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2018年10月21日
10月21日は何に陽(ひ)が当たったか?
1804年、フランスでは第一共和政(1792.9-1804.5)が終わり、ナポレオン1世による第一帝政(1804.2-14,15)が始まりました。フランス帝国の誕生はヨーロッパ諸国に脅威を与えます。
イギリス・フランス間で1802年3月25日にアミアンの和約が締結されて以降、1年ほどヨーロッパ全体は平和で安定してましたが、英仏間では依然として緊張が続いていました。この間のイギリス政府は、対仏強硬派のイギリス首相ウィリアム・ピット(任1783-1801,1804-06。小ピット)は退陣しており、対仏柔軟派のヘンリー・アディントン政権(任1801-04)でした。しかし両国関係の悪化が避けられず、イギリスは1803年5月にアミアンの和約を解消して対仏宣戦を表明(1803.5.16)、アディントンは辞任し(1804.4)、翌月に小ピットが再任しました。
イギリスは制海権を武器に海上封鎖を行い、フランス船舶に脅しをかけました。フランス商船が足止めとなり、フランスは経済的打撃を被りました。イギリスの海上封鎖に対し、大陸封鎖でイギリスに圧力を加えようとしたナポレオンは、イギリス上陸の計画をたてて、フランス北部のドーヴァー海峡に面するブローニュ・シュル・メールに大軍(Armee d'Angleterre。アルメ・ダングルテール。イングランド遠征軍)を送り込みました。ナポレオン戦争の幕開けです(1796-15。開始年はアミアンの和約破棄の1803年や、第一帝政発足の1804年とする場合もあります)。これをみた小ピット首相は、当時神聖ローマ帝国(962-1806)の皇帝位を戴いていたオーストリア帝国(1804-67)をはじめ、ロシア帝国(ロマノフ朝として1613-1917。帝国の呼称は1721年から)、スウェーデン王国(1523- )、ナポリ王国(1282-1816)らを賛同させて3度目の対仏大同盟(第3回対仏大同盟)を結成しました(1805.4-1806)。
ブローニュ・シュル・メール駐留と同時進行で、海上封鎖されていた南東フランスのトゥーロンからフランス海軍提督ピエール・ヴィルヌーヴ(1763-1806)率いる艦隊が出航、のちにスペイン艦隊と合流してイギリス領の西インド諸島に向かいました。これはイギリス領西インド諸島に向かうフランス・スペインの連合艦隊がイギリス軍を引きつける間に、ブローニュ・シュル・メールのイギリス遠征軍をイギリス本土に上陸する陽動作戦でした。しかしこの作戦はイギリス船を数隻拿捕したにとどまり、疲弊と消耗を重ねてヨーロッパに帰還、途中フィニステレ岬(スペイン北西部ガリシア州)の沖でイギリス海軍提督ロバート・カルダー(1745-1818)率いるイギリス艦隊と海戦が勃発(フィニステレ岬の海戦。1805.7.22)、フランス・スペインの連合艦隊は大敗北を喫し、スペイン西部のカディス(アンダルシア州)に退きました。ヴィルヌーヴ提督の陽動によるイギリス本土上陸作戦は失敗、上陸を断念したイギリス遠征軍は再編してフランス大陸軍(Grande Armee。グランダルメ)としてライン川方面へ移動させ、攻撃目標をロシアやオーストリアなど大陸諸国に向けました。
1805年10月19日ナポレオンはヴィルヌーヴ提督にナポリ制圧を命じ、提督はカディスを出航した。これを阻んだのが、イギリスの海軍軍人で、1803年から地中海艦隊司令長官としてイギリス海軍を率いたホレイショ・ネルソンです。ネルソンはイギリスのノーフォーク出身、20歳で海軍に入り、順調に昇進するも、1794年にコルシカ島攻略戦で右目の視力を、1796年のカナリア諸島戦で右腕をそれぞれ失いましたが、功績を認められて対仏戦を任されました。
ネルソン率いるイギリス艦隊は104門の大砲を搭載する戦列艦HMSヴィクトリー号(画像はこちら。HMSとはHis Majesty's Shipの略。"陛下の船"の意味。1765年に進水)を旗艦とする27隻の艦隊です。一方のヴィルヌーヴ提督率いるフランス・スペイン連合艦隊は旗艦ビューサントル号(画像はこちら)を中心に33隻で構成されました(そのうちの1隻、旧名シュフランで、ルドゥタブル号と呼ばれる戦列艦も有名。Redoutable。画像はこちらで、真ん中の船。右はHMSヴィクトリー号。左はイギリス戦列艦テメレーア号。後述)。ヴィルヌーヴ提督がカディスを出、これをネルソン艦隊が捕捉しました。こうしてカディス南東のジブラルタル海峡北西にあるトラファルガー岬で両軍が激突、歴史上有名なトラファルガーの海戦が勃発したのです(1805.10.21)。
ネルソンは自軍の艦隊を縦二列に並べ、横に並ぶフランス・スペイン連合艦隊の隊列に対して垂直の状態にしました(図はこちら)。縦二列にしたイギリス艦隊が、フランス艦隊の隊列に突っ込む接近戦は「ネルソン・タッチ」戦法の名で知られました。先頭にいたネルソン提督は、イギリスの海軍軍人たちを鼓舞するために、"England confides that every man will do his duty(イングランドは各員が義務を果たすことを信じる)."という文を船舶間の通信に使う信号旗を用いて各隊に伝達しようとしました。ネルソンは海軍中尉ジョン・パスコ(1774-1853)に提示したが、パスコは文中の"confides"という語が海事用信号コードになく、一文字ずつ信号旗を揚げなければならないため、"confides"を、信号コードにある"expects"を使ってはどうかと提案し、ネルソンもこれを受け入れました(実は"duty"も信号コードにありませんでしたが、必要とする語であり、4文字であったので、一文字ずつ送ることにしました)。こうして、"England expects that every man will do his D-U-T-Y(イングランドは各員が義務を果たすことを期待する)."の信号文が完成し、組み合わせた信号旗を掲揚することによって各員に送られました(画像はこちらとこちら)。
兵力の数ではフランス・スペイン連合艦隊に負けていたイギリス艦隊でしたが、この信号文を見たイギリスの各艦隊は歓声をあげ、士気が高まりました。そしてフランス・ビューサントル号の艦尾に配置していたルドゥタブル号にイギリス・HMSヴィクトリー号が激突しましたが、ヴィクトリー号はルトゥダブル号から激しい砲撃を30分にわたって受け、このときネルソンは被弾しました。このとき、ルドゥタブル号の兵士がヴィクトリー号へ移乗攻撃(敵船へ戦闘員を乗り移らせる戦術。切り込み)を試みるも、団結力の高まったイギリス海軍はイギリスの戦列艦テメレーア号(【画像はこちら。ロマン主義画派ウィリアム・ターナー作。1775-1851)が割って入り、ネルソンが座乗するヴィクトリー号を助け、ついにフランスのルドゥタブル号を打ち負かしました。フランス軍はスペインとの連合艦隊であったため、統率に欠け、兵器の威力もイギリス海軍より劣っていました。このため、20隻近くの艦船が大破し、1万人のフランス・スペイン兵が戦死・捕虜となってしまいました。ヴィルヌーヴも捕らえられました(彼はその後特赦で帰国を許されますが、ホテルで自殺。1806年没)。
ヴィクトリー号の隊員も百数十名の死傷者を出しました。船上で、軍医のウィリアム・ビーティ(1773-1842)は、銃弾に倒れたネルソンの脈をとり、治療するにはもう手遅れと察知しました。このとき、ネルソンはかすかな声で、"Thanks God , I have done my duty(神に感謝する。私は自身の義務を果たした)."の言葉をつぶやき、絶命しました(ネルソン戦死。1805.10.21)。イギリスはこのトラファルガーの海戦で、ネルソンの命とひきかえに勝利をもたらしたのでした。
トラファルガーの海戦では敗北を喫したものの、陸上戦を得意とするフランスは、フランス大陸軍でもって、直後の同1805年12月にイギリスと対仏大同盟を組んだロシア、オーストリア相手に、アウステルリッツ三帝会戦(1805.12.2)で勝利をもたらしました。翌年、イギリス首相小ピットは失意のうちに病死、対仏大同盟も解体となりました。ナポレオン率いるフランスがトラファルガー戦での敗北を払拭する勝利をアウステルリッツ戦でもたらした反面、イギリス海軍はトラファルガー戦勝利をもってしても、皇帝ナポレオンとしてのヨーロッパ大陸の覇権を揺さぶるまでには至りませんでした。しかしイギリス本国では、ネルソンをナポレオン戦争の勝利者として、その軍功を大いに称えました。
ネルソンは生前、祖国での埋葬を望み、ヴィクトリー号の船上で亡くなった遺体は、腐敗を避けるために洋酒の樽に漬けられて保存されました。しかし、ヴィクトリー号が帰還したとき、樽の中の酒は残っていなかったという逸話があります。これは帰途につく間、ネルソンの軍功に肖ろうとした海兵が盗み飲みしたともいわれております。そして英国王以外では初の国葬がとりおこなわれ、ネルソンの遺骸はセント・ポール大聖堂に葬られました。ロンドンのウェストミンスターにおいて、トラファルガーの海戦でフランス・ナポレオン軍に勝利したことを記念してつくられたのがトラファルガー広場(1845年に現在の形になり、この頃ネルソン記念柱が建造。映像はこちら)で、ネルソンは現在でもなお、英国の英雄です。
そして、勝利を呼び込んだHMSヴィクトリー号は1812年に退役となり、1922年に記念艦(博物館船)として、イギリスのポーツマス港に展示されています。
外部リンク・・・Wikipediaより
引用文献・・・『世界史の目 第244話』
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2018年10月20日
10月20日は何に陽(ひ)が当たったか?
