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2018年10月31日

10月31日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1941年10月31日は、アメリカ合衆国、サウスダコタ州キーストーンのラシュモア山にある4人の大統領の石像(画像はこちら。以下、wikipediaより)が完成した日です。

 ラシュモア山の難い花崗岩の地表に、左から初代ジョージ・ワシントン(任1789-97)、第3代トーマス・ジェファーソン(任1801-09)、第26代セオドア・ルーズベルト(任1901-09)と第16代エイブラハム・リンカーン(任1861-65)の、高さ18メートルの巨大な石像を彫ることをアメリカ政府に委託されたのは、ガットスン・ボーグラム(1867-1941)という彫刻家で、1927年、標高1745メートルのラシュモア山に、400人の作業員とともに、ダイナマイトで表面を粉砕しながらの大がかりな彫刻作業を行いました。ボーグラムは、ライフワークとも言うべきこの大がかりな作業を14年かけて彫り続け、陽の当たった1941年10月31日に完成しました。
 この彫像は、ラシュモア山国立記念公園として1925年3月3日に国定記念建造物に指定されました。この彫像は硬い岩石でできているため、10000年はこの形を保つことができると言われています。1952年の記念切手にもなりました(画像はこちら)。

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posted by ottovonmax at 00:00| 歴史

2018年10月30日

10月30日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1905年10月30日(グレゴリオ暦。ユリウス暦10月17日)は、ロシア帝国皇帝、ニコライ2世(1894-1917)が十月勅令(十月詔書)を発した日です。

 20世紀初頭より、ツァーリズム専政支配を貫くニコライ2世に対し、労働者や下層兵士らには平等と改善を求めて反政府、反帝政の動きが出てきました。こうした中で、時世に憂いを感じたガポン神父(ゲオルギー・ガポン。1870-1906)が、モスクワの保安部長長官であるセルゲイ・ズバートフ(1864-1917)に接近しました。ズバートフは警察監督下の合法的労働運動を推進していた社会主義者で、ガポンはズバートフから人脈と資金を得たらしく(真相不明。諸説あり)、1903年ペテルブルクで、工場労働者の組合を組織しました。やがてこの組合は生活難にあえぐ労働者の拠り所となっていきました。
 折しもこの頃は労働条件の改善を求めて大規模なストライキがおこされていました。また日露戦争も勃発したことも重なり、ガポンは労働者の窮状を皇帝ニコライ2世に示すため、労働条件の向上化と戦争中止における平和を請願することを決意しました。
 そして、1905年1月22日(ユリウス暦1月9日)の日曜日、「プラウダ(=正義、真実)」を求める請願書を持ったガポン神父は家族と、ストライキ中のプチロフ工場の労働者を率いて、ペテルブルクの宮殿にむけて示威行進しました。見物者も多く詰めかけた冬宮広場にガポンら行進者が集まったところ、宮問警備隊は彼らに対し、突如、無差別発砲を行いました(血の日曜日事件)。行進者だけでなく見物していた民衆も犠牲となり、2000名をこえる死傷者が出(うち死者は100人以上。諸説あり)、冬宮広場は流血の惨状と化しました。これが"1905年の革命(ロシア第一革命)"の勃発となります。
 事前に内相との打合せがあったにもかかわらず、民衆を巻き込む大惨事となったこの事件で、ガポン神父は現場を逃れ、ロンドンに亡命しました。これを機に、ストライキは全国的に広がっていき、また日露戦争においても日本に連敗を喫しました。特にロシア・バルチック艦隊の壊滅は水兵にも悲嘆や政府への怒りをもたらし、1905年6月、黒海艦隊所属の戦艦ポチョムキン号内で水兵による暴動が起こり、政府は戦争続行を断念し、9月に講和しました(ポーツマス条約)。

 10月にはゼネストが決行されました。鉄道・郵便・電話の機能が停止する中、ペテルブルクである大会が開かれました。これは、革命勃発以降、労働者と兵士が自発的に形成した評議会であり、"ソヴィエト(労兵会。「会議」の意味)"と呼ばれた、労働者と兵士の代表選出機関です。

 ソヴィエトが結成されてから、ニコライ2世の反動体制は徐々に批判の色を強めました。こうした中、1905年10月30日(ユリウス暦10月17日)、ニコライ2世は「十月勅令(十月宣言。十月詔書)」をヴィッテ(もと蔵相で、ポーツマス条約のロシア全権代表。1849-1915)に起草させて、これを発しました。この内容は、立憲政治の必要から憲法の制定と、ドゥーマ(国会)の開設を約束したもので、翌年ドゥーマが開会され、憲法が発布されました。これにて第一革命は終結の方向に向かいました。しかしドゥーマは開設されても、代表は地主貴族ばかりで、ニコライ2世の反動支配体制はあまり変わりませんでした。またヴィッテは首相となりましたが(任1905-06)、数々の自由主義改革を断行したことにより、ニコライ2世の怒りを受け翌年解任されてしまいました。これにより、ロシア革命は次の段階に入っていき、1917年に歴史的に世界を揺るがす大きな革命が勃発するのでした。

