新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
2018年07月23日
7月23日は何に陽(ひ)が当たったか?
"Speaking in Tongues"は1983年6月にリリースされました。前作"Remain In Light(邦題:リメイン・イン・ライト)"はBillboard200アルバムチャートで初めてTop20入りを果たし(19位)、RIAAでのゴールド・ディスクに認定されました。この頃のトーキング・ヘッズは、ライブハウス"CBGB"で活動していたデビュー時の荒削りなパンク・サウンドはすでに消え失せ、ファンクやアフロ・ミュージックを大胆に取り入れたエスニック・サウンドと、これらを音だけでなく、身振り手振りや顔つきなどい全身で表現する中心人物のDavid Byrne(デヴィッド・バーン。vo,gtr)の個性あるキャラクターで、異彩を放ったニュー・ウェイヴ・バンドとして評価されはじめておりました。特に"Remain In Light"の"Crosseyed and Painless"は完全なファンクで、プロモーション・ビデオも黒人ダンサーが踊りまくり、"Once in a Lifetime"ではアート感漂うポップ・ソングで、ビデオもデヴィッド・バーンの奇想天外なダンスで注目が集まりました。これらはプロデューサーとソングライティングに関わったBrian Eno(ブライアン・イーノ)のボーダーレスな音感覚の影響もさることながら、イーノがトーキング・ヘッズの持つグルーヴ感を引き出せたことも大きな要素でありました。
"Remain In Light"の後、メンバーのChris Frantz(クリス・フランツ。drms)とTina Weymouth(ティナ・ウェイマス。bs)夫妻によるプロジェクト"Tom Tom Club(トムトムクラブ)"の活動や、Jerry Harrison(ジェリー・ハリスン。gtr,key)のソロアルバム"The Red and the Black(邦題:赤と黒)"の発表があるなどして次の"Speaking in Tongues"の発表までおよそ2年半のインターバルができました。
"Speaking in Tongues"ではブライアン・イーノとは別れを告げ、トーキング・ヘッズのセルフ・プロデュースとなりました。独特のアート感やファンキーなサウンドは前作同様でしたが、これにアメリカナイズされたポップな作風が加わり、シングルカットされた"Burning Down the House"も非常にポップで、前作の"Crosseyed and Painless"や"Once in a Lifetime"とは一線を画したナンバーでした。"Burning Down the House"のプロモーション・ビデオも、メンバーの形態模写が登場したり、バーンの顔が夜の路上に浮遊しながら映し出される印象的なシーンなど、グループのユーモア感たっぷりに仕上がっています。
陽の当たった1983年7月23日、Top Rock Tracksチャートに8位にエントリーした"Burning Down the House"は、翌週は39位に急降下しました。しかし次には13位と盛り返し(当時のロック・チャートにはこうしたチャートアクションはよくありました)、8月13日付で8位とトップ10入りを果たします。そして10位にダウンするも8月27日付で6位に上昇し、この日が最高位となりました。その後は下降し、結果19週チャートインしました。Top Rock Tracksに初めて顔を出したトーキング・ヘッズの摩訶不思議なチャート・アクションでした。
一方、Billboard HOT100シングルチャートでの"Burning Down the House"は、セカンド・アルバム"More Songs About Buildings and Food(邦題:モア・ソングス)"収録で、ソウル・ミュージシャンのAl Green(アル・グリーン)のカヴァー、"Take Me to the River(邦題:テイク・ミー・トゥ・ザ・リバー。26位)"以来のTop40入りを果たしたどころか、1983年10月22日に第9位を記録、トーキング・ヘッズ唯一のトップ10入りしたヒット曲となりました。
中古価格 |
新品価格 |
新品価格 |
新品価格 |
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
2018年07月22日
7月22日は何に陽(ひ)が当たったか?
