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2018年09月11日
9月11日は何に陽(ひ)が当たったか?
本名はWilliam Sydney Porterといい、ノースカロライナ州中北部にある都市、グリーンズボロで生まれました。医師を父に持つ家でしたが、生後3年で母と死別、叔母に育てられました。
ヘンリーは15歳で学校をやめ、20歳ごろにテキサスへ移住しました。銀行員や薬剤師、コラムニストなど様々な職業を転々としながらも、20代半ばの1887年に結婚を果たしました。銀行員だった1896年に公金横領の罪で訴えられ、単身でニュー・オリンズへ逃亡しました。その間、妻は病身で、1897年に危篤状態になったことを受けて自宅に戻りました。看病の甲斐もむなしく妻は亡くなり(1897)、翌1898年にはほどなく横領罪で懲役8年の有罪判決を受け、服役することになりましたが、模範囚による恩赦で1901年に釈放され、娘と妻の母とともにピッツバーグに移って記者業をはじめ、その後ヘンリーは作家業に本腰を入れるため、単身赴任でニューヨークに移りました。
ヘンリーは服役していた時期から短編小説を執筆して雑誌に投稿しては何作かは世に出ており、その頃から筆名の"オー・ヘンリー"を使用していました。1904年にホンジュラスを訪れた際、その見聞に基づき書かれた『キャベツと王様(原題:Cabbages and Kings)』が事実上の処女作で、1906年にはニューヨークの人口をタイトルにした『四百万(原題:The Four Million)』を発表しました。フランス自然主義作家モーパッサン(1850-93)にも通じるユーモアとペシミズムに満ちた文体で市民層の哀歓を描き、ヘンリーは生涯、短編小説を中心におよそ380編の作品を残しました。
オー・ヘンリーの代表作『最後の一葉(The Last Leaf)』はあまりにも有名です。三階建ての煉瓦造りのアパートには貧しい芸術家が集まり、アトリエとして仕事と生活に使用していました。重い肺炎に罹り、生きる気力を失いかけている女性画家ジョアンナ(ジョンジー)が、窓の外に見える、壁に這う枯れかけたツタの葉を見て、葉がすべて散りゆくとともに自身の命も散ると言い、激しい風雨によって次々と葉が散りゆく様を見て嘆きます。そして最後に一枚の葉だけが残りますが、その葉はどんなに風雨にさらされても、散ることはなく、ジョアンナはこの最後の一葉に感銘を受けて、生きる気力を取り戻し、その後全快します。しかしよく見ると最後の一葉は、階下に住むジョアンナと同じ画家の老人男性ベーアマンが、壁に本物そっくりに描かれた、"絵の"ツタの葉でした。この老画家ベーアマンは、自分が年老いて死ぬまでには必ず最高傑作を作ってみせると言いながらも筆を執ることはなく、芽が出ないまま気ままな生活を送っていました。その老画家がジョアンナを励まそうとして一枚の葉を描き上げたことで、ジョアンナに元気が戻ったのでしたが、今度は老画家は連日雨風強くたたきつけられたことで肺炎に罹り、2日後に亡くなりました。事の真相を知ったジョアンナは、ベーアマンが描いた最後の一葉こそが、彼の生涯の最高傑作だと言って評価する、というお話です。オー・ヘンリーを知る上で非常に重要な作品で、日本でも教科書や絵本などに採用され、よく知られた作品です。
オー・ヘンリーは1907年に再婚し、娘とともに新しい生活に入りますが、過度の飲酒により肝臓病を患ってしまい、1910年6月5日に肝硬変により没しました。筆名の"オー・ヘンリー(O. Henry)"という名の由来としては、服役したオハイオ刑務所“Ohio Penitentiary”から来ている説や、Orrin Henryという人物(逃亡中に出会った窃盗犯、あるいは刑務所の看守の名のいずれか)から来ている説など、諸説あります。
参考文献:「青空文庫 オー・ヘンリー」
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2018年09月10日
9月10日は何に陽(ひ)が当たったか?
Stuart Adamson(vo,gtr,key。スチュアート・アダムソン。2001年没)、Bruce Watson(gtr,vo。ブルース・ワトソン)、Tony Butler(bass, vo。トニー・バトラー)、Mark Brzezicki(drums,vo。マーク・ブレゼジッキー)の4人がメンバーで、スコットランドのダンファームリンで結成されたグループです。彼らはデビュー作"The Crossing(邦題:インナ・ビッグ・カントリー)"では制作途中にプロデューサーをChris Thomas(クリス・トーマス)からSteve Lillywhite(スティーヴ・リリーホワイト)に交代するほどの入念ぶりで、UKでは、"Harvest Home"、"Fields of Fire (400 Miles)" 、"In a Big Country"、"Chance"の順にシングル・リリースし、UKチャートではそれぞれ順に91位、10位、17位、9位とヒットを記録し、"Chance"が最高位を記録しましたが、"Fields of 〜"が最も長くチャートインしました(14週)。
Big CountryはE-Bowを使ってバグパイプやバイオリンの音を出すギター奏法などオリジナリティー溢れたサウンドで知られ、当時アメリカのロック界でもたちまち大きな注目を集めて、最初に飛びついたのがこの"In a Big Country"です。
"In a Big Country"のプロモーション・ビデオでは身体を張ったメンバーの役作りが見所で、宝探しに出たメンバーが、三輪バイクやエンジン付ゴムボートを乗りこなし、さらにはウェットスーツを着てダイビング、崖からのロープワーク、あるいはライバルとして宝を狙う女性にパンチを食らったりする場面があり、最後はなぜかライバル同士のはずだったStuartと女性が仲良くなって(あるいはもともと知り合いの設定か?)抱き合うというオチが付くという、メンバーの演奏と合わせてコミカルに展開していく痛快なビデオになっています。
さて、Billboard HOT100シングルチャートでは12月3日付で17位を記録し、15週チャートインし、Big Countryの出世作となりましたが、ロック・フォーマット中心のTop Tracks chartでは、陽の当たった1983年9月10日に24位でエントリーを果たしました。ロック・チャートはアクションが激しいのはよくあることですが、この曲も例外ではなく、次週19位に上がったと思えば、次は26位、続いて12位→18位→13位と上がり下がりを繰り返し、10月22日付で一気に3位まで上昇、これが最高位となり翌週は6位、その後5位→8位→6位→7位→8位→15位...と下降していき、結果22週チャートイン、Top10内に7週とどまる健闘ぶりをみせました。
なお、"In a Big Country"は全米ダンスチャート(現在のBillboard Dance Club Songs chart)にも顔をのぞかせて、1983年10月15日付で37位を記録しています。アルバム"The Crossing"は、UKアルバムチャートでは3位でプラチナ・ディスク、Billboard200アルバムチャートでは18位のゴールド・ディスクを記録しています。
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2018年09月09日
9月9日は何に陽(ひ)が当たったか?