引用文献:『世界史の目 第44話』より

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タグ:ロシア
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2018年10月29日

10月29日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1923年10月29日は、トルコ共和国の建国年月日です。

 第一次世界大戦(1914-18)に敗戦を喫したオスマン帝国(オスマン=トルコ。1299-1922)は、領有するアラブ地域を連合軍に占領されて、国土は小アジア全域(アナトリア)と東トラキア地方(バルカン半島東部。ルメリアの一部)を削り取られてしまいました。1918年11月にはイギリス・フランス・イタリア・アメリカの連合軍がアナトリア南部に上陸して占領、さらには1919年5月、戦勝国ギリシアによってギリシア人が多く住む港市イズミル(アナトリア西海岸。旧称スミルナ。"エーゲ海の真珠")に進軍、占領されました(ギリシア=トルコ戦争。希土戦争。1919-22)。

 イズミル占領までのオスマン帝国の首都イスタンブルに置かれた当時の政府は、第一次世界大戦(1914-18)の敗戦により崩壊寸前であり、帝国のスルタン、メフメト6世(位1918-22)は専制君主政の機会と判断して、連合軍による国土占領を依存的に認めて地位確保に専念しようとしました。しかし前に述べた、その後のイズミル占領によって、アナトリア回復・祖国解放・反帝国主義思想といった反政府の抵抗勢力がトルコ人の間で起こり、"アナドル・ルメリ権利擁護団(アナトリア・ルメリア権利擁護委員会)"が結成されました。これを組織したのはムスタファ・ケマル(1881-1938)という人物です。

 ムスタファ・ケマルは、1901年に士官学校を卒業し、1905年に入官しましたが、この時代はスルタン、アブデュルハミト2世(位1876-1909。その専政ぶりは"流血のスルタン"の異名を取る)の治世で、スルタンの専政に不満を抱き、当時反スルタン派の青年トルコ党(進歩と統一委員会)に入党(1907)、1908年の青年トルコ革命(ミドハト憲法復活とアブデュルハミト2世廃位)を経験しました。第一次大戦中の1915年、軍司令官のケマルは連合軍のイスタンブルへの航路の停泊地であるガリポリ半島(ゲリボル半島。ダーダネルス海峡西方)への上陸(ガリポリ上陸作戦)をくい止めて軍功をあげ、翌年准将に昇進、ケマル・パシャの呼び名で知られるようになり、人脈を拡大させました。敗戦後もメフメト6世はケマルを軍監察官に任命したが、ケマルはこれを利用して反政府側に立ち、1919年5月、黒海沿岸のサムスン(サムソン)に上陸、やがてエルズルム(東アナトリア地方)やスィヴァス(中央アナトリア地方)で会議が開催され、"アナドル・ルメリ権利擁護団"結集に至ります。1920年1月には「国民盟約(国民誓約)」がケマルによって取り入れられて、トルコの国土保全・領土分割反対・敗戦による賠償金支払拒否を主張しました。また国家・国民に対しては後回しで、連合国にすがって帝国君主の地位、ならびにスルタン制度を守ろうとするオスマン家に対しても反感があり、徹底して帝国政府に反抗していました。

 オスマン帝国政府は、ケマル側に対して懐柔策を施して、前年末に帝国議会を解散・総選挙を行いましたが、その結果、国民の支持は権利擁護団へ集中しました。これにより帝国議会は1920年1月、「国民盟約」を採択することになります。しかし3月、これに不安を感じた連合軍は帝都イスタンブルを占領して、4月に議会は解散を余儀なくされて、オスマン帝国は壊滅状態となりました。イスタンブルを脱した90名近い帝国議会の議員たちは、トルコ復活を信じてアンカラ(現トルコの首都)に結集、権利擁護団の党員と合流しました。そして同4月23日、アンカラにて抵抗政権樹立を目指した大国民議会(トルコ大国民議会)が開かれ、ケマルは議長に選ばれてついに臨時政府が立ち上がりました(1920.4.23)。これにより、オスマン帝国はメフメト6世中心のイスタンブル政権と、ケマル・パシャ中心のアンカラ政権の二重権力状態となりました。

 1920年8月10日、第一次大戦後の講和条約が連合国とオスマン帝国(メフメト6世)間で締結された(セーブル条約)。この条約によってトルコ人は帝国の大半の領土を失うことになるだけでなく、財政決定権を連合軍が管理することや、軍縮、治外法権などが決まるといった亡国的屈辱を味わうのでした。中でも、かつてのヨーロッパ争奪の的であり、オスマン帝国にとっても重要地域だったボスフォラス・ダーダネルス両海峡も開放され、さらにアラブ地域は委任統治となりました。
 この条約を締結したメフメト6世のオスマン帝国政府(イスタンブル)に対し、ケマル・パシャの大国民議会政権(アンカラ)は「国民盟約」の違反とセーヴル条約批准拒否を主張し、政権樹立後から行われてきた祖国解放運動を活発化させました。依然として連合軍にすがりつくメフメト6世に対し、愛国心高揚を謳うケマル・パシャの精神はトルコ全土に拡がり、イズミル占領後アンカラにも迫ったギリシア軍を敗退させて(1921)、これまで希土戦争において劣勢だったトルコ軍は同年8月、サカリヤ川(アナトリア西北部。マルマラ地方)の戦闘でギリシア軍を敗退後優勢に転じ、1922年9月、遂にイズミル奪還に成功(ケマルの有名な指令、"目標は地中海、前進せよ"はここで生まれます)、ケマルの率いるトルコ大国民議会軍がギリシア軍に勝利しました。結果、連合国側は、トルコに対して、セーヴル条約を改定した新条約を結ぶ交渉を始める通告を発表しました。このとき連合国側はメフメト6世のオスマン帝国だけでなく、ケマル・パシャ政権も講和会議に招請しました。

