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2018年11月10日
11月10日は何に陽(ひ)が当たったか?
ヴァロワ・ブルゴーニュ家出身のシャルルは、1467年、同家が支配するブルゴーニュ公国(ブルグント公国。フランス東部・ドイツ西部。1031-1477)の君主となり、翌1468年ヨーク家のイングランド王妹と結婚しました。シャルルは軍事において非常に野心家で、"打倒フランス"の精神が強く、"シャルル・ザ・ボールド(シャルル突進公。テメレール)"と渾名されました。ブルゴーニュ公国はブルゴーニュ地方以外にもネーデルラント(ブルゴーニュ公領ネーデルラント。現オランダ・ベルギー・ルクセンブルク)を支配していた強国で、ブルゴーニュをおさえて統一策を進めようとするフランス王国ヴァロワ朝(1328-1589)と幾度となく戦闘を交えました(ブルゴーニュ戦争。1474-77)。しかしその戦闘でシャルル突進公は1477年、戦死します。
シャルル突進公は生前、自身が一公国君主である身分から、ローマ皇帝への憧れを捨てきれませんでした。北海と地中海を望む広大なブルゴーニュ公国の建設を実現するためには、ローマ皇帝位に少しでも近づくことが目標でした。当時の聖ローマ帝国(962-1806。当時のドイツ)の皇帝を出すハプスブルク家領はブルゴーニュ公領と比べて、まだまだ小国にすぎませんでしたが、突進公は反フランス親ドイツ(反仏親独)の精神でした。ある日のこと、突進公のもとへ、神聖ローマ皇帝を継承するハプスブルク家の使者が訪れ、突進公の娘で、当時"絶世の美女","お姫様"と謳われた公女マリア(マリー・ド・ブルゴーニュ。1457-82)を、ハプスブルク家のマクシミリアン王子(1459-1519。のちのマクシミリアン1世)との婚姻を求めてきたのです。オーストリアの小家と強国ブルゴーニュとの婚姻関係は当時としてはかなり不釣合でしたが、親独の心を持つ突進公は快諾しました。
シャルル突進公は王子マクシミリアンを見て、マクシミリアンの父で神聖ローマ皇帝、フリードリヒ3世(帝位1452-93)の陰鬱さと違い、凛々しい、生気はつらつとした理想的な騎士であり、娘マリアの結婚相手には相応しいと直感したのです。
しかしシャルル突進公は愛おしい王女の結婚を見届けることなく、ブルゴーニュ戦争で戦場となったロレーヌ(フランス北部)のナンシー近郊で戦死してしまいました(1477.1。シャルル突進公陣没)。ブルゴーニュ公領に奪われた領土の奪還を目指すフランス・ヴァロワ朝の王ルイ11世(位1461-83)は揺さぶりをかけて、君主の抜けたブルゴーニュ公国を混乱させ、国内では暴動が起こりました。この時マリアはルイ11世の王子シャルル(1470-98。のちの温厚王シャルル8世。位1483-98)と婚約させられそうになり、一時ブリュッセル(現ベルギーの首都)に幽閉されました。
マリアは父シャルル突進公が許した相手と結婚するときめていたため、フランス王子と結婚することをかたくなに拒否しました。マリアは神聖ローマ帝国のマクシミリアン王子に救援を求め、幽閉から解かれました。そして、フランドルの都市ガン(ヘント。フランドル地方の都市。現ベルギー)の王宮で王子が来るのを待ちました。銀色の甲冑姿で白馬に乗って颯爽と参上したマクシミリアン王子が、美しき公女を助けに来たのです。1477年8月19日、ハプスブルク家マクシミリアンと、ブルゴーニュ家マリアとの"華燭の典(かいしょくのてん。結婚式)"がガンの聖バボ教会で挙行されました。
その後、ブルゴーニュ公領はフランス王領へ、ネーデルラント諸州とフランス東部のブルゴーニュ伯領(フランシュ・コンテ)はハプスブルク家領に分割されました。
結婚したマクシミリアン王子とシャルルの娘マリア姫はともにブルゴーニュ公として共同統治を行いました(公位1477-82。ただし前述の通り、ブルゴーニュ公国の遺領はフランスと分割したため、公位は名目上)。スイス北東部、ライン川上流のバーゼル近郊に発祥し、小国オーストリアを拠点にかまえてきた弱小貴族だったハプスブルク家が、オーストリアを離れて西欧の他国と深くかかわることになり、結婚を通じて領土を拡張する第一歩を踏み出し、歴史の表舞台でその名を轟かせていくのです。そのきっかけを作ったのは、ブルゴーニュ公であったシャルル突進公による反仏反独の精神、そして大事な王女の相手をハプスブルク家のマクシミリアンに選んだこと、シャルルの王女マリアがハプスブルク家に嫁ぐ決意をしたことに他なりません。
引用文献『世界史の目 第219話』
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2018年11月09日
11月9日は何に陽(ひ)が当たったか?
イギリスは、フランス・ナポレオン・ボナパルト(1769-1821)のエジプト遠征(1798-99)を機に、オーストリア・ロシアらと第2回対仏大同盟(1798-1801)を結びました。これを知ったナポレオンは、当時のフランス政府で不安定続きの総裁政府(1795.11.2-99.11.10)を考え、軍をエジプトに残留させ、急遽帰国します。
帰国したナポレオンはシェイエス神父(1748-1836)やタレーラン(1754-1838)らと政府打倒を計画、銀行資本の援助もあって、陽の当たった1799年11月9日、革命暦だとブリュメール18日、遂に総裁政府を倒し、統領政府(執政政府)を樹立したのです。この統領政府は4院制の立法府と3人の統領(執政)を置く、第一共和政を一応維持した形でしたが、実質はナポレオンの独裁政府的性格を持ち、11月ナポレオンは任期10年の第一統領となって行政権を掌握しました。これにより、1789年から続いたフランス革命は終結となり、統領ナポレオンの権力を強化させていきます。5年後には第一帝政をしいて統領政府を終わらせ、皇帝ナポレオン(1804.5.18-14.4.11,15.3.20-15.6.22)の時代が始まるのです。
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2018年11月08日
11月8日は何に陽(ひ)が当たったか?
