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2018年09月21日
9月21日は何に陽(ひ)が当たったか?
1792年8月10日、フランス国王ルイ16世(位1774-1792)一家がタンブル塔に幽閉された、いわゆる8月10日事件によって、ブルボン王政の停止が決まり、9月20日に国民公会(1792.9.20-95.10.26)が発足、陽の当たった翌日に第一共和政が宣言されました。
国民公会発足時では、上流ブルジョワに支持された立憲王政を唱えるフイヤン派は活躍の場を失い没落していきます。そして議会は右派に中流ブルジョワによって支持された穏健共和派のジロンド派、左派に下流ブルジョワや貧困層らに支持された急進革命派の山岳派(モンターニュ派)などでそれぞれ構成されましたが、やがてジロンド派党員が、フイヤン、ジロンド、山岳諸派を構成してきたジャコバン・クラブから次々と脱退していき、左右両派の対立はより一層激化しました。フランス最初の共和政である第一共和政は1804年まで続きます。
左右の対立激化を加速させた国王ルイ16世の裁判では、政権を握るジロンド派は執行猶予と国民投票を行おうとしましたが、山岳派は国王の即刻処刑を要求しました。この勢いに呑まれ、政権を握っていたはずのジロンド派は結果的に山岳派の主張を抑えることができず、翌1793年1月21日、国王ルイ16世の処刑が執行されることになりました。国王処刑事件は他国に脅威をもたらし、革命戦争に対する警戒心をより深めました。イギリスのピット首相(任1783〜1801,04〜06。小ピット)は、オーストリア・プロイセン・スペイン・ロシア・ポルトガル・オランダなどにヨーロッパ諸国に呼びかけて、1793年4月、第1回対仏大同盟を結成しました。国民公会は2月にイギリス・オランダ、3月スペインに宣戦、同年末まで戦乱が続きました。
山岳派に圧倒されていたジロンド派は革命戦争を起こして失敗していただけに、国内外で孤立したため、共和政が実現できたにもかかわらず、ジロンド派政府は行政ができる状態ではなく、少数の山岳派議員や民衆の怒りを買うばかりでした。そして国王処刑を機に山岳派に支持が集まり、1793年3月に反革命派・反体制派を裁く革命裁判所が設置され、4月に公安委員会と言われる、事実上の山岳派が主導する中央委員会が発足されます。この公安委員会が革命の中枢となっていき、強力な行政活動を遂行していきました。これによって追い詰められたジロンド派は急転落の一途をたどり、山岳派はジャコバン・クラブ内におけるジロンド粛清にとりかかり、ジロンド派の政治活動が停滞することになりました。ジロンド派の抜けたジャコバン・クラブは山岳派が支配することになり、最左派だった山岳派はジャコバン派の主流となって、過去の広義の革命団体とはもはや異なる、急進的な共和派となっていき、ジャコバン派=山岳派となって、大胆な"恐怖政治"を繰り広げていくことになります。
国民公会政府から総裁政府(1795.11.2-99.11.10)に移っても安定しなかった第一共和政は、軍人ナポレオン・ボナパルト(1769.8.15-1821.5.5)の登場で統領政府(1799.11.10-1804.5.18)にとって代わられ、1804年5月18日、ついにはナポレオンの主導で帝政(第一帝政。1804.5.18-14.4.11、1815.3.20-15.6.22)へと置き換えられ、第一共和政は終焉を迎えました。
引用文献:『世界史の目』より
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2018年09月20日
9月20日は何に陽(ひ)が当たったか?
Kansasは1974年に"Kansas(邦題:カンサス・ファースト・アルバム)"でデビューしました。このデビュー作ではアーシーなサザン・ロックを基盤に、ダブル・ヴォーカル、ダブル・キーボード、ダブル・ギター、そしてヴァイオリンという構成、そしてグループのギタリスト兼キーボーディスト、Kerry Livgren(ケリー・リヴグレン。gtr,key)の書くリリカルな詩と独特性のあるスケールの大きいサウンドでシーンに登場しました。
続く1975年2月リリースの2作目、"Song for America(邦題:ソング・フォー・アメリカ)"では、タイトルに"アメリカ"を冠しながらも、デビュー作にあった"土臭さ"を若干抑えてイギリス風のクラシカルなプログレッシブ・ロックにより接近し、タイトル曲を含む壮大で神秘的な大作を3作品収録、1975年5月17日付Billboard200アルバム・チャートで最高位57位と大健闘を見せました。
しかしKansasの所属する当時のKirshnerレーベルでは、この2作のアルバム内容については高い評価を受けながらも、シングル・ヒットがそれ以上に期待されており、レーベルはKansasに対して、ヒットしてシングル・チャートに登場するような歌を書くことを要求されました。前作"Song for America"は前に述べたとおり、10分前後の大作が3曲収録されたため、収録曲は両面3曲ずつの計6曲にとどまり、シングルとなったタイトル曲は、アルバムでの収録時間は10分3秒であり、7分も削った3分少々の編集ヴァージョンとしてシングル・カットされましたが、チャートインは果たせずヒットしませんでした。アルバムでの壮大さを3分で表現することは艱難辛苦であったことでしょう。カンサスのプログレッシブな音を維持しつつ、ポップでヒット性の高い楽曲を作ることはグループにとっては大きなプレッシャーでした。こうした中"Masque"のレコーディングが1975年夏からルイジアナ州ボガルーサのスタジオで行われ、"Song for America"のプロデュースをWally Goldと共同担当したJeff Glixman(ジェフ・グリックスマン)が本作にて単独で担当することになりました。
イタリアの画家Giuseppe Arcimboldo(ジュゼッペ・アルチンボルド。1526-93)の作品"Water(邦題『水』)"がジャケットに使われた"Masque"は完成し、8曲が収録されました。B面最後に収録された"The Pinnacle(邦題:尖塔)"の9分44秒が最長の曲で、他に"Icarus - Borne on Wings of Steel(邦題:銀翼のイカルス)"や"All the World(邦題:オール・ザ・ワールド)"のように6〜7分に及ぶ大作も収録されました。
