2018年10月18日
10月18日は何に陽(ひ)が当たったか?
1748年10月18日は、オーストリア継承戦争(1740-48)の終戦日です。
オーストリアのハプスブルク家では、皇帝権を掌握していた神聖ローマ帝国(962-1806)が17世紀において弱体化し(1848年のウェストファリア条約で、帝国を構成するドイツ諸邦に主権を持たせたため、帝国の国家的存在は名目化しました)、スペイン・ハプスブルク家も途絶えたことで、むしろ家領オーストリア(オーストリア大公国。1457-1804)の拡大をめざし、引き続きハプスブルク帝国の発展を目指していました。
神聖ローマ皇帝、カール6世(位1711-40)の治世になると、オスマン帝国(1299-1922)を破るなどして家領オーストリアの領域は最大となりました。1713年4月、カール6世は国事詔書として発布した「プラグマティッシェ・ザンクツィオン(王位継承法。ハプスブルク家の家憲)」を定めて領土は分割せず、男子相続を宣言します。カール6世にはハプスブルク家の継承者である男子レオポルト・ヨーハン(1716)がいました。ところが、ヨーハンは同年夭逝し、その後1717年長女マリア・テレジア(1717-80)、次女マリア・アンナ(1718-44)、三女マリア・アマーリア(1724-30)と、女子のみが産まれ、相続先が難航しました。オーストリアでは、長女マリア・テレジアを次期君主に推す声もあり、カール6世は1724年、再度国事詔書を発布しました。発布内容では、領土永久不分割に変更はありませんでしたが、女子相続も承認するとの改正が出されたのです。これはマリア・テレジアを後継者にすることを意味したも同然でした。当時マリア・テレジアは7歳でした。
一方ホーエンツォレルン家のプロイセン王国では、カール6世が相続における1回目の国事勅書を発布した1713年、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(位1713-40)が"プロイセンにおける王"として即位、即位後イギリス・ハノーヴァー朝(1714-1917)を創始したイギリス国王ジョージ1世(位1714-27)の娘と結婚しました。フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は"軍隊王"の異名を持つことから、徴兵制や将校団の養成など、国庫収入の大半を投じた軍制強化は、過去に例がなく、結果20万人の軍隊が誕生しています。このため、財政赤字を重税にて補う代わりに、産業の奨励、市民と農民の保護・育成を積極的に行いました。また彼はカルヴァン派を信仰しており、フランスのブルボン朝(1589-1792,1814-30)への反感は際だっていました。
軍隊王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(位1713-40)の軍国主義的な絶対王政は、子のフリードリヒ2世(大王。位1740-86)に引き継がれました。1740年に即位したフリードリヒ2世は、父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の命令でハプスブルク家カール6世の姪と結婚していましたが、もともと厳格な父とは折り合いが悪く、市民文化に関心を示さなかった父とは反対に、詩文・音楽をこよなく愛し、ベルリン郊外のポツダムに、"無憂宮殿"と称された繊細・優雅なロココ式の代表建築"サンスーシ宮殿"を造営(1745-47)、フランスの啓蒙思想家ヴォルテール(1694-1778。著書『哲学書簡』)を招いて師事(1750-53)、ドイツ文化よりフランス文化を好み(ドイツ語よりフランス語が得意だったらしい)、『反マキャヴェリ論(1740)』などを著し、"サンスーシの哲学者"と呼ばれました。フリードリヒ大王は、ヴォルテールの啓蒙思想(啓蒙主義。旧弊打破の立場に立って人間的理性を尊ぶ革新的思想)の影響を受けながら、中央集権化・プロイセンの近代化を目指しました。それは啓蒙絶対主義(啓蒙専制主義)と呼ばれ、経済・軍事・産業を育成することにより、後進的な国家を"上からの改革"によって君主権力を強化しました。フリードリヒ大王の著した『反マキャベリ論』では、"君主は国家第一の僕(しもべ。下僕)"という言葉が記されています。これは、君主も国家に奉仕する一機関ととらえていることを表しますが、この下僕はすべての国政決断権を持つ"啓蒙絶対君主(啓蒙専制君主)"そのものでした。このようにフリードリヒ大王は、親フランス派でしたが、国王即位後これを強調し、親フランス・反ハプスブルクを前面に押し出しました。