 ついに連合国を動かしたケマル・パシャは、条約改正を機に、トルコの二重政権の統一に動きました。すでに国家君主の機能を失ったオスマン家のスルタンがムハンマド(570頃-632)の代理権機能を持つカリフを兼ねる(スルタン・カリフ制)必要はあるのか、またスルタンはイスラム支配の最高地位・教権保持者であるのに、オスマン家のスルタンそのものが該当するかといった疑問を抱いていたケマルは、1922年11月1日、スルタンとカリフの地位を分離させると共に、スルタン制を廃止しました。これにてメフメト6世は廃位されてマルタに亡命、620年余続いたオスマン帝国は名実共に滅亡するに至りました(オスマン帝国滅亡)。
 
 1923年、セーヴル条約の改定会議がスイスのローザンヌで7ヶ月かけて行われて、7月23日、英仏を中陰とする連合国を相手にローザンヌ条約が結ばれました。これによりアナトリア、東トラキアの確保が実現するといったトルコの国境が画定、賠償の減額、治外法権撤廃、関税自主権回復、希土間の住民交換(複数国家間での住民の強制入替。トルコからは100万におよぶギリシャ正教徒がギリシャへ流れ、ギリシャからは50万人のイスラム教徒がトルコへ流れる)などが決められ、ついにトルコは主権を回復しました。トルコの祖国解放は一応の終結を見ました。

 このケマル・パシャによるスルタン制から共和制への移行を実施するに伴い、1923年4月に権利擁護団を政党化して国民党(トルコ国民党人民党)とし、同党は総選挙で圧倒的多数の支持に立ちました。そして、陽の当たった1923年10月29日共和制の宣言を行い、アンカラを首都とする、トルコ民族のトルコ共和国が誕生しました。そしてケマル・パシャはトルコ共和国の初代大統領に就任することになりました(任1923.10.29-1938.11.10)。

 ケマル・パシャはトルコの脱イスラム化と西欧化・近代化の推進を目指し、様々な改革を施しました。まず1924年3月3日、カリフ制廃止を可決させて完全な政教分離を行いました。また1924年に制定されたトルコ共和国憲法では主権在民・一院制議会・大統領任期(4年)といった西欧化が施され、トルコ国民党(人民党)は同年11月共和人民党と改称、また政教分離の一環としてシャリーア(イスラム法)の廃止、マドラサ(高等教育機関)の閉鎖、ワクフ(ムスリムで行われる財産寄進。モスクなど施設を維持するために教徒が土地財産などを寄進すること)管理者の免官、イスラム法廷の廃止などが行われました(イスラム教を国教とする条項は4年後の1928年に削除)。
 またケマル大統領は民法改正(新市民法)に伴う一夫多妻制度の禁止(1925年以降)を行いました。これにより女性解放が促進され、婦人参政権などが求められた(1934年実施)。服装ではヒジャブ(ブルカやチャドルなどと同様、女性のヴェールの一種)が好ましくない着用とされる一方で、男子服装ではフェズ(トルコ帽。つばのない円筒形の帽子)の着用は全面禁止(1925)となりました。
 トルコの世俗化対策はこれだけにとどまらず、マドラサ閉鎖後にアラビア文字の廃止とラテン文字(ローマ字)の採用が定められて(1928。文字改革)、生活面ではヒジュラ暦(イスラム暦)をグレゴリオ暦に改正しました。

 1932年には国際連盟加盟が実現し、トルコは国際的にも認められました。こうしたケマル大統領が施したさまざまな改革の成功によってケマルの英雄化・神格化が促されていきました。1934年に姓氏制度(創姓法)を導入してトルコ人の姓が義務づけられると同時に、建国の英雄であるムスタファ・ケマルに「アタテュルク(=父なるトルコ人)」の姓を贈ることが大国民議会で議決されました。こうしてケマル・パシャは「ケマル・アタテュルク」としてトルコ国民に崇められたのでした。

引用文献『世界史の目 第150話』より

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2018年10月28日

10月28日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1412年10月28日は、14世紀後半から15世紀前半にかけて、北欧諸国家の女性支配者、マルグレーテ1世(1353-1412)の没年月日です。北欧三国の実質的な君臨者として、実権を掌握した彼女は、女王そのものだったのです。今回は北ヨーロッパの14〜15世紀のお話です。