11世紀初め、デンマーク原住のノルマン系デーン人の首長クヌート(カヌート。クヌーズ。995?-1035)がイングランド征服を達成(1016)、同年イングランド王に即位して(位1016-35)、デーン朝(1016-42)をおこします。その後デンマーク王位をも継承したクヌートは(位1018-35)、ノルウェーやスウェーデンの一部も支配して、イングランド、スコットランドの一部、そして本拠デンマークを併せた"北海帝国"を建設、クヌート王も、デーン人における"大王"として君臨しました。しかし、この栄光も相続争いから3代で終わり、"北海帝国"はあっけなく崩壊、デーン朝も終わり、ノルマン系民族のイングランド制服は終わり、アングロ・サクソン(イングランドの基礎を築いたゲルマン部族)のウェセックス家、エドワード・ザ・コンフェッサー(懺悔王。証聖王。位1042-66)が王位に就き、旧来のアングロ=サクソン王家が復活しました(ウェセックス朝。1042-66)。
エドワード懺悔王は、フランスのノルマンディーで養育され、ノルマンディー公国(911-1259)を統治するノルマンディー公の宮廷から帰国して即位した人物で、修道院のあとにウェストミンスター大聖堂をロマネスク様式で建て替えるなどして篤い信仰心を示し、後に聖人として列せられることから、"証聖王"とも呼ばれます。しかし、政治的には無能であり、ウェセックスのゴドウィン伯(987?-1053)の娘エディス(1020?-1075)を妃としたものの、ノルマンディー出身の貴族を重用したため、ゴドウィンから非難を浴びました。
その内容とはノルマンディー貴族を大量にイングランドに移住させたことが原因で、イギリス国内でフランス文化が流入されて、これが社会や日常生活に大きな影響を与えたということです。これは、現在でも多くの名残となっており、例えば、言語においても、当時ノルマンディー公国の方言がイングランドで使われていましたので(ノルマン・フレンチといいます)、被征服地イングランドで育てられたcow(牛)・pig(豚)などは、食用する征服地ノルマンディーでは豚の肉をpork、牛の肉をbeefと、別語として表現しています。動物とその食用とする肉の言葉が派生せずに生まれているのです。ウェセックス王家にしてみれば、これほどの屈辱はありませんでした。
この内紛は、国内を動揺させ、ノルマンディー公国も関心を寄せました。この時のノルマンディー公はギョーム2世(ノルマンディー公ウィリアム。公位1035-1087)という人物で、エドワード懺悔王の又従兄弟にあたり、ノルマンディーを優先するエドワードから、王位継承の約束を受けていました。
1053年、ゴドウィン没後は子ハロルド(1022?-1066)がウェセックス伯を継承しました。1066年、"証聖王"が没し、義弟にあたるハロルドが異母兄でノーサンブリア伯のトスティーグ(1026?-66)をはねのけ、イングランド王ハロルド2世として王位に就きました(位1066)。このことに強い恨みを持った兄トスティーグはノルウェー王国に支援を要請します。ノルウェー王ハーラル(位1046-66)は、エドワード懺悔王統治下のイングランド情勢を見て、王没後にイングランド侵攻を決めていたようで、トスティーグからの支援を口実に、同1066年、イングランド北部の要衝ヨークに大軍を送り込みました。
一方ノルマンディー公国においても、ノルマンディー公ウィリアムにより、エドワードの生前に交わした王位継承の約束を口実に、イングランド侵攻を計画していましたが、同年、遂に決心し、1万の兵を率いてイングランド南部のドーヴァー海峡にあるヘースティングズに上陸を開始しました。ノルマン人による大征服活動が遂に動き出したのです。
ハロルド軍は、まずスタンフォード・ブリッジの戦いでトスティーグとハーラル王を戦死させて、これを撃破しました。ハロルド軍はそのまま南下して、次の相手、ノルマンディー公ウィリアムの軍とヘースティングズで激突しました。これが1066年のヘースティングズの戦いです。アングロ・サクソン歩兵軍対ノルマン騎士軍の、歴史を変えた戦いが始まりました。
ノルマンディー公ウィリアムの騎士軍は、ハロルドの歩兵軍の猛攻で苦戦を強いられます。そして、ウィリアム軍が撤退する動きを見せたので、ハロルド軍は戦局決定とみなし、軍は散開しました。ところが、これを見届けたウィリアム騎士軍が、撤退から一転、反撃に出て、勝利を酔いしれてすでに戦意を失っているハロルド軍を次々と撃破、遂にハロルドを戦死させることに成功したのです。この戦争は、タペストリー(つづれ織り)として描かれ、現在のフランス・ノルマンディーにあるバイユー市立美術館に保存されています。
1066年末(クリスマス)、ウィリアムはウェストミンスター大聖堂にて、イングランド王ウィリアム1世として戴冠(位1066-87)、ノルマン朝が創始されました(1066-1154)。これにて、アングロ・サクソンのイングランドは、異民族であるノルマン人により支配され、ノルマンの征服(ノルマン・コンクェスト)が実現したのです。
ウィリアム1世は、ヘースティングズで敗退した諸侯の領土を没収して配下に与え、アングロ・サクソン貴族の反乱を鎮圧して、フランスで行われている封建制・荘園制を導入、また税制では検地を行ってドゥームズディ・ブック(土地調査簿)を編集させました(1085-86)。そして、カンタベリ大司教を王自ら任命、1086年、全領主をソールズベリに集めて忠誠を誓わせました(「ソールズベリ誓約」)。ウィリアム1世は、落馬がもとで翌1087年9月9日に没し、彼を含めてノルマン朝は4代続きました。
バイユー市立美術館には、先に述べたとおり、ノルマン・コンクェストについて織り出されたタペストリー(つづれ織り)が多く保管されており、前述のヘースティングズの戦いの場面なども細やかに描出されていますが、ノルマン・コンクェストが実現してノルマン朝がおこされた1066年は、ハレー彗星が地球に接近した年でもあって、これもタペストリーで見ることができます(その画像がこちら。右上に見える宇宙船みたいな物体です。詳細はこちら。Wikipediaより)。
引用文献:『世界史の目 第94話』より
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2018年09月08日
9月8日は何に陽(ひ)が当たったか?
