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2018年10月11日

10月11日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1531年10月11日は、スイスの宗教改革者、フルドリッヒ・ツヴィングリ(1484-1531)が宗教戦争、カッペル戦争(1529,1531)で戦死した日です。

 スイスは古くから地理的にイタリア、フランス、ドイツに囲まれ、それらをつなぐ交通・交易の要衝としても繁栄しました。なかでもチューリヒジュネーヴバーゼルベルンといった、のちに歴史的・国際的にその名が知られていく都市も発展していき、バーゼルではスイス最古の大学(バーゼル大学)も建設されました(1459)。その中でもチューリヒやジュネーヴはそれぞれの教会を当時の腐敗したローマ教会の組織的・政治的隷属から解放させる動きもあり、16世紀になると、神聖ローマ帝国(962-1806)の領邦ザクセンにおける、マルティン・ルター(1483-1546)のキリスト教刷新運動の影響もあって、宗教改革の気運が高まっていきました。

 チューリヒでは、教皇の権威や教会の諸策に対し、様々な疑問を懐いていた司祭ツヴィングリがおりました。彼はデジデリウス・エラスムス(1465/66/69-1536)やルターに影響を受けて『新約聖書』を研究、聖書第一主義を貫きました。チューリヒ大聖堂の説教師となったツヴィングリは、1519年に贖宥状(インダルジェンス。免罪符のこと)販売の正当性を批判して以降、改革路線を表し始めました。この結果キリスト教刷新運動がおこされ、チューリヒ市内では旧教派とツヴィングリ派に分かれて両派の抗争が展開されました。そしてチューリヒでの討論会に論題を67ヵ条提出、討論に勝利を収めました(1523)。これによりツヴィングリ派における修道院閉鎖、聖画像や遺物の教会からの撤去、典礼音楽の廃止、教皇制度の見直しなどが行われました。こうしてスイスにおける最初の宗教改革が始まり、これをツヴィングリが担いました。
 1525年4月13日、ツヴィングリはミサ廃止を決定しました。この日は聖木曜日にあたり、「最後の晩餐」を記念する日です。この日は復活祭前の木曜日にあたりますが、復活祭前の一週間は最も尊い期間であり、その中でも木曜日から3が日は特別な式典・礼拝・慣習が行われます。その聖木曜日にミサを廃止したツヴィングリは、「最後の晩餐」ではなく彼自身が考案した晩餐式を行ったのです。
 ミサではイエス・キリスト(B.C.4?-A.D.30?)の肉体であるパンと、同じく彼の血である葡萄酒(これでキリストの聖体とする)を信徒に分かつ儀式、つまり聖餐(せいさん。聖体の秘跡)が行われますが、この解釈(聖餐論)について、ツヴィングリはパンと葡萄酒は単なる象徴で、キリストの肉体および血ではないと考え(象徴説)、パンと葡萄酒の実体と共にキリストの肉体と血の実体が共在する(共在説)と考えるルターと意見を異にしました(マールブルク会談。1529)。

 ルターの協力を断念したチューリヒのツヴィングリ派思想は、ベルンやバーゼルには浸透していったが、一方で旧教派との対立は深まっていき、特に旧教派を支持するウーリ州、シュヴィーツ州、ウンターヴァルデン州、ルツェルン州、ツーク州の5州(森林五州)との内戦がますます過激になった。ツヴィングリはチューリヒで兵を集めてスイス中部のカッペルで激戦を展開したが(カッペル戦争。1529,1531)、チューリヒの軍は連敗を喫し、1531年10月11日、遂にツヴィングリは戦死しました。この宗教内戦はカッペルで休戦協定が結ばれ、戦争は終わりました。

引用文献:『世界史の目 第140話』より

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posted by ottovonmax at 00:00| 歴史

2018年10月10日

10月10日は何に陽(ひ)が当たったか?

 732年10月10日はゲルマン国家のフランク王国(481-887)とアラブ帝国のウマイヤ朝(661-750)がフランス西部で激突した戦争が行われた日です。世に言う、"トゥール・ポワティエ間の戦い"です。

 フランク王国は当時メロヴィング王朝(481-751)の時代でした。始祖クローヴィス1世(王位481-511)の死後、独自のゲルマン法(サリカ)により、相続は4人の子に分割されたので、一族の内紛、各地の諸侯の台頭などもあり、王国は分裂と統一を繰り返し、6世紀後半から王権は弱体化していき、東部のアウストラシアと西部のネウストリアが分かれる状態になりました。この情勢より、もともと宮廷の家政に携わっていた行政の最高職であるマヨル・ドムス(宮宰。"家政の長官"の意味)が分かれた国それぞれに実権を掌握していました。そんな中、アウストラシアの宮宰が勢力を伸ばしていきました。

 アウストラシアではピピン家が宮宰職をつとめ、ピピン1世(大ピピン。宮宰任615?/623?-7C前半)から宮宰の世襲がはじまります。大ピピンの孫ピピン2世(中ピピン。任680-714)は、687年のテルトリの戦いでネウストリアの宮宰エブロイン(任658-673、675-680)を倒し、フランク王国の統一的宮宰となりました。中ピピンの死後、その庶子カール・マルテル(686-741)が715年にアウストラシア宮宰となり、718年に他の宮宰を制してフランク全王国の宮宰となりました(任718-741)。
 折しも、この頃はイベリア半島のイスラム帝国・ウマイヤ朝をはじめとするイスラム軍がゲルマン国家を脅かしていた時期であり、711年にはフランス南部からイベリア半島に築かれたゲルマン国家、西ゴート王国(415-711)がグアダレーテの戦いでウマイヤ朝に滅ぼされています。
 陽の当たった732年10月10日、ピレネー山脈を越えたウマイヤ朝軍がフランク王国領内に侵入して、カール・マルテル宮宰が率いる軍隊と戦うことになりました。トゥール・ポワティエ間の戦いの勃発です。イスラム教徒とキリスト教徒が対峙する戦争となりましたが、イスラム軍はフランク軍の強力な重装歩兵隊の盾に阻まれ、結局はイスラム軍内の不協和音の発生により指揮官アブドゥル・ラフマーン・アル・ガーフィキー(?-732)が殺され敗退したことにより、フランク軍の勝利となり、西欧のキリスト教世界は守られたのです。

 この戦いによるカール・マルテルの功績は大きく、重装歩兵を中核とする騎士団を編成して軍制の中心とし、教会領を没収してそれを臣下に与え、主従関係を築く制度をうちたてましたが、これは今後の西欧の封建社会の確立にもつながることであります。こうしてピピン家の権威は絶大なものとなり、同家はその後"カールの子孫"を意味する"カロリング"と呼ばれました。カロリング家の誕生です。741年のカール・マルテル死後、小ピピン(714-768)は兄カールマン(706?/713?-754)と宮宰にたってフランク王国を支配しました。兄は747年に引退し、小ピピンはローマ教皇に王としての正統性を黙認させて、メロヴィング朝の最後の王キルデリク3世(位743-751)を廃し、短躯王ピピン3世(位751-768)として王位につきました。これがカロリング朝(751-987)です。

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posted by ottovonmax at 00:00| 歴史

2018年10月09日

10月9日は何に陽(ひ)が当たったか?