前作にあたる6枚目のスタジオ・アルバム"Unguarded(邦題:初めての誘惑。1985年)"では、カットされたシングルが初めてのHOT100に登場しました("Find Away"と"Wise Up"。それぞれ29位と66位)。しかしエイミーにとっては、クリスチャン・ミュージック・シーンではこの時既に不動の地位を確立しており、BillboardのHot Christian Songsチャートでは既に4曲の1位獲得者でした。アルバムとしても、本作"The Collection"においてもBillboard Hot Christian Albumsチャートでは、同月同日付から翌々1988年4月30日付までの間、ベスト盤としては異例の通算29週の1位を獲得し、381週もチャートインしました。
しかしエイミー・グラントにとって、クリスチャン・ミュージック界における彼女のこれまでの功績にしてみれば当然のヒット・アルバムと言えました。それは過去のHot Christian Albumsチャートを見れば一目瞭然でした。デビュー作"Amy Grant(1977)"の12位から始まり、2作目"My Father's Eyes(1979)"、3作目"Never Alone(1980)"、4作目"Age to Age(1982)"、5作目"Straight Ahead(1984)"、そして6作目"Unguarded"と、2作目以降のスタジオ・アルバムは本作まで1位を獲得し続けたのです。またこの間の1981年には2枚のライブ盤("In Concert"と"In Concert Volume Two")を、1983年にはクリスマスアルバム"A Christmas Album"をそれぞれリリースしています。"A Christmas Album"は、Hot Christian Albumsではロングセールスを続け、最終的にプラチナ・ディスクに認定されました。
スタジオ・アルバムの中でもとりわけ"Age to Age"は特筆すべきアルバムで、Billboard200ではチャートインすらしませんでしたが、Billboard Hot Christian Albumsチャートにおいて、1982年の7月17日付から1984年の4月26日付間、実に85週間、連続して1位を獲得し続ける驚異的な記録を打ち立てました。2018年現在で、単独ミュージシャンとして17枚のアルバム1位を獲得、累積週数333週1位の獲得はHot Christian Albumsチャートにおいて最多記録です。まさにクリスチャン・ミュージック・シーンでのスーパースターです。
さて本作"The Collection"には、全17楽曲が収録されましたが、2作目"My Father's Eyes"から前作"Unguarded"までの代表曲がズラリと並び、大ヒット作"Age to Age"からは"El Shaddai"や"Sing Your Praise to the Lord"を含む4曲が収録されております。ただし3作目"Never Alone"の収録曲"Too Late"はライブ盤"In Concert Volume Two"からのチョイスです。また"A Christmas Album"からも"Emmanuel"が収録されました。
一方、デビュー作"Amy Grant"からは収録はありませんでしたが、別の形で収録されました。それは1983年にリリースされたEP盤"Ageless Medley"がごっそり本作最後に収められたのです。この"Ageless Medley"は、"Age to Age"人気が続いている中でリリースされて、過去のアルバム収録曲から数曲ピックアップされ、メドレー方式にしたもので、しっかりとデビュー作"Amy Grant"から"Old Man's Rubble"がチョイスされています。ちなみに前述の"Too Late"もしっかりメドレーの中に入っております。
また、本作リリースに合わせ、2曲の新曲も収録されました("Stay for Awhile"と"Love Can Do")。前者は本作1曲目を飾るミドルテンポのアダルト・コンテンポラリー・ナンバーで、エイミーと共にクリスチャン・ミュージック・シーンを盛り上げるミュージシャン、Michael W. Smith(マイケルWスミス)がキーボーディストとソングライティングとして参加する他、ポップロックグループ、Mr. Mister(Mr.ミスター)の中心人物、Richard Page(リチャード・ペイジ)がバック・ヴォーカルで参加しています。
本作の後、エイミーは1988年リリースの7枚目スタジオ・アルバム、"Lead Me On(邦題:自由の歌)"のヒットを挟み(Billboard200:71位、Hot Christian Albums:9週1位)、1991年の8枚目スタジオ・アルバム、"Heart in Motion(邦題:ハート・イン・モーション)"で総合チャートでも上位へ駆け上がり(Billboard200:10位、Hot Christian Albums:16週1位)、先行シングル"Baby Baby(邦題:ベイビーベイビー)"のナンバーワン獲得を含む4曲がHOT100のTop10に入り、ポップス界においてもスターダムにのし上がったのです。
新品価格 |
新品価格 |
新品価格 |
新品価格 |
新品価格 |
新品価格 |
新品価格 |
中古価格 |
中古価格 |
新品価格 |
Two for One: Unguarded / Straight Ahead 中古価格 |
新品価格 |
新品価格 |
新品価格 |
2018年07月21日
7月21日は何に陽(ひ)が当たったか?