当初Dennisはソロ・アルバムを作る予定はなかったらしく、常にStyxというグループの活動に入念していたかったと言われています。1983年にリリースされたStyxのスタジオ・アルバム、"Kilroy Was Here(邦題:ミスター・ロボット)"のツアーは、ロック・オペラにも通じるシアトリカルなステージでサウンドを立体的に具現化した大規模なもので、Dennis DeYoungのStyxに専心していたこともこのライブ模様を収録した"Caught in the Act(邦題:スティクス・ライヴ)"およびそのビデオ(DVD)からも確認できます。
結果的には"Desert Moon"とほぼ同時期にStyxの"Caught in the Act"もリリースされ、Dennis DeYoungはソロとグループとの同時並行で動いていました。しかし実際は、1984年1月にレコーディングされた同ライブアルバムからのファースト・シングル、"Music Time(邦題:ミュージック・タイム)"をめぐる一連の騒動(詳細はこちら)があり、同時期にメンバーのTommy Shaw(トミー・ショウ。vo,gtr)がソロ・デビュー・アルバム"Girls with Guns(邦題:ガールズ・ウィズ・ガンズ)"の制作をはじめ、さらにはグループのもう一人のギタリスト、James [JY] Young(ジェームズ・ヤング。JY。vo,gtr)もプラハ出身のミュージシャン、Jan Hammer(ヤン・ハマー)とコラボ・アルバム"City Slicker(邦題:シティ・スリッカー)"の制作準備に入ることから(1985年リリース)、1984年前半でStyxは活動が休止状態となっていたのです。Dennisの"Desret Moon"とStyxの"Caught in the Act”が1984年8月にリリース後、Tommyの"Girls with Guns"は同年10月、JYの"City Slicker"は翌1985年リリースであったものの、この年の秋には早くもTommyのセカンド・ソロ・アルバム、"What If(邦題:ホワット・イフ)"が登場しており、メンバーのソロ活動が目立ちはじめたことから、この当時はStyxが解散したのかと騒がれたこともありました。
ソロアルバム"Desret Moon"を制作するにあたり、Dennis DeYoungはStyxにはなかった音楽を生み出そうとしていたようで、Tom Dziallo(gtr,bass)、Tom Radtke(Drums)、Steve Eisen(conga, sax)、Dennis Johnson(bass)といった、Dennisの出身地であるシカゴのミュージシャンを集め、またStyxのアルバム制作に大きく関わったGary Loizzoや、Dennisの妻Suzanne DeYoungらもバック・ヴォーカルで参加しました。さらにはゲスト・ヴォーカリストとしてはロック・バンドTantrumのヴォーカリスト、Sandy Caulfieldや、日本では国内映画の主題歌を歌い有名になったRosemary Butler(ローズマリー・バトラー)などが顔をそろえ、Dennisのセルフ・プロデュースでレコーディングが行われました。そして良質のポップ・ロック・アルバム"Desert Moon"が完成、タイトル曲"Desert Moon"がシングル・ヴァージョンとしてリリースされました。
シングル"Desert Moon"は、過去にStyxで歌われたヒット・バラードに匹敵する強力なバラードですが、Styxらしさはあまり感じられず、Dennisのオリジナリティー溢れた爽やかなバラードです。プロモーション・ビデオもノスタルジックを感じさせる味わい深い仕上がりです(映像はこちら。youtubeより)。
そのせいか、メインストリームロックチャート(当時はTop Rock Tracks)では縁が薄かったと言わざるを得ませんでした。陽の当たった9月8日に53位で初登場以後は、37位→36位→33位→31位→31位→35位→42位と、10月6日から2週続いた31位が最高位で、8週のチャートインに終わりました。ただ別の角度から見れば、ポップスとして受け止められても、ロック・チャートにも8週間ランクインされるほど人気があったとも言えます。
しかしBillboard HOT100シングルチャートでは1984年11月10日付で10位にランクし、Styxのメンバーとしては当時最大のソロ・ヒットとなりました。そしてヒット・ポップスの本場Adult Contemporaryチャートではやはり強く、同じく11月10日から2週続けて4位を記録、18週チャートインしています。
余談ですが、この曲は日本語カヴァー・ヴァージョンも存在しており、シンガーソングライターの谷山浩子さんが歌っています。これはドラマの主題歌として使われました。
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2018年09月07日
9月7日は何に陽(ひ)が当たったか?
