2018年10月21日
10月21日は何に陽(ひ)が当たったか?
1805年10月21日は、イギリス・フランス間でトラファルガーの海戦が行われ、ナポレオン1世(帝位1804-14,15)率いるフランス海軍が敗北、勝利したイギリス海軍提督、初代ネルソン子爵(ホレイショ・ネルソン。1758-1805)がこの戦争で47年の生涯を終えた日です。
1804年、フランスでは第一共和政(1792.9-1804.5)が終わり、ナポレオン1世による第一帝政(1804.2-14,15)が始まりました。フランス帝国の誕生はヨーロッパ諸国に脅威を与えます。
イギリス・フランス間で1802年3月25日にアミアンの和約が締結されて以降、1年ほどヨーロッパ全体は平和で安定してましたが、英仏間では依然として緊張が続いていました。この間のイギリス政府は、対仏強硬派のイギリス首相ウィリアム・ピット(任1783-1801,1804-06。小ピット)は退陣しており、対仏柔軟派のヘンリー・アディントン政権(任1801-04)でした。しかし両国関係の悪化が避けられず、イギリスは1803年5月にアミアンの和約を解消して対仏宣戦を表明(1803.5.16)、アディントンは辞任し(1804.4)、翌月に小ピットが再任しました。
イギリスは制海権を武器に海上封鎖を行い、フランス船舶に脅しをかけました。フランス商船が足止めとなり、フランスは経済的打撃を被りました。イギリスの海上封鎖に対し、大陸封鎖でイギリスに圧力を加えようとしたナポレオンは、イギリス上陸の計画をたてて、フランス北部のドーヴァー海峡に面するブローニュ・シュル・メールに大軍(Armee d'Angleterre。アルメ・ダングルテール。イングランド遠征軍)を送り込みました。ナポレオン戦争の幕開けです(1796-15。開始年はアミアンの和約破棄の1803年や、第一帝政発足の1804年とする場合もあります)。これをみた小ピット首相は、当時神聖ローマ帝国(962-1806)の皇帝位を戴いていたオーストリア帝国(1804-67)をはじめ、ロシア帝国(ロマノフ朝として1613-1917。帝国の呼称は1721年から)、スウェーデン王国(1523- )、ナポリ王国(1282-1816)らを賛同させて3度目の対仏大同盟(第3回対仏大同盟)を結成しました(1805.4-1806)。
ブローニュ・シュル・メール駐留と同時進行で、海上封鎖されていた南東フランスのトゥーロンからフランス海軍提督ピエール・ヴィルヌーヴ(1763-1806)率いる艦隊が出航、のちにスペイン艦隊と合流してイギリス領の西インド諸島に向かいました。これはイギリス領西インド諸島に向かうフランス・スペインの連合艦隊がイギリス軍を引きつける間に、ブローニュ・シュル・メールのイギリス遠征軍をイギリス本土に上陸する陽動作戦でした。しかしこの作戦はイギリス船を数隻拿捕したにとどまり、疲弊と消耗を重ねてヨーロッパに帰還、途中フィニステレ岬(スペイン北西部ガリシア州)の沖でイギリス海軍提督ロバート・カルダー(1745-1818)率いるイギリス艦隊と海戦が勃発(フィニステレ岬の海戦。1805.7.22)、フランス・スペインの連合艦隊は大敗北を喫し、スペイン西部のカディス(アンダルシア州)に退きました。ヴィルヌーヴ提督の陽動によるイギリス本土上陸作戦は失敗、上陸を断念したイギリス遠征軍は再編してフランス大陸軍(Grande Armee。グランダルメ)としてライン川方面へ移動させ、攻撃目標をロシアやオーストリアなど大陸諸国に向けました。
1805年10月19日ナポレオンはヴィルヌーヴ提督にナポリ制圧を命じ、提督はカディスを出航した。これを阻んだのが、イギリスの海軍軍人で、1803年から地中海艦隊司令長官としてイギリス海軍を率いたホレイショ・ネルソンです。ネルソンはイギリスのノーフォーク出身、20歳で海軍に入り、順調に昇進するも、1794年にコルシカ島攻略戦で右目の視力を、1796年のカナリア諸島戦で右腕をそれぞれ失いましたが、功績を認められて対仏戦を任されました。