神聖ローマ帝国(962-1806)の皇帝で、オーストリア・ハプスブルク家のフェルディナント2世(位1619-37)は、イエズス会の教育を受けてオーストリアでの反宗教改革を推進した熱心なカトリック信者で、ハプスブルク家領から新教徒を一掃する方針をうちたてました。神聖ローマ皇帝として即位する2年前にベーメン(ボヘミア。チェコ北部)の王に就きましたが(ベーメン王位1617-27)、熱狂的カトリック信者がベーメン王になったため、ベーメンのプロテスタント貴族・傭兵軍といった新教徒が、フェルディナント擁立の翌1618年、フェルディナント廃位と、新教徒であるプファルツ(ファルツ)選帝侯フリードリヒ5世(侯位1610-1623)即位の宣言を行い、ハプスブルク家に対して武装蜂起をおこしました。これが三十年戦争の勃発です。翌1619年ベーメン新教派はプファルツ選帝侯フリードリヒ5世をベーメン王フリードリヒ(冬王。王位1619-1620)として擁立しました。
ハプスブルク家は、新教徒のこれらの宣言を無視して本格的に新教徒弾圧を開始しました。元々新教徒出身だったベーメンの軍人ヴァレンシュタイン(ワレンシュタイン。1583-1634)は、ハプスブルク家に仕えたことでカトリックに改宗し、皇帝を支持して軍を結成しました。陽の当たった1620年11月8日、スペイン・神聖ローマ帝国連合軍として進軍したハプスブルク軍は、プラハ西郊外にある丘・ビーラー・ホラ(白山)で新教徒貴族・傭兵軍と激突しました。短時間で新教軍は壊滅し、ハプスブルク軍の圧勝となりました。これがビーラー・ホラの戦い(白山の戦い)です。戦死を免れた新教軍は、処刑・国外追放・私権没収など厳しい処罰を受けました。ベーメン王フリードリヒは廃位させられ、オランダへ亡命することになりました。ベーメンはカトリック改宗を余儀なくされ、ハプスブルク家からの独立を完全に奪われたのです。
実はベーメンの新教派が簡単に敗れたのは理由がありました。ベーメン反乱が行われる以前から、旧教徒はリガを、新教徒はウニオンをそれぞれ同盟組織として結成し対立していました。ウニオンには、ベーメンやプファルツ以外にもザクセン選帝侯、ブランデンブルク選帝侯といった新教派が属していました。しかし、国体護持のためザクセンやブランデンブルクがベーメンを見捨ててハプスブルク家を支援したという事情があったため、盟主ハプスブルク家率いる旧教同盟リガが圧倒的に勝利を収めることができたのです。
1619年に神聖ローマ皇帝として即位したフェルディナント2世は、本格的に新教徒弾圧を企図しようとしましたが、ベーメンの反乱を決着したはずが、他の新教国を刺激させたことで、予想外の展開を迎えます。短期で終わるはずが、領土的野心から多くのヨーロッパ諸国が介入・参戦し、戦況規模が拡大した長期の戦争となっていったのです。旧教徒側は皇帝軍として結成され、新教徒側は新教国や新教諸侯、また新教都市の軍が結集されていきました。
こうした新たなヨーロッパ情勢が築かれていく中、ハプスブルク家も大きな転機を迎えます。同じカトリック国であるものの、敵国でもあります隣国フランスが動いたのです。当時のフランス(ブルボン家)はルイ13世(正義王。位1610-43)の治世でしたが、1624年、ルイ13世の宰相に有能な政治家リシュリュー(1585-1642)が選出され、その後彼の建議によってオランダ・イギリス・スウェーデン・デンマークといった新教国と同盟が結ばれました。カトリック国であるフランスが、カトリックのハプスブルク家に対抗する、命がけの同盟結成でありました。かくして、旧教側にはスペインを擁するハプスブルク家(神聖ローマ皇帝側)が中心となり、新教側には新教国デンマーク、スウェーデン、オランダ、イギリス、そして、カトリックですが反ハプスブルクということでフランスがバックアップし、ドイツを舞台に大規模な戦争と発展していきます。
当初はオーストリア対ベーメンだった単純なビーラー・ホラの戦いが、列国の介入によってヨーロッパ諸国を巻き込む悲惨な三十年戦争の時代へと変貌を遂げていくのでした。
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2018年11月07日
11月7日は何に陽(ひ)が当たったか?
