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2018年08月12日

8月12日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1972年8月12日は、イギリスのプログレッシブ・ロック・グループ、Yes(イエス)のシングル"America(邦題:アメリカ)"が、Billboard HOT100シングルチャートで86位に初登場した日です。
 Yesの絶頂期であった1971年の"Fragile(邦題:こわれもの)"と1972年の"Close to the Edge(邦題:危機)"の2大名作が産み出された時期に、YesのメンバーとEddie Offord(エディー・オフォード)によってプロデュースされた楽曲で、1970年のSteve Howe(スティーヴ・ハウ。gtr)加入後による最初のツアーでも披露されましたこともありますが、実はこの曲はカヴァー・ソングです。オリジナルはSimon & Garfunkel(サイモンとガーファンクル)で、1968年発表の"Bookends(邦題:ブックエンド)"に収録され、メンバーの1人、Paul Simon(ポール・サイモン)の作です。
 Yesの"America"は1972年11月3日に、レコード・レーベル、Atlanticのサンプラー・アルバムとして発表された"The New Age of Atlantic"に収録され、シングルとしてリリースされました。"The New Age of Atlantic"にはYesの他にLed Zeppelin(レッド・ツェッペリン)、Dr. John(ドクター・ジョン)、Buffalo Springfield(バッファロー・スプリングフィールド)、Delaney, Bonnie & Friends(デラニー、ボニー&フレンズ)、The J. Geils Band(J.ガイルズバンド)等の人気アーティストの楽曲が収められましたが、Yesの"America"以外はすべて既発表曲でした(Led ZeppelinはシングルB面で発表)。つまりこのアルバムで"America"のYesヴァージョンがレコードとして初登場となったわけです。シングルとして発表されたヴァージョンは4分少々に編集されましたが、アルバムに収録されたヴァージョンは10分を超え、イエスらしい、プログレ流大作となりました。オリジナル・ヴァージョンにはありました、アウトロ部分のリピート&フェードが、Yesヴァージョンではそっくり削られているのも特徴です。
 "America"は、Yesのアルバムにとっては1975年発表のベスト盤"Yesterdays(邦題:イエスタディズ)"の1曲目に収められ、その後に発表したベスト盤やライブ盤、リイシュー盤でも幾度か収録されました。HOT100での"America"は、ちょうど"Fragile"からの"Roundabout(邦題:ラウンドアバウト。1972年4月15日に13位を記録)"と、"Close to the Edge"からの"And You and I(邦題:同志。1972年12月16日に42位記録)"の間にチャート・インしています。そのチャート・アクションを見てみますと、陽の当たった1972年8月12日の86位にエントリー後、翌週より70位→59位→48位と順調に上がり、9月9日付から2週46位を記録し、次週の50位で、計7週で圏外に消えていきました。
 "America"を収録した"Yesterdays"は、Billboard200アルバムチャートでは1975年4月12日付で17位を記録しています。

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posted by ottovonmax at 00:00| 洋楽

2018年08月11日

8月11日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1979年8月11日は、アメリカのロック・グループ、REO Speedwagon(REOスピードワゴン)の8枚目のスタジオ・アルバムで、ライブ盤を入れると通算9枚目となるアルバム"Nine Lives(邦題:ナイン・ライヴス)"がBillboard200アルバムチャートで72位にエントリーした日です。
 前作"You Can Tune a Piano, but You Can't Tuna Fish(邦題:ツナ・フィッシュ。1978)"より新ベーシスト、Bruce Hall(ブルース・ホール)が加入しました。若き血が新たに注入されたこのアルバムでは、カットされたシングル2曲はBillboard HOT100シングルチャートでともに50位台にランクされ、アルバムもチャート29位を記録して、デビューした1971年からの労苦が実ったヒットとなりました。
 "You Can Tune a Piano, but You Can't Tuna Fish"は、時を経た1990年10月25日にて、RIAAのダブル・プラチナ・ディスクとして認定される名作となっていきます。ロングセールスを続けるには、その後の活動も腐らずにツアーと楽曲創りをしっかり続けた結果によるもので、今回取り上げる"Nine Lives"、そして次作以降の名盤をリリースすることで栄光を勝ち取ると同時に、それまで過去にリリースされたアルバムが再評価されていき、同じアメリカのロック・グループ、Styx(スティクス)同様、息の長いロック・グループとして現在も精力的に活動を展開しているのです。
 "You Can Tune a Piano, but You Can't Tuna Fish"で揃ったラインナップは、Kevin Cronin(vo,guitar。ケヴィン・クローニン)、Gary Richrath(guitar。ゲイリー・リッチラス。1949-2015)、Neal Doughty(keyboards。ニール・ドーティ)、Alan Gratzer(drums。アラン・グラッツァー)そして前述のBruce Hall(bass。ブルース・ホール)の5人で、1987年の12枚目スタジオ・アルバム"Life as We Know It(邦題:人生はロックンロール)"までこのメンバーは続きます。結論から言うと、このメンバーでグループの黄金時代を築いていくわけです。そして、このメンバーで創り上げた2作目"Nine Lives"で前作を上回る期待が大いに寄せられました。
 この"Nine Lives"というワードは「猫には九つの命がある→簡単には死なない。しぶとい」という意味があり、その後のAerosmith(エアロスミス)やBonnie Raitt(ボニー・レイット)、Robert Plant(ロバート・プラント)、Steve Winwood(スティーヴ・ウィンウッド)らがリリースしたアルバムのタイトルに使用されました。ありふれていると言えばそれまでですが、倒れても倒れても必ず甦る強い姿を見せてくれるという意味合いは、ファンにとっては非常に嬉しいタイトルにも思えます。REOの場合は、この意味だけでなく、ライブ盤を入れて9作目であること、収録曲が9曲であることも意味に含まれています。
 "Nine Lives"では、The Beatles(ビートルズ)もカヴァーした、Chuck Berry(チャック・ベリー)の"Rock and Roll Music"が収録され、この曲を含めて全体的にノリの良い、ご機嫌なロック・ナンバー揃いで、Garyのハード・ロック志向が前作以上に前面に押し出された形となっています。とはいえ決して聴き手が限られるような音作りはしておらず、ハード・ロック要素をふんだんに盛り込みながらも、キャッチーなエッセンスも随所に注入しており、Gary Richrathのヘヴィー部門とKevin Croninのポップ部門が見事に融合した、非常に馴染みやすいアルバムとなっております。
 Gary Richrathの作で、彼が1992年にリリースしたソロ・バンド、Richrathのデビュー・アルバムのタイトルにも使用された3曲目"Only the Strong Survive"が"Nine Lives"からの唯一のシングルとなりました。結果は残念ながらチャートには現れませんでしたが、このアルバムにはもう1つ、ハイライト曲があります。それは、最後に収録された"Back on the Road Again"です。この曲はBruce Hallが書いた曲で、かつBruceがリード・ヴォーカルを取る異色作です。この曲はその後のツアーで定番となり、その後のベスト盤やライブ盤でも大いに聴かれるロック・ナンバーです。個人的には1991年リリースのライブ&ベストアルバム"The Second Decade of Rock and Roll 1981 to 1991"に収録された"Back on the Road Again"のライヴ・ヴァージョンは特に格好良く、イントロではBruceのベース音で始まり、Kevinのかけ声で始まるところが印象的です。
 さて、陽の当たった1979年8月11日、72位でエントリーした"Nine Lives"は、その後64位→46位→42位→38位→34位→34位と上昇、次の9月29日付での33位が最高位となり、その後34位→54位→84位→86位→93位→93位→123位→134位→134位→144位→164位でいったんはチャート圏外に消え、このアルバムの寿命が尽きたかに見えました。ところが、1980年にリリースされた次作"Hi Infidelity(邦題:禁じられた夜)"、および先行シングル"Keep on Loving You(邦題:キープ・オン・ラヴィング・ユー)"がアルバム・シングル共に全米で1位を記録する大ヒットとなり、彼らの黄金時代が到来すると、"Nine Lives"は1981年3月7日付で1年余ぶりに184位で再エントリーしました。そして次週184位→193位→188位と4週間とどまり、通算23週のチャートインとなりました。同じように"You Can Tune a Piano, but You Can't Tuna Fish"やそれ以前のアルバムも再びチャートにエントリーする現象を引き起こしました。
 "Nine Lives"は前作"You Can Tune a Piano, but You Can't Tuna Fish"の29位には及ばない、ゴールド・アルバムにとどまり、前作以上のヒットは結果的には得られませんでしたが、デビューから"Nine Lives"までの10年の労苦は、次作"Hi Infidelity"の誕生で見事結実、優れた楽曲を次々と世に産み出し、黄金時代の到来によってに過去の力作も再評価されていきました。そして"Keep on Loving You"を含む2曲の全米1位シングルの他、11曲のTop40入りシングルと、充実した80年代を謳歌していくのでした。

