2018年10月28日
10月28日は何に陽(ひ)が当たったか?
1412年10月28日は、14世紀後半から15世紀前半にかけて、北欧諸国家の女性支配者、マルグレーテ1世(1353-1412)の没年月日です。北欧三国の実質的な君臨者として、実権を掌握した彼女は、女王そのものだったのです。今回は北ヨーロッパの14〜15世紀のお話です。
14世紀のデンマークは国力が減退し、しかも8年間国王空位時代が続いていました。1340年、国王ヴァルデマー4世(デンマーク王位1340-75。以下"デ王位"と呼ぶ)が即位すると、彼はドイツ騎士団にエストニアを売却して得た資金で財政再建を行い、巧みな外交術や軍力強化でもって国家再興を成し遂げて、復興王(アッティルダーク)と呼ばれました。しかし1375年、ヴェルデマー4世は男児を遺さずに没したので、外孫(娘の息子)のオーロフ3世(1370-87)が後継者となりました(デ王位1376-87)。父はノルウェー王のホーコン6世(ノルウェー王位1343-80。以下"ノ王位"と呼ぶ)で、一時スウェーデン王も兼任しました(スウェーデン王位1362-64。以下"ス王位"と呼ぶ)。
そして母、つまりデンマーク王ヴァルデマー4世の娘であり、次代のデンマーク王母となったのが、北欧の実質上の支配者となったマルグレーテです。1376年息子オーロフ3世がデンマーク王として5歳で即位すると、マルグレーテはオーロフの摂政となり、1380年に夫のノルウェー王ホーコン6世が没すると、オーロフをノルウェー王オーラヴ4世として即位させ(ノ王位1380-87)、同時にマルグレーテはノルウェー王室においても摂政を務めました。しかし1387年、子のオーロフ(オーラヴ)も18歳の若さで夭逝しましたので、マルグレーテはデンマーク・ノルウェー両国で国王が決まるまで引き続き摂政を続行しました。北欧では女性の王位継承は認められませんでしたが、マルグレーテはデンマークの議会で国力及び近隣国との友好関係を安定に導いた功労者であるとして、国家的な後見役として認められたのです。国王としての即位ではありませんでしたが、次期国王を選出する権限を認められて、実質上、"女王"と同様の扱いでした。このため、マルグレーテは、女王マルグレーテ1世と呼ばれます(実質は摂政。デンマーク摂政期間1375-1412)。また1388年にはノルウェーにおいても同様に認められました(ノルウェー摂政期間1388-1412)。
1389年、マルグレーテはまずノルウェーの王位を決めようと、彼女の姉の娘の息子、つまり又甥(甥の子)にあたるエーリヒ(1382-1459。エーリク・ア・ポンメルン)をエイリーク3世としてノルウェー王に即位させ(ノ王位1389-1442)、ノルウェー王の摂政として権威を維持しました。
また彼女はスウェーデンにも手を伸ばします。当時スウェーデンは北ドイツの貴族出身のアルブレクト王(ス王位1364-89)が君臨していました。前王がマルグレーテの夫で、ノルウェー王でもあったホーコン6世(前述)で、スウェーデン王である父マグヌス4世(ス王位1319-64)とともに共同統治していました。しかしスウェーデン貴族に嫌われマグヌス4世、ホーコン6世は退位し、ドイツ貴族が迎えられた経緯によるものでした。マルグレーテは北欧の三国を掌握するためスウェーデンに近づきましたが、アルブレクト王はマルグレーテがスウェーデン摂政となり北欧の女王になることを嫌い、対立を深めて争いました。結果アルブレクト王が敗れて捕虜とされたことで、スウェーデンではマルグレーテに支持がより多く集まりました。
この結果、1389年にアルブレクト王はスウェーデン王位を剥奪されました。その後スウェーデンの議会においてもマルグレーテをデンマーク、ノルウェーに続く国家的な後見役として認められることとなったのです(スウェーデン摂政期間1389-1412)。1396年、マルグレーテは、ノルウェー王エイリーク3世を、スウェーデン王エリク13世(ス王位1396-1439)として即位させ、都合良くデンマーク王としても彼をエーリク7世(1396-1439)として即位させました。マルグレーテの北欧三国の実質上の摂政としての治世がスタートしたのです。まさに北欧三国の同君連合の誕生でありました。
