2018年09月02日
9月2日は何に陽(ひ)が当たったか?
紀元前31年9月2日は、アクティウムの海戦が行われた日です。
共和政ローマ(B.C.509-B.C.27。B.C.=紀元前)末期の時代、ユリウス氏族出身でユリウス・カエサル(B.C.100-B.C.44)の養子、オクタウィアヌス(B.C.63-A.D.14。A.D.=紀元後)がこの海戦に勝利し、プトレマイオス朝エジプト(B.C.306-B.C.30)の併合(B.C.30)を実現させます。これによりローマ市民の支持を得て、帝政ローマ(B.C.27-A.D.395)誕生のきっかけとなりました。
紀元前43年、ローマで第二次三頭政治がおこされました。三頭はオクタウィアヌスをはじめ、カエサルの部将であったマルクス・アントニウス(B.C.83-B.C.30)、カエサルの補佐官だったマルクス・アエミリウス・レピドゥス(B.C.90-B.C.13)の3名によるもので、エジプト管理を受け持つことになったのはアントニウスでした。この時アントニウスは紀元前40年、オクタヴィアヌスの姉オクタウィア(B.C.69-B.C.11)と結婚しました。
この頃のプトレマイオス朝エジプトの女王はクレオパトラ(クレオパトラ7世。位B.C.51-B.C.30)で、弟のプトレマイオス14世(位B.C.47-B.C.44)と結婚して共同統治を始めていましたが、プトレマイオス14世は、当時プトレマイオス家の内紛に介入してクレオパトラを支持していたカエサルの傀儡にすぎず、実質はクレオパトラの単独政権をカエサルが後ろ盾した形でした。内乱平定後、カエサルはクレオパトラとより親密になり、すぐにはローマには帰還せず、エジプトにとどまり、紀元前47年にカエサルはクレオパトラとの間に子カエサリオン(B.C.47.6-B.C.30.8)をもうけたとされます(諸説有り)。これにより、クレオパトラはカエサルの立場を利用してローマにおいても知られていき、カエサルが紀元前44年に暗殺されるまでは、子カエサリオンとローマに滞在していたこともありました。
三頭政治でエジプトを任されたアントニウスは、エジプトに戻っていたクレオパトラと会見しました。クレオパトラはカエサル時代と同様の地位を維持するため、その美貌・美声と巧みな話術でアントニウスを手玉にとり、アントニウスはクレオパトラの魅惑に負けたといわれます。紀元前39年、クレオパトラはアントニウスとの子(双子。女児クレオパトラ・セレネ。B.C.39-A.D.6。アレクサンドロス・ヘリオス。B.C.39-B.C.20年代前半)を出産後、アントニウスをオクタウィアと離婚させて(B.C.37)、その後まもなくクレオパトラとアントニウスは結婚しました(異説も有ります)。それからアントニウスは東方遠征後を行いましたが、平定後もエジプトに入り浸り、祖国ローマを顧みることもありませんでした。彼女に魅了されたアントニウスは、クレオパトラにローマが持っていた東方属州の統治権を与えました(B.C.34)。これによりエジプトは東方諸地域の支配が拡大しました。こうしてアントニウスは、クレオパトラによって、完全に骨抜きにされてしまったのです。
紀元前36年のレピドゥス失脚後、ローマでの政治主導はオクタウィアヌスとアントニウスの競い合いでしたが、アントニウスのこうした状況から、オクタウィアヌスを筆頭にローマ市民はアントニウスを遂に見限り、両者間に大きな対立が生まれることになりました。この対立はローマ対エジプトといった国家間の対立へと発展していったのです。
エジプトを中心とする東方諸地域の支配権を手中に収めたアントニウスおよびクレオパトラ支持派と、イタリア半島と西方諸州の支配権を誇るオクタウィアヌス支持派との間に開戦が高まり、遂に陽の当たった紀元前31年9月2日、ローマとイオニア海(イタリア半島南部・ギリシャ・アルバニアに挟まれた海域)のアクティウム沖で海戦が始まりました。この海戦の勝者は地中海世界の統一をも意味し、オクタウィアヌス支持派か、アントニウスおよびクレオパトラ支持派のいずれかに、その覇権が渡るという歴史的な戦いとなりました。これがアクティウムの海戦(B.C.31.9.2)です。