フランス国王として即位したフィリップ4世(位1285-1314)は、強力な中央集権化を貪欲にもとめました。これまで官僚には聖職者が存在しましたが、それらを退けてローマ法に通じる法曹界からの採用を促し、官僚制度を強化しました。また対外戦争の戦費負担で財政が逼迫し、税制改革を施す必要があったため、聖職者への課税を決めることになりました。
これまでは免税とされてきた聖職者でしたが、官僚を外された上に免税権も廃されるとなると、もはや一般市民階級と同様であり、当時のローマ教皇であるボニファティウス8世(位1294-1303。ローマ南東のアナーニ出身)は断固として反対し、1296年に教皇勅書"クレリキス・ライコス("俗人は聖職者に")"を発表して、教皇の許可なくして聖職者の課税を認めませんでした。しかし国王フィリップ4世はこれに動じず、教皇庁への献金を停止しで対抗しました。
ボニファティウス8世はウルトラモンタニスト(教皇至上主義者)であり、王権が教皇権を凌ぐことは絶対許されないとしていました。落ちかけている教皇の権威を取り戻すため、1300年、初めて「聖年(ローマ・カトリック教会における、ローマへ巡礼できることの、特別の赦しを与えた年)」を規定しました。ボニファティウス8世はこの聖年制定でローマに巡礼者を集めることで、多額の浄財を得ることができ、ローマ教皇の威信回復に尽力しました。また国王支持派のローマの有力諸侯だったコロンナ家と争い、結果彼等を破門にして所領を奪うなど、財政難で苦しむフランス国王をよそに、ボニファティウス8世の勢力は安定していくかに見えました。
しかし教皇権回復も束の間でありました。フィリップ4世は、無礼な言動をとったボニファティウス8世の使節を逮捕し、裁判にかけたのです(1301)。ボニファティウス8世はこの経緯についてするどく非難しました。これを受けたフィリップ4世は、ローマ教皇と対立する姿勢を示して、教皇の豪勢な生活や異端性のある言動など、逆に教皇を非難したことで、フランス国民の教皇に対する不支持勢力の増大化につながりました。そこで、絶妙のタイミングとなる1302年4月、パリのノートルダム大聖堂に聖職者・貴族・平民の代表からなる身分制合同会議、いわゆる三部会を初めて開催しました。この画期的な身分制議会開催によってフィリップ4世の支持が急上昇、伝統を重んじて聖職者階級の特権を主張するローマ教皇への非難が集中することになります。
フィリップ4世の反撃に対しボニファティウス8世は、1302年11月、教皇勅書"ウナム・サンクタム(唯一の聖なるもの)"を発表、至上なるものは(王権ではなく)教皇権であると主張し、フィリップ4世へ破門を突きつけました。しかし、フィリップ4世は、宰相を通じて以前破門された国王支持派であるコロンナ家と結び、ローマに軍を送らせました。破門の苦しみを味わい、財産を奪われたコロンナ家の教皇に対する怨恨は大きく、フィリップ4世側を支援することになったのです。そして陽の当たった1303年9月7日、ボニファティウス8世はローマを出て生まれ故郷のアナーニの別荘に逃亡中のところ、軍に取り押さえられ、軍は教皇を逮捕しました。アナーニ市民の教皇支持者によって助け出されましたが、国王から受けた人生最大の侮辱と屈辱は教皇の体をむしばみ、数週間後に興奮のあまり没することになります。これがアナーニ事件です。
フィリップ4世は教皇庁が王権でもって機能が動くようになったことで、教皇庁をローマからフランス南東部のアヴィニョン(ローヌ川にかかるサン・ベネゼ橋で有名)への移転を実行しました。これにより、70年近く、ローマに教皇および教皇庁が消え失せる事態となり、フランスにしてみれば、ローマ教皇ならぬ、"アヴィニョン教皇"の誕生を意味しました。この教会組織のアヴィニョンへの強制移転のことを、古代ユダヤ民族が新バビロニア(B.C.625-B.C.539)に強制移住させられた故事になぞらえ、"教皇のバビロン捕囚(1309-1377)といい、約70年近く、ローマ・カトリック教会およびローマ教皇は、フランス君主のもとで管理されることになりました。
引用文献:『世界史の目 第175話』より
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2018年09月06日
9月6日は何に陽(ひ)が当たったか?