 14世紀のデンマークは国力が減退し、しかも8年間国王空位時代が続いていました。1340年、国王ヴァルデマー4世(デンマーク王位1340-75。以下"デ王位"と呼ぶ)が即位すると、彼はドイツ騎士団にエストニアを売却して得た資金で財政再建を行い、巧みな外交術や軍力強化でもって国家再興を成し遂げて、復興王(アッティルダーク)と呼ばれました。しかし1375年、ヴェルデマー4世は男児を遺さずに没したので、外孫(娘の息子)のオーロフ3世(1370-87)が後継者となりました(デ王位1376-87)。父はノルウェー王のホーコン6世(ノルウェー王位1343-80。以下"ノ王位"と呼ぶ)で、一時スウェーデン王も兼任しました(スウェーデン王位1362-64。以下"ス王位"と呼ぶ)。

 そして母、つまりデンマーク王ヴァルデマー4世の娘であり、次代のデンマーク王母となったのが、北欧の実質上の支配者となったマルグレーテです。1376年息子オーロフ3世がデンマーク王として5歳で即位すると、マルグレーテはオーロフの摂政となり、1380年に夫のノルウェー王ホーコン6世が没すると、オーロフをノルウェー王オーラヴ4世として即位させ(ノ王位1380-87)、同時にマルグレーテはノルウェー王室においても摂政を務めました。しかし1387年、子のオーロフ(オーラヴ)も18歳の若さで夭逝しましたので、マルグレーテはデンマーク・ノルウェー両国で国王が決まるまで引き続き摂政を続行しました。北欧では女性の王位継承は認められませんでしたが、マルグレーテはデンマークの議会で国力及び近隣国との友好関係を安定に導いた功労者であるとして、国家的な後見役として認められたのです。国王としての即位ではありませんでしたが、次期国王を選出する権限を認められて、実質上、"女王"と同様の扱いでした。このため、マルグレーテは、女王マルグレーテ1世と呼ばれます(実質は摂政。デンマーク摂政期間1375-1412)。また1388年にはノルウェーにおいても同様に認められました(ノルウェー摂政期間1388-1412)。

 1389年、マルグレーテはまずノルウェーの王位を決めようと、彼女の姉の娘の息子、つまり又甥(甥の子)にあたるエーリヒ(1382-1459。エーリク・ア・ポンメルン)をエイリーク3世としてノルウェー王に即位させ(ノ王位1389-1442)、ノルウェー王の摂政として権威を維持しました。
 また彼女はスウェーデンにも手を伸ばします。当時スウェーデンは北ドイツの貴族出身のアルブレクト王(ス王位1364-89)が君臨していました。前王がマルグレーテの夫で、ノルウェー王でもあったホーコン6世(前述)で、スウェーデン王である父マグヌス4世(ス王位1319-64)とともに共同統治していました。しかしスウェーデン貴族に嫌われマグヌス4世、ホーコン6世は退位し、ドイツ貴族が迎えられた経緯によるものでした。マルグレーテは北欧の三国を掌握するためスウェーデンに近づきましたが、アルブレクト王はマルグレーテがスウェーデン摂政となり北欧の女王になることを嫌い、対立を深めて争いました。結果アルブレクト王が敗れて捕虜とされたことで、スウェーデンではマルグレーテに支持がより多く集まりました。
 この結果、1389年にアルブレクト王はスウェーデン王位を剥奪されました。その後スウェーデンの議会においてもマルグレーテをデンマーク、ノルウェーに続く国家的な後見役として認められることとなったのです(スウェーデン摂政期間1389-1412)。1396年、マルグレーテは、ノルウェー王エイリーク3世を、スウェーデン王エリク13世(ス王位1396-1439)として即位させ、都合良くデンマーク王としても彼をエーリク7世(1396-1439)として即位させました。マルグレーテの北欧三国の実質上の摂政としての治世がスタートしたのです。まさに北欧三国の同君連合の誕生でありました。

 1397年、マルグレーテは同君連合をさらに強化するため、バルト海に面するスウェーデンのカルマル城(カルマル市に築城)において、三国の強力な連合体、カルマル同盟(カルマル連合)を締結しました。この同盟は名目上、対等な関係で結ばれていましたが、実質はデンマーク中心の国家連合体であり、デンマーク連合王国(1397-1523)と呼ばれました。聡明で強い意志を持ったマルグレーテは文字通り、北欧の覇者となり、古代アッシリア帝国(B.C.2000年紀初-B.C.612)の伝説上の人物の名に因み、「北欧のセミラミス」と呼ばれました。セミラミスのモデルはシャムラマト(サンムラマート。B.C.9世紀頃の人物)と言われたアッシリア王の妃であり、王子の王位継承後も摂政として、賢明な諸政策を施して権勢を振るったと言われており、まさにマルグレーテはセミラミスの再来でありました。

 1412年10月28日、マルグレーテは59歳(58歳?)で没しますが、北ドイツのフレンズブルクの湾岸を航行中に突然死したとされています。コペンハーゲン近郊のロスキレ大聖堂にて埋葬されました。