ハプスブルク家オーストリアにおけるマリア・テレジアへの後継は、ザクセンやバイエルンなどドイツ諸侯にも波紋を呼びました。特に選帝侯として昇格していたバイエルン選帝侯(バイエルン公)であるカール・アルブレヒト(侯位1726-45)は、1724年の国事詔書(2回目)の発布を無効と異議を唱えて、1713年の国事詔書(1回目)発布の尊重を主張、自身が男子相続としての王位継承を叫びました。カール・アルブレヒトは、ヴィッテルスバハ家出身で、代々バイエルン公ですが、彼の妻は神聖ローマ皇帝だったヨーゼフ1世(帝位位1705-11)の次女で、男子血縁者だったのです。またザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世(侯位1733-1763)も、同様にヨーゼフ1世の長女を妻に持つため、帝位継承を主張しました。
1740年10月20日、カール6世が没しました。彼の詔書どおりに、マリア・テレジアは23歳にしてハプスブルク家の全領土を相続しました。プロイセン(フリードリヒ大王)はフランス(ルイ15世。王位1715-74)、そしてスペイン継承戦争(1701-13/14)後、ブルボン王家の息がかかったスペイン(フェリペ5世。位1700-24,24-46)、そしてバイエルン公(カール・アルブレヒト)と同盟を結び、オーストリア(マリア・テレジア)は、フランスと永遠の領土的対立を展開するイギリス(ジョージ2世。位1727-60)と組みました。1740年12月16日、イギリス対フランス、ドイツ諸侯対オーストリア、フランス対オーストリア、そして、オーストリア対プロイセンの戦いの火蓋が切って落とされ、オーストリア継承戦争(1740.12.16-1748.10.18)が始まったのです。
この戦争は、英仏間の因縁の対決でもあり、台頭してきたハプスブルク家のオーストリアとホーエンツォレルン家のプロイセン王国とのヨーロッパ覇権争い、またウェストファリア条約(1648)の結果によって有名無実と化した神聖ローマ帝国内でうごめくドイツ諸侯(領邦)による権力奪取などが混じり合った戦争でありました。
もともとフリードリヒ大王は、豊かな鉱産資源と工業が発達しているドイツ東部のオーストリア・ハプスブルク家領・シュレジエン州(シレジア。ポーランド南西部のオーデル川上流)を狙っていました。シュレジエン州は神聖ローマ帝国とプロイセン王国との国境にあるため、フリードリヒ大王はシュレジエン州の領有権を主張しました。さらに大王はマリア・テレジアに対して、相続を強行する代わりにシュレジエン州の割譲を強要しましたが、マリアはこの交換条件を拒否したため、1740年12月、プロイセン軍によるシュレジエン侵攻を行いました(第1次シュレジエン戦争。1740-42)。オーストリア軍はプロイセン軍と激突したが敗れました。ハプスブルク家の敗北により、反ハプスブルク派の諸国・諸侯も進軍を開始しました。そして1742年7月、ベルリンの講和によってオーストリアはシュレジエン州の全土の割譲を認め、シュレジエン州はプロイセンの領土となってしまいました。この2年間、神聖ローマ帝国は空位時代が続きますが、マリア・テレジアはハンガリー女王として即位したにとどまりました(ハンガリー王位1740-80)。
ハプスブルク家の敗戦を知ったザクセン公フリードリヒ・アウグスト2世やバイエルン公カール・アルブレヒトは、すぐさまオーストリアに対して宣戦しました。ザクセンは撤退しましたが、バイエルン公カール・アルブレヒトは必死に攻めて、まずベーメン王として王位に就き(位1741-43)、その後ケルン大司教で戴冠、神聖ローマ皇帝カール7世(位1742-45)としてバイエルン朝を復活させました(1742-45)。これにより、1438年から継続してきた神聖ローマ帝国ハプスブルク朝(1273-1291,1298-1308,1314-30,1438-1742,1745-1806)は一時断絶することになりました。しかしオーストリア軍がすぐさま奮起し、カール・アルベルトをベーメン王から退位させ、マリア・テレジアが王位を奪ってベーメン女王(1743-80)として即位しました。