当時Don Johnsonは、1984年からNBCで制作された刑事ドラマ"Miami Vice(邦題:特捜刑事マイアミ・バイス)"のJames "Sonny" Crockett(ジェームズ・ソニー・クロケット)役として出演していました。このドラマは1989年まで5シーズン続いた大ヒット作で、彼の知名度をいっきに押し上げた作品として広く知られています。
Don Johnsonはドラマのヒットにより音楽にも進出を試み、ロック・アルバムの制作にとりかかりました。Donは以前より音楽界の交流も深く、アメリカのサザン・ロック・グループ、The Allman Brothers Band(オールマン・ブラザーズ・バンド)がリリースした1979年のアルバム、"Enlightened Rogues(邦題:いま、再び)"の中で、Donは収録曲の"Can't Take It With You(邦題:キャント・テイク・イット・ウィズ・ユー)"と"Blind Love(ブラインド・ラヴ)"を、グループのメンバーであるDickey Betts(ディッキー・ベッツ。gtr,vo)と共作しており、"Can't Take It With You"はシングルとしてもリリースされました。これが縁で今回Donのアルバム制作にもDickeyがギタリストとして参加しました。
このアルバムにはDicky Bettsだけでなく、多彩なミュージシャンが参加しており、Stevie Ray Vaughan(スティーヴィー・レイ・ヴォーン。Double Trouble), Ron Wood(ロン・ウッド。Rolling Stones), Dweezil Zappa(ドゥイーズィル・ザッパ。Frank Zappaの息子)、Bill Champlin(ビル・チャンプリン。Chicago)、Tamara Champlin(タマラ・チャンプリン。Billの妻)、Bonnie Raitt(ボニー・レイット)、Willie Nelson(ウィリー・ネルソン)、Tom Petty(トム・ペティ)、Bob Seger(ボブ・シーガー)といった錚々たる面々がソングライティングやレコーディングに加わり、力強いロック・ナンバーからアダルト・コンテンポラリー系のポップスまで幅広いナンバーがズラリと並びました。"Heartbeat"にはBillとTamaraのChamplin夫妻がバッキング・ヴォーカルとして参加しています。
1986年9月にアルバム"Heartbeat(邦題:ハートビート)"がリリースされ、ファースト・シングルとしてタイトル曲の"Heartbeat"がカットされました。この曲はカバー・ソングで、オリジナルはオーストラリアのシンガー、Helen Reddy(ヘレン・レディ)が1983年にリリースしたアルバム"Imagination"のラストに収められていたナンバーです。Helenの"Heartbeat"はややダンサブルなポップ・ソング(ただしHelenにしてはロック寄り)だったのに対し、Donの"Heartbeat"はエネルギッシュで男気あるロック・ナンバーとなりました。ドラマ仕立てのプロモーション・ビデオも話題になり、本職である俳優として、またロック・ヴォーカリストとしての、2つのDon Johnsonの姿を同時に披露し、格好良いビデオに仕上がりました。
8月23日付HOT100で67位にエントリーしたこの曲は、翌週46位にジャンプアップ、陽の当たった9月6日付チャートで、3週目にして36位とTop40入りを果たしたのです。その後30位→20位→14位→12位と順当にアップし、8週目にして7位とTop10入り、10月18日付で最高位の5位まで上がり、2週続けて記録しました。その後は下降しましたが、ダウンが急降下であったため(14位→28位→50位→71位→100位)、15週チャートインにとどまり、1986年のYear-EndチャートにおいてもTop10入りしたにもかかわらず100以内14~15週あたりがボーダーとなりチャートインしませんでした。しかし同年、同じ15週で5位が最高位となったDaryl HallのDreamtime(邦題:ドリームタイム)は94位にランクインしております。ちなみにアクションは、54位→44位→39位→28位→23位→14位→12位→9位→6位→5位→10位→17位→34位→61位→91位で、Top40内およびTop10内ではDarylがDonよりそれぞれ1週多いのがポイントになったのかどうかは分かりませんが、1週のみ5位だった"Dreamtime"に対し、2週連続5位の"Heartbeat"がランクインしなかったのは疑問です(しかし"Dreamtime"も個人的には大好きな曲ではあるのでランクインは嬉しいです)。
なお"Heartbeat"はメインストリームロックチャート(当時はAlbum Rock Tracks)では26位まで上がったほか、この曲はアメリカにとどまらず、ヨーロッパではオランダで10位、スイスで6位、ノルウェーで5位、オーストリアで3位をそれぞれ獲得し、Don Johnsonは俳優業だけでなく音楽業においても大健闘しました。
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2018年09月05日
9月5日は何に陽(ひ)が当たったか?
Glenn Tilbrook(グレン・ティルブルック。vo,gtr)とChris Difford(クリス・ディフォード。gtr,vo,)、Jools Holland (ジュールズ・ホランド。key)ら6人(当時)からなる、個性溢れたポップ集団の7枚目のスタジオ・アルバム"Babylon and On(邦題:バビロン・アンド・オン)"からの先行シングルで、アメリカでは1981年のPaul Carrack(ポール・キャラック。vo,key)在籍時のヒット曲"Tempted"がBillboard HOT100シングルチャートで、49位を記録して以来、100位以内にチャートインしていませんでした(ちなみにメインストリームロックチャートでは1981年8月8日付で8位を記録。まさに"8づくし")。
"Hourglass"は軽快で馴染みやすいポップ・ソングですが、この曲の特筆すべき点はAde Edmondson監督によるプロモーション・ビデオであり、大きな話題を集めました。錯視(オプティカル・イリュージョン)をカメラのトリックで利用し、大きく見えるものが小さかったり、直立しているかと思えば倒立していたり、上り階段かと思えば下り階段であったり、再生かと思えば逆再生であったり、ギターやドラムスティックかと思えばグニャッと曲がる模造品であったり、鏡かと思えば水であったり、大きい電話かと思えば、やっぱり大きい電話だったり等、最初から最後まで見所が多く、メンバーの演奏以上に楽しめる作品でした(その映像がこちら。youtubeより)。
このビデオ効果で、Squeezeは久々に全米でもチャート・アクションを見せました。陽の当たった1987年9月5日、Album Rock Tracksで43位にエントリーした"Hourglass"は、その後34位→34位→29位→25位→24位と上昇し、10付17日付の22位を2週続け、その後下降し、11週チャートインしました。8位を記録した"Tempted"のチャートアクションほどではありませんでしたが、むしろ勢いがあったのは総合チャートの方でした。全米HOT100シングルチャートでは初のトップ20入りを果たし、12月5日付で最高位15位、19週チャートインしたのです。前回の"Tempted"が49位でしたので、この"Hourglass"は全米で最もヒットしたナンバーになりました。この反響で次のシングル"853-5937"もHOT100では32位、Album Rock Tracksでも37位、また"Trust Me to Open My Mouth"もAlbum Rock Tracksで50位と、大きく飛躍したのです。
"Hourglass"はUKチャートでも16位を記録し、グループにとって1981年の"Labelled with Love(4位)"以来のTop20入りを果たしました。この効果でアルバム"Babylon and On"はUKアルバムチャートでは当時としては最高の14位(2015年に14作目"Cradle to the Grave"が12位で更新)、アメリカでもBillboard200アルバムチャートでは1982年の"Sweets from a Stranger(32位)"以来のTop40入り(36位)を果たしました。
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2018年09月04日
9月4日は何に陽(ひ)が当たったか?