Ian McDonaldとAl Greenwoodが脱けて、4人で制作された4枚目のスタジオ・アルバム、その名も"4(邦題:4)" では、まず1981年6月に"Urgent(邦題:アージェント)"がカットされ、HOT100では4位、メインストリームロックチャート(当時はThe Rock Albums & Top Tracks)は6月25日付から4週間1位を記録し、シングルヒットが乏しかった前作"Head Games(邦題:ヘッド・ゲームス。1979)"とは対照的に、順当なスタートを切りました。
これまではハード・ロック中心の曲作りを専門としていましたが、4人になってのフォリナーは、曲作りの中心だったMick Jones(key,gtr,vo)とLou Gramm(vo)が看板となり、ハード・ロック路線からソフト・ロック路線への転換を行いました。サウンド転換に大きな役割を果たしたのは、翌1982年にソロデビューを果たす、シンセサイザー奏者のThomas Dolby(トーマス・ドルビー)をはじめとするキーボーディスト達や、Junior Walkerらサックス奏者たちのゲスト参加でした。彼らの参加によってギター・サウンド・メインのこれまでから、キーボード・サウンドをメインにした作品も増え、音も優しくなって年齢層を関わらせないポップでソフトなロック・サウンドを耳にすることができたのです。"Urgent"はシンセやサックスを導入することによって、Lou Grammのヴォーカルがさらに引き立ち、サウンド全体も引き締まって非常に聴きやすく、また聴き応えのある作品に仕上がっています。Billboardでは本場のThe Rock Albums & Top Tracks部門以外にも、ダンスチャートにも顔を出し、14週チャートインして、最高位32位を記録しています。
この"Urgent"で多くのForeignerのリスナーは大いに驚いたと思いますが、さらに驚かせたのが、次のシングルに選ばれた、"Waiting for a Girl Like You"です。Foreignerにはデビュー作"Foreigner(邦題:栄光の旅立ち。1977)"収録でMickが歌う"Starrider(邦題:スターライダー)"など、過去にもスロー・テンポのバラードはありましたが、ロックやギターサウンドを前面に押し出した楽曲が大半でした。本作品はThomas Dolbyのシンセサイザーをメインに、どこか切なく且つゆったりとしたサウンドが聴く者を包み込むようなバラードで、Mickもキーボードを担当しており、この曲にエレキ・ギターが主張するパートはエンディング前に軽く聞こえる程度と思います。
"Waiting for a Girl Like You"は1981年10月10日付HOT100で100位内42位に初登場し、翌週には25位にジャンプアップ、その後25位→21位→15位と駆け上がり、陽の当たった11月7日に10位と見事Top10入りを果たしました。しかしForeignerの本当の凄さはここからでした。
ちょうど陽の当たった11月7日付の1位は、Daryl Hall and John Oatesの"Private Eyes"で、次の週と合わせて2週1位になりました。ForeignerはTop10入り後も順調に4位→3位と駆け上がりましたが、3位になった11月21日付で、Olivia Newton-Johnの"Physical"が1位に躍り出て、なんと年をまたいで10週間連続して1位に輝いたのです。"Physical"のギター・ソロをTOTOのSteve Lukatherが担うなど、たしかにOliviaにとってもこれまで以上にロック寄りのダンス・サウンドを打ち出したことでインパクトは大きく、10週1位も頷けましたが、ではこの間のForeignerの"Waiting for a Girl Like You"は、11月28日付から、年をまたいだ1982年1月30日付まで、なんと2位を10週間居座り続けたのです。HOT100の歴史で、10週連続で2位を記録したのはこの"Waiting for a Girl Like You"が初めての快挙だったのです。1位を記録したにふさわしい功績です。実は10週目の2位を記録した時、"Physical"は4位に後退しましたが、この日に1位になったのは、これもまたDaryl Hall and John Oatesの"I Can't Go For That (No Can Do)"でした。1位から蹴落とされたHall&Oatesは、次のシングルで怨念を晴らすかのように、Oliviaを1位から蹴落としたのです。
一方、10週間2位を記録したForeignerの"Waiting for a Girl Like You"は、その後3位→9位→36位を急降下し、結局23週チャートインしました。1982年のYear-Endチャートでは100位内19位を獲得、The Rock Albums & Top Tracksでは当然のことながら1位、さらにはAdult Contemporaryチャートにも顔を出し、5位と健闘しました。Billboard以外の全米チャートでは、エアプレイ重視のRadio&RecordsのContemporary Hit Radio(Top 40/CHR)チャートで1位を記録しております。
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2018年11月06日
11月6日は何に陽(ひ)が当たったか?
"It's Raining Again"は、1982年10月7日リリースの7枚目スタジオ・アルバムで、Roger Hodgsonがソロ活動に専念するために最後に参加したアルバムとなりました、"...Famous Last Words...(邦題:フェイマス・ラスト・ワーズ)"からの先行シングルで、数あるSupertrampのトラックの中でも年齢層を問わず馴染める非常にポップな名曲です。