その後バイエルンを占領すると、カール7世は遂に神聖ローマ皇帝を退位(1745)、マリア・テレジアの夫で、ヴォーデモン家出身のロートリンゲン公だったフランツ3世シュテファン(公位1729-1737)が皇帝フランツ1世として神聖ローマ皇帝についたのです(位1745-65)。これはハプスブルク朝の復活ですが、正確にはハプスブルク・ロートリンゲン朝(1745-1806)と呼び、ハプスブルク家もハプスブルク=ロートリンゲン家と称されました。フランツ1世は皇帝ですが、彼は政治力に欠け、実際はマリア・テレジアが共同統治でもってリードしていきました。マリアは戴冠こそしていないものの、高度な頭脳と巧みな求心力によって帝国を背負う、まさに"女帝マリア・テレジア"の存在感があったのです。この頃の神聖ローマ帝国はすでに名のみの存在だったため、マリア=テレジアを"オーストリア皇帝"と呼ばれることもありました。
プロイセンのフリードリヒ大王は、マリアのシュレジエン州の奪回に危機感を募らせたため、ちょうどバイエルン朝となっていた1744年に再び侵攻を開始しましたが(第二次シュレジエン戦争。1744-45)、翌1745年12月にドレスデン(ザクセン地方)で講和を開き、第一次シュレジェン戦争におけるベルリンでの講和をオーストリアに確認させて、シュレジエン州のプロイセン領有を確約させることになりました。
またフランスは1744年、オーストリア領である南ネーデルラント(ベルギー)の奪還を目指して同地に侵攻、イギリスとオランダがオーストリアを援助しましたが、フランス軍に南ネーデルラントを占領されて、またスペインも同年ミラノ奪還を目指し侵攻しました。またオーストリア継承戦争と連動して、新大陸では英仏間における北米植民地の争奪が、ハノーヴァー朝・ジョージ2世の名に因んだジョージ王戦争(1744-48)の名称で展開され、イギリス植民地である南インド東岸でも第一次カルナータカ(カーナティック)戦争がフランスと行われましたが(1744-48。イギリス勝利)、陽の当たった1748年10月18日、結局はアーヘンの和約により、シュレジエン州を除く占領地は相互返還によって開戦直前状態に戻すとされて、参加国は和約に調印し、8年近く続いたオーストリア継承戦争はついに終わりを迎えました。
引用文献『世界史の目 78話および79話』より
オーストリアのハプスブルク家では、皇帝権を掌握していた神聖ローマ帝国(962-1806)が17世紀において弱体化し(1848年のウェストファリア条約で、帝国を構成するドイツ諸邦に主権を持たせたため、帝国の国家的存在は名目化しました)、スペイン・ハプスブルク家も途絶えたことで、むしろ家領オーストリア(オーストリア大公国。1457-1804)の拡大をめざし、引き続きハプスブルク帝国の発展を目指していました。
神聖ローマ皇帝、カール6世(位1711-40)の治世になると、オスマン帝国(1299-1922)を破るなどして家領オーストリアの領域は最大となりました。1713年4月、カール6世は国事詔書として発布した「プラグマティッシェ・ザンクツィオン(王位継承法。ハプスブルク家の家憲)」を定めて領土は分割せず、男子相続を宣言します。カール6世にはハプスブルク家の継承者である男子レオポルト・ヨーハン(1716)がいました。ところが、ヨーハンは同年夭逝し、その後1717年長女マリア・テレジア(1717-80)、次女マリア・アンナ(1718-44)、三女マリア・アマーリア(1724-30)と、女子のみが産まれ、相続先が難航しました。オーストリアでは、長女マリア・テレジアを次期君主に推す声もあり、カール6世は1724年、再度国事詔書を発布しました。発布内容では、領土永久不分割に変更はありませんでしたが、女子相続も承認するとの改正が出されたのです。これはマリア・テレジアを後継者にすることを意味したも同然でした。当時マリア・テレジアは7歳でした。
一方ホーエンツォレルン家のプロイセン王国では、カール6世が相続における1回目の国事勅書を発布した1713年、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(位1713-40)が"プロイセンにおける王"として即位、即位後イギリス・ハノーヴァー朝(1714-1917)を創始したイギリス国王ジョージ1世(位1714-27)の娘と結婚しました。フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は"軍隊王"の異名を持つことから、徴兵制や将校団の養成など、国庫収入の大半を投じた軍制強化は、過去に例がなく、結果20万人の軍隊が誕生しています。このため、財政赤字を重税にて補う代わりに、産業の奨励、市民と農民の保護・育成を積極的に行いました。また彼はカルヴァン派を信仰しており、フランスのブルボン朝(1589-1792,1814-30)への反感は際だっていました。
