2018年07月20日
7月20日は何に陽(ひ)が当たったか?
1402年7月20日は、アンカラの戦いが起こった日です。
中央アジアのソグディアナ(アラル海に注ぐアムダリヤ川とシルダリヤ川の中間地帯)では、君主ティムール(帝位1370-1405)の率いるティムール帝国(1370-1507)が猛威を振るっていました。
オスマン帝国(1299-1922)に領土を奪われたトルコ系部族("ベイ"といいます)たちをティムールが保護したことを理由に、オスマン皇帝バヤズィト1世(バヤジット1世。帝位1389-1402)は、ティムールとの対立を深めていきました。その上ティムールが保護したベイたちを楯に、バヤズィト1世に対し帰順を要求してきました。バヤズィト1世は要求を拒否したため、ティムールは陽の当たる1402年7月20日、アンカラ近郊のチュブク草原でオスマン帝国相手に戦争を起こしました。これがアンカラの戦いです。
ティムール軍は約20万、オスマン軍は約12万と、兵力ではオスマン軍は不利でしたが、"電光"の異名を持つバヤズィト1世の巧みな戦術が豊富で、過去においても輝かしい戦歴をもったオスマン軍の方が有利に見えました。サマルカンドから遠路行軍し、やっとの思いでアナトリア(小アジア)に入ったティムール軍に対して、バヤズィト1世はすぐさま攻撃するはずでした。
しかしオスマン軍にいたベイの旧家臣たちがバヤズィト1世を裏切り、ティムール軍に寝返ってティムールに保護されたベイのもとへ移ってしまう事態に陥り、兵力はさらに落ちて即時攻撃する時機を逸してしまったのです。巧みな騎馬戦で攻撃するティムール軍にオスマン帝国の軍隊であるイェニチェリも奮戦しましたが限界を感じ、敗色が濃くなるとイェニチェリは帝国の存続を第一に考え、王子と宰相を連れて撤退しました。取り残されたバヤズィト1世は捕虜となって、翌年拘留された状態のまま亡くなったといわれています(1403)。
引用文献:『世界史の目 第264話』より
中央アジアのソグディアナ(アラル海に注ぐアムダリヤ川とシルダリヤ川の中間地帯)では、君主ティムール(帝位1370-1405)の率いるティムール帝国(1370-1507)が猛威を振るっていました。
オスマン帝国(1299-1922)に領土を奪われたトルコ系部族("ベイ"といいます)たちをティムールが保護したことを理由に、オスマン皇帝バヤズィト1世(バヤジット1世。帝位1389-1402)は、ティムールとの対立を深めていきました。その上ティムールが保護したベイたちを楯に、バヤズィト1世に対し帰順を要求してきました。バヤズィト1世は要求を拒否したため、ティムールは陽の当たる1402年7月20日、アンカラ近郊のチュブク草原でオスマン帝国相手に戦争を起こしました。これがアンカラの戦いです。
ティムール軍は約20万、オスマン軍は約12万と、兵力ではオスマン軍は不利でしたが、"電光"の異名を持つバヤズィト1世の巧みな戦術が豊富で、過去においても輝かしい戦歴をもったオスマン軍の方が有利に見えました。サマルカンドから遠路行軍し、やっとの思いでアナトリア(小アジア)に入ったティムール軍に対して、バヤズィト1世はすぐさま攻撃するはずでした。
しかしオスマン軍にいたベイの旧家臣たちがバヤズィト1世を裏切り、ティムール軍に寝返ってティムールに保護されたベイのもとへ移ってしまう事態に陥り、兵力はさらに落ちて即時攻撃する時機を逸してしまったのです。巧みな騎馬戦で攻撃するティムール軍にオスマン帝国の軍隊であるイェニチェリも奮戦しましたが限界を感じ、敗色が濃くなるとイェニチェリは帝国の存続を第一に考え、王子と宰相を連れて撤退しました。取り残されたバヤズィト1世は捕虜となって、翌年拘留された状態のまま亡くなったといわれています(1403)。
引用文献:『世界史の目 第264話』より
オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」 (講談社現代新書) 新品価格 |
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posted by ottovonmax at 00:00| 歴史