The Fabulous Thunderbirdsは野太くかつ柔らかな歌声の持ち主であるバンドのヴォーカリスト、Kim Wilson(キム・ウィルソン,vo)と、ブルース・ギタリストのJimmie Vaughan(ジミー・ヴォーン。gtr)の2大看板で知られる、当時4人組編成のテキサス・ブルース・バンドです。ジミーは同じく名ブルース・ギタリストのStevie Ray Vaughan(スティーヴィー・レイ・ヴォーン。1954-1990。1990年8月27日事故により没)の兄としても有名です。
、前作"Tuff Enuff"からはタイトル曲"Tuff Enuff"がBillboard HOT100シングルチャートで10位まで駆け上がる大ヒットを記録し、セクシーなプロモーション・ビデオも話題になりました。個人的に大好きな"Wrap It Up"は1968年に人気ソウル・デュオSam and Dave(サム&デイブ)が放ったアルバム"I Thank You"に収録され、シングルとなったタイトル曲のB面に使用された楽曲で、"Isaac Hayes(アイザック・ヘイズ。1942-2008)とDavid Porter(デヴィッド・ポーター)のコンビで作られた格好いいナンバーで、Tバーズとしてもシングル・カットされ、50位まで上がりました。プロモーション・ビデオで左足を後ろの壁に突っかけてギターを弾くジミーの姿に酔いしれました。
前作の好評を博してリリースされた本作"Hot Number"は、彼らの持ち味を充分に発揮したブルース・アルバムはもちろんなのですが、前作に続くキャッチーなメロディも忘れずに練り込まれ、非常に耳に馴染みやすい楽曲が並びます。"Wrap It Up"風のノリの良いロック・ナンバーで、先行シングルとなった"Stand Back"はHOT100は76位止まりでしたが、メインストリームロックチャート(当時はAlbum Rock Tracks)ではトップ10入りを果たし(8位)、当時の人気の高さを証明しました。かつての音楽雑誌で、アメリカのロック・グループ、REO Speedwagon(REOスピードワゴン)のKevin Cronin(ケヴィン・クロウニン。vo,gtr)が当時絶賛していましたタイトル曲"Hot Number"は、シングルカットはされなかったですが、ザックザックとくるギターリフが心地よく、サザン・ロックにも通じたノリの良い楽曲です。またブルージーなバラード"Wasted Tears"やハイテンポな"It Comes To Me Naturally"といった特徴的なナンバーや、"Stand Back"をはじめとする、ゲスト参加のThe Memphis Hornsにおけるホーン・セクションがなんとも格好いい""Streets Gold"や"Sofa Circuit"など、テキサス・ブルースを基調としながらもポップで痛快なロックナンバーがズラリと並びます。
彼らの人気はこのあとも続き、サントラ盤"Cocktail(邦題:カクテル)"の挿入歌として彼らのナンバー"Powerful Stuff"がヒットしました(HOT100で65位、Album Rock Tracksで3位)。
しかし、この曲を収録したアルバム"Powerful Stuff(1989年)"を最後に、ギタリストのジミー・ヴォーンが脱退しました。メンバーチェンジ後のT・バーズは原点回帰であるブルース・アルバムの制作に臨み、1991年に8枚目のスタジオ・アルバム"Walk That Walk, Talk That Talk"をリリースします。メインストリームロックチャートで7位を記録した、同アルバム収録の"Twist Of The Knife"を最後に、ポップ/ロックのチャートエリアから徐々に遠ざかっていき、本場のテキサス・ブルースに活動を戻し、現在でも精力的な活動を行っています。
新品価格 |
Tuff Enuff/Roll of the Dice/Hot Number 新品価格 |
Powerful Stuff & Walk That Walk, Talk That Talk 新品価格 |
Powerful Stuff / Walk That Walk Talk That Talk 新品価格 |
新品価格 |
2018年07月20日
7月20日は何に陽(ひ)が当たったか?