1854年10月20日、フランス東北部のシャルルヴィルで、陸軍大尉の家に一つの生命が誕生しました。その生命こそ、後の世にその名を轟かせることになる天才詩人、ジャン・ニコラ・アルチュール・ランボー(1854-1891)です。父フレデリック・ランボー(1814-1878。軍人)、母マリー・カトリーヌ・ヴィタリー・キュイフ(1825-1907。小地主の娘)、兄ジャン・ニコラ・フレデリック(1853-1911)の家族でした。
母キュイフは厳格で狂信的なカトリック教徒である一方、父フレデリックは外出が多く家を空けることが多かったとされます。結局ランボーが6歳の時、両親は性格不一致を理由に別居することになり、ランボーは母キュイフに引き取られ、非常に厳しく育てられました。学業においても、幼時から"早熟の天才"の異名にふさわしく優等ぶりを発揮しました。
1869年1月、15歳のランボーはラテン語詩『生徒の夢想』、6月には『天使と子供』をそれぞれ発表、『ドゥエ・アカデミー会報』に掲載され、8月『ユグルタ』でドゥエ・アカデミーのコンクールで第一等を受賞し、ランボーの名が大いに知られることになります。
翌1870年はランボーが初めて発表したフランス語詩『遺児たちのお年玉』を発表した年でしたが、この頃に出会いました、ランボーが履修する修辞学(レトリック。弁論術)に赴任した当時21歳のジョルジュ・イザンバール(1848-1931)という人物は、彼の才能に注目するようになり、彼を直接指導し、5月に高踏派詩人のテオドール・バンヴィル(1823-91)の詩集を貸し出させました。バンヴィルの詩に刺激を受けたランボーは、ステファヌ・マラルメ(1842-98)、ポール・ヴェルレーヌ(1844-96)ら、当時高踏派で知られる作家たちの作品が掲載されました『現代高踏派詩集』への掲載を夢見て、パリにいるバンヴィル宛に自作の詩(「感覚」「オフェリヤ」など数編)を収めた手紙を送りましたが、掲載されませんでした。
その後、普仏戦争(1870.7-1871.2)が勃発しました。翌8月、ランボーはバンヴィルに会うべく、家出同然でパリへと向かいました。ランボーの人生における初めての家出でありました。しかし無賃乗車を犯したためパリ北駅で逮捕され、留置されました。同年9月、ランボーは留置所でフランスの敗戦と第二帝政(1852-70)の崩壊を知りました。
同月、イザンバールの尽力で釈放され、家に帰されたランボーでしたが、翌1871年3月まで母に反抗しながら三度の家出をおこし、パリやベルギーを放浪しました。同年同月、パリ・コミューン(1871.3)がおこり、コミューン軍と、プロイセンの支援を受けた政府軍との激しい戦闘が行われました。この間ランボーは地元シャルルヴィルにいたが、コミューンの誕生に興奮した17歳のランボーは学校復学を拒絶して、4月に四度目の家出を起こし、混乱するパリへ向かったのです。パリ・コミューンはその後"血の一週間"と呼ばれる政府軍の大虐殺によって陥落し(1871.5.28)、抵抗は終わりました。ランボーはコミューンの数百万人の支持者が次々と殺され、コミューン政府が陥落していく有様を見て、大いに落胆したといわれています。
"血の一週間"がおこる前、ランボーは友人であり詩人であるポール・ドメニー(1844-1917)や恩師イザンバール宛に書簡「見者(ヴォワイヤン)の手紙」を送りました。見者とは"予言・予見する者"あるいは"未知を占う者"の意味ですが、ランボーによれば、詩人は"見者"たらしめねばならないとし、"詩人は自分自身を全的に認識し、あらゆる感覚の、長期にわたる、大がかりな、そして理に適った壊乱を通じて見者となる"と力説したのです。この世の最初の"見者"をシャルル・ボードレール(1821-67)であるとし、詩人たちの最高峰に立つ、本当の神的存在であると主張しました。
1871年9月、ランボーはパリにいる高踏派詩人ヴェルレーヌに自身の作品と書簡を送りました。ヴェルレーヌはランボーの作品に感激し、パリへ彼を招くことを決め、直後にその内容を返信しました。この時ヴェルレーヌは結婚1年目で、翌10月には長男が誕生しました。
ランボーはパリに入った時、完成したばかりの作品『酔いどれ船(酩酊船)』を携え、ヴェルレーヌと対面しました。ヴェルレーヌはパリの文学界でランボーを紹介、激励と賞賛を周囲に示しましたが、肝心のランボーは周囲の前でも粗暴・傲慢・無礼・猥褻な言動を繰り返していましたので、周囲からは完全に孤立し、ヴェルレーヌだけに認められている状況でありました。しかもヴェルレーヌの家族は、ランボーをここまで入れ込むヴェルレーヌに覚醒させようとしますが、ヴェルレーヌはこれを解せず、妻に暴力をふるうなど家庭崩壊につながっていきました。1872年2月になると離婚問題に発展したため、ランボーはパリを離れ、シャルルヴィルに戻りました。
家族を捨てたヴェルレーヌはランボーに手紙を送り、再度彼をパリに招きました。そして今度は2人で家出をおこない、1872年後半はブリュッセルやロンドンを放浪しました。年末、母の命令によりランボーのみシャルルヴィルに帰郷しましたが、翌1873年1月、ロンドンでヴェルレーヌがインフルエンザにかかり、自身の妻とランボーに"瀕死"とつづった電報を打ちましたが、これを見てロンドンに駆けつけたのは妻ではなくランボーでした。5月、ランボーは自身の代表作となります、『地獄の季節(地獄の一季節)』を書き始めます。
同月にロンドンに行ったランボーとヴェルレーヌでしたが、ヴェルレーヌは妻との離婚問題で憔悴し、しかも両者の経済状態は悪化していたことで、両者間に少しずつ亀裂が生まれました。7月にランボーと激しい喧嘩をしたヴェルレーヌは、その後彼を置いてブリュッセルへ逃げ、妻との復縁を望むようになりました。のちにブリュッセルに入ったランボーはヴェルレーヌと再会しましたが、ヴェルレーヌは妻との和解を邪魔させまいとランボーのパリ行きを止めようとしていたのです。しかしこれがまたしても両者間の激しい喧嘩となり、遂に事件は起こってしまいました。
1873年7月10日ヴェルレーヌは拳銃を取り出し、ランボーに向けて発砲したのです。弾丸は二発、うち一発はランボーの左手首に命中しました。ランボーは身の危険を感じて警察に保護を求めたため、ヴェルレーヌは逮捕され、懲役2年の判決が下されました。ヴェルレーヌは翌1874年4月に妻とも離婚の結末を迎えました。
この事件後、ランボーは代表作『地獄の季節』を完成しました。1874年3月には、ランボーは、自身のもう1つの代表作『イリュミナシオン(彩飾)』も手掛け、1875年1月に出所したヴェルレーヌとその後再会して、書き上げた『イリュミナシオン』の草稿をヴェルレーヌに手渡したとされています。しかし、破綻した二人の関係は修復されることはなく、二人は訣別しました。ヴェルレーヌはその後足を患って病院を転々とし、また経済状態も改善されることはなく、1896年パリで没しました。
一方、ヴェルレーヌと別れたランボーは、21歳になった1875年を最後に詩作活動から退きました。友人宛て書簡の中に添えられた詩が、彼の最後の作品とされています。文学界から退いたランボーは放浪を拡大し、その規模はジャワ島やアラビアにまで及びました。その間オランダ植民地軍に入隊したり(その後脱走)、石切場の監督、通訳、貿易商など、さまざまな分野で活動を行いました。『イリュミナシオン』がヴェルレーヌの手で発表された1886年、ランボーはエチオピア帝国(1270-1975)のシェワ王侯メネリク(後のメネリク2世。王位1889-1993)に接近して武器取引を行ったとされています。
1891年2月、ランボーは右脚の骨肉腫が悪化したため、マルセイユのコンセプシオン病院で右脚を切断しますが(5月)、癌は全身転移が進行、ランボーの体は次第に悪化の傾向をたどり、同年11月10日、妹に看取られながら同病院で37歳の若さで没しました。
内面の精神は"象徴"によって具象化された描写・表現でおこなわれる象徴主義の継承者として後世に知られましたランボーは、自身の詩法の中で、言葉をするどく探求している様子がうかがえます。それは前述の友人ポール・ドメニー宛に送った書簡「見者(ヴォワイヤン)の手紙」の中で、言葉は匂い、音、色彩といったすべてを要約し、魂から魂へと進み、思考を掴んで引き寄せては引き出すものであり、それが可能な詩人は進歩を倍増させる乗数となると述べています。
また同書簡にはランボーの有名な言葉である"Je suis un autre(私とは一つの他者である)"が添えられています。自身を"私"ととらえるのではなく、他者であることに重点を置き、詩に表したのです。反抗と孤立を携えた、当時17歳が放った独特の思想は、現代においてもなお、多くの人々に深い理解を与えています。
詩作活動はきわめて短期間ながら、象徴派の代表的詩人として、文学界のみならず、多種多様の文化にも多大な影響を与えたという意味で、彼の存在は極めて重要であり、残した功績はあまりにも大きかったと言えるでしょう。
参考文献:思潮社『ランボー詩集』鈴村和成訳編
引用文献:『世界史の目 第192話』より
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2018年10月19日
10月19日は何に陽(ひ)が当たったか?
