2018年11月17日
11月17日は何に陽(ひ)が当たったか?
1558年11月17日は、イングランド、テューダー王朝(1485-1603)の女王、メアリ1世(1516.2.18-1558.11.17)の没年月日で、同時にエリザベス1世(1533-1603)が即位した日です(位1558-1603)。
1547年、イングランド国教会を導いた国王ヘンリ8世(位1509-47)が没し、彼が残した唯一の王子エドワード6世(1537-53。位1547-53)が9歳で即位しました。エドワード6世の治世では、ヘンリ8世支持派プロテスタントのヒュー・ラティマー(1485?-1555)や同じく支持派でケンブリッジ大学教授トマス・クランマー(1489-1556。カンタベリー大司教)らの尽力で、イングランド国教会の教義・規則が書かれた一般祈祷書(共通祈祷書。聖公会祈祷書)がつくられました(1549)。これにより旧教(カトリック)とローマ教会からの脱却策が本格的に行われ、イングランド国教会における諸制度が整えられました。
ヘンリ8世時代では王妃が6度入れ替わったことで有名ですが、エドワード6世は、第3王妃ジェーン・シーモア(1509-1537)の子です。ヘンリ8世には第1王妃キャサリン・オブ・アラゴン(1485-1536。カザリン。スペインのアラゴン家出身)との間に第1王女メアリ(のちのメアリ1世)、第2王妃アン・