 199010月9日は、アメリカのロック・グループ、Styx(スティクス)の12枚目のスタジオ・アルバム、"Edge of the Century(邦題:エッジ・オブ・ザ・センチュリー)"がリリースされた日です。Tommy Shaw(トミー・ショウ。gtr,vo)に代わり、 Glen Burtnik(グレン・バートニック。gtr,vo)が加入した最初のアルバムで、ライブ盤やベスト盤を除けば、実に7年ぶりのスタジオ・アルバムとなりました。

 アルバム制作にあたった当時のStyxのメンバーは、James [JY] Young(ジェームズ・ヤング。gtr,vo)、John Panozzo(ジョン・パノッツォ。drums)、Chuck Panozzo(チャック・パノッツォ。Bass)、そしてDennis DeYoung(デニス・デヤング。vo,key)のオリジナル・メンバー4人に、新加入のGlenを加えた構成でした。このメンバー構成はこのアルバムでしかみられません。
 Glenはソングライティングも優秀、またヴォーカルだけでなく様々な楽器も自在に操れる実力充分のマルチ・ミュージシャンで、80年代に2枚のソロアルバムをリリースし、キャリアを引っ提げての加入となったのです。

 Tommy脱退以降における80年代後半のStyxの活動は確かに縮小しており、メンバーのソロ活動が積極的でした。脱退したTommyは当時新たに結成したDamn Yankees(ダム・ヤンキーズ)がシングル・ヒットも出て好調であり、当時のメディアではそのDamn Yankeesの刺激を受けてStyxが7年ぶりに再始動したような内容で報じられたりしていましたが、真実はどうであれ100%ではなくとも刺激はあったと思われます。Tommyを含め、80年代におけるメンバーのソロ活動は、Styxの全盛期だった70年代〜80年代初めと比べると物足りなかったのは事実で、こうした中でのDamn Yankeesの成功は残されたStyxのメンバーにとっても大きかったに違いないでしょう。余談ですが、当時のとある音楽ニュースでは、Damn Yankeesの結成するメンバーにTommyだけでなくDennis DeYoungも加入するという誤報もあり、あるFM雑誌では顔写真まで掲載されていたこともありました。実際はDennis DeYoungの加入はなく、Styxを再びシーンに戻す役割を担ったのでした。在籍していた大手レコードレーベルのA&MもStyxの復帰を信じてその間も"A&M Gold Series(1986)"や、"Classics Volume 15(1987)"といったベスト盤で活動をつないでいきました。そして同じA&Mに所属していたGlenの加入で、再始動の目処が立ったわけです。
 
 "Edge of the Century"のプロデュースはDennis DeYoungが全編を引き受け、マスタリングにはこれまで数々のヒット・アルバムを手がけてきたTed Jensen(テッド・ジェンセン)が担当することになりました。スリーヴ・デザインは、カナダのロック・トリオ、Rush(ラッシュ)のアルバム・ジャケットで有名な、Hugh Syme(ヒュー・サイム)が手掛けました。

 収録曲は以下の通り(邦題はすべて原題のカタカナ表記)
A面(アナログ)
1."Love Is the Ritual" Glen Burtnik, Plinky Giglio作
2."Show Me the Way" Dennis DeYoung作
3."Edge of the Century" Burtnik, Bob Burger作
4."Love at First Sight" Burtnik,DeYoung,James Young作
5."All in a Day's Work" Burtnik, DeYoung作
B面
1."Not Dead Yet" Ralph Covert作
2."World Tonite" Burtnik作
3."Carrie Ann" DeYoung作
4."Homewrecker" Young, DeYoung作
5."Back to Chicago" DeYoung作

Glenがソングライティングを手掛ける際には彼のブレーントラストであるPlinky GiglioやBob Burgerが加わったことで、これまでのプログレッシヴでシンセサイザー・メインの大規模なロック・サウンドから、ギター・メインのアーシーなアメリカン・ロック・サウンドに様変わりし、このメンバーならではのStyxサウンドとなりました。アメリカン・ロックと言えば、Styxの故郷が同じ、イリノイ州シカゴ出身のアメリカン・ロック・グループで、Ralph Covert率いるThe Bad Examplesの作品を取り上げているのも本作品の特徴で、クラシックや民謡をカバーしてきたStyxとは驚くほどの変貌でした(ただし"Lies"など、過去にロックソングのカバーも地味にあります)。Glenはイリノイ州出身ではなく、Bruce Springsteen(ブルース・スプリングスティーン)やJon Bon Jovi(ジョン・ボン・ジョヴィ)と同じニュージャージー出身でありますが、Glenの加入でStyxのサウンドは、新たなアメリカン・スピリットが注入された音楽になりました。

 GlenがヴォーカルをとるA-1"Love Is the Ritual(邦題:ラブ・イズ・ザ・リチュアル)"はファースト・シングルとしてカットされ、Billboardのメインストリームロックチャート(当時はAlbum Rock Tracks)では9位を記録しますが、総合チャートのHOT100では、Styxの過去の実績からしてみれば最高位80位と振るいませんでした。"Love Is the Ritual"は、GlenのロックをStyxのロックとして、その魅力を大きく引き出した作品で、Styxの特徴とも言えるバックコーラスも、全盛期のハイ・トーン・ヴォイスから打って変わって、当時のハード・ロック/ヘヴィー・メタルなどで聴かれる男気ある野太さで、Def Leppard(デフ・レパード)を彷彿させるようなリズミカルで躍動感あるロック・ナンバーです。しかし当時ロックの傾向はグランジやオルタナ系のアーチストが出始めた時期でもあり、チャートが示すようにA-1のようなロックはやや退潮傾向にあったとも言えます。70〜80年代を賑わせたハード・ロック・バンドにとって、グランジやオルタナの台頭は、立ちはだかる大きな壁でありました。

 そこで、Styxの"よく知られた"メロディアスな部分で勝負することになります。これが、セカンド・シングルとしてカットされたDennisがヴォーカルをとるバラード、A-2"Show Me the Way(邦題:ショウ・ミー・ザ・ウェイ)"で、Styxの代表曲になる名曲です。プロモーションビデオではセピア色で包まれた映像の中でDennisを中心にしっとりと円熟味あるパフォーマンスを見せてくれます。
 この曲はBillboard HOT100シングル・チャートでは1990年12月8日付にエントリーしましたが、96位という下位でした。翌週は81位へジャンプアップしたものの、年末のチャート休業で翌週から2週続けて74位にとどまり、翌1月5日付では62位に上昇、しかし次週1月12日付で62位と伸び悩みます。年末年始の当時のBillboardチャートはアクションが小さいのが特徴でしたが、Styxのファンとしては当時は非常に気になっておりました。

 おりしも、1991年1月17日に湾岸戦争が勃発し、アメリカら多国籍軍がイラク相手に空爆が始まりました。これは"砂漠の嵐作戦(Operation Desert Storm)"と呼ばれる戦略で、"砂漠の盾(準備段階。Operation desert shield)"→"砂漠の嵐(空爆)"→"砂漠の剣(地上戦。Operation Desert Saber)"と作戦段階が進んでいく中での、空爆による開戦の段階が"砂漠の嵐"でした。この頃にアメリカのFM局が、"Show Me the Way"の歌詞"there's peace in a world so filled with hatred(訳詞:憎悪に満たされた世界にも平和がある)"に着目し、戦闘に向かう兵士や、当時のジョージ・H・W・ブッシュ大統領のヴォイス・トラックを曲中にミックスして流すという、"Desert Shield Mix"や"Desert Storm Mix"といったヴァージョンで流したのです。このリミックスは、戦争に突入した情勢に憂える人々を勇気付けるつもりで作られたのでしょうが、もともとはDennisが息子Matthewのために歌った楽曲でした。
 リミックスがFMで流れた途端、チャートは激変しました。あれだけスローペースのアクションだったこの曲が、1月19日付で57位にアップすると、その翌週でいっきに40位とトップ40入りを果たし、その後は30位→21位→17位→11位→7位→5位と瞬く間にトップ5入りを果たし、Styxにとっては4曲目のトップ5入りを記録しました。そして、1991年3月16日付で最高位3位を獲得することになったのです。
 "Show Me the Way"が3位に上った頃、戦闘では、すでに"砂漠の剣"作戦も終了、3月3日には暫定停戦が定められておりました。終戦ムードが漂う中で、皮肉にも"Show Me The Way"は最高位を記録した3月16日付の3位をピークに翌週は一気に12位と下降し、そのまま下位へ下がっていきました。結局23週のチャート・インで、1991年のYear-Endチャートでは100位内で68位にランクされました。この曲がStyxにおける最後のトップ10ヒットで、息子に捧げた名バラードが、時の情勢と相まってヒットし、情勢が変わるとヒットも終わるという、後味のスッキリしない、ある意味では気の毒なヒット曲となってしまったのです。しかし戦争が終わってもこの曲は後世に残る名曲として聴かれ、1997年のTommyがStyxに復帰してのライブ盤"Return to Paradise(邦題:リターン・トゥ・パラダイス)"では、1996年に亡くなったJohn Panozzoに追悼の意を込めて、この"Show Me The Way"を捧げました。