このアルバムからシングル・カットされた作品はアルバムのオープニングを飾るA面(当時のアナログ盤)1曲目に収録されました。タイトルは"It Takes a Woman's Love(To Make a Man)(邦題:ウーマンズ・ラブ)"で、グループのリード・ヴォーカリスト兼キーボーディストで、Kerryと並ぶグループの重要なソングライター、Steve Walsh(スティーヴ・ウォルシュ。vo,key)の作品です。3分程度の非常にポップでキャッチーなラブ・ソングで、イントロを聴くだけで心が弾むような軽快なメロディが印象的なナンバーです。途中からサックスも導入されてよりポップさが強まり、前作とは対照的な、明るさと軽快さでこのアルバムはスタートします。
しかしシングル・カットされたこの"It Takes a Woman's Love(To Make a Man)"は残念ながらチャートには現れませんでした。やはり前作を知っている聴者は、ポップなKansasよりもプログレッシブなKansasをより好んだのです。KerryとSteveの共作でブギー色の濃いA面2曲目の"Two Cents Worth(邦題:トゥー・センツ・ワース)"も3分程度の小品ですが、"It Takes a Woman's Love"よりもグッとシブくなって、この曲からKansasのリアルな世界にようやく入り込めた感があり、やはりシングル向けとして書くように言い渡された"It Takes a Woman's Love"は非常に優れた楽曲であるのは間違いないのですが、アルバムの中では最も聞きやすいナンバーでありながら、Kansasの聴者にとってある意味"異色"の存在であるのも否めません。
シングルとしては本作では失敗しましたが、アルバム全体の完成度は前2作以上に高く、A面3曲目にあたるKerryの作品(Steveとの共作表記もあります)、"Icarus - Borne on Wings of Steel"はリユニオン後に続編も作られるほどの好評を博した曲であり、その後のライブ盤等でも収録され、大きな盛り上がりを見せる一曲です。ヘヴィーな楽曲でありながらもKerryお得意の抒情的な詩と、手に汗握るようなダイナミックなメロディが楽しめるナンバーです。
忘れてはならないのは、グループのヴァイオリニスト、Robby Steinhardt(ロビー・スタインハート。vo,violin)の存在です。彼の奏でる、時には切なく、時にはスリリングに展開するヴァイオリンの音色はKansasの楽曲には重要な位置を示しており、Robbyのヴァイオリン抜きではKansasの音楽は語れません。このRobbyがSteveとの共作でA面4曲目に収録された"All the World"は美しい作品で、アルバム収録曲の中で最もゆったりとした楽曲でありながら、ヴァイオリンをはじめ随所に見せる繊細なプレイは見事です。
Robbyのヴァイオリンは続く収録曲でも大いにその効果を発揮させます。アナログ盤B面1曲目に収録されたKerry作の楽曲で、RobbyがSteveとヴォーカルを分け合ってとる"Child of Innocence(邦題:チャイルド・オブ・イノセンス)"はハード・ロックを基調としたナンバーですが、Robbyのヴァイオリンが加わることで曲全体に極度の緊張感を与えてリスナーには最後までしっかりと聞き込ませ、単純なハード・ロックに終わらない充実感が備わっています。続いて収録されたSteve作のポップな"It's You(邦題:イッツ・ユー)"ではそのRobbyのヴァイオリンが一転して軽やかでさわやかに展開するという、ヴァイオリンの音色一つで魔法のように楽曲そのものを変幻自在に操る力をもっています。
そして、本作もいよいよクライマックスに入ります。B面3曲目の"Mysteries and Mayhem(邦題:神秘と混乱)"と最後を飾る大作、"The Pinnacle"は、Kansasの特徴をこの2品にギュッと凝縮したと言えます。この2曲を聴いただけでも、次作"Leftoverture(邦題:永遠の序曲)"が大ヒットを記録し、Kansasの黄金時代を現出することが当然であるかのようにわかります。それだけにKansasの魅力が大きく詰まった2品です。"Mysteries and Mayhem"はKerryとSteveの共作で、SteveとRobbyがヴォーカルを分け合っています。ヘヴィーでスリル満点のハードロックなのですが、4分半少々の楽曲の中には、小刻みにトリッキーなプレイが展開され、特に間奏部分にある、リズム・ギターも大いに強調され、まるでリード・ギターが同時に二つ聞こえるような完璧な展開はKansasの十八番テクニックで、その後のKansasの他の楽曲にもこのようなプレイは応用され、数多く聴くことができます。"Mysteries and Mayhem"はのちの数々のライブ盤でも収録されるほどで、おそらくは黄金時代を現出したきっかけとなったのがこの曲で、メンバーも非常に思い入れがあるのだと思います。個人的にもKansasの五本の指に入るほどの名曲であり、非常に気に入っております。
そして、"Mysteries and Mayhem"に続く、美しくもドラマティックにこのアルバムの最後を飾るKerry作"The Pinnacle"も同様に、Kansasの魅力が多大に味わえる作品です。この曲は"Mysteries and Mayhem"とは別個に存在していますが、内容的にはこの2曲は組曲的に構成され、所々に同じ節や詩を使いながら、キーボードやギター、ヴァイオリンが自由奔放に登場し、時にはクラシカルに、時にはヘヴィーに展開して非常に聴き応えのある壮大なスケールで本作品を締めくくっています。
Billboard200アルバム・チャートでこの"Masque"は1975年12月27日付で176位に初登場し、その後161位→151位→147位→129位→106位→95位→83位→73位→73位→72位→71位と順調にアップし、続く1976年3月20日付で最高位70位を記録し、その後は下降していきましたが、結果的には20週チャートインしました。前作"Song for America"は57位が最高位でしたのでヒット・ヴォリュームが落ちたかのように見えますが、チャートイン数は前作の15週に対して5週長くチャートインし、しかも年末年始を通してチャート・インしていたタイミングも奏功してより広く長く知られていくようになったことだと思います。結果的に前作同様、アメリカではゴールド・アルバムに認定されました。
この"Masque"を布石として、Kansasは1976年から1979年にかけてヒット・アルバムが次々と生まれる黄金期が訪れます。そして"Masque"まで苦労した分、作品のクォリティがさらに高まって、この全盛期では待望のシングル・ヒットもたくさん生まれることになります。
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2018年09月19日
9月19日は何に陽(ひ)が当たったか?
