2018年10月20日
10月20日は何に陽(ひ)が当たったか?
1854年10月20日は、象徴主義文学の代表的作家、アルチュール・ランボーの生誕日です。
1854年10月20日、フランス東北部のシャルルヴィルで、陸軍大尉の家に一つの生命が誕生しました。その生命こそ、後の世にその名を轟かせることになる天才詩人、ジャン・ニコラ・アルチュール・ランボー(1854-1891)です。父フレデリック・ランボー(1814-1878。軍人)、母マリー・カトリーヌ・ヴィタリー・キュイフ(1825-1907。小地主の娘)、兄ジャン・ニコラ・フレデリック(1853-1911)の家族でした。
母キュイフは厳格で狂信的なカトリック教徒である一方、父フレデリックは外出が多く家を空けることが多かったとされます。結局ランボーが6歳の時、両親は性格不一致を理由に別居することになり、ランボーは母キュイフに引き取られ、非常に厳しく育てられました。学業においても、幼時から"早熟の天才"の異名にふさわしく優等ぶりを発揮しました。
1869年1月、15歳のランボーはラテン語詩『生徒の夢想』、6月には『天使と子供』をそれぞれ発表、『ドゥエ・アカデミー会報』に掲載され、8月『ユグルタ』でドゥエ・アカデミーのコンクールで第一等を受賞し、ランボーの名が大いに知られることになります。
翌1870年はランボーが初めて発表したフランス語詩『遺児たちのお年玉』を発表した年でしたが、この頃に出会いました、ランボーが履修する修辞学(レトリック。弁論術)に赴任した当時21歳のジョルジュ・イザンバール(1848-1931)という人物は、彼の才能に注目するようになり、彼を直接指導し、5月に高踏派詩人のテオドール・バンヴィル(1823-91)の詩集を貸し出させました。バンヴィルの詩に刺激を受けたランボーは、ステファヌ・マラルメ(1842-98)、ポール・ヴェルレーヌ(1844-96)ら、当時高踏派で知られる作家たちの作品が掲載されました『現代高踏派詩集』への掲載を夢見て、パリにいるバンヴィル宛に自作の詩(「感覚」「オフェリヤ」など数編)を収めた手紙を送りましたが、掲載されませんでした。
その後、普仏戦争(1870.7-1871.2)が勃発しました。翌8月、ランボーはバンヴィルに会うべく、家出同然でパリへと向かいました。ランボーの人生における初めての家出でありました。しかし無賃乗車を犯したためパリ北駅で逮捕され、留置されました。同年9月、ランボーは留置所でフランスの敗戦と第二帝政(1852-70)の崩壊を知りました。
同月、イザンバールの尽力で釈放され、家に帰されたランボーでしたが、翌1871年3月まで母に反抗しながら三度の家出をおこし、パリやベルギーを放浪しました。同年同月、パリ・コミューン(1871.3)がおこり、コミューン軍と、プロイセンの支援を受けた政府軍との激しい戦闘が行われました。この間ランボーは地元シャルルヴィルにいたが、コミューンの誕生に興奮した17歳のランボーは学校復学を拒絶して、4月に四度目の家出を起こし、混乱するパリへ向かったのです。パリ・コミューンはその後"血の一週間"と呼ばれる政府軍の大虐殺によって陥落し(1871.5.28)、抵抗は終わりました。ランボーはコミューンの数百万人の支持者が次々と殺され、コミューン政府が陥落していく有様を見て、大いに落胆したといわれています。
"血の一週間"がおこる前、ランボーは友人であり詩人であるポール・ドメニー(1844-1917)や恩師イザンバール宛に書簡「見者(ヴォワイヤン)の手紙」を送りました。見者とは"予言・予見する者"あるいは"未知を占う者"の意味ですが、ランボーによれば、詩人は"見者"たらしめねばならないとし、"詩人は自分自身を全的に認識し、あらゆる感覚の、長期にわたる、大がかりな、そして理に適った壊乱を通じて見者となる"と力説したのです。この世の最初の"見者"をシャルル・ボードレール(1821-67)であるとし、詩人たちの最高峰に立つ、本当の神的存在であると主張しました。
1871年9月、ランボーはパリにいる高踏派詩人ヴェルレーヌに自身の作品と書簡を送りました。ヴェルレーヌはランボーの作品に感激し、パリへ彼を招くことを決め、直後にその内容を返信しました。この時ヴェルレーヌは結婚1年目で、翌10月には長男が誕生しました。