 タイトル曲のA-3はGlenのハード・ロック・チューンで、ヘビーなギター・ソロを聴くことができます。A-4は一転してDennisがヴォーカルをとるラブソングで、このアルバムからのサード・シングルとしてカットされ、1991年6月15日付のHOT100シングルチャートで最高位25位を記録、現時点でStyxとしての最後のTop40ヒットとなっております。続くA-5では、今度はGlenが歌うバラードで、アコースティック漂うシンプルな楽曲ですが、非常に味わい深く親しみやすいナンバーです。
 アナログ盤ではB-1にあたる"Not Dead Yet"は前述のThe Bad Examplesのカバー作品です。後輩バンドのカバーも興味深いですが、当時はDennis DeYoungの歌声によるギンギンのハードロックも案外貴重でした。B-2はGlenのノリの良いロック・ナンバーで、Glenの人気がもう少し上がっていたらシングル・カットもあり得たかもしれません。後半にラップ調めいたパートがあるのもこの曲の大きなアクセントで、Styxのサウンドでも異色の存在です。
 B-3はDennis DeYoungのバラードです。Dennisの愛娘Carrie Annに捧げたラブソングです。Dennisの妻Suzanneをタイトルにしたナンバーも過去にありましたように("A Song for Suzanne"。1974年の4作目"Man of Miracles"より)、Dennisは両親や家族、親友に捧げる歌はStyxおよびDennisのソロ活動のキャリアを通して多く作られています。バラードから打って変わり、B-4はJYのヴォーカルによるヘビー・ロック・チューンで、いかにもJYらしいワイルドなナンバーです。そして、故郷の名を冠したB-5"Back to Chicago"はDennisがヴォーカルをとるポップなナンバーです。ホーンセクションを入れた大胆で豪華な楽曲で、アルバムの最後を飾るにふさわしい曲です。

 アルバム"Edge of the Century"は全編を通して聴きますと、過去のStyxサウンドを引きずってTommy脱退のダメージをごまかすのではなく、アメリカ発祥のロック・グループとしての誇りを打ち出したアルバムになっているのが理解できます。チャートで見ると、Billboard200アルバムチャートでは1990年11月3日付63位が最高位と、実質的には7年のダメージは大きすぎた結果に終わりましたが、チャートには現れない名曲揃いのアルバムであることは、聴けば必ず納得できます。Glen、Dennis、JY、John、Chuckの布陣で完成された最初で最後のアルバムでしたが、実は当時収録に漏れた優秀な未発表の楽曲がたくさん残っており、5人のこのアルバムにかけた想いがうかがえます。その未発表曲の一部を最後にご紹介しましょう。

  • "All For Love" 未発表ですが2006年ニュージャージーでDennisとGlenがステージで歌ったとされます。
  • "Devil In Me" 未発表曲。
  • "Don't Give Up On Me" Glenのソロアルバム"Retrospectacle(1996)"に収録。ちなみにこのアルバムには""Love Is the Ritual"も収録。
  • "It Takes Love 2 Make Love" 1995年にTommy復帰後、再レコーディング。"Greatest Hits 2(1996年)"の最後に"It Takes Love"のタイトルで収録されました。当時離脱していたGlenの書いた曲を、Dennisが歌う、シンプル且つ奥深いバラードです。名曲です。
  • "Nothing In Common" 未発表曲。
  • "Someday We'll Fly" 未発表曲。
  • "Watching The World Go By" Glenのソロアルバム"Palookaville(1996)"に収録。"All For Love"同様、DennisとGlenがステージで歌ったとされます。
  • "Paradise" この曲は3度レコーディングされています。1度目が"Edge of the Century"の時。2度目はDennisのソロアルバム"The Hunchback of Notre Dame(1996)"の時で、リード・ヴォーカルはDennisではなく女性(Dawn Marie)が担当しています。3度目はStyxのライブ盤"Return To Paradise"で、Dennisのヴォーカルでスタジオ・レコーディングされ、Billboardの Adult Contemporaryで27位を記録。


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posted by ottovonmax at 00:00| 洋楽

2018年10月08日

10月8日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1977年10月8日は、アメリカのシンガーソングライター、Stephen Bishop(スティーヴン・ビショップ)のシングル、"On and On(邦題:オン・アンド・オン)"がBillboard HOT100シングルチャートで最高位11位を記録した日です。
 実は1983年10月8日も重要な日でして、この日はイギリスのプログレッシブ・ロック・グループ、Yes(イエス)の復活シングル"Owner of a Lonely Heart(邦題:ロンリー・ハート)"のリリース日で、この曲も取り上げたかったのですが今回は見送り、この曲は最高ランクを記録した日に取り上げようかと思います。

 Yesとは対照的に、癖のない落ち着いたポップ・ロックで、優しい歌声を聴かせてくれるStephenですが、もともと彼はThe Beatlesに憧れてそれに似せたバンドを組んだこともありました。やがてソロ活動のためロサンゼルスに移り住んで、書いた曲のデモをレコード契約に売り込もうとあらゆるレーベルに掛け合うもなかなか芽が出ず、この活動だけで8年を費やしたとされています。
 転機が訪れたのは1975年でした。アメリカのミュージシャンでStephenの友人であるLeah Kunkel(リア・カンケル)が、 アメリカの人気フォーク・ロック・デュオ、Simon & Garfunkel(サイモン&ガーファンクル。1970年解散)のメンバーだったArt Garfunkel(アート・ガーファンクル)にStephenのデモ・テープを渡したところ、Artは気に入ってデモ・テープ内に収められた楽曲の中の2曲、"Looking For The Right One(邦題:めぐり会い)"と"The Same Old Tears On A New Background(邦題:ある愛の終わりに…)"を、Artのセカンド・ソロ・アルバム"Breakaway(邦題:愛への旅立ち)"に収録することを決めたことで、Stephenはレコーディングに呼ばれました。そこでStephenはバック・ヴォーカルとアコースティック・ギターを披露しました。1975年にリリースされたこのアルバムはBillboard200アルバムチャートで9位を記録する大ヒットとなり、RIAAでプラチナ・アルバムに認定されました。そしてその中でシングル・カットされた"I Only Have Eyes for You(邦題:瞳は君ゆえに)"はHOT100シングルチャートで18位、Billboard Adult Contemporary(当時はEasy Listening Chart)で1位、そしてイギリスでもUKシングルチャート1位に輝く大ヒットを記録したのですが、この曲のカップリングとして、Stephenの"Looking For The Right One"が選ばれ、同時にこの曲も脚光を浴びました。これにより、翌1976年、ニューヨークのレーベル、ABCレコードと契約をこぎつけることに成功したStephenは、1976年にファースト・アルバム"Careless(邦題:ケアレス)"をリリース、ついにレコ−ド・デビューを飾ることになったのです。
 