1970年代後半より、パンク・ロックが台頭し、さらにパンクから派生したニュー・ウェイヴがより活性化して、ロックも多様化していく傾向にありました。すると、それまでのハード・ロックやプログレッシブ・ロック、アート・ロック、サザン・ロックなど、じっと音楽に耳を傾けるようなロックは、世代交代や1973年の石油危機による不況などの要因も重なって退潮著しくなり、特に60年代から活躍してきたロック・ミュージシャンはターニングポイントに迫られました。ポップス全体の傾向にしてもディスコ・サウンドが主流であり、Styxと同じイリノイ州シカゴ出身のブラス・ロック・グループ、Chicago(シカゴ)も1979年にリリースした11枚目のスタジオ・アルバム"Chicago13(邦題:シカゴ13)"でディスコを大胆に取り上げるなどして奮起しました。またアメリカのワイルドなロック・グループ、Doobie Brothers(ドゥービーブラザーズ)もMichael McDonald(マイケル・マクドナルド)加入後、"Minute by Minute(邦題:ミニット・バイ・ミニット)"のような都会感漂う洗練されたAORアルバムを1978年末にリリースしたりなど、思い切った方向転換を行っています。
イギリスにおいてもプログレッシブ・ロック・グループの方向転換は顕著と化し、 例えばEmerson, Lake & Palmer(エマーソン、レイク&パーマー。ELP)による1978年リリースの"Love Beach(邦題:ラヴ・ビーチ)"や、Yes(イエス)による同じく1978年リリースの"Tormato(邦題:トーマト)"、そして1979年においてもSupertramp(スーパートランプ)の"Breakfast in America(邦題:ブレックファスト・イン・アメリカ)"といった、独自のプログレッシブ・ロック路線を残しながらも、ソフトなポップ・ロックを押し出す楽曲も多数見受けられました。
こうした60〜70年代に一時代を築いたロック・グループが、新たな聴衆を求めて、多様化するロックの渦に巻き込まれながらもそれぞれのオリジナリティーを求めて、挑戦を続けていくのでした。Styxも次のアルバムは"挑戦"になるのですが、2009年に語ったDennis DeYoungによれば、はじめての英国ツアーで、ロック・グループとしてこれまで行ってきた活動や内容の批判を受けたことで、それならばStyxのサウンドを変えてみようと思いついたと述べています。
レコーディングはこれまでシカゴのParagon Recording Studiosでしたが、今作よりシカゴ南西にあるオーク・ローンのPumpkin Studiosにて行われることになりました。Pumpkin Studiosは、1974年にStyxの4作目"Man of Miracles(邦題:ミラクルズ)"でエンジニアに関わったことで縁のあったGary Loizzoが創設したスタジオです。Styxのセルフ・プロデュース、Rob KingslandとGary Loizzoのエンジニアリング、Ted Jensenのマスタリングで制作された"Cornerstone"ですが、デビューからこれまで数々のプロダクションに携わったBarry Mrazとは、サウンドの路線変更の意味かレコーディングスタジオの変更からか、前作でもって決別しています。
レコーディングを終え、陽の当たった1979年10月19日にて、ついにStyxの9枚目のスタジオ・アルバム、"Cornerstone(邦題:コーナーストーン)"がリリースされました。ジャケットに記されている四角い銀色の物体こそ"コーナーストーン(=建物の起工の期日や言葉を刻み込んだすみ石、礎石)"であり、故郷シカゴに接するシンボル、ミシガン湖をはじめとする五大湖が刻まれています。
さて、トラック・リストは以下の9曲が収録されました。
A面(アナログ)
- "Lights(邦題:ライツ)" Tommy, Dennis作。
- "Why Me(邦題:ホワイ・ミー)" Dennis作
- "Babe(邦題:ベイブ)" Dennis作
- "Never Say Never(邦題:ネヴァー・セイ・ネヴァー)" Tommy作
- "Boat on the River(邦題:ボート・オン・ザ・リヴァー)" Tommy作
B面
- "Borrowed Time(邦題:虚飾の時)" Tommy, Dennis作
- "First Time(邦題:愛の始まり)" Dennis作
- "Eddie(邦題:エディー)" JY作
- "Love in the Midnight(邦題:ラヴ・イン・ザ・ミッドナイト)" Tommy作
非常に挑戦的かつ冒険的なサウンドで、Styxは70年代最後を飾りました。これまでの8作品に見られたヘヴィーな要素はほとんどそぎ落とされ、全体的にコンパクトでどの世代層にも馴染めるポップな楽曲展開に、当時の聴者は非常に驚かれたのではないでしょうか。Chicago、Doobie Brothers、Yesらが施した大胆な路線転換と同様に、おそらく当時のStyxファンは評価が大きく分かれたのではないかと思います。しかしポップなロックにおけるStyx最大の武器はヴォーカルです。Dennis、Tommy、JYのタイプの異なる歌声が一際磨きがかかり、しかも絶妙のコーラス・ワークが本作において前面に押し出されています。本作の特徴は"歌"および"声"が際立っていることです。結果的にこのアルバムが11月24日付Billboard200アルバムチャートで最高位2位を記録してダブル・プラチナに輝き、イギリスもUKアルバムチャートに初めてチャートイン(36位)、南半球でもニュージーランドのアルバムチャートで14位を記録し、ドイツBVMIでゴールド・ディスクに認定されるなど、インターナショナルな人気アルバムになったことは事実であり、シングル・カットされた"Babe"が1979年12月8日付Billboard HOT100シングルチャートで2週続けて初の全米1位を獲得する(UKシングルでも6位)、文字通りStyxの代表曲として永遠にロックの歴史に刻まれる栄光を勝ち取ったことは事実なのです。"Babe"の後もシングルは売れ続き、"Why Me(Hot100:26位)"、"Borrowed Time(Hot100:64位)"がアメリカでシングル化されてチャートを記録しました。
"歌"と"声"を重視した他、本作では管楽器を多用していることも大きなポイントです。Styxでは過去においても1973年の3作目"The Serpent Is Rising(邦題:サーペント・イズ・ライジング)"収録の"22Years"ではStyxの生みの親、Bill Trautがサックスを吹くパートがある他、"Man Of Miracles"収録の"Man Like Me"でも地味にサックスが導入されてはおりましたが、どれもロック色が強くサックスは控えめでした。本作"Cornerstone"では、サックス奏者Steve Eisen(スティーヴ・アイゼン)がクレジットされ、作曲家、ピアニスト、アレンジャーなど様々な肩書きを持つEd Tossingが管楽器およびそのアレンジを担当しています。
TommyがヴォーカルをとるA-1"Lights"は、StyxらしいDennisのシンセサイザーを効かせたイントロですが、メロディやサビでは以前のハードさは薄れています。間奏部分でホーン・セクションとJYのギター・ソロが掛け合っており、ポップではありますが精巧なテクニックで魅惑されます。そして最後は持ち味のドラマティックなコーラスで締めてフェイドアウトしていきます。1曲目から大変な名曲が聴かれる、Styxのサウンドの幅が一気に膨張したかのような圧倒ぶりです。
"I Guess We Used To Be 〜"とDennisの歌声で始まる力強いA-2"Why Me"では、間奏部分でSteveのサックス・ソロを聴くことができます。しかも今度はJYのギター・ソロとの合わせ技、非常に聴き応えがあります。バック・コーラスでの"Ah〜Stop!"も絶妙で、この曲の大きなアクセントになっています。サビでの"Hard times Come , hard times go〜"および"Life is Strange , and so unsure〜"で聴くことができるTommyのハイ・トーンかつある意味女性的な優しさのあるバック・ヴォーカルが非常に印象的で、メインヴォーカルをとるDennisの馬力ある歌声とのコントラストが非常に美しいナンバーです。
Styxのみならず、70年代のポップスを代表する名バラード、A-3"Babe"は、その誕生秘話をかつてブログでご紹介しましたが(こちら)、詳細やチャートなどは1位を獲得した12月にご紹介したいと思います。言うまでもなく、サビのコーラスは比類ない美しさであり、このアルバムのハイライトと言えます。
