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2019年03月07日
3月7日は何に陽(ひ)が当たったか?
161年3月7日は、ローマ皇帝アントニヌス・ピウス(帝位138-161)の没年月日です。
138年の7月、先代のハドリアヌス帝(帝位117-138)が62歳の生涯を閉じました。元老院との対立が多かったハドリアヌス帝でしたが、後を継いだティトゥス・アントニヌス(86-161)は元老院との協調路線を歩み、穏健な政策を打ち立てて、慈悲深さをアピールしました。このため、元老院から"ピウス(→慈悲深い、敬虔な人)"と呼ばれ、アントニヌス・ピウス帝としてその名が残ることとなりました。140年、イベリア半島に所領を持つ富裕な貴族ウェルス家の出でありますアウレリウス(121-180)はアントニヌス・ピウスとともに執政官(コンスル)に就任し、次期帝位継承者となりました。アウレリウスはアントニヌス・ピウスの娘ファウスティナ(125-175)と結婚した145年に、ピウス帝とともに2度目の執政官に再任しました。一方ルキウス・ウェルスも153年に財務官(クアエストル)を務め、翌154年には執政官に就任しました。
150年代半ばになると、晩期にさしかかったアントニヌス・ピウス帝の健康状態が徐々に悪化、161年には帝の補佐を務めていたアウレリウスとルキウス・ウェルスはともに再度の執政官に再任しますが、161年3月7日、アントニヌス・ピウス帝が病没、ハドリアヌス前帝の遺志をふまえ、アウレリウスとルキウス・ウェルスは共同統治者として即位しました。アウレリウスは皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス(帝位161-180)、ルキウス・ウェルスは皇帝ルキウス・アウレリウス・ウェルス(帝位161-169)として帝位についたのでした。
138年の7月、先代のハドリアヌス帝(帝位117-138)が62歳の生涯を閉じました。元老院との対立が多かったハドリアヌス帝でしたが、後を継いだティトゥス・アントニヌス(86-161)は元老院との協調路線を歩み、穏健な政策を打ち立てて、慈悲深さをアピールしました。このため、元老院から"ピウス(→慈悲深い、敬虔な人)"と呼ばれ、アントニヌス・ピウス帝としてその名が残ることとなりました。140年、イベリア半島に所領を持つ富裕な貴族ウェルス家の出でありますアウレリウス(121-180)はアントニヌス・ピウスとともに執政官(コンスル)に就任し、次期帝位継承者となりました。アウレリウスはアントニヌス・ピウスの娘ファウスティナ(125-175)と結婚した145年に、ピウス帝とともに2度目の執政官に再任しました。一方ルキウス・ウェルスも153年に財務官(クアエストル)を務め、翌154年には執政官に就任しました。
150年代半ばになると、晩期にさしかかったアントニヌス・ピウス帝の健康状態が徐々に悪化、161年には帝の補佐を務めていたアウレリウスとルキウス・ウェルスはともに再度の執政官に再任しますが、161年3月7日、アントニヌス・ピウス帝が病没、ハドリアヌス前帝の遺志をふまえ、アウレリウスとルキウス・ウェルスは共同統治者として即位しました。アウレリウスは皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス(帝位161-180)、ルキウス・ウェルスは皇帝ルキウス・アウレリウス・ウェルス(帝位161-169)として帝位についたのでした。
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タグ:ローマ
posted by ottovonmax at 00:00| 歴史