1397年、マルグレーテは同君連合をさらに強化するため、バルト海に面するスウェーデンのカルマル城(カルマル市に築城)において、三国の強力な連合体、カルマル同盟(カルマル連合)を締結しました。この同盟は名目上、対等な関係で結ばれていましたが、実質はデンマーク中心の国家連合体であり、デンマーク連合王国(1397-1523)と呼ばれました。聡明で強い意志を持ったマルグレーテは文字通り、北欧の覇者となり、古代アッシリア帝国(B.C.2000年紀初-B.C.612)の伝説上の人物の名に因み、「北欧のセミラミス」と呼ばれました。セミラミスのモデルはシャムラマト(サンムラマート。B.C.9世紀頃の人物)と言われたアッシリア王の妃であり、王子の王位継承後も摂政として、賢明な諸政策を施して権勢を振るったと言われており、まさにマルグレーテはセミラミスの再来でありました。
1412年10月28日、マルグレーテは59歳(58歳?)で没しますが、北ドイツのフレンズブルクの湾岸を航行中に突然死したとされています。コペンハーゲン近郊のロスキレ大聖堂にて埋葬されました。
カルマル同盟は16世紀にスウェーデンの同盟離脱騒動が起こり、デンマークはスウェーデンの独立派を一掃しました(1520。ストックホルムの血浴)。この粛清を命じたデンマーク王及びノルウェー王クリスチャン2世(デ・ノとも王位1513-23)は、1520年からはスウェーデン王も兼ねていました(ス王位1520-21)が、この粛清を境にデンマークとスウェーデン間の同盟関係は悪化、スウェーデンの独立派の貴族グスタフ・ヴァーサ(1495-1560)のおこした反デンマーク運動や農民反乱によって、1521年、同盟からの離脱とスウェーデン摂政に就くことを宣言、同年クリスチャン2世はスウェーデン王位を廃されてしまいました。
クリスチャン2世の失政は本国デンマーク、同盟国ノルウェーにも飛び火し、1523年、デンマーク、ノルウェー両王位からも退くことになり、国外亡命を余儀なくされ、彼の叔父フレゼリク1世(デ・ノとも王位1523-33)が即位することになりました。そしてスウェーデンは正式にカルマル同盟から離脱してグスタフ・ヴァーサがスウェーデン王・グスタフ1世として即位することになりました(位1523-60。スウェーデン王国ヴァーサ朝の成立。1523-1654)。
これにてカルマル同盟は解消(1523)、デンマークはノルウェーとの同君連合に戻り、19世紀前半まで維持させましたが、1813年、スウェーデンとの戦争に敗北、キール条約(1814)を締結させられてノルウェーをスウェーデンに割譲することになり、マルグレーテが苦心してつくりあげたデンマークを中心とする北欧の国家連合は完全に崩壊してしまいました。
引用文献『世界史の目 第190話』より
14世紀のデンマークは国力が減退し、しかも8年間国王空位時代が続いていました。1340年、国王ヴァルデマー4世(デンマーク王位1340-75。以下"デ王位"と呼ぶ)が即位すると、彼はドイツ騎士団にエストニアを売却して得た資金で財政再建を行い、巧みな外交術や軍力強化でもって国家再興を成し遂げて、復興王(アッティルダーク)と呼ばれました。しかし1375年、ヴェルデマー4世は男児を遺さずに没したので、外孫(娘の息子)のオーロフ3世(1370-87)が後継者となりました(デ王位1376-87)。父はノルウェー王のホーコン6世(ノルウェー王位1343-80。以下"ノ王位"と呼ぶ)で、一時スウェーデン王も兼任しました(スウェーデン王位1362-64。以下"ス王位"と呼ぶ)。
そして母、つまりデンマーク王ヴァルデマー4世の娘であり、次代のデンマーク王母となったのが、北欧の実質上の支配者となったマルグレーテです。1376年息子オーロフ3世がデンマーク王として5歳で即位すると、マルグレーテはオーロフの摂政となり、1380年に夫のノルウェー王ホーコン6世が没すると、オーロフをノルウェー王オーラヴ4世として即位させ(ノ王位1380-87)、同時にマルグレーテはノルウェー王室においても摂政を務めました。しかし1387年、子のオーロフ(オーラヴ)も18歳の若さで夭逝しましたので、マルグレーテはデンマーク・ノルウェー両国で国王が決まるまで引き続き摂政を続行しました。北欧では女性の王位継承は認められませんでしたが、マルグレーテはデンマークの議会で国力及び近隣国との友好関係を安定に導いた功労者であるとして、国家的な後見役として認められたのです。国王としての即位ではありませんでしたが、次期国王を選出する権限を認められて、実質上、"女王"と同様の扱いでした。このため、マルグレーテは、女王マルグレーテ1世と呼ばれます(実質は摂政。デンマーク摂政期間1375-1412)。また1388年にはノルウェーにおいても同様に認められました(ノルウェー摂政期間1388-1412)。
