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2019年03月23日
3月23日は何に陽(ひ)が当たったか?
1919年3月23日は、イタリアの政治家、ベニート・ムッソリーニ(1883.7.29-1945.4.28)によるイタリア戦闘ファッショ(Fasci Italiani di Combattimento)が結成された日です。のちに結成されるファシスト党の出発点となりました。
ムッソリーニは1883年7月、北イタリアのプレダッピオ(エミリア・ロマーニャ州)に生まれました。父は鍛冶屋で、母は教師でした。かつてメキシコで保守派に勝利して大統領となり、フランスの圧力に抵抗したベニート・フアレス(1806-1872。メキシコ大統領任1861-63,67-72)に因んで、無神論者であり社会主義者である父よりベニートと名付けられました。やがてムッソリーニは社会主義と愛国心からくる国粋主義の双方を合わせ持つ思想を主張するようになっていきます。教職時代を経て、20代前半に、スイスへ移住し、そこで亡命中のウラジーミル・レーニン(1870-1924)に出会います。レーニンの影響を受けたムッソリーニは次第に政治に関心を抱くようになりました。帰国後は1906年まで兵役に就き、その後は教職に復帰しながら政治活動を続け、1908年にイタリア社会党(PSI。1892-1994)に入党しました。
1892年創立のイタリア社会党は、創立時はイタリア社会主義を中心とする左翼政党でした。イタリアが第一次世界大戦(1914-18)へ参戦する前、党は反戦論を掲げていましたが、ムッソリーニは自ら編集長をつとめた党機関紙『前進(アヴァンティ)』にて大戦参戦論を主張したため、1914年、党から除名処分を受けてしまいました。
大戦終了後、戦勝国でありながら、不十分な領土獲得、戦後インフレによる社会混乱などで、農民や労働者らによる労働運動・社会運動が拡大しました(1919年から翌20年にかけて激化した左翼運動を"赤い2年間"と呼びます)。こうした中でイタリア社会党はこれらを支持基盤に規模が拡大していきました。そして、1919年11月の総選挙で、イタリア社会党は156議席を獲得して第1党に躍り出ました(ちなみに第2党は100議席を獲得したイタリア初のカトリック政党であるイタリア人民党。キリスト教民主党の前身)。左翼勢力の台頭で、これまでの自由主義路線のイタリア統治から、大きな転換期に直面しました。一方ムッソリーニは1919年3月23日、ミラノでナショナリストを集結して、ファッショ(ファッシ。古代ローマ時代の独裁官や執政官の従者が携えていたファスケスに由来。"権威"を表す斧の柄のまわりに"一団"を意味する木棒が束ねられている、権力・結束・団結の象徴。ファスケスの画像はこちら。wikipediaより)を結成し、発展してナショナリズムを主張する国家的組織"イタリア戦闘ファッショ(イタリア戦闘者ファッシ)"の結党へと至ったのです。
イタリア戦闘ファッショは、結成当初はサンディカリスム(労働組合中心主義。ゼネストによって革命をおこすことを考え、議会や政府に対して否定的)の内容が多数を占めておりました。労働者の最低賃金制度の見直し、自作農の助成、そして共和主義・国粋主義の立場からの主張とする、イタリア王政の廃止などです。11月総選挙でイタリア社会党が154議席を獲得したのに対し、イタリア戦闘ファッショからは当選者は出ず、勢力としてはかなり弱いものでした。
イタリアの戦後インフレは1920年になっても続き、4月から9月にかけて、北イタリアによる農業労働者の大規模なストライキが起こり、トリノでも労働者の工場占拠などがおこりました(1920)。これらは失敗に終わりましたが、こうした社会革命に期待した労働者や小市民層らを支持基盤にしていたイタリア社会党左派は、1921年はじめにイタリア共産党(PCI。1921-91)を結党し、イタリア社会党から離脱しました。その後も小規模ながら小作争議や工場占拠などの革命的な暴動は頻繁に起こり、"赤い2年間"の不安定情勢は続きました。イタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世(位1900-46)はこの混乱を当時の自由主義政権でありました、フランシスコ・ニッティ政権(1919-20)およびジョヴァンニ・ジョリッティ政権(1920-21)の両政権では収拾できないと嘆き、サヴォイア王家支持を維持する目的もあって、国民に人気のあるムッソリーニのファッショに期待をかけるようになっていきました。
こうした革命的暴動に対して、大きな危機感を持つ地主層や、退役軍人、あるいは中産階級層である中小産業資本家や都市商工業者、中小自営農民らは、1920年後半より一連の社会運動・労働運動を暴力で押さえ込む武装行動隊(農村ファシズム、スクァドラ)を結成しました。イタリア戦闘ファッショはこれらの支持を取り付け、彼らと連携して黒シャツ隊を組織して勢力を拡大していくと、軍部や官僚の一部からも支持を取り付け、武器や資金の援助を受け、農民や労働者の革命的行動を暴力的に鎮圧していきました。