ドレフュス事件はジャン・カジミール=ペリエ大統領(任1894-95)の政権期に発生した事件で、フェリックス・フォール大統領(任1895-99)の政権期にその事件に対する世間の関心が大きく高まりました。
アルザスのユダヤ人工業家出身で、フランス参謀本部付き砲兵大尉として勤務していました、アルフレッド・ドレフュス(1859-1935)は、1894年10月、対ドイツのスパイの嫌疑をかけられて逮捕されました。軍法会議でも終始否認したドレフュスでしたが、証拠不十分にもかかわらず、終身禁固刑、そして軍籍と官位の剥奪の判決が下り、1895年2月、南米にあるフランス領ギアナの悪魔島に送られました。
ドレフュス事件は、フランス軍部の威信にかけて、ドレフュスを有罪にし向けた事件とされています。普仏戦争(プロイセン=フランス戦争。1870.7-1871.2)で失ったアルザスのユダヤ系フランス人が実はドイツのスパイだったという格好の材料でもって、対ドイツ強硬派をあおる形となりました。その後、ドレフュスの家族の協力、新任の参謀本部情報局長ピカール中佐の調査によって、真犯人が同僚エステラージ少佐であることが分かりました。しかし軍の上層部は軍部の威信のため、裁判は正当だったと主張しました。ピカール中佐は、再審を求めて奔走し、やがて更迭されますが、結果世論を巻き込んで、"ドレフュス問題"として国民にも伝わっていきました。1897年11月、ドレフュスの家族によってエステラージ少佐は告発されましたが、翌1898年1月の軍法会議で、彼は無罪判決となりました。
同年同月、ドレフュスの無実を訴える文豪ゾラ(1840-1902)は、後に首相となるジャーナリスト・クレマンソー(1841-1929。任1906-09,17-20)の新聞『オーロラ』紙上に"私は弾劾する"という見出しでフォール大統領宛の公開書簡を一面に発表、クレマンソーや作家アナトール・フランス(1844-1924)、社会主義者ジャン・ジョレス(1859ー1914)もドレフュス被告の冤罪を主張しましたが、ゾラは法廷侮辱罪に問われ、イギリスに亡命しました。しかしこの書簡によって知識人の再審要求運動が高揚して、ついにはフォール大統領が支持する軍部やカトリック教会、右翼、反ユダヤ主義らによる反ドレフュス派の再審反対運動と、クレマンソーらを中心とする共和派、社会主義派の政治家、さらには知識人らによるドレフュス支持派の再審要求運動と国論は分かれていき、両者の闘争は政治社会の対立へと発展、第三共和政の最大の危機が訪れました。
1898年10月、遂に再審要求は受理されました。失意のうちにフォール大統領は1899年の2月に急死し、次のエミール・ルーベ大統領(任1899-1906)はドレフュスを支持する方向を見せました。翌99年8月、再審による軍法会議がブルターニュのレンヌという遠方の都市で行われましたが、軍上層部の威圧で、減刑となっただけで、有罪判決でした。これによってドレフュスは1899年9月19日、ルーベ大統領の特赦を受けて釈放され、後味の悪い結果となりました。レンヌ判決が不当として破棄され、ドレフュスの無罪と復権が確認されたのは1906年になってからであり、この時、ドレフュスの少佐への任命・昇格も決まりました。ドレフュスは、第一次世界大戦終了時には大佐まで駆け登り、1935年にパリで没したのでした。
引用文献:『世界史の目 第37話』より
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2018年09月18日
9月18日は何に陽(ひ)が当たったか?
イギリスは、スエズ運河株買収(1875)後に保護国化としたエジプト(エジプト保護国化。1882)、さらにスーダンを支配下に入れて(1899。イギリスとエジプトの共同管理)、アフリカ大陸南部のケープ地方からアフリカ分割を縦断政策として北進しました。オランダ系移民ブーア(ブール)人の国であるオレンジ自由国(1854-1902)・トランスヴァール共和国(1855-1902)を苦心して併合し(南ア戦争。ブーア戦争。1899-1902)、カイロとケープタウンの縦一直線の支配が形成されました。さらに、もう1つの大植民地インドにも着目して、都市カルカッタ(現コルカタ)をアフリカ支配線と結んで、3C政策を完成しました。
一方で、フランスもアフリカ分割を進めて、1830年にフランス領となったアルジェリアと、ベルリン条約(1878.7)で勝ち取ったチュニジアを拠点とし、1894年、サハラ砂漠をフランス領西アフリカとして占領し、大陸東側の同フランス領マダガスカルやジプチにむけて横断政策をおこない東進しました。
1898年9月18日、縦断政策で北進するイギリス軍と、横断政策で東進するフランス軍は、スーダン南東部のファショダ村で衝突しました。ファショダ事件の発生です。
中世から敵対関係にあったイギリスとフランス両国の衝突は、17~18世紀で展開された英仏植民地戦争の再燃かと思われましたが、19世紀後半のドイツのビスマルク外交で孤立化政策を強いられたフランスと、やはりドイツと建艦競争において対立を深めたイギリスという、共にドイツの急激な進出に対する脅威が一致しており、共にドイツを敵国として相互協力を約す方向へ進みました。結果ファショダでの衝突はおさまり、1904年、イギリスは、モロッコにおいてフランスが優越権をとることを承認し、フランスは、エジプトにおいてイギリスが優越権をとることを承認するという英仏協商が結ばれ、長きにわたった英仏間における植民地の利害関係は緩和されたのでした。
引用文献:『世界史の目 第88話』より
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2018年09月17日
9月17日は何に陽(ひ)が当たったか?