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posted by ottovonmax at 00:00| 洋楽

2018年08月10日

8月10日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1792年8月10日は、革命期のフランスにおいて、テュイルリー宮殿を襲撃して国王一家を捕らえた事件が勃発した日です。世に言う"8月10日事件"です。
 1789年10月5日に起こったヴェルサイユ行進をきっかけに国民議会がヴェルサイユからパリへ移り、政局はパリが中心となりました。国王ルイ16世(位1774-92)、妃マリ・アントワネット(1755-93)ら一家もヴェルサイユ宮殿からパリ市内のテュイルリー宮殿に移りました。
 1791年6月20日に国王一家の信任が一気に崩れたヴァレンヌ逃亡事件を契機に、革命勃発をもたらした国民議会(1789.6.17-1791.9.30。いわゆる"憲法制定議会"と呼ばれたのは1789年7月9日から)では、共和政を支持する急進左派の台頭を恐れて、憲法制定による秩序維持を急いで1791年9月3日、ついに憲法が制定され(1791年憲法)、翌日はルイ16世も承認し、フランスは立憲君主国となりました。
 憲法制定の目的を果たした国民議会は解散、1791年10月1日に立憲君主制を基軸に立法議会が樹立されました(1791.10.1-1792.9.20)。右翼保守派は立憲君主をしくフイヤン派(立憲君主派。富裕市民・自由主義貴族)で、一方左翼には王政廃止の共和政をしくジャコバン派でした。フイヤン派もジャコバン派もジャコバン・クラブ出身の派閥で、パリのジャコバン修道院に本拠をかまえていました(その後ジャコバン協会と改称)。フイヤン派が脱けたジャコバン・クラブ内では純粋な共和主義者が残りましたが、ジャコバン派は穏和派と最左派に大きく分けられました。穏和派はジロンド派と呼ばれ、商工業を営む中産市民が支持し、王政廃止と共和政宣言、そして革命終結を主目標としました。最左派は貧困市民や農民に指示される山岳派(モンターニュ派)と呼ばれ、急進主義・権力主義を貫いて国王一家の粛清、さらなる革命の推進を主張しました。
 1791年12月、フイヤン派は立憲君主内閣を樹立しましたが不安定で、1792年3月にはジロンド派に内閣を預けますが、対外戦争の連敗で6月に内閣は瓦解、フイヤン派内閣が再び樹立されるも立憲君主制は受け入れてもらえず、7月10日退陣を余儀なくされました。実質的に憲法を定めて立憲君主制をかかげても、国王自らが拒否権を連発してしまい、国王中心のフランス王国を治めることができなかったことで、共和政への期待が再び高まっていきました。フイヤン派内閣退陣の翌日(7月11日)、立法議会では"La Patrie en danger(祖国の危機)"の宣言を発して義勇兵をかき集め、やがてパリにたくさんの無産市民、いわゆるサン・キュロット市民が集結しました。
 立憲君主制が守れなかった政府、対外戦争の敗戦、これらはすべて国王ルイ16世の杜撰な国家管理が原因であると国民は改めてとらえるようになりました。パリに集結したサンキュロットは義勇兵として武装し、王政廃止を叫びました。こうした中で、マリ・アントワネットは、母国オーストリアやプロイセンなど、対戦国の同盟軍に彼らを威圧するよう求め、7月25日に同盟国司令官ブランズウィック(1735-1806。ブラウンシュヴァイク公爵)は王室保護宣言を発表しました。これは、フランス国内の共和派による王室への攻撃は許さないといった内容で、フランス王室の庇護を宣言したものです。かつてマリ・アントワネットの兄で神聖ローマ皇帝レオポルド2世(帝位1790-92)が、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世(王位1786-97)とともに王室保護を掲げた"ピルニッツ宣言(1791.8.27)"に続く、敵からの国王保護でした。
 当然のことながらこの宣言はフランスにも届き、義勇兵を怒らせました。陽の当たった1792年8月10日朝、市民と軍はテュイルリー宮殿を襲撃しました(この様子を描いた描画がこちらwikipediaより)。ルイ16世は徹底抗戦の構えで宮廷軍を出陣させるも、多数のスイス人衛兵が虐殺されました。群衆は宮廷内に押し入り、国王一家を連行しました。両軍合わせて1000人以上の死傷者が出たこの8月10日事件により、国王一家はタンプル塔に幽閉され、新たな革命を達成させたサンキュロット民兵たちは、マルセイユ義勇兵の軍歌"ラ・マルセイエーズ"を誇り高く歌い上げました。この軍歌こそ、現在のフランス国歌です。
 これにより、王権停止が宣言され、ジロンド派内閣が再組織されて、議会では立法議会に代わる国民公会(1792.9.20-95.11.2)が誕生、フランス第一共和政が誕生し(1792-1804)、新たな局面を迎えていきます。