 カルマル同盟は16世紀にスウェーデンの同盟離脱騒動が起こり、デンマークはスウェーデンの独立派を一掃しました(1520。ストックホルムの血浴)。この粛清を命じたデンマーク王及びノルウェー王クリスチャン2世(デ・ノとも王位1513-23)は、1520年からはスウェーデン王も兼ねていました(ス王位1520-21)が、この粛清を境にデンマークとスウェーデン間の同盟関係は悪化、スウェーデンの独立派の貴族グスタフ・ヴァーサ(1495-1560)のおこした反デンマーク運動や農民反乱によって、1521年、同盟からの離脱とスウェーデン摂政に就くことを宣言、同年クリスチャン2世はスウェーデン王位を廃されてしまいました。

 クリスチャン2世の失政は本国デンマーク、同盟国ノルウェーにも飛び火し、1523年、デンマーク、ノルウェー両王位からも退くことになり、国外亡命を余儀なくされ、彼の叔父フレゼリク1世(デ・ノとも王位1523-33)が即位することになりました。そしてスウェーデンは正式にカルマル同盟から離脱してグスタフ・ヴァーサがスウェーデン王・グスタフ1世として即位することになりました(位1523-60。スウェーデン王国ヴァーサ朝の成立。1523-1654)。

 これにてカルマル同盟は解消(1523)、デンマークはノルウェーとの同君連合に戻り、19世紀前半まで維持させましたが、1813年、スウェーデンとの戦争に敗北、キール条約(1814)を締結させられてノルウェーをスウェーデンに割譲することになり、マルグレーテが苦心してつくりあげたデンマークを中心とする北欧の国家連合は完全に崩壊してしまいました。

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2018年10月27日

10月27日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1979年10月27日は、イギリスのパブ・ロック・グループ、Brinsley Schwarz(ブリンズレー・シュワルツ。1969-75)のギタリストとして知られたIan Gomm(イアン・ゴム)のシングル、"Hold On"が同年同月同日付Billboard HOT100シングルチャートで最高位18位を記録した日です。

 Ian Gommは、ギタリストBrinsley SchwarzがベーシストNick Loweらと結成したパブ・ロック・グループBrinsley Schwarzに1970年に加入し、1974年に脱退しました。もともとはBrinsley Schwarzのアルバム"It's All Over Now"の収録曲として、Ianが在籍中にNickと書いた"Cruel To Be Kind(邦題:恋するふたり)"が、1975年のBrinsley Schwarz解散に伴い"It's All Over Now"が発売されなくなり(公式発売は2017年)、結果"Cruel To Be Kind"は、Nickのソロ・アルバム"Labour of Lust"に収められて、1979年8月にシングルとしてリリースされたのです。

 "Cruel To Be Kind"とほぼ同時期にIanのシングル"Hold On"もリリースされており、HOT100シングルチャートで9月1日付で81位でエントリーしていた時点で、"Cruel To Be Kind"は27位と上昇中でした。"Cruel To Be Kind"は9月29日付で最高位12位を3週続けて記録し、15週間チャート・インしました。
 Ianもまた初のソロ・アルバム"Summer Holiday"を1978年にリリースしますが、2曲を追加収録するなど再度編集し直して、改めて"Gomm with the Wind"としてもリリースされ、シングル、"Hold On"がカットされました。
 心地良いギターサウンドと美しいサックスの音色に、切ないIanの歌声が魅力的なこの曲は、81位にエントリー後、71位→59位→51位→42位と順調に上昇し、6週目で34位とTop40入りを果たし、その後は26位→20位とトントン拍子でTop20入りしました。陽の当たった10月27日付チャートで18位を2週続けて、その後は65位→93位→圏外と激しく後退しましたが、12週のチャートインを果たしました。アルバム"Gomm with the Wind"は、陽の当たった10月27日付のBillboard200アルバムチャートでにて最高位104位を記録しています。

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2018年10月26日

10月26日は何に陽(ひ)が当たったか?

 899年10月26日は、"大王"と呼ばれたイングランド王国国王、アルフレッド(848?/849?-899)の没年月日です。

 7〜8世紀、北欧のスカンディナヴィア半島並びにユトランド半島はでは、ゲルマン民族の一派で、北ゲルマンのノルマン人("Normans=北方人"の意)が住んでおり、ノルウェー原住のノール人、デンマーク原住のデーン人、スウェーデン地方原住のスウェード人といった部族から成り立っていました。
 その内の一つ、デーン人はイングランドにも進出したが、西ゲルマンに属していたアングロ・サクソン人がイングランドにいました。アングロ・サクソン人は、アングル族・サクソン族・ジュート族から構成され、北西ドイツからユトランド半島に原住していた民族で、5世紀中頃にブリタニア南部へ波状的に海渡進出、先住のケルト人を圧し多くの小国家群を形成しました。南ブリタニアは"アングルの地"という意味でイングランドと呼ばれるようになります。その後のイングランドでは、北からノーサンブリア、マーシア、イースト・アングリア、エセックス、ウェセックス、サセックス、ケントの七王国(ヘプターキー。449?-829?。年代の特定には諸説あり)としてまとまり、
その後ウェセックス王エグバート(エグベルト。ウェセックス王位802-939)が829年に七王国を統一してイングランド王国を形成、エグバートは初代イングランド王となりました(位829-839)。
 デーン人は837年にイングランド進出をみせたが、エグバート王に撃退されました。しかしその後も侵入を続けて、次第にイングランドに定着する姿勢をみせると共に侵略規模も激化しました。こうした中で、エグバートは839年に没し、孫アルフレッドが兄の後を継いでウェセックス王に就くと(位871-899。アルフレッド大王)、デーン人撃退のことだけに集中しました。9世紀中頃になるとウェセックス以外の諸王国がデーンに屈服しており、アルフレッドがウェセックス王即位時には、すでにデーン人の支配地域がウェセックス東部にまで広がり、ウェセックスは絶体絶命にまで陥っていました。デーン人のイングランド征服は間近だったのです。

