2018年08月18日
8月18日は何に陽(ひ)が当たったか?
1850年8月18日は、19世紀を代表するフランスの文豪、オノレ・ド・バルザックが51年の生涯を閉じた日です(1799.5.20-1850.8.18)。
(以下、引用文献:「世界史の目 第110話より」)
フランス、トゥールにある富裕官僚の家がありました。この家主の妻はアンヌ・シャルロット・ロール(1778-1854)といい、当時20歳の若さであり、51歳の夫とは31歳の年下でした。1798年5月20日、その家で長子が誕生しましたが夭逝、アンヌは子育てに恐れるようになります。アンヌは美貌に恵まれた才女でしたが、神経質な性格と、神秘主義的傾向を合わせ持つ人物でもありました。
長子を失ってちょうど1年後、つまり長子が誕生した5月20日、また一人の男児が生まれました。アンヌと夫は次子を"オノレ"と名付けましたが、養育に迷うことで彼を里子に出してしまいました。このオノレこそ、後にフランスの文豪と言わしめた、オノレ=ド=バルザックです。
アンヌはその後2人の娘を出産後、夫ではなく、他の貴族(マルゴンヌ家)との間にも男児を設けた。アンリと名付けられた末子は、アンヌによって、バルザック以上に寵愛されました。アンリが生まれたとき、バルザックは8歳でしたが、彼はとある寄宿学校に寄宿生として入りました。孤独な少年期を過ごし、末子アンリを寵愛するアンヌとの面会は数える程度であったといわれます。母親からの愛情の欠乏はその後のバルザックの人生に多大な影響を与えることになります。
1813年、バルザックは過度の読書により昏睡状態に陥りました。このため寄宿学校を出される形となり、家族の扶養を受けました。翌年、父親の転勤でトゥールを離れてパリへ赴いたバルザックは、公証人を目指して欲しいという両親の希望もあって、パリ大学法学部へ入学しました(1816。17歳)。しかし、バルザックの中には公証人になる意志はなく、執筆業を志望していました。20歳の時(1819)、バルザックは完全に文学の道に進むことを決意、家族の反対を押し切って、パリ近郊の屋根裏部屋にこもって戯曲を何作か執筆、翌年彼にとっての自信作であった悲劇『クロムウェル』を家族・親戚の前で朗読しました。朗読を鑑賞した家族の中には劇作家の義弟がいましたが、『クロムウェル』はその義弟によって失格の烙印を押され、しかもバルザックは義弟から文学の道へ進むことも拒絶されたのです。やむなく戯曲をあきらめたバルザックでしたが、文学の道は捨てず、戯曲から小説へ転向し、『ステニー』などの作品を残しました。その後も大衆小説家と共作したり、匿名・別名で執筆した小説を著すなど、若さならではの作品を次々と発表しました。
1822年、23歳になったバルザックは初めて恋愛を経験しました。相手は22歳年上のベルニー夫人(1777-1836)という貴族であり、7児の母でした。母アンヌからの愛情の薄かったバルザックは、アンヌと年齢が近いベルニー夫人を、理想の母親のように愛しました。その後のバルザックは多くの年上の貴族夫人と知り合い、愛を求めました。
次々と著作品を発表していくものの、バルザックは商業的には停滞気味でしたので、1825年出版業に手を出して自活をはかろうとしましたが失敗、直後にベルニー夫人からの出資でもって印刷業(活字鋳造)も始めますが、莫大な負債を残して倒産を余儀なくされました(1828)。開業に懲りたバルザックは、再び執筆に向かい、本名で歴史小説『ふくろう党』を著し、その名が徐々に知られることとなります(1829)。
この頃からサロン(上流社会の社交・会合の場)での出入りが激しくなったバルザックは、多くの友を作り、さらなる交流を深めました。交流によって執筆活動も促進、多くの短編を残し、一日の仕事が終わると再度サロンに参加しました。30代のバルザックは執筆とサロン参加の繰り返しでしたが、特に執筆業においては、毎日のように大量(一日およそ50杯ほど)のコーヒーを飲み、夜間を中心に12〜18時間創作と推敲に集中するという、神業的活動でありました。また七月革命(1830)で政局が混乱しているのをよそに、私生活でも貴族夫人と愛を育みましたが、一方でバルザックは政界にも興味を示し、王党派に属して議員選挙に2度出馬しています(結果は落選)。
