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2018年08月22日

8月22日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1485年8月22日は、イングランドのヘンリー・テューダー(1457-1509)が新しいイングランド王となり、30年続いた内乱を終結してテューダー朝(1485-1603)をおこした日です。

 ヘンリーが生まれた1457年は、イングランドで大きな内乱が始まっていました。時のイングランドはランカスター朝(1399-1461,70-71)でしたが、百年戦争(1399-1453)でフランスに敗北を喫し、ランカスター朝国王ヘンリー6世(王位1422-61,70-71)の権力弱体は避けられず、かつてのイングランド王朝、プランタジネット朝(1154-1399)の血をひくヨーク公が王位継承をうったえ、ランカスター家とヨーク家が王位の座を巡って争っていたのです。時のヨーク公はリチャード・プランタジネット(公位1415-60)という人物で、ヘンリー6世が精神を患いはじめた1453年頃から国王に代わって政務を執っていた人物です。1455年にヘンリー6世が政務に復帰したところでヨーク公リチャードとの間に完全な亀裂が入り、武力解決にふみきり内乱が勃発しました。ヨーク公リチャードは1460年に戦没、子のエドワード(1442-83)が戦い抜いて翌1461年ヘンリー6世を退位させてランカスター家を陥れ、エドワード4世(位1461-70,71-83)としてヨーク朝(1461-85)をおこしました。

 ヨーク朝開始後、順調に統治が進むかと思いましたが、エドワード4世の結婚問題でヨーク家に内紛が起こり、ヘンリー6世の王妃マーガレット(1429-82)の主導で、ヨーク派に仕えた諸侯を動かして、エドワード4世を追放、ランカスター朝ヘンリー6世が一時復位しました(1470-71)。しかしランカスター派の勢力はこの時すでに衰えており、翌1471年、エドワード4世の弟で、同じプランタジネット朝の血をひくグロスター公リチャード(1452-85)らの協力を得たエドワード4世は、勢力を盛り返して、ヘンリー6世と王妃マーガレット妃をロンドン塔に幽閉し、その後ヘンリー6世は没しました(1471)。

 ランカスター派の勢力を一掃したエドワード4世には、王太子エドワード(1470-83?)とその弟リチャード(1472-83?)といった2人の子がおり、エドワード4世の次期王位を、エドワード王太子に与えるつもりでいました。1483年にエドワード4世が病没すると、王太子エドワードはエドワード5世として王位に就き(位1483)、エドワード4世の弟グロスター公リチャード(つまりエドワード4世の2子であるエドワードとリチャードの叔父)が摂政となりました。

 そこでグロスター公リチャードは、エドワード4世妃の外戚勢力が台頭してきた状況から、ヨーク公と対立、ヨーク朝の王位継承を企て、ロンドン塔にて幼いエドワード5世とその弟リチャードを幽閉、同1483年2人を殺害したとされています。グロスター公リチャードは、リチャード3世としてヨーク朝の王位に就き、専制政治を目論みました(位1483-85)。ヨーク家の内紛で、リチャード3世による一連の行動は国民を不安に陥れ、いっきに支持を失ってしまいました。

 一方で破綻したランカスター派では、傍流のリッチモンド伯がヘンリ6世の死後、ランカスター派の長となっていました。それが冒頭に出たヘンリー・テューダーです。ヘンリー・テューダーは、これまでフランスのブルターニュに亡命していましたが、ヨーク家の内紛を機に、民衆の支持を得て決起し、リチャード3世に戦いを挑んでイギリスに上陸したのです。陽の当たった1485年8月22日、バーミンガム北東のボズワースが戦場となり、リチャード3世はヘンリー・テューダーに敗れて戦死し、ヨーク朝は遂に断絶しました(ボズワースの戦い)。リチャード3世の遺体は馬に乗せられて、ボズワース近くのレスターで曝されました。これにて30年に及ぶ英国中世史に残る大規模な内戦は、遂に終結したのです。

 ヘンリー・テューダーは、ヘンリー7世としてイングランド王国の王位に就き(位1485-1509)、新しくテューダー朝をおこしました(1485-1603)。そして、エドワード4世の王女エリザベス(1465-1503)と結婚してヨーク家とランカスター家は合体(1486)、王家の統一が実現することになりました。ヘンリ7世は、両家和解の象徴として、ランカスター派には赤ばらの紋章を、ヨーク派には白ばらの紋章をそれぞれ採用、さらにテューダー朝開基後は、赤と白を混ぜたばら(テュードル・ローズ)を紋章として採用しました。これは現在イギリスの国花となっています。のちに国王がエリザベス1世(位1558-1603)の治世となって、劇作家ウィリアム・シェークスピア(1564-1616)が、百年戦争後に起こった30年間の内紛を「リチャード2世」「ヘンリー6世」「リチャード3世」として劇化(1590-95)、紅白のばらの激突を描いて、高い評価を得ました。この作品の影響で、1455年から30年におよんだ内紛は、後世になって「ばら戦争」と名付けられたといわれていますが、近年の学説では、ランカスター家の赤ばらの紋章は実在しなかったともいわれており、シェークスピアの劇に登場した紅白の合戦は史実に基づかない、創作だったとする見方も出てきています。ちなみに「ばら戦争」の英語表記は「Wars of the Roses」ですが、"Wars"と複数表記になっているのは、両家の内紛が幾次にも渡って繰り広げられたことに起因しています。

 ヘンリー7世の掲げるテューダー朝政権では、政権を国王に集中させることにつとめました。貨幣や度量衡を統一し、課税を強化させることで財政を安定させ、また没落貴族の所領を没収して王領を拡大させ、司法面においても国王大権を全面的に押し出した、星室庁裁判所(ウェストミンスター宮殿の"星の間"と呼ばれる所。天井に星印がある)を設置して、政敵をねじ伏せていきました。このようにしてヘンリー7世は、国王中心のイギリス絶対主義王政の基盤を築いていくのでした。

引用文献『世界史の目 第59話

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posted by ottovonmax at 00:00| 歴史

2018年08月21日

8月21日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1898年8月21日は、のちに大事件へ引き起こすことになった演説が行われた日です。
 地租増徴案を自由党、進歩党らに賛同を得られず退陣となった第3次伊藤博文内閣(1898.1.12-1898.6.30)にかわって、1898年6月30日に誕生した第1次大隈重信内閣(1898.6.30-1898.11.8)は、自由党、進歩党の合同で成立した憲政党をベースに組閣された初の政党内閣です。内閣総理大臣と外務大臣を兼任した旧進歩党系大隈重信(おおくま しげのぶ。1838-1922)と、内務大臣の任命を受けた旧自由党系板垣退助(いたがき たいすけ。1837-1919)が中心となり、"隈板内閣(わいはんないかく)"と呼ばれました。
 しかし結党されたばかりの憲政党内部では、党運営をめぐって、旧進歩党系と旧自由党系との対立がおさまらない状況でした。こうした中で、陽の当たった1898年8月21日、帝国教育会が主催する全国小学校の教職員講習会にて、文部大臣であった尾崎行雄(おざき ゆきお。1858-1954)は、次の演説を行いました。