A-4"Never Say Never"はTommyがヴォーカルをとった、歯切れ良い軽快なロックンロール・ナンバーです。"Never,never,never say never〜"のコーラスもさることながら、後半の盛り上げ部分でのDennisの"〜never said these things say before〜"とバックで歌うパートも印象的です。本作では圧倒的に地味な収録曲ですが、こうした楽曲も非常に重要です。たとえば次作"Paradise Theatre(邦題:パラダイス・シアター。1981年)"でTommy作およびリード・ヴォーカルの"She Cares(邦題:愛こそすべて)"という軽めのロック・ナンバーが収録されていますが(Steve Eisenのサックス・ソロが聴ける)、この"She Cares"も"Never Say Never"も同様に、各アルバム内では地味な存在なのですが、前後の収録曲に花を持たせつつも、自身の曲もそれぞれ口ずさみやすく耳なじみが良い、非常に聴き応えがある楽曲であり、アルバムにはなくてはならない傑作品なのです。
A面最後を飾る楽曲A-5"Boat on the River"はTommyの作品で、Tommyがリード・ヴォーカルをとる、本作の中でも特に異彩を放った全編フォーク・サウンドのナンバーで、ヨーロッパでシングル化され大ヒットを記録、日本でもシングル・カットされた楽曲で、日本でのTommyの存在を一気に高めたと言っても良いでしょう。ライブ等では、メンバーが椅子に座りながら、Dennisがアコーディオン、リード・ヴォーカルをとるTommyがマンドリン、Chuckがコントラバス(ダブルベース)、JYがアコースティック・ギター、Johnがタンバリンとバスドラを奏でた映像が特によく知られています(映像はこちら。Youtubeより)。Tommyはこの曲でマンドリンだけでなくオートハープも奏でており、メロウかつ哀愁感ある美しい楽曲に仕上がっています。"Boat on the River"はヨーロッパ各国でチャート上位に駆け上り、ドイツのメディアコントロール・シングルチャートでは5位を記録し、とりわけスイスのチャートでは1位を獲得してます。
B-1"Borrowed Time"はイントロがプログレっぽく、メロディもノリの良いハード・ロック調ですが、やはりコーラスが華やかな分、馴染みやすく親しみを受けやすい楽曲です。その後のCornerstone Tour(通称"The Grand Decathlon tour")では、この"Borrowed Time"でオープニングを飾っておりました。個人的には全米で64位に終わるようなナンバーではないと思いますが、インパクトのある"Babe"の後だけに、幾分仕方ないかもしれません。B-2"First Time"はその"Babe"に匹敵するバラード調のナンバーで、全米でのエアプレイもアルバムリリース当初から上々であり、実は"Babe"に続くセカンド・シングル候補として挙がり、レーベルA&Mもシングル化を了承しました。しかしTommyがバラードの次にバラードを送り出すのに懸念し、この曲のセカンド・シングル化に反対してグループ内の意見が分かれてしまい、挙げ句の果てにはTommy(もしくはDennis?)の脱退騒動へ発展したため、結果的にシングル・カットを見送って代わりに同じくDennis作の"Why Me"をカットして事なきを得たというエピソードがあります。"First Time"を作ったDennisからしてみれば、相当の自信があったのでしょう。確かに何度も聴きたくなる名曲ですが、個人的には前述の通り"Babe"のインパクトが衝撃的なだけに、見送って正解だったかもしれません。ちなみにこのナンバーおよびB-4"Love in the Midnight"で聴かれるストリングスを担当したのはArnie Roth(アーニー・ロス)という音楽家で、近年ではアニメ映画の「バービーシリーズ」の音楽担当で知られます。
デビューからののStyxファンにしてみれば、JYが本作中唯一のリード・ヴォーカルをつとめるB-3"Eddie"の登場は嬉しかったのではないでしょうか。本アルバム、最もハードロック色の濃い作品で、間奏部分のシンセ・ソロ、ギター・ソロ、Johnのスピーディーな連打など、聴き所満載です。エンディングの逆再生らしき音声のフェイド・アウトしてフェイド・インする手法も凝ってます。フェイド・アウトしてフェイド・インする手法は、Dennis DeYoungの1984年のソロ作品"Desert Moon(邦題:デザート・ムーン)"収録の"Boys Will Be Boys"などで聴くこともできます。なお、"Eddie"の名前はEdward "Ted" Kennedy(エドワード・ケネディ。1932-2009。故ジョン・F・ケネディ元大統領の末弟)を指すらしく、かつて彼が引き起こしたスキャンダルなどが尾を引き、70年代は大統領選に出馬できなかった経緯があり、折しも"Cornerstone"がリリースされた頃は、次の大統領選(1980年11月)からほぼ1年前にあたり、"Eddie"という警告ソングでもって、次の大統領選にも出馬しないよう懇願したとされています。
そしてアルバム最後を飾るB-4"Love in the Midnight"の登場です。Tommyの作品で、彼がリード・ヴォーカルをつとめています。アルバム中最もプログレがかったナンバーですが、プログレになりすぎずかつポップになりすぎず、柔と剛、慎ましさと劇的さを兼ね備えた作品で、確かにポップな中にも間奏部分におけるDennisのスピーディーなシンセ・ソロやJYのドラマティックなギター・ソロは圧巻の一言です。個人的にはエンディングの"〜 looking for love...."とTommy、Dennis、JYのグループの全ヴォーカリストが順番に輪唱のごとく熱唱しているパートが印象的で、このアルバムの大きなポイントである"歌"と"声"を重視した象徴的なパートだと思います。
この"歌"と"声"による挑戦をものの見事に結果で果たせたのが、1980年1月に行われた6th People's Choice Awardsで、"Babe"がFAVORITE NEW SONG(AGE 12-21)として受賞され、さらに1980年2月に行われた22nd Annual Grammy Awardsでは、受賞はEaglesに持って行かれましたがBest Rock Performance by a Duo or Group with Vocalにおいて、Dire StraitsやThe Blues Brothersら名だたるヒット・アーチストと共にノミネートされたのです。さらにはRob KingslandとGary Loizzoのエンジニア・コンビもこの回のNon-Classical Best Engineered Albumにノミネートされるなど、受賞はならずとも選考に残ったことで、Styxの実力が認められたのでした。
この挑戦は、1981年リリースの、初めての全米アルバムチャート制覇を果たす次作"Paradise Theatre"において、見事に結実することになるのでした。
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2018年10月18日
10月18日は何に陽(ひ)が当たったか?
オーストリアのハプスブルク家では、皇帝権を掌握していた神聖ローマ帝国(962-1806)が17世紀において弱体化し(1848年のウェストファリア条約で、帝国を構成するドイツ諸邦に主権を持たせたため、帝国の国家的存在は名目化しました)、スペイン・ハプスブルク家も途絶えたことで、むしろ家領オーストリア(オーストリア大公国。1457-1804)の拡大をめざし、引き続きハプスブルク帝国の発展を目指していました。
神聖ローマ皇帝、カール6世(位1711-40)の治世になると、オスマン帝国(1299-1922)を破るなどして家領オーストリアの領域は最大となりました。1713年4月、カール6世は国事詔書として発布した「プラグマティッシェ・ザンクツィオン(王位継承法。ハプスブルク家の家憲)」を定めて領土は分割せず、男子相続を宣言します。カール6世にはハプスブルク家の継承者である男子レオポルト・ヨーハン(1716)がいました。ところが、ヨーハンは同年夭逝し、その後1717年長女マリア・テレジア(1717-80)、次女マリア・アンナ(1718-44)、三女マリア・アマーリア(1724-30)と、女子のみが産まれ、相続先が難航しました。オーストリアでは、長女マリア・テレジアを次期君主に推す声もあり、カール6世は1724年、再度国事詔書を発布しました。発布内容では、領土永久不分割に変更はありませんでしたが、女子相続も承認するとの改正が出されたのです。これはマリア・テレジアを後継者にすることを意味したも同然でした。当時マリア・テレジアは7歳でした。
