2018年10月23日
10月23日は何に陽(ひ)が当たったか?
紀元前42年10月23日は、ユリウス・カエサル(B.C.100-B.C.44)の謀殺に関わったブルータス(マルクス・ブルートゥス。B.C.85-B.C.42)が、カエサルの部将として活躍したマルクス・アントニウス(B.C.83-B.C.30)の軍隊とギリシアのフィリッピ(ピリッポイ)でぶつかり、命を落とした日です。
紀元前44年の共和政ローマ時代(B.C.509-B.C.27)、カエサルはアントニウスをコンスル(執政官)に選出(1月)、カエサル自身はディクタトル(独裁官)の任期を終身としました(2月)。そして、かつて第1回三頭政治でカエサルと組んだマルクス・リキニウス・クラッスス(B.C.115-B.C.53)が為し得ませんでした、パルティア遠征を企画しましたが、このとき、ある噂が流れました。遠征するからには、自身の地位をさらに明確なものにするために、「王」の称号、つまり"ローマ帝国"の必要性をカエサルが主張しているというもので、かつての貴族共和政の復活を目指している共和派の残党達は、"カエサルが王位につけば、共和政は完全に消滅し、元老院も完全に倒れるだろう"と考え、カエサルに対する反感を強め始めたのです。その中で、グナエウス・ポンペイウス(B.C.106-B.C.48)死後、カエサルと長きにわたって行政を共にしてきたブルートゥスは、自身が共和政創建者を子孫に持つことに誇りを持ち、同士ガイウス・カッシウス(B.C.87?/B.C.86?-B.C.42)らと暗殺を共謀、この共和派の暗殺一味は同年3月15日、パルティア遠征直前の元老院議会開催中、席上でカエサルを暗殺したのです。信任の厚く、息子のように可愛がっていたブルートゥスが暗殺一味の中にいるのを発見したカエサルは、驚きと悲しみが同時に湧きながら"わが子よ、お前もか!!(もしくは'ブルートゥス、お前もか!!')"と発し、暗殺者が剣をカエサルに向けた時、カエサルは抵抗をあきらめ、そのまま刺されたといわれます。
カエサルの死は、民衆と兵士に深い悲しみを与えました。火葬されたカエサルの遺体は夜空の星となって、神ユリウスとされました。カエサルを信頼し続けたアントニウスは、彼を神と崇め、カエサルに倣った雄弁ぶりで追悼演説を行いました。しかしカエサルと対立していた雄弁家マルクス・トゥッリウス・キケロ(B.C.106-B.C.43)が元老院に復帰しました。キケロはアントニウスを自身の敵とみなして、反アントニウスの演説を得意の雄弁ぶりで行い、カエサルの遺言で彼の養子となった当時19歳のオクタウィアヌス(B.C.63-A.D.14)の方を支持し、カエサルを暗殺したブルートゥスらを匿ったのです。ブルートゥスらはカエサル暗殺後、市民の反発でローマから離れ、アジア属州の総督となっておりましが、重税を属州民に課すなどして同地でも反発を受けていました。
こうした情勢からアントニウスは、遂に決断しました。翌紀元前43年、カエサルの部下で、彼がディクタトルの時に副官を務めたレピドゥス(B.C.90?-B.C.13?)と、オクタヴィアヌスを引き入れて国家再建三人委員となり、第2回三頭政治(紀元前43)を開始し、元老院・政務官職を抑えて、政権独占を行ったのです。アントニウスはヘレニズム地方(ギリシア・エジプト等)、レピドゥスはアフリカ地方(エジプトを除く)、オクタウィアヌスは西方の全域を統治権としました。
元老院のリーダーだったキケロは三頭政治に反発しましたが、アントニウスの部下によって暗殺され、ローマでさらし首となってしまいました(紀元前43)。そしてブルートゥス・カッシウスらも、紀元前42年10月3日、アントニウス、オクタヴィアヌスらの軍とギリシャのフィリッピで戦いました。フィリッピの戦いの勃発です。
アントニウス軍対カッシウス軍、ブルートゥス軍対オクタウィアヌス軍で戦いの幕は切って下ろされました。ブルートゥス軍はオクタウィアヌス軍を敗走させますが、カッシウス軍がアントニウス軍に敗れ、最初の激突は勝敗が付きませんでした。しかし陽の当たった10月23日の再戦では、アントニウス/オクタウィアヌス側の軍が優勢に立ち、カッシウスはアントニウス軍が迫る中で壊滅状態に追いやられ、自ら命を絶ちました。カッシウスを失ったブルートゥスは、それでもなお僅かに残った軍団とともに徹底抗戦を貫きましたが、アントニウス軍の攻撃は手を緩めず、やがて包囲されブルートゥスは捕虜になることを要求されました。しかし、敵の捕虜になるのを断ったブルートゥスは、その場で自害しました。アントニウスはカエサルの仇討ちをついに果たしたのでした。