中央アジアのソグディアナ(アラル海に注ぐアムダリヤ川とシルダリヤ川の中間地帯)では、君主ティムール(帝位1370-1405)の率いるティムール帝国(1370-1507)が猛威を振るっていました。
オスマン帝国(1299-1922)に領土を奪われたトルコ系部族("ベイ"といいます)たちをティムールが保護したことを理由に、オスマン皇帝バヤズィト1世(バヤジット1世。帝位1389-1402)は、ティムールとの対立を深めていきました。その上ティムールが保護したベイたちを楯に、バヤズィト1世に対し帰順を要求してきました。バヤズィト1世は要求を拒否したため、ティムールは陽の当たる1402年7月20日、アンカラ近郊のチュブク草原でオスマン帝国相手に戦争を起こしました。これがアンカラの戦いです。
ティムール軍は約20万、オスマン軍は約12万と、兵力ではオスマン軍は不利でしたが、"電光"の異名を持つバヤズィト1世の巧みな戦術が豊富で、過去においても輝かしい戦歴をもったオスマン軍の方が有利に見えました。サマルカンドから遠路行軍し、やっとの思いでアナトリア(小アジア)に入ったティムール軍に対して、バヤズィト1世はすぐさま攻撃するはずでした。
しかしオスマン軍にいたベイの旧家臣たちがバヤズィト1世を裏切り、ティムール軍に寝返ってティムールに保護されたベイのもとへ移ってしまう事態に陥り、兵力はさらに落ちて即時攻撃する時機を逸してしまったのです。巧みな騎馬戦で攻撃するティムール軍にオスマン帝国の軍隊であるイェニチェリも奮戦しましたが限界を感じ、敗色が濃くなるとイェニチェリは帝国の存続を第一に考え、王子と宰相を連れて撤退しました。取り残されたバヤズィト1世は捕虜となって、翌年拘留された状態のまま亡くなったといわれています(1403)。
引用文献:『世界史の目 第264話』より
オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」 (講談社現代新書) 新品価格 |
2018年07月19日
7月19日は何に陽(ひ)が当たったか?
20世紀最後の先進国首脳会議となった沖縄サミットが2000年7月21日から3日間開催され、これを記念して発行されました。また世間ではミレニアムイヤーとして祝福されたことにも因み、前年の小渕恵三内閣にて発案され、翌2000年(この年より森喜朗内閣)において発行されました。
オモテ面は沖縄サミットに因んで守礼門が描かれ、ウラ面には『源氏物語絵巻』に登場する光源氏(左)、冷泉院(右)、そして右端に紫式部が描かれました。絵巻の詞書(ことばがき)も一部分が載せられました。
2003年以降では二千円紙幣の製造は止められ、現在ではシワや折り目の無い新札を取得することは困難になってきています。よって全国的な普及は減少傾向にあって、自販機やATMでの使用は限られるようになりました。こうした中、沖縄では現在においても日常的に使用されており、二千円札の流通普及率は高く、二千円札を優先的に払出せるATMもあります。
当然に、二千円紙幣は現在においても日本銀行で発券されている正真正銘の銀行券であり、日本全国で使用できる紙幣です。
(表面の画像はこちら。裏面の画像はこちら。wikipediaより)
中古価格 |
紙幣と硬貨BEST200―1300年の歴史を繋ぐ日本貨幣の真実 (英和MOOK) 新品価格 |
2018年07月18日
7月18日は何に陽(ひ)が当たったか?
Eric Bazilian(エリック・バジリアン)とRob Hyman(ロブ・ハイマン)が中心となって1983年、アルバム"Amore(邦題:アモーレ)"でデビューしたフーターズは、他のアメリカン・ロック・バンドとは一線を画した、特徴的なサウンドを持ち味としていました。マンドリンやメロディカ(鍵盤ハーモニカ。通称"フーター"はバンド名の由来となった)、アコーディオンなど、庶民の身近な楽器を大胆に採用し、ロックにスカやレゲエをはじめ、欧米各地の民族音楽を採り入れて耳に馴染みやすいサウンドで親しまれ、現在も活動を行っております。
また前述のエリックとロブは有能なクリエイターで、アメリカのミュージシャン、Cyndi Lauper(シンディー・ローパー)の1983年の全米ナンバー・ワン曲、"Time After Time(邦題:タイム・アフター・タイム)"はシンディとロブの共作であり、Patty Smyth(パティ・スマイス)の1987年のソロ・デビュー・アルバム"Never Enough(邦題:ネヴァー・イナフ)"よりシングルカットされたタイトル曲でも、エリックとロブがソングライティングに関わっておりました。