全米でクアドラプル(×4)・プラチナ、全英でダブル・プラチナに認定された12枚目のスタジオ・アルバムで、
Tony Banks(トニー・バンクス。key)、Mike Rutherford(マイク・ラザフォード。gtr, bs)、そしてPhil Collins(フィル・コリンズ。drm, vo)の3人体制になってから4枚目のスタジオ・アルバム、"Genesis(邦題:ジェネシス)"からのファースト・シングルが"Mama"です(ちなみにB面は同アルバムからの最終章"It's Gonna Get Better")。アルバムでは7分近い大作ですが、シングルでは間奏部分やエンディング等が40秒ほど削られたヴァージョンとしてリリースされました。
Mike Rutherfordによってプログラミングされたドラムマシン、Linn LM-1やTony Banksによって扱われた多種のシンセサイザー、そしてPhil Collinsの"ハハ−ハッ"とシャウトするミステリアスな歌声が印象的なナンバーです。当時はこれまでのプログレ系サウンドから脱却して、ポップでソフトなサウンドへの移行期でしたが、アルバム"Genesis"で聴くことができるポップなナンバーは2曲目以降で、"Mama"はアルバム"Genesis"のオープニングを飾るものの、全楽曲の中でも独特の雰囲気を持つ異色の曲で、それは見様によってはどこか心の晴れない、胸が締め付けられる感覚にも受け取れる歌詞にもあります。一部ですが、以下に挙げてみました。
I can't see you mama
But I can hardly wait
And to touch and to feel you mama
Oh I just can't keep away
In the heat and the steam of the city
Oh its got me running and I just can't brake
So say you'll help me mama
'Cause its getting so hard
Now I can't keep you mama
But I know you're always there
You listen, you teach me mama
And I know, inside you care
So get down, down here beside me
Oh you ain't going nowhere
No I won't hurt you mama
But its getting so hard
Can't you see me here mama
Mama, mama, mama, please
Can't you feel my heart
Can't you feel my heart
Can't you feel my heart ooh
Now listen to me mama
Mama mama
You're taking away my last chance
Don't take it away
Can't you feel my heart?......(以下略)
この歌詞は娼婦によって中絶されそうになっている胎内の子が、母に対して必死に助命を哀願し、叫んでいるという内容です。ドラムマシンが、胎児の鼓動のように思え、Can't you feel my heart(僕の心臓の鼓動が感じられないの?)と母親に問いかける胎児の必死のうったえ、Philの"ハハーハッ"とシャウトするパートも、どう母に伝えたら良いか分からない胎児の必死の叫びが言葉にならず金切り声のように発されるところは、非常に考えさせられます。
プロモーション・ビデオの、セピア色に染まった背景でPhilが切なく歌い、例のシャウトするパートはPhilの顔前面がアップとなり、妙に光が照らされるところは、歌詞内容に合わせての演出でしょうか(映像はこちら。youtubeより)。
さて、陽の当たった1983年9月17日、Billboard Top Tracks chartで20位にエントリーした本作品は、翌週に8位にジャンプアップしましたが、昇降の激しさは有名なメインストリームロックチャートです。次に13位、そしてその次の週(10月8日付)で、最高位となる5位に大きくジャンプしました。その後は10位→10位→9位→9位→14位→42位→40位→43位と、計12週チャートインしました。総合チャートのHOT100では10月29日付で73位が最高位となり、9週間のチャートインになりました。
本国イギリスでは強さを発揮して、UKチャートでは最高位4位を記録、スウェーデンやスイスのシングルチャートでは2位、フランスやノルウェーでも3位を記録する大ヒットとなりました。
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2018年09月16日
9月16日は何に陽(ひ)が当たったか?
1961年、John Panozzo(ジョン・パノッツォ。drums)とChuck Panozzo(チャック・パノッツォ。Bass)の双子の兄弟は、近所に住んでいたDennis DeYoung(デニス・デヤング。vo,key)を誘って、ガレージバンド、The Tradewinds(トレイドウィンズ)を結成しました。この時、JohnとChuckは12歳、Dennisは14歳で、Johnはドラム、Chuckはリズムギター、Dennisはアコーディオンの少年トリオ編成でした。その後Chuckが神学校へ通うため一時的に離脱しましたが、その間はTom Nardin(トム・ナーディン。gtr)が加入してChuckの穴を埋めました。学業を終えたChuckは1964年までにThe Tradewindsに復帰しますが、そこでChuckはベースにまわり、以後バンドのベーシストとしてJohn PanozzoとともにTradewindsのリズム隊を担うことになりました。そしてTomはギター全般を、Dennisはアコーディオンだけでなく、ピアノやオルガンも扱うようになっていきました。
ところが1965年、"New York's a Lonely Town"という曲をBillboard HOT100シングルチャート32位を記録した、別のThe Trade Winds(ザ・トレイド・ウィンズ)がでて、のち彼らはThe Innocence(ジ・イノセンス)と名を変えたものの(改名は1966年)、混同を避けるためにDennis側のThe Tradewindsは同年、TW4と改名しました。この名はTradewindsのTとWをとった4人という意味にもとれますが、実際は"There Were 4"の意味だとされています。