一方ホーエンツォレルン家のプロイセン王国では、カール6世が相続における1回目の国事勅書を発布した1713年、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(位1713-40)が"プロイセンにおける王"として即位、即位後イギリス・ハノーヴァー朝(1714-1917)を創始したイギリス国王ジョージ1世(位1714-27)の娘と結婚しました。フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は"軍隊王"の異名を持つことから、徴兵制や将校団の養成など、国庫収入の大半を投じた軍制強化は、過去に例がなく、結果20万人の軍隊が誕生しています。このため、財政赤字を重税にて補う代わりに、産業の奨励、市民と農民の保護・育成を積極的に行いました。また彼はカルヴァン派を信仰しており、フランスのブルボン朝(1589-1792,1814-30)への反感は際だっていました。
軍隊王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(位1713-40)の軍国主義的な絶対王政は、子のフリードリヒ2世(大王。位1740-86)に引き継がれました。1740年に即位したフリードリヒ2世は、父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の命令でハプスブルク家カール6世の姪と結婚していましたが、もともと厳格な父とは折り合いが悪く、市民文化に関心を示さなかった父とは反対に、詩文・音楽をこよなく愛し、ベルリン郊外のポツダムに、"無憂宮殿"と称された繊細・優雅なロココ式の代表建築"サンスーシ宮殿"を造営(1745-47)、フランスの啓蒙思想家ヴォルテール(1694-1778。著書『哲学書簡』)を招いて師事(1750-53)、ドイツ文化よりフランス文化を好み(ドイツ語よりフランス語が得意だったらしい)、『反マキャヴェリ論(1740)』などを著し、"サンスーシの哲学者"と呼ばれました。フリードリヒ大王は、ヴォルテールの啓蒙思想(啓蒙主義。旧弊打破の立場に立って人間的理性を尊ぶ革新的思想)の影響を受けながら、中央集権化・プロイセンの近代化を目指しました。それは啓蒙絶対主義(啓蒙専制主義)と呼ばれ、経済・軍事・産業を育成することにより、後進的な国家を"上からの改革"によって君主権力を強化しました。フリードリヒ大王の著した『反マキャベリ論』では、"君主は国家第一の僕(しもべ。下僕)"という言葉が記されています。これは、君主も国家に奉仕する一機関ととらえていることを表しますが、この下僕はすべての国政決断権を持つ"啓蒙絶対君主(啓蒙専制君主)"そのものでした。このようにフリードリヒ大王は、親フランス派でしたが、国王即位後これを強調し、親フランス・反ハプスブルクを前面に押し出しました。
ハプスブルク家オーストリアにおけるマリア・テレジアへの後継は、ザクセンやバイエルンなどドイツ諸侯にも波紋を呼びました。特に選帝侯として昇格していたバイエルン選帝侯(バイエルン公)であるカール・アルブレヒト(侯位1726-45)は、1724年の国事詔書(2回目)の発布を無効と異議を唱えて、1713年の国事詔書(1回目)発布の尊重を主張、自身が男子相続としての王位継承を叫びました。カール・アルブレヒトは、ヴィッテルスバハ家出身で、代々バイエルン公ですが、彼の妻は神聖ローマ皇帝だったヨーゼフ1世(帝位位1705-11)の次女で、男子血縁者だったのです。またザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世(侯位1733-1763)も、同様にヨーゼフ1世の長女を妻に持つため、帝位継承を主張しました。
1740年10月20日、カール6世が没しました。彼の詔書どおりに、マリア・テレジアは23歳にしてハプスブルク家の全領土を相続しました。プロイセン(フリードリヒ大王)はフランス(ルイ15世。王位1715-74)、そしてスペイン継承戦争(1701-13/14)後、ブルボン王家の息がかかったスペイン(フェリペ5世。位1700-24,24-46)、そしてバイエルン公(カール・アルブレヒト)と同盟を結び、オーストリア(マリア・テレジア)は、フランスと永遠の領土的対立を展開するイギリス(ジョージ2世。位1727-60)と組みました。1740年12月16日、イギリス対フランス、ドイツ諸侯対オーストリア、フランス対オーストリア、そして、オーストリア対プロイセンの戦いの火蓋が切って落とされ、オーストリア継承戦争(1740.12.16-1748.10.18)が始まったのです。
この戦争は、英仏間の因縁の対決でもあり、台頭してきたハプスブルク家のオーストリアとホーエンツォレルン家のプロイセン王国とのヨーロッパ覇権争い、またウェストファリア条約(1648)の結果によって有名無実と化した神聖ローマ帝国内でうごめくドイツ諸侯(領邦)による権力奪取などが混じり合った戦争でありました。
もともとフリードリヒ大王は、豊かな鉱産資源と工業が発達しているドイツ東部のオーストリア・ハプスブルク家領・シュレジエン州(シレジア。ポーランド南西部のオーデル川上流)を狙っていました。シュレジエン州は神聖ローマ帝国とプロイセン王国との国境にあるため、フリードリヒ大王はシュレジエン州の領有権を主張しました。さらに大王はマリア・テレジアに対して、相続を強行する代わりにシュレジエン州の割譲を強要しましたが、マリアはこの交換条件を拒否したため、1740年12月、プロイセン軍によるシュレジエン侵攻を行いました(第1次シュレジエン戦争。1740-42)。オーストリア軍はプロイセン軍と激突したが敗れました。ハプスブルク家の敗北により、反ハプスブルク派の諸国・諸侯も進軍を開始しました。そして1742年7月、ベルリンの講和によってオーストリアはシュレジエン州の全土の割譲を認め、シュレジエン州はプロイセンの領土となってしまいました。この2年間、神聖ローマ帝国は空位時代が続きますが、マリア・テレジアはハンガリー女王として即位したにとどまりました(ハンガリー王位1740-80)。
ハプスブルク家の敗戦を知ったザクセン公フリードリヒ・アウグスト2世やバイエルン公カール・アルブレヒトは、すぐさまオーストリアに対して宣戦しました。ザクセンは撤退しましたが、バイエルン公カール・アルブレヒトは必死に攻めて、まずベーメン王として王位に就き(位1741-43)、その後ケルン大司教で戴冠、神聖ローマ皇帝カール7世(位1742-45)としてバイエルン朝を復活させました(1742-45)。これにより、1438年から継続してきた神聖ローマ帝国ハプスブルク朝(1273-1291,1298-1308,1314-30,1438-1742,1745-1806)は一時断絶することになりました。しかしオーストリア軍がすぐさま奮起し、カール・アルベルトをベーメン王から退位させ、マリア・テレジアが王位を奪ってベーメン女王(1743-80)として即位しました。その後バイエルンを占領すると、カール7世は遂に神聖ローマ皇帝を退位(1745)、マリア・テレジアの夫で、ヴォーデモン家出身のロートリンゲン公だったフランツ3世シュテファン(公位1729-1737)が皇帝フランツ1世として神聖ローマ皇帝についたのです(位1745-65)。これはハプスブルク朝の復活ですが、正確にはハプスブルク・ロートリンゲン朝(1745-1806)と呼び、ハプスブルク家もハプスブルク=ロートリンゲン家と称されました。フランツ1世は皇帝ですが、彼は政治力に欠け、実際はマリア・テレジアが共同統治でもってリードしていきました。マリアは戴冠こそしていないものの、高度な頭脳と巧みな求心力によって帝国を背負う、まさに"女帝マリア・テレジア"の存在感があったのです。この頃の神聖ローマ帝国はすでに名のみの存在だったため、マリア=テレジアを"オーストリア皇帝"と呼ばれることもありました。
プロイセンのフリードリヒ大王は、マリアのシュレジエン州の奪回に危機感を募らせたため、ちょうどバイエルン朝となっていた1744年に再び侵攻を開始しましたが(第二次シュレジエン戦争。1744-45)、翌1745年12月にドレスデン(ザクセン地方)で講和を開き、第一次シュレジェン戦争におけるベルリンでの講和をオーストリアに確認させて、シュレジエン州のプロイセン領有を確約させることになりました。
またフランスは1744年、オーストリア領である南ネーデルラント(ベルギー)の奪還を目指して同地に侵攻、イギリスとオランダがオーストリアを援助しましたが、フランス軍に南ネーデルラントを占領されて、またスペインも同年ミラノ奪還を目指し侵攻しました。またオーストリア継承戦争と連動して、新大陸では英仏間における北米植民地の争奪が、ハノーヴァー朝・ジョージ2世の名に因んだジョージ王戦争(1744-48)の名称で展開され、イギリス植民地である南インド東岸でも第一次カルナータカ(カーナティック)戦争がフランスと行われましたが(1744-48。イギリス勝利)、陽の当たった1748年10月18日、結局はアーヘンの和約により、シュレジエン州を除く占領地は相互返還によって開戦直前状態に戻すとされて、参加国は和約に調印し、8年近く続いたオーストリア継承戦争はついに終わりを迎えました。
引用文献『世界史の目 78話および79話』より
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2018年10月17日
10月17日は何に陽(ひ)が当たったか?