"Amore"はチャートでは成功には至りませんでしたが、1985年、2枚目に当たる前作"Nervous Night(邦題:眠れぬ夜)"からは、4曲のシングルがチャートインし、アルバムもBillboard200アルバムチャートで12位まで上がる大ヒットとなり、一躍脚光を浴びました。世界ツアーも大成功し、次作に大きな期待が寄せられました。
そして1987年7月、3作目"One Way Home"がリリースされました。第1弾シングルとして"Johnny B"がカットされました。
タイトルの"Johnny B"はもちろん人名で、友人がジョニーに対し、ジョニーを籠絡(ろうらく)しようとする女性から手を引けと説得、警告する歌詞内容で、リード・ヴォーカルはロブが担当しています。サウンドはリコーダーのイントロで始まるものの、力強いハードロック風で、間奏や終盤のギターソロで劇的に盛り上げていき、最後にリコーダーで終わるという、歌詞内容ともマッチした音作りで、プロモーション・ビデオもその歌詞内容を再現した作りとなっております。
フーターズは親日家として知られ、シンディー・ローパーより日本の知識や情報を交換したり、ライブや来日時の日本の音楽番組で、エリックが"上を向いて歩こう"を日本語で弾き語るなどして話題になりました。事実、"Johnny B"はサビの"Johnny B, how much there is to see〜"の部分を完全日本語ヴァージョンも存在します。
Album Rock Tracksチャートでは1987年7月11日付けで27位にエントリーし、陽の当たった7月18日に18位にランクされます。その後12位→6位とジャンプ・アップし、8月8日に最高位となる3位を記録しました。翌週に5位にダウンしますが、翌々週にまた3位に上がり、2週続けてその後は下降しました。結局3週3位を獲得し、10週間チャートインしました。一方、HOT100シングルチャートでは振るわず、陽の当たった18日に87位でエントリーするも、その後73位→70位→67位→64位とじわじわランクアップしますが、次の61位を最高位にその後は下降し、結果11週のチャートインで終わりました。しかしヨーロッパでは人気で、ドイツでは7位と健闘しました。
NERVOUS NIGHT/ONE WAY HOME/ZIG ZAG 新品価格 |
新品価格 |
新品価格 |
2018年07月17日
7月17日は何に陽(ひ)が当たったか?
1917年2月23日、ペトログラード(現、サンクトペテルブルク)にてロシア革命(二月革命)が勃発しました。食糧危機の不安によって、大規模な労働者ストライキが激化し、労働者や兵士はソヴィエト(労兵会)を大々的に結成して抵抗、革命支持派に退位を迫られたニコライ2世は3月2日これを受託し、代々ツァーリ(ロシア皇帝)を輩出したロマノフ家は、皇族の地位を奪われました。
ニコライ2世には、政局に加わっていた妻アレクサンドラ皇后(1872-1918)との間に、第一皇女オリガ(1895-1918)、第二皇女タチアナ(1897-1918)、第三皇女マリア(1899-1918)、第四皇女アナスタシア(1901-18)の四女と、兄弟の中では末子で、長男のアレクセイ皇太子(1904-18)の一男の7人家族でした(写真は1913年のもの、真ん中にアレクサンドラ皇后とニコライ2世を囲むように、左から時計回りに、マリア、オリガ、タチアナ、アナスタシア、アレクセイの順。wikipediaより)。
1918年5月、ニコライ2世の一家は全員、エカテリンブルクのイパチェフ館(画像はこちら)に送り込まれました。イパチェフ館は地下室付きの二階建ての大きな館で、商人イパチェフの館を接収したもので、ロシア共産党は"特別目的の館"と改称しました。しかし、ここに7人の一家のほかに、主に血友病を患うアレクセイを診察する一家の主治医エフゲニー・ボトキン(1865-1918)、アレクサンドラ皇后のメイドであるアンナ・デミドヴァ(1878-1918)、フットマン(召使)のアレクセイ・トルップ(1856-1918)、一家の料理人イヴァン・ハリトーノフ(1870-1918)ら、他には彼らを警備する兵士も同居したため、かなり窮屈な生活となりました。窓ガラスも石灰で塗られ、館の周囲には高い柵が張り巡らされ、食事も皇族と従者分け隔てなく順番に共用しなければなりませんでした。アレクセイは持病が悪化して寝たきりになりがちでした。彼らは、反革命を取り締まる警察(チェカ。KGBの前身)に関わっていたヤコフ・ユロフスキー(1878-1938)が率いる警備隊によって監視されました。