TW4と改名後、Panozzo兄弟とDennisはシカゴ州立大学で学業を積みながら、TW4も並行してシカゴの高校やローカル・クラブ、バーなどでギグを行いました。大学ではJohn [JC] Curulewski(ジョン・クルルウスキー。gtr,vo)との出会いがあり、彼はアメリカ南部でも音楽活動を行っていました。1969年、Tom NardinがTW4を脱退するハプニングがありましたが、その穴をJCが埋める形でTW4にギタリストとして加入することになりました。1970年にはイリノイ工科大学の学生だったJames [JY] Young(ジェームズ・ヤング。gtr,vo)がギタリストとして加わり、TW4は5人編成になりました。JCとJYが加わったことで、これまでのガレージ・ロックからクラシカルなプログレッシブ・ロックを試みるようになり、1971年、当時ロサンゼルスのハリウッドにあった、設立されたばかりのレコード・レーベル、"Wooden Nickel(ウッドゥン・ニッケル。活動期間1971-77。RCA傘下)"の設立者の一人、Bill Traut(ビル・トラウト。1929-2014)に認められ、同レーベルとの契約が決まりました。その際Billの提案により、グループ改名をすすめられ、いくつかの案が出されましたが、満場一致で決まったのがStyx(スティクス)でした。ギリシャ神話に登場する、永遠の命の源とよまれる、現世と来世の間を流れる川(日本でいう"三途の川"。ステュクス)を意味します。かくして、Dennis、John、Chuck、JC、JYの5人からなるロック・グループ、Styxが誕生しました。
1971年、さっそくParagon Recording Studiosでレコーディングが行われ、Billと、カナダ人プロデューサーJohn Ryan(ジョン・ライアン。1928–2010)がプロデュースにあたりました。Bill、John Ryanだけでなく、エンジニアやミキシング担当として、第6のStyxとも言われるべきBarry Mraz(バリー・ムラッツ)など優秀なスタッフに恵まれて、収録する6曲が完成し、1972年8月、デビュー作"Styx(邦題:スティクスT)"がリリースされました。幻想的な背景と炎と煙に囲まれたメンバーというジャケットも素晴らしく、また収録曲のうち1曲は、デビューアルバムのオープニングを飾る13分を超える組曲"Movement for the Common Man"で、1曲目にプログレの大作を持ってくるあたり、並大抵の新人グループではない、大物になり得る期待が寄せられました。
そして、このアルバムからデビュー・シングル"Best Thing"がカットされました。アルバム"Styx"の全収録曲の大半は外部のソングライターに委ねられましたが、"Best Thing"はJYとDennisが創った楽曲です。また同アルバムからの"What Has Come Between Us"がB面に収録されました。
"Best Thing"はDennisとJYがパートに分かれてヴォーカルを担い、彼らとJCのバック・コーラスも美しいロックナンバーで、静と動が兼ね備わった素晴らしいプログレ・サウンドです。陽の当たった1972年9月16日にBillboard HOT100シングルチャートで93位に初登場し、その後93位→85位→84位と上昇、10月14日と21日の2週連続82位を記録し、後は圏外へ消えていきました。結果的には6週間のチャートインでした。アルバムもBillboard200アルバムチャートにはチャートインできませんでしたが、Billboardにはthe Bubbling Under chartという、ニューエントリー予備軍をランキングするチャートがあり、200位には入らなくも、207位に相当する記録でした。
"Styx"は大きなヒットには至りませんでしたが、これを糧に1973年7月リリースの次作"StyxU(邦題:スティクスU)"では、Johann Sebastian Bach(バッハ。1685-1750)の作品を取り上げた("Little Fugue in G"。邦題:リトル・フーガ)以外は、すべてStyxのメンバーによるソングライティングで挑み、長尺の楽曲も2曲織り交ぜて、スケールの大きいロックを展開していくのでありました。
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2018年09月15日
9月15日は何に陽(ひ)が当たったか?
1983年にリリースされた"Drastic Measures(邦題:ドラスティック・メジャーズ)"では、Kansasの音楽における重要な柱であったRobby Steinhardt(ロビー・スタインハート。vo,violin)が不在でしたので、70年代のKansas流プログレッシブ・ロック・サウンドは影を潜めたアルバムとなりました。さらにはこれまでのソングライティング面では重厚で超常的な詩と旋律で重要な存在であったメンバーのKerry Livgren(ケリー・リヴグレン。gtr,key)の創る楽曲の収録が減り、代わって1982年に加入したJohn Elefante(ジョン・エレファンテ。vo,key)の作品が中心となったことで、全体的にキャッチーでメロディアスなハード・ロック・アルバムに変容してしまったことが災いし、カットされたシングルはTop40入りはならず、アルバムチャートでは41位が最高位となり、セールスやチャートでは厳しい結果となりました。これにより、メンバーの柱であったKerry LivgrenおよびベーシストのDave Hope(デイヴ・ホープ。bass)が脱退を表明しました。
要が不在となったKansasは、John、Phil Ehart(フィル・イハート。drums)、Rich Williams(リッチ・ウィリアムス。guitar)の3人のみとなり、グループとしての活動はいっきに縮小しました。
1984年は、デビュー作"Kansas(邦題:カンサス・ファーストアルバム)"がリリースされた1974年から節目の10周年を迎える年でした。まさにどん底の時代に節目を迎えたKansasは、デビューして初めてのベスト・アルバムをリリースすることを決めました。これが、1984年7月31日にリリースされました"The Best of Kansas"です。
本作には新曲"Perfect Lover(邦題:パーフェクト・ラヴァー)"がベスト盤に合わせて発表され、シングルとしてもリリースされました。この曲はPhil、Rich、Johnの他、JohnがKansas加入後も共にソングライティングで協力体制にあった兄のDino Elefante(ディノ・エレファンテ。bass)や、CCM系のアーチストでクリスチャン・ロック・バンド、Sweet Comfort BandのBryan Duncan(ブライアン・ダンカン。vo,key)らがサポートしてレコーディングを完成させました。
曲目は以下の10曲です。
A面(アナログ)
1."Carry On Wayward Son(Remixed version。邦題:伝承)"・・・Originally from "Leftoverture(邦題:永遠の序曲。1976)"
2."Point of Know Return(邦題:帰らざる航海)"・・・from "Point of Know Return(暗黒への曳航。1977)"
3."Fight Fire with Fire(邦題:炎の欲望)"・・・from "Drastic Measures(邦題:ドラスティック・メジャーズ。1983)"
4."Dust in the Wind(邦題:すべては風の中に)"・・・from "Point of Know Return"
5."Song for America(Edited version。邦題:ソング・フォー・アメリカ)"・・・Originally from "Song for America(邦題:ソング・フォー・アメリカ。1975)"
B面
1."Perfect Lover(邦題:パーフェクト・ラヴァー)"・・・新曲。
2."Hold On(邦題:ホールド・オン)"・・・from "Audio-Visions(邦題:オーディオ・ヴィジョン。1980)"