1831年に出版した『あら皮』で脚光を浴びるようになったバルザックは、社交も積極的になり、貴族夫人との愛人関係も多く生まれました。1832年、バルザックの愛人としては初めての年下、ポーランド貴族のハンスカ夫人(1800?-1882)と知り合って以降は、年下の女性とも愛情関係を持つようになりました。また政治家、芸術家、作家、評論家など、サロンで得た多くの友人によって、創作活動にも幅を利かせることとなり、天才的な創作でもって作品集を次々と発表していきます。
こうした活動が展開される中でバルザックは、フランスの社会階層と、当時の風俗を如実に文章で表現した(作品をひとまとめにして『風俗的研究』として出版。1834-37)。また『風俗的研究』だけでなく、『哲学的研究』・『分析的研究』にまで創作の幅が拡がり、あらためて才能の豊かさを周囲に知らしめることとなります。私生活や田園生活、パリや地方での生活など、さらには政治・軍事生活おけるさまざまな"情景"を言葉に表し、過去に前例がないほどの細やかな人間観察ぶりで、読者の興味を誘いました。こうして彼がこれまで残した長編・短編合わせて約90作品が、1842年を皮切りにまとめあげられたのです。これが不朽の大傑作『人間喜劇』として世に残るのでした。
収録された作品には、『トゥールの司祭(1831)』・『ウージェニー=グランデ(1833)』など初期の作品も含まれ、『"絶対"の探求(1834)』・『ゴリオ爺さん(1835)』・『谷間の百合(1836。主人公のモデルは、この年59歳で死去したベルニー夫人です)』・『浮かれ女盛衰記(1843)』など、今でもなお愛読されている作品群です。日常における人間社会を限りなく写実的に表現し、19世紀のフランスの市民社会を疑似体験できるような臨場感をかきたてる作風ですが、この作風が現在においてもなお新しさを失わないのは、それぞれの作品が相互に有機的に関係しているという、つまり、それぞれの作品に登場する人物が、別の作品に同一人物として繰り返し再登場させているという手法です(人物再登場法。人物再現法)。内容が異なれど、登場人物が繰り返し現れる手法によって、作品と作品は途切れない。バルザックは『ゴリオ爺さん』執筆中にこの方法にひらめいたとされています。ヴォートラン、ラスティニャック、ニュシンゲンなど、ある登場人物が、1つの作品では脇役もしくは端役である一方、もう1つの作品では主役、また準主役となる構成で、同一登場人物の喜怒哀楽があらゆる作品でみることができる、まさに『人間喜劇』のタイトルに相応しいものとなったわけです。『人間喜劇』によって、バルザックは歴史に残る文豪となり、先に出た作家スタンダール(1783-1842)と並んでフランス写実主義(リアリズム)文学の代表作家とされて、後に出たフロベール(1821-80)によって写実主義文学が確立していき、これらをさらに強調させて次の自然主義(ナテュラリズム)文学へと移っていくのです。
『従妹ベット』が刊行された1846年、『人間喜劇』は全16巻でもって完結しました。しかしバルザックは『人間喜劇』を単にこの年で終わる構想は持っていなかったらしく、その後も『従兄ポンス(1847)』など、『人間喜劇』用の短編を書きつづりました。
バルザックは浪費癖の持ち主として有名で、ヨーロッパ全土への旅行、社交界への出入り、多飲多食も甚だしかったですが、無理がたたり1843年頃から体調不良となりました。借金・借財も膨らみ続け、病状は徐々に悪くなっていきますが、最後の愛人とされるハンスカ夫人との、バルザック自身、生涯初めての結婚に気を寄せていました。1850年3月に念願の結婚を実現させたバルザックでしたが、同年8月18日夜、51年の生涯をパリの豪邸で閉じました。『現代史の裏面』が最後の作品となりました。3日後に葬儀が行われ、1827年以来、長く交流を続けていたロマン主義作家ヴィクトル・ユーゴー(1802-85)が追悼を述べました。
バルザックの残した莫大な負債は、ハンスカ夫人の手によって清算されました。浪費癖に加えて、女性遍歴がひどく激しかったバルザックでしたが、年下のハンスカ夫人にだけは、1832年以来、生涯にわたって純情を捧げた恋人であり、18年文通を途絶えさせることなく結婚に結びつけた相手でした。バルザックが言い放ったとされる「結婚は一切のものを呑み込む魔物と絶えず戦わなくてはならない。その魔物とはすなわち.....習慣のことだ」の言葉にもそのことが表現されています。