ネルソン率いるイギリス艦隊は104門の大砲を搭載する戦列艦HMSヴィクトリー号(画像はこちら。HMSとはHis Majesty's Shipの略。"陛下の船"の意味。1765年に進水)を旗艦とする27隻の艦隊です。一方のヴィルヌーヴ提督率いるフランス・スペイン連合艦隊は旗艦ビューサントル号(画像はこちら)を中心に33隻で構成されました(そのうちの1隻、旧名シュフランで、ルドゥタブル号と呼ばれる戦列艦も有名。Redoutable。画像はこちらで、真ん中の船。右はHMSヴィクトリー号。左はイギリス戦列艦テメレーア号。後述)。ヴィルヌーヴ提督がカディスを出、これをネルソン艦隊が捕捉しました。こうしてカディス南東のジブラルタル海峡北西にあるトラファルガー岬で両軍が激突、歴史上有名なトラファルガーの海戦が勃発したのです(1805.10.21)。
ネルソンは自軍の艦隊を縦二列に並べ、横に並ぶフランス・スペイン連合艦隊の隊列に対して垂直の状態にしました(図はこちら)。縦二列にしたイギリス艦隊が、フランス艦隊の隊列に突っ込む接近戦は「ネルソン・タッチ」戦法の名で知られました。先頭にいたネルソン提督は、イギリスの海軍軍人たちを鼓舞するために、"England confides that every man will do his duty(イングランドは各員が義務を果たすことを信じる)."という文を船舶間の通信に使う信号旗を用いて各隊に伝達しようとしました。ネルソンは海軍中尉ジョン・パスコ(1774-1853)に提示したが、パスコは文中の"confides"という語が海事用信号コードになく、一文字ずつ信号旗を揚げなければならないため、"confides"を、信号コードにある"expects"を使ってはどうかと提案し、ネルソンもこれを受け入れました(実は"duty"も信号コードにありませんでしたが、必要とする語であり、4文字であったので、一文字ずつ送ることにしました)。こうして、"England expects that every man will do his D-U-T-Y(イングランドは各員が義務を果たすことを期待する)."の信号文が完成し、組み合わせた信号旗を掲揚することによって各員に送られました(画像はこちらとこちら)。
兵力の数ではフランス・スペイン連合艦隊に負けていたイギリス艦隊でしたが、この信号文を見たイギリスの各艦隊は歓声をあげ、士気が高まりました。そしてフランス・ビューサントル号の艦尾に配置していたルドゥタブル号にイギリス・HMSヴィクトリー号が激突しましたが、ヴィクトリー号はルトゥダブル号から激しい砲撃を30分にわたって受け、このときネルソンは被弾しました。このとき、ルドゥタブル号の兵士がヴィクトリー号へ移乗攻撃(敵船へ戦闘員を乗り移らせる戦術。切り込み)を試みるも、団結力の高まったイギリス海軍はイギリスの戦列艦テメレーア号(【画像はこちら。ロマン主義画派ウィリアム・ターナー作。1775-1851)が割って入り、ネルソンが座乗するヴィクトリー号を助け、ついにフランスのルドゥタブル号を打ち負かしました。フランス軍はスペインとの連合艦隊であったため、統率に欠け、兵器の威力もイギリス海軍より劣っていました。このため、20隻近くの艦船が大破し、1万人のフランス・スペイン兵が戦死・捕虜となってしまいました。ヴィルヌーヴも捕らえられました(彼はその後特赦で帰国を許されますが、ホテルで自殺。1806年没)。
ヴィクトリー号の隊員も百数十名の死傷者を出しました。船上で、軍医のウィリアム・ビーティ(1773-1842)は、銃弾に倒れたネルソンの脈をとり、治療するにはもう手遅れと察知しました。このとき、ネルソンはかすかな声で、"Thanks God , I have done my duty(神に感謝する。私は自身の義務を果たした)."の言葉をつぶやき、絶命しました(ネルソン戦死。1805.10.21)。イギリスはこのトラファルガーの海戦で、ネルソンの命とひきかえに勝利をもたらしたのでした。