1921年5月の総選挙では、初の2議席を獲得して躍進、党員数も10万人規模に達しました。ムッソリーニは同年秋、すでにイタリア戦闘ファッショを改組して「(国家)ファシスト党(Partito Nazionale Fascista。PNF)」を誕生させたのです(1921.11.9-1943.7.27)。翌1922年は2度のゼネスト(1922.5,22.8)が勃発しましたが、当のイタリア自由党政権(ルイージ・ファクタ政権。任1922.2-22.10)では解決できず、ムッソリーニの黒シャツ隊によってすべて鎮圧されました。これによりファクタ政権はヴィットーリオ・エマヌエーレ3世にあまり支持されなくなっていきました。
そして、ムッソリーニにとって、運命の時が来ました。1922年の秋のことでありました。10月24日のナポリでの党大会で、ムッソリーニは政権奪取とファクタ首相の退陣要求の宣言を行いました。そして、1922年10月27日夜、ムッソリーニの指示のもと、党書記長ミケーレ・ビアンキ(1883-1930)、黒シャツ隊リーダーのイタロ・バルボ(1896-1940)、党の共同設立者で大戦期は陸軍元帥だったエミリオ・デ・ボーノ(1866-1944)、そして代議士チェザレ・マリア・デ・ヴェッキ(1884-1959)といったムッソリーニの良き理解者であり、ファシスト党をまとめる4首脳(ファシスト四天王)の尽力で、ファシスト党員による黒シャツ隊による、首都ローマに向けての軍事的示威行動が行われました。史上初のファシズム政権を誕生させるためのローマ進軍が行われたのです。このクーデタに対し、ファクタ政権は進軍阻止による戒厳令の指示を国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世に求めましたが、ファクタ首相の要求は却下、ファクタを罷免しました。進軍完了(10月30日)の直後、ミラノからローマに入ったムッソリーニは、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世より正式に組閣を命じられ、ムッソリーニは首相に就任(ムッソリーニ首相就任。任1922.10.31-43.7.25)、史上初のファシズム政権が誕生しました。ムッソリーニはファシスト党統帥(Duce。ドゥーチェ。統領。首席。総統)であり、イタリア王国首相、名実ともにファシズムによるイタリア統治を実行することになったのです(他に内相、外相、陸・海・空軍の大臣にも就任)。
引用文献『世界史の目 第208話』より
ムッソリーニは1883年7月、北イタリアのプレダッピオ(エミリア・ロマーニャ州)に生まれました。父は鍛冶屋で、母は教師でした。かつてメキシコで保守派に勝利して大統領となり、フランスの圧力に抵抗したベニート・フアレス(1806-1872。メキシコ大統領任1861-63,67-72)に因んで、無神論者であり社会主義者である父よりベニートと名付けられました。やがてムッソリーニは社会主義と愛国心からくる国粋主義の双方を合わせ持つ思想を主張するようになっていきます。教職時代を経て、20代前半に、スイスへ移住し、そこで亡命中のウラジーミル・レーニン(1870-1924)に出会います。レーニンの影響を受けたムッソリーニは次第に政治に関心を抱くようになりました。帰国後は1906年まで兵役に就き、その後は教職に復帰しながら政治活動を続け、1908年にイタリア社会党(PSI。1892-1994)に入党しました。
1892年創立のイタリア社会党は、創立時はイタリア社会主義を中心とする左翼政党でした。イタリアが第一次世界大戦(1914-18)へ参戦する前、党は反戦論を掲げていましたが、ムッソリーニは自ら編集長をつとめた党機関紙『前進(アヴァンティ)』にて大戦参戦論を主張したため、1914年、党から除名処分を受けてしまいました。
大戦終了後、戦勝国でありながら、不十分な領土獲得、戦後インフレによる社会混乱などで、農民や労働者らによる労働運動・社会運動が拡大しました(1919年から翌20年にかけて激化した左翼運動を"赤い2年間"と呼びます)。こうした中でイタリア社会党はこれらを支持基盤に規模が拡大していきました。そして、1919年11月の総選挙で、イタリア社会党は156議席を獲得して第1党に躍り出ました(ちなみに第2党は100議席を獲得したイタリア初のカトリック政党であるイタリア人民党。キリスト教民主党の前身)。左翼勢力の台頭で、これまでの自由主義路線のイタリア統治から、大きな転換期に直面しました。一方ムッソリーニは1919年3月23日、ミラノでナショナリストを集結して、ファッショ(ファッシ。古代ローマ時代の独裁官や執政官の従者が携えていたファスケスに由来。"権威"を表す斧の柄のまわりに"一団"を意味する木棒が束ねられている、権力・結束・団結の象徴。ファスケスの画像はこちら。wikipediaより)を結成し、発展してナショナリズムを主張する国家的組織"イタリア戦闘ファッショ(イタリア戦闘者ファッシ)"の結党へと至ったのです。