3."No One Together(邦題:ノー・ワン・トゥゲザー)"・・・from "Audio-Visions"
4."Play the Game Tonight(邦題:プレイ・ザ・ゲーム・トゥナイト)"・・・"Vinyl Confessions(邦題:ビニール・コンフェッション。1982)"
5."The Wall(Remixed version。邦題:壁)"・・・Originally from"Leftoverture"
John加入前のヴォーカリストで、全盛期のKansasで最も人気のあったメンバー、Steve Walsh(スティーヴ・ウォルシュ。vo,key)の歌声を最良の音で再び登場させるため、名曲のA-1とB-5はリミックスが施され、大作のA-5はエディット盤として収録されました。発売当時はJohn Elefanteが看板ヴォーカリストでしたので、当時としては直近のシングル"Fight Fire with Fire"がA-3と早めの登場です。選曲としては全盛期の"Monolith(邦題:モノリスの謎。1979)"やアナログ当時2枚組だったライブ盤"Two for the Show(邦題:偉大なる聴衆へ。1978)"、そしてヒットアルバム"Song for America"と"Leftoverture"の間に挟まれた"Masque(邦題:仮面劇。1975)"、さらにはデビュー作"Kansas"からは、なぜか1曲も選ばれませんでした。"Monolith"からからは"People of the South Wind(邦題:まぼろしの風)"や"Reason to Be(邦題:リーズン・トゥ・ビー)"がヒットしたにもかかわらず、選ばれなかったのが不思議ですし、かつ理由が知りたい興味深さもあります。何はともあれ当時のKansas愛聴者にとっては、80年代においても、かつての壮大でドラマティックなKansasのプログレッシブ・ロックを常に期待していたと思うので、このベスト盤は非常にありがたかったことでしょう。
さて、チャートの面では1984年9月8日付Billboard200アルバムチャートで162位に初登場し、陽の当たった9月15日から2週続けて154位を最高位として記録後、192位→190位、そして圏外へと消え、わずか5週のチャートインで終わりました。シングル・カットされた"Perfect Lover"はメインストリームロックチャート(当時はTop Rock Tracks)は9月1日付で54位を記録したのみで、HOT100シングルチャートにはチャートインしませんでした。その後KansasはSteve Walshが復帰する1986年までは一時的な活動停止となり、John ElefanteはKansasを離れました。
チャートの上では失敗しましたが、このベスト・アルバムはゆっくりと売れ続けて、1990年10月の段階でRIAAのプラチナレコードに認定され、1992年5月28日付Billboard Top Catalog Albumsチャートにも1週だけではありますがチャートインし(37位)、1997年にはトリプル・プラチナに認定されました。
1999年にはデビュー25周年を迎えましたが、メンバーは"The Best of Kansas"を改めて再編集して再リリースすることになりました。再リリース盤では1984年盤のA-1とB-5のリミックス・ヴァージョンがオリジナル・ヴァージョンとして置き換えられた他、"Perfect Lover"が外されて新たに"The Pinnacle(邦題:尖塔)"、"The Devil Game(邦題:邪悪なゲーム)"、そして"Closet Chronicles(邦題:孤独な物語)"が加えられました。"The Pinnacle"は"Masque"、"The Devil Game"は"Song for America"からの選曲ですが、ここでの注目はもう1曲、"Closet Chronicles"です。これはライブ盤"Two for the Show"からの選曲で、CD化に伴い、もともと2枚組だったアナログ盤を1枚のCDに置き換える際、収録可能時間の関係で収録から外されてしまい、アナログ盤でしか聴くことのできなかったナンバーです(2008年に再リリースされたこのライブ盤は収録)。"Closet Chronicles"のライブ・ヴァージョンが収録されたことでも1999年版の"The Best of Kansas"の価値は大きく高まりました。この効果があったのか、2001年12月で、"The Best of Kansas"はトリプルの上を行くクアドラプル・プラチナ・ディスクに認定され、地道に長く売れ続けました。
ちなみに、この"The Best of Kansas"のジャケットは非常に興味深く、デビュー作"Kansas"から"Drastic Measures"までのジャケットのシンボル・デザインがすべて、随所に描かれているのも興味深いです。中には隠し絵的な描かれ方もあり、個人的に気に入っているのは、"Masque"のあの珍奇な肖像画を構成する1匹の魚が、デビュー作"Kansas"のジャケットを飾るアボリショニスト(南北戦争期の奴隷廃止運動家)のJohn Brown(ジョン・ブラウン。1800-59。『世界史の目 42話』より)の髭に隠れている部分です。ちなみにJohn Brownは、"Drastic Measures"のシンボルである赤い蝶ネクタイも身につけています。
1999年リリース盤
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1984年リリース盤
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"Closet Chronicles"が外されているヴァージョン
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2018年09月14日
9月14日は何に陽(ひ)が当たったか?
1980年に活動をいったん停止したYesが、Jon Anderson(ジョン・アンダーソン。vo)、Chris Squire(クリス・スクワイア。bass,vo)、Tony Kaye(トニー・ケイ。key。Tonyは再結成後に一時離脱し、再々復帰)、Alan White(アラン・ホワイト。drums)、Trevor Rabin(トレヴァー・ラビン。vo,guitar, key)の5人で、本格的な再スタートを切った1983年発表の復帰作、"90125(邦題:ロンリー・ハート)"は、新しいYesサウンドでシングル初となる、"Owner of a Lonely Heart(邦題:ロンリー・ハート)"のBillboard HOT100シングルチャート1位を記録し、第2期のYes黄金時代が訪れました。
これまでの組曲形式を中心とする大作傾向の強かったYes流プログレッシブ・ロックから大きな変革が行われ、若いTrevorを起用した、ポップ・ロック的アプローチの楽曲構成でありながらも、メンバーの高い演奏能力を武器に、急激な曲展開と美しいコーラスで、人気は復活しました。