 アルフレッド大王はこの事態に、諸勢力を結集させ、ウェセックスの要地に城塞を築かせました。また海渡進出するデーン人から防衛するため、海軍を再度訓練させてその強化をはかりました。その後はねばり強くデーン軍の攻撃をかわし、そして反撃を始めました。878年、エディントンの戦いでアルフレッド王は勝利し、886年、デーン人と協定を締結、デーン人が支配したイングランド東北部を"デーンロウ"と名付けて境界線を定め、ロンドンを含む南西部を死守し、デーンロウ以外の全イングランドをおさえることに成功しました。

 デーン人からイングランド王国を守っただけではなく、フランク王国(481-887)のカール大帝(カール1世。王位768-814。帝位800-814)に倣い、宮廷学校を創設し、軍政改革(騎士軍・海軍の編成)・行政と司法の整備、アングロ・サクソン法の集大成、『アングロ・サクソン年代記』の編纂、ラテン古典文学の英訳など、あらゆる面において優れた、"最大の王"でありました。これが"大王"と呼ばれるゆえんであり、死後は伝説化されたのでした。 

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2018年10月25日

10月25日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1986年10月25日は、ウィスコンシン州マディソン結成のロック・グループ、Timbuk3(ティムバック3)のデビュー・シングル、"The Future's So Bright, I Gotta Wear Shades(邦題:フューチャー)"が、同年同月同日付Billboard HOT100シングルチャートで85位にニューエントリーしたと同時に、メインストリームロックチャート(当時はAlbum Rock Tracks)で最高位14位を記録した日でもあります。

 Timbuk3は、夫Patと妻BarbaraのMacDonald夫妻のユニットで、デビュー・アルバムこそポスト・パンク/ニュー・ウェイヴ的立場で見られていますが、彼らの残したアルバムの中にはブルース・ロック的、またフォーク・ロック的なアプローチもあります。その後の彼らは時代と共に迎える90年代の流れに乗って、オルタナティブ・ロック・バンドとして見られるようになりました。PatとBarbaraはともにヴォーカル、ギター、ベース、ハーモニカ、キーボード、ドラム、マンドリン、フィドル、プログラミング等、お互いすべての楽器を操ることができるマルチ・ミュージシャンで、Dennis Herringのプロデュースでデビュー・アルバムが制作されることになりました。
 1986年10月、レコード・レーベルI.R.S.よりデビュー・アルバム"Greetings from Timbuk3(邦題:グリーティング)"がリリースされました。ソングライティングは全曲Patが担当、Barbaraも1曲共同で書いています。また、うち2曲が1986年公開の" The Texas Chainsaw Massacre 2"のサウンドトラック盤に収録されるました( "Life is Hard" "Shame on You")。
 このアルバムはポスト・パンクとは言えどもブルース色の濃いノリの良いナンバーや、馴染みやすいポップ・ロックなどが満載ですが、中でもシングル・カットされ、デビュー・シングルとなった"The Future's So Bright, I Gotta Wear Shades"は、ハーモニカやギターの歯切れが良く、二人でのダブル・ヴォーカルも親しみやすいナンバーです。プロモーション・ビデオはモノクロの地味な映像ですが、アルバムジャケットのテレビを背負った馬も登場したり、人の顔のイラストに実写の人間の口だけをはめたお遊びがあったりなど見所が多く、なんといっても二人が淡々とギターやハーモニカを演奏しているシーンは非常にシブい映像です(映像はこちらDailymotionより)。

 陽の当たった10月25日付HOT100で85位にエントリーした"The Future's So Bright, I Gotta Wear Shades"は、その後74位→59位→46位と上昇、登場して5週目で40位とTop40入りを果たしました。続いて35位→30位→26位→20位とトントンと上昇してTop20入りを果たしますがここで動きは鈍り、続く1987年12月27日付で19位、翌週1987年1月3日付はBillboard休刊日のため同位でとどまり、結局2週続けて19位の記録となり、その後降下しました。結果16週間のチャートインで終わりました。
 またAlbum Rock Tracksチャートでは、9月20日に36位にエントリー後、24位→20位→20位→16位と上昇、陽の当たった10月25日に14位を記録、2週14位を続けてその後は降下、10週間チャートインしています。

 なお、Timbuk3にとって"The Future's So Bright, I Gotta Wear Shades"はHOT100に入った唯一のナンバーでしたが、1987年のGrammy Award for Best New ArtistBruce Hornsby & the Range、カナダのGlass Tiger、Nu Shooz、マンチェスターのSimply Redとともにノミネートされました。この年はTimbuk3と同様、夫婦ユニットのNu Shoozもノミネートされましたが、賞はBruce Hornsbyが獲得しました。

