2018年10月26日
10月26日は何に陽(ひ)が当たったか?
899年10月26日は、"大王"と呼ばれたイングランド王国国王、アルフレッド(848?/849?-899)の没年月日です。
7〜8世紀、北欧のスカンディナヴィア半島並びにユトランド半島はでは、ゲルマン民族の一派で、北ゲルマンのノルマン人("Normans=北方人"の意)が住んでおり、ノルウェー原住のノール人、デンマーク原住のデーン人、スウェーデン地方原住のスウェード人といった部族から成り立っていました。
その内の一つ、デーン人はイングランドにも進出したが、西ゲルマンに属していたアングロ・サクソン人がイングランドにいました。アングロ・サクソン人は、アングル族・サクソン族・ジュート族から構成され、北西ドイツからユトランド半島に原住していた民族で、5世紀中頃にブリタニア南部へ波状的に海渡進出、先住のケルト人を圧し多くの小国家群を形成しました。南ブリタニアは"アングルの地"という意味でイングランドと呼ばれるようになります。その後のイングランドでは、北からノーサンブリア、マーシア、イースト・アングリア、エセックス、ウェセックス、サセックス、ケントの七王国(ヘプターキー。449?-829?。年代の特定には諸説あり)としてまとまり、
その後ウェセックス王エグバート(エグベルト。ウェセックス王位802-939)が829年に七王国を統一してイングランド王国を形成、エグバートは初代イングランド王となりました(位829-839)。
デーン人は837年にイングランド進出をみせたが、エグバート王に撃退されました。しかしその後も侵入を続けて、次第にイングランドに定着する姿勢をみせると共に侵略規模も激化しました。こうした中で、エグバートは839年に没し、孫アルフレッドが兄の後を継いでウェセックス王に就くと(位871-899。アルフレッド大王)、デーン人撃退のことだけに集中しました。9世紀中頃になるとウェセックス以外の諸王国がデーンに屈服しており、アルフレッドがウェセックス王即位時には、すでにデーン人の支配地域がウェセックス東部にまで広がり、ウェセックスは絶体絶命にまで陥っていました。デーン人のイングランド征服は間近だったのです。
アルフレッド大王はこの事態に、諸勢力を結集させ、ウェセックスの要地に城塞を築かせました。また海渡進出するデーン人から防衛するため、海軍を再度訓練させてその強化をはかりました。その後はねばり強くデーン軍の攻撃をかわし、そして反撃を始めました。878年、エディントンの戦いでアルフレッド王は勝利し、886年、デーン人と協定を締結、デーン人が支配したイングランド東北部を"デーンロウ"と名付けて境界線を定め、ロンドンを含む南西部を死守し、デーンロウ以外の全イングランドをおさえることに成功しました。
デーン人からイングランド王国を守っただけではなく、フランク王国(481-887)のカール大帝(カール1世。王位768-814。帝位800-814)に倣い、宮廷学校を創設し、軍政改革(騎士軍・海軍の編成)・行政と司法の整備、アングロ・サクソン法の集大成、『アングロ・サクソン年代記』の編纂、ラテン古典文学の英訳など、あらゆる面において優れた、"最大の王"でありました。これが"大王"と呼ばれるゆえんであり、死後は伝説化されたのでした。
7〜8世紀、北欧のスカンディナヴィア半島並びにユトランド半島はでは、ゲルマン民族の一派で、北ゲルマンのノルマン人("Normans=北方人"の意)が住んでおり、ノルウェー原住のノール人、デンマーク原住のデーン人、スウェーデン地方原住のスウェード人といった部族から成り立っていました。
その内の一つ、デーン人はイングランドにも進出したが、西ゲルマンに属していたアングロ・サクソン人がイングランドにいました。アングロ・サクソン人は、アングル族・サクソン族・ジュート族から構成され、北西ドイツからユトランド半島に原住していた民族で、5世紀中頃にブリタニア南部へ波状的に海渡進出、先住のケルト人を圧し多くの小国家群を形成しました。南ブリタニアは"アングルの地"という意味でイングランドと呼ばれるようになります。その後のイングランドでは、北からノーサンブリア、マーシア、イースト・アングリア、エセックス、ウェセックス、サセックス、ケントの七王国(ヘプターキー。449?-829?。年代の特定には諸説あり)としてまとまり、
その後ウェセックス王エグバート(エグベルト。ウェセックス王位802-939)が829年に七王国を統一してイングランド王国を形成、エグバートは初代イングランド王となりました(位829-839)。
デーン人は837年にイングランド進出をみせたが、エグバート王に撃退されました。しかしその後も侵入を続けて、次第にイングランドに定着する姿勢をみせると共に侵略規模も激化しました。こうした中で、エグバートは839年に没し、孫アルフレッドが兄の後を継いでウェセックス王に就くと(位871-899。アルフレッド大王)、デーン人撃退のことだけに集中しました。9世紀中頃になるとウェセックス以外の諸王国がデーンに屈服しており、アルフレッドがウェセックス王即位時には、すでにデーン人の支配地域がウェセックス東部にまで広がり、ウェセックスは絶体絶命にまで陥っていました。デーン人のイングランド征服は間近だったのです。
アルフレッド大王はこの事態に、諸勢力を結集させ、ウェセックスの要地に城塞を築かせました。また海渡進出するデーン人から防衛するため、海軍を再度訓練させてその強化をはかりました。その後はねばり強くデーン軍の攻撃をかわし、そして反撃を始めました。878年、エディントンの戦いでアルフレッド王は勝利し、886年、デーン人と協定を締結、デーン人が支配したイングランド東北部を"デーンロウ"と名付けて境界線を定め、ロンドンを含む南西部を死守し、デーンロウ以外の全イングランドをおさえることに成功しました。
デーン人からイングランド王国を守っただけではなく、フランク王国(481-887)のカール大帝(カール1世。王位768-814。帝位800-814)に倣い、宮廷学校を創設し、軍政改革(騎士軍・海軍の編成)・行政と司法の整備、アングロ・サクソン法の集大成、『アングロ・サクソン年代記』の編纂、ラテン古典文学の英訳など、あらゆる面において優れた、"最大の王"でありました。これが"大王"と呼ばれるゆえんであり、死後は伝説化されたのでした。
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タグ:イギリス
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posted by ottovonmax at 00:00| 歴史