395年にローマ皇帝テオドシウス1世(位379-395)が没しました。彼は遺言として、17歳の長男アルカディウス(377-408)と10歳の次男ホノリウス(384-423)に帝国を再び分割統治することを命じ、東側はコンスタンティノープルを首都とし、西側はミラノを首都とする東西のローマ帝国としての統治を継承しました。
これによってローマ帝国(紀元前27-紀元後395)は東西分裂、西は西ローマ帝国(395-476)、東は東ローマ帝国(395-1453。ビザンツ帝国)として別々の道を歩み始めました。
ローマ帝国の方を引き継いで、西ローマ皇帝となったホノリウス(位395-423)は政治には無能で、ゲルマン民族の侵入や横暴が激しかったため、テオドシウス帝の信頼が厚かったスティリコ将軍(365-408)が軍務と政務にあたりました。スティリコ将軍はゲルマン一派のヴァンダルの血を引いており(父がヴァンダル人、母はローマ人)、娘はホノリウスの妃でした。また同じくゲルマン一派の西ゴート族はアラリック王(位395-410)の下で強大化し、トラキア・マケドニア・ギリシア・イタリアを荒らし回りました。402年、西ローマは、アラリック王のイタリア侵攻の際にラヴェンナに遷都しましたが、イタリア全土は既に異民族の蹂躙によってかき回されていました。それでもスティリコはアラリックと対戦してアラリックを敗退させ、侵攻を再度にわたって阻止しました。この間ホノリウスはラヴェンナの宮廷に閉じこもったままでした。
官僚や元老院は、次々と軍功をあげていくスティリコを疎ましく思っていました。当初は皇帝も幼少であったため、スティリコを黙認せざるを得ませんでしたが、スティリコはヴァンダル族出身だけに、アリウス派(ローマ領内では異端とされ、領外のゲルマン民族が信仰したキリスト教宗派)を信仰している異端者というぬぐえないレッテルを貼られ続けました。遂に皇帝側近の反スティリコ派は、成人になったホノリウス政権を確立させるために、讒言によってスティリコを処刑、ホノリウス自身もこれを受け入れたのです(408年)。スティリコ没後、アラリックはイタリア侵攻を再開し、410年に一時的であるがローマ市を陥落させて、略奪行為を行いました。418年、西ゴート族はイベリア半島において、遂に独自の王国を樹立しました。これが西ゴート王国です(418-711)。
ホノリウス帝のこの体たらくにより皇帝の権威は失墜、その後もヴァンダル、ブルグント、フランクなどといった諸ゲルマン民族が次々と帝国内に入り込んでいきました。民族移動の影響が少なく、安定していた東ローマ帝国と違い、西ローマ帝国は次々と属州を奪われ、実質的に統治していたのはせいぜいローマ市中心のイタリア半島ぐらいでした。423年にはホノリウス帝が没し、その後の西ローマ皇帝も短命でした。このため、傭兵として雇われたゲルマン人が将軍となって、実質的に実権を握っていき、他ゲルマンの侵攻を阻止するという事態も一般化していきました。451年には民族大移動の原因をつくったフン族が、大王アッティラ(位433-453)の下で西ヨーロッパ侵攻を行い、西ローマ帝国は西ゴート、ブルグント、フランクらと連合軍を組んで戦って勝利を収めましたが(カタラウヌムの戦い)、西ローマの軍隊はすでにゲルマン人傭兵隊長が握る傾向にありました。傭兵隊長は皇帝の権威も動かし続け、西ローマ皇帝を追放し、自身の子を即位させることもありました。
476年、ゲルマン人傭兵隊長・オドアケル(433?-493)は、当時の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルス(位475-476)9月4日にを廃位させ、オドアケル自身はイタリア王位(476-493)を名乗ったことで、西ローマ帝国は滅亡となりました。
ローマ帝国衰亡史〈5〉第31‐38章―アッティラと西ローマ帝国滅亡 (ちくま学芸文庫) 新品価格 |
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2018年09月03日
9月3日は何に陽(ひ)が当たったか?
