2018年09月19日
9月19日は何に陽(ひ)が当たったか?
1894年9月19日は、第三共和政期(1870-1940)のフランスで発生しましたスパイ容疑事件、いわゆるドレフュス事件で、容疑者とされたフランス陸軍大尉のアルフレド・ドレフュス(1859-1935)が特赦により釈放された日です。
ドレフュス事件はジャン・カジミール=ペリエ大統領(任1894-95)の政権期に発生した事件で、フェリックス・フォール大統領(任1895-99)の政権期にその事件に対する世間の関心が大きく高まりました。
アルザスのユダヤ人工業家出身で、フランス参謀本部付き砲兵大尉として勤務していました、アルフレッド・ドレフュス(1859-1935)は、1894年10月、対ドイツのスパイの嫌疑をかけられて逮捕されました。軍法会議でも終始否認したドレフュスでしたが、証拠不十分にもかかわらず、終身禁固刑、そして軍籍と官位の剥奪の判決が下り、1895年2月、南米にあるフランス領ギアナの悪魔島に送られました。
ドレフュス事件は、フランス軍部の威信にかけて、ドレフュスを有罪にし向けた事件とされています。普仏戦争(プロイセン=フランス戦争。1870.7-1871.2)で失ったアルザスのユダヤ系フランス人が実はドイツのスパイだったという格好の材料でもって、対ドイツ強硬派をあおる形となりました。その後、ドレフュスの家族の協力、新任の参謀本部情報局長ピカール中佐の調査によって、真犯人が同僚エステラージ少佐であることが分かりました。しかし軍の上層部は軍部の威信のため、裁判は正当だったと主張しました。ピカール中佐は、再審を求めて奔走し、やがて更迭されますが、結果世論を巻き込んで、"ドレフュス問題"として国民にも伝わっていきました。1897年11月、ドレフュスの家族によってエステラージ少佐は告発されましたが、翌1898年1月の軍法会議で、彼は無罪判決となりました。
同年同月、ドレフュスの無実を訴える文豪ゾラ(1840-1902)は、後に首相となるジャーナリスト・クレマンソー(1841-1929。任1906-09,17-20)の新聞『オーロラ』紙上に"私は弾劾する"という見出しでフォール大統領宛の公開書簡を一面に発表、クレマンソーや作家アナトール・フランス(1844-1924)、社会主義者ジャン・ジョレス(1859ー1914)もドレフュス被告の冤罪を主張しましたが、ゾラは法廷侮辱罪に問われ、イギリスに亡命しました。しかしこの書簡によって知識人の再審要求運動が高揚して、ついにはフォール大統領が支持する軍部やカトリック教会、右翼、反ユダヤ主義らによる反ドレフュス派の再審反対運動と、クレマンソーらを中心とする共和派、社会主義派の政治家、さらには知識人らによるドレフュス支持派の再審要求運動と国論は分かれていき、両者の闘争は政治社会の対立へと発展、第三共和政の最大の危機が訪れました。
1898年10月、遂に再審要求は受理されました。失意のうちにフォール大統領は1899年の2月に急死し、次のエミール・ルーベ大統領(任1899-1906)はドレフュスを支持する方向を見せました。翌99年8月、再審による軍法会議がブルターニュのレンヌという遠方の都市で行われましたが、軍上層部の威圧で、減刑となっただけで、有罪判決でした。これによってドレフュスは1899年9月19日、ルーベ大統領の特赦を受けて釈放され、後味の悪い結果となりました。レンヌ判決が不当として破棄され、ドレフュスの無罪と復権が確認されたのは1906年になってからであり、この時、ドレフュスの少佐への任命・昇格も決まりました。ドレフュスは、第一次世界大戦終了時には大佐まで駆け登り、1935年にパリで没したのでした。
引用文献:『世界史の目 第37話』より
ドレフュス事件はジャン・カジミール=ペリエ大統領(任1894-95)の政権期に発生した事件で、フェリックス・フォール大統領(任1895-99)の政権期にその事件に対する世間の関心が大きく高まりました。
アルザスのユダヤ人工業家出身で、フランス参謀本部付き砲兵大尉として勤務していました、アルフレッド・ドレフュス(1859-1935)は、1894年10月、対ドイツのスパイの嫌疑をかけられて逮捕されました。軍法会議でも終始否認したドレフュスでしたが、証拠不十分にもかかわらず、終身禁固刑、そして軍籍と官位の剥奪の判決が下り、1895年2月、南米にあるフランス領ギアナの悪魔島に送られました。
ドレフュス事件は、フランス軍部の威信にかけて、ドレフュスを有罪にし向けた事件とされています。普仏戦争(プロイセン=フランス戦争。1870.7-1871.2)で失ったアルザスのユダヤ系フランス人が実はドイツのスパイだったという格好の材料でもって、対ドイツ強硬派をあおる形となりました。その後、ドレフュスの家族の協力、新任の参謀本部情報局長ピカール中佐の調査によって、真犯人が同僚エステラージ少佐であることが分かりました。しかし軍の上層部は軍部の威信のため、裁判は正当だったと主張しました。ピカール中佐は、再審を求めて奔走し、やがて更迭されますが、結果世論を巻き込んで、"ドレフュス問題"として国民にも伝わっていきました。1897年11月、ドレフュスの家族によってエステラージ少佐は告発されましたが、翌1898年1月の軍法会議で、彼は無罪判決となりました。
同年同月、ドレフュスの無実を訴える文豪ゾラ(1840-1902)は、後に首相となるジャーナリスト・クレマンソー(1841-1929。任1906-09,17-20)の新聞『オーロラ』紙上に"私は弾劾する"という見出しでフォール大統領宛の公開書簡を一面に発表、クレマンソーや作家アナトール・フランス(1844-1924)、社会主義者ジャン・ジョレス(1859ー1914)もドレフュス被告の冤罪を主張しましたが、ゾラは法廷侮辱罪に問われ、イギリスに亡命しました。しかしこの書簡によって知識人の再審要求運動が高揚して、ついにはフォール大統領が支持する軍部やカトリック教会、右翼、反ユダヤ主義らによる反ドレフュス派の再審反対運動と、クレマンソーらを中心とする共和派、社会主義派の政治家、さらには知識人らによるドレフュス支持派の再審要求運動と国論は分かれていき、両者の闘争は政治社会の対立へと発展、第三共和政の最大の危機が訪れました。
1898年10月、遂に再審要求は受理されました。失意のうちにフォール大統領は1899年の2月に急死し、次のエミール・ルーベ大統領(任1899-1906)はドレフュスを支持する方向を見せました。翌99年8月、再審による軍法会議がブルターニュのレンヌという遠方の都市で行われましたが、軍上層部の威圧で、減刑となっただけで、有罪判決でした。これによってドレフュスは1899年9月19日、ルーベ大統領の特赦を受けて釈放され、後味の悪い結果となりました。レンヌ判決が不当として破棄され、ドレフュスの無罪と復権が確認されたのは1906年になってからであり、この時、ドレフュスの少佐への任命・昇格も決まりました。ドレフュスは、第一次世界大戦終了時には大佐まで駆け登り、1935年にパリで没したのでした。
引用文献:『世界史の目 第37話』より
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posted by ottovonmax at 00:00| 歴史