19世紀初頭、当時はポーランドという国名はなく、その地にはフランス皇帝ナポレオン1世(帝位1804-14,15)の支配によってつくられたワルシャワ公国(1807-13)がありました。ワルシャワ公国が誕生するまでは、ポーランドは歴史的に見ても最悪の状態でした。16世紀後半に全盛期だったヤゲウォ朝(1386-1572)の支配が終わり、選挙王制を柱とするポーランドの世襲貴族階級(シュラフタ)の独裁と富裕化、農奴制強化による農民への圧迫を背景に、ロシアやスウェーデンなどの干渉による政情不安定が続きました。やがてこの干渉は3度にわたるポーランド分割(1772,1793,1795)の結末をもたらし、ポーランドは消滅したのです。
しかしナポレオンによって樹立したワルシャワ公国においても、当然ナポレオンの傀儡国家として作られたにすぎず、ポーランドという国家的規模は到底小さいものでした。ワルシャワ公国はナポレオンの政策でフランスと同盟を結ばされ、ライン同盟(1806-13)の1つであるザクセン王国(1806-1918)の王フリードリヒ・アウグスト1世(ザクセン王位1806-27)がワルシャワ公を兼任しました(ワルシャワ公位1807-15)。しかしこの公国の実質の最有力者はフランス大使であり、ナポレオン支配は厳しく続いていたため、公国の独立は許されませんでした。ポーランドにとっては、ワルシャワ公国時代も暗黒時代そのものだったのです。
公国が誕生して3年目の1810年3月1日(?)、ワルシャワの西郊にあるジェラゾヴァ・ヴォラ村に、ひとつの生命が誕生しました。それはポーランドに帰化したフランス人講師ニコラ(ミコワイ。1771-1884)を父に、シュラフタの出であるユスティナ(1781-1861)を母にもつ、"ピアノの詩人"と呼ばれた男、フレデリック・フランソワ・ショパンです。
ポーランドでは、マズルカやポロネーズといった、4分の3拍子のリズムをもつ民族舞踊・舞曲が古くから愛されていました。ショパンは生来身体が弱かったですが、幼少にして豊かな才能に溢れ、やがて音楽を志しました。6歳の時、父ニコラが連れてきたボヘミア出身の音楽家・ヴォイチェフ・アダルベルト・ジヴニー(ジヴヌィ。1756-1842)の専門的な音楽教育を受けました。7歳になると、ショパンはジヴニーから本格的にピアノを教わり、『ボロネーズ第11番(ト短調)』を作曲しました(1817)。ジヴニーはショパンの音楽的才能をさらに引き出すため、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685-1750)、フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732-1809)、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-91)などを教え、約6年間の音楽指導を行いました。ショパンが8歳の時、ワルシャワで初めてピアノ公演を行い、"ポーランドのモーツァルト"と高い評価を得ました。その後ショパンは1823年から6年間、ワルシャワ音楽院の学院長だったユゼフ・エルスナー(1769-1854)に師事して、この頃に『"ドン=ジョヴァンニ"の"お手をどうぞ"の主題による変奏曲(ラ・チ・ダレム変奏曲。1827)』『葬送行進曲 ハ短調 作品72-2(1827。出版は1855年。1827年はショパンが妹を肺結核で亡くした年)』や『ピアノソナタ第1番(1828)』など優れた楽曲を作曲し、エルスナーは彼を"天才"と言わしめたのです。
エルスナーのもとで作曲に磨きがかかったショパンは1829年に同音楽院を首席で卒業しましたが、この頃、彼は声楽を志していた女性、コンスタンツィア・グワドコフスカ(1810-89)への初恋を経験しています。彼は友人宛の手紙で、『ピアノ協奏曲第二番(1829)』の第2楽章にこの頃の想いを込めたと述べていますが、実際は完全な片思いであったとされています。
この間、ナポレオンの没落によりワルシャワ公国は崩壊、ヨーロッパ全体はウィーン体制の渦に巻き込まれます。1815年に定められたウィーン議定書で、ポーランドは立憲王国(ポーランド立憲王国。ポーランド会議王国。広義1815-1918。狭義1815-1916)として国名を再登場させましたが、国王はロシア・ロマノフ王朝(1613-1917)の皇帝(ツァーリ)が兼任したため、ワルシャワ公国時代がフランス支配だったのと同様、今回もロシアの皇帝専政支配となりましたので、実態はロシア領ポーランドであり、ポーランドの暗黒時代は依然として続きました。立憲王国であるにもかかわらずロシアは憲法無視による暴政を続け、ポーランド人の自由を奪っていきました。
こうした中での1830年10月、20歳のショパンはウィーンへ旅立つ決心をし、ワルシャワでの告別演奏会で、第二番よりも後に作られた『ピアノ協奏曲第一番(1830)』をピアノ独奏、祖国ポーランドを後にしました。ショパンのポーランドへの愛国心は非常に強く、ポーランドの主権復活の望みを抱きながら、富裕な貴族社会、圧力が増すロシア支配、そして農奴制に苦しむ農家たちといった当時の現状を憂い、それが後の作品にも大きく影響しました。ショパンがポーランドを去る日、彼の友人が祖国ポーランドの土を、馬の餞(はなむけ)として出国する彼に贈呈したという逸話が残っています(実話か否かは諸説あり)。
ショパンがウィーンに到着した11月、母国ポーランドで非常事態が起こりました。11月29日、フランス七月革命(1830)の影響により独立を達成したベルギーに対し、ロシアはポーランド軍を動員してベルギーに出動させようとしたのです。これをきっかけとして、ロシアの暴政に不満を募らせていた、ロシアが監督する陸軍士官学校の生徒たちや、ロシアからの独立を要求するポーランドの領主貴族(シュラフタ)、さらにはポーランド市民がロシアのこの行為を憲法違反であるとして武装蜂起、ワルシャワの武器庫を占拠し、反乱軍とロシア帝国軍との戦闘が展開され、ワルシャワは火の海と化しました(1830。ポーランド騒乱。ポーランド反乱。ワルシャワ11月蜂起。11月の夜)。この武装蜂起は翌1831年10月までほぼ1年近く続きましたが、結果的にはロシア軍の格の違いを見せつけられて鎮圧され、敗北を喫しました。
ウィーンではウィーン会議を通して、全ヨーロッパに流行したウィンナーワルツが本場ともいうべき流行りぶりで、ショパンの活動はほとんど注目されず、しかもウィーン会議主催国オーストリアではワルシャワ11月蜂起を反ウィーン体制ととらえ、反ポーランド精神が芽生えていったため、ウィーンにいるショパンは完全に孤立し、ウィーンでの演奏の機会を失いました。音楽の発展を求めてウィーンに旅立ったショパンは、こうしたオーストリアの国情に失望し、父ニコラの母国であるフランス行きを決断しました(1831)。この頃、ショパンは自身の身体の弱さと当時祖国を離れていたことから、この騒乱に参加できない苛立たしさ、そして蜂起失敗に対する絶望感から、『エチュード(練習曲)・作品10・第12番・ハ短調』を作曲したとされています(1831)。世に言う『革命のエチュード』です。この曲を含む『12のエチュード(練習曲)・作品10』には、一般的に「別れの曲」としてあまりにも有名な『第3番・ホ長調』も含まれています。
フランスではウィーン体制の反発からリベラリズム(自由主義)やナショナリズム(国民主義)の運動も活発化し、七月革命によってウィーン体制の動揺をもたらしましたが、文化的にはこれまでの古典主義や、理性絶対の啓蒙主義に対する反発から、形式の自由化、個性尊重、非現実的発想、そして感情の強調といったロマン主義が流行し、音楽においてもロマン主義音楽が流行していました。1831年9月にパリに足を踏み入れたショパンは、ハンガリー出身でショパンより早くパリに移り住んでいたロマン派ピアニストであり作曲家のフランツ・リスト(1811-86。"ピアノの魔術師")と親交、『革命のエチュード』を献呈した。またドイツのロベルト・シューマン(1810-56)は、この頃ショパンのワルシャワ音楽院時代に作曲した『"ドン=ジョヴァンニ"の"お手をどうぞ"の主題による変奏曲』を絶賛しています。また1833年にエクトル・ベルリオーズ(1803-69)の演奏会に来ていたショパンは、これを機に彼と親交を深めるようになりました。ドイツ・ロマン派音楽家では他にもフェリックス・メンデルスゾーン(ドイツ。1809-47)とも交流を持ち、またドイツ・ロマン派文学の"革命詩人"ハインリヒ・ハイネ(1797-1856)や、後の写実主義作家の代表であるフランスの文豪オノレ・ド・バルザック(1799-1850)といった文筆家とも親交を深めていきました。またショパンは3歳下でポーランド・シュラフタの出であるデルフィーナ・ポトツカ伯爵夫人(1807-77)という親友もおり、ポーランドを離れても両者間の友情は長く維持されました。
1832年、ショパンは演奏会を行いました。これはパリでは初めての開催でした。1833年には『華麗なる変奏曲』『ボレロ』『夜想曲(ノクターン)第6番』『ワルツ・華麗なる大円舞曲(1834出版)』『ロンド・変ホ長調』など、後世に残る名作を次々と作曲しました。