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posted by ottovonmax at 00:00| 歴史

2018年08月09日

8月9日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1986年8月9日は、Billboard HOT100シングルチャートにおいて、"超天才"と謳われたイギリスのミュージシャン、Steve Winwood(スティーヴ・ウィンウッド)のシングル"Higher Love(邦題:ハイヤー・ラブ)"がTop10入りした日です。3週間後この曲は、スティーヴにして初の全米制覇を成し遂げました。
 それまでスティーヴは、本国イギリスでThe Spencer Davis Groupのようなリズム&ブルース色の濃いビート・バンド、Trafficのようなサイケデリック/アート・ロック・バンド、そして元祖スーパー・グループであるBlind Faithのようなブルース・ロック・バンドと、それぞれ全く異なるジャンルで活動を歩んできましたが、ソロ・デビュー以降は、ブルー・アイド・ソウルのポップ路線に重点を定め、名作と誉れ高い2作目の"Arc of a Diver(邦題:アーク・オブ・ア・ダイヴァー。1980)"ではシンセサイザーを巧みに利用してより耳に馴染みやすい音楽を追求、1曲目の"While You See a Chance(邦題:ユー・シー・ア・チャンス)"が大ヒット、 全米7位を獲得しました。アルバムもBillboard200アルバムチャートで3位を記録し、円熟した音を聴かせてくれました。
 ロックの域にとどまらず、ソウルやダンス・ミュージックのテイストを取り入れて、数々の楽器を使いこなし、魔法使いのように魅力的な音楽を次から次へと創出していくスティーヴの才能は、1986年の4作目"Back in the High Life(邦題:バック・イン・ザ・ハイ・ライフ)"で見事に花開きます。そして、その先行シングルとして、1曲目の"Higher Love"が選ばれました。
 当時、スティーヴ・ウィンウッドを知らない人にとっては、アルバム・ジャケット写真、歌声、サウンド、参加ミュージシャンの名前などから、彼を黒人と勘違いした人も多くいたとされています。スティーヴ流のソウル/リズム&ブルースを世に知らしめたアルバム、そしてシングルだったのです。ジャンルのこだわり関係なく、当時の音楽を愛好する人なら必ずや目に留まったかもしれないほどに愛されたアルバム、シングルだったと思います。
 "Hirger Love"は、バック・コーラスにChaka Khan(チャカ・カーン)、ギターにNile Rodgers(ナイル・ロジャース)といった、ソウル/ファンクで活躍している豪華ミュージシャンが参加しているのも特徴で、女性が多数参加した魅力的なプロモーション・ビデオにおいても2人はしっかり出演してその場をグーンと盛り上げており、セクシーに歌い込むスティーヴがより引き立ちます。
1986年6月14日付HOT100で77位に初登場、その後62位→47位と来て4週目でTop40入り(40位)、続いて、34位→27位→18位→12位と順調に上昇し、陽の当たった8月9日付で8位にトップ10入りを果たしました。そして4位→2位と来て、8月30日に1位を獲得、全米初のシングル1位を記録しました。追いかけるダンス・ポップ・グループ、Bananarama(バナナラマ)の"Venus"(邦題:ヴィーナス)が予想以上のチャート・アクションを見せていたため、翌週にはあっさりと1位の座をBananaramaに明け渡してしまい、下降をたどりましたが、22週チャートインして、この年のBillboard HOT100のYear-Endチャートでは20位にランクされ、この年を代表する1曲となりました。なお、メインストリームロックチャート(当時はAlbum Rock Tracks)では一足早く7月19日付で1位を獲得しています。
 また1987年のGrammy Awardsにおいて、"Higher Love"はRecord of the YearBest Male Pop Vocal Performanceを受賞しました。全米3位(1986.9.6)を記録したアルバム"Back in the High Life"は、Grammy受賞の効果もあり、結果86週チャート・イン、トリプル・プラチナ・ディスクに認定されました。シングルも"Hirger Love"以降、3曲のTop40入りを果たしました。
 余談ですが、陽の当たった8月9日、この陽は"Higher Love"のTop10入りだけではありません。この曲を1990年にカヴァーした人の誕生日でもありました。1963年8月9日生まれのWhitney Houston(ホイットニー・ヒューストン。1963-2012)です。彼女の3作目"I'm Your Baby Tonight(邦題:アイム・ユア・ベイビー・トゥナイト)"のJapanese edition bonus tracks(日本盤ボーナス・トラック)の1曲に収められております。

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2018年08月08日

8月8日は何に陽(ひ)が当たったか?