1979年の前スタジオ作"Breakfast in America(邦題:ブレックファスト・イン・アメリカ)"でポップな音作りにサウンド転換して全米で大成功を収め、1980年に2枚組ライブ・アルバム"Paris(邦題:ライブ・イン・パリ)"で一区切りを付けたSupertrampは、この2作同様、Peter Hendersonをプロデューサーに迎え、グループと共同で本作"...Famous Last Words..."を創り上げました。"Breakfast in America"の流れを汲んだポップなサウンドですが、本作ではメンバーのサックス/クラリネット奏者のJohn Helliwell(ジョン・ヘリウェル)がシンセサイザーを担当したり、アメリカの有名なロック・グループ、Heart(ハート)の看板メンバーであるAnnとNancyのWilson姉妹がバック・ヴォーカルに参加したりなどのアクセントを設けて、前作以上の意気込みを見せています。ポップな楽曲がズラリと並ぶ中、3曲目に収録されたRoger Hodgson作の"It's Raining Again"がリリースされました。
"It's Raining Again"といえば、映画風に作られたプロモーション・ビデオが個人的にも興味深く、メンバーも脇役として出演しています。雨で多くの人が傘をさして並ぶ中を、ズタボロになった主演男優が傘を投げ捨て、ようやく会えた女性と雨の中で抱き合うシーンは、エンディングのサックスと、この楽曲のエンディングに導入していた、童謡の"It's Raining, It's Pouring"が非常にマッチして親しみやすいです(ラブシーンは絵的に濃厚にはなりますが...)。この作品は、多くのアーチストのプロモーション・ビデオを手掛け、近年では"Resident Evil: Extinction(邦題:バイオハザードIII)"の監督でも知られるRussell Mulcahy(ラッセル・マルケイ)が監督をつとめています(映像はこちら。YouTubeより)。
前述の通り、この曲のエンディングはJohnのサックス、"It's Raining, It's Pouring"の導入と、非常に効果的な盛り上げ方をして、耳にも心にも残る作品として長く愛聴しておりますが、この曲の凄い所は、Rogerの肺活量です。エンディングに入る前の最後の歌詞、"Oh, fill your heart again..."の"again"をかなり長く伸ばして歌っているのですが、かつてこの曲もカラオケがありまして、歌ってみても必ず途中で息が止まります。歌ってみると分かります。それだけにRogerのヴォーカル力は凄まじいものがあるのです。この曲はRoger作と前述しましたが、実際はもう一人の看板ヴォーカリスト、Rick Davis(リック・デイヴィス。vo,key)との共作なのですが、チャート・インした時のアーチスト・クレジットが、"Supertramp Featuring Roger Hodgson"となっており、グループ脱退を表明したRogerに対する、メンバーの思いがあらわれております。
さて、陽の当たった1982年11月6日、Rock Albums and Top Tracksチャートでは、前週に33位にエントリーした"It's Raining Again"は、同日付である2週目にして、いっきに7位にジャンプ・アップしました。しかしこれがどういうわけかこの7位が最高位となってしまいました。ロック・チャートは昇降が激しく、アルバム・リリース時には他の注目トラックも次々とチャートインするので(確かにこの時期は"Crazy"、"Waiting So Long"、そして"Don't Leave Me Now"、"My Kind of Lady"なども合わせて同時チャートインしていました)、なかなか安定しないアクションではあるのですが、翌週以降は10位→10位→17位→23位→14位→12位→23位→23位→23位→58位→41位→37位→60位→圏外とアクションを起こし、結果15週チャートインしました。
HOT100でも陽の当たった11月6日は2週目で29位でした。2週目でTop30入りは見事ですが、前週は31位という、Top40内でのニュー・エントリーで、上位進出も期待できる登場ぶりでした。2週目で2ランク・アップ、翌週で25位→22位と地味な動きでしたが、次に14位と8ランク上昇し、やはりハイエストエントリー曲ならではのアクションが期待できるかと思いきや、次に13位、そして1982年12月11日付で11位を記録すると、年末年始のゆったりアクションがいちおう奏功し、4週連続で11位を記録する結果になり、その後は下降して結果13週のチャートインに終わりました。しかしSupertrampにとってこの"It's Raining Again"は、"The Logical Song(6位)"、"Take The Long Way Home(10位)"に次ぐハイ・ポジションですので、堂々と誇れるグループの代表曲であります。Billboard Adult Contemporaryチャートでは5位、Billboardではありませんが、全米Cash Boxのシングルチャートでは7位とTop10入り、ドイツのシングルチャートでは3位、スイスのシングルチャートでは2位、ライブアルバムで好評を得たフランスのIFOPシングルチャートでは見事1位と、大健闘しています。
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2018年11月05日
11月5日は何に陽(ひ)が当たったか?
1980年に制作された"Drama(邦題:ドラマ)"では、ヴォーカルのJon Anderson(ジョン・アンダーソン。vo)やRick Wakeman(リック・ウェイクマン。key)が参加せず、イギリスのニュー・ウェーヴ系ポップ・バンドとして人気のあったThe Buggles(バグルス)の二人、Trevor Horn(トレヴァー・ホーン。vo,bass)と Geoff Downes(ジェフ・ダウンズ。key)が加わったことで、これまでにないニュー・ウェーヴ寄りのYesサウンドが披露されましたが、長くは続かず活動停止に追い込まれました。
その後ギタリストのSteve Howe(スティーヴ・ハウ。gtr)とGeoffはAsia(エイジア)結成に向かいました。ベーシストのChris Squire(クリス・スクワイア。bass)とドラマーのAlan White(アラン・ホワイト。drums)は、Jimmy Page(ジミー・ペイジ)とXYZ("ex-Yes and Zeppelin"の意味)なるトリオを結成する計画もありましたがこれは流れて、1982年1月、若いTrevor Rabin(トレヴァー・ラビン。vo,gtr,key)を迎え、さらにはYesのオリジナル・メンバーTony Kaye(トニー・ケイ。key)を呼び、4人編成のCinema(シネマ)をロサンゼルスで結成しました。