 "世人は米国を拝金の本家本元のように思っていますが、世人が思うほど拝金主義の国ではなく、その証拠に米国では金があるために大統領になったものは一人もいません。歴代の大統領はどちらかといえば貧乏人の方が多いです。日本では共和政治の国となることはありませんが、仮に共和政治があり、大統領を選挙する組織がある夢を見たとすれば、おそらく三井、三菱の当主は大統領の候補者となるでしょう。"

 この演説は当時の財閥の存在が、政治を腐敗させ、金権政治に変わり果てている風潮を批判したものでありました。当時の日本は天皇主権の大日本帝国憲法下で政治が行われていましたので、日本に共和政治を仮定したことが、天皇制を一時でも否定したとして、宮内省、枢密院、貴族院などからこの演説を不敬であると批判されました。旧自由党系星亨(ほし とおる。1850-1901)や前内閣で農商務大臣だった伊東巳代治(いとう みよじ。1857-1934)、前内閣総理大臣の伊藤博文(いとう ひろふみ。1841-1909)、陸軍大臣の桂太郎(かつら たろう。1848-1913)らがこの"共和演説"を攻撃して"尾崎おろし"を画策しました。旧進歩党系の尾崎行雄が旧自由党系の星亨らに排除される事態は、憲政党分裂、ひいて内閣瓦解を誘発する危機をはらみました。
 尾崎行雄は明治天皇(位1852-1912)に謝罪しますが、時既に遅く、不信任として文部大臣を辞任する結果となります。後任の文部大臣には、憲政党から旧進歩党系犬養毅(いぬかい つよし。1855-1932)が任命されましたが、今度は内相で旧自由党系の板垣退助が犬養任命について反対の意を表明し、旧自由党系の大臣が相次いで辞任を表明、与党である憲政党の分裂は決定的となりました。そして10月31日第一次大隈内閣は退陣となりました。
 この結果、憲政党は旧自由党系だけが残りますが、1900年9月に解党、党員は伊藤博文の組織した立憲政友会に合流しました。一方の旧進歩党系は憲政本党を結党し、1910年に解党して非政友会のメンバーらと立憲国民党に合流していきました。

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タグ:日本史
posted by ottovonmax at 00:00| 歴史

2018年08月20日

8月20日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1983年8月20日は、オレゴンのポートランド出身のロック・グループ、Quarterflash(クォーターフラッシュ)のシングル、"Take Me to Heart(邦題:ドリーム・ハート)"がBillboard HOT100シングルチャートで最高位14位を獲得した日です。同時にメインストリームロックチャート(当時はRock Albums chart)でも最高位6位を記録しました。
 リード・ヴォーカルとサックスを担当するRindy Ross(リンディ・ロス)と、彼女の夫でギターを担当するMarv Ross(マーヴ・ロス)を中心に結成された6人組のロック・グループで、デビュー作に当たる前作"Quarterflash(邦題:クォーターフラッシュ。1981年)"は全米でプラチナ・アルバムに認定され、Billboard200アルバムチャートで8位、デビュー・シングル"Harden My Heart(邦題:ミスティー・ハート)"はRock Albums chartで堂々の1位を獲得、Adult Contemporary Chartでも41位を記録しました。またHOT100シングルチャートでは3位を獲得、翌1982年のYear-Endチャートでは100位内13位にランクされるなど、華々しいデビューを飾りました。
 リンディの奏でるサックスが夜を酔わすような雰囲気で、デビュー作"Quarterflash"の幻想的なジャケットに相まって、アダルトなロック・サウンドを漂わせる独特の音を持ったグループでした。"Quarterflash"の最後に収録された8分に及ぶ"Williams Avenue"はジャズの雰囲気も存分に醸し出し、夜に聴くにふさわしい曲です。なお、彼らはこの人気を得て同1982年にアメリカのコメディ映画"Nightshift(邦題:ラブ IN ニューヨーク)"の主題曲("Nightshift")を任され、HOT100で60位まで上昇しました。

 そして1983年に2作目"Take Another Picture(邦題:テイク・アナザー・ピクチャー)"がリリースされ、先行シングルとしてカットされたのが"Take Me to Heart(邦題:ドリーム・ハート)"です。デビュー曲に続く、日本の邦題が"ハート"でつながっているのも興味深いですが、同じく興味深いのは、この曲のプロモーション・ビデオです。映画のワンシーンを見ているかのような設定で、Rindyはブティックの店主役(?)で、どうやら彼女は隣の住居に住んでいる男性を気になっており、彼女の部屋にはその男性の写真がたくさん壁に貼られ、窓越しで隣の男性の部屋を見ているという設定で、男性は彼女の心を知らなさそうな立ち振る舞いで、彼女に見られていることも知らないで外に出て行きます。外に出た男性が彼女の店のショーウィンドウを見た光景は....という内容で終わりますが、現在でいえば少々首をかしげる結末とも取れる、とても興味深いビデオでした(この映像がこちらyoutubeより)。

 さてこの曲はHOT100シングルチャートでは6月18日付で59位にエントリーしました。前作からの期待が寄せられ、ハイ・ポジションでのランクインとなりました。翌週で43位、3週目で38位とTop40入りを果たしました。しかしその後は29位→27位→25位→23位→23位と停滞しますが、次週19位とTop20入りを果たし、陽の当たった8月20日付で14位を記録、これが最高位となりました。次週は18位にダウンし、そのまま下降していきましたが、全16週中、11週Top40内に入っていたこともあり、1983年のYear-Endチャートでは100位内83位を記録しました。またRock Albums chartでは3週目に当たる6月23日付で前週49位から40ランクアップの9位にトップ10入りを果たし、その後は7位→11位→16位と変動を重ねながら、陽の当たった8月20日付で6位を記録し、その後は下降して12週チャートインを果たしました(ロック・チャートではアップ・ダウンの落差が激しいです)。またAdult Contemporary Chartでも"Harden My Heart"以来のチャートインを果たし、最高位28位を記録しています。アルバム"Take Another Picture"も1983年8月27日付でBillboard200最高位34位を記録し、この年には初来日公演も実現しています。

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posted by ottovonmax at 00:00| 洋楽

2018年08月19日

8月19日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1743年8月19日は、フランス、ブルボン朝(1589-1792,1814-30)の王、ルイ15世(王位1715-74)のメトレス・アン・ティートル(Maîtresse-en-titre。メトレス・ロワイヤル、ロイヤル・ミストレス、公式寵姫、公妾。国王の公式の愛人)として世に知られました、デュ・バリー夫人の生誕の日です(本名マリ・ジャンヌ・ベキュ。1743-93。肖像画はこちらwikipediaより)。先代のメトレス・アン・ティートル、ポンパドゥール公爵夫人(1721-64)の逝去後、ルイ15世の恋人となった女性でした。