軍隊王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(位1713-40)の軍国主義的な絶対王政は、子のフリードリヒ2世(大王。位1740-86)に引き継がれました。1740年に即位したフリードリヒ2世は、父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の命令でハプスブルク家カール6世の姪と結婚していましたが、もともと厳格な父とは折り合いが悪く、市民文化に関心を示さなかった父とは反対に、詩文・音楽をこよなく愛し、ベルリン郊外のポツダムに、"無憂宮殿"と称された繊細・優雅なロココ式の代表建築"サンスーシ宮殿"を造営(1745-47)、フランスの啓蒙思想家ヴォルテール(1694-1778。著書『哲学書簡』)を招いて師事(1750-53)、ドイツ文化よりフランス文化を好み(ドイツ語よりフランス語が得意だったらしい)、『反マキャヴェリ論(1740)』などを著し、"サンスーシの哲学者"と呼ばれました。フリードリヒ大王は、ヴォルテールの啓蒙思想(啓蒙主義。旧弊打破の立場に立って人間的理性を尊ぶ革新的思想)の影響を受けながら、中央集権化・プロイセンの近代化を目指しました。それは啓蒙絶対主義(啓蒙専制主義)と呼ばれ、経済・軍事・産業を育成することにより、後進的な国家を"上からの改革"によって君主権力を強化しました。フリードリヒ大王の著した『反マキャベリ論』では、"君主は国家第一の僕(しもべ。下僕)"という言葉が記されています。これは、君主も国家に奉仕する一機関ととらえていることを表しますが、この下僕はすべての国政決断権を持つ"啓蒙絶対君主(啓蒙専制君主)"そのものでした。このようにフリードリヒ大王は、親フランス派でしたが、国王即位後これを強調し、親フランス・反ハプスブルクを前面に押し出しました。
ハプスブルク家オーストリアにおけるマリア・テレジアへの後継は、ザクセンやバイエルンなどドイツ諸侯にも波紋を呼びました。特に選帝侯として昇格していたバイエルン選帝侯(バイエルン公)であるカール・アルブレヒト(侯位1726-45)は、1724年の国事詔書(2回目)の発布を無効と異議を唱えて、1713年の国事詔書(1回目)発布の尊重を主張、自身が男子相続としての王位継承を叫びました。カール・アルブレヒトは、ヴィッテルスバハ家出身で、代々バイエルン公ですが、彼の妻は神聖ローマ皇帝だったヨーゼフ1世(帝位位1705-11)の次女で、男子血縁者だったのです。またザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世(侯位1733-1763)も、同様にヨーゼフ1世の長女を妻に持つため、帝位継承を主張しました。
1740年10月20日、カール6世が没しました。彼の詔書どおりに、マリア・テレジアは23歳にしてハプスブルク家の全領土を相続しました。プロイセン(フリードリヒ大王)はフランス(ルイ15世。王位1715-74)、そしてスペイン継承戦争(1701-13/14)後、ブルボン王家の息がかかったスペイン(フェリペ5世。位1700-24,24-46)、そしてバイエルン公(カール・アルブレヒト)と同盟を結び、オーストリア(マリア・テレジア)は、フランスと永遠の領土的対立を展開するイギリス(ジョージ2世。位1727-60)と組みました。1740年12月16日、イギリス対フランス、ドイツ諸侯対オーストリア、フランス対オーストリア、そして、オーストリア対プロイセンの戦いの火蓋が切って落とされ、オーストリア継承戦争(1740.12.16-1748.10.18)が始まったのです。
この戦争は、英仏間の因縁の対決でもあり、台頭してきたハプスブルク家のオーストリアとホーエンツォレルン家のプロイセン王国とのヨーロッパ覇権争い、またウェストファリア条約(1648)の結果によって有名無実と化した神聖ローマ帝国内でうごめくドイツ諸侯(領邦)による権力奪取などが混じり合った戦争でありました。