Jonはこの間ソロ・アルバム制作や、ギリシャのシンセサイザー奏者、Vangelis(ヴァンゲリス)とユニット、Jon and Vangelis(ジョン・アンド・ヴァンゲリス)の活動がありましたが、Chrisより呼びかけられてCinemaに参加することになり、結果Cinemaは1983年6月に活動を停止してグループ名をYesと改められ、Yesの復活が発せられました。新生YesはTrevor Hornのプロデュースによって制作されることになりましたが、ハモンド・オルガン専門のTonyは、Trevor Hornがサンプリングやシンセサイザーの導入に抵抗を示し、Yesのキーボード・サウンドがデジタル化されるのを嫌ったため制作には加わらず、Chrisの妻Nikkiがフロントをつとめるプログレッシブ・ロック・グループ、Esquire(エスクワイア)のキーボーディスト、Charles Olinsがキーボードを担当しました。結果的には制作中にTonyは脱退し、制作完了後に数々の著名なブリティッシュ・ロック・グループを渡り歩いたEddie Jobson(エディ・ジョブソン。key)を招聘して5人編成の状態は保ちましたが、クレジットはEddieではなくTonyでニュー・アルバムはリリースされました(直後にTonyは復帰、Eddieは離脱しました)。
レコード番号をアルバム・タイトルにし、スリーヴ・デザインもRoger DeanやHipgnosisといった凝った描写はなく、しかもRogerによるYesのロゴマークも刷新されて、1983年11月7日にニュー・アルバム、"90125(邦題:ロンリー・ハート)"はYesの11枚目のスタジオ作としてリリースされました。フェアライトCMIを利用したデジタル・サンプリング効果、ヘヴィーなギター・プレイ、Jon AndersonとTrevor Rabinのダブル・ヴォーカル、美しいコーラス、Yesにしてはどれも新鮮で、70年代のYesとはまるで別のグループにも取れた、見事な変身でした。音だけでなく、かつての哲学的で難解だった歌詞も一段と分かりやすくなり、耳に馴染みやすい楽曲が多く収録されました。そして、アルバムリリースからその2日前、つまり陽の当たった11月5日に先行シングルとして、"Owner Of A Lonely Heart(邦題:ロンリー・ハート)"がHOT100にエントリーしたのです。Yesのサウンドを心待ちにしていたリスナーは、その音の変化に驚いたことでしょう。
メンバーが動物に変身するこの曲のプロモーション・ビデオも斬新でした。個人的にはイントロ箇所にEddieが一瞬だけ出演するシーンや、一方で後半にビデオ主演している男性をYesのメンバーが追い込むシーンで、メンバーの中にTonyが見当たらないのも、それぞれある意味で印象的ではあります。ちなみにこのビデオの監督はHipgnosisのStorm Thorgersonが手掛けています。
"Owner Of A Lonely Heart"が62位でエントリーするのも、過去のYesでは珍しく、驚異のランクインではありました。そして翌週は45位、3週目で37位といっきにTop40入りを果たします。このあとも勢いは続いて、27位→14位と大きくジャンプアップを果たし、1972年4月15日にYesの最高ランクを記録した"Roundabout(邦題:ラウンドアバウト)"の13位は悠々と超えるどころか、上位をねらうアクションぶりでした。
その後11位にアップして堂々と記録を抜き、12月17日付で7位とYes初のTop10入りとなり、続いて年末年始の関係で4位を3週続けた後2位にランク、そして1984年1月21日付で1位に躍り出、2週続けてランクされました。その後は2位→4位→8位→19位と降下していきましたが、HOT100で23週、Top10内には10週間もチャート・インする大成功をおさめ、1984年のYear-Endチャートでは、100位中8位にランクされて、この年の代表曲になりました。
"Owner Of A Lonely Heart"はロック部門(メインストリームロックチャート。当時は Top Rock Tracks)では当然ながら1983年11月26日付で1位を4週記録しましたが、特筆すべきはダンス/ディスコチャートでもチャートインし、1984年1月21日付で3位を記録、ダンス部門でも大きな話題になりました。
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2018年11月04日
11月4日は何に陽(ひ)が当たったか?
19世紀、イタリア各地では、リソルジメント(Risorgimento。"再興""復興"が原義)と呼ばれる外国支配からの解放と国家統一が盛んでした(ウィーン会議の当事国オーストリアより北イタリアのロンバルディアとヴェネツィアを奪われていました)。一方、地中海第2の島サルデーニャ(サルディニア。コルシカ島からすぐ南に位置)では、サヴォイア家の王国、サルディーニャ王国がありました。1849年にのヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(1820-78)がサルデーニャ王として即位し(位1849-61)、王国の近代化だけでなくサルディーニャ王国によるイタリアのリソルジメント達成、つまり対オーストリアおよびイタリアの統一政策を重視していきました。ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は、これらの諸政策を自由主義者のカミッロ・カヴールに託し、陽の当たった1852年11月4日、サルディーニャ王国の首相に任命しました。