 ジャンヌ・ベキュは、裕福な家庭に育ったポンパドゥール公爵夫人とは異なり、シャンパーニュの貧しい家に生まれました。幼少時、母は男性遍歴が多く、すぐさま母に捨てられて叔母に引き取られますが、母の再婚先に再度引き取られて、修道院で教養を身に付けました。修道院での教育を終え、侍女として仕えるも、生まれつきの美貌に周囲の男性が誘い寄せられ、これが素行面に影響して侍女の仕事をやめさせられることになります。その後は仕立屋で針子として働くも、ここでも男性が惹き寄せられ、皮肉にも母と同様、男性遍歴を重ねていく人生を送ります。愛した男性の中には、死刑執行人として世に知られたシャルル・アンリ・サンソン(1739-1806)もおりました。
 ジャンヌ・ベキュが20歳の頃、子爵のジャン・デュ・バリー(1723-94)と出会います。この子爵は特に上流階級などを対象に売春斡旋(いわゆるポン引き)を行っており、ジャンヌ・ベキュを娼婦として子爵の屋敷に住まわせました。ジャンヌ・ベキュは贅沢な貴族の生活を経験すると同時に、高級な娼婦としての人生を歩み始めることになり、上流階級の貴族と接することにより、社交界の知識教養を身に付けていきます。
 1768年、ジャンヌ・ベキュが25歳のとき、紹介によりルイ15世と出会うことになり、同年秋デュ・バリー子爵の弟ギヨーム・デュ・バリー(1732-1811)と形式上の結婚をしてデュ・バリー夫人と呼ばれるようになりました。

 60歳を目前にしたルイ15世は、20代半ばのデュ・バリー夫人の美貌に惹かれていき、翌1769年、正式にルイ15世のメトレス・アン・ティートルとなり、彼女はルイ15世における唯一の心の拠り所となって、王太子妃のマリー・アントワネット(1755-93)以上の権力を掌握しました。マリー・アデライード王女(1732-1800。ルイ15世と正妃との間の四女)、マリー・ヴィクトワール王女(1733-99。五女)、ソフィー王女(1734-82。六女)たちは、デュ・バリー夫人の出自や経歴に対して快く思わず、さらには妹を次のメトレス・アン・ティートルに推薦しようとしていた有力政治家のショワズール公爵(1719-85)からその存在を批判され、ハプスブルク家出身のマリー・アントワネットにいたっては完全に身分が違ったデュ・バリー夫人を王宮入りさせることを許さず、しばらくは彼女を無視し続けました。さらにマリー・アントワネットはアデライードら3王女の接近により、デュ・バリー夫人への憎悪をいっそう深めていったと言われています。しかし当のデュ・バリー夫人はその気さくで親しみやすい性格から、多くの貴族からは大いに好かれていました。
 ルイ15世はデュ・バリー夫人とアントワネット妃間の対立に悩み、これはアントワネットの母国オーストリアにも伝わりました。母マリア・テレジア(1717-80)の説諭でマリー・アントワネットはデュ・バリー夫人に声をかける機会を得たものの、王女たちに阻止されて退場させられたという逸話があります。しかし1772年の1月1日の新年の挨拶において、マリー・アントワネットはデュ・バリー夫人に"Il y a bien du monde aujourd'hui à Versailles.(=There are many people at Versailles today.今日のヴェルサイユはたくさんの人ですこと)"と話しかけたことで緊張関係は解けていきました。ショワズール公爵との対立は結局ルイ15世に罷免を告げられて収束しました。こうしてデュ・バリー夫人は権力を弱らせずに維持し続けるのです。

 1774年4月、ルイ15世は天然痘に罹患し、病床に伏すことになりました。デュ・バリー夫人は懸命に看病を施しました。しかし翌5月、国王は自身が助からないことを悟ったとき、夫人に王宮を去るように告げたのです。愛に溺れて国政を疎かにした罪を神に懺悔(告解。ゆるしの秘跡)するため、そしてデュ・バリー夫人の身を守るためでありました。次期国王となるルイ・オーギュスト、つまりルイ16世(王位1774-92)の治世になったとき、デュ・バリー夫人が、国王即位と同時に国王妃となるマリー・アントワネットの権勢から退けられるのは明白でした。
 最後まで国王に尽くしたデュ・バリー夫人は、最後まで国王に愛されたメトレス・アン・ティートルでした。10日、ついにルイ15世は崩御し(1774.5.10)、ヴェルサイユを追われたデュ・バリー夫人はルイ15世を看取ることもできずにパリ郊外のクィイ・ポン・オー・ダムの修道院に送られました。これにて、絶対王政期のブルボン王家におけるメトレス・アン・ティートルの制度は消滅することになりました。デュ・バリー夫人はメトレス・アン・ティートル時代の人脈を使って、同じくパリ郊外のルーヴシエンヌに移り(1776)、多くの貴族を相手に以前のように男性遍歴を積み上げ、自由に人生を過ごしていきました。その中にはパリの軍事総督ブリサック公(1734-92)もおりました。

 1789年7月14日、フランス革命が勃発しました。勃発前に没したソフィー王女を除くルイ15世の王女だったアデライード王女、ヴィクトワール王女の2人はローマに亡命し、その後ナポリ、トリエステと渡りました。フランスの旧制度は破壊され、ブリサック公もパリ軍事総督の地位をおろされたため、当時ブリサック公の愛人だったデュ・バリー夫人も追及を避けてロンドンに亡命しました(1791.1)。そして翌1792年のいわゆる8月10日事件で王権が停止され、ルイ16世を筆頭とする王族たちは幽閉処分を受け、ブルボン王政は崩壊しました。反革命分子は徹底的に捕らえられ、ブリサック公も巻き込まれて殺害されました(九月虐殺)。9月より始まる国民公会によって第一共和政(1792.9-1804.5)がしかれたフランスでは、翌1793年1月にルイ16世の死刑が決まり、同月21日、死刑執行人シャルル・アンリ・サンソンによってギロチンによる斬首刑が執行されました(ルイ16世処刑。1793.1.21)。
 こうした乱世であるにもかかわらず、デュ・バリー夫人は同年3月、危険を承知の上で帰国を決断、ルーヴシエンヌに戻ります。帰国の理由は諸説ありますが、最もよく知られているのは、革命によって差し押さえられた王族の資産、たとえば、王宮、城、家具、宝飾が気がかりで帰国したかったという話です。1768年から1774年までの愛すべきルイ15世と送った優雅な生活の中で、国王より賜った、デュ・バリー夫人の古き良き思い出であります、居城、宝石そして家具などの資産を返還してもらうための帰国であったとされています。国家財政が逼迫し、国家の存亡も危うい中で築き上げた財産でした。しかしこの決断が彼女にとって命取りとなってしまったのです。