(以上、引用文献:「世界史の目 第110話より」)
(以下、引用文献:「世界史の目 第110話より」)
フランス、トゥールにある富裕官僚の家がありました。この家主の妻はアンヌ・シャルロット・ロール(1778-1854)といい、当時20歳の若さであり、51歳の夫とは31歳の年下でした。1798年5月20日、その家で長子が誕生しましたが夭逝、アンヌは子育てに恐れるようになります。アンヌは美貌に恵まれた才女でしたが、神経質な性格と、神秘主義的傾向を合わせ持つ人物でもありました。
長子を失ってちょうど1年後、つまり長子が誕生した5月20日、また一人の男児が生まれました。アンヌと夫は次子を"オノレ"と名付けましたが、養育に迷うことで彼を里子に出してしまいました。このオノレこそ、後にフランスの文豪と言わしめた、オノレ=ド=バルザックです。
アンヌはその後2人の娘を出産後、夫ではなく、他の貴族(マルゴンヌ家)との間にも男児を設けた。アンリと名付けられた末子は、アンヌによって、バルザック以上に寵愛されました。アンリが生まれたとき、バルザックは8歳でしたが、彼はとある寄宿学校に寄宿生として入りました。孤独な少年期を過ごし、末子アンリを寵愛するアンヌとの面会は数える程度であったといわれます。母親からの愛情の欠乏はその後のバルザックの人生に多大な影響を与えることになります。
1813年、バルザックは過度の読書により昏睡状態に陥りました。このため寄宿学校を出される形となり、家族の扶養を受けました。翌年、父親の転勤でトゥールを離れてパリへ赴いたバルザックは、公証人を目指して欲しいという両親の希望もあって、パリ大学法学部へ入学しました(1816。17歳)。しかし、バルザックの中には公証人になる意志はなく、執筆業を志望していました。20歳の時(1819)、バルザックは完全に文学の道に進むことを決意、家族の反対を押し切って、パリ近郊の屋根裏部屋にこもって戯曲を何作か執筆、翌年彼にとっての自信作であった悲劇『クロムウェル』を家族・親戚の前で朗読しました。朗読を鑑賞した家族の中には劇作家の義弟がいましたが、『クロムウェル』はその義弟によって失格の烙印を押され、しかもバルザックは義弟から文学の道へ進むことも拒絶されたのです。やむなく戯曲をあきらめたバルザックでしたが、文学の道は捨てず、戯曲から小説へ転向し、『ステニー』などの作品を残しました。その後も大衆小説家と共作したり、匿名・別名で執筆した小説を著すなど、若さならではの作品を次々と発表しました。
1822年、23歳になったバルザックは初めて恋愛を経験しました。相手は22歳年上のベルニー夫人(1777-1836)という貴族であり、7児の母でした。母アンヌからの愛情の薄かったバルザックは、アンヌと年齢が近いベルニー夫人を、理想の母親のように愛しました。その後のバルザックは多くの年上の貴族夫人と知り合い、愛を求めました。
次々と著作品を発表していくものの、バルザックは商業的には停滞気味でしたので、1825年出版業に手を出して自活をはかろうとしましたが失敗、直後にベルニー夫人からの出資でもって印刷業(活字鋳造)も始めますが、莫大な負債を残して倒産を余儀なくされました(1828)。開業に懲りたバルザックは、再び執筆に向かい、本名で歴史小説『ふくろう党』を著し、その名が徐々に知られることとなります(1829)。
この頃からサロン(上流社会の社交・会合の場)での出入りが激しくなったバルザックは、多くの友を作り、さらなる交流を深めました。交流によって執筆活動も促進、多くの短編を残し、一日の仕事が終わると再度サロンに参加しました。30代のバルザックは執筆とサロン参加の繰り返しでしたが、特に執筆業においては、毎日のように大量(一日およそ50杯ほど)のコーヒーを飲み、夜間を中心に12〜18時間創作と推敲に集中するという、神業的活動でありました。また七月革命(1830)で政局が混乱しているのをよそに、私生活でも貴族夫人と愛を育みましたが、一方でバルザックは政界にも興味を示し、王党派に属して議員選挙に2度出馬しています(結果は落選)。
1831年に出版した『あら皮』で脚光を浴びるようになったバルザックは、社交も積極的になり、貴族夫人との愛人関係も多く生まれました。1832年、バルザックの愛人としては初めての年下、ポーランド貴族のハンスカ夫人(1800?-1882)と知り合って以降は、年下の女性とも愛情関係を持つようになりました。また政治家、芸術家、作家、評論家など、サロンで得た多くの友人によって、創作活動にも幅を利かせることとなり、天才的な創作でもって作品集を次々と発表していきます。