カヴールはトリノ出身で、自由主義思想とリソルジメントへの野望を持つ人物であり、1847年には『リソルジメント』誌を創刊して、先代のカルロ・アルベルト王(王位1831-49)の時代から受け継がれている立憲体制の必要と、オーストリアへの報復、そしてサルデーニャのサヴォイア家を軸とするイタリア統一を主張していました。実は第一次イタリア・オーストリア戦争(1848.3-49.3)で戦った父、カルロ前王が、会談したジュゼッペ・マッツィーニ(1805-72。イタリア統一を掲げて"青年イタリア"を組織。1849年2月、ウィーン体制を支持するローマ教皇がローマを離れている間に半年間"ローマ共和国"を建設)とサルデーニャの統率をめぐって意見が合わなかったことをヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は悔やんでおりました。彼は、マッツィーニのように暴力と民衆蜂起でなりたつリソルジメントは限界があり、彼の共和主義思想は空想的であると批判、列強と手を組んでサルデーニャの国際的地位を高めてこそ、リソルジメントが実現できると考えていたのです。
ヨーロッパでは、この時期、東方問題(オスマン帝国領土に関わる外交問題)に揺れ動いていました。1853年、黒海でクリミア戦争(1853-56)が勃発、ロシアはトルコと戦い、トルコにはイギリス・フランスが援助しました。この情勢下でサルデーニャは、同じくオーストリアと敵対する、第二帝政となったフランス・ナポレオン3世(位1852-70)に接近、遂に列強同士の戦争に参戦することになりました(1855)。サルディーニャは英仏トルコの連合国側につき、ロシア相手に戦いました。終戦後、パリ会議(1858)においてサルデーニャの国際的地位が高まり、フランスの後援によって、対オーストリア戦争への準備が整いました。またマッツィーニと並ぶもう一人のリソルジメント主導者で、亡命していたジュゼッペ・ガリバルディ(1807-82)が1854年に帰国、クリミア戦争に参戦するサルデーニャを見たとき、共和主義からのリソルジメントは非現実的だとし、サルデーニャによるイタリア統一を考えるようになりました。一方マッツィーニは、1853年ミラノ、1857年ジェノヴァで革命運動を指導していました。
フィレンツェ市があるトスカナ地方など中部イタリアでは、同地方の諸邦がサルデーニャへの合併を希望し始めていました。そこでカヴールはナポレオン3世との関係を維持しながら、1858年、プロンビエールの密約を交わしました。カヴールはサヴォイア家の中部イタリア併合承認の代償として、サヴォイア(サヴォイ)と港市ニース(ガリバルディの出身地)を割譲して、フランスはサルデーニャの対オーストリア戦争の支援を約束しました。
プロンビエール密約を知ったオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(位1848-1916)は、サルデーニャが仕掛ける前に開戦に踏みきり、1859年4月、遂に第2次イタリア・オーストリア戦争が勃発しました(イタリア統一戦争。1859.4-59.7)。この戦争には、ガリバルディも参加し、活躍しました。パダノ・ヴェネタ平野に位置するソルフェリーノでの激戦で、フランスの援助を受けたサルデーニャが勝ちを収め、その後も連勝を重ねて、中部イタリアとその以北の諸邦の合併の気運が上昇していきました。
ところが、予期せぬ出来事が起こります。フランス・ナポレオン3世は、南接するイタリアが合併・統一によって強大化していく姿を脅威に感じ始めたのです。ついにフランスはサルデーニャを見捨てて、同年7月、ヴィラフランカの講和をオーストリアと締結することになり、統一戦争は中途で挫折し、プロンビエール密約の締結内容も流れてしまいました。これに失望したガリバルディは、サルデーニャから離反しましたが、フランスはヴィラフランカの講和で、オーストリアからロンバルディアをサルディーニャ王国に割譲させる取り決めを行いました。
イタリア統一戦争の結果、サルディーニャにおけるイタリア全土の統一は、北イタリアのロンバルディア併合のみとなりました。しかも北イタリアにはまだヴェツィアが残っていました。1860年、カヴールはサヴォイとニース割譲の代償として、サルディーニャの中部イタリア合併を実現させるため、同地の住民投票を行ってこれを決定し、3月、ナポレオン3世の合意をようやく取り付けたのです(中部イタリア併合)。
一方南イタリアでは、1815年のスペイン・ブルボン王朝の王政復古によって、ナポリ王国(1282-1815)がナポレオン支配から解放され、その後シチリア王国と合邦、両シチリア王国の復活が実現しました(1815-60)。サルデーニャは今度、南イタリア併合を目指し、ガリバルディを利用します。1860年5月、カヴールの要請を受けたガリバルディは、自ら組織した義勇軍、"千人隊(赤シャツ隊)"を率いて、ジェノヴァからシチリアに向けて出発しました。シチリア上陸後は住民に支援され、同島占領後(9月)、本土に上陸、南イタリアを征服しました。半島内ではローマ教皇領が残っていましたが、いまだフランス軍が軍隊を残していました。カヴールはガリバルディが、かつてマッツィーニとローマ共和国を立ち上げ、共和主義政権をおこすことに危惧の念を抱いていました。このため、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世自らガリバルディと会見することになり(1860.10.26)、会談の結果、ガリバルディはリソルジメントの完成という大義に変わりはないことで意見が一致、再びサルデーニャによるイタリア統一を志し、同年占領した南イタリアをサルデーニャに献上したのです。これで南イタリア併合も完成しました。
こうして、形式的ではありますが、リソルジメントは達成されました。1861年2月、トリノでイタリアの代表が国会を召集、3月、遂にサヴォイア家によるイタリア王国が誕生、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が初代イタリア国王となり(位1861-78)、カヴールはイタリア王国首相に就任(在任1861.3.13-1861.6.6)、1720年以来サルデーニャ王国の首都だったトリノを都に置きました(のち、フィレンツェ→ローマに遷都)。
しかし、カヴールはとうとう力尽きて、就任直後にマラリアにかかり、1861年6月6日、没しました。カヴールはまさにイタリア統一のために命を捧げた英雄となりました。カヴールはマッツィーニ、ガリバルディとならび、イタリア統一の三傑と呼ばれたのです。
引用文献『世界史の目 第96話』より
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2018年11月03日
11月3日は何に陽(ひ)が当たったか?
