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2019年03月15日

3月15日は何に陽(ひ)が当たったか?

 B.C.44年3月15日は、共和政ローマ時代(B.C.509-B.C.27)の政治家、ガイウス・ユリウス・カエサル(B.C.100-B.C.44)の没年月日です。

  カエサルはローマの古い名門ユリウス氏の出身で、最初に結婚した妻が平民派(平民会議長をつとめる護民官重視。ポプラレス)出身政治家の娘であったため、彼も平民派とみなされていました。やがて閥族派(保守派。貴族による立法機関である元老院重視。オプティマテス)のスラ(B.C.138-B.C.78)による平民派の弾圧は、彼の死(B.C.78)でもって終焉となり、カエサルもローマに帰省してB.C.77年から政治に携わりました。当時弁論家として名の知れたキケロ(B.C.106-B.C.43)と並ぶほどの雄弁家で文才もあり、B.C.69年に財務官就任、B.C.63年には終身大神官となり、翌62年にプラエトルにまで上り詰めました。プラエトルは属州の総督になることができる、コンスル(執政官)の一段下の官職で、カエサルはただちにヒスパニア(現スペイン地方)の総督に任命されて功績をあげ(B.C.60)、ローマ市民からの支持率を上げました。しかし、一平民派の人間として、元老院は彼の台頭に危機感を抱き、カエサル自身も元老院と対立しました。

 一方のポンペイウス(B.C.106-B.C.48)とクラッスス(B.C.114頃-B.C.53)は、スラの死後、剣奴(剣闘士として見世物にされた奴隷)出身のスパルタクス(?-B.C.71)がおこした大奴隷反乱(B.C.73-B.C.71)を鎮定して軍功をあげ、B.C.70年、2人は同時にコンスルに選出されました。2人は、スラの恐怖政治時代を見直し、護民官の職権を回復させるなど、派閥党争の緩和に努め、平民派の主張を理解しはじめ、カエサルとも接近しました。その後もポンペイウスは地中海の海賊を討伐し(B.C.67)、スラ時代から続いた小アジア(アナトリア。現トルコ地方)にあるポントス王国とのミトリダテス戦争(B.C.88-B.C.63)を平定、ここを属州としました。しかしこの頃から元老院は彼らの出過ぎた活躍に妬み、また彼らの平民派への接近が元老院を怒らせ、次第にポンペイウスは元老院と対立を深めていきました。

 B.C.60年、遂にカエサルはポンペイウス・クラッススと密約を結び、3人で元老院を抑えて国政を分かち合うことを決意し、第1回三頭政治(B.C.60-B.C.53)によって実力による支配体制を強行、カエサルは翌B.C.59年にコンスルに選出されました。ポンペイウスはヒスパニア、クラッススは強国パルティア(B.C.248頃-A.D.226)と支配をめぐり争っているシリア地方、そしてカエサルはいまだ未開のガリア地方(現フランス地方)の軍令権を得て、統治しました。

 B.C.58年、カエサルはケルト系民族のいるガリア地方やブリタニア(現イングランド地方)地方へ赴き、同民族を平定、そして初めてライン川も渡ってゲルマン人も抑えました(ガリア遠征。B.C.58-B.C.51)。この時カエサルに従軍した部将の中に、のちにカエサルの副官として活躍するアントニウス(B.C.82-B.C.30。閥族派出身)もいました。アルプス以北をローマ領としたカエサルは、遠征地に高額の租税を課し、巨富を得ました。ガリア遠征が終わったカエサルは、B.C.51年、簡潔な文体で遠征の経過を記述した『ガリア戦記』を発表しています。こうしてカエサルは三頭政治以上の活躍を見せ始めたので、ポンペイウスは彼を嫉視するようになっていきました。カエサルの娘ユリア(B.C.83?-B.C.54)はポンペイウスの妻でしたが、B.C.54年にユリアが死亡し、姻戚関係が途切れたことで、カエサルとポンペイウスとの破綻は決定的となりました。一方でクラッススはコンスルに再選出され(B.C.55)、遠征地パルティアとの戦争のため、息子とユーフラテス川を渡ってシリア地方にむかうも、パルティア軍の反撃にあい、B.C.53年、同川沿いの町カルラエで息子と共に戦死し、ここに第1回三頭政治は事実上終結しました。

 クラッスス戦死による三頭政治の崩壊は、残されたカエサル、ポンペイウスの統治権も喪失したのに等しく、元老院は威信回帰のため、カエサル軍の解散とローマへの召還を決議しました。カエサルを妬むポンペイウスも遂に妥協・結託して元老院と手を結び、カエサルと戦闘を交えることを決意しました(B.C.49)。