もともとフリードリヒ大王は、豊かな鉱産資源と工業が発達しているドイツ東部のオーストリア・ハプスブルク家領・シュレジエン州(シレジア。ポーランド南西部のオーデル川上流)を狙っていました。シュレジエン州は神聖ローマ帝国とプロイセン王国との国境にあるため、フリードリヒ大王はシュレジエン州の領有権を主張しました。さらに大王はマリア・テレジアに対して、相続を強行する代わりにシュレジエン州の割譲を強要しましたが、マリアはこの交換条件を拒否したため、1740年12月、プロイセン軍によるシュレジエン侵攻を行いました(第1次シュレジエン戦争。1740-42)。オーストリア軍はプロイセン軍と激突したが敗れました。ハプスブルク家の敗北により、反ハプスブルク派の諸国・諸侯も進軍を開始しました。そして1742年7月、ベルリンの講和によってオーストリアはシュレジエン州の全土の割譲を認め、シュレジエン州はプロイセンの領土となってしまいました。この2年間、神聖ローマ帝国は空位時代が続きますが、マリア・テレジアはハンガリー女王として即位したにとどまりました(ハンガリー王位1740-80)。
ハプスブルク家の敗戦を知ったザクセン公フリードリヒ・アウグスト2世やバイエルン公カール・アルブレヒトは、すぐさまオーストリアに対して宣戦しました。ザクセンは撤退しましたが、バイエルン公カール・アルブレヒトは必死に攻めて、まずベーメン王として王位に就き(位1741-43)、その後ケルン大司教で戴冠、神聖ローマ皇帝カール7世(位1742-45)としてバイエルン朝を復活させました(1742-45)。これにより、1438年から継続してきた神聖ローマ帝国ハプスブルク朝(1273-1291,1298-1308,1314-30,1438-1742,1745-1806)は一時断絶することになりました。しかしオーストリア軍がすぐさま奮起し、カール・アルベルトをベーメン王から退位させ、マリア・テレジアが王位を奪ってベーメン女王(1743-80)として即位しました。その後バイエルンを占領すると、カール7世は遂に神聖ローマ皇帝を退位(1745)、マリア・テレジアの夫で、ヴォーデモン家出身のロートリンゲン公だったフランツ3世シュテファン(公位1729-1737)が皇帝フランツ1世として神聖ローマ皇帝についたのです(位1745-65)。これはハプスブルク朝の復活ですが、正確にはハプスブルク・ロートリンゲン朝(1745-1806)と呼び、ハプスブルク家もハプスブルク=ロートリンゲン家と称されました。フランツ1世は皇帝ですが、彼は政治力に欠け、実際はマリア・テレジアが共同統治でもってリードしていきました。マリアは戴冠こそしていないものの、高度な頭脳と巧みな求心力によって帝国を背負う、まさに"女帝マリア・テレジア"の存在感があったのです。この頃の神聖ローマ帝国はすでに名のみの存在だったため、マリア=テレジアを"オーストリア皇帝"と呼ばれることもありました。
プロイセンのフリードリヒ大王は、マリアのシュレジエン州の奪回に危機感を募らせたため、ちょうどバイエルン朝となっていた1744年に再び侵攻を開始しましたが(第二次シュレジエン戦争。1744-45)、翌1745年12月にドレスデン(ザクセン地方)で講和を開き、第一次シュレジェン戦争におけるベルリンでの講和をオーストリアに確認させて、シュレジエン州のプロイセン領有を確約させることになりました。
またフランスは1744年、オーストリア領である南ネーデルラント(ベルギー)の奪還を目指して同地に侵攻、イギリスとオランダがオーストリアを援助しましたが、フランス軍に南ネーデルラントを占領されて、またスペインも同年ミラノ奪還を目指し侵攻しました。またオーストリア継承戦争と連動して、新大陸では英仏間における北米植民地の争奪が、ハノーヴァー朝・ジョージ2世の名に因んだジョージ王戦争(1744-48)の名称で展開され、イギリス植民地である南インド東岸でも第一次カルナータカ(カーナティック)戦争がフランスと行われましたが(1744-48。イギリス勝利)、陽の当たった1748年10月18日、結局はアーヘンの和約により、シュレジエン州を除く占領地は相互返還によって開戦直前状態に戻すとされて、参加国は和約に調印し、8年近く続いたオーストリア継承戦争はついに終わりを迎えました。
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posted by ottovonmax at 00:00| 歴史