アウラングゼーブは、第5代皇帝シャー・ジャハン(位1628-58)と妃ムムターズ・マハル(1595-1631)の三男として、インド西部のグジャラート州ダーホードで生誕しました。次期後継者争いで兄弟4人の中から勝ち抜き、父シャー・ジャハンを退位させたアウラングゼーブは1658年に即位しました。
アウラングゼーブはまず財政面の改革に乗り出しましたが、彼は厳格なイスラム教スンナ派信者であり、シーア派とヒンドゥー教徒には寺院破壊などの弾圧を強行しました。このため、これまでムガル帝国に異論ありつつも協力してきたラージプート族(クシャトリヤ階級の部族集団)は反攻に転じて、1679年から80年にかけて反乱を起こしました。これによりアウラングゼーブ帝は、1679年、非スンナ派にジズヤ(人頭税)を復活させて、シーア派やヒンドゥー教徒らを抑えました。1681年にはアウラングゼーブ四男のムハンマド・アクバル王子(1657-1706)がラージプート族と協力して反攻を起こしたのを契機に大規模なデカン遠征を行い、治世の大半はこれに費やしました。これにより1689年頃には帝国領土は最大となりました。
デカン地方にはラージプート族以外にも戦闘的なヒンドゥー教徒・マラーター族がおり、指導者シヴァージー(1627-80)はアウラングゼーブ軍と徹底抗戦を繰り返し、1674年にはシヴァージーを君主(位1674-80)とするマラーター王国(1674-1818)も建設、ムガル軍隊と対峙しました。18世紀初め以降、王国は名目化しましたが、アウラングゼーブ没後は、王国の宰相(ペーシュワー)がマラータ諸侯を集めて実権を掌握し、マラーター同盟(1708-1818)を結成、同じようにムガル軍と争いました。
アウラングゼーブの改革は、領土最大化を実現させたものの、遠征による王室の長期不在、これによる宮廷浪費や北・中部インドの治安悪化、戦費散財による財政危機などにより、帝国の衰退が始まりました。官僚には俸給にかえて土地徴税権を与える徴税請負制度を再開しました。アウラングゼーブの治世の末年には皇帝の権威も失い、晩年は首都デリーの安定をはかるため、帝はデリーを離れ、西インドのマハーラーシュトラ州(現ムンバイ東郊のアフマドナガル)で没しました。アウラングゼーブ死後、帝位継承による王室内紛、ヒンドゥー教徒の反発は繰り返し起こされて、帝国弱体化が進行していくことになるのです。
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2018年11月02日
11月2日は何に陽(ひ)が当たったか?
日清戦争(1894)、日露戦争(1904)の戦勝で、ロシア・中国以上に極東の大国として欧米列強に認識されることになった日本。日露戦争後の講和であるポーツマス条約(1905)では賠償金を得られなかったものの、朝鮮における日本の優越権が承認され(1910年に韓国併合が完成)、南樺太領有、旅順と大連の租借権、ロシア東清鉄道の長春以南(ちょうしゅん。現吉林省)における南満州支線(のちの満鉄。南満州鉄道)の権益譲渡(翌1906年、南満州鉄道株式会社を設立)が決まりました。これがいわゆる日本のアジアにおける特殊権益です(この特殊権益はポーツマス条約において正当に認められ、得られた利権の意味を持ちました)。
さらに日本には1902年にイギリスと結んだ日英同盟がありました(1902.1.30締結)。日英同盟はイギリスがこれまで固持していた"光栄ある孤立(Splendid Isolation)"を捨ててまでしても、アジア権益を脅かすロシアを牽制するために、同じく満州・朝鮮をめぐってロシアと対立する日本と対露路線で協調した同盟です。結成当初は締結国が対戦国と戦争する場合、交戦相手国が一国の場合、同盟国は中立を守り、二国以上の場合は参戦して締結国を助けるという軍事的防衛同盟の性格がありました(その結果が日露戦争です)。1905年8月12日にこの同盟は更新されましたが、イギリスにおけるインド権益、日本における朝鮮権益を相互承認し、そして戦う相手国が一国の場合でも、同盟国は参戦して締結国を助ける攻守同盟になりました。ところが、1911年7月における3回目の更新ではアメリカの介入があり、交戦相手国からアメリカが対象外とされて、日英間の同盟の意味合いが薄れてしまいます。
第3次日英同盟に基づき、日本は連合国側として第一次世界大戦に参戦(1914.7.13。ドイツに宣戦)、ドイツの極東における根拠地(膠州湾を含む山東半島。青島市がある)を攻略・占領しました。その後、中国に対して対華21ヶ条要求を突きつけ(1915)、山東半島の諸利権をはじめ、南満州・東蒙古における特殊権益を求めるなど、帝国主義の性格を徐々に見せ始めていきました。
アメリカはかつての国務長官ジョン・ヘイ(1838-1905。任1898-1905)が宣言した中国の"門戸開放"・"機会均等"・"領土保全"の三原則(1889,90。ヘイの門戸開放宣言)でヨーロッパ列強の中国分割に介入し、乗り遅れた中国進出を果たしていました。日本は中国における特殊権益を保持しようとしたとき、最も大きな障害となる国はアメリカでした。案の定そのアメリカは、日本の対華二十一か条要求には承認しませんでした。ポーツマス条約のあと、アメリカは南満州鉄道を日本と共同経営をもちかけ、門戸開放を維持しようとしましたが、まもなく破綻し(桂・ハリマン協定の破棄。日本側が破棄。1905)、これによって日米間はいっきに冷え切ってしまいました。
しかも、その頃日本が前述の日英同盟やポーツマス条約以外にも、日仏協約(1907)や日露協約(1907)などを通じて欧州列強を相手に次々と手を結んだことに対して、逆にアメリカは国際的に孤立するようになり、帝国主義への道を着実に歩む日本との関係悪化は避けられないものとなっていました。1906年にカリフォルニア州で起こった日本人学童の通学拒否事件に始まる日本人移民排斥はこういった状況によるものです。日本人移民排斥の結末は1924年、排日移民法(1924年移民法)という、日本人の移民は完全に停止を余儀なくされていくのでした。