 870年8月8日は、ヨーロッパでメルセン条約が結ばれ、現在のフランスドイツイタリアの基礎が誕生した日です。
 481年にクローヴィス1世(王位481-511)創始のメロヴィング朝(481-751)より始まったフランク王国(481-887)では、751年からはカロリング家がフランク王を継承、カロリング朝(751-987)を興し、フランク王国の黄金期を現出しました。
 とりわけカール大帝(カール1世。王位768-814)の時代には、東ローマ帝国(ビザンツ帝国。395-1453)に対抗して西ローマ帝国(395-476)の復興を狙うローマ教皇との関係がより密接となり、いわゆる"カールの戴冠(800)"によってカール大帝はローマ皇帝となり(帝位800-814)、フランク王国は帝政を合わせ持つ強力な国家となりました。
 しかしそのカール大帝は814年1月に没し、フランク王国の分割相続の慣習により、3人の嫡男に領土を3分割して相続することになりました。しかしそのうち2人はカールが死去するまでに亡くなり、結局ただ1人残った嫡男であるルートヴィヒ(ルイ。778-840)がカロリング家を継承し、敬虔王ルートヴィヒ1世(王位814-840。帝位814-840)としてカロリング朝を維持しました。
 ルートヴィヒ1世は最初の妃との間にロタール(795-855)、ピピン(797-838)、ルートヴィヒ(804-876)という3人の男児を残しました。817年、ルートヴィヒ1世は、領土3分割の法令を下して3人の子どもたちに領土を生前に分割相続し、ピピンにはフランス南西部のアキテーヌ方面を、ルートヴィヒにはバイエルン方面を、そして長男ロタールには残りのイタリアを含む広範囲をそれぞれ生前相続しました。イタリア地方を任されたロタールは父ルートヴィヒ1世と共同統治者としてローマ皇帝ロタール1世として即位し(帝位817-855)、ピピンとルートヴィヒを副帝とし、次の世代も万全と思われました。
 しかし妃が818年に没し、翌年新たな妃と結婚したルートヴィヒ1世は、2人の間に子シャルル(823-877)をもうけました。ルートヴィヒ1世は先に生まれた3子よりもこのシャルルを溺愛したため、先の領土3分割の法令を改正し、シャルルにも領土を分け与えようとしましたが、ロタール1世、ピピン、ルートヴィヒら3兄弟は自身の領土が削られることを嫌がり、父ルートヴィヒ1世に盾突いて反乱を起こしました。その後にピピンが亡くなり(838)、2年後の840年に父ルートヴィヒ1世も領土継承を解決できないまま亡くなってしまい、残されたロタール1世ルートヴィヒシャルルの異母兄弟に領土をめぐって新たな対立が生まれました。
 ロタール1世はフランク王国における分割相続の慣習を捨て、全領土を相続しようと考えたのです。弟ルートヴィヒはこれに反対し、これまで対立していた異母弟のシャルルと同盟を結び(842)、2人はロタール1世を敵として大規模な内戦を引き起こしました。結果はルートヴィヒシャルルが勝利し、フランク王国の本格的な領土分割が話し合われました。
 843年8月10日、協議はフランス北東部のヴェルダンにて行われました。まず長男ロタール1世はロレーヌ地域以北(ロタリンギア)、プロヴァンス地方、ブルゴーニュ地方など現在のフランス東部・ドイツ西部の区域、そしてイタリア北部の領土を継承し、ローマ皇帝の帝位を分与されました。ロタール1世の名をとり、獲得したロタリンギアという名はのちにドイツ語のロートリンゲンやフランス語のロレーヌの名で残されました。ロタール1世の王国は中部フランク王国(843-855)として、初代中部フランク王ロタール1世の統治で始まりました(中部フランク王位843-855)。
 続く2番目の弟ルートヴィヒについては、ほぼライン川以東のフランク王国東部を獲得して東フランク王国(843-962)をつくり、初代東フランク王ルートヴィヒ2世(東フランク王位843-876)となりました。
 そして、異母弟のシャルルについては、ガリア地方を中心とするフランク王国西部を獲得して西フランク王国(843-987)となり、初代西フランク王シャルル2世(西フランク王位843-877)となりました。これら843年のヴェルダン条約によって、カロリング家は分裂、3つのフランク王国にそれぞれカロリング朝が鼎立する形で決着することになりました。
 ヴェルダン条約締結後、しばらくは安定していましたが、855年に中部フランク国王のロタール1世が没しました。ロタール1世は生前に3人の子どもたちに分割相続することを決めており、長男ロドヴィコ(822?-875)にはローマ皇帝位およびイタリアが、次男ロタール(826?-869)にはロタリンギアが、三男シャルル(845?-863)にはプロヴァンス方面がそれぞれ分与されました。これは結果的に中部フランク王国の消滅を意味しました。
 イタリアおよびローマ皇帝位を継いだ長男ロドヴィコイタリア王およびローマ皇帝ロドヴィコ2世(王位・帝位855-875)としてイタリア王国(855-875)を、ロタリンギアを継いだ次男ロタールはロタリンギア王ロタール2世(王位855-869)としてロタリンギア王国(855-870)を、プロヴァンスを継いだ末子シャルルはプロヴァンス王シャルル(王位855-863)としてプロヴァンス王国(855-870)を、それぞれ統治することになりました。
 この結果、フランク王国から端を発した分国は、東フランク王国(ルートヴィヒ2世)、西フランク王国(シャルル2世)の2国に、中部フランク分裂後のイタリア王国(ロドヴィコ2世)、ロタリンギア王国(ロタール2世)、プロヴァンス王国(シャルル王)の3国が加わり、合計で5国となりました。
 そして860年代にも大きな波乱が訪れました。863年にプロヴァンス王シャルル王、869年にロタリンギア王国のロタール2世が相次いで王位継承者を残さぬまま没してしまったのです。
 ここで、東フランク王国のルートヴィヒ2世西フランク王国のシャルル2世は、バラバラになった中部フランク王国の再分割を協議することになりました。まずプロヴァンス王国については、直後にロドヴィコ2世がいったんプロヴァンス王位を引継ぎました(王位863-870)。ロタリンギア王国については、西フランクのシャルル2世がロタリンギア王位を受け継ぎました(ロタリンギア王位869-877)。
 そして870年、ロドヴィコ2世は引き続きイタリアとローマ皇帝の位に専念するため、プロヴァンスを西フランク・シャルル2世に譲りわたしました。プロヴァンス王国を受け継いだ西フランク王シャルル2世はプロヴァンス王としても即位しました(王位870-877)。この結果、ルートヴィヒ2世の東フランク王国と合わせると、フランク王家は再び3国にまとまりました。こうしてヴェルダン条約後の領土再分割は、陽の当たった870年8月8日、現オランダのメルセンで取り交わされたメルセン条約で最終的に決着しました。
 ルートヴィヒ2世の東フランク王国シャルル2世の西フランク王国、そしてロドヴィコ2世のイタリア王国の形成が整い、東フランク王国はドイツ西フランク王国はフランス、そしてイタリア王国はイタリアと、その後のヨーロッパの歴史を彩っていく三大国家の基礎がつくられたのでした。