ランボーはパリに入った時、完成したばかりの作品『酔いどれ船(酩酊船)』を携え、ヴェルレーヌと対面しました。ヴェルレーヌはパリの文学界でランボーを紹介、激励と賞賛を周囲に示しましたが、肝心のランボーは周囲の前でも粗暴・傲慢・無礼・猥褻な言動を繰り返していましたので、周囲からは完全に孤立し、ヴェルレーヌだけに認められている状況でありました。しかもヴェルレーヌの家族は、ランボーをここまで入れ込むヴェルレーヌに覚醒させようとしますが、ヴェルレーヌはこれを解せず、妻に暴力をふるうなど家庭崩壊につながっていきました。1872年2月になると離婚問題に発展したため、ランボーはパリを離れ、シャルルヴィルに戻りました。
家族を捨てたヴェルレーヌはランボーに手紙を送り、再度彼をパリに招きました。そして今度は2人で家出をおこない、1872年後半はブリュッセルやロンドンを放浪しました。年末、母の命令によりランボーのみシャルルヴィルに帰郷しましたが、翌1873年1月、ロンドンでヴェルレーヌがインフルエンザにかかり、自身の妻とランボーに"瀕死"とつづった電報を打ちましたが、これを見てロンドンに駆けつけたのは妻ではなくランボーでした。5月、ランボーは自身の代表作となります、『地獄の季節(地獄の一季節)』を書き始めます。
同月にロンドンに行ったランボーとヴェルレーヌでしたが、ヴェルレーヌは妻との離婚問題で憔悴し、しかも両者の経済状態は悪化していたことで、両者間に少しずつ亀裂が生まれました。7月にランボーと激しい喧嘩をしたヴェルレーヌは、その後彼を置いてブリュッセルへ逃げ、妻との復縁を望むようになりました。のちにブリュッセルに入ったランボーはヴェルレーヌと再会しましたが、ヴェルレーヌは妻との和解を邪魔させまいとランボーのパリ行きを止めようとしていたのです。しかしこれがまたしても両者間の激しい喧嘩となり、遂に事件は起こってしまいました。
1873年7月10日ヴェルレーヌは拳銃を取り出し、ランボーに向けて発砲したのです。弾丸は二発、うち一発はランボーの左手首に命中しました。ランボーは身の危険を感じて警察に保護を求めたため、ヴェルレーヌは逮捕され、懲役2年の判決が下されました。ヴェルレーヌは翌1874年4月に妻とも離婚の結末を迎えました。
この事件後、ランボーは代表作『地獄の季節』を完成しました。1874年3月には、ランボーは、自身のもう1つの代表作『イリュミナシオン(彩飾)』も手掛け、1875年1月に出所したヴェルレーヌとその後再会して、書き上げた『イリュミナシオン』の草稿をヴェルレーヌに手渡したとされています。しかし、破綻した二人の関係は修復されることはなく、二人は訣別しました。ヴェルレーヌはその後足を患って病院を転々とし、また経済状態も改善されることはなく、1896年パリで没しました。
一方、ヴェルレーヌと別れたランボーは、21歳になった1875年を最後に詩作活動から退きました。友人宛て書簡の中に添えられた詩が、彼の最後の作品とされています。文学界から退いたランボーは放浪を拡大し、その規模はジャワ島やアラビアにまで及びました。その間オランダ植民地軍に入隊したり(その後脱走)、石切場の監督、通訳、貿易商など、さまざまな分野で活動を行いました。『イリュミナシオン』がヴェルレーヌの手で発表された1886年、ランボーはエチオピア帝国(1270-1975)のシェワ王侯メネリク(後のメネリク2世。王位1889-1993)に接近して武器取引を行ったとされています。
1891年2月、ランボーは右脚の骨肉腫が悪化したため、マルセイユのコンセプシオン病院で右脚を切断しますが(5月)、癌は全身転移が進行、ランボーの体は次第に悪化の傾向をたどり、同年11月10日、妹に看取られながら同病院で37歳の若さで没しました。
内面の精神は"象徴"によって具象化された描写・表現でおこなわれる象徴主義の継承者として後世に知られましたランボーは、自身の詩法の中で、言葉をするどく探求している様子がうかがえます。それは前述の友人ポール・ドメニー宛に送った書簡「見者(ヴォワイヤン)の手紙」の中で、言葉は匂い、音、色彩といったすべてを要約し、魂から魂へと進み、思考を掴んで引き寄せては引き出すものであり、それが可能な詩人は進歩を倍増させる乗数となると述べています。
また同書簡にはランボーの有名な言葉である"Je suis un autre(私とは一つの他者である)"が添えられています。自身を"私"ととらえるのではなく、他者であることに重点を置き、詩に表したのです。反抗と孤立を携えた、当時17歳が放った独特の思想は、現代においてもなお、多くの人々に深い理解を与えています。
詩作活動はきわめて短期間ながら、象徴派の代表的詩人として、文学界のみならず、多種多様の文化にも多大な影響を与えたという意味で、彼の存在は極めて重要であり、残した功績はあまりにも大きかったと言えるでしょう。
参考文献:思潮社『ランボー詩集』鈴村和成訳編
引用文献:『世界史の目 第192話』より