1917年7月4日(グレゴリオ暦7月17日)未明、すでに一家は就寝していましたが、ユロフスキーが2階にある主治医エフゲニー・ボトキンの部屋に入ってきました。"反革命軍がこの館に迫ってきたため、今すぐ一家と従者たちを連れて、地下室へ移動しなさい"と命じられ、全員は起こされて地下室2階へ移動しました。
一家たちを待っている地下室にユロフスキーとその部隊が入ってきました。ユロフスキーは、ソビエト政府に発せられた命令を読み上げました。それは処刑の宣告で、部隊は銃殺部隊でした。地下室に移された一家と従者たちは驚愕も束の間、銃殺部隊によって一斉銃撃を受け、ニコライ2世とアレクサンドラ皇后、そしてオリガ、タチアナ、マリア、アナスタシア、アレクセイら子どもたち、そして主治医エフゲニー・ボトキン、メイドのアンナ・デミドヴァ、フットマンのアレクセイ・トルップ、料理人イヴァン・ハリトーノフら、ニコライの従者たちは、銃殺部隊より発射されたおびただしい量の銃弾を浴び、全員非業の死を遂げました。銃撃で致命傷を免れたとしても、銃剣で何度も刺されたり、銃床で殴られたりして殺害されました(処刑の現場となった、地下の一室の画像はこちら。※閲覧注意)。
これにより、ニコライ2世とアレクサンドラ皇后の血統は断絶しました。
中古価格 |
中古価格 |
ニコライ二世とアレクサンドラ皇后―ロシア最後の皇帝一家の悲劇 中古価格 |
ニコライ二世とその治世―戦争・革命・破局 (ユーラシア・ブックレット) 新品価格 |
中古価格 |
2018年07月16日
7月16日は何に陽(ひ)が当たったか?
打ち上げるアポロ11号のロケットはサターンV 型ロケットで、現地時間1969年7月16日午前9時32分、ケネディ宇宙センターで打ち上げられました。ホワイトハウスでは、リチャード・ニクソン大統領(任1969-74)がその瞬間をモニターで見ていました。
打ち上げられたロケットではその後、司令機械船CSM-107が切り離され、その端にアポロ月着陸船LM-5とのドッキングに成功しました。
19日、CSM-107のエンジン点火後、月の軌道に乗りました。そして20日に月のいわゆる"ウサギの顔"の部分に相当する"静かの海"に着陸しました。人類史上初の、月面着陸がここにおいて達成されました。ニール・アームストロング船長(1930-2012)は着陸後、"Houston, Tranquility Base here. The Eagle has landed(ヒューストンへ。こちら静かの海基地です。イーグルは舞い降りました)."と発信、"イーグル"とは着陸船LM-5のコールサインです。そして月面に足を踏み入れる瞬間(この動画がこちら。wikipediaより)を、世界中の人類が固唾をのんで見守っていました(世界各地のおよそ6000万人が見守っていたと言われます)。
日本時間の1969年7月21日午前11時56分、アームストロング船長とバズ・オルドリン操縦士(wikipediaより)はついに月の地面に足を踏み入れました。そして、アームストロング船長は、有名なこの言葉を投げかけました。
"That's one small step for [a] man, one giant leap for mankind.(これは[一人の]人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である。)"
7月24日に無事帰還し、飛行士たちに大きな賛辞と祝福が送られました。
ドラゴン 1/72 NASA アポロ11号 月面着陸 (司令船コロンビア&月着陸船イーグル) プラモデル DR11001 新品価格 |
新品価格 |
amt 1/200 アポロ11号 サターンV型ロケット(月着陸船付属) 新品価格 |
絵画風 壁紙ポスター (はがせるシール式) 月面着陸 アポロ11号 1969年 NASA キャラクロ NAS-009A2 (A2版 420mm×594mm) 建築用壁紙+耐候性塗料 新品価格 |
2018年07月15日
7月15日は何に陽(ひ)が当たったか?