1983年に"90125"で復活したYesの次作、"Big Generator(邦題:ビッグ・ジェネレイター)"がリリースされたのは1987年9月21日で、レコーディングは1985年頃の開始でしたが、結局は4年の歳月を費やしました。Trevorがドキュメンタリー・ビデオ"(Yesyears: A Retrospective(邦題:イエスイヤーズ)"でも語っていたように、制作が難航して完成まで大変な労力と時間のかかったアルバムです。結果的には"90125"以上にポップ・ロックへのアプローチが一段と増し、歌詞もダイレクトな内容が多くなりました。この"Big Generator"からの先行シングルが"Love Will Find Away"で、これまで"Love"が入ったタイトルは前作"90125"に"City of Love"がありましたが、シングル・カットされた"Love"付タイトルはおそらくこの曲が初めてだったと思います(未発表曲や"Big Generator"以降では"Love"のついたタイトルは散見します)。
"Love Will Find Away"の作者はTrevorで、本来この曲はTrevorがイギリス/アメリカのロック・グループ、Fleetwood Mac(フリートウッド・マック)のStevie Nicks(スティーヴィー・ニックス)用に書かれたものでしたが、Alan Whiteの推奨よりYesの楽曲として使用されることになりました。メイン・ヴォーカルも彼がとりますが、曲全体のヴォーカル部分にバッキング・コーラスがかかっており、終始メンバー全員で歌っている感覚を受けます。元祖YesヴォイスであるJonの歌声はバッキング・コーラスでも存在感が大きく、途中Jonのみのメイン・ヴォーカル・パートが少しほどあります。エネルギッシュなTrevorのヴォーカルも素晴らしいですが、従来からのYesファンにしてみれば、やっぱり透明感のあるJonのヴォーカルが聞こえてくると嬉しいものです。プロモーション・ビデオは、エレクトリック・シーンとアコースティック・シーンと呼んだらいいのでしょうか、メンバーがエレキ機材とアコ機材を使い分けて演奏している2つのシーンで構成されています。エレキ・ヴァージョンでのChrisが使用した赤色の5弦ベースは30年以上経った今でも色褪せないまま脳裏に焼き付いております。
シングル・ヴァージョンではイントロのストリングスがそっくり削られ、エンディングも早く終わるように編集されましたが、7分のエクステンディッド・ヴァージョンも作られるなど、Danceチャートにも反映されるようなプロモーションが施されました。HOT100では1987年10月3日に76位で初登場し、その後65位→54位→42位と順調にアップし、5週目で40位とTop40入りを果たしました。その後は37位→34位→31位とアクションが落ち着いていき、11月28日付の30位を最高位に下降を始め、結果19週チャートインしました。お世辞にも"Owner of a Lonely Heart"ほどのチャート・アクションは見せませんでしたが、メインストリームロックチャート(当時はAlbum Rock Tracks)では依然として根強く、"Owner of a Lonely Heart"同様、1987年10月24日付で1位を獲得しています。ただし、70年代のYesを知るリスナーにしてみれば、その内容が往年のプログレッシブなYesからかけ離れ、そのサウンドもあまりにもポップすぎて賛否が分かれた曲でもありましたが、印象的なギター・リフやハーモニクス奏法など、ポップな中にもテクニカルなパートがあり、この曲を聴いてYesを好きになったファンもいるのではないでしょうか。
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2018年09月13日
9月13日は何に陽(ひ)が当たったか?
3作目"The Yes Album(邦題:サード・アルバム。1971年)"より、メンバーの高度な演奏技術と創作能力でもって組曲などの大作が収録され、その後のYesサウンドの原点がようやく現れます。そして年をまたぐことなくリリースされた次の"Fragile(邦題:こわれもの。1971年)"は、メンバーのそれぞれのソロ小作品と3曲の大作がうまくミックスされて、後世に残るヒット曲も出、これがYesの音楽だと言わんばかりの傑作となりました。"Fragile"は本国イギリスでのUKアルバムチャートでは"The Yes Album"の4位よりやや下がるも7位を記録しましたが、Billboard200アルバムチャートではイエスのアルバムで初めてチャートインした"The Yes Album"が40位であったのに対し、4位を記録してアメリカにおいても広く知られるようになりました。"The Yes Album"と"Fragile"とのブランクがわずか9ヶ月余りだったことで、1971年内に2作品リリースされたことが、いち早くYesの音楽が人々に認知されたことも要因であったと思われます。
こうしたYesの人気ぶりが高まっていく中でリリースされたのが"Close to the Edge"で、今回はほぼ1年の期間を経てリリースされました。Yesをはじめとするプログレ系ミュージシャンによって使用されたロンドン、ウェストエンドのAdvision Studiosでのレコーディングは5回目で、"The Yes Album"から本格的にプロデュースにまわったEddie Offordが、本作でもメンバーと共にプロデュースを担当しました。メンバーはSteve Howe(スティーヴ・ハウ。guitar,vo)、Jon Anderson(ジョン・アンダーソン。vo)、Chris Squire(クリス・スクワイア。bass,vo)、Rick Wakeman(リック・ウェイクマン。key)、そしてBill Bruford(ビル・ブラッフォード。drums)の5人で、前作に引き続き同メンバーでの顔ぶれです。Steveは"The Yes Album"、Rick Wakemanは"Fragile"からの参加で、残る3人はオリジナル・メンバーです。アルバムのスリーヴ・デザインは前作より引き続いてRoger Deanが担当、邦題の"危機"を感じさせるかのようなグリーンの色合い、中ジャケットの幻想的な地形もまたタイトルのイメージ・デザインにもなり得ます。そして何よりもなお、Roger DeanによってデザインされたYesのロゴ(画像はこちら。wikipediaより)が初めての御目見得となりました。
さて、陽の当たった1972年9月13日にリリースされたこの"Close to the Edge"の収録曲は当時のアナログ盤でのリリースではA面1曲、B面2曲、両面で3曲という、Yesの純粋な大作主義だけが表現された、最初のアルバムとなりました。
A面(アナログ)
1."Close to the Edge(邦題:危機)"。Anderson/Howe。total time18:50。
I. "The Solid Time of Change(邦題:着実な変革)"。
II. "Total Mass Retain(邦題:全体保持~トータル・マス・リテイン~)"。
III. "I Get Up, I Get Down(邦題:盛衰)"。
IV. "Seasons of Man"(邦題:人の四季)。
B面
1."And You and I(邦題:同志)"。Anderson/Howe(except "Eclipse")Bruford/Squire。total time10:09。
I. "Cord of Life(邦題:人生の絆)"。
II. "Eclipse(邦題:失墜)"。
III. "The Preacher, the Teacher(邦題:牧師と教師)"。
IV. "The Apocalypse(邦題:黙示)"。