一方、この頃のポーランドはロシア皇帝ニコライ1世(帝位1825-55)がポーランド王でしたが(王位1825-55)、1830年のワルシャワ11月蜂起後、ニコライ1世はポーランド立憲王国における自治権を外させて直轄領とし、専政を敷いていました(1832)。ショパンは音楽に携わる限り、祖国ポーランドへの愛国感情を忘れることなく、ポーランドの伝統民族舞曲であるマズルカやポロネーズを取り上げ、数多くの作品を生涯にわたって作り続けていきました。ポロネーズは18曲、マズルカに至っては50曲以上にものぼり、故郷であるポーランドへの想いを込めた表れです。ウィーンおよびパリでこれらを披露したことで、ポーランドの伝統舞曲がヨーロッパ全土に知られるようになりました。
1836年、ショパンはリストの愛人であるマリー・ダグー伯爵夫人(1805-76)のサロンに行き、そこで女流作家ジョルジュ・サンド(1804-76)と対面しました。彼女は1822年に貴族と結婚し2子を持ちましたが、愛情のない結婚でしたのでうまくいかず、その後は不特定多数の男性と関係を持ちました。また男性の衣服を装い、葉巻を愛好する風変わりな女性でしたが、当時ショパンが求婚した相手と破談になったことで(この頃に書かれた『ワルツ第9番』が通称"別れのワルツ"と呼ばれる所以)、次第にサンドに惹かれるようになっていきました。2人はそのうち周囲の雑音を避けてマヨルカ島(西地中海)へ向かいました(1838)。実はこの頃からショパンは結核を患っており、喀血もたびたび起こるなど危険な状態でしたので、転地療養の目的もありました。ショパンは病身でありながら翌1839年に有名な『雨だれのプレリュード(第15番・変ニ長調)』を含む『24のプレリュード(前奏曲)・作品28』を同島で完成させました。
しかしマヨルカ島での生活で、転地療養どころかますます病状を悪化させたショパンは、半年ほどでマヨルカ島を後にし、パリに戻りました。1847年まで、ショパンは冬場にパリに滞在して、夏場はサンドの生家があるノアン(フランス中部・現アンドル県)に出向く生活を続けました。しかしこの間、一人の人間を一途に愛せないサンドの男遊びが次第に復活し、サンドとの関係も悪化、またショパンの父ニコラが没したこともあって(1844)、ショパンの健康状態はさらに悪くなりました。1847年、サンドの子どもに関するトラブルもあって、同年夏、遂にショパンはサンドと破局を迎えたのでした。
1848年初頭、七月王政下のフランスでは市民が中心となって結成された、改革宴会と呼ばれる革命組織が選挙法改正運動を展開しており、政情がかなり不安定になっていました。2月16日にサル・プレイエル(現パリ8区にあるコンサートホール)で演奏会を開催しましたが、同月22日にフランスで二月革命が勃発したことで、ショパンはイギリスで療養することになったため、フランスではこれが最後の演奏会となってしまいました。4月にブリテン島に渡ったショパンはロンドンなどで演奏会を開くなど体力の続く限り活動を行いましたが、病魔には勝てず、同年末にパリに戻ることとなりました。
1849年、ショパンは現在のパリ1区のヴァンドーム広場の住居に身を寄せ、10月17日未明、いまだ革命熱冷め切らない騒然とした同地で没しました。享年39歳でした(1849.10.17。ショパン死去)。『マズルカ第49番・ヘ短調(作品68の第4番)』が遺作となりました。パリのマドレーヌ寺院で葬儀が行われ、パリ東部のペール・ラシェーズ墓地に埋葬されました(映像はこちら。wikipediaより)。この時、墓地に土がかけられたといわれますが、この土はショパンがポーランドを去る際に友人から贈呈された祖国ポーランドの土であると言われています。そして、生前の彼の要望により、心臓だけはポーランドに戻され、ワルシャワ聖十字架教会に納められたのでした。
ショパンが作曲した作品のほとんどがピアノ独奏曲でした。その魅力とは、半音階和音技法を駆使し、ピアノで可能な表現を無限に出し尽くし、その旋律の美しさ、悲しさ、優しさを、彼自身の愛国心から芽生える祖国ポーランドの伝統音楽と結びつかせ、ショパンであるからこそ生まれる独特の奏ででした。そのすべては、後世においてもその名を知られ、現在においても多くの愛好家によって愛され、生き生きと奏でられております。まさに"ピアノの詩人"と呼ばれるべき、音楽に革命をもたらした天才音楽家だったのです。
引用文献:『世界史の目 第201話』
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2018年10月16日
10月16日は何に陽(ひ)が当たったか?
皇帝ナポレオン1世(帝位1804-14,15)による1812年のロシア遠征失敗やスペインでの半島戦争劣勢によって、近隣国は対仏大同盟を再始動させ(1813-14)、ナポレオン打倒の解放戦争が行われることになりました。戦場はザクセン王国のライプツィヒ(ドイツ東部)でした。ザクセン王国は神聖ローマ帝国(962-1806)時代は公国でしたが、ナポレオン1世により神聖ローマ帝国は解体となり、ドイツ諸邦はライン同盟(1806-13)を結成、その中のザクセン公国は王国に昇格し、ザクセン王はナポレオンがプロイセンを弱体化させたティルジット和約(1807)で誕生させた、ワルシャワ公国(1807-13)の統治も兼ねました。
対仏大同盟はイギリス、ロシア、プロイセン、スペイン、ポルトガル、オーストリア、スウェーデンら、ナポレオンの絶頂期に痛め付けられた諸国の他、ライン同盟の反仏をうったえる諸邦も少なからずありました。
1813年3月から解放戦争が続き、ドイツ戦線ではライン川を東西に両軍が陣営に集まりました。ナポレオン軍は自国フランス、ワルシャワ公国およびライン同盟、またナポリ王国の軍を集めて、総勢およそ20万の軍を用意、一方の諸国民連合軍(ロシア、スウェーデン、プロイセン、オーストリア)は総勢100万で挑みました。攻防は一進一退が続くものの、徐々にナポレオン軍は劣勢と化していきました。
陽の当たった10月16日、兵力はナポレオン軍は約18万に対し、諸国民連合軍は約26万でライプツィヒの戦いが開戦となりました。戦闘は4日間続きますが、次々と増援が来る連合軍を相手に、ナポレオン軍は防戦一方で、撤退する兵士も続出、ライン同盟軍も5000兵の死傷者が出たためザクセン王国軍は離反、ワルシャワ公国もロシアやプロイセンによって占領され、ワルシャワ公を兼任したザクセン王はロシアの捕虜となりました。
結果ナポレオン軍は30000兵が捕虜となり、合わせて40000近い死傷者が出る大敗を喫しました。しかし諸国民連合軍も5万以上の死傷者が出ました。
これにより、ライン同盟の支配はフランスから諸国民連合軍へ流れていき、フランスのライン川以東でのドイツ支配は崩壊しました。翌1814年にはその諸国民連合軍は隙を見せずフランス包囲網を強化し、3月31日、ついにパリは陥落、諸国民の解放戦争は達成されました。これを受けて、4月11日にナポレオン1世は皇帝の座を降りることになるのでした。
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2018年10月15日
10月15日は何に陽(ひ)が当たったか?
祖父であり、第7代アミール(後ウマイヤ朝の君主号で、"総督"や"首長"の意味もある)のアブド・アッラーフ(アミール位888-912)が912年に没し、孫のアブド・アッラフマーン3世が若年でアミールに即位しました(アミール位912-929)。若さゆえに国家における派閥問題や民族問題における対策に苦労し、また国外でもイベリア半島におけるキリスト教徒のレコンキスタ(国土回復)運動や北アフリカのファーティマ朝(909-1171)の強勢など、難題を抱えますが、支持者を集めてこれらへの対策を積極的に行い、また敵対勢力を撃退するなど功を上げる手腕を見せて、国内外ともに統率して国家安定に導きました。
当時アッバース朝(750-1258)に存した最高権威を示すカリフをファーティマ朝も用いていましたが、国家が安定したことを受けて、アブド・アッラフマーン3世は929年、アッバース朝やファーティマ朝と並ぶ地位を西方にも築く必要から、後ウマイヤ朝カリフとして即位することになります(後ウマイヤ朝のカリフ位929-961)。これによりイスラーム世界では、後ウマイヤ朝君主を西カリフ、ファーティマ朝君主を中カリフ、アッバース朝君主を東カリフとする、カリフ鼎立時代に突入することになりました。
アブド・アッラフマーン3世は959年にイベリア半島の全域と北アフリカ方面を掌握するにいたり、国力増強策として、国内の農商工業を発展させて経済を活性化させ、軍事面でも増強をはかって充実させました。文化面では、首都コルドバにある宮殿の離宮として、ザフラー宮殿("ザフラー"はアラビア語で"花"の意味。映像はこちら。wikipediaより)の建造を、息子で補佐役のハカム2世(915-976)とともに奨励、またイスラーム文化とキリスト教文化を融合させてこれを保護していきました。結果、首都コルドバは人口30万に達して国際都市の仲間入りを果たし、王朝の全盛期を現出したのです。
961年10月15日、アブド・アッラフマーン3世は73歳(71歳?)で没し、初代カリフの地位を全うしました。その後、子のハカム2世が後ウマイヤ朝カリフを継いで(位961-976)、父同様の文化保護に取り組み、971年に35年かけて建造に努めた、ザフラー宮殿の完成をみたのです。
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2018年10月14日
10月14日は何に陽(ひ)が当たったか?