 Timbuk3はその後5枚のアルバムをリリースし、地道な活動を続けましたが、残念ながら1995年にPatとBarbaraに離婚が成立してグループは解散に至っております。

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2018年10月24日

10月24日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1648年10月24日は、世界史上初めて、本格的な国際法上の講和条約となった、ウェストファリア条約(ヴェストファーレン条約。正式名称"ミュンスター講和条約とオスナブリュック講和条約")が調印された日です。主権国家体制の途が開かれるきっかけとなった条約です。
 
 1618年に始まった三十年戦争によってドイツは荒廃し、虐殺された多くの罪のない市民・農民の遺体が散乱、またペスト流行によるさらなる人口激減も重なって、都市や村落の各機構も麻痺状態でした。元来非統一的国家であったドイツ(神聖ローマ帝国962-1806)は、領邦(神聖ローマ帝国を構成し、皇帝の支配を受ける、諸侯の半自治国家的区域)の分立が激化しており、神聖ローマ帝国による統一は物理的に無理となっておりました。当時の神聖ローマ皇帝はハプスブルク家から出ており、ハプスブルク朝(1273-1291,1298-1308,1314-30,1438-1742,1745-1806)とも呼ばれておりました。
 三十年戦争は、宗教改革後のヨーロッパで、カトリック国(旧教国)とプロテスタント国(新教国)とが争う宗教戦争でした。旧教国側はハプスブルク家が支配する神聖ロ−マ帝国とスペイン、新教国側はオランダ(ネーデルラント連邦共和国)・イギリス・スウェーデン・デンマークですが、旧教国フランス・ブルボン家はハプスブルク家と対立していたため、新教国を支持し、新教国側についた戦争です。

 陽の当たった1648年10月24日、三十年戦争の講和会議はドイツ北西のウェストファリアで行われました。ウェストファリアのミュンスターとオスナブリュックの2都市で協議が行われ、神聖ローマ皇帝側・スウェーデン・フランスなどが講和にあたりました。主な決議内容は、以下の通りです。

  • アウグスブルク宗教和議(1555)の確認と新教信仰の承認
  • スイス・オランダ独立の国際的承認。
  • アルザス地方におけるハプスブルク家の諸権利とロレーヌ地方の司教領(ヴェルダン・トゥール・メッツ)がフランス領へ移譲。
  • スウェーデンにも西ポンメルンとブレーメン司教領などを移譲
  • ブランデンブルクにも東ポンメルン、マグデブルク司教領などをそれぞれ移譲。
  • ドイツ領邦は独立を承認(領邦の主権が確立)。
  • 帝国議会へのフランスとスウェーデンの各代表の出席・議決の承認


 この決議は神聖ローマ帝国を支配するハプスブルク家が、フランス・ブルボン家に、完全に敗北したことを意味しました。300に及ぶドイツ領邦の主権が確立したことで、神聖ローマ帝国は形成の意味がなくなり、有名無実化し、事実上解体となったのす。しかしハプスブルク家による神聖ローマ皇帝が今後も輩出されるため精神的存在として残ることになり、ナポレオン1世(位1804-14,15)がライン同盟を結成した1806年までいちおう存続しました。このため、ウェストファリア条約は別称"神聖ローマ帝国の死亡証明書"と呼ばれるのです。近代国際会議の先駆となったこの会議は、国際関係を定めた会議として、それぞれの国境を持つ独立した国家が、主権を持ってのちの近代国家を形成する、いわば主権国家体制へのアシストを施したといって良いでしょう。

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2018年10月23日

10月23日は何に陽(ひ)が当たったか?

 紀元前42年10月23日は、ユリウス・カエサル(B.C.100-B.C.44)の謀殺に関わったブルータス(マルクス・ブルートゥス。B.C.85-B.C.42)が、カエサルの部将として活躍したマルクス・アントニウス(B.C.83-B.C.30)の軍隊とギリシアのフィリッピ(ピリッポイ)でぶつかり、命を落とした日です。

 紀元前44年の共和政ローマ時代(B.C.509-B.C.27)、カエサルはアントニウスをコンスル(執政官)に選出(1月)、カエサル自身はディクタトル(独裁官)の任期を終身としました(2月)。そして、かつて第1回三頭政治でカエサルと組んだマルクス・リキニウス・クラッスス(B.C.115-B.C.53)が為し得ませんでした、パルティア遠征を企画しましたが、このとき、ある噂が流れました。遠征するからには、自身の地位をさらに明確なものにするために、「王」の称号、つまり"ローマ帝国"の必要性をカエサルが主張しているというもので、かつての貴族共和政の復活を目指している共和派の残党達は、"カエサルが王位につけば、共和政は完全に消滅し、元老院も完全に倒れるだろう"と考え、カエサルに対する反感を強め始めたのです。その中で、グナエウス・ポンペイウス(B.C.106-B.C.48)死後、カエサルと長きにわたって行政を共にしてきたブルートゥスは、自身が共和政創建者を子孫に持つことに誇りを持ち、同士ガイウス・カッシウス(B.C.87?/B.C.86?-B.C.42)らと暗殺を共謀、この共和派の暗殺一味は同年3月15日、パルティア遠征直前の元老院議会開催中、席上でカエサルを暗殺したのです。信任の厚く、息子のように可愛がっていたブルートゥスが暗殺一味の中にいるのを発見したカエサルは、驚きと悲しみが同時に湧きながら"わが子よ、お前もか!!(もしくは'ブルートゥス、お前もか!!')"と発し、暗殺者が剣をカエサルに向けた時、カエサルは抵抗をあきらめ、そのまま刺されたといわれます。