 "Careless"は、ジャンルを問わず非常に豪華なミュージシャンが参加したことも話題になりました。ギタリストとしてEric Clapton (エリック・クラプトン)、Lee Ritenour (リー・リトナー)、Jay Graydon(ジェイ・グレイドン)、Larry Carlton(ラリー・カールトン)ら、ヴォーカリストとしてArt Garfunkel、Leah Kunkel、Chaka Khan(チャカ・カーン)らが集まり、Stephenのデビューに花を添えました。
 Eric ClaptonやChaka Khanが参加したデビュー・シングル、"Save It for a Rainy Day(邦題:雨の日の恋)"は、HOT100シングルチャートで1977年2月19日から2週連続で22位を記録して15週チャートイン、Easy Listening Chartでは6位を記録、同じく15週チャートインしました。ポップで軽快なデビュー曲のヒットで、Stephenは全米で大きく注目されました。

 これに続くセカンド・シングルが今回取り上げる"On and On"です。ジャマイカを舞台に人々の切ない恋心をStephenがアコースティック・ギターで美しく奏でながら、優しく包み込むような歌声で歌うStephenの代表曲であると同時に、現在でも聴かれるポップス界における不朽の名作です。この曲にはAndrew Gold(アンドリュー・ゴールド)がエレキギターで参加しています。Andrewは80年代に10ccのGraham Gouldman(グラハム・グールドマン)とWAXというポップバンドを結成した人物で知られます。
 "On and On"は1977年5月7日に93位で初登場しますが、翌14日付で早くも圏外に消えてしまいます。しかし21日付で92位にリエントリーし、2週92位にとどまりますが、その後88位→85位→75位→74位→63位→53位→43位→37位→32位→30位→29位→25位→21位と、曲調に合わせるかのようなゆったりとしたアクションでじわじわ上昇していき、ランクイン17週目(初登場から18週目)にあたる9月3日付でようやく19位と、Top20入りを果たしました。その後は16位→15位→13位→12位と来て、陽の当たった10月8日に11位を記録し、これが最高位となり、その後下降していきました。残念ながらTop10入りは果たせず、11月19日付の66位を最後にその後は圏外へと消えましたが、通算で半年におよぶ28週のチャートインを果たし、1977年のYear-Endチャートでは100位中30位を獲得し、この年の代表曲にもなりました。またStephen自身もArtists of the YearのPop New Artistsで7位にランクされました。
 Adult Contemporary部門のEasy Listening Chartでは1977年9月24日から2週連続で2位を記録、32週チャート・インし、このフォーマットでのYear-Endチャートでは6位、Top Easy Listening Single Artistsにおいても9位を記録しました。
 シングル・ヒットを受けて、デビューアルバム"Careless"は、Billboard200アルバムチャートでは1977年10月15から2週連続34位を記録し、32週チャート・インするロング・ヒットとなりました。現在でもAORやウェスト・コースト・ロック、イージー・リスニングの代表として、年齢を問わず幅広い層から支持されています。

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2018年10月07日

10月7日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1571年10月7日は、オスマン帝国(1299-1922)と西ヨーロッパ勢からなる神聖同盟との戦争、レパントの海戦が行われた日です。

 オスマン帝国海軍は1538年のプレヴェザ海戦でスペイン=ハプスブルク家のスペイン王国(1516-1700)・ヴェネツィア共和国(697-1797)・ローマ教皇領(752-1870)の連合艦隊を相手に勝利を手にし、地中海の制海権を得て、大きく飛躍しました。
 西欧側はローマ教皇ピウス5世(教皇位1566-72)の提唱で神聖同盟を結成、カトリック勢力の連合艦隊を再建しました。参加したのは、教皇領、スペイン王フェリペ2世(王位1556-98)率いるスペイン王国、ヴェネツィア共和国をはじめとして、ジェノヴァ共和国(1096-1797)、聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)の他、北イタリアのカトリック系諸国家(トスカーナ、サヴォイアなど)も加わり、プレヴェザ海戦以降の対オスマン報復戦の様相を呈しました。ヨーロッパ連合艦隊はフェリペ2世の異母弟にあたる当時24歳のドン・フアン(1547-78)が指揮をとり、ガレー船200余隻を中心とする約300隻の艦隊、約1,800門の大砲、そして兵員はプレヴェザの60,000よりは激減したが、およそ22,000規模の戦力で対オスマンに挑みました。

 一方のオスマン帝国海軍は、大宰相ソコルル・メフメト・パシャ(大宰相任1565-79)に指揮を命じられたアリ・パシャ大提督(任1569-71。大提督は"カプダン=パシャ"と呼ばれるオスマン艦隊の最高司令官)を中心に、プレヴェザ海戦以上の315余隻の艦隊と大砲2,000門、そして兵員26,000人に増強して臨みました。アリ・パシャは艦隊右翼側を海賊のマホメット・シロッコ(?-1571)、艦隊左翼側をアルジェのベイレルベイ(州県郡の行政区分における州の軍政官。州は県より上)をつとめたウルチュ・アリ(クルチ・アリ・パシャ。オッキアーリ。1519-87)に命じました。

 陽の当たった1571年10月7日正午、火蓋は切って落とされました。レパントの海戦の開戦です。イオニア海のギリシアへの湾入部にあたるギリシア本土とペロポネソス半島をはさむコリント湾が海戦の舞台で、レパントは同湾北岸に位置します("レパント"の名はイタリア語やスペイン語読み。ギリシア語では"ナフパクトス")。この地域はオスマン帝国の支配域であり、陸上支援も有利な状況でした。
 熾烈な戦いとなったこの海戦はヨーロッパ連合艦隊の左翼を率いたヴェネツィアのアゴスティーノ・バルバリーゴ指揮官(1518-71)が、強勢であるシロッコの艦隊に攻撃され、右目を射貫かれて数日後に死亡し、劣勢に立たされますが、強固で用意周到な協力体制を敷いていた連合艦隊は援軍の防衛によりこの危機を切り抜け、猛反撃を開始、シロッコの船を攻撃して沈没させました。シロッコは沈没する船から飛び降りるもヴェネツィア軍に捕らわれ、その後死亡しました。中央では、連合艦隊を率いるドン・フアンと、オスマン艦隊を率いるアリ・パシャが激戦を展開、結果アリ・パシャは戦死し、最高司令官を失ったオスマン側がいっきに劣勢に転じました。およそ200隻近いガレー船が拿捕、もしくは撃沈されて、オスマン側だけでも5,000の戦死者を出し、多くの兵士が捕虜となってしまいました。連合艦隊側も戦死者は7,000以上と多かったですが、バルバリーゴ以外の高位指揮官を落命させることはなく、ガレー船を十数隻失ったのみにとどまりました。結局、この海戦はオスマン帝国艦隊の敗北となりました。

 戦勝したヨーロッパの連合艦隊に比べても、海軍組織の構造や技術などには何の遜色はありませんでした。しかしヨーロッパ側の用意周到な戦術に比べ、オスマン艦隊側では正面から戦うことを主張したアリ・パシャと、砲撃を受けた艦船の傷みが進行したため守りに徹するべきだと主張したウルチュ・アリとの衝突で戦士一同の団結が鈍り、結果的に敗戦を招いてしまいました。ウルチュ・アリは水軍出身で豊富な経験と知識を持っていましたが、総指揮を務めたアリ・パシャは過去の数ある戦争に勝ち続けたものの、海戦は経験が乏しかったのです。ウルチュ・アリは死傷兵の続出で戦意が喪失しかけている自軍を守ることを優先しましたが、ウルチュ・アリの主張を退けて正面攻撃を強硬すれば必ず勝てると過信した、アリ=パシャ総指揮の判断が勝敗を分ける結果となってしまったのです。オスマン艦隊の戦略失敗でアリ・パシャやシロッコらを失って大敗北を喫したのに対し、神聖同盟でもって協力体制を敷き、たとえ指揮官を失っても動揺せず守りに入ってヨーロッパ連合艦隊側が勝ちを収めたのです。

 しかしオスマン帝国海軍はあくまでアリ・パシャの戦術面で失敗を被っただけで、強力な軍隊に変わりはなく、ソコルルはウルチュ・アリを大提督に任命して(任1571-87)、船体の修復および艦隊の再建をほぼ半年余で完了させ、1572年の6月には250隻に及ぶオスマン艦隊を再度地中海に送り出し、翌1573年にはヴェネツィアとの和睦を成立させて、さらに1574年にはチュニジアのハフス朝(1229-1574)を滅ぼしてチュニジアを支配下に置くなど(オスマン領チュニジア。1574-1705)、オスマン帝国の国際的地位は揺らぐことなく、地中海域の制海権も依然として保ったのでした。
 なおこの海戦は『ドン・キホーテ』の著者ミゲル・デ・セルバンテス(1547-1616)も従軍した海戦としても有名です。

引用文献『世界史の目 第268話』より

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2018年10月06日

10月6日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1552年10月6日は、イエズス会のイタリア人宣教師、マテオ・リッチ(1552-1610)生誕の日です。

 ローマ教皇の権威を復活させるために結成されたイエズス会は、海外布教、それも新天地への伝道を最も重要な活動としてイグナティウス・デ・ロヨラ(1491-1556)やフランシスコ・ザビエル(1506-52)らによって結成され、ザビエルらの志を継いだのがマテオ・リッチです。1578年、ゴアに派遣されたリッチは、しばらくインド布教を行っていましたが、1582年、マカオへ赴き、同地で中国語と中国における社会と文化を学びました。彼は『天主実義(てんしゅじつぎ)』を著してカトリック教義を漢文に翻訳し(1595)、自身を"利瑪竇(りまとう)"と名乗り、中国の儒学者の衣服を着用、広東地方を転々としました。さらに皇帝、万暦帝(ばんれきてい。神宗。しんそう。位1572-1620)の布教許可を得るため、1601年北京に入りました。

 儒教では、君主という概念を"天帝"・"上帝"と表しますが、リッチらはこれらを、キリスト教の神"デウス"と重ね、"デウス"を"天帝"・"上帝"と解釈しました。さらに、儒教の祖・孔子(こうし。B.C.551-B.C.479)の崇拝や祖先崇拝(霊前で香をたいて祈る等)といった伝統的儀礼(儒教の典礼)は、宗教的儀式ではなく世俗的な行事として黙認し、一方で、洗礼の際に行う塗油の儀式などは中国では不適だと感じたことで、あえてキリスト教独自の儀式に対しての強制は行いませんでした(リッチ方式)。
 また中国には西洋学術(地理・数学・天文学)や西洋技術も紹介し、同国では好意的に受け入れられました。北京入京後、万暦帝に謁見したリッチは、自鳴鐘(じめいしょう)と呼ばれる西欧式時計や西洋楽器などを献上し、好意的に受け入れられました。
 リッチは1602年、6枚1組の世界地図『坤輿万国全図(こんよばんこくぜんず)』を刊行、はじめて世界の大きさを知った中国の知識人階級に大きな影響を与えました。特に中国の政治家・学者であった徐光啓(じょこうけい。1562-1633。著書『農政全書』)は感銘を受け、翌年キリスト教の洗礼を受けました。

 徐光啓は翌1604年科挙試験に合格、進士として翰林院(かんりんいん。詔書起草機関。皇帝顧問機関)に出仕、リッチの教えを受けて、古代ギリシア数学者のエウクレイデス(ユークリッド。生没年不明)の幾何学書『幾何学原論』の前半部を、リッチの口訳と徐光啓の漢文記述という共同作業で完成させました(1607)。これが『幾何原本(きかげんぽん)』です。

 リッチは1610年、北京で没し、ゴアに葬られました。リッチの活躍で、その後の明末清初の時代には多くの宣教師がヨーロッパ各国から訪れるようになっていきました。

引用文献:『世界史の目 第99話』より

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2018年10月05日

10月5日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1789年10月5日は、フランス革命勃発後、パリ市民がヴェルサイユ宮殿まで押し寄せる十月事件が起こった日です。

 1789年7月14日のいわゆるバスティーユ襲撃によって、フランス革命は勃発しました。自由と平等の原理をかかげたアメリカ独立宣言やルソー(1712〜78)の思想に刺激を受けた国民議会は、自由主義派貴族のラファイエット(1757〜1834)らの起草で、8月26日「人権宣言(「人間と市民の権利の宣言」)」が誕生、採択されました。革命の基本原理となったこの宣言は、人間の自由と平等、国民主権、法の支配、権力分立、そして私有財産の不可侵などが挙げられました。

 しかし、フランス国王ルイ16世(王位1774-92)は、この宣言を認めようとはせず、議会弾圧を企図しました。重ねて凶作による食糧事情が悪化傾向をたどっていたパリでは、パンなどの食糧価格高騰は以前続いていました。政情不安から穀物がパリに搬入されなくなり、市民の怒りは頂点に達しました。遂に陽の当たった10月5日、婦人を先頭に数千人のパリ市民が雨の中20kmを行進し、ヴェルサイユ宮殿に乱入、翌6日、国王一家をパリへ連行しました。これがヴェルサイユ行進十月事件です。ルイ16世国王一家はヴェルサイユ宮殿からパリ市内のテュイルリー宮殿に移ることになり、パリ市民の監視を向けられた生活を余儀なくされます。国民議会もヴェルサイユからパリへ移り、政局の中心はパリとなっていきます。

引用文献『世界史の目 第14話』より

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2018年10月04日

10月4日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1669年10月4日は、現オランダの画家、レンブラント・ファン・レイン(1606-69)の没年月日です。

 引用文献『世界史の目 第66話』より
 以下、リンク画像はWikipediaより参照。

 レンブラントは、オランダ西部のライデンに、1606年、製粉業者の子として生まれました(10人兄弟の末子)。ライデン大学に入学後、絵画を志望したため数ヶ月で退学(1626)、中心都市アムステルダムに渡り、徒弟として画家の修業を積みました。そして1629年、23歳のレンブラントは自身の「自画像」を発表し、周囲から好評価を受けました。続く1632年には『トゥルプ博士の解剖学講義』が出世作となり、名声を確立しました。アムステルダムに移住後、肖像画家として多額の収入を得、自身の徒弟も急増しました。

 レンブラントが画家として歩んだ16世紀から17世紀にかけて、母国オランダは対外政策や貿易で経済的発展を遂げたことで、アムステルダム市民は富裕化し、多くのブルジョワジーが生まれました。レンブラントにはこうした裕福な画商から肖像画の発注が殺到し、自身も富裕化していきました。こうした中で、画商の紹介から、1634年に6歳年下で上流階級の娘サスキア(1612-42)と結婚、生活はますます向上し、彼の人生における最も華やかな時代が訪れました。そして1635〜36年もの間、『アブラハムの生贄』『ガニュメデスの誘拐』『ダナエ』『目を潰されるサムソン』など、傑作・力作を発表しました。

 私生活では、妻サスキアの肖像画も数多く描かれましたが、家庭の裕福化と、サスキアの生まれ育った家庭環境などから、美術品の収集など浪費に走る傾向もある一方、レンブラント自身は誰よりもましてサスキアを愛し、家庭の幸福を追求していました。しかしその願望とは裏腹に、必ずしも順風満帆ではなく、立て続けに大きな悲劇が彼に襲いました。レンブラントと妻サスキアとの間には3子を出産しましたが、成長に恵まれず、相次いで3子は幼くして他界します。レンブラントはサスキアの療養も兼ねて、1639年、借りた資金で、豪邸(通称:レンブラントハウス。現在レンブラント美術館)を購入しました。しかし1642年に4人目の子ティトゥス(1642-1668)を授かるも、生後1年も満たないうちに、今度が最愛の妻サスキアが、ティトゥスの成長を見ずして他界するという不幸に見舞われたのです(享年30歳)。その後ヘールチェなる女性がティトゥスの乳母となったが、サスキアを紹介した得意先の画商から注文を断られるなど、作業にも影響が及び、彼の収入も少しずつ縮小していくことになるのです。

 こうした不運が襲いかかる中で発表したのが同1642年に発表した名作『夜警』でした。画家レンブラントの心中の変化によって、これまでの画風が深化していき、人間の心の奥深さを追究するようになっていきました。『夜警』の正式名称は『フランク=バニング=コック隊長の市民隊』といい、1639年、市民隊のモデルである火縄銃手組合員(オランダ独立戦争時に結成された市民による防衛隊)から集団肖像画の依頼を受けて、完成に3年を費やしたレンブラントの集大成でした。注文代は組合員がそれぞれ均等に出し合い、完成を待ち望んでいたが、評価は最悪の結果となってしまいました。
 できあがった作品には市民隊の姿が均等に描かれていなかったのです。暗すぎて全身が描かれている肖像が少なく、また市民隊に無関係の人物まで描かれていました。さらには『夜警』とあるが、実際は昼の時間を描いており、左から太陽らしき光線が暗闇に差し込めているのです(当時は夜の絵として評価されていました)。当然依頼者から注文代の返金をはじめとしたクレーム・訴訟の嵐に巻き込まれていきました。
 その後レンブラントは商業的な絵画作業を嫌い、自己の個性を生かした作品を追究するようになっていきますが、レンブラントへの受注は激減するのでした。 

 1646年、レンブラントはヘールチェと別れを告げ、当時18歳のヘンドリッキェ(1628-1663)なる女性を家政婦に雇いました。その後レンブラントは、別れたヘールチェから婚約破棄に対する訴訟を受け、多額の支払いを義務づけられたため、生活は貧窮化しました。レンブラントはヘンドリッキェとの婚約はなかったが、彼女との間に1子(コルネリア)を授かりました。これでティトゥスを含め4人家族となり、第2の人生が始まるはずでした。
 しかし今度は仕事に支障を来しました。激減した受注のなかで遣り繰りを行わなければならず、しかも、美術品採集からくる浪費癖、受注契約の不履行、前述のヘールチェとの裁判沙汰や、年齢差ある愛人関係など、多くの醜聞によって悪評がおこされ、1656年、レンブラントは遂に破産を宣告されました。豪邸や所持品は差し押さえられ、家族は貧民街に転居することとなります(1660)。しかしこのような事態に陥っても、ヘンドリッキェとティトゥスはレンブラントを保護する決心をし、転居後、ヘンドリッキェとティトゥスは画廊を始めました。レンブラントは従業員という名目で絵画作業を続けていくことにしたのです。画風が衰えることはなく、名作『修道士に扮する息子ティトゥス』などを残しましたが、債権者の取立は相変わらず続き、この地においても、画風の評価は再燃せず、名画家としての再興は難色を示しました。

 レンブラントの転落人生に、さらなる不運が伴ったのは、祖国オランダの情勢でした。オランダは貿易面・金融面で経済成長を続けていましたが、国内では商業資本重視のためマニュファクチュアの発展が遅れていました。こうした中で、オランダの経済発展が断たれる決定的な事件が起こったのです。それはイギリスが1651年に発布した航海法です。イギリスが重商主義政策の一環で制定した法律で、イギリスとその植民地に輸入する貨物は、必ずイギリス船または原産地の船に限定すると決められ、これによって、中継貿易で利を得ていたオランダは入港禁止となり、国内の貿易商は打撃を被りました。新大陸経営においても1664年にイギリス領となったニューアムステルダム市は、ニューヨークと改名され、新大陸のオランダ領は瞬く間にイギリス領となっていきました。アジアでは1661年、台湾のゼーランディア城塞が、鄭氏台湾(ていしたいわん)の建設を目指す鄭成功(ていせいこう。1624-62)によって攻略されました。結果的にはオランダはバタヴィア(現ジャカルタ)を拠点とするオランダ領東インド経営を残すのみとなり、一気に経済活動が低下しました。これにより、オランダ国内はこれまでの盛況から一転して不況に見舞われることになったのです。

 不況のため、レンブラントの絵画も需要が伸びませんでした。そして、1663年、サスキア亡き後、彼を支え続けてきたヘンドリッキェが当時大流行した黒死病のため病死しました。24歳の息子ティトゥスは1666年、マグダレーナなる女性と結婚し、レンブラントは祝福を表して、作品『イサクとリベカ』を、2人をモデルに描き上げました。しかし、2年後の1668年、ティトゥスも黒死病に感染し、病死してしまうという、レンブラントにとって最大の悲劇に見舞われました。悲しみに包まれたレンブラントは、1636年のいわゆる彼の黄金期に制作されたエッチング『放蕩息子の帰宅』を再度、ティトゥスに捧げるかのごとく、同じタイトルで、名作『放蕩息子の帰宅』を描きました。その後マグダレーナは女子を産み、初孫を授かったレンブラントが彼女の名付け親となりました。

 レンブラントは、これまで自身の自画像を50枚以上描き続けてきましたが、1669年、最後の自画像である『63歳の自画像』を描き上げ、10月4日、貧窮・孤独の中で、細々と暮らしてきたヘンドリッキェとの子コルネリアと、マグダレーナ親子たちに看取られながら、1669年10月4日、63歳で没し、アムステルダム西教会の共同墓地に埋葬されました。

 レンブラントの作品は総数2000点以上に及ぶと言われます。聖書や神話を取り上げた宗教画、実社会とそれに生きる人々を題材に描き上げた肖像画・風景画・風俗画など多岐に渡り、また制作ジャンルにおいても油絵のみならず、エッチング(銅版画)、水彩画、デッサンなど数多くあります。彼が作品を発表し続けるごとに追究した描写とは、肖像画などにおける魂が宿ったような動的・写実的手法はもちろんのこと、それに加わった"明暗の強調"です。色彩による明暗、そして、影の中に光を差し込み作られる明暗...光の当たった""の部分を強調すると同時に、影となった""をも強調させる、立体感あるドラマティックな独創性...これがレンブラントの独特の描法でした。こうした技巧は近代油絵描法を完成させ、名実ともにレンブラントはその確立者/大成者でした。事実、没後彼の作品は再評価され、特に『夜警』は彼の代名詞的作品となり、彼に対する再認識が高まり、"光と影の画家"・"魂の画家"と叫ばれたのです。活気に満ちた時代のオランダで残した多くの作品は、現在もアムステルダム国立美術館をはじめ、オランダ国内、イギリス、ドイツなどの各美術館で保存され、貧しく辛い人生であっても、ひたむきに描き続けた入魂の作品は、いまだ衰えることはありません。

引用文献『世界史の目 第66話』より
 以下、リンク画像はWikipediaより参照。

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2018年10月03日

10月3日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1990年10月3日は東西ドイツ統一が成し遂げられた日です。

引用文献:『世界史の目 第255話』よりドイツの部分を抜粋。

 ドイツ連邦共和国(西ドイツ。1949.5.23-1990.10.3。首都ボン)は、ヘルムート・シュミット首相(任1974.5-1982.10)のドイツ社会民主党(SPD)とドイツ自由民主党(FDP)の連立政権のもと、フランスと協力して設立したヨーロッパ理事会(1974設立)やヨーロッパ(諸)共同体(EC)での西欧との連携、アメリカとの関係強化といった国際路線を歩んでいきました。ソ連(ソヴィエト社会主義共和国連邦。1922-91)とは1970年締結のモスクワ条約(1970.8。ソ連・西ドイツ武力不行使条約)以降経済協力が進み、1975年のヘルシンキ宣言における国際社会の協調で、冷戦体制からの緊張緩和(デタント)はすすみ、冷戦終結は急速に解決へ向かうと思われました。

 ところが、1979年にソ連がアフガニスタン紛争(1978-89)での軍事介入をきっかけに、アメリカも北大西洋条約機構(NATO)に軍事面での協力を増大化させるなど軍拡計画を露わにしたことで、デタントは停滞、再び緊張が走りました。この結果は西ドイツのシュミット政権も少なからず影響を見せて、野党に回っていたヘルムート・コール党首(党首任1973-98)の率いるキリスト教民主同盟(CDU)の猛烈な勢力増加に苦しみました。そして、政権内においてもSPDとFDPとの政治的見解の相違が表面化して、FDPはSPDと決別、CDUと同調姿勢を見せました。結果不信任が決議されたシュミット内閣は1982年に瓦解(シュミット首相退任。1982.10)、コールが首相に就任しました(首相任1982.10-98.10。コール首相就任)。CDUが与党に復帰し、FDPとの連立政権が始まりました。

 一方、ドイツ民主共和国(東ドイツ。1949.10.7-1990.10.3。首都は東ベルリンですが、東側では単に"ベルリン"としました)では、国家元首をつとめるドイツ社会主義統一党(SED)書記長エーリッヒ・ホーネッカー(国家評議会議長任1976.10-1989.10。SED書記任1971-89。国防評議会議長任1971-89)が国家的な中心人物でありました。政治的には前議長で首相(閣僚評議会議長)に再任したヴィリー・シュトフ(議長任1973.10-76.10。首相任1964-73,76-89)が政権の中心でしたが、実質的な権力者はホーネッカーでした。

 1980年代のポーランド民主化運動(詳細はこちら)を契機に、ハンガリーでも1988年に社会主義労働者党(MSZMP)のヤノシュ・カダル(第一書記任1956.10-88.5)、それに続くカーロイ・グロース(第一書記任1988.5-89.10)らが、ポーランドに続いて社会主義政策を終わらせる政治改革を始めました。代表的な改革は、隣国オーストリアとの鉄条網で封鎖された国境線の開放で、1989年5月に鉄条網の撤去が行われました。ハンガリーの国民のために開かれたこの国境でしたが、1989年8月、1000人に及ぶ東ドイツ国民がなだれ込み、オーストリアを超えてこれを経て西ドイツに亡命する事態となりました。この事態は"ヨーロッパへのピクニック"と呼ばれ、「ベルリンの壁」が東西ドイツ間に存在する意味が問われることになっていきます。

 チェコスロバキアでもチェコスロヴァキア共産党の一党独裁体制でしたが、東ドイツ国民のピクニック事件を契機に、チェコスロヴァキア国内でも東ドイツ国民がなだれ込みました。しかし東ドイツのホーネッカー議長は事態を重く見ませんでしたので、1989年9月、東ドイツのライプチヒ(ザクセン州)において8000人にも及ぶデモ隊が、社会主義歌の"インターナショナル(The Internationale。かつては戦前のソ連国歌でもありました)"を口ずさみながら市内を行進、日ごとに民主化を叫ぶ東ドイツ市民が顕著となり、デモは拡大化していったのです。彼らは、政治、経済、社会などあらゆる東ドイツ国家体制の批判を行い、民主化を志しました。1989年10月には、東ドイツ建国40周年式典が行われた一方で、デモの規模もひと月でおよそ100倍にふくれあがりました。ホーネッカーは武力でデモを抑えるよう党内に指示しましたが、ドイツ社会主義統一党(SED)内でもホーネッカーに対する批判と民主化移行を望む声が噴出しており、軍もホーネッカーの指示を拒否し、ソ連軍も動きませんでした。
 1989年10月17日、ホーネッカー議長は党の政治局会議の進行を行った際、シュトフ首相により議長の書記長解任を提案されて、満場一致で解任が可決されました。翌10月18日、ホーネッカーは議長、書記長ほかすべての職を退くことになりました(1989.10。東ドイツ、ホーネッカー退陣)。11月7日にはシュトフ内閣も総辞職しました。これまで国家評議会副議長だったエゴン・クレンツ(副議長任1984.6-89.10)が国家評議会議長とSED書記長に就き(任1989.1-89.12)、SED党員ハンス・モドロウ・ドレスデン地区第一書記(任1973-89)が首相に就任することが決まりました(任1989.11-90.4)。そして新体制となった東ドイツで同月、国外への出国規制緩和の法案が中央委員会にて発表されたのです。実際は11月10日にその規制緩和の暫定措置として記者会見発表されるはずでしたが、前日である9日、記者会見に臨んだSED党ベルリン地区第一書記(任1985-89)だったギュンター・シャボフスキー(1929-2015)があやまって"ベルリンの壁を含めた、すべての国境通過点で出国がただちに緩和される"と会見したことで、正式に閣議決定されることとなりました。

 シャボフスキー会見後の1989年11月9日、東西のベルリン市民が「ベルリンの壁」の周辺に集まり始めました。国境検問所が次々とゲート・オープンし、東ベルリン市民は歓喜と拍手にまみれて西ベルリンになだれ込みました。翌10日未明、ハンマーやつるはし、重機を用意した市民によって、ベルリンの壁は壊されていき、東西ドイツ間の交通制限、出入国制限は解除されました(1989.11ベルリンの壁崩壊。ベルリンの壁開放)。社会主義というイデオロギーが崩壊した東ドイツは、いっきに存亡の危機に立たされました。

 12月3日、地中海のマルタでアメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領(任1989-93)と、ソ連共産党書記長ミハイル・ゴルバチョフ(任1985-91)による米ソ首脳会談、いわゆるマルタ会談が行われました(1989.12.2-12.3)。これによって、1945年2月のヤルタ会談によって構築されたヤルタ体制に端を発した冷戦構造は、44年の歳月を経て、終結を迎えることとなったのです。

 壁崩壊後、西ドイツのコール首相は東西ドイツの統合に向けて動き出し、1989年11月28日には東西統一にむけて10項目のプログラム構想を発表しました。一方、東ドイツの社会主義指導政党であるSED(ドイツ社会主義統一党)は、東ドイツ憲法で第1条に明記される"労働者階級およびそのマルクス・レーニン主義政党の指導下に置かれる"という条項によってこれまで守られていましたが、同年12月1日にモドロウ政権の下でこの条項の部分がそっくり削除され、SEDはSED-PDS(社会主義統一民主社会党)と改称、一党独裁体制を終わらせる宣言を行いました(その後PDSに変更。民主社会党)。またクレンツは国家評議会議長を退き、東ドイツ自由民主党(LDPD)の党首で国家評議会副議長のひとりであったマンフレート・ゲルラッハ(党首任1967-90。副議長任1960-89)が議長に選出されました(議長任1989.12-90.4)。
 
 一党独裁体制が崩壊した東ドイツでは、翌1990年3月に人民議会議員を選出する選挙が行われました。もはや、かつての社会主義政党の指導の下で行われる選挙ではなく、自由選挙でした。開票の結果、東ドイツ・キリスト教民主同盟(東ドイツ側のCDU)がドイツ社会同盟(DSU。1990年1月創設の反共・保守系政党)および民主主義出発(DA。1989年10月創設の反共・保守系政党)と組んだ政党連合("ドイツ連合")が400議席中、計192議席を獲得する躍進を遂げ、かつてのSEDが改称したPDS(民主社会党)は66議席にとどまりました。東ドイツのCDUは、西ドイツCDU党首であるコール首相の激励も大きなバックサポートとなりました。自由選挙後の4月、ゲルラッハ国家評議会議長とモドロウ首相が辞任、改憲によって国家評議会の廃止が決まり、人民議会議長ザビーネ・ベルクマン・ポール(任1990.4-90.10。東ドイツ側CDU)と新首相兼新外相ロタール・デメジエール(任1990.4-90.10。東ドイツ側CDU)によって、残された東ドイツの体制と、早期の西ドイツとの統一に向けて力を尽くしました。7月1日には西ドイツ・コール首相の働きかけで、通貨統合が行われ、東ドイツマルクはドイツマルク(西ドイツの通貨単位)に統合されました。
 翌日、東西ドイツ統一樹立への条約締結に関する協議が行われ、陽の当たった1990年10月3日において、東ドイツ(ドイツ民主共和国)が西ドイツ(ドイツ連邦共和国)に編入される形で統一することが決まりました(ドイツ統一条約)。ドイツでは最初の統一を1871年のドイツ帝国(1871-1918)の成立を指すため、この条約は"再統一"の条約ということになります。

 10月3日のドイツ再統一の実現にむけては、まず8月31日にドイツ統一条約が調印され、ドイツ最終規定条約(2プラス4条約)の9月12日調印でもって完璧となりました。東西ドイツとベルリンはもともと米英仏ソの4カ国による分割管理領域でしたので、完全な主権回復と、現存の国境維持を決める必要があったのです。つまり2プラス4とは、東西ドイツ2カ国と米英仏ソ4カ国の条約です(発効は1991年3月15日)。国境に関しては、戦後に米英仏ソによって放棄させられたオーデル・ナイセ線(戦後ドイツとポーランドの国境とされた線)以東の東方領土完全に放棄することを東西ドイツが認めることとなり、ドイツとポーランド間では別に国境条約を後に締結しました(1990年11月14日調印。1992年1月16日発効)。

 こうして1990年10月3日、西ドイツの憲法であるボン基本法(1949制定)の第23条(ヨーロッパ連合への協力事項)に基づいて、ドイツ再統一は実現しました(ドイツ再統一)。東ベルリン市も西ベルリンに編入され(ベルリン統一)、ベルリン市として統一ドイツの首都として定められました(2001年5月にボン市からの政局移転が完了し、首都ベルリンとして完全復帰)。

 1953年6月17日に東ベルリンで発生した暴動(ベルリン暴動)の時、西ドイツは東ドイツ国家に盾突いた当時の東ドイツ市民を大いに称え、"ドイツ統一の日"という祝日を設置しました。1990年10月3日を迎えて、6月17日の祝日は10月3日に変更され、新たな"ドイツ統一の日"として、ドイツ連邦共和国の建国記念日となったのです。

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2018年10月02日

10月2日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1798年10月2日は、地中海第2の島サルデーニャ(サルディニア。コルシカ島からすぐ南に位置)にありました、サヴォイア家の王国、"サルデーニャ王国(1720-1861)"の7代目国王、カルロ・アルベルト(1798-1849。王位1831-49)生誕の日です。

 サヴォイア家の分家、サヴォイア=カリニャーノ家の7代目として産まれたカルロは、フランスで教育を受けて育ち、サヴォイア本家から王位継承が途絶えたこともあって、1983年にサルデーニャ王を継承、王位に就きました。
 カルロが王位に就いた頃のヨーロッパはウィーン体制下で、特にイタリアでは自由主義とナショナリズムといった反体制が高揚し、とりわけイタリアの秘密結社・カルボナリ党の革命運動が特に活発化していました。ウィーン議定書において、イタリアのナポリではスペイン・ブルボン家が復活し、当事国オーストリアより北イタリアのロンバルディアとヴェネツィアを奪われました。またそれ以前においても同地はナポレオン時代における侵略が甚だしかったように、全体的に不安定な立場にあったことから、イタリア各地では、リソルジメント(Risorgimento。"再興""復興"が原義)と呼ばれる外国支配からの解放と国家統一が盛んになっていきました。カルボナリ党の蜂起は失敗に終わり、党員だったジュゼッペ・マッツィーニ(1805-72)は、イタリア統一を完成させるためには、秘密結社ではなく大衆政党として立ち上がるのが得策と考え、1831年、同志と新たな組織「青年イタリア」を結成しました。

 リソルジメントがイタリア半島で吹き荒れる中、サルデーニャ王国では、カルロ・アルベルト王による新しい改革が次々と施されていきます。それは、ウィーン体制に対抗する自由主義的な改革で、同体制の反動政策への対抗が最も顕著に現れた1848年のフランス二月革命をきっかけに、サルデーニャ王国内でも自由主義色の濃い"アルベルト憲法"を発布して同体制に対抗しました。
 その後カルロ・アルベルト王は、領土拡張と王国の統一の野心を大胆に見せ始めていきます。もともと、サヴォイア家は読んで字の如く大陸に位置するサヴォイア(アルプス山脈フランス側斜面。トリノの西側地方)やピエモンテ(現イタリア最西部。トリノが中心都市)を領有していましたが、ナポレオン時代にサルデーニャ島以外の大陸領土を全て失っていたのです。ウィーン議定書でサヴォイアとジェノヴァを併合できたものの、カルロ王は拡大統一の野心は捨てませんでした。すると、彼の自由主義が暴走し、英雄意欲が高まって徐々に絶対君主的な傾向を見せ始め、現実よりも理想を追いかける改革者へと変貌を遂げ、オーストリア相手に戦争で決着することを決めました。こうした王の行動に民衆からも不支持者が徐々に増えていきます。

 カルロ・アルベルト王は、1848年、北イタリア統一を目指してオーストリアと対戦しました(第一次イタリア独立戦争。イタリア=オーストリア戦争。1848.3-49.3)。カルロはマッツィーニに協力を要請しましたが、マッツィーニの結社した青年イタリアをカルロ側が弾圧した経緯もあって実現できず、結果的には1849年3月末のノヴァーラの戦いで、オーストリアのヨーゼフ・ラデツキー将軍(1766-1858)の軍隊に敗れてしまい、カルロは退位、ポルトガルに亡命し、同年没しました。その後は子のヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(1820-78)にサルデーニャ王位を継承(位1849-61)、イタリア統一運動を推進していくことになります。

 引用文献:『世界史の目 第96話』より

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