 1793年9月末、デュ・バリー夫人は革命派に逮捕されてしまいました(かつて彼女の下で働かされていた使用人の密告とされています)。彼女はマリー・アントワネットが幽閉されていたコンシェルジュリー牢獄に投獄されました。革命裁判所の裁判によって、まず王宮内での敵であったマリー・アントワネットが死刑を宣告され、10月16日にギロチン台に送られました。このとき彼女は下肥を運ぶ荷車に乗せられるも、毅然たる態度で死に臨み、シャルル・アンリ・サンソンの執行によってギロチンの露と消えました(マリー・アントワネット処刑。1793.10.16)。刑が執行されたのを聞いたデュ・バリー夫人は号泣したといわれます。そのデュ・バリー夫人もついに死刑が宣告され、12月7日にギロチン台に送られることになります。デュ・バリー夫人は、先に処刑されたアントワネットとは対照的に、死におびえて涙が枯れるまで泣き叫び、ギロチン台をまともに見ることができず(革命裁判によって死刑が執行された女性の中でただ一人見ることができなかったとされています)、かつての愛人だったシャルル・アンリ・サンソン死刑執行人に何度も命乞いをします。恐怖政治期(1793年5月31日から1794年7月27日のテルミドール9日のクーデタまで)だけで、およそ2,700人以上の要人の死刑を執行してきたシャルル・アンリ・サンソンもさすがに彼女を直視できず、息子に執行を任せることになりました。そして泣きじゃくるも数人に取り押さえられたデュ・バリー夫人は(画像はこちらwikipediaより)、同年同月、ギロチンにて、ついに斬首されました(デュ・バリー夫人処刑。1793.12.7)。ルイ15世を愛した最後のメトレス・アン・ティートルの、悲哀に満ちた最期となったのです。デュ・バリー夫人こと、マリ・ジャンヌ・ベキュの生涯は、革命の乱世の中、50年で幕を閉じることになりました。

引用文献『世界史の目 第246話より』

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posted by ottovonmax at 00:00| 歴史

2018年08月18日

8月18日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1850年8月18日は、19世紀を代表するフランスの文豪、オノレ・ド・バルザックが51年の生涯を閉じた日です(1799.5.20-1850.8.18)。

(以下、引用文献:「世界史の目 第110話より」)

 フランス、トゥールにある富裕官僚の家がありました。この家主の妻はアンヌ・シャルロット・ロール(1778-1854)といい、当時20歳の若さであり、51歳の夫とは31歳の年下でした。1798年5月20日、その家で長子が誕生しましたが夭逝、アンヌは子育てに恐れるようになります。アンヌは美貌に恵まれた才女でしたが、神経質な性格と、神秘主義的傾向を合わせ持つ人物でもありました。

 長子を失ってちょうど1年後、つまり長子が誕生した5月20日、また一人の男児が生まれました。アンヌと夫は次子を"オノレ"と名付けましたが、養育に迷うことで彼を里子に出してしまいました。このオノレこそ、後にフランスの文豪と言わしめた、オノレ=ド=バルザックです。
 アンヌはその後2人の娘を出産後、夫ではなく、他の貴族(マルゴンヌ家)との間にも男児を設けた。アンリと名付けられた末子は、アンヌによって、バルザック以上に寵愛されました。アンリが生まれたとき、バルザックは8歳でしたが、彼はとある寄宿学校に寄宿生として入りました。孤独な少年期を過ごし、末子アンリを寵愛するアンヌとの面会は数える程度であったといわれます。母親からの愛情の欠乏はその後のバルザックの人生に多大な影響を与えることになります。

 1813年、バルザックは過度の読書により昏睡状態に陥りました。このため寄宿学校を出される形となり、家族の扶養を受けました。翌年、父親の転勤でトゥールを離れてパリへ赴いたバルザックは、公証人を目指して欲しいという両親の希望もあって、パリ大学法学部へ入学しました(1816。17歳)。しかし、バルザックの中には公証人になる意志はなく、執筆業を志望していました。20歳の時(1819)、バルザックは完全に文学の道に進むことを決意、家族の反対を押し切って、パリ近郊の屋根裏部屋にこもって戯曲を何作か執筆、翌年彼にとっての自信作であった悲劇『クロムウェル』を家族・親戚の前で朗読しました。朗読を鑑賞した家族の中には劇作家の義弟がいましたが、『クロムウェル』はその義弟によって失格の烙印を押され、しかもバルザックは義弟から文学の道へ進むことも拒絶されたのです。やむなく戯曲をあきらめたバルザックでしたが、文学の道は捨てず、戯曲から小説へ転向し、『ステニー』などの作品を残しました。その後も大衆小説家と共作したり、匿名・別名で執筆した小説を著すなど、若さならではの作品を次々と発表しました。
 1822年、23歳になったバルザックは初めて恋愛を経験しました。相手は22歳年上のベルニー夫人(1777-1836)という貴族であり、7児の母でした。母アンヌからの愛情の薄かったバルザックは、アンヌと年齢が近いベルニー夫人を、理想の母親のように愛しました。その後のバルザックは多くの年上の貴族夫人と知り合い、愛を求めました。
 次々と著作品を発表していくものの、バルザックは商業的には停滞気味でしたので、1825年出版業に手を出して自活をはかろうとしましたが失敗、直後にベルニー夫人からの出資でもって印刷業(活字鋳造)も始めますが、莫大な負債を残して倒産を余儀なくされました(1828)。開業に懲りたバルザックは、再び執筆に向かい、本名で歴史小説『ふくろう党』を著し、その名が徐々に知られることとなります(1829)。 
 この頃からサロン(上流社会の社交・会合の場)での出入りが激しくなったバルザックは、多くの友を作り、さらなる交流を深めました。交流によって執筆活動も促進、多くの短編を残し、一日の仕事が終わると再度サロンに参加しました。30代のバルザックは執筆とサロン参加の繰り返しでしたが、特に執筆業においては、毎日のように大量(一日およそ50杯ほど)のコーヒーを飲み、夜間を中心に12〜18時間創作と推敲に集中するという、神業的活動でありました。また七月革命(1830)で政局が混乱しているのをよそに、私生活でも貴族夫人と愛を育みましたが、一方でバルザックは政界にも興味を示し、王党派に属して議員選挙に2度出馬しています(結果は落選)。
 1831年に出版した『あら皮』で脚光を浴びるようになったバルザックは、社交も積極的になり、貴族夫人との愛人関係も多く生まれました。1832年、バルザックの愛人としては初めての年下、ポーランド貴族のハンスカ夫人(1800?-1882)と知り合って以降は、年下の女性とも愛情関係を持つようになりました。また政治家、芸術家、作家、評論家など、サロンで得た多くの友人によって、創作活動にも幅を利かせることとなり、天才的な創作でもって作品集を次々と発表していきます。
 こうした活動が展開される中でバルザックは、フランスの社会階層と、当時の風俗を如実に文章で表現した(作品をひとまとめにして『風俗的研究』として出版。1834-37)。また『風俗的研究』だけでなく、『哲学的研究』・『分析的研究』にまで創作の幅が拡がり、あらためて才能の豊かさを周囲に知らしめることとなります。私生活や田園生活、パリや地方での生活など、さらには政治・軍事生活おけるさまざまな"情景"を言葉に表し、過去に前例がないほどの細やかな人間観察ぶりで、読者の興味を誘いました。こうして彼がこれまで残した長編・短編合わせて約90作品が、1842年を皮切りにまとめあげられたのです。これが不朽の大傑作『人間喜劇』として世に残るのでした。
 収録された作品には、『トゥールの司祭(1831)』・『ウージェニー=グランデ(1833)』など初期の作品も含まれ、『"絶対"の探求(1834)』・『ゴリオ爺さん(1835)』・『谷間の百合(1836。主人公のモデルは、この年59歳で死去したベルニー夫人です)』・『浮かれ女盛衰記(1843)』など、今でもなお愛読されている作品群です。日常における人間社会を限りなく写実的に表現し、19世紀のフランスの市民社会を疑似体験できるような臨場感をかきたてる作風ですが、この作風が現在においてもなお新しさを失わないのは、それぞれの作品が相互に有機的に関係しているという、つまり、それぞれの作品に登場する人物が、別の作品に同一人物として繰り返し再登場させているという手法です(人物再登場法。人物再現法)。内容が異なれど、登場人物が繰り返し現れる手法によって、作品と作品は途切れない。バルザックは『ゴリオ爺さん』執筆中にこの方法にひらめいたとされています。ヴォートラン、ラスティニャック、ニュシンゲンなど、ある登場人物が、1つの作品では脇役もしくは端役である一方、もう1つの作品では主役、また準主役となる構成で、同一登場人物の喜怒哀楽があらゆる作品でみることができる、まさに『人間喜劇』のタイトルに相応しいものとなったわけです。『人間喜劇』によって、バルザックは歴史に残る文豪となり、先に出た作家スタンダール(1783-1842)と並んでフランス写実主義(リアリズム)文学の代表作家とされて、後に出たフロベール(1821-80)によって写実主義文学が確立していき、これらをさらに強調させて次の自然主義(ナテュラリズム)文学へと移っていくのです。
 『従妹ベット』が刊行された1846年、『人間喜劇』は全16巻でもって完結しました。しかしバルザックは『人間喜劇』を単にこの年で終わる構想は持っていなかったらしく、その後も『従兄ポンス(1847)』など、『人間喜劇』用の短編を書きつづりました。

