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2019年03月03日
3月3日は何に陽(ひ)が当たったか?
1707年3月3日は、北インドのムガル帝国(1526-1858)の第6代君主、アウラングゼーブ(1618-1707。位1658-1707)の没年月日です。
1658年、先代の父シャー・ジャハーン(位1628-1658)の第3子アウラングゼーブが、病気に倒れた父帝をアグラ城に幽閉して帝位を継ぎました。シャー・ジャハーンは、幽閉以後、城内の一室の小窓から遠望される愛妃ムムターズ・マハル(1595?-1631)の廟、タージ・マハルを日々眺めながら、1666年に寂しく死んだといわれております。
アウラングゼーブはまず財政面の改革に乗り出しましたが、彼は厳格なイスラム教スンナ派信者であり、シーア派とヒンドゥー教徒には寺院破壊などの弾圧を強行しました。このため、これまでムガル帝国に異論ありつつも協力してきたラージプート族(デカン高原地方を拠点とするヒンドゥー勢力で、古代クシャトリヤ階級がルーツになっている上層カースト)は反攻に転じて、1679年から80年にかけて反乱を起こしました。これにより、アウラングゼーブ帝は、遂にシーア派とヒンドゥー教徒に対し、ジズヤを復活させてしまいました(ジズヤ復活。1679)。1681年には王子がラージプート族と手を結んで反攻を起こしたのを契機に、アウラングゼーブは大規模なデカン遠征を行い、治世の大半はこれに費やしました。これにより1689年頃には、帝国領土は最大となりました。
デカン地方にはラージプート族以外にも戦闘的なヒンドゥー教徒・マラーター族がおり、指導者シヴァージー(1627-80)はアウラングゼーブ軍と徹底抗戦を繰り返し、1674年にはシヴァージーを君主(位1674-80)とするマラーター王国(1674-1849)も建設、ムガル軍隊と対峙しました。18世紀初め以降、王国は名目化しましたが、王国の宰相(ペーシュワー)がマラータ諸侯を集めて実権を掌握し、マラーター同盟(1708-1818)を結成、同じようにムガル軍と争いました。一方パンジャーブ地方には、16C初頭にナーナク(1469-1538)が開いたシク教の信者が、ムガル帝国の圧政に対して、教団の武装化を進めて軍事的結合力を強化し、やがて反乱を起こしました。
アウラングゼーブの改革は、領土最大化を実現させたものの、遠征による王室の長期不在、これによる宮廷浪費や北・中部インドの治安悪化、戦費散財による財政危機などにより、帝国の衰退が始まりました。官僚には俸給にかえて土地徴税権を与え、徴税請負を再開しました。治世の末年には皇帝の権威も失い、晩年は首都デリーの安定をはかるため、帝はデリーを離れ、1707年3月3日、アフマドナガルで没しました。
1658年、先代の父シャー・ジャハーン(位1628-1658)の第3子アウラングゼーブが、病気に倒れた父帝をアグラ城に幽閉して帝位を継ぎました。シャー・ジャハーンは、幽閉以後、城内の一室の小窓から遠望される愛妃ムムターズ・マハル(1595?-1631)の廟、タージ・マハルを日々眺めながら、1666年に寂しく死んだといわれております。
アウラングゼーブはまず財政面の改革に乗り出しましたが、彼は厳格なイスラム教スンナ派信者であり、シーア派とヒンドゥー教徒には寺院破壊などの弾圧を強行しました。このため、これまでムガル帝国に異論ありつつも協力してきたラージプート族(デカン高原地方を拠点とするヒンドゥー勢力で、古代クシャトリヤ階級がルーツになっている上層カースト)は反攻に転じて、1679年から80年にかけて反乱を起こしました。これにより、アウラングゼーブ帝は、遂にシーア派とヒンドゥー教徒に対し、ジズヤを復活させてしまいました(ジズヤ復活。1679)。1681年には王子がラージプート族と手を結んで反攻を起こしたのを契機に、アウラングゼーブは大規模なデカン遠征を行い、治世の大半はこれに費やしました。これにより1689年頃には、帝国領土は最大となりました。
デカン地方にはラージプート族以外にも戦闘的なヒンドゥー教徒・マラーター族がおり、指導者シヴァージー(1627-80)はアウラングゼーブ軍と徹底抗戦を繰り返し、1674年にはシヴァージーを君主(位1674-80)とするマラーター王国(1674-1849)も建設、ムガル軍隊と対峙しました。18世紀初め以降、王国は名目化しましたが、王国の宰相(ペーシュワー)がマラータ諸侯を集めて実権を掌握し、マラーター同盟(1708-1818)を結成、同じようにムガル軍と争いました。一方パンジャーブ地方には、16C初頭にナーナク(1469-1538)が開いたシク教の信者が、ムガル帝国の圧政に対して、教団の武装化を進めて軍事的結合力を強化し、やがて反乱を起こしました。
アウラングゼーブの改革は、領土最大化を実現させたものの、遠征による王室の長期不在、これによる宮廷浪費や北・中部インドの治安悪化、戦費散財による財政危機などにより、帝国の衰退が始まりました。官僚には俸給にかえて土地徴税権を与え、徴税請負を再開しました。治世の末年には皇帝の権威も失い、晩年は首都デリーの安定をはかるため、帝はデリーを離れ、1707年3月3日、アフマドナガルで没しました。
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posted by ottovonmax at 00:00| 歴史