてよりフィレンツェの行政や経済、そしてルネサンスを代表とする文化的風潮について批判していました。大富豪によって仕切られたフィレンツェでは、市民は信仰心を忘れて享楽に耽ってしまった結果、待ち受けているものは不安と混乱であり、イタリアは外敵に攻めを強いられるだろうというのが彼の主張でした。この主張は当然メディチ家への批判として集中し、彼はメディチ家専政体制によって政治腐敗を招いたと酷評したのです。またサヴォナローラは政治・経済・文化のみならず、教会までもメディチ家の支配となり、真のキリスト教の教義もどこかへ行ってしまったと嘆き、キリスト教における真の教義、そして神の至上性を信仰心の薄れた市民たちに説教していきました。
しかもこうしたサヴォナローラの予言が的中したことにより、彼にたちまち人望が集まり、メディチ家に代わる新しいフィレンツェのリーダーとして支持が集まったのです。またロレンツォ・デ・メディチの死に際して、ロレンツォは臨終前にサヴォナローラと対面し、罪を告白したという逸話も広まり、ますます信奉者が集まりました。
1494年、ついにピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ政権は崩壊、メディチ銀行は破綻、ピエロも国外追放となりました(メディチ家、フィレンツェ追放。1494-1512)。これに代わり、サヴォナローラによるフィレンツェ支配となりました(支配期1494-98)。
サヴォナローラの政治は神権政治でした。神によって守られる国を理想に掲げ、これまで享楽に耽った市民生活を禁じて厳格と質素を重んじました。その一環として人文主義を基本精神として確立されたルネサンスを批判、特にメディチ家が保護した芸術品を押収し、市庁舎広場で"火刑"と称し、焼却処分にしたのです(1497,98"虚栄の焼却")。この結果、市民は生活が貧弱となり、殺伐としてしまいました。
さらに攻撃の的はもう1つ、当時のキリスト教です。真の教義を教えないローマ・カトリック教会にも異論を唱えたサヴォナローラは、ローマ教皇アレクサンデル6世(位1492-1503)との対立を生むことになり、その結果、サヴォナローラは破門となってしまいました(1497)。
こうした彼の一連の活動は、ドミニコ修道会と同じく清貧を重んじた托鉢修道会の1つ、フランチェスコ修道会もサヴォナローラのやり方に苦言を呈しました。
この政変によって、メディチ家のパトロンとして保護されてきた芸術家も少なからず影響を及ぼしました。最も大きく影響を受けたと言われるのがボッティチェリでした。至上の神は人智の及ばないところにあるものとするサヴォナローラの教えはすぐさまボッティチェリの画風の変化に現れました。例えば『ラ・カルンニア(誹謗。1495?)』『神秘の降誕(1501)』などがそうであり、内容は神秘主義的で、彼本来の"優しさ"に代わり、"激しさ"が現れた緊張感溢れる作品が製作されたのです。
そして、サヴォナローラの圧政が遂に崩壊する時が来ました。フランチェスコ修道会が"火の裁判(火の試練)"と呼ばれる、火中をくぐって主張の真偽を問う裁判を要求したのです。フランチェスコ修道会の主張は、サヴォナローラが神を知る預言者であるならば、火中をくぐっても焼けないはずだというものでした。この要求をサヴォナローラは拒否しましたので、多くの信奉者の離反へとつながりました。サン・マルコ修道院では市民の暴動が起こりました。1498年4月、ついにサヴォナローラは逮捕され、拷問を受けたあげく、裁判ではローマ教皇も参加し、判決では、市庁舎前広場においての絞首刑後、火刑に処されることが決まりました。5月に刑は処され、遺骨はアルノ川に投じられました(サヴォナローラ殉教。1498.5)。
ボッティチェリの『神秘の降誕』は、サヴォナローラ処刑後に製作されました。この作品の上部に記された銘文は以下の内容によるものです。
- 「私サンドロは1500年(1501年)の末にこの作品を製作した。イタリア混乱時代、一つの時代とその半分の時代の後、それはつまり聖ヨハネ第11章に記される悪魔が、3年半の間解き放たれるという黙示録の第二の災いの時に描いた。やがて悪魔は、第12章で述べられているように鎖に繋がれ、(この絵のように)地に堕とされるのを見るだろう。」
サヴォナローラが没し、『神秘の降誕』完成後、ボッティチェリは製作活動を止め、それ以後の足取りは不明になりました。ただ分かっていることは、1510年、フィレンツェで孤独に没したことだけでした(ボッティチェリ死去。1510)。"小さな樽"で知られ、生涯独身を通し、初期ルネサンスから盛期ルネサンスに渡ってフィレンツェに生き、歴史に残る数多くの名作を生み出した大芸術家でありました。
引用文献『世界史の目 第169話』より
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posted by ottovonmax at 00:00| 歴史