脱退したSteve Walsh(スティーヴ・ウォルシュ。vo,key)に代わってJohn Elefante(ジョン・エレファンテ)が加入し、新生Kansasとして1982年に発表された前作"Vinyl Confessions(邦題:ビニール・コンフェッション)"はBillboard200アルバムチャートで16位まで上がるカムバック・ヒットを放ち、シングル"Play The Game Tonight(邦題:プレイ・ザ・ゲーム・トゥナイト)"がBillboard HOT100チャート17位、Top Tracks chartで4位を記録して、Kansasの新たな黄金期が訪れるかと、大きな期待が寄せられました。
ところが、"Vinyl Confessions"のツアー終了後、Kansasのサウンドで重要なポストにいたヴァイオリニストのRobby Steinhardt(ロビー・スタインハート。vo,violin)がグループの脱退を表明したのです。"Vinyl Confessions"で見せた新生Kansasは、チャートの上でも誇れる記録であり、それまでKansasの顔であったSteve Walshの脱けた穴をJohn Elefanteが見事に埋めてくれたことで、このままの体制で続くかと思われた矢先の出来事でした。実は"Vinyl Confessions"の反響は思わぬ方向にも進んでいて、Kansasの新たな要John Elefanteのポップな作風や、Kansasの楽曲創作を手がけてきたメンバーのKerry Livgren(ケリー・リヴグレン。gtr,key)の書く宗教的な歌詞などに受けが良かったのか、キリスト教音楽界(Contemporary Christian music。CCM)でも人気が高揚し、CCMが発行するCCMマガジンでも1982年のベストアルバムと賞賛して、新たな聴衆層を獲得することになったのです。そもそもKansasはKerry LivgrenとSteve Walshで楽曲が作られ、曲を聴いただけで両者のどちらが書いた曲かがわかるほど極端でありましたが、それらのマッチングがあってこそのKansasの音楽で、そのメロディの代名詞的存在がRobbyのヴァイオリンでした。しかしSteveが脱けた当時は、Kerryの宗教観に理解できるメンバーとして選ばれたのがJohn Elefanteであり、彼のブレーンには兄のDino Elefante(ディノ・エレファンテ)ら強力なサポートがあり、この新風がKansasに吹き込むことによって新しいマッチングができたのです。これが新生Kansasでありました。
前作はRobbyのヴァイオリンが全盛期時代のKansasをしっかり残していた音でしたので、全盛期の音を楽しみながら、新しいKansasも聴くことができたのです。しかしこの新しいマッチングに耐えられず脱退を決心することになったRobbyの、ヴァイオリンなしで制作されることになった次作"Drastic Measures(邦題:ドラスティック・メジャーズ)"は、文字通りの"荒療治"となって世に登場したのでした。
1983年にリリースされた"Drastic Measures"は、全9曲中、Kerry Livgrenの書いた曲は3曲目"Mainstream(邦題:メインストリーム)"と最後の2曲"End of the Age(邦題:時の終焉)"、"Incident on a Bridge(邦題:或る橋の出来事)"の3曲のみで、あとの6曲はJohn Elefante、もしくはJohnとDino兄弟の共作でした。1曲目に収録された、今回のメインである"Fight Fire with Fire"もElefante兄弟の書いた作品でした。
確かにKerry Livgrenの書いた3曲などにも、Steve在籍時代のようなスリルあるドラマティックさが所々で散見できますが、全体を通しては過去のリリカルかつトリッキーな作風は消え失せた形で、叙情的なメロディを引き出すヴァイオリンが存在しないため、全体的にポップでストレートな当時人気の80年代風のロック・サウンドとなり、これまで以上に幅広い聴衆層が期待できるアルバムとなりました。しかし、この荒療治は新生Kansasにとって、かえって大きな岐路に立たされることになりました。
陽の当たった1983年9月3日、Billboard HOT100シングルチャートでファースト・シングルの"Fight Fire with Fire"が87位にエントリーしました。一度聴いたら忘れられないギターのリフが印象的なロック・ナンバーです。ドラマ仕立てで制作され、メンバーも俳優として出演したプロモーション・ビデオも話題になりました。そのアクションですが、87位の後は79位→71位→61位と順調に上がり、次の10月11日付で58位に上昇するも、これを最高位に翌週は78位、98位と下降し、まさかの7週で圏外に消えていきました。ただし、Top Tracks chartでは8月13日付で30位にエントリーして以降、次週18位→7位→5位→6位→5位→3位→11位→10位→15位→27位→47位→55位と13週チャートインし、動きの激しいロックチャートの中で8週Top10内にとどまり、しかも4位を記録した前作からの"Play The Game Tonight"の記録を塗り替えて、現時点でのKansasのメインストリームロックチャートでの最高位を記録したのです。
しかし肝腎の"Drastic Measures"は前作で得たCCMの反響も期待していたほど少なく、Billboard200アルバムチャートでも最高位41位と、厳しい結果となりました。よりソフトにポップな曲で勝負しようとカットされたセカンドシングル"Everybody's My Friend(邦題:エヴリバディズ・マイ・フレンド)"もTop Tracks chartで34位に送り込んだに過ぎず、ついにはメンバーの柱であったKerry LivgrenおよびベーシストのDave Hope(デイヴ・ホープ。bass)が脱退を表明してしまいました。
翌1984年にリリースされたベスト盤"The Best of Kansas(邦題:ベスト・オブ・カンサス)"は、そのジャケットに過去のアルバムのジャケットのシンボルがすべて使用されるという興味深いものでありましたが、アルバムチャート154位に終わりました。このベスト盤収録の、Elefante兄弟の作である新曲"Perfect Lover(邦題:パーフェクト・ラヴァー)"を、John Elefante、ドラマーのPhil Ehart(フィル・イハート。drums)、ギタリストのRich Williams(リッチ・ウィリアムス。gtr)、Dino Elefante(bass)そしてバック・ヴォーカリストにCCM系のアーチストでクリスチャン・ロック・バンド、Sweet Comfort Bandのヴォーカル兼キーボーディストのBryan Duncanを迎えて苦境を乗り切りましたが、メインストリームロックチャート(Top Rock Tracks)で54位に終わり、その後Kansasは初めての活動休止を決断することになりました。長い沈黙期間が訪れ、次の登場は1986年にSteve Walsh中心のメンバーで再結成アルバム"Power(邦題:パワー)"を引っさげて復活するまで待たなければなりませんでした。
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2018年09月02日
9月2日は何に陽(ひ)が当たったか?