 バルザックは浪費癖の持ち主として有名で、ヨーロッパ全土への旅行、社交界への出入り、多飲多食も甚だしかったですが、無理がたたり1843年頃から体調不良となりました。借金・借財も膨らみ続け、病状は徐々に悪くなっていきますが、最後の愛人とされるハンスカ夫人との、バルザック自身、生涯初めての結婚に気を寄せていました。1850年3月に念願の結婚を実現させたバルザックでしたが、同年8月18日夜、51年の生涯をパリの豪邸で閉じました。『現代史の裏面』が最後の作品となりました。3日後に葬儀が行われ、1827年以来、長く交流を続けていたロマン主義作家ヴィクトル・ユーゴー(1802-85)が追悼を述べました。

 バルザックの残した莫大な負債は、ハンスカ夫人の手によって清算されました。浪費癖に加えて、女性遍歴がひどく激しかったバルザックでしたが、年下のハンスカ夫人にだけは、1832年以来、生涯にわたって純情を捧げた恋人であり、18年文通を途絶えさせることなく結婚に結びつけた相手でした。バルザックが言い放ったとされる「結婚は一切のものを呑み込む魔物と絶えず戦わなくてはならない。その魔物とはすなわち.....習慣のことだ」の言葉にもそのことが表現されています。

(以上、引用文献:「世界史の目 第110話より」)

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2018年08月17日

8月17日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1945年8月17日は、ベトナムで八月革命が勃発した日です。 
 1887年、フランスは東南アジアのインドシナ半島で、フランス最大の植民地であるインドシナ連邦(仏領インドシナ。仏印。1887-1945)をつくり、ハノイに総督府を置いていました。第一次世界大戦が終わった1920年代、愛国派のナショナリズム(インドシナ民族運動)が盛んになる中で、知識人層の中からホー・チ・ミン(1890-1969)が台頭します。
 ホー・チ・ミンは21歳の時フランスへ渡航、またロシア革命(1917)の影響を受けてマルクス・レーニン主義に傾倒して、1920年にフランス共産党に入党、1924年にはコミンテルン(1919-1943)のモスクワ大会にも参加、1925年中国・広東にて"ベトナム青年革命同志会"を結成してインドシナ民族運動に活躍した革命家でした。
 ホーは、ベトナム青年革命同志会を基盤として、1930年にベトナム共産党(インドシナ共産党)を結成、対仏運動に力を注ぎました。ところが1940年9月、南進政策を目指す日本が北部仏印進駐を実行に移し、ハノイに進出、国内の民族運動は、反仏と反日をかかげた運動に発展することになります。翌1941年ホーは帰国し、共産党を中心にベトナム独立同盟会(ベトミン)を組織して対抗しました。1945年3月、太平洋戦争(1941-45)での日本の敗色が濃くなったことで、日本軍はクーデタによってフランスの植民地政権を倒し、インドシナ連邦の解体を実施、当時のベトナム王朝、阮朝(グェン。1802-1945)の皇帝保大帝(バオ・ダイ。位1925-45)によるベトナム帝国の独立を、日本の要請に応じて宣言しました(ベトナム帝国。1945.3.11-1945.9.2)。
 太平洋戦争における日本の敗戦がほぼ決定的となったことで、ホー=チ=ミンは、8月13日に総蜂起を発令、陽の当たった8月17日、ベトミンおよび共産党はベトナムの完全独立を呼びかけて総蜂起を決行、ハノイで革命が始まりました。この革命運動に民衆が支持していき、革命規模は拡大、サイゴンやフエにおいても大衆デモがおこり、警察隊もベトミンの行動を支持するようになっていきました。日本は何もすることができず敗退、30日フエにいたバオ・ダイは退位を表明、阮王朝は形骸と化しました。これが"八月革命"です。日本が降伏文書に署名した9月2日、ホー・チ・ミンはハノイでベトナム民主共和国の独立を宣言、ホー・チ・ミンは大統領に就任しました(任1945-69)。阮王朝は滅亡に至りました。
 しかしフランスは植民地だったインドシナでの、ベトナム民主共和国の建国を認めませんでした。やがて1946年12月、インドシナ半島で第一次インドシナ戦争が勃発し、1976年7月2日の南北ベトナム統一まで、戦火のやまない時代が続くことになるのです。

引用文献:「世界史の目 34話

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2018年08月16日

8月16日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1945年8月16日は、アメリカのレコード・エンジニア、Gary Loizzoの生誕の日です。Styx(スティクス)や、メンバーだったDennis DeYoung(デニス・デヤング。Key,vo)のエンジニアとして知られました。
 Garyは1960年代に活動したイリノイ州のロック・グループ、The American Breed(改名前はGary & The Knight Lites)のリード・シンガー兼ギタリストとして活躍しました。中でも1967年12月にリリースされたシングル、"Bend Me, Shape Me"はBillboard HOT100シングルチャートで5位、UKチャートでも24位まで上がる大ヒット曲となりました。このThe American Breedは1970年に活動を終え、メンバーの一部で結成したバンドはRufus(ルーファス)として活躍、Chaka Khan(チャカ・カーン)をヴォーカリストに活躍していきます。一方Garyは、The American Breedの活動終了後、創設した"Pumpkin Studios"にてレコーディング・エンジニアおよびプロデュース業に励むことになります。

