2018年09月11日
9月11日は何に陽(ひ)が当たったか?
1862年9月11日は、アメリカの小説家、オー・ヘンリー(O. Henry)の出生の日です。
本名はWilliam Sydney Porterといい、ノースカロライナ州中北部にある都市、グリーンズボロで生まれました。医師を父に持つ家でしたが、生後3年で母と死別、叔母に育てられました。
ヘンリーは15歳で学校をやめ、20歳ごろにテキサスへ移住しました。銀行員や薬剤師、コラムニストなど様々な職業を転々としながらも、20代半ばの1887年に結婚を果たしました。銀行員だった1896年に公金横領の罪で訴えられ、単身でニュー・オリンズへ逃亡しました。その間、妻は病身で、1897年に危篤状態になったことを受けて自宅に戻りました。看病の甲斐もむなしく妻は亡くなり(1897)、翌1898年にはほどなく横領罪で懲役8年の有罪判決を受け、服役することになりましたが、模範囚による恩赦で1901年に釈放され、娘と妻の母とともにピッツバーグに移って記者業をはじめ、その後ヘンリーは作家業に本腰を入れるため、単身赴任でニューヨークに移りました。
ヘンリーは服役していた時期から短編小説を執筆して雑誌に投稿しては何作かは世に出ており、その頃から筆名の"オー・ヘンリー"を使用していました。1904年にホンジュラスを訪れた際、その見聞に基づき書かれた『キャベツと王様(原題:Cabbages and Kings)』が事実上の処女作で、1906年にはニューヨークの人口をタイトルにした『四百万(原題:The Four Million)』を発表しました。フランス自然主義作家モーパッサン(1850-93)にも通じるユーモアとペシミズムに満ちた文体で市民層の哀歓を描き、ヘンリーは生涯、短編小説を中心におよそ380編の作品を残しました。
オー・ヘンリーの代表作『最後の一葉(The Last Leaf)』はあまりにも有名です。三階建ての煉瓦造りのアパートには貧しい芸術家が集まり、アトリエとして仕事と生活に使用していました。重い肺炎に罹り、生きる気力を失いかけている女性画家ジョアンナ(ジョンジー)が、窓の外に見える、壁に這う枯れかけたツタの葉を見て、葉がすべて散りゆくとともに自身の命も散ると言い、激しい風雨によって次々と葉が散りゆく様を見て嘆きます。そして最後に一枚の葉だけが残りますが、その葉はどんなに風雨にさらされても、散ることはなく、ジョアンナはこの最後の一葉に感銘を受けて、生きる気力を取り戻し、その後全快します。しかしよく見ると最後の一葉は、階下に住むジョアンナと同じ画家の老人男性ベーアマンが、壁に本物そっくりに描かれた、"絵の"ツタの葉でした。この老画家ベーアマンは、自分が年老いて死ぬまでには必ず最高傑作を作ってみせると言いながらも筆を執ることはなく、芽が出ないまま気ままな生活を送っていました。その老画家がジョアンナを励まそうとして一枚の葉を描き上げたことで、ジョアンナに元気が戻ったのでしたが、今度は老画家は連日雨風強くたたきつけられたことで肺炎に罹り、2日後に亡くなりました。事の真相を知ったジョアンナは、ベーアマンが描いた最後の一葉こそが、彼の生涯の最高傑作だと言って評価する、というお話です。オー・ヘンリーを知る上で非常に重要な作品で、日本でも教科書や絵本などに採用され、よく知られた作品です。
オー・ヘンリーは1907年に再婚し、娘とともに新しい生活に入りますが、過度の飲酒により肝臓病を患ってしまい、1910年6月5日に肝硬変により没しました。筆名の"オー・ヘンリー(O. Henry)"という名の由来としては、服役したオハイオ刑務所“Ohio Penitentiary”から来ている説や、Orrin Henryという人物(逃亡中に出会った窃盗犯、あるいは刑務所の看守の名のいずれか)から来ている説など、諸説あります。
参考文献:「青空文庫 オー・ヘンリー」