共和政ローマ(B.C.509-B.C.27。B.C.=紀元前)末期の時代、ユリウス氏族出身でユリウス・カエサル(B.C.100-B.C.44)の養子、オクタウィアヌス(B.C.63-A.D.14。A.D.=紀元後)がこの海戦に勝利し、プトレマイオス朝エジプト(B.C.306-B.C.30)の併合(B.C.30)を実現させます。これによりローマ市民の支持を得て、帝政ローマ(B.C.27-A.D.395)誕生のきっかけとなりました。
紀元前43年、ローマで第二次三頭政治がおこされました。三頭はオクタウィアヌスをはじめ、カエサルの部将であったマルクス・アントニウス(B.C.83-B.C.30)、カエサルの補佐官だったマルクス・アエミリウス・レピドゥス(B.C.90-B.C.13)の3名によるもので、エジプト管理を受け持つことになったのはアントニウスでした。この時アントニウスは紀元前40年、オクタヴィアヌスの姉オクタウィア(B.C.69-B.C.11)と結婚しました。
この頃のプトレマイオス朝エジプトの女王はクレオパトラ(クレオパトラ7世。位B.C.51-B.C.30)で、弟のプトレマイオス14世(位B.C.47-B.C.44)と結婚して共同統治を始めていましたが、プトレマイオス14世は、当時プトレマイオス家の内紛に介入してクレオパトラを支持していたカエサルの傀儡にすぎず、実質はクレオパトラの単独政権をカエサルが後ろ盾した形でした。内乱平定後、カエサルはクレオパトラとより親密になり、すぐにはローマには帰還せず、エジプトにとどまり、紀元前47年にカエサルはクレオパトラとの間に子カエサリオン(B.C.47.6-B.C.30.8)をもうけたとされます(諸説有り)。これにより、クレオパトラはカエサルの立場を利用してローマにおいても知られていき、カエサルが紀元前44年に暗殺されるまでは、子カエサリオンとローマに滞在していたこともありました。
三頭政治でエジプトを任されたアントニウスは、エジプトに戻っていたクレオパトラと会見しました。クレオパトラはカエサル時代と同様の地位を維持するため、その美貌・美声と巧みな話術でアントニウスを手玉にとり、アントニウスはクレオパトラの魅惑に負けたといわれます。紀元前39年、クレオパトラはアントニウスとの子(双子。女児クレオパトラ・セレネ。B.C.39-A.D.6。アレクサンドロス・ヘリオス。B.C.39-B.C.20年代前半)を出産後、アントニウスをオクタウィアと離婚させて(B.C.37)、その後まもなくクレオパトラとアントニウスは結婚しました(異説も有ります)。それからアントニウスは東方遠征後を行いましたが、平定後もエジプトに入り浸り、祖国ローマを顧みることもありませんでした。彼女に魅了されたアントニウスは、クレオパトラにローマが持っていた東方属州の統治権を与えました(B.C.34)。これによりエジプトは東方諸地域の支配が拡大しました。こうしてアントニウスは、クレオパトラによって、完全に骨抜きにされてしまったのです。
紀元前36年のレピドゥス失脚後、ローマでの政治主導はオクタウィアヌスとアントニウスの競い合いでしたが、アントニウスのこうした状況から、オクタウィアヌスを筆頭にローマ市民はアントニウスを遂に見限り、両者間に大きな対立が生まれることになりました。この対立はローマ対エジプトといった国家間の対立へと発展していったのです。
エジプトを中心とする東方諸地域の支配権を手中に収めたアントニウスおよびクレオパトラ支持派と、イタリア半島と西方諸州の支配権を誇るオクタウィアヌス支持派との間に開戦が高まり、遂に陽の当たった紀元前31年9月2日、ローマとイオニア海(イタリア半島南部・ギリシャ・アルバニアに挟まれた海域)のアクティウム沖で海戦が始まりました。この海戦の勝者は地中海世界の統一をも意味し、オクタウィアヌス支持派か、アントニウスおよびクレオパトラ支持派のいずれかに、その覇権が渡るという歴史的な戦いとなりました。これがアクティウムの海戦(B.C.31.9.2)です。
戦力はややアントニウス・クレオパトラ連合軍が上回っていましたが、オクタウィアヌスの軍隊では有能な海軍指揮官マルクス・アグリッパ(B.C.63-B.C.12)に助けられて、徐々にオクタウィアヌスの軍が優勢に転じました。一方で、クレオパトラ率いるエジプト艦隊が早々と戦線離脱し、クレオパトラはアントニウスを捨てて戦場を後にしました。アントニウスは自身の部下を置き去りにして、クレオパトラの後を追ってエジプトのアレクサンドリアへ敗走したため、残されたアントニウス・クレオパトラ連合軍は壊滅、この大海戦はオクタウィアヌス軍が勝利を収めました。ローマを見捨て、エジプトの女にうつつを抜かしたアントニウスに、かつてローマが誇った大将軍の面影は、ローマ市民には全く映るはずもなく、オクタウィアヌスこそ新しいローマの救世主であると絶賛したのです。
アクティウムの海戦に敗北したアントニウスは、敗走の途中、愛するクレオパトラ自殺の報告を聞いたため絶望に陥り、自ら命を絶つことを決意、自身に刃を入れました。しかしクレオパトラ自殺は誤報であり、アントニウスはまだ息のある状態で彼女のもとに運ばれ、彼女の腕に抱かれながら息を引き取ったと言われています(B.C.30.8.1)。
アントニウスを失ったクレオパトラも、敗戦により支持を失い、オクタウィアヌスに投降することを拒んで、若いカエサリオンを残し、毒蛇に自身の胸を噛ませて自殺しました(B.C.30.8.12。自殺内容には諸説有り)。オクタウィアヌスは、クレオパトラがアントニウスと同じ墓に埋葬されることを希望したことを理解し、これを受け入れました。子のカエサリオンもカエサル後継者という理由で、オクタウィアヌスの命により殺害されました。
これにより、エジプトはローマの支配地に組み込まれ、プトレマイオス朝エジプトは滅亡しました。アントニウスの子どもは、先妻のオクタウィアに養育されることになりました。地中海世界の覇権を握ったオクタウィアヌスは、"アウグストゥス(尊厳者)"として帝位に就き(帝位B.C.27-A.D.14)、ローマ帝政(B.C.27-A.D.395)を開始、ローマ帝国(B.C.27-A.D.395)の時代が到来するのです。
引用文献:『世界史の目 第187話』"アクティウムの海戦"の項より。
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