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2019年03月24日
3月24日は何に陽(ひ)が当たったか?
809年3月24日は、中世イスラム帝国の代表、アッバース朝(750-1258)のカリフ(カリフとは預言者ムハンマド亡き後の、ムスリム全体の政治的首長の称号)、かつ王朝の全盛期を現出したハールーン・アッラシード(アッ・ラシード。763-809。カリフ位786-809)の没年月日です。
首都バグダード(バグダッド。現イラク共和国首都)を鉄壁の王都として築いた第2代カリフ、マンスール(位754-775)のもとで、アッバース朝の基礎が築かれました。マンスール没後、子のマフディー(位775-785)、孫のハーディー(位785-786)がカリフを継ぎ、世襲制度も安定していきました。ハーディーは786年暗殺され、その弟が第5代カリフに就きます。このカリフの時代にアッバース朝は政治面、経済面、文化面すべてにおいて全盛期を迎え、首都バグダードは人口が200万に膨れ上がるのです。この黄金時代を現出したハーディーの弟である第5代カリフが、ハールーン・アッラシードです。
ハールーン・アッラシードは、マフディーと奴隷出身の母との間に生まれました(763/766-809)。代々ワズィール(宰相)は、イラン系の名家であるバルマク家がつとめていましたが、ラシードが即位した最初の17年間は、ヤフヤ(738-805)と息子ファドル(?-806)とジャアファル(?-803)兄弟らによるバルマク家がワズィールとして政権を握っていました。ラシードは、803年以後、バルマク家の一掃を図り、ヤフヤ、ファドル、ジャアファルらを捕らえ、同家の一族を大量粛清しました。これまでバルマク家を大いに重用していたラシードでしたが、権勢のあったバルマク家を追放して親政を行うが為に粛清したのか、あるいは他の理由があったのか、真相は不明です。のちに完成するアラビア語文学の大説話集『アラビアン・ナイト(千夜一夜物語)』の中に、バルマク家の惨劇に関する内容が記述されています。
ラシードの真の脅威は803年の親政後に始まりました。791年から西方のビザンツ帝国(395-1453)と戦い、797年にはビザンツの支配する小アジア(アナトリア)への親征も行っていましたが、親政後も再度親征を行い(806)、ビザンツからの朝貢を条件に講和しました(809)。またフランク王国(481-887)のカール大帝(カール1世。王位768-814、西ローマ帝位800-814)に使節をおくり、贈り物を交換したとも言われています。スンナ派の信仰を徹底、また産業や貿易を振興し、多くの文化人を平安の都バグダードに集めて、学問・芸術を奨励しました。このため、バグダードを中心にイスラム文化が発展し、バグダードは"世界に並ぶものなき都"として繁栄していきました。こうして、ハールーン・アッラシードの権勢は広く知れ渡るようになっていったのです。
ハールーン・アッラシードはイラン北東部、ホラーサーン地方での反乱を鎮圧するため、ホラーサーン親征を決行しますが、809年戦場へ向かう途中、ホラーサーンのトゥースで3月24日、病気のために没しました。その後は3人の子、アミーン(位809-813)、マームーン(位813-833)、ムータスィム(位833-842)と続き、世襲によるカリフ継承はその後も続けられましたが、ムクタディル(位908-932)が登場した頃は、すでに第18代カリフで、ラシードが没して約100年の間、11人ものカリフ位交替を行っていました。これから見ても分かるように、カリフの権威はラシードの没を境に徐々に縮小されていくのでした。
首都バグダード(バグダッド。現イラク共和国首都)を鉄壁の王都として築いた第2代カリフ、マンスール(位754-775)のもとで、アッバース朝の基礎が築かれました。マンスール没後、子のマフディー(位775-785)、孫のハーディー(位785-786)がカリフを継ぎ、世襲制度も安定していきました。ハーディーは786年暗殺され、その弟が第5代カリフに就きます。このカリフの時代にアッバース朝は政治面、経済面、文化面すべてにおいて全盛期を迎え、首都バグダードは人口が200万に膨れ上がるのです。この黄金時代を現出したハーディーの弟である第5代カリフが、ハールーン・アッラシードです。
ハールーン・アッラシードは、マフディーと奴隷出身の母との間に生まれました(763/766-809)。代々ワズィール(宰相)は、イラン系の名家であるバルマク家がつとめていましたが、ラシードが即位した最初の17年間は、ヤフヤ(738-805)と息子ファドル(?-806)とジャアファル(?-803)兄弟らによるバルマク家がワズィールとして政権を握っていました。ラシードは、803年以後、バルマク家の一掃を図り、ヤフヤ、ファドル、ジャアファルらを捕らえ、同家の一族を大量粛清しました。これまでバルマク家を大いに重用していたラシードでしたが、権勢のあったバルマク家を追放して親政を行うが為に粛清したのか、あるいは他の理由があったのか、真相は不明です。のちに完成するアラビア語文学の大説話集『アラビアン・ナイト(千夜一夜物語)』の中に、バルマク家の惨劇に関する内容が記述されています。
ラシードの真の脅威は803年の親政後に始まりました。791年から西方のビザンツ帝国(395-1453)と戦い、797年にはビザンツの支配する小アジア(アナトリア)への親征も行っていましたが、親政後も再度親征を行い(806)、ビザンツからの朝貢を条件に講和しました(809)。またフランク王国(481-887)のカール大帝(カール1世。王位768-814、西ローマ帝位800-814)に使節をおくり、贈り物を交換したとも言われています。スンナ派の信仰を徹底、また産業や貿易を振興し、多くの文化人を平安の都バグダードに集めて、学問・芸術を奨励しました。このため、バグダードを中心にイスラム文化が発展し、バグダードは"世界に並ぶものなき都"として繁栄していきました。こうして、ハールーン・アッラシードの権勢は広く知れ渡るようになっていったのです。
ハールーン・アッラシードはイラン北東部、ホラーサーン地方での反乱を鎮圧するため、ホラーサーン親征を決行しますが、809年戦場へ向かう途中、ホラーサーンのトゥースで3月24日、病気のために没しました。その後は3人の子、アミーン(位809-813)、マームーン(位813-833)、ムータスィム(位833-842)と続き、世襲によるカリフ継承はその後も続けられましたが、ムクタディル(位908-932)が登場した頃は、すでに第18代カリフで、ラシードが没して約100年の間、11人ものカリフ位交替を行っていました。これから見ても分かるように、カリフの権威はラシードの没を境に徐々に縮小されていくのでした。
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posted by ottovonmax at 00:00| 歴史