 1974年、まだWooden Nickelレーベル時代のStyxと出会い、4枚目のスタジオ・アルバム"Man of Miracles(邦題:ミラクルズ)"のエンジニアをつとめました。"Evil Eyes"や"Christopher, Mr. Christopher"など、このアルバムでもStyxのプログレッシブ・ロックが展開されますが、前作"The Serpent Is Rising(邦題:サーペント・イズ・ライジング)"にはない効果がGary流によって産み出されます。まず、Golden Lark"と"A Song for Suzanne"の曲間をつなぐために、Garyは雷雨の音響効果を巧みに導入して臨場感を持たせ、ドラマティックに盛り上がっていきます。また、前作"The Serpent Is Rising"で見せた"暗さ"はそぎ落とされ、より聴きやすいサウンドになっています。それは"Rock & Roll Feeling"や"Havin' a Ball"、"A Man Like Me"などの軽快でポップなナンバーが入ることによってアルバム全体を通して心地よく聴くことができるのです。これはGaryのエンジニアリングとしての駆使した音響技術で、Styxの元来の持ち味であるハードなエッセンスと美しいコーラスを失わせないまま、ホーンを導入するなどポップな感覚的要素を加えることによって、女性リスナーが喜ぶような、明るく格好いい、何度も聞きたくなるサウンド効果が得られ、アルバム全体のバランスが程よく調和されていくのです。
 Garyの優れたエンジニアリングにより、"Man of Miracles"は前作"The Serpent Is Rising"よりも明るいアルバムになり、チャートの上でもBillboard200アルバムチャートでは前作の192位から154位まで記録を更新しました。
 なお、当時のStyxは人気をまだ勝ち得るところまでには至っていない時期で、1975年にシングル"Lady(邦題:憧れのレディ。もともとは1973年の作品)"が大ヒットを記録する前の話です。

 GaryのStyxへのエンジニア業はこのあとしばらく遠ざかりますが、その間のStyxは"Lady"のヒット(HOT100で6位)で大手A&Mレーベルへの移籍や、メンバーチェンジによるTommy Shaw(トミー・ショウ。gtr,vo)の加入があり、成長を遂げていきます。そして1979年、イリノイ州の"Pumpkin Studios"にて、Garyは再びStyxのエンジニアリングを、もう一人のエンジニアであるRob Kingslandと共同で担当することになりました。Robはあの1977年に飛躍のアルバムとなった7作目"The Grand Illusion(邦題:大いなる幻影。全米6位)"や、8作目"Pieces of Eight(邦題:ピーシズ・オブ・エイト〜古代への追想。全米6位)"のエンジニアを手がけた人物です。Garyにとっては、Styxの人気絶頂にある中での、メンバーとの再会となったのです。そして彼は、Styxの絶頂期の音を確立させたRobと共に、絶妙のコンビネーションで新たなStyxのサウンドを創り出していくのです。

 "Pieces of Eight"のプロモート活動を終えたStyxは、これまでのプログレッシブ・ロック/ハード・ロックの作風に区切りをつけ、さらなる進化を求めていました。長いツアーのため、Dennis DeYoungが会えない妻Suzanneへの想いを寄せて、Suzanneへのバースデー・ソングとして書いたと言われるバラード、"Babe(邦題:ベイブ)"を、一度はDennisがJohn Panozzo(ジョン・パノッツォ。drums)とChuck Panozzo(チャック・パノッツォ。bass)と共にデモとしてレコーディングしたのですが、これをメンバーのTommyとJames [JY] Young(ジェームズ・ヤング。guitar)が非常に気に入り、グループとして次のアルバムに収めないかと提案した結果、Dennisも承諾しました。そこで"Babe"の中間部におけるTommyのギター・ソロを導入させますが、Garyらエンジニア陣の巧みなオーバーダビングによる効果でギターの音色は非常に美しくなり、サビのコーラスの美しさと相まって、珠玉のバラードとして完成されました。そしてこの"Babe"を収録した9枚目のスタジオ・アルバム、"Cornerstone(邦題:コーナーストーン)"が完成したのです。

 "Babe"以外の収録曲でも、彼らのポップ・センスが非常に光る楽曲が揃いました。GaryとRobらエンジニア陣の駆使した、洗練された音の技術は、このアルバムで証明されました。エレキ・ギターの歪みを抑える反面、アコースティック系楽器やシンセサイザー、ホーン等を採り入れ、それらをStyxの持ち味である美しいコーラスと合わせることによって、新たなStyxのサウンドができあがったのです。また、"Man of Miracles"時代でのポップ要素の導入構想がここにおいても活かされた形となり、例えば唯一JYがヴォーカルを取る、アルバム中最もヘヴィーな"Eddie"が8曲目に収録されていますが、それまでの7曲のポップな楽曲とは極端に対照的な、ギター・ソロなど非常に力強く、JY独特のメタル風の歌声で構成された楽曲でありながら、普通に心地よく聴くことができ、まさに"音の魔力"を感じさせてくれます。
 "Babe"はStyxにとって、初の全米ナンバー・ワン・シングルとなり、"Cornerstone"は全米2位を記録、ダブル・プラチナに認定されました。GaryとRobが創り出したこの魔法のようなサウンドは、1981年の"Paradise Theatre(邦題:パラダイス・シアター)"で頂点に立ち、全米制覇を成し遂げることになったのです。このアルバムでは、"Man of Miracles"の雷雨のように、解体工事、酒場のガヤといった効果音をここでも導入して、アルバム・コンセプトに立体感を持たせるテクニックを披露しています。

 Garyは他にもDennis DeYoungの大半のソロ・アルバムのエンジニアリングを担当(1985-98)、またバック・ヴォーカルとしても参加しました。Dennis離脱後のStyxにおいても、2003年のCyclorama(邦題:サイクロラマ)以降ではエンジニアリングだけでなくメンバーと共同プロデュース作業にも加わり、その後のStyxを陰で支えていきます。
 2015年に行われたStyxのアメリカンツアーではステージにGaryが招かれ、かつてのThe American Breed時代のヒット曲、"Bend Me, Shape Me"を披露し、会場は歓喜に包まれました。この模様は現ドラマーのTodd Sucherman(トッド・ズッカーマン。drums)がYoutubeでアップした映像で確認できます(この映像がこちら)。Styxにとって、Gary Loizzoは絶対的必要不可欠な存在となっておりました。
 しかし、残念ながら2016年1月16日、Garyは膵癌により70歳で永眠し、音楽に満ちた生涯を全うしました。