本名はWilliam Sydney Porterといい、ノースカロライナ州中北部にある都市、グリーンズボロで生まれました。医師を父に持つ家でしたが、生後3年で母と死別、叔母に育てられました。
ヘンリーは15歳で学校をやめ、20歳ごろにテキサスへ移住しました。銀行員や薬剤師、コラムニストなど様々な職業を転々としながらも、20代半ばの1887年に結婚を果たしました。銀行員だった1896年に公金横領の罪で訴えられ、単身でニュー・オリンズへ逃亡しました。その間、妻は病身で、1897年に危篤状態になったことを受けて自宅に戻りました。看病の甲斐もむなしく妻は亡くなり(1897)、翌1898年にはほどなく横領罪で懲役8年の有罪判決を受け、服役することになりましたが、模範囚による恩赦で1901年に釈放され、娘と妻の母とともにピッツバーグに移って記者業をはじめ、その後ヘンリーは作家業に本腰を入れるため、単身赴任でニューヨークに移りました。
ヘンリーは服役していた時期から短編小説を執筆して雑誌に投稿しては何作かは世に出ており、その頃から筆名の"オー・ヘンリー"を使用していました。1904年にホンジュラスを訪れた際、その見聞に基づき書かれた『キャベツと王様(原題:Cabbages and Kings)』が事実上の処女作で、1906年にはニューヨークの人口をタイトルにした『四百万(原題:The Four Million)』を発表しました。フランス自然主義作家モーパッサン(1850-93)にも通じるユーモアとペシミズムに満ちた文体で市民層の哀歓を描き、ヘンリーは生涯、短編小説を中心におよそ380編の作品を残しました。
オー・ヘンリーの代表作『最後の一葉(The Last Leaf)』はあまりにも有名です。三階建ての煉瓦造りのアパートには貧しい芸術家が集まり、アトリエとして仕事と生活に使用していました。重い肺炎に罹り、生きる気力を失いかけている女性画家ジョアンナ(ジョンジー)が、窓の外に見える、壁に這う枯れかけたツタの葉を見て、葉がすべて散りゆくとともに自身の命も散ると言い、激しい風雨によって次々と葉が散りゆく様を見て嘆きます。そして最後に一枚の葉だけが残りますが、その葉はどんなに風雨にさらされても、散ることはなく、ジョアンナはこの最後の一葉に感銘を受けて、生きる気力を取り戻し、その後全快します。しかしよく見ると最後の一葉は、階下に住むジョアンナと同じ画家の老人男性ベーアマンが、壁に本物そっくりに描かれた、"絵の"ツタの葉でした。この老画家ベーアマンは、自分が年老いて死ぬまでには必ず最高傑作を作ってみせると言いながらも筆を執ることはなく、芽が出ないまま気ままな生活を送っていました。その老画家がジョアンナを励まそうとして一枚の葉を描き上げたことで、ジョアンナに元気が戻ったのでしたが、今度は老画家は連日雨風強くたたきつけられたことで肺炎に罹り、2日後に亡くなりました。事の真相を知ったジョアンナは、ベーアマンが描いた最後の一葉こそが、彼の生涯の最高傑作だと言って評価する、というお話です。オー・ヘンリーを知る上で非常に重要な作品で、日本でも教科書や絵本などに採用され、よく知られた作品です。
オー・ヘンリーは1907年に再婚し、娘とともに新しい生活に入りますが、過度の飲酒により肝臓病を患ってしまい、1910年6月5日に肝硬変により没しました。筆名の"オー・ヘンリー(O. Henry)"という名の由来としては、服役したオハイオ刑務所“Ohio Penitentiary”から来ている説や、Orrin Henryという人物(逃亡中に出会った窃盗犯、あるいは刑務所の看守の名のいずれか)から来ている説など、諸説あります。
参考文献:「青空文庫 オー・ヘンリー」
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posted by ottovonmax at 00:00| 歴史