こうした活動が展開される中でバルザックは、フランスの社会階層と、当時の風俗を如実に文章で表現した(作品をひとまとめにして『風俗的研究』として出版。1834-37)。また『風俗的研究』だけでなく、『哲学的研究』・『分析的研究』にまで創作の幅が拡がり、あらためて才能の豊かさを周囲に知らしめることとなります。私生活や田園生活、パリや地方での生活など、さらには政治・軍事生活おけるさまざまな"情景"を言葉に表し、過去に前例がないほどの細やかな人間観察ぶりで、読者の興味を誘いました。こうして彼がこれまで残した長編・短編合わせて約90作品が、1842年を皮切りにまとめあげられたのです。これが不朽の大傑作『人間喜劇』として世に残るのでした。
収録された作品には、『トゥールの司祭(1831)』・『ウージェニー=グランデ(1833)』など初期の作品も含まれ、『"絶対"の探求(1834)』・『ゴリオ爺さん(1835)』・『谷間の百合(1836。主人公のモデルは、この年59歳で死去したベルニー夫人です)』・『浮かれ女盛衰記(1843)』など、今でもなお愛読されている作品群です。日常における人間社会を限りなく写実的に表現し、19世紀のフランスの市民社会を疑似体験できるような臨場感をかきたてる作風ですが、この作風が現在においてもなお新しさを失わないのは、それぞれの作品が相互に有機的に関係しているという、つまり、それぞれの作品に登場する人物が、別の作品に同一人物として繰り返し再登場させているという手法です(人物再登場法。人物再現法)。内容が異なれど、登場人物が繰り返し現れる手法によって、作品と作品は途切れない。バルザックは『ゴリオ爺さん』執筆中にこの方法にひらめいたとされています。ヴォートラン、ラスティニャック、ニュシンゲンなど、ある登場人物が、1つの作品では脇役もしくは端役である一方、もう1つの作品では主役、また準主役となる構成で、同一登場人物の喜怒哀楽があらゆる作品でみることができる、まさに『人間喜劇』のタイトルに相応しいものとなったわけです。『人間喜劇』によって、バルザックは歴史に残る文豪となり、先に出た作家スタンダール(1783-1842)と並んでフランス写実主義(リアリズム)文学の代表作家とされて、後に出たフロベール(1821-80)によって写実主義文学が確立していき、これらをさらに強調させて次の自然主義(ナテュラリズム)文学へと移っていくのです。
『従妹ベット』が刊行された1846年、『人間喜劇』は全16巻でもって完結しました。しかしバルザックは『人間喜劇』を単にこの年で終わる構想は持っていなかったらしく、その後も『従兄ポンス(1847)』など、『人間喜劇』用の短編を書きつづりました。
バルザックは浪費癖の持ち主として有名で、ヨーロッパ全土への旅行、社交界への出入り、多飲多食も甚だしかったですが、無理がたたり1843年頃から体調不良となりました。借金・借財も膨らみ続け、病状は徐々に悪くなっていきますが、最後の愛人とされるハンスカ夫人との、バルザック自身、生涯初めての結婚に気を寄せていました。1850年3月に念願の結婚を実現させたバルザックでしたが、同年8月18日夜、51年の生涯をパリの豪邸で閉じました。『現代史の裏面』が最後の作品となりました。3日後に葬儀が行われ、1827年以来、長く交流を続けていたロマン主義作家ヴィクトル・ユーゴー(1802-85)が追悼を述べました。
バルザックの残した莫大な負債は、ハンスカ夫人の手によって清算されました。浪費癖に加えて、女性遍歴がひどく激しかったバルザックでしたが、年下のハンスカ夫人にだけは、1832年以来、生涯にわたって純情を捧げた恋人であり、18年文通を途絶えさせることなく結婚に結びつけた相手でした。バルザックが言い放ったとされる「結婚は一切のものを呑み込む魔物と絶えず戦わなくてはならない。その魔物とはすなわち.....習慣のことだ」の言葉にもそのことが表現されています。
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posted by ottovonmax at 00:00| 歴史