アメリカの門戸開放政策と日本の特殊権益擁護は折り合いの付かず、その後も両国の関係は冷え切った状態が続きましたが、1917年に大きな転機が起こった。当時アメリカのウッドロー・ウィルソン大統領(1856-1924。任1913.3.4-21.3.4。民主党)の国務長官を務めたウィリアム・ジェニングス・ブライアン(任1913-15)は、第一次世界大戦中の混乱に乗じて中国大陸進出と権益の獲得と維持をはかる日本に対して牽制し、「ブライアン・ノート」を駐米大使に手渡しましたが、その内容というのは、日本の対華21ヶ条要求には賛同しないが、中国における門戸開放および機会均等、そして中国領土の保全というアメリカの主張に同意するのなら、原則として日本の中国における特殊権益を承認するという妥協手段に満ちたものでした。
こうした妥協を決定するために、1917年11月2日、対米特派大使を務めた石井菊次郎(いしい きくじろう。1866-1945。元外務大臣。任1915-16)と、ブライアン辞職後に就任したロバート・ランシング国務長官(1864-1928。任1915-20)がワシントンで会談を行い、合意が成立しました。これが石井・ランシング協定です。この協定により、日米間で中国における門戸開放・機会均等・領土保全が約束され、アメリカは日本の中国特殊権益を承認しました。しかしこの承認は門戸開放を主張するアメリカにとって満足するわけがなく、また満州の特殊権益についてアメリカの解釈は経済的な権益として見ていただけに過ぎないのに対し、日本の解釈は経済的権益だけでなく政治的権益も含めていたため、この協定の是非が問われることになっていくのでした。
結果的にはアメリカがしいたワシントン体制での、1922年2月に締結した九ヵ国条約によって、アメリカ本来の主張する門戸開放・機会均等・領土保全の原則を参加国に呼びかけ、中国は主権を持った独立国家であり、中国における全ての権益不可侵を主張したのです。これにより、日米間で結んでいた石井・ランシング協定は失効となり(九ヵ国条約発効日の1923.4.14)、日本は、第一次世界大戦でドイツから奪った山東省の権益を返還することになりました(山東懸案解決条約。山東還付条約。1922.2.4)。
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2018年11月01日
11月1日は何に陽(ひ)が当たったか?
1984年に"The Best of Kansas(邦題:ベスト・オブ・カンサス)"をリリース後、活動停止状態だったKansasが、6年ぶりに戻ってきたSteve Walshによって再結成を果たします。1980年にリリースされたSteve Walshのソロ・アルバム"Schemer-Dreamer(邦題:スキーマー・ドリーマー)"で、ゲスト参加したDixie Dregs(ディキシー・ドレッグス)のギタリスト、Steve Morse(スティーヴ・モーズ。gtr)や、Walshのソロ・プロジェクト、Streets(ストリーツ)のベーシスト、Billy Greer(ビリー・グリアー)がKansas再結成に加わり、そしてKansasを支えてきたオリジナル・メンバーのPhil Ehart(フィル・イハート。Drums)とRich Williams(リッチ・ウィリアムス。gtr)と合流、Steve Walshを軸とするKansasが復活しました。
折しもこの1986年は過去の大物アーチストやバンドの復帰、復活が多く見られました。たとえば、Emerson, Lake & Palmer(EL&P)ではCarl PalmerはAsia(エイジア)在籍のため不参加でしたが、代わりに Cozy Powell(コージー・パウエル)を入れてEmerson, Lake & Powellとして復帰したり、Steve Winwood(スティーヴ・ウィンウッド)の4年ぶりの復帰作などがでました。アメリカでもKansasと同じカテゴリーに入れられることの多かったJourney(ジャーニー)やBoston(ボストン)の復活、またなんといっても60年代に絶大な人気を博したThe Monkees(モンキーズ)がリユニオンされて大いに話題を呼びました。Kansasは1986年も終わりに近づいた頃の復活でしたが、アメリカのラジオ局やリスナーは彼らを忘れてはいませんでした。
"Power(邦題:パワー)"と名付けられたKansasの10枚目のスタジオ・アルバムは、全盛期のプログレッシブさは薄れており、Steve Walshのヴォーカルによる"歌"と、Steve Morseのテクニカルなギターさばき、馴染みやすいサウンドを武器に、新しいKansasとして甦ったのです。この先行シングルがアルバム3曲目に収録された"ALL I Wanted"です。
非常にメロディアスで親しみやすいミドル・テンポのロックで、Kansasにしては異様なぐらい爽やかなラブソングですが、WalshとMorseの、二人のSteveがこのラブ・ソングを書き上げました。プロモーション・ビデオにおいてもこの二人しか登場せず、Walshが天高く歌い上げ、Morseが心のこもったギターを奏で、そして随所に日常の若いカップルの光景を織り交ぜた、大変微笑ましい作品に仕上がっています。
さて陽の当たった1986年11月1日付HOT100で81位にエントリーしたこの曲は、その後68位→61位→47位と順調に進み、5週目でKansas7曲目のTop40入りとなる40位にランクイン、続いて34位→30位→25位と上位ランクも期待できる上昇ぶりでしたが、年末年始ということもありアクションは緩み(1月1週目は休みのため12月最終週と同位)、23位が2週続いた翌週に22位とぽつんと上がって、1979年に23位を記録した"People of the South Wind(邦題:まぼろしの風)"を抜き、もはやここまでと思われました。しかし1987年1月17日付にポンと19位にアップ、なんとかTop20入りを果たしてこれが最高位となり、その後は23位→38位と下降していき、結果18週チャートインしました。KansasのTop20入りは1982年の"Play the Game Tonight(プレイ・ザ・ゲーム・トゥナイト)"以来となります。
なお"ALL I Wanted"はメインストリームロックチャート(当時はAlbum Rock Tracks)では1986年の12月13日付より2週続けて10位を記録、Top10入りを果たして12週チャートインしています。Adult Contemporaryチャートでも14位にランクされ、上々の復帰作となりました。
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