戦力はややアントニウス・クレオパトラ連合軍が上回っていましたが、オクタウィアヌスの軍隊では有能な海軍指揮官マルクス・アグリッパ(B.C.63-B.C.12)に助けられて、徐々にオクタウィアヌスの軍が優勢に転じました。一方で、クレオパトラ率いるエジプト艦隊が早々と戦線離脱し、クレオパトラはアントニウスを捨てて戦場を後にしました。アントニウスは自身の部下を置き去りにして、クレオパトラの後を追ってエジプトのアレクサンドリアへ敗走したため、残されたアントニウス・クレオパトラ連合軍は壊滅、この大海戦はオクタウィアヌス軍が勝利を収めました。ローマを見捨て、エジプトの女にうつつを抜かしたアントニウスに、かつてローマが誇った大将軍の面影は、ローマ市民には全く映るはずもなく、オクタウィアヌスこそ新しいローマの救世主であると絶賛したのです。
アクティウムの海戦に敗北したアントニウスは、敗走の途中、愛するクレオパトラ自殺の報告を聞いたため絶望に陥り、自ら命を絶つことを決意、自身に刃を入れました。しかしクレオパトラ自殺は誤報であり、アントニウスはまだ息のある状態で彼女のもとに運ばれ、彼女の腕に抱かれながら息を引き取ったと言われています(B.C.30.8.1)。
アントニウスを失ったクレオパトラも、敗戦により支持を失い、オクタウィアヌスに投降することを拒んで、若いカエサリオンを残し、毒蛇に自身の胸を噛ませて自殺しました(B.C.30.8.12。自殺内容には諸説有り)。オクタウィアヌスは、クレオパトラがアントニウスと同じ墓に埋葬されることを希望したことを理解し、これを受け入れました。子のカエサリオンもカエサル後継者という理由で、オクタウィアヌスの命により殺害されました。
これにより、エジプトはローマの支配地に組み込まれ、プトレマイオス朝エジプトは滅亡しました。アントニウスの子どもは、先妻のオクタウィアに養育されることになりました。地中海世界の覇権を握ったオクタウィアヌスは、"アウグストゥス(尊厳者)"として帝位に就き(帝位B.C.27-A.D.14)、ローマ帝政(B.C.27-A.D.395)を開始、ローマ帝国(B.C.27-A.D.395)の時代が到来するのです。
引用文献:『世界史の目 第187話』"アクティウムの海戦"の項より。
共和政ローマ(B.C.509-B.C.27。B.C.=紀元前)末期の時代、ユリウス氏族出身でユリウス・カエサル(B.C.100-B.C.44)の養子、オクタウィアヌス(B.C.63-A.D.14。A.D.=紀元後)がこの海戦に勝利し、プトレマイオス朝エジプト(B.C.306-B.C.30)の併合(B.C.30)を実現させます。これによりローマ市民の支持を得て、帝政ローマ(B.C.27-A.D.395)誕生のきっかけとなりました。
紀元前43年、ローマで第二次三頭政治がおこされました。三頭はオクタウィアヌスをはじめ、カエサルの部将であったマルクス・アントニウス(B.C.83-B.C.30)、カエサルの補佐官だったマルクス・アエミリウス・レピドゥス(B.C.90-B.C.13)の3名によるもので、エジプト管理を受け持つことになったのはアントニウスでした。この時アントニウスは紀元前40年、オクタヴィアヌスの姉オクタウィア(B.C.69-B.C.11)と結婚しました。
この頃のプトレマイオス朝エジプトの女王はクレオパトラ(クレオパトラ7世。位B.C.51-B.C.30)で、弟のプトレマイオス14世(位B.C.47-B.C.44)と結婚して共同統治を始めていましたが、プトレマイオス14世は、当時プトレマイオス家の内紛に介入してクレオパトラを支持していたカエサルの傀儡にすぎず、実質はクレオパトラの単独政権をカエサルが後ろ盾した形でした。内乱平定後、カエサルはクレオパトラとより親密になり、すぐにはローマには帰還せず、エジプトにとどまり、紀元前47年にカエサルはクレオパトラとの間に子カエサリオン(B.C.47.6-B.C.30.8)をもうけたとされます(諸説有り)。これにより、クレオパトラはカエサルの立場を利用してローマにおいても知られていき、カエサルが紀元前44年に暗殺されるまでは、子カエサリオンとローマに滞在していたこともありました。