1854年10月20日、フランス東北部のシャルルヴィルで、陸軍大尉の家に一つの生命が誕生しました。その生命こそ、後の世にその名を轟かせることになる天才詩人、ジャン・ニコラ・アルチュール・ランボー(1854-1891)です。父フレデリック・ランボー(1814-1878。軍人)、母マリー・カトリーヌ・ヴィタリー・キュイフ(1825-1907。小地主の娘)、兄ジャン・ニコラ・フレデリック(1853-1911)の家族でした。
母キュイフは厳格で狂信的なカトリック教徒である一方、父フレデリックは外出が多く家を空けることが多かったとされます。結局ランボーが6歳の時、両親は性格不一致を理由に別居することになり、ランボーは母キュイフに引き取られ、非常に厳しく育てられました。学業においても、幼時から"早熟の天才"の異名にふさわしく優等ぶりを発揮しました。
1869年1月、15歳のランボーはラテン語詩『生徒の夢想』、6月には『天使と子供』をそれぞれ発表、『ドゥエ・アカデミー会報』に掲載され、8月『ユグルタ』でドゥエ・アカデミーのコンクールで第一等を受賞し、ランボーの名が大いに知られることになります。
翌1870年はランボーが初めて発表したフランス語詩『遺児たちのお年玉』を発表した年でしたが、この頃に出会いました、ランボーが履修する修辞学(レトリック。弁論術)に赴任した当時21歳のジョルジュ・イザンバール(1848-1931)という人物は、彼の才能に注目するようになり、彼を直接指導し、5月に高踏派詩人のテオドール・バンヴィル(1823-91)の詩集を貸し出させました。バンヴィルの詩に刺激を受けたランボーは、ステファヌ・マラルメ(1842-98)、ポール・ヴェルレーヌ(1844-96)ら、当時高踏派で知られる作家たちの作品が掲載されました『現代高踏派詩集』への掲載を夢見て、パリにいるバンヴィル宛に自作の詩(「感覚」「オフェリヤ」など数編)を収めた手紙を送りましたが、掲載されませんでした。
その後、普仏戦争(1870.7-1871.2)が勃発しました。翌8月、ランボーはバンヴィルに会うべく、家出同然でパリへと向かいました。ランボーの人生における初めての家出でありました。しかし無賃乗車を犯したためパリ北駅で逮捕され、留置されました。同年9月、ランボーは留置所でフランスの敗戦と第二帝政(1852-70)の崩壊を知りました。
同月、イザンバールの尽力で釈放され、家に帰されたランボーでしたが、翌1871年3月まで母に反抗しながら三度の家出をおこし、パリやベルギーを放浪しました。同年同月、パリ・コミューン(1871.3)がおこり、コミューン軍と、プロイセンの支援を受けた政府軍との激しい戦闘が行われました。この間ランボーは地元シャルルヴィルにいたが、コミューンの誕生に興奮した17歳のランボーは学校復学を拒絶して、4月に四度目の家出を起こし、混乱するパリへ向かったのです。パリ・コミューンはその後"血の一週間"と呼ばれる政府軍の大虐殺によって陥落し(1871.5.28)、抵抗は終わりました。ランボーはコミューンの数百万人の支持者が次々と殺され、コミューン政府が陥落していく有様を見て、大いに落胆したといわれています。
"血の一週間"がおこる前、ランボーは友人であり詩人であるポール・ドメニー(1844-1917)や恩師イザンバール宛に書簡「見者(ヴォワイヤン)の手紙」を送りました。見者とは"予言・予見する者"あるいは"未知を占う者"の意味ですが、ランボーによれば、詩人は"見者"たらしめねばならないとし、"詩人は自分自身を全的に認識し、あらゆる感覚の、長期にわたる、大がかりな、そして理に適った壊乱を通じて見者となる"と力説したのです。この世の最初の"見者"をシャルル・ボードレール(1821-67)であるとし、詩人たちの最高峰に立つ、本当の神的存在であると主張しました。
1871年9月、ランボーはパリにいる高踏派詩人ヴェルレーヌに自身の作品と書簡を送りました。ヴェルレーヌはランボーの作品に感激し、パリへ彼を招くことを決め、直後にその内容を返信しました。この時ヴェルレーヌは結婚1年目で、翌10月には長男が誕生しました。
ランボーはパリに入った時、完成したばかりの作品『酔いどれ船(酩酊船)』を携え、ヴェルレーヌと対面しました。ヴェルレーヌはパリの文学界でランボーを紹介、激励と賞賛を周囲に示しましたが、肝心のランボーは周囲の前でも粗暴・傲慢・無礼・猥褻な言動を繰り返していましたので、周囲からは完全に孤立し、ヴェルレーヌだけに認められている状況でありました。しかもヴェルレーヌの家族は、ランボーをここまで入れ込むヴェルレーヌに覚醒させようとしますが、ヴェルレーヌはこれを解せず、妻に暴力をふるうなど家庭崩壊につながっていきました。1872年2月になると離婚問題に発展したため、ランボーはパリを離れ、シャルルヴィルに戻りました。