2."Siberian Khatru(邦題:シベリアン・カートゥル)"。Anderson/Howe/Wakeman。8:57。
2作品の組曲と1作品の楽曲の構成で、およそシングル向きにはなりえない構成ですが、いちおうはA面1曲目の"Close to the Edge"の第2楽章 "Total Mass Retain"やB面1曲目"And You and I"による編集ヴァージョンとしてシングル・リリースもあり、後者が1972年12月16日付Billboard HOT100シングルチャートで42位まで駆け上がっております(結果7週チャート・イン。タイトルは"And You and I PartU"として)。
Jonの発想による独特な歌詞は、ドイツ作家Hermann Hesse(ヘルマン・ヘッセ)の作品"Siddhartha(邦題:シッダールタ)"がモチーフになっていると言われています。その歌詞の難解さに結合するかのように、四部構成のA-1では 、変幻自在でスリリングな展開になる一方で、パイプオルガンの調べにのせて神秘的な展開をも見せます。全体的には高度な緊張感に包まれているかのような超大作で、決め言葉のように"I Get Up, I Get Down"が繰り返されていますが、文字通り、「危機」から自由の境地へ解脱する様を表現しているのでしょうか。いずれにしてもA面ですっかりYesの世界にどっぷりとつかってしまいます。
Steveの美しいアコースティック・ギターで始まるB-1はある意味牧歌的な組曲で、非常に落ち着いた展開で進行していきますが、Rickのメロトロンが聞こえてくる"Eclipse"はこれぞプログレッシブ・ロックともいうべきパートで、Steveのスティール・ギターの響きも美しく、神秘的です。最後のほんの少し程度に聞かれる "The Apocalypse"でしっとり感に浸りながらB-1は終わります。
最後B-2はYesのロックです。1999年にアメリカのロック・グループ、Red Hot Chili Peppers(レッド・ホット・チリ・ペッパーズ)が発表したアルバム、"Californication(邦題:カリフォルニケーション)"に収録された"Get on Top(邦題:ゲット・オン・トップ)"にもその影響が見られます。複雑な構成ながらも所々にYesらしからぬファンキーなサウンドが顔を出すポップ性も兼ね備えており、最高の締めくくりでアルバム"Close to the Edge"は終わります。3曲とも、長編曲でありながらも長い、気怠いと感じさせない構成で、これぞプロフェッショナルと言えるアルバムです。
本作は本国UKチャートでは前々作"The Yes Album"以来の4位を記録しました。そして全米ではBillboard200アルバムチャートで、前作の記録を更新する3位を記録し、長きにわたるYesのキャリアの中で全米でのアルバム最高位を記録、まさに黄金時代の絶頂に立つことになります。日本のオリコン・アルバム・チャートでもトップ20入り(16位)を果たしたほか、オランダのチャートでは1位を獲得し、全世界でいち早くナンバー・ワン・アルバムが誕生しました。
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2018年09月12日
9月12日は何に陽(ひ)が当たったか?
洗練されたポップ、いわゆるSophisti-popの第一人者として現在も多大な人気を博するグループですが、当時は3人編成でした。メンバーは、Andy Connell(key)、Martin Jackson(drums)、そして紅一点のヴォーカリスト、Corinne Drewery(vo)で、MartinとAndyはマンチェスター、Corinneはノッティンガム出身です。グループ加入前のCorinneはファッション系のデザイナーやモデルとしてのキャリアを積んでいました。
Swing Out Sisterの最大の魅力はCorinneの持つ渋い低音の歌声にあり、それは"オプティミスティック・アルトフルート"と言われ、弾けたポップ・ナンバーでも、しっとりとした"聴かせる"音楽に変身する独特の魔力があります。"Breakout"はまさにそのような感覚でとらえられるナンバーで、ホーンで明るく、そしてアップテンポな曲ですが、はじけるだけで終わることなく、Corinneの"聴かせる"歌声がいつまでも耳に残る、まさに名曲です。
"Breakout"のプロモーション・ビデオも大変痛快で、見ていてすがすがしくなります(映像はこちら。youtubeより)。個人的にはフラフープを回すシーンや、最後のCorinneの決め顔で終わるエンドシーン、そして最初のファッション・デザイナーに扮した、Audrey HepburnばりのCorinneが"Breakout!"と言って布を引き裂くシーンが非常に気に入っております。このビデオは1988年のMTV Video Music AwardsでのBest New Artist in a Videoにもノミネートされました。1999年に"Alice in Wonderland (邦題:不思議な国のアリス)"の映画を手がけることになるNick Willingが監督をつとめております。
"Breakout"は1986年にリリースされ、UKチャートでは1986年10月18日付で4位を記録しました。そして、これを含むデビュー・アルバム"It's Better to Travel(邦題:ベター・トゥ・トラベル)"が翌年11月にリリースされました。収録曲にはデビュー曲"Blue Mood"や、アメリカでは"Breakout "に続くセカンド・シングルとしてカットされた"Twilight World(邦題:トワイライト・ワールド)"など、魅力あるナンバーが多く収録されています。
さて、アメリカでも当時デビューを果たしたSwing Out Sisterの注目は高く、"Blue Mood"はふるわなかったものの、"Breakout"は1987年11月14日付のBillboard HOT100シングルチャートで6位を記録し、23週チャート・イン、その年のYear-Endチャートでは100位中66位にランクされてその年の大ヒット曲となり、翌年のGrammy AwardでもBest Pop Performance by a Duo or Group with Vocalsにノミネートされるなど、飛躍の年となったのです。
さて陽の当たった所は、総合チャートであるHOT100よりも目立った、Adult Contemporaryでのチャート・アクションです。陽の当たった9月12日に38位でエントリー後、26位→22位→16位→12位→7位と5週でTop10入りを果たし、続いて3位を2週続けた後、11月7日付でなんと、ナンバー1に輝きます。1位は2週続け、その後下降していきましたが、結果20週チャートインする、新人らしからぬ大ヒットを記録したのでした。
アメリカでは次のシングル"Twilight World"もヒットし、HOT100では31位止まりでしたが、Adult Contemporaryチャートでは7位、ダンスチャートでも9位まで上がる大ヒット曲となり、華々しいデビューを飾ることができました。
1989年のセカンド・アルバム、"Kaleidoscope World(邦題:カレイドスコープ・ワールド)"よりMartinが脱け、2人編成となり、現在に至っています。
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