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2018年10月11日

10月11日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1531年10月11日は、スイスの宗教改革者、フルドリッヒ・ツヴィングリ(1484-1531)が宗教戦争、カッペル戦争(1529,1531)で戦死した日です。

 スイスは古くから地理的にイタリア、フランス、ドイツに囲まれ、それらをつなぐ交通・交易の要衝としても繁栄しました。なかでもチューリヒジュネーヴバーゼルベルンといった、のちに歴史的・国際的にその名が知られていく都市も発展していき、バーゼルではスイス最古の大学(バーゼル大学)も建設されました(1459)。その中でもチューリヒやジュネーヴはそれぞれの教会を当時の腐敗したローマ教会の組織的・政治的隷属から解放させる動きもあり、16世紀になると、神聖ローマ帝国(962-1806)の領邦ザクセンにおける、マルティン・ルター(1483-1546)のキリスト教刷新運動の影響もあって、宗教改革の気運が高まっていきました。

 チューリヒでは、教皇の権威や教会の諸策に対し、様々な疑問を懐いていた司祭ツヴィングリがおりました。彼はデジデリウス・エラスムス(1465/66/69-1536)やルターに影響を受けて『新約聖書』を研究、聖書第一主義を貫きました。チューリヒ大聖堂の説教師となったツヴィングリは、1519年に贖宥状(インダルジェンス。免罪符のこと)販売の正当性を批判して以降、改革路線を表し始めました。この結果キリスト教刷新運動がおこされ、チューリヒ市内では旧教派とツヴィングリ派に分かれて両派の抗争が展開されました。そしてチューリヒでの討論会に論題を67ヵ条提出、討論に勝利を収めました(1523)。これによりツヴィングリ派における修道院閉鎖、聖画像や遺物の教会からの撤去、典礼音楽の廃止、教皇制度の見直しなどが行われました。こうしてスイスにおける最初の宗教改革が始まり、これをツヴィングリが担いました。
 1525年4月13日、ツヴィングリはミサ廃止を決定しました。この日は聖木曜日にあたり、「最後の晩餐」を記念する日です。この日は復活祭前の木曜日にあたりますが、復活祭前の一週間は最も尊い期間であり、その中でも木曜日から3が日は特別な式典・礼拝・慣習が行われます。その聖木曜日にミサを廃止したツヴィングリは、「最後の晩餐」ではなく彼自身が考案した晩餐式を行ったのです。
 ミサではイエス・キリスト(B.C.4?-A.D.30?)の肉体であるパンと、同じく彼の血である葡萄酒(これでキリストの聖体とする)を信徒に分かつ儀式、つまり聖餐(せいさん。聖体の秘跡)が行われますが、この解釈(聖餐論)について、ツヴィングリはパンと葡萄酒は単なる象徴で、キリストの肉体および血ではないと考え(象徴説)、パンと葡萄酒の実体と共にキリストの肉体と血の実体が共在する(共在説)と考えるルターと意見を異にしました(マールブルク会談。1529)。

 ルターの協力を断念したチューリヒのツヴィングリ派思想は、ベルンやバーゼルには浸透していったが、一方で旧教派との対立は深まっていき、特に旧教派を支持するウーリ州、シュヴィーツ州、ウンターヴァルデン州、ルツェルン州、ツーク州の5州(森林五州)との内戦がますます過激になった。ツヴィングリはチューリヒで兵を集めてスイス中部のカッペルで激戦を展開したが(カッペル戦争。1529,1531)、チューリヒの軍は連敗を喫し、1531年10月11日、遂にツヴィングリは戦死しました。この宗教内戦はカッペルで休戦協定が結ばれ、戦争は終わりました。

引用文献:『世界史の目 第140話』より

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