家族を捨てたヴェルレーヌはランボーに手紙を送り、再度彼をパリに招きました。そして今度は2人で家出をおこない、1872年後半はブリュッセルやロンドンを放浪しました。年末、母の命令によりランボーのみシャルルヴィルに帰郷しましたが、翌1873年1月、ロンドンでヴェルレーヌがインフルエンザにかかり、自身の妻とランボーに"瀕死"とつづった電報を打ちましたが、これを見てロンドンに駆けつけたのは妻ではなくランボーでした。5月、ランボーは自身の代表作となります、『地獄の季節(地獄の一季節)』を書き始めます。
同月にロンドンに行ったランボーとヴェルレーヌでしたが、ヴェルレーヌは妻との離婚問題で憔悴し、しかも両者の経済状態は悪化していたことで、両者間に少しずつ亀裂が生まれました。7月にランボーと激しい喧嘩をしたヴェルレーヌは、その後彼を置いてブリュッセルへ逃げ、妻との復縁を望むようになりました。のちにブリュッセルに入ったランボーはヴェルレーヌと再会しましたが、ヴェルレーヌは妻との和解を邪魔させまいとランボーのパリ行きを止めようとしていたのです。しかしこれがまたしても両者間の激しい喧嘩となり、遂に事件は起こってしまいました。
1873年7月10日ヴェルレーヌは拳銃を取り出し、ランボーに向けて発砲したのです。弾丸は二発、うち一発はランボーの左手首に命中しました。ランボーは身の危険を感じて警察に保護を求めたため、ヴェルレーヌは逮捕され、懲役2年の判決が下されました。ヴェルレーヌは翌1874年4月に妻とも離婚の結末を迎えました。
この事件後、ランボーは代表作『地獄の季節』を完成しました。1874年3月には、ランボーは、自身のもう1つの代表作『イリュミナシオン(彩飾)』も手掛け、1875年1月に出所したヴェルレーヌとその後再会して、書き上げた『イリュミナシオン』の草稿をヴェルレーヌに手渡したとされています。しかし、破綻した二人の関係は修復されることはなく、二人は訣別しました。ヴェルレーヌはその後足を患って病院を転々とし、また経済状態も改善されることはなく、1896年パリで没しました。
一方、ヴェルレーヌと別れたランボーは、21歳になった1875年を最後に詩作活動から退きました。友人宛て書簡の中に添えられた詩が、彼の最後の作品とされています。文学界から退いたランボーは放浪を拡大し、その規模はジャワ島やアラビアにまで及びました。その間オランダ植民地軍に入隊したり(その後脱走)、石切場の監督、通訳、貿易商など、さまざまな分野で活動を行いました。『イリュミナシオン』がヴェルレーヌの手で発表された1886年、ランボーはエチオピア帝国(1270-1975)のシェワ王侯メネリク(後のメネリク2世。王位1889-1993)に接近して武器取引を行ったとされています。
1891年2月、ランボーは右脚の骨肉腫が悪化したため、マルセイユのコンセプシオン病院で右脚を切断しますが(5月)、癌は全身転移が進行、ランボーの体は次第に悪化の傾向をたどり、同年11月10日、妹に看取られながら同病院で37歳の若さで没しました。
内面の精神は"象徴"によって具象化された描写・表現でおこなわれる象徴主義の継承者として後世に知られましたランボーは、自身の詩法の中で、言葉をするどく探求している様子がうかがえます。それは前述の友人ポール・ドメニー宛に送った書簡「見者(ヴォワイヤン)の手紙」の中で、言葉は匂い、音、色彩といったすべてを要約し、魂から魂へと進み、思考を掴んで引き寄せては引き出すものであり、それが可能な詩人は進歩を倍増させる乗数となると述べています。
また同書簡にはランボーの有名な言葉である"Je suis un autre(私とは一つの他者である)"が添えられています。自身を"私"ととらえるのではなく、他者であることに重点を置き、詩に表したのです。反抗と孤立を携えた、当時17歳が放った独特の思想は、現代においてもなお、多くの人々に深い理解を与えています。
詩作活動はきわめて短期間ながら、象徴派の代表的詩人として、文学界のみならず、多種多様の文化にも多大な影響を与えたという意味で、彼の存在は極めて重要であり、残した功績はあまりにも大きかったと言えるでしょう。
参考文献:思潮社『ランボー詩集』鈴村和成訳編
引用文献:『世界史の目 第192話』より
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posted by ottovonmax at 00:00| 歴史