引用文献『世界史の目 216話

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2018年08月07日

8月7日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1876年8月7日は、"マタ・ハリ"という芸名として知られるマルガレータ・ゲールトライダ・ゼレ(1876-1917)の誕生した日です。
 オランダ北部のレーワルデン(フリースラント州)で、陽の当たった8月7日にマルガレータは産まれました。4人兄弟の長女として、比較的裕福な家で育ち、その天性の美貌で周囲から好意を寄せられていたマルガレータでしたが、彼女が13歳の時に父親の破産して以降は一転して不幸に見舞われ、両親の離婚、母の死、一家離散を経験しました。代父(キリスト教の洗礼の立会人をつとめる人)に引き取られてレーワルデン南西のスネークに移住、その後彼女は幼稚園教師になるためにライデン(南ホラント州)にて学業に励みますが、学長との痴戯が発覚し、マルガレータは代父に見限られてライデンを追われ、叔父の住むハーグに逃げ込みました。1895年、オランダ領東インド(現在のインドネシア)の陸軍大尉Rudolf John MacLeod(1856-1928)とアムステルダムで結婚し、1897年にジャワ島のマランに移住して2人の子どもに恵まれ、安定した生活が戻ったかに見えました。
 しかしその後、夫の酒癖や暴力、子どもの病死、そしてマルガレータの不義などで家庭が破綻していき、1902年にマルガレータは夫と別れ、1903年にフランスへ旅立ちました。そして夫とは1906年に離婚が成立しました。こうしたこともあって家庭を離れていたマルガレータは、フランスへ向かうまでにインドネシアの伝統を学ぶ中、ジャワの伝統舞踊の知識を積んだと言われています。
 フランス・パリでのマルガレータとしての人生は、ムーラン・ルージュなどのダンスホールで、ダンサーとして出発しました。芸名"マタ・ハリ"は、マレー語で"太陽の眼"を意味し、露出度の高い衣装を身にまといながら、ショーダンスを見に来た大勢の客を酔わせました。いわゆるストリップ・ショーでした。
 当時のフランスは、イギリスやロシアと三国協商(1891年の露仏同盟、1904年の英仏協商、1907年の英露協商の協調。1917年まで継続)の一員として協調関係を築いており、ドイツ、オーストリア、イタリアの三国同盟(1882-1915)とは敵対した国際関係でありました。とはいえ、マルガレータは表の顔はダンサー、マタ・ハリとして、裏では高級娼婦(クルチザンヌ)として多くの男性達と夜を共にしました。ダンサーとしてのマルガレータは1912年頃までで、その後はクルチザンヌ中心の生活へと変わっていきました。天性の美女が世に知れ渡り、相手となった男性は、次第に数々の政府の要人や高位軍人らにまでおよんでいきました。中には国家的に影響力を持つ人物が相手になることもありました。世間では、マタ・ハリは誘惑や籠絡を武器にいろいろな国家の要人や軍人と戯れつつ、多くの機密情報が流れる温床にもなっていると噂をするようになりました(諸説あり)。
 第一次世界大戦(1914-18)が始まり、大戦に挑んだヨーロッパ諸国は、他国との国際関係を明確に示すことになりました。フランスはドイツを相手に数々の戦線で戦いました。こうした中で、1917年2月、マルガレータはスパイとしてフランス当局に逮捕されてしまいました。罪状はダンサーのマタ・ハリがドイツのスパイであるというもので、当時ドイツ潜水艦Uボートが無制限潜水艦作戦によってフランス船を撃沈させたのも彼女の諜報活動が下地になっているというものでした(諸説あり)。独仏間の戦線では戦況が一時的にフランス劣勢にたたされていた時期も災いし、裁判の結果、マルガレータはドイツが差し向けたスパイとして諜報活動(ヒューミント)を行い、フランスの国家機密を漏洩した罪として有罪判決となり、死刑が宣告されました。
 1917年10月、マルガレータはサンラザール刑務所にて銃殺刑に処され、41歳の人生に幕が下ろされました。処刑時、彼女は毅然とした態度で目隠しを拒否したとされ、銃殺寸前で衣類をはだけ、一糸まとわぬ姿で銃で撃たれた、あるいは銃殺寸前に執行者に投げキスをしたなど、クルチザンヌとしての職務を全うするような伝説や噂話が残されました。
 その後、マルガレータは、ダンサー、"マタ・ハリ"として映画や舞台にフィクションとして題材にされ、歴史的なハニー・トラップや女性スパイの代表的人物として位置づけられるようになりました。