イタリア戦闘ファッショは、結成当初はサンディカリスム(労働組合中心主義。ゼネストによって革命をおこすことを考え、議会や政府に対して否定的)の内容が多数を占めておりました。労働者の最低賃金制度の見直し、自作農の助成、そして共和主義・国粋主義の立場からの主張とする、イタリア王政の廃止などです。11月総選挙でイタリア社会党が154議席を獲得したのに対し、イタリア戦闘ファッショからは当選者は出ず、勢力としてはかなり弱いものでした。
イタリアの戦後インフレは1920年になっても続き、4月から9月にかけて、北イタリアによる農業労働者の大規模なストライキが起こり、トリノでも労働者の工場占拠などがおこりました(1920)。これらは失敗に終わりましたが、こうした社会革命に期待した労働者や小市民層らを支持基盤にしていたイタリア社会党左派は、1921年はじめにイタリア共産党(PCI。1921-91)を結党し、イタリア社会党から離脱しました。その後も小規模ながら小作争議や工場占拠などの革命的な暴動は頻繁に起こり、"赤い2年間"の不安定情勢は続きました。イタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世(位1900-46)はこの混乱を当時の自由主義政権でありました、フランシスコ・ニッティ政権(1919-20)およびジョヴァンニ・ジョリッティ政権(1920-21)の両政権では収拾できないと嘆き、サヴォイア王家支持を維持する目的もあって、国民に人気のあるムッソリーニのファッショに期待をかけるようになっていきました。
こうした革命的暴動に対して、大きな危機感を持つ地主層や、退役軍人、あるいは中産階級層である中小産業資本家や都市商工業者、中小自営農民らは、1920年後半より一連の社会運動・労働運動を暴力で押さえ込む武装行動隊(農村ファシズム、スクァドラ)を結成しました。イタリア戦闘ファッショはこれらの支持を取り付け、彼らと連携して黒シャツ隊を組織して勢力を拡大していくと、軍部や官僚の一部からも支持を取り付け、武器や資金の援助を受け、農民や労働者の革命的行動を暴力的に鎮圧していきました。
1921年5月の総選挙では、初の2議席を獲得して躍進、党員数も10万人規模に達しました。ムッソリーニは同年秋、すでにイタリア戦闘ファッショを改組して「(国家)ファシスト党(Partito Nazionale Fascista。PNF)」を誕生させたのです(1921.11.9-1943.7.27)。翌1922年は2度のゼネスト(1922.5,22.8)が勃発しましたが、当のイタリア自由党政権(ルイージ・ファクタ政権。任1922.2-22.10)では解決できず、ムッソリーニの黒シャツ隊によってすべて鎮圧されました。これによりファクタ政権はヴィットーリオ・エマヌエーレ3世にあまり支持されなくなっていきました。
そして、ムッソリーニにとって、運命の時が来ました。1922年の秋のことでありました。10月24日のナポリでの党大会で、ムッソリーニは政権奪取とファクタ首相の退陣要求の宣言を行いました。そして、1922年10月27日夜、ムッソリーニの指示のもと、党書記長ミケーレ・ビアンキ(1883-1930)、黒シャツ隊リーダーのイタロ・バルボ(1896-1940)、党の共同設立者で大戦期は陸軍元帥だったエミリオ・デ・ボーノ(1866-1944)、そして代議士チェザレ・マリア・デ・ヴェッキ(1884-1959)といったムッソリーニの良き理解者であり、ファシスト党をまとめる4首脳(ファシスト四天王)の尽力で、ファシスト党員による黒シャツ隊による、首都ローマに向けての軍事的示威行動が行われました。史上初のファシズム政権を誕生させるためのローマ進軍が行われたのです。このクーデタに対し、ファクタ政権は進軍阻止による戒厳令の指示を国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世に求めましたが、ファクタ首相の要求は却下、ファクタを罷免しました。進軍完了(10月30日)の直後、ミラノからローマに入ったムッソリーニは、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世より正式に組閣を命じられ、ムッソリーニは首相に就任(ムッソリーニ首相就任。任1922.10.31-43.7.25)、史上初のファシズム政権が誕生しました。ムッソリーニはファシスト党統帥(Duce。ドゥーチェ。統領。首席。総統)であり、イタリア王国首相、名実ともにファシズムによるイタリア統治を実行することになったのです(他に内相、外相、陸・海・空軍の大臣にも就任)。
引用文献『世界史の目 第208話』より
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タグ:イタリア
posted by ottovonmax at 00:00| 歴史