トラファルガーの海戦では敗北を喫したものの、陸上戦を得意とするフランスは、フランス大陸軍でもって、直後の同1805年12月にイギリスと対仏大同盟を組んだロシア、オーストリア相手に、アウステルリッツ三帝会戦(1805.12.2)で勝利をもたらしました。翌年、イギリス首相小ピットは失意のうちに病死、対仏大同盟も解体となりました。ナポレオン率いるフランスがトラファルガー戦での敗北を払拭する勝利をアウステルリッツ戦でもたらした反面、イギリス海軍はトラファルガー戦勝利をもってしても、皇帝ナポレオンとしてのヨーロッパ大陸の覇権を揺さぶるまでには至りませんでした。しかしイギリス本国では、ネルソンをナポレオン戦争の勝利者として、その軍功を大いに称えました。
ネルソンは生前、祖国での埋葬を望み、ヴィクトリー号の船上で亡くなった遺体は、腐敗を避けるために洋酒の樽に漬けられて保存されました。しかし、ヴィクトリー号が帰還したとき、樽の中の酒は残っていなかったという逸話があります。これは帰途につく間、ネルソンの軍功に肖ろうとした海兵が盗み飲みしたともいわれております。そして英国王以外では初の国葬がとりおこなわれ、ネルソンの遺骸はセント・ポール大聖堂に葬られました。ロンドンのウェストミンスターにおいて、トラファルガーの海戦でフランス・ナポレオン軍に勝利したことを記念してつくられたのがトラファルガー広場(1845年に現在の形になり、この頃ネルソン記念柱が建造。映像はこちら)で、ネルソンは現在でもなお、英国の英雄です。
そして、勝利を呼び込んだHMSヴィクトリー号は1812年に退役となり、1922年に記念艦(博物館船)として、イギリスのポーツマス港に展示されています。
外部リンク・・・Wikipediaより
引用文献・・・『世界史の目 第244話』
1804年、フランスでは第一共和政(1792.9-1804.5)が終わり、ナポレオン1世による第一帝政(1804.2-14,15)が始まりました。フランス帝国の誕生はヨーロッパ諸国に脅威を与えます。
イギリス・フランス間で1802年3月25日にアミアンの和約が締結されて以降、1年ほどヨーロッパ全体は平和で安定してましたが、英仏間では依然として緊張が続いていました。この間のイギリス政府は、対仏強硬派のイギリス首相ウィリアム・ピット(任1783-1801,1804-06。小ピット)は退陣しており、対仏柔軟派のヘンリー・アディントン政権(任1801-04)でした。しかし両国関係の悪化が避けられず、イギリスは1803年5月にアミアンの和約を解消して対仏宣戦を表明(1803.5.16)、アディントンは辞任し(1804.4)、翌月に小ピットが再任しました。
イギリスは制海権を武器に海上封鎖を行い、フランス船舶に脅しをかけました。フランス商船が足止めとなり、フランスは経済的打撃を被りました。イギリスの海上封鎖に対し、大陸封鎖でイギリスに圧力を加えようとしたナポレオンは、イギリス上陸の計画をたてて、フランス北部のドーヴァー海峡に面するブローニュ・シュル・メールに大軍(Armee d'Angleterre。アルメ・ダングルテール。イングランド遠征軍)を送り込みました。ナポレオン戦争の幕開けです(1796-15。開始年はアミアンの和約破棄の1803年や、第一帝政発足の1804年とする場合もあります)。これをみた小ピット首相は、当時神聖ローマ帝国(962-1806)の皇帝位を戴いていたオーストリア帝国(1804-67)をはじめ、ロシア帝国(ロマノフ朝として1613-1917。帝国の呼称は1721年から)、スウェーデン王国(1523- )、ナポリ王国(1282-1816)らを賛同させて3度目の対仏大同盟(第3回対仏大同盟)を結成しました(1805.4-1806)。