 カエサルの死は、民衆と兵士に深い悲しみを与えました。火葬されたカエサルの遺体は夜空の星となって、神ユリウスとされました。カエサルを信頼し続けたアントニウスは、彼を神と崇め、カエサルに倣った雄弁ぶりで追悼演説を行いました。しかしカエサルと対立していた雄弁家マルクス・トゥッリウス・キケロ(B.C.106-B.C.43)が元老院に復帰しました。キケロはアントニウスを自身の敵とみなして、反アントニウスの演説を得意の雄弁ぶりで行い、カエサルの遺言で彼の養子となった当時19歳のオクタウィアヌス(B.C.63-A.D.14)の方を支持し、カエサルを暗殺したブルートゥスらを匿ったのです。ブルートゥスらはカエサル暗殺後、市民の反発でローマから離れ、アジア属州の総督となっておりましが、重税を属州民に課すなどして同地でも反発を受けていました。

 こうした情勢からアントニウスは、遂に決断しました。翌紀元前43年、カエサルの部下で、彼がディクタトルの時に副官を務めたレピドゥス(B.C.90?-B.C.13?)と、オクタヴィアヌスを引き入れて国家再建三人委員となり、第2回三頭政治(紀元前43)を開始し、元老院・政務官職を抑えて、政権独占を行ったのです。アントニウスはヘレニズム地方(ギリシア・エジプト等)、レピドゥスはアフリカ地方(エジプトを除く)、オクタウィアヌスは西方の全域を統治権としました。

 元老院のリーダーだったキケロは三頭政治に反発しましたが、アントニウスの部下によって暗殺され、ローマでさらし首となってしまいました(紀元前43)。そしてブルートゥス・カッシウスらも、紀元前42年10月3日、アントニウス、オクタヴィアヌスらの軍とギリシャのフィリッピで戦いました。フィリッピの戦いの勃発です。
 アントニウス軍対カッシウス軍、ブルートゥス軍対オクタウィアヌス軍で戦いの幕は切って下ろされました。ブルートゥス軍はオクタウィアヌス軍を敗走させますが、カッシウス軍がアントニウス軍に敗れ、最初の激突は勝敗が付きませんでした。しかし陽の当たった10月23日の再戦では、アントニウス/オクタウィアヌス側の軍が優勢に立ち、カッシウスはアントニウス軍が迫る中で壊滅状態に追いやられ、自ら命を絶ちました。カッシウスを失ったブルートゥスは、それでもなお僅かに残った軍団とともに徹底抗戦を貫きましたが、アントニウス軍の攻撃は手を緩めず、やがて包囲されブルートゥスは捕虜になることを要求されました。しかし、敵の捕虜になるのを断ったブルートゥスは、その場で自害しました。アントニウスはカエサルの仇討ちをついに果たしたのでした。

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2018年10月22日

10月22日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1797年10月22日、世界で初めて、パラシュート(落下傘)が使われた日です。フランス人アンドレ・ジャック・ガルヌラン( 1769.1.31-1823.8.13)の発明で、パラシュートがこの世に誕生しました。

 当時のフランスは革命戦争(1792-1802)をオーストリアやイギリスと起こしており、革命政府からナポレオン政府に移ってもナポレオン戦争(1803-15)が勃発し、フランスは政情不安定が高まっておりました。ガルヌランはパリ出身で、水素ガスを詰めた有人気球を発明したジャック・シャルル(1746-1823)に師事していた人物で、こうした政情不安の中でも兄のオリヴァー・ガルヌラン(1766–1849)と共に熱気球の研究に没頭、アンドレの妻ジャンヌ・ジュヌヴィエーヴ・ガルヌラン(1775-1847)、娘のエリザ・ガルヌラン(1791-1853)も協力しました。

 政情不安定の中、アンドレ・ジャック・ガルヌランはイギリス軍に捕らえられ、オーストリア軍を通じて、ハンガリーの首都ブダ(現ハンガリー首都ブダペスト西側)に3年ほど軟禁状態となりました。この時ガルヌランは脱走を考える際、気球の上空から飛び降りる場合の構想をしていたと言われます。
 捕虜の身から解放されると、パラシュート開発に執心、陽の当たった10月22日、絹製の布地で作ったパラシュートを高度900mの気球から初落下し、無傷で着地したといわれます。その後は改良を重ね、アミアンの和約(1802)で一時的におとずれた英仏間の平和時期に妻ジャンヌや娘エリザもロンドンにて落下実験を行ったと言われています。

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