本作のラインアップは、Jon Anderson(ジョン・アンダーソン。lead vocals, harp)、Steve Howe(スティーヴ・ハウ。guitars, vocals)、Chris Squire(クリス・スクワイア。bass, vocals。2015年没)、Rick Wakeman(リック・ウェイクマン。keyboards)、Alan White(アラン・ホワイト。drums)の5人で、"Relayer"との間にキーボーディストのPatrick Moraz(パトリック・モラーツ)が退き、Rick Wakemanが再び戻ってきました。
3作目"The Yes Album(邦題:サード・アルバム。1971年)"に始まり、4作目"Fragile(邦題:こわれもの。1971年)"、5作目"Close to the Edge(邦題:危機。1972年)"そしてライブ盤の"Yessongs(邦題:イエスソングス。1973年)"を挟んで6作目"Tales from Topographic Oceans(邦題:海洋地形学の物語。1973年)"、そして7作目の"Relayer"までの3年と約9ヶ月という期間に絶頂期を現出したイエスは、"Relayer"の活動後、区切りとして、絶頂期前のデビュー作"Yes(邦題:ファースト・アルバム。1969年)"、および2作目"Time and a Word(邦題:時間と言葉。1970年)"を中心に構成された"Yesterdays"をリリースし、イエスのこれまでのすべてを、絶頂期が冷めないうちに知らしめました。
一方で、メンバーはこの区切りの期間、自由にソロ・アルバムの制作を行いました。1975年、スティーヴ・ハウは"Beginnings(邦題:ビギニングス)"を、クリス・スクワイアも"Fish Out of Water(邦題:未知への飛翔)"をそれぞれリリースし、1976年にはアラン・ホワイトが"Ramshackled(邦題:ラムシャックルド)"を、またYesを脱退したパトリック・モラーツも"( The Story of ) I"をそれぞれリリースしました。そして同年、大トリとしてジョン・アンダーソンが"Olias of Sunhillow(邦題:サンヒローのオリアス)"をリリースしたのです。
この区切りの期間でリフレッシュした彼らは、心機一転をはかり、8作目"Going for the One"の制作に取りかかりますが、当初アルバム・タイトルは"The Yes New Album"も候補に挙がっていたと言われており、文字通り3作目でり、絶頂期を現出した最初のアルバム"The Yes Album"にあやかろうとしたことが窺え、新しいイエスを大前提として"Going for the One"は制作されました。レコーディングはパトリック・モラーツの故郷、スイスのモントルーにあるMountain Studios(マウンテン・スタジオ。現、Queen: The Studio Experience)が選ばれました。
また2作目"Time and a Word"から一貫してエンジニアをつとめ、"The Yes Album"よりイエスとともに共同プロデュースを行い、6人目のYes"と呼ばれたEddie Offord(エディー・オフォード)は本作には参加せず、イエスのセルフ・プロデュースで、マウンテン・スタジオのハウス・エンジニア、John Timperley(ジョン・ティンパーレイ。2006年没)が加わり、そのアシスタント・エンジニア、David Richards(デヴィッド・リチャーズ。2013年没)はQueen(クィーン)やDavid Bowie(デヴィッド・ボウイ)のプロデューサーとして有名です。
大きな変更と言えば、アルバム・ジャケットのデザインです。"Fragile"以降、イエスのアルバムの幻想的なスリーヴ・デザインはRoger Dean(ロジャー・ディーン)が手がけてきましたが、本作はイエスのロゴのみロジャーの作品を採用し、これを除くすべてのデザインをアート集団のHipgnosis (ヒプノシス)が手がけました。
リハーサル半ばにしてパトリックの脱退という憂き目にあったものの、リック・ウェイクマンの再加入で陣営が整い、1977年3月、ようやく"Going for the One"は完成、陽の当たった7月15日にリリースされました。
収録曲は全部で5作品。
A面(アナログ)
1."Going for the One(邦題:究極)"。ジョン作。time5:30。
2."Turn of the Century(邦題:世紀の曲がり角)"。ジョン、スティーヴ、アラン共作。time7:58。
3."Parallels(邦題:パラレルは宝)"。クリス作。time5:52。
B面
1."Wonderous Stories(邦題:不思議なお話を)"。ジョン作。time3:45。