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2018年08月15日

8月15日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1981年8月15日は、イギリスのロック・グループ、Electric Light Orchestra(エレクトリック・ライト・オーケストラELO)のシングル、"Hold On Tight(邦題:ホールド・オン・タイト)"がアメリカのBillboardにおけるメインストリームロックチャート(当時はTop Tracks Chart)で18位に初登場した日です。
 "Hold On Tight"は9枚目のスタジオ・アルバム"Time(邦題:タイム〜時へのパスポート〜)"からの先行シングルで、ポップで軽快なロックンロール・ナンバーです。リーダーのJeff Lynne(ジェフ・リン)はアルバム・コンセプトが完成した後で、このナンバーを作曲し、アルバムの"Epilogue"前に収録しました。
 前作"Discovery(邦題:ディスカヴァリー)"よりストリングス寄りからシンセサイザー寄りに切り換え、ポップ度を大幅に上げましたが、本作"Time"ではストリングスがほぼ消え失せてポップでキャッチーなシンセ・サウンドが中心となりました。このため、従来のELO流"ロック"を楽しみにしていたファンからは多少なりとも残念がられ、賛否があがったアルバムでもあります。しかし1曲目の"Prologue"から2曲目の"Twilight"への流れはポップながらもプログレの構成を彷彿とさせます。
 さて、"Hold On Tight"は欧米各国のシングルチャートでトップ10内に入る大ヒット曲となりました。1920年代の映画を見ているかのようなモノクロ・プロモーション・ビデオも話題になり、時折意味不明の日本語らしきテロップも登場するなど、娯楽性の高いビデオもヒットの手助けとなりました。そして、陽の当たった1981年8月15日、Top Tracks Chartで18位に初登場したこの曲は翌週16位、その後10位→8位と上昇し、9月12日付でいっきに2位へジャンプアップしましたが、1位のRolling Stones(ローリング・ストーンズ)の"Start Me Up"が非常に強く(結果13週1位)、他にも注目曲が多くランクインしていたこともあり、この2位を最高位に翌週は9位にランクダウンし、そのままゆっくり下降していきましたが、結果16週チャートインするヒットに恵まれました。Billboard HOT100シングルチャートでは10月3日から2週連続で10位とTop10入りし、19週チャートイン、その年のYear-Endチャートでは100位中、81位を記録しています。

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2018年08月14日

8月14日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1982年8月14日は、アメリカのロック・グループ、Spysのアルバム"S.P.Y.S"がBillboard200アルバムチャートで183位に初登場した日であり、先行シングル、"Don't Run My Life"が88位にエントリーした日です。
 Spysのデビューは1982年ですが、実は、アメリカン・プログレッシブ・ロック・グループのKansas(カンサス)を輩出したレコード・レーベル、Kirshner(カーシュナー)から、1980年に出たSpyとは別グループです。こちらのSpyは、カンサスに似た編成(ヴァイオリニストが在籍)で、カンサスの弟分的存在でしたが人気度はマイナーにとどまりました。
 一方、1980年デビューのSpyは全くの名の知れぬメンバーで構成されましたが、今回ご紹介する1982年デビューのSpysは、1976年に結成されたスーパー・グループ、Foreigner(フォリナー)のオリジナルメンバーでした
Al Greenwood(アル・グリーンウッド。keyboards)とEd Gagliardi(エド・ガリアルディ。Bass)が結成したグループです。とはいっても当時のフォリナーではMick Jones(ミック・ジョーンズ)、Ian McDonald(イアン・マクドナルド)、Lou Gramm(ルー・グラム)といったメジャー級人気のメンバーがいたため、アルとエドはこれら人気メンバーの陰に隠れていたイメージがありましたが、しっかりとした音楽論を持っていて、これが、Foreignerのメンバー間で音楽的相違を生むこととなり、Foreignerの3作目"Head Games(邦題:ヘッド・ゲームス)"リリース前にエドが脱退し、4作目"4(邦題:4)"リリース前にイアンと共にアルが脱退することになるのです。ちょうどフォリナーが"4"をリリースした頃に、アルとエドは"S.P.Y.S"をリリースすることになり、フォリナー・メンバーが同時期に別々にアルバムをリリースする運びとなったことで、Foreignerのファンはおそらく両方とも聴いたでしょうし、ある意味相乗効果が生まれたかもしれません。
 Spysのメンバーは他にJohn Blanco(vo)、Billy Milne(Drums)、John DiGaudio(guitar)で、エドもヴォーカルを披露しており、"S.P.Y.S"の2曲目"She Can't Wait"でもJohn Blancoとの掛け合いが聴けます。
 収録曲は全10曲、全体的にメロディアスなハード・ロックで、Foreigner程の硬派ではないものの、John Elefante(ジョン・エレファン手)在籍時代のカンサスやMickey Thomasが加入した1980年代前半のJefferson Starship(ジェファーソン・スターシップ)の様な、ポップ重視のアリーナ・ロックを展開しています。John Blancoのシャウトする歌声と煌びやかなアルのシンセ、決して派手ではないがしっかりした存在感を出すJohn DiGaudioのギター・プレイ、そして、アメリカのロック・グループ、Journey(ジャーニー)
にも通じる、伸びのある美しいコーラス....特に7曲目の"Don't Say Goodbye"のサビにおけるコーラスとギターソロは美しさこの上ないです。ミドル・テンポの9曲目、"Hold On(When You Feel You're Falling)"はシングルとしてリリースされていたなら、おそらくはシングルチャートを駆け上ったのではないでしょうか。
 さて、先行シングルとしてカットされた1曲目収録の"Don't Run My Life"は陽の当たった1982年8月14日に88位エントリー後、次週は86位、そして8月28日から3週82位を記録し、5週チャートインしました。メインストリームロックチャート(当時は"Top Tracks")では、9月25日付で19位を最高位として10週チャート・インしています。アルバム"S.P.Y.S"のチャート・アクションは、陽の当たった8月14日に183位にエントリー後、171位→166位→154位→154位と来て、9月18日付で138位を記録、3週間この位にとどまり、その後は下降、10週間チャートインしました。そして、かつてのAORのアルバムチャートで人気のあったRadio and Records("R&R"。現在はBillboardに吸収)の1982年年間AORアルバムチャート("R&R"はこの時代、西暦の下二桁分のランクで形成)では全82位中81位と、年間チャートにも刻まれました。
 Spysは1985年に2作目"Behind Enemy Lines"をリリースしましたが、"S.P.Y.S"ほどは振るいませんでした。結局Spysは2枚のアルバムでもって活動が終わりました。

