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2018年11月03日

11月3日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1618年11月3日は、ムガル帝国(1526-1858)の第6代皇帝、アウラングゼーブ帝(1618-1707。在位1658-1707)の生誕日です。

 アウラングゼーブは、第5代皇帝シャー・ジャハン(位1628-58)と妃ムムターズ・マハル(1595-1631)の三男として、インド西部のグジャラート州ダーホードで生誕しました。次期後継者争いで兄弟4人の中から勝ち抜き、父シャー・ジャハンを退位させたアウラングゼーブは1658年に即位しました。
 アウラングゼーブはまず財政面の改革に乗り出しましたが、彼は厳格なイスラム教スンナ派信者であり、シーア派とヒンドゥー教徒には寺院破壊などの弾圧を強行しました。このため、これまでムガル帝国に異論ありつつも協力してきたラージプート族(クシャトリヤ階級の部族集団)は反攻に転じて、1679年から80年にかけて反乱を起こしました。これによりアウラングゼーブ帝は、1679年、非スンナ派にジズヤ(人頭税)を復活させて、シーア派やヒンドゥー教徒らを抑えました。1681年にはアウラングゼーブ四男のムハンマド・アクバル王子(1657-1706)がラージプート族と協力して反攻を起こしたのを契機に大規模なデカン遠征を行い、治世の大半はこれに費やしました。これにより1689年頃には帝国領土は最大となりました。

 デカン地方にはラージプート族以外にも戦闘的なヒンドゥー教徒・マラーター族がおり、指導者シヴァージー(1627-80)はアウラングゼーブ軍と徹底抗戦を繰り返し、1674年にはシヴァージーを君主(位1674-80)とするマラーター王国(1674-1818)も建設、ムガル軍隊と対峙しました。18世紀初め以降、王国は名目化しましたが、アウラングゼーブ没後は、王国の宰相(ペーシュワー)がマラータ諸侯を集めて実権を掌握し、マラーター同盟(1708-1818)を結成、同じようにムガル軍と争いました。

 アウラングゼーブの改革は、領土最大化を実現させたものの、遠征による王室の長期不在、これによる宮廷浪費や北・中部インドの治安悪化、戦費散財による財政危機などにより、帝国の衰退が始まりました。官僚には俸給にかえて土地徴税権を与える徴税請負制度を再開しました。アウラングゼーブの治世の末年には皇帝の権威も失い、晩年は首都デリーの安定をはかるため、帝はデリーを離れ、西インドのマハーラーシュトラ州(現ムンバイ東郊のアフマドナガル)で没しました。アウラングゼーブ死後、帝位継承による王室内紛、ヒンドゥー教徒の反発は繰り返し起こされて、帝国弱体化が進行していくことになるのです。

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