2."Awaken(邦題:悟りの境地)"ジョン、スティーヴ共作。time15:38。
8分近いA-2や15分を超えるB-2など、大作傾向は依然として続いているものの、これまでの難解でスリリングなインプロヴィゼーションを聴かせるサウンドではなく、ソフトで親しみやすいロック・ナンバーで構成されています。
特にタイトル曲となったA-1はスティーヴ・ハウのスティール・ギターが美しく、一瞬ハワイに来たような錯覚を受けるノリのいいロック・ナンバーですが、ジョン作の歌詞は相変わらず知的で難解(?)です。ゆったりとしたA-2はのちにトリビュート盤でAnnie Haslam(アニー・ハズラム)のヴォーカルとスティーヴ・ハウのアコースティックギターでカバーされましたが、本作のオリジナルでは、バラードながらもスティーヴのエレキ・ソロが終盤で効果的に盛り上げ、最後はアコースティックギターでしめるという絶品そのものです。そして、曲の切れ目なくA-3が始まります、クリス作の元気なロック・ナンバーで、リック・ウェイクマンはマウンテン・スタジオから離れたスイス西部のVevey(ヴェヴェイ)にある教会、St Martin's Churchのパイプ・オルガンを使用し、スタジオと電話でつないでテンポを確かめながら録音した話は、ファンの間ではよく知られた話です。
B-1は小品ですが、ジョンの歌声がやさしく耳に届く癒やしのバラードで、シングルとしてリリースされ、UKシングルチャートで初めてチャートインし、1977年9月17日付で7位まで上昇した名曲です(チャート・アクションととしては31位でエントリーし、13位→16位→7位→14位→13位→18位→18位→36位。計9週間チャートイン)。ちなみにA-1がセカンド・シングルで、11月26日付で24位を記録しています。
そして、最後のB-2はイエスお得意の大作です。聴いてすぐにそれとわかる、でもやっぱりすごいと言わざるを得ないリックの早引き奏法のイントロで始まり、スティーヴの"Close to the Edge"にも迫るスリリングなギター・プレイ、ドラマティックに盛り上げるジョンの澄み切ったな歌声、ギター並みにズシンとくるクリスのベース音、アランの迫力あるドラミング、そして終盤の神秘的なパートは"Close to the Edge"内の"I Get Up, I Get Down"を彷彿とさせて、静かに終わっていきます。"静"と"動"を巧みに使い分けて、15分という長さを忘れてしまうくらいの魔法のようなナンバーです。
この"Going for the One”は、UKアルバム・チャートでは堂々の1位を獲得、"Tales from Topographic Oceans"以来の1位獲得です。アメリカのBillboard200アルバム・チャートでは8位を記録、英米仏3カ国でゴールド・ディスクに認定されました。イエスの再出発はひとまず成功に導くことができたのでした。
新品価格 |
新品価格 |
Tales from Topographic Oceans(3CD Blu-ray) 新品価格 |
新品価格 |
新品価格 |
新品価格 |
2018年07月14日
7月14日は何に陽(ひ)が当たったか?
「ひまわり」は愛称で、当時の正式名称をGMS(Geostationary Meteorological Satellite。静止気象衛星)といいました。気象庁と宇宙開発事業団(ナスダ。NASDA。National Space Development Agency of Japan)が開発した気象衛星で、アメリカのフロリダ州ケープカナベラル空軍基地で打ち上げられ、翌1978年4月に運用が開始されました。「ひまわり」というネーミングは、ナスダの初代理事長をつとめた島秀雄(しま ひでお。1901-98)が園芸の趣味を持っており、植物の名前をつけようとしたのが発端とされています。
その後「ひまわり」は改良を重ねていき、2号機からは種子島宇宙センターで打ち上げられました。GMSシリーズは5号まで作られ、2005年まで機能しました。「ひまわり6号」と「ひまわり7号」はMTSAT(エムティーサット。Multi-functional Transport Satellite。運輸多目的衛星)と呼ばれ、2014年に打ち上げられた「ひまわり8号」は解像度や観測バンド数、そして耐久度が格段に上がり、カラー画像の撮影も可能になるなど大きくパワーアップしました。
2016年11月、「ひまわり9号」の打ち上げに成功し、2022年に「ひまわり8号」に代わって運用の予定です。
価格:4,860円 |
【中古】 「ひまわり」で見る四季の気象 雲画像の見方 /日本気象協会【編】,気象衛星センター【監修】 【中古】afb 価格:1,649円 |
価格:3,024円 |
青島文化教材社 1/32 ペースクラフトシリーズ No.7 気象衛星ひまわり プラモデル 新品価格 |