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2018年08月06日

8月6日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1806年8月6日は、ハプスブルク家(正確にはハプスブルク・ロートリンゲン家)のフランツ(1768-1835)が、神聖ローマ皇帝フランツ2世(帝位1792-1806)として、ローマ皇帝の冠を下ろした日です。神聖ローマ皇帝を退位したことにより、帝位が消滅、962年から始まった(狭義ではカールの戴冠があった800年から)神聖ローマ帝国は、1806年の陽の当たった8月6日をもって、名実ともに滅亡しました。
 神聖ローマ帝国を構成し、その配下にあった各ドイツ領邦は、1648年のウェストファリア条約によって主権を認められて、結果300もの領邦国家が誕生し、諸侯の自立とともに神聖ローマ帝国の統一国家的な機能は抑えられました。
 当時からこれら諸侯が自立したことにより、有名無実と化した神聖ローマ帝国の存在を、ドイツ諸邦内では精神的な地位として置き換えられました。皇帝を輩出してきたハプスブルク家は、最強のドイツ系貴族を誇り、帝国の統一が失われてもローマ皇帝の冠を頑なに守り、一方ではハプスブルク帝国(1526-1804)として自身の領地であるオーストリア(当時はオーストリア大公国。1457-1804)、そして支配領域であるベーメン(ボヘミア)やハンガリーなどに力を入れながらも、ローマ皇帝の存在を見せつけてドイツ領邦とは比較的安定した関係を続けました。そして1740年に神聖ローマ皇帝カール6世(帝位1711-40)が男子継承者を残さず没し、ハプスブルク家の男系が絶えますが、娘のマリア・テレジア(1717-80)が家督を継ぎ(オーストリア継承戦争の直接の原因、果ては七年戦争の遠因にもなる)、ロレーヌ公出身の夫とともにハプスブルク・ロートリンゲン家としてドイツ諸侯の権威を轟かせ続けたことで神聖ローマ帝国は精神的地位でありながらも帝国として生きながらえていきました。そのマリア・テレジアの夫で、神聖ローマ皇帝として王座についたのが、フランツの祖父に当たる神聖ローマ皇帝フランツ1世(帝位1745-65)です。
 フランツ1世のあと、長子ヨーゼフ2世(帝位1765-90)、ヨーゼフの弟レオポルド2世(帝位1790-92)、そしてレオポルドの長子であるフランツ2世と帝位が移り変わりましたが、この間にフランス革命がおこり(1789-1799)、フランツ2世の時に第一次対仏大同盟(1793-97)に加わり、フランス革命軍と対戦しました。フランス革命が終結すると、今度はナポレオン時代(1799-1815)が到来、ナポレオン・ボナパルト(1769-1821)は他のヨーロッパ諸国に脅威をもたらします。
 この時フランツ2世は、もはや形骸化した神聖ローマ帝国を守るよりも、母国オーストリア大公国を強化することを決断し、1804年ハプスブルク帝国をオーストリア帝国(1804-67)に改めてオーストリアを大公の国家ではなく、オーストリア皇帝の国家としてフランツ2世の威厳を示しました。フランツ2世はオーストリア初代皇帝フランツ1世として即位したのです(オーストリア皇帝位1804-35)。これにて、実質上の皇帝の誕生で、名目上しか存在しなかった神聖ローマ帝国における帝位の必然性が急速に薄れていきました。
 そこへフランス皇帝ナポレオン(ナポレオン1世。帝位1804-14,1815)の手が及び、オーストリア皇帝フランツ1世(神聖ローマ皇帝フランツ2世)は、ロシア皇帝アレクサンドル1世(帝位1801-25)と手を結び、皇帝ナポレオン1世と会戦しました。3人の皇帝が顔を合わせる、文字通りの三帝会戦でした(アウステルリッツ三帝会戦。1805-12.12)。しかしこの会戦ではナポレオン1世率いるフランスが勝利を収め、フランツ率いるオーストリアは敗戦国となり、プレスブルクの和約で講和しました(1805)。初代オーストリア皇帝としては厳しい船出となりましたが、フランツはハプスブルク家当主、オーストリア皇帝、そして神聖ローマ皇帝として、フランスへの報復を強く誓いました。
 陽の当たった1806年8月6日、ナポレオンは神聖ローマ帝国を精神的存在として認めていたドイツ領邦をフランスと同盟させ、神聖ローマ帝国から切り離しました。これをライン同盟といいます。盟主はナポレオン、名目上存在していた神聖ローマ帝国政府の宰相で、もとマインツ大司教カール(大司教位1802-03。宰相任1802-06)を、ライン同盟総裁およびライン同盟首座大司教侯としました。これにより、オーストリア皇帝フランツ1世は、神聖ローマ皇帝フランツ2世としての帝位を放棄し、神聖ローマ帝国は名実ともに消滅、神聖ローマ皇帝としてのハプスブルク家の地位は完全に終わりを告げました。
 神聖ローマ皇帝の冠を辞したフランツは、オーストリア皇帝フランツ1世として、再びハプスブルク家の黄金時代をもたらせるため、そしてフランスへの報復と神聖ローマ皇帝時代の失地を回復するため、全幅の信頼を寄せたメッテルニヒ(外相任1809-48。宰相任1821-48)を強力な右腕として任用し、メッテルニヒはこれに答えて国際会議を開催、主宰者として新たな国際秩序を築くことを志しました。これがウィーン会議(1814-15)です。このウィーン体制によってライン同盟は消滅し、代わって発足されたドイツの国家連合であるドイツ連邦(1815-66)が誕生しました。このドイツ連邦においてオーストリアは盟主となり、オーストリア皇帝フランツ1世は1835年に没するまで、ドイツ連邦国家元首として名実ともに君臨するのでありました。