 生まれ故郷ローマが敵となったカエサル軍は、この時ガリアから南下し、イタリア北国境を流れるルビコン川にいました。B.C.49年1月、カエサルは「(さい)は投げられた」と発して、軍を率いてローマを進撃しました。カエサル自ら内乱に身を投じた形となり、ローマを占領しました。翌B.C.48年、ポンペイウスは、ギリシア北部テッサリア地方のファルサラスで、カエサル軍と戦闘を開始(ファルサラスの戦い)、カエサルはポンペイウス軍を撃破、彼をエジプトへ追い込みました。折しも、エジプトはプトレマイオス朝(B.C.304-B.C.30)の治世で、内紛が起こっていました。ポンペイウスは同地で、プトレマイオス王の刺客に暗殺されました。
 同じくエジプトに入ったカエサルは、内紛でプトレマイオス朝の王位を奪われていたクレオパトラ7世(B.C.69-B.C.30)と親しくなり、内紛に介入して戦いました。さらに彼女を窮地から助け、王位を回復させました(B.C.48)。この時、カエサルはクレオパトラと愛人関係になり、子カエサリオン(B.C.47.6-B.C.30.8)を授かりました。このとき、ポンペイウス側に従軍してカエサルと争っていたブルートゥス(B.C.85-B.C.42)・カッシウス(B.C.83?-B.C.42)らは、後にカエサルに許されて、カエサル側につき、諸官職を歴任しています。

 その後カエサルは東方の小アジアにも軍を送り、同地で栄えていたポントス王国軍に対して進撃しました。同国の町ゼラでポントス王ファルナケスをすぐさま敗り(ゼラの合戦。B.C.47.8)、カエサルはローマへ"来た、見た、勝った"と書き送り、戦勝の迅速さを主張しました。その後北アフリカの元老院派を制圧してローマに凱旋帰国、B.C.46年、彼は任期10年のディクタトル(独裁官)に選ばれ、権力はカエサルただ一人に集まりました。カエサルの天下統一が現実的なものとなり、さらにB.C.44年、元老院はカエサルにある称号を献じました。これは"命令権(インペリウム)"が与えられたローマ最高の軍指揮官という意味から転じて、戦勝後、凱旋式前の将軍に「戦勝凱旋将軍」の称号として献じた"インペラトル"というものです。これは"皇帝"を意味する"エンペラー"の語源にもなりました。インペラトルの称号を得たカエサルは軍の、神職の最高司令官となり、文字通り、ローマの頂点に立ちました。元老院議員を選任するのも、政務官職を任命するのも、護民官の神聖権もすべてカエサルの思いのままになりました。これにより民会による貴族共和政は消え去っていき、徐々に帝政の傾向へ進むのでした。

 インペラトルの称号を得て以来、カエサルは救貧策として無産市民に土地を分配し、穀物を安価で供給しました。奴隷解放もすすめ、属州での徴税請負を廃止、また属州民にはローマ市民権を与えました。またエジプトの太陽暦を使用してユリウス暦を作成、1582年のグレゴリ暦制定まで使用されました。数々の改革を迅速に行ったカエサルは、政治経済的にも文化的にも優れた人物として、市民からは絶大な支持率を誇り、彼を神格化しました。

 B.C.44年、カエサルはアントニウスをコンスルに選出(1月)、カエサル自身はディクタトルの任期を終身としました(2月)。そして、かつてクラッススが為し得なかったパルティア遠征を企画しましたが、このとき、ある噂が流れました。遠征するからには、自身の地位をさらに明確なものにするため、「王」の称号、つまり"ローマ帝国"の必要性をカエサルが主張しているというもので、かつての貴族共和政の復活を目指している共和派の残党達は、"カエサルが王位につけば、共和政は完全に消滅し、元老院も完全に倒れるだろう"と考え、カエサルに対する反感を強め始めたのです。その中で、ポンペイウス死後、カエサルと長きにわたって行政を共にしてきたブルートゥスは、自身が共和政創建者を子孫に持つことに誇りを持ち、同士カッシウスらと暗殺を共謀、B.C.44年3月15日、パルティア遠征直前の元老院議会開催中、席上でカエサルは共和派の暗殺一味によって暗殺されました。信任の厚く、息子のように可愛がっていたブルートゥスが暗殺一味の中にいるのを発見したカエサルは、驚きと悲しみが同時に湧きながら"わが子よ、お前もか!!"と発し、暗殺者が剣をカエサルに向けた時、カエサルは抵抗をあきらめ、そのまま刺されたといわれております。

 カエサルの死は、民衆と兵士に深い悲しみを与えました。火葬されたカエサルの遺体は夜空の星となって、神ユリウスとされました。カエサル暗殺時にローマに滞在していたクレオパトラ7世と子カイサリオンは、エジプトへ帰国し、親子で共同統治を行うことを宣言しました。またカエサルを信頼し続けたアントニウスは、彼を神と崇め、カエサルに倣った雄弁ぶりで追悼演説を行ったのでした。

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