ブローニュ・シュル・メール駐留と同時進行で、海上封鎖されていた南東フランスのトゥーロンからフランス海軍提督ピエール・ヴィルヌーヴ(1763-1806)率いる艦隊が出航、のちにスペイン艦隊と合流してイギリス領の西インド諸島に向かいました。これはイギリス領西インド諸島に向かうフランス・スペインの連合艦隊がイギリス軍を引きつける間に、ブローニュ・シュル・メールのイギリス遠征軍をイギリス本土に上陸する陽動作戦でした。しかしこの作戦はイギリス船を数隻拿捕したにとどまり、疲弊と消耗を重ねてヨーロッパに帰還、途中フィニステレ岬(スペイン北西部ガリシア州)の沖でイギリス海軍提督ロバート・カルダー(1745-1818)率いるイギリス艦隊と海戦が勃発(フィニステレ岬の海戦。1805.7.22)、フランス・スペインの連合艦隊は大敗北を喫し、スペイン西部のカディス(アンダルシア州)に退きました。ヴィルヌーヴ提督の陽動によるイギリス本土上陸作戦は失敗、上陸を断念したイギリス遠征軍は再編してフランス大陸軍(Grande Armee。グランダルメ)としてライン川方面へ移動させ、攻撃目標をロシアやオーストリアなど大陸諸国に向けました。
1805年10月19日ナポレオンはヴィルヌーヴ提督にナポリ制圧を命じ、提督はカディスを出航した。これを阻んだのが、イギリスの海軍軍人で、1803年から地中海艦隊司令長官としてイギリス海軍を率いたホレイショ・ネルソンです。ネルソンはイギリスのノーフォーク出身、20歳で海軍に入り、順調に昇進するも、1794年にコルシカ島攻略戦で右目の視力を、1796年のカナリア諸島戦で右腕をそれぞれ失いましたが、功績を認められて対仏戦を任されました。
ネルソン率いるイギリス艦隊は104門の大砲を搭載する戦列艦HMSヴィクトリー号(画像はこちら。HMSとはHis Majesty's Shipの略。"陛下の船"の意味。1765年に進水)を旗艦とする27隻の艦隊です。一方のヴィルヌーヴ提督率いるフランス・スペイン連合艦隊は旗艦ビューサントル号(画像はこちら)を中心に33隻で構成されました(そのうちの1隻、旧名シュフランで、ルドゥタブル号と呼ばれる戦列艦も有名。Redoutable。画像はこちらで、真ん中の船。右はHMSヴィクトリー号。左はイギリス戦列艦テメレーア号。後述)。ヴィルヌーヴ提督がカディスを出、これをネルソン艦隊が捕捉しました。こうしてカディス南東のジブラルタル海峡北西にあるトラファルガー岬で両軍が激突、歴史上有名なトラファルガーの海戦が勃発したのです(1805.10.21)。
ネルソンは自軍の艦隊を縦二列に並べ、横に並ぶフランス・スペイン連合艦隊の隊列に対して垂直の状態にしました(図はこちら)。縦二列にしたイギリス艦隊が、フランス艦隊の隊列に突っ込む接近戦は「ネルソン・タッチ」戦法の名で知られました。先頭にいたネルソン提督は、イギリスの海軍軍人たちを鼓舞するために、"England confides that every man will do his duty(イングランドは各員が義務を果たすことを信じる)."という文を船舶間の通信に使う信号旗を用いて各隊に伝達しようとしました。ネルソンは海軍中尉ジョン・パスコ(1774-1853)に提示したが、パスコは文中の"confides"という語が海事用信号コードになく、一文字ずつ信号旗を揚げなければならないため、"confides"を、信号コードにある"expects"を使ってはどうかと提案し、ネルソンもこれを受け入れました(実は"duty"も信号コードにありませんでしたが、必要とする語であり、4文字であったので、一文字ずつ送ることにしました)。こうして、"England expects that every man will do his D-U-T-Y(イングランドは各員が義務を果たすことを期待する)."の信号文が完成し、組み合わせた信号旗を掲揚することによって各員に送られました(画像はこちらとこちら)。