紀元前44年の共和政ローマ時代(B.C.509-B.C.27)、カエサルはアントニウスをコンスル(執政官)に選出(1月)、カエサル自身はディクタトル(独裁官)の任期を終身としました(2月)。そして、かつて第1回三頭政治でカエサルと組んだマルクス・リキニウス・クラッスス(B.C.115-B.C.53)が為し得ませんでした、パルティア遠征を企画しましたが、このとき、ある噂が流れました。遠征するからには、自身の地位をさらに明確なものにするために、「王」の称号、つまり"ローマ帝国"の必要性をカエサルが主張しているというもので、かつての貴族共和政の復活を目指している共和派の残党達は、"カエサルが王位につけば、共和政は完全に消滅し、元老院も完全に倒れるだろう"と考え、カエサルに対する反感を強め始めたのです。その中で、グナエウス・ポンペイウス(B.C.106-B.C.48)死後、カエサルと長きにわたって行政を共にしてきたブルートゥスは、自身が共和政創建者を子孫に持つことに誇りを持ち、同士ガイウス・カッシウス(B.C.87?/B.C.86?-B.C.42)らと暗殺を共謀、この共和派の暗殺一味は同年3月15日、パルティア遠征直前の元老院議会開催中、席上でカエサルを暗殺したのです。信任の厚く、息子のように可愛がっていたブルートゥスが暗殺一味の中にいるのを発見したカエサルは、驚きと悲しみが同時に湧きながら"わが子よ、お前もか!!(もしくは'ブルートゥス、お前もか!!')"と発し、暗殺者が剣をカエサルに向けた時、カエサルは抵抗をあきらめ、そのまま刺されたといわれます。
カエサルの死は、民衆と兵士に深い悲しみを与えました。火葬されたカエサルの遺体は夜空の星となって、神ユリウスとされました。カエサルを信頼し続けたアントニウスは、彼を神と崇め、カエサルに倣った雄弁ぶりで追悼演説を行いました。しかしカエサルと対立していた雄弁家マルクス・トゥッリウス・キケロ(B.C.106-B.C.43)が元老院に復帰しました。キケロはアントニウスを自身の敵とみなして、反アントニウスの演説を得意の雄弁ぶりで行い、カエサルの遺言で彼の養子となった当時19歳のオクタウィアヌス(B.C.63-A.D.14)の方を支持し、カエサルを暗殺したブルートゥスらを匿ったのです。ブルートゥスらはカエサル暗殺後、市民の反発でローマから離れ、アジア属州の総督となっておりましが、重税を属州民に課すなどして同地でも反発を受けていました。
こうした情勢からアントニウスは、遂に決断しました。翌紀元前43年、カエサルの部下で、彼がディクタトルの時に副官を務めたレピドゥス(B.C.90?-B.C.13?)と、オクタヴィアヌスを引き入れて国家再建三人委員となり、第2回三頭政治(紀元前43)を開始し、元老院・政務官職を抑えて、政権独占を行ったのです。アントニウスはヘレニズム地方(ギリシア・エジプト等)、レピドゥスはアフリカ地方(エジプトを除く)、オクタウィアヌスは西方の全域を統治権としました。
元老院のリーダーだったキケロは三頭政治に反発しましたが、アントニウスの部下によって暗殺され、ローマでさらし首となってしまいました(紀元前43)。そしてブルートゥス・カッシウスらも、紀元前42年10月3日、アントニウス、オクタヴィアヌスらの軍とギリシャのフィリッピで戦いました。フィリッピの戦いの勃発です。
アントニウス軍対カッシウス軍、ブルートゥス軍対オクタウィアヌス軍で戦いの幕は切って下ろされました。ブルートゥス軍はオクタウィアヌス軍を敗走させますが、カッシウス軍がアントニウス軍に敗れ、最初の激突は勝敗が付きませんでした。しかし陽の当たった10月23日の再戦では、アントニウス/オクタウィアヌス側の軍が優勢に立ち、カッシウスはアントニウス軍が迫る中で壊滅状態に追いやられ、自ら命を絶ちました。カッシウスを失ったブルートゥスは、それでもなお僅かに残った軍団とともに徹底抗戦を貫きましたが、アントニウス軍の攻撃は手を緩めず、やがて包囲されブルートゥスは捕虜になることを要求されました。しかし、敵の捕虜になるのを断ったブルートゥスは、その場で自害しました。アントニウスはカエサルの仇討ちをついに果たしたのでした。
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posted by ottovonmax at 00:00| 歴史