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2018年08月05日

8月5日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1772年8月5日は、ポーランド分割が始まった日です。
 1572年にヤゲウォ朝(1386-1572)が断絶したポーランドでは、選挙王制が行われるようになりました。貴族(シュラフタ)、とくに大貴族(マグナート)が選挙で国王を選ぶため、貴族の独裁化が強まっていきます。貴族は富裕化していき、農奴制強化による農民の圧迫、さらに商業における外国の介入などで、ポーランドは国家的には統一感がなくなり、やがてコサック(ウクライナやロシア南島部辺境への流亡農民や没落貴族などによって形成された国境防備の戦士集団。普段は牧畜や狩猟、交易などを行う自治共同体)が反乱を起こしたり(1648)、ロシア軍やウクライナ軍の侵攻もおこり、ポーランドは弱体化していきました。弱体したポーランドにまずつけ込んだのがスウェーデン国王カール10世(王位1654-60)で、リヴォニア(バルト海東岸一帯)の領地確保のための遠征を行いました(ポーランド・スウェーデン戦争。1655-60)。新教国スウェーデンは同じ新教国プロイセンやトランシルヴァニア(現ルーマニア中・北西部)の軍とともに、ポーランド全土を大量の新教国軍で囲い込みました。この有り様は"大洪水"と称され、これまでポーランドの服属を受けていたプロイセンは、1657年、支配から解き放たれました。この戦争によってポーランドは没落を早め、1700年にはロシア皇帝ピョートル1世(帝位1682-1725)と、スウェーデン国王カール12世(王位1697-1718)とのバルト覇権の争奪戦(大北方戦争。1700-21)に、ポーランドがデンマークとともにロシア側について戦う羽目となり、ポーランドはロシア軍の駐屯地と化し、ロシアの支配下状態に陥りました。また1733年、王位継承によるポーランド継承戦争が起こり(1733-35)、フランス王ルイ15世(王位1715-74)をはじめ、ロシア、オーストリアを巻き込み、国力は完全に疲弊しました。この時期になると、貴族身分は諸外国からの買収の対象となっており、国家的機能を持たない地方分権化状態であったため、常に諸外国が干渉するようになっていました。このようにポーランドはプロイセンやロシア、オーストリアなど、啓蒙絶対君主のいる強国によって、いつ国土を奪われてもいい状態となりました。
 ロシア皇帝エカチェリーナ2世(位1762-96)は、ポーランドのロシア化をめざすため、ポーランド国王として元愛人スタニスワフ2世(王位1764−95)を就任させることに成功しました。そして、陽の当たった1772年8月5日、プロイセンの王フリードリヒ2世(大王。王位1740-86)は、オーストリアのマリア・テレジア(ハプスブルク家。1717-80)とともに、ロシアに分割を提案し、これに応じます。結果ポーランドはロシア、オーストリア、プロイセンによって分割が敢行され、ポーランドは国土の約4分の1を分割されてしまいました。これが第一次ポーランド分割です。
 1793年にはフランス革命(1789〜1799)の波及でポーランド国内にも憲法制定を目指す改革派が生まれたことに乗じて、プロイセンとロシアによる分割がはじまり、愛国者コシューシコ(コシチューシコ。1746-1817)の義勇蜂起かなわず第二次ポーランド分割は行われました。そして1795年の第三次分割で、オーストリアも再び加わり、3国でポーランドを攻めて、とうとう全土分割を完了し、最後のポーランド王スタニスワフ2世は退位することになりました。3度にわたった強国の分割によって、ポーランドは一時消滅することになりました。
引用文献:『世界史の目 第35話

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2018年08月04日

8月4日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1979年8月4日は、アメリカのプログレッシブ・ロック・グループ、Kansas(カンサス)のシングル"People of the South Wind(邦題:まぼろしの風)"がBillboard HOT100シングルチャートで最高位23位を記録した日です。
 ダブルギター(Kerry LivgrenRich Williams)、ダブルキーボード(Kerry Livgren、Steve Walsh)、ダブルヴォーカル(Steve Walsh、Robby Steinhardt)、ヴァイオリン(Robby Steinhardt)のユニークな構成に加え、強力なリズム隊であるドラマーPhil EhartとベーシストDave Hopeの6人編成は1974年のデビュー作"Kansas(邦題:カンサス・ファースト・アルバム)"から1980年まで続きました。4作目スタジオ・アルバム"Leftoverture(邦題:永遠の序曲。1976)"、5作目"Point of Know Return(邦題:暗黒への曳航。1977)"の大ヒットで一気にスターダムにのしあがり、それぞれBillboard200アルバムチャートで5位、4位を記録し、"Point of Know Return"からは初めてのトップ10入りシングル"Dust in the Wind(邦題:すべては風の中に)"が誕生しました(全米6位。プラチナディスク認定)。名実ともに、アメリカン・プログレの威力を世に知らしめた彼らは、前作に当たる2枚組ライブ・アルバム"Two for the Show(邦題:偉大なる聴衆へ。1978)"で一区切りを付けました。それは2作目以降からKansasの音楽を最大限に完成させたプロデューサー、Jeff Glixmanとの決別とともに、Kansasのセルフ・プロデュースの挑戦でした。
 "Two for the Show"からセルフ・プロデュースで挑み、Billboard200アルバムチャートでは32位でしたが、2枚組にもかかわらずプラチナディスクに認定され、人気の高さを証明したのです。特に2枚目最後に収録された、6部構成の"Magnum opus(邦題:超大作。オリジナルは'Leftoverture'より)"は、イントロからアウトロの歓声までの11分18秒の迫力は、次作に繋がる驚異にも感じられます。
 そして1979年5月に6枚目のスタジオ・アルバム"Monolith(邦題:モノリスの謎)"がリリースされました。Kansasのセルフ・プロデュースによる初のスタジオ・アルバムです。しかもコンセプト・アルバムで、南米にあったインカ帝国の伝説"モノリス"がテーマになっています。アルバム・カヴァーも独自のコンセプトで、どこかSF的、特撮的なのが魅力的です。1曲目に収録された"On the Other Side(邦題:オン・ジ・アザー・サイド〜謎の沈黙〜)"からいきなりのドラマティックなナンバーで始まるこのアルバムではありますが、7分越えの大作は影を潜め、全12曲中"On the Other Side"を含む3曲がせいぜい6分半前後にとどまっています。しかし内容は非常に充実しており、これぞKansasと言われるトリッキーでスリリングな音楽は、わずか3〜6分の全収録曲の中にギッシリと満たされており、Kansas独特の緊張感を味わうことができます。当時の日本においても人気は高く、翌年1月に初来日公演を行い、この模様を収録したプロモ盤"Monolith Tour 1980 in Japan"も出されたほどでした。
 さて、このアルバムから第1弾シングルとして選ばれたのが、"People of the South Wind(邦題:まぼろしの風)"です。"Point of Know Return"では"Dust in the Wind"、"Two for the Show"では"Lonely Wind(邦題:寂しき風。全米60位。オリジナルはデビュー作'Kansas'より)"といった"Wind(風)シリーズ"の3枚目です。しかし全2作とは異なりテンポはアップビートで、一聴ポップで心地良いロック・ナンバーですが前述の通り、3分41秒の本作の中にはヴォーカルが入る前のキーボード、ギター、バイオリンの三重奏からなるイントロの構成や間奏部分のドラマティックなギターソロ、そしてサビのSteve Walshのリード・ヴォーカルとRobby Steinhardtのバッキング・ヴォーカルの見事な合わせ技など、隙の無いナンバーで現在においてもなお色褪せてはいません。
 チャートは1979年6月2日付HOT100で74位でエントリー後、58位→46位と上昇、4週目で39位とTop40入りを果たし、その後は33位→30位→28位→26位→24位と上昇、陽の当たった8月4日、最高位23位を記録し、その後は下降、12週チャートインしました。なお第2弾シングルはアルバム最後に収録された比較的静かなナンバー"Reason to Be(邦題:リーズン・トゥ・ビー)"で、52位まで上がりました。アルバムは依然として強く、Billboard200で1979年6月30日から2週10位とトップ10入りを果たし、プラチナディスクに認定されております。