三頭政治でエジプトを任されたアントニウスは、エジプトに戻っていたクレオパトラと会見しました。クレオパトラはカエサル時代と同様の地位を維持するため、その美貌・美声と巧みな話術でアントニウスを手玉にとり、アントニウスはクレオパトラの魅惑に負けたといわれます。紀元前39年、クレオパトラはアントニウスとの子(双子。女児クレオパトラ・セレネ。B.C.39-A.D.6。アレクサンドロス・ヘリオス。B.C.39-B.C.20年代前半)を出産後、アントニウスをオクタウィアと離婚させて(B.C.37)、その後まもなくクレオパトラとアントニウスは結婚しました(異説も有ります)。それからアントニウスは東方遠征後を行いましたが、平定後もエジプトに入り浸り、祖国ローマを顧みることもありませんでした。彼女に魅了されたアントニウスは、クレオパトラにローマが持っていた東方属州の統治権を与えました(B.C.34)。これによりエジプトは東方諸地域の支配が拡大しました。こうしてアントニウスは、クレオパトラによって、完全に骨抜きにされてしまったのです。
紀元前36年のレピドゥス失脚後、ローマでの政治主導はオクタウィアヌスとアントニウスの競い合いでしたが、アントニウスのこうした状況から、オクタウィアヌスを筆頭にローマ市民はアントニウスを遂に見限り、両者間に大きな対立が生まれることになりました。この対立はローマ対エジプトといった国家間の対立へと発展していったのです。
エジプトを中心とする東方諸地域の支配権を手中に収めたアントニウスおよびクレオパトラ支持派と、イタリア半島と西方諸州の支配権を誇るオクタウィアヌス支持派との間に開戦が高まり、遂に陽の当たった紀元前31年9月2日、ローマとイオニア海(イタリア半島南部・ギリシャ・アルバニアに挟まれた海域)のアクティウム沖で海戦が始まりました。この海戦の勝者は地中海世界の統一をも意味し、オクタウィアヌス支持派か、アントニウスおよびクレオパトラ支持派のいずれかに、その覇権が渡るという歴史的な戦いとなりました。これがアクティウムの海戦(B.C.31.9.2)です。
戦力はややアントニウス・クレオパトラ連合軍が上回っていましたが、オクタウィアヌスの軍隊では有能な海軍指揮官マルクス・アグリッパ(B.C.63-B.C.12)に助けられて、徐々にオクタウィアヌスの軍が優勢に転じました。一方で、クレオパトラ率いるエジプト艦隊が早々と戦線離脱し、クレオパトラはアントニウスを捨てて戦場を後にしました。アントニウスは自身の部下を置き去りにして、クレオパトラの後を追ってエジプトのアレクサンドリアへ敗走したため、残されたアントニウス・クレオパトラ連合軍は壊滅、この大海戦はオクタウィアヌス軍が勝利を収めました。ローマを見捨て、エジプトの女にうつつを抜かしたアントニウスに、かつてローマが誇った大将軍の面影は、ローマ市民には全く映るはずもなく、オクタウィアヌスこそ新しいローマの救世主であると絶賛したのです。
アクティウムの海戦に敗北したアントニウスは、敗走の途中、愛するクレオパトラ自殺の報告を聞いたため絶望に陥り、自ら命を絶つことを決意、自身に刃を入れました。しかしクレオパトラ自殺は誤報であり、アントニウスはまだ息のある状態で彼女のもとに運ばれ、彼女の腕に抱かれながら息を引き取ったと言われています(B.C.30.8.1)。
アントニウスを失ったクレオパトラも、敗戦により支持を失い、オクタウィアヌスに投降することを拒んで、若いカエサリオンを残し、毒蛇に自身の胸を噛ませて自殺しました(B.C.30.8.12。自殺内容には諸説有り)。オクタウィアヌスは、クレオパトラがアントニウスと同じ墓に埋葬されることを希望したことを理解し、これを受け入れました。子のカエサリオンもカエサル後継者という理由で、オクタウィアヌスの命により殺害されました。
これにより、エジプトはローマの支配地に組み込まれ、プトレマイオス朝エジプトは滅亡しました。アントニウスの子どもは、先妻のオクタウィアに養育されることになりました。地中海世界の覇権を握ったオクタウィアヌスは、"アウグストゥス(尊厳者)"として帝位に就き(帝位B.C.27-A.D.14)、ローマ帝政(B.C.27-A.D.395)を開始、ローマ帝国(B.C.27-A.D.395)の時代が到来するのです。
引用文献:『世界史の目 第187話』"アクティウムの海戦"の項より。
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posted by ottovonmax at 00:00| 歴史