Tears for Fearsは、1983年のデビュー作"The Hurting(邦題:チェンジ)"同様、Roland Orzabal(ローランド・オザバル、gtr,key,vo)、Curt Smith(カート・スミス。Bs,key,vo)、Ian Stanley(イアン・スタンレー。key)、そしてManny Elias(マニー・エリアス。drms)の4人編成、エンジニアにDave Bascombe(デイヴ・バスコム)、そしてドラムも担当したChris Hughes(クリス・ヒューズ)のプロデュースで、1985年に2枚目のスタジオ・アルバム"Songs from the Big Chair(邦題:シャウト)"をリリースし、全体としてはポップな作風の中にもアート・ロックやプログレッシブ・ロックの香りを漂わせる技巧を凝らした制作で、数々の大ヒット曲を世に送り出し、英米でビッグ・ネームの仲間入りを果たしました。
その後、Manny Eliasは脱退し、3枚目のアルバム"The Seeds of Love(邦題:シーズ・オブ・ラヴ)"の制作に取りかかりますが、Ian Stanleyが途中で離脱することになり、Mannyの代わりにドラムを叩く予定だったChrisも1曲参加のみで降板したため制作が難航し、残ったメンバーとDave Bascombeが共同プロデュースすることになり、予算以上のコストもかかって、結果的にはリリースに4年を費やすことになりました。第1弾シングルに選ばれたのが今回紹介する"Sowing The Seeds Of Love"で、Ianのキーボード、Chrisのドラムを聴くことができる他、音的には隙の無い展開を見せる、前衛的でスケールの大きな仕上がりになりました。
"Sowing The Seeds Of Love"だけでなく、アルバム" The Seeds Of Love"は非常にプログレッシブで奥行きの広い作品が多く収録され、8分以上におよぶジャジーな"Badman's Song(邦題:バッドマンズ・ソング)"、Phil Collins(フィル・コリンズ)がドラマーで、Oleta Adams(オリータ・アダムス)がヴォーカルで参加したソウルフルな"Woman in Chains(邦題:ウーマン・イン・チェインズ)" 、大人のムードが漂う落ち着いた作風の中に心の中まで響き込む力作"Advice for the Young at Heart(邦題:アドヴァイス・フォー・ザ・ヤング・アット・ハート)"など、前作のような若さをメインに人気を上げていった勢いとは打って変わり、"音"で勝負する力感が伝わる作品群です。
さてその中でファースト・シングルに選ばれた、アルバムタイトルのフレーズを含む"Sowing The Seeds Of Love"ですが、6分を超えた長尺曲ですが、シングルでは若干削られたエディット・ヴァージョンでリリースされました。この曲は極上のポップスともいうべきあり、60年代のビートルズをも彷彿させる馴染みやすい音楽でありながらも、シンセサイザー・ソロや力強いRolandのヴォーカル、ドラマティックなサウンド展開が充実し、また映像もJim Blashfield(ジム・ブラッシュフィールド)が手掛ける幻想的なアートが楽しめるプロモーションビデオも話題になりました(映像はこちら。Youtubeより)。Jim Blashfieldは1985年にTalking Heads(トーキング・ヘッズ)の"And She Was(1985)"や Nu Shooz(ニュー・シューズ)の"I Can't Wait"、そして同1989年にはMichael Jackson(マイケル・ジャクソン)の"Leave Me Alone"のプロモーション・ビデオを手掛けた映像監督で知られ、"Sowing the Seeds of Love"においても1990 MTV Video Music Awardsにおいて、Best Group Video、Best Post-Modern Video、Breakthrough Video、Best Special Effects in a Videoに4部門にノミネートされ、そのうち後者2部門を受賞しました。
"Sowing The Seeds Of Love"は1989年9月2日付のHOT100シングルチャートに53位とハイ・ポジションでエントリーしました。前作から4年、聴者が待ち焦がれていたランクインでした。2週目でTop40入りを果たす40位にランクイン、その後36位→26位→18位→13位と順調に上昇し、陽の当たった10月14日付に6位にジャンプアップして、見事Top10入りを果たしました。その後3位→2位と上昇して1位に到達するかと思いましたが、この頃の上位にはJanet Jackson(ジャネット・ジャクソン)の"Miss You Much"やNew Kids On The Block(ニュー・キッズ・オン・ザ・ブロック)の"Cover Girl"、当時新鋭のRoxetteが放った"Listen To Your Heart"など、強豪がひしめき合うような争いだったため、10月28日付の2位を最高に翌週は4位へ後退、そのまま下降していきました。結果的には15週チャートインにとどまり、1989年のYear-Endチャートも100位中58位を獲得しました。ただしBillboardではありませんが、当時あった全米Cash Boxのシングルチャートでは1位を記録した他、Billboard メインストリームロックチャート(当時はAlbum Rock Tracks)では4位、Alternative Songsチャートの Modern Rock Tracks Chartでは堂々の1位、UKシングルチャートでは5位、カナダでは1位を記録し、人気の高さを証明しました。
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2018年10月13日
10月13日は何に陽(ひ)が当たったか?
Roger Hodgsonは、相棒のRick Davis(リック・デイヴィス)とともにイギリスのプログレッシブ・ロック・グループ、Supertramp(スーパートランプ)を牽引し、多くのヒット曲を世に産み出したマルチ・プレイヤーで、1983年にグループを脱退し、ソロ活動に転向しました。そしてソロ第1弾となったアルバムが、今回紹介する"Had A Dream(Sleeping With The Enemy)"を1曲目に収録する"In The Eye of The Storm"です。アルバムタイトルは、この曲の歌詞の一部からとられています。
"In The Eye of The Storm"に収録された全7曲は、Roger自身が書き、プロデュースしています。セッションミュージシャンはDrumsはSantana(サンタナ)のドラマーだったMichael Shrieveが5曲参加している以外は少数に抑えられ、必要な楽器の大半はRogerが担当しています。
"In The Eye of The Storm"を聴いてみると、Supertramp在籍以上の魅力を発揮しているのがわかります。イントロにしてもリフにしてもサビにしてもヴォーカルにしてもインストゥルメンタル・ソロにしても単純なロック・ミュージックでは終わらない、聴き所が何処を取ってもアクセントになっており、Billboard200アルバムチャートで最高位が46位なのは少し物足りない印象を受けますが、スイスのチャートではトップ10入りを果たし(6位)、カナダのチャートでも15位と健闘しています。
全7曲中、8分超えが2曲、7分超えも2曲、6分(実際は5分59秒)も1曲と、長尺の楽曲が多いですが、全編を聴いても、長い、だるいといった印象はありません。これもRogerの魔術で、Supertramp時代でもこうした魔力は目立っておりましたが、ソロになってより強い印象を受けます。
このアルバムからシングル・カットされた"Had A Dream(Sleeping With The Enemy)"は、アルバム本編では8分27秒(8分49秒表記もあります)の大作ですが、シングル・ヴァージョンは4分24秒にエディットされました。この曲もアルバム・ヴァージョンは8分以上の長さやだるさは全く感じられず、軽快なテンポでスイスイと進んでいく感触で、非常に聴きやすく、馴染みやすいのが特徴です。アルバム・ジャケットや歌詞内容からなにもない宇宙に生命が誕生するかのようなイメージの沸く楽曲でしたが、プロモーション・ビデオでもこうしたイメージが見事に体現されました。中でもRogerの奇怪なメイクや半裸で走り回るといった強烈なパフォーマンスも印象的です。
この曲は陽の当たった1984年10月13日にBillboard HOT100シングルチャートとBillboard Top Rock Tracksチャートにそれぞれ同時にエントリーしました。HOT100では85位にエントリー後、76位→74位→61位→58位→56位→54位→50位と、10ランク以上アップしたのは1度だけで、続く12月8日付と翌週15日付の2週連続48位をピークに下降していき、15週チャートインしました。Top Rock Tracksチャートでは、47位にエントリー後、23位→11位→7位と順調にアップし、まず11月10日付で最高位5位を記録、その後10位→6位と変動して、12月1日に再び最高位5位を記録、その後は下降し、計16週チャートインしました。やはりロックが主体のチャートですと本領発揮と言うことでしょうか。
このアルバムからは2曲目に収録されているシンセサイザー・ソロが素晴らしい"In Jeopardy"もシングル・カットされ、 Top Rock Tracksチャートで30位まで上がりました。
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2018年10月12日
10月12日は何に陽(ひ)が当たったか?
コロンブスは、以前から航海術・天文学の知識を身に付け、航海に従事していたとされます。1479年にはリスボンに移ってイタリア人の娘と結婚しましたが、この時義父から新しい航海の資料を得ました。それはイタリア・フィレンツェの天文学・地理学者トスカネリ(1397-1482)の「地球球体説」でした。この資料に刺激を受けたコロンブスは、大西洋を西航してインドに到達することを信じます。
当時キリスト教領土拡張に野心を抱いていたスペイン女王イサベル1世(位1474-1504)はコロンブスの航海による新領土発見を期待し、コロンブスからの会見に応じました。1492年4月、イサベルは夫でスペインを共同統治するフェルナンド2世(位1475-1516)と共にコロンブスの援助を決め、コロンブスは遂にスペイン両王の命で大西洋西航によるインド到達計画を実施するに至りました。しかし、イサベルはそれほど重要には考えてはおらず、援助は彼女の所持品(指輪か?)ただ1つだったとされています。
同1492年8月3日、コロンブスは3隻の帆船(サンタ・マリア号、ピンタ号、ニーニャ号)と乗員120人を率いて、カスティリャのパロス港を出航、大西洋を西へと横断する航海が始まりました。しかし快調に進むはずが、約10週間(72日)も航海が続き、食糧不足や未達の苛立たしさから船員間に不協和音が起こるなど、必ずしも順風満帆ではありませんでした。しかし陽の当たった10月12日未明、遂に陸地を発見、バハマ諸島の一部グアナハニ島に到達しました。コロンブス一行は同島に上陸して、「サン・サルバドル島(=スペイン語で"聖なる救世主")」と名付けました。
その後コロンブス一行は、大アンティル諸島のキューバ、ハイチと探検し、ハイチに植民者を残して翌1493年3月に帰国しました。コロンブス本人は到達地をインドの一部と信じていたものの、この航海はヨーロッパ人によるアメリカ大陸発見の糸口となったのです。
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