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2018年08月03日

8月3日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1984年8月3日は、アメリカのロック/ニュー・ウェイヴ・グループ、The Cars(ザ・カーズ)のシングル、"Drive(ドライブ)"がBillboard HOT100シングルチャートで51位に初登場した日です。同時に翌4日にはBillboardのメインストリームロックチャート(当時はTop Rock Tracks)で最高3位を記録しました。
 当時のメンバーはRic Ocasek(リック・オケイセック。vo,gtr,key)、Benjamin Orr(ベンジャミン・オール。vo,bass。2000没)、Elliot Easton(エリオット・イーストン。gtr)、Greg Hawkes(グレッグ・ホークス。key)、そしてDavid Robinson(デヴィッド・ロビンソン。drums)の5人組で、1978年のデビュー作"The Cars(邦題:錯乱のドライブ)"から4作連続でプラチナディスクに認定、前作"Shake It Up(邦題:シェイク・イット・アップ)"ではタイトル曲"Shake It Up(邦題:シェイク・イット・アップ)"にして、グループ初のHOT100シングルチャートTop10入りを果たしました(4位)。
 1984年5月、5作目としてリリースされた"Heartbeat City(邦題:ハートビート・シティ)"も順調な滑り出しで、先行シングル"You Might Think(邦題:ユー・マイト・シンク)"はHOT100で7位を記録、Top Rock Tracksでは堂々の1位を記録、セカンド・シングルの"Magic(邦題:マジック)"はHOT100で12位、Top Rock Tracksで2作連続の1位に輝きました。さらに"You Might Think"ではプロモーション・ビデオが大いに評価され、MTVでの1984 MTV Video Music AwardsではMichael Jackson(マイケル・ジャクソン)の"Thriller(邦題:スリラー)"、Herbie Hancock(ハービー・ハンコック)の"Rockit(邦題:ロックイット)"、Cyndi Lauper(シンディー・ローパー)の"Girls Just Want to Have Fun(邦題:ハイスクールはダンステリア)"、The Police(ポリス)の"Every Breath You Take)(邦題:見つめていたい)"といった強力なノミネートをはねのけて、この年のVideo of the Yearに輝き(そのビデオがこちらYouTubeより)、シングルリリースと同時に、"ビデオと言えばカーズ"と言えるほどの大きな期待が寄せられたものでした。
 さて、"You Might Think"、"Magic"ともリックがヴォーカルを取っておりましたが、第3弾シングルとしてリリースされたこの"Drive"は、ベンジャミンがヴォーカルを取ったナンバーです。ひねりの効いたリックのヴォーカルに対し、ソフトなベンジャミンのヴォーカルでさらなる勝負をかけました。カーズの音楽は、シンセサイザーの採り入れた楽曲はこれまでも多く見受けられましたが、本アルバムでは全体的には一段とポップ性が強まっており、特にミドルテンポの"Drive"ではギター音はやや抑えられて、ゆったりと流れるシンセサイザーによってより耳に馴染みやすく、表現は緩いですが、どこか可愛さも感じられるラブ・ソングに仕上がっています。
 "Who's gonna 〜"と、ひたすら恋仲だった女性に対して気にかけ、嫉妬の念を抱きながらも、今でも彼女にふさわしいのは自分なのにと、次第に遠のいていく恋人を想う内容にもとれる歌詞を、ベンジャミンが優しく歌い上げます。カーズがこれまでリリースした楽曲の中でも一段とポップになったこの曲は、陽の当たった1984年8月4日付で51位にエントリー後、2週目で34位とTop40入りを果たし、続いて27位→18位→14位と順調にアップし、6週目で10位に入りました。そして7位→5位と上がり、9月29日付けで3週続けて3位を記録し、このあと下降、19週チャートインしました。51位にエントリーした翌日はTop Rock Tracksではすでに最高位となる3位を記録しました。ロック風ではなかったためか、"You Might Think"、"Magic"に続く1位にはなりませんでしたが、6月30日付で9位にTop10入りした後、6位→7位→5位→4位→3位(8月4日付)→4位→3位(8月18日付)→4位→4位→3位(9月8日付)→5位→9位と実に13週もTop10内にとどまり、断続的ではありますが、このチャートでも3週3位を記録しました(結果21週チャートイン)。結果的にはカーズのシングルでは最高のヒットとなり、彼らの代表曲となったのです。
 現在のリック・オケイセックの妻Paulina Porizkovaは、"Drive"のプロモーション・ビデオでリックと恋人役で共演しました。ビデオは歌詞内容に忠実に再現した作風に仕上がっており、Paulinaの可憐な演技も印象的でした(ビデオはこちらYouTubeより)。ベンジャミンは2000年に亡くなりましたが、彼の遺志は10年の時を経て、オリジナルメンバーによる再結成(2010年)にて立派に引き継いでいます。

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