兵力の数ではフランス・スペイン連合艦隊に負けていたイギリス艦隊でしたが、この信号文を見たイギリスの各艦隊は歓声をあげ、士気が高まりました。そしてフランス・ビューサントル号の艦尾に配置していたルドゥタブル号にイギリス・HMSヴィクトリー号が激突しましたが、ヴィクトリー号はルトゥダブル号から激しい砲撃を30分にわたって受け、このときネルソンは被弾しました。このとき、ルドゥタブル号の兵士がヴィクトリー号へ移乗攻撃(敵船へ戦闘員を乗り移らせる戦術。切り込み)を試みるも、団結力の高まったイギリス海軍はイギリスの戦列艦テメレーア号(【画像はこちら。ロマン主義画派ウィリアム・ターナー作。1775-1851)が割って入り、ネルソンが座乗するヴィクトリー号を助け、ついにフランスのルドゥタブル号を打ち負かしました。フランス軍はスペインとの連合艦隊であったため、統率に欠け、兵器の威力もイギリス海軍より劣っていました。このため、20隻近くの艦船が大破し、1万人のフランス・スペイン兵が戦死・捕虜となってしまいました。ヴィルヌーヴも捕らえられました(彼はその後特赦で帰国を許されますが、ホテルで自殺。1806年没)。
ヴィクトリー号の隊員も百数十名の死傷者を出しました。船上で、軍医のウィリアム・ビーティ(1773-1842)は、銃弾に倒れたネルソンの脈をとり、治療するにはもう手遅れと察知しました。このとき、ネルソンはかすかな声で、"Thanks God , I have done my duty(神に感謝する。私は自身の義務を果たした)."の言葉をつぶやき、絶命しました(ネルソン戦死。1805.10.21)。イギリスはこのトラファルガーの海戦で、ネルソンの命とひきかえに勝利をもたらしたのでした。
トラファルガーの海戦では敗北を喫したものの、陸上戦を得意とするフランスは、フランス大陸軍でもって、直後の同1805年12月にイギリスと対仏大同盟を組んだロシア、オーストリア相手に、アウステルリッツ三帝会戦(1805.12.2)で勝利をもたらしました。翌年、イギリス首相小ピットは失意のうちに病死、対仏大同盟も解体となりました。ナポレオン率いるフランスがトラファルガー戦での敗北を払拭する勝利をアウステルリッツ戦でもたらした反面、イギリス海軍はトラファルガー戦勝利をもってしても、皇帝ナポレオンとしてのヨーロッパ大陸の覇権を揺さぶるまでには至りませんでした。しかしイギリス本国では、ネルソンをナポレオン戦争の勝利者として、その軍功を大いに称えました。
ネルソンは生前、祖国での埋葬を望み、ヴィクトリー号の船上で亡くなった遺体は、腐敗を避けるために洋酒の樽に漬けられて保存されました。しかし、ヴィクトリー号が帰還したとき、樽の中の酒は残っていなかったという逸話があります。これは帰途につく間、ネルソンの軍功に肖ろうとした海兵が盗み飲みしたともいわれております。そして英国王以外では初の国葬がとりおこなわれ、ネルソンの遺骸はセント・ポール大聖堂に葬られました。ロンドンのウェストミンスターにおいて、トラファルガーの海戦でフランス・ナポレオン軍に勝利したことを記念してつくられたのがトラファルガー広場(1845年に現在の形になり、この頃ネルソン記念柱が建造。映像はこちら)で、ネルソンは現在でもなお、英国の英雄です。
そして、勝利を呼び込んだHMSヴィクトリー号は1812年に退役となり、1922年に記念艦(博物館船)として、イギリスのポーツマス港に展示されています。
外部リンク・・・Wikipediaより
引用文献・・・『世界史の目 第244話』
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posted by ottovonmax at 00:00| 歴史