1389年、マルグレーテはまずノルウェーの王位を決めようと、彼女の姉の娘の息子、つまり又甥(甥の子)にあたるエーリヒ(1382-1459。エーリク・ア・ポンメルン)をエイリーク3世としてノルウェー王に即位させ(ノ王位1389-1442)、ノルウェー王の摂政として権威を維持しました。
また彼女はスウェーデンにも手を伸ばします。当時スウェーデンは北ドイツの貴族出身のアルブレクト王(ス王位1364-89)が君臨していました。前王がマルグレーテの夫で、ノルウェー王でもあったホーコン6世(前述)で、スウェーデン王である父マグヌス4世(ス王位1319-64)とともに共同統治していました。しかしスウェーデン貴族に嫌われマグヌス4世、ホーコン6世は退位し、ドイツ貴族が迎えられた経緯によるものでした。マルグレーテは北欧の三国を掌握するためスウェーデンに近づきましたが、アルブレクト王はマルグレーテがスウェーデン摂政となり北欧の女王になることを嫌い、対立を深めて争いました。結果アルブレクト王が敗れて捕虜とされたことで、スウェーデンではマルグレーテに支持がより多く集まりました。
この結果、1389年にアルブレクト王はスウェーデン王位を剥奪されました。その後スウェーデンの議会においてもマルグレーテをデンマーク、ノルウェーに続く国家的な後見役として認められることとなったのです(スウェーデン摂政期間1389-1412)。1396年、マルグレーテは、ノルウェー王エイリーク3世を、スウェーデン王エリク13世(ス王位1396-1439)として即位させ、都合良くデンマーク王としても彼をエーリク7世(1396-1439)として即位させました。マルグレーテの北欧三国の実質上の摂政としての治世がスタートしたのです。まさに北欧三国の同君連合の誕生でありました。
1397年、マルグレーテは同君連合をさらに強化するため、バルト海に面するスウェーデンのカルマル城(カルマル市に築城)において、三国の強力な連合体、カルマル同盟(カルマル連合)を締結しました。この同盟は名目上、対等な関係で結ばれていましたが、実質はデンマーク中心の国家連合体であり、デンマーク連合王国(1397-1523)と呼ばれました。聡明で強い意志を持ったマルグレーテは文字通り、北欧の覇者となり、古代アッシリア帝国(B.C.2000年紀初-B.C.612)の伝説上の人物の名に因み、「北欧のセミラミス」と呼ばれました。セミラミスのモデルはシャムラマト(サンムラマート。B.C.9世紀頃の人物)と言われたアッシリア王の妃であり、王子の王位継承後も摂政として、賢明な諸政策を施して権勢を振るったと言われており、まさにマルグレーテはセミラミスの再来でありました。
1412年10月28日、マルグレーテは59歳(58歳?)で没しますが、北ドイツのフレンズブルクの湾岸を航行中に突然死したとされています。コペンハーゲン近郊のロスキレ大聖堂にて埋葬されました。
カルマル同盟は16世紀にスウェーデンの同盟離脱騒動が起こり、デンマークはスウェーデンの独立派を一掃しました(1520。ストックホルムの血浴)。この粛清を命じたデンマーク王及びノルウェー王クリスチャン2世(デ・ノとも王位1513-23)は、1520年からはスウェーデン王も兼ねていました(ス王位1520-21)が、この粛清を境にデンマークとスウェーデン間の同盟関係は悪化、スウェーデンの独立派の貴族グスタフ・ヴァーサ(1495-1560)のおこした反デンマーク運動や農民反乱によって、1521年、同盟からの離脱とスウェーデン摂政に就くことを宣言、同年クリスチャン2世はスウェーデン王位を廃されてしまいました。
クリスチャン2世の失政は本国デンマーク、同盟国ノルウェーにも飛び火し、1523年、デンマーク、ノルウェー両王位からも退くことになり、国外亡命を余儀なくされ、彼の叔父フレゼリク1世(デ・ノとも王位1523-33)が即位することになりました。そしてスウェーデンは正式にカルマル同盟から離脱してグスタフ・ヴァーサがスウェーデン王・グスタフ1世として即位することになりました(位1523-60。スウェーデン王国ヴァーサ朝の成立。1523-1654)。
これにてカルマル同盟は解消(1523)、デンマークはノルウェーとの同君連合に戻り、19世紀前半まで維持させましたが、1813年、スウェーデンとの戦争に敗北、キール条約(1814)を締結させられてノルウェーをスウェーデンに割譲することになり、マルグレーテが苦心してつくりあげたデンマークを中心とする北欧の国家連合は完全に崩壊してしまいました。
引用文献『世界史の目 第190話』より
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posted by ottovonmax at 00:00| 歴史