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2018年08月13日

8月13日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1521年8月13日は、アステカ文明がスペイン人コンキスタドール(征服者)のエルナン・コルテス(1485-1547)によって滅ぼされた日です。
 14世紀頃、メキシコ中央高原にて活動が始まったアステカ族は、彼らの守護神であるウィチロポチトリ神の予言に導かれて、メキシコ盆地にあるテスココ湖畔に定住しました。アステカ族はウィチロポチトリ神の予言の信託を受けて、蛇をくわえた鷲がサボテンに止まっている場所に町を建設しました。1325年(1345説もあり)、アステカ族はテスココ湖中に浮かぶ小島に目を向けると、実をたっぷりとつけ、石から生えていたサボテンに蛇をくわえた鷲が止まっているのを目撃しました("蛇をくわえた"には諸説あり)。テスココ湖は南北にのびる大湖でしたが、彼らの目撃した小島は同湖の南北の中心地点にありました。アステカ族は神の予言に導かれるように、湖上に浮かぶ島をテノチティトラン(ナワトル語で"石のように固いサボテン"の意)と名付け、アステカ族の首都として建設しました。これがアステカ文明の始まりであり(1325?-1521)、このサボテンにとまった、蛇をくわえた鷲の光景はのちのメキシコ合衆国の国旗および国章となるのです。
 1375年にアステカは"トラトアニ"という王の称号を用い、4代目イツコアトル王(位1427?/28?-40)の頃に"アステカ帝国(アステカ王国)"を名乗りました。第6代皇帝アシャヤカトル王(位1469-81)の時、アステカのシンボルとなる「暦石(太陽の石。カレンダー・ストーン)」と言われる石を作りました。これは太陽がモチーフになっており、石の中央とその周囲に合計5つの太陽が描かれています(画像はこちらwikipediaより)。中央の太陽は現在の太陽で、周囲に描かれた4つの太陽は過去の太陽を表し、過去のそれぞれの太陽の活動期があり、それら太陽のもとで世界を形成していたとされる神話をうみました。この"五つの太陽"の伝説では、アステカの太陽神および平和神であるケツアルコアトル神("羽根のある蛇"の意)や戦争の神テスカトリポカ神("煙を吐く鏡"の意)が登場します。神話によると、アステカのケツアルコアトル神は白い顔をした男神で、テスカトリポカ神との対決で負け、東に向けてアステカを去ることになり、去り際にケツアルコアトル神は、アステカ暦において"一の葦の年(西暦1519年に相当する)"と言われた年に必ずアステカに戻ると約束したのです。
 宗教儀式においては、アステカは暦学が発達していたため、太陽が消滅するとされる時期が迫ると、それを避けるために人身御供を行い、太陽の平穏化を祈りました。生贄となる人たちは名誉と思い、すすんで自身の心臓をえぐり出すことを望んだといわれます。人身御供においては、平和の神ケツアルコアトル神は人類創造の神でもあるだけに人間の生贄を反対したが、彼を追放させた戦争の神テスカトリポカ神や、アステカ族の軍神であるウィチロポチトリ神は生贄には積極的でした。よって、当時は人身御供に反対していたケツアルコアトル神が東方に去り、アステカには不在でしたので、人身御供は日常的に行われました。
 第8代皇帝アウィツォトル王(位1486-1502)の時にテスココ湖の大洪水がありましたが、これを機に首都テノチティトランは大規模に再建されました。アウィツォトル王の時がアステカ帝国の全盛期とされていますが、その盛時は王の死と共に終わりを告げ、次の第9代皇帝モクステスマ2世(位1502-20)が即位しました。このモクステスマ2世の治世において、アステカ帝国の運命の瞬間が訪れるのでした。つまり"一の葦の年"である1519年、太陽の神であり平和の神であるケツアルコアトル神が復活する年を迎えるのです。
 1519年、ケツアルコアトル神が去った方向である東方において、白い顔をした一行があらわれ、アステカの領域に足を踏み入れました。アステカ族はケツアルコアトル神の化身であると確信し、彼らを迎え入れました。同年の11月8日、一行はテノチティトランに招待され、モクステスマ2世と会見しました。
 モクステスマ2世はさっそく一行をテスカトリポカ神やウィチロポチトリ神の神殿に案内させました。一行は血まみれの祭壇に生贄として捧げられた心臓をまざまざと見せつけられました。人身御供に反対するケツアルコアトル神が去って以降は、テスカトリポカ神が支配するアステカの現状を見てもらう必要があったのです。
 アステカの帝政は神権政治が中心でしたので、皇帝即位においても神から譲り受けた帝位を戴き、また神が再びあらわれた際には帝位を返上するという考え方でした。ケツアルコアトル神の復活によって、モクステスマ2世は一行に対して帝位返上を行い、血縁のあるクィトラワク(1476?-1520)を次期皇帝として推薦しました。こうして、約1週間におよぶ一行への歓待が終わりました。
 しかしその白い顔の一行は、アステカの神々は悪魔であると侮辱して、一行が信仰するキリスト教を主張したのです。実はこの白い顔の一行こそが、ケツアルコアトル神の化身ではなく、アメリカ大陸の征服を目的にやってきたスペイン人コンキスタドール(征服者)、エルナン=コルテス(1485-1547)の一行だったのです。コルテスは上陸前にアステカの隣接する反アステカ勢力を味方に付けていて、兵力・武器・軍船すべて準備は整っていました。
 さらにはこの一行がアステカ上陸を果たした時、この状況を冷静に見たアステカ国民がコンキスタドールの侵略に違いないとモクステスマ2世に説得したにもかかわらず、モクステスマ2世はこの説得を受け入れられなかったために、国民は皇帝への反感が高まっていました。また人身御供になることが名誉だと思っていた人たちからは、彼らが来たことででこの儀式そのものの存亡危機に陥るために、コルテス一行を歓待する皇帝への反感がより高まったのです。同時にモクステスマ2世の退位の呼び声も高まり、甥のクィトラワクへ譲位する動きも出てきました。
 ようやく彼らを征服者だと知ったモクステスマ2世は帝位返上を撤回して、翌1520年コルテス軍に対して攻撃を開始しましたが、すでに国民に嫌われていたモクステスマ2世は、コルテスを迎え撃つ前に、国民をなだめることができなかったのが原因で、アステカ国民の投げた飛礫(つぶて)で頭を撃たれ、1520年6月に没しました。結局クィトラワクが第10代皇帝として即位しましたが(位1520)、この時コルテスの一行によって持ち込まれた天然痘が蔓延し、クィトラワクも伝染、在位3ヶ月足らずで没するという悲運に遭いました。このためモクステスマ2世の従兄弟にあたるクアウテモック(1549?-1525)が第11代皇帝として即位しました(位1520-21)。
 好機と判断したコルテスは1521年4月、反アステカ勢力と連合を組み、数万に及ぶ軍兵を引き連れて攻撃を開始し、同月に首都テノチティトランを包囲しました。激しい攻防の末、陽の当たった8月13日にクアウテモックは捕らえられて廃位させられ、アステカ帝国はついに滅亡しました。
 コルテスはアステカの財宝を探るべく、潔く死を望むクアウテモックをあえて殺さず、彼に対して下半身を火であぶるなどの激しい拷問を行いましたが、彼はそれでも最後まで口を割らず、アステカ皇帝として国家と民を守ろうとしました。しかし1525年2月、クアウテモックはコルテスによって処刑され、アステカ国民の誇りであった湖上の城塞都市テノチティトランは無惨にも破壊されてしまいました。
 スペインの植民地となったアステカ地方は、この後、厳しい搾取・収奪が行われていきました。アステカを征服したスペイン人はこの地を含む北米・太平洋域・カリブ海域一帯、さらにはフィリピンなどアジアの一部をスペイン王国の副王領・ヌエバ=エスパーニャとして統治することになり(1535-1821。当時の日本でも"ノビスパン"の名称で知られました)、テスココ湖は埋め立てられて、破壊されたテノチティトランの跡地では、副王領の首都シウダー=デ=メヒコが建設されました。この都市はその後発展を遂げ、現在のメキシコ合衆国の首都・メキシコシティとなるのでした。 
引用文献:『世界史の目 第197話・運命の来臨


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