2018年10月02日
10月2日は何に陽(ひ)が当たったか?
1798年10月2日は、地中海第2の島サルデーニャ(サルディニア。コルシカ島からすぐ南に位置)にありました、サヴォイア家の王国、"サルデーニャ王国(1720-1861)"の7代目国王、カルロ・アルベルト(1798-1849。王位1831-49)生誕の日です。
サヴォイア家の分家、サヴォイア=カリニャーノ家の7代目として産まれたカルロは、フランスで教育を受けて育ち、サヴォイア本家から王位継承が途絶えたこともあって、1983年にサルデーニャ王を継承、王位に就きました。
カルロが王位に就いた頃のヨーロッパはウィーン体制下で、特にイタリアでは自由主義とナショナリズムといった反体制が高揚し、とりわけイタリアの秘密結社・カルボナリ党の革命運動が特に活発化していました。ウィーン議定書において、イタリアのナポリではスペイン・ブルボン家が復活し、当事国オーストリアより北イタリアのロンバルディアとヴェネツィアを奪われました。またそれ以前においても同地はナポレオン時代における侵略が甚だしかったように、全体的に不安定な立場にあったことから、イタリア各地では、リソルジメント(Risorgimento。"再興""復興"が原義)と呼ばれる外国支配からの解放と国家統一が盛んになっていきました。カルボナリ党の蜂起は失敗に終わり、党員だったジュゼッペ・マッツィーニ(1805-72)は、イタリア統一を完成させるためには、秘密結社ではなく大衆政党として立ち上がるのが得策と考え、1831年、同志と新たな組織「青年イタリア」を結成しました。
リソルジメントがイタリア半島で吹き荒れる中、サルデーニャ王国では、カルロ・アルベルト王による新しい改革が次々と施されていきます。それは、ウィーン体制に対抗する自由主義的な改革で、同体制の反動政策への対抗が最も顕著に現れた1848年のフランス二月革命をきっかけに、サルデーニャ王国内でも自由主義色の濃い"アルベルト憲法"を発布して同体制に対抗しました。
その後カルロ・アルベルト王は、領土拡張と王国の統一の野心を大胆に見せ始めていきます。もともと、サヴォイア家は読んで字の如く大陸に位置するサヴォイア(アルプス山脈フランス側斜面。トリノの西側地方)やピエモンテ(現イタリア最西部。トリノが中心都市)を領有していましたが、ナポレオン時代にサルデーニャ島以外の大陸領土を全て失っていたのです。ウィーン議定書でサヴォイアとジェノヴァを併合できたものの、カルロ王は拡大統一の野心は捨てませんでした。すると、彼の自由主義が暴走し、英雄意欲が高まって徐々に絶対君主的な傾向を見せ始め、現実よりも理想を追いかける改革者へと変貌を遂げ、オーストリア相手に戦争で決着することを決めました。こうした王の行動に民衆からも不支持者が徐々に増えていきます。
カルロ・アルベルト王は、1848年、北イタリア統一を目指してオーストリアと対戦しました(第一次イタリア独立戦争。イタリア=オーストリア戦争。1848.3-49.3)。カルロはマッツィーニに協力を要請しましたが、マッツィーニの結社した青年イタリアをカルロ側が弾圧した経緯もあって実現できず、結果的には1849年3月末のノヴァーラの戦いで、オーストリアのヨーゼフ・ラデツキー将軍(1766-1858)の軍隊に敗れてしまい、カルロは退位、ポルトガルに亡命し、同年没しました。その後は子のヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(1820-78)にサルデーニャ王位を継承(位1849-61)、イタリア統一運動を推進していくことになります。
引用文献:『世界史の目 第96話』より
サヴォイア家の分家、サヴォイア=カリニャーノ家の7代目として産まれたカルロは、フランスで教育を受けて育ち、サヴォイア本家から王位継承が途絶えたこともあって、1983年にサルデーニャ王を継承、王位に就きました。
カルロが王位に就いた頃のヨーロッパはウィーン体制下で、特にイタリアでは自由主義とナショナリズムといった反体制が高揚し、とりわけイタリアの秘密結社・カルボナリ党の革命運動が特に活発化していました。ウィーン議定書において、イタリアのナポリではスペイン・ブルボン家が復活し、当事国オーストリアより北イタリアのロンバルディアとヴェネツィアを奪われました。またそれ以前においても同地はナポレオン時代における侵略が甚だしかったように、全体的に不安定な立場にあったことから、イタリア各地では、リソルジメント(Risorgimento。"再興""復興"が原義)と呼ばれる外国支配からの解放と国家統一が盛んになっていきました。カルボナリ党の蜂起は失敗に終わり、党員だったジュゼッペ・マッツィーニ(1805-72)は、イタリア統一を完成させるためには、秘密結社ではなく大衆政党として立ち上がるのが得策と考え、1831年、同志と新たな組織「青年イタリア」を結成しました。
リソルジメントがイタリア半島で吹き荒れる中、サルデーニャ王国では、カルロ・アルベルト王による新しい改革が次々と施されていきます。それは、ウィーン体制に対抗する自由主義的な改革で、同体制の反動政策への対抗が最も顕著に現れた1848年のフランス二月革命をきっかけに、サルデーニャ王国内でも自由主義色の濃い"アルベルト憲法"を発布して同体制に対抗しました。
その後カルロ・アルベルト王は、領土拡張と王国の統一の野心を大胆に見せ始めていきます。もともと、サヴォイア家は読んで字の如く大陸に位置するサヴォイア(アルプス山脈フランス側斜面。トリノの西側地方)やピエモンテ(現イタリア最西部。トリノが中心都市)を領有していましたが、ナポレオン時代にサルデーニャ島以外の大陸領土を全て失っていたのです。ウィーン議定書でサヴォイアとジェノヴァを併合できたものの、カルロ王は拡大統一の野心は捨てませんでした。すると、彼の自由主義が暴走し、英雄意欲が高まって徐々に絶対君主的な傾向を見せ始め、現実よりも理想を追いかける改革者へと変貌を遂げ、オーストリア相手に戦争で決着することを決めました。こうした王の行動に民衆からも不支持者が徐々に増えていきます。
カルロ・アルベルト王は、1848年、北イタリア統一を目指してオーストリアと対戦しました(第一次イタリア独立戦争。イタリア=オーストリア戦争。1848.3-49.3)。カルロはマッツィーニに協力を要請しましたが、マッツィーニの結社した青年イタリアをカルロ側が弾圧した経緯もあって実現できず、結果的には1849年3月末のノヴァーラの戦いで、オーストリアのヨーゼフ・ラデツキー将軍(1766-1858)の軍隊に敗れてしまい、カルロは退位、ポルトガルに亡命し、同年没しました。その後は子のヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(1820-78)にサルデーニャ王位を継承(位1849-61)、イタリア統一運動を推進していくことになります。
引用文献:『世界史の目 第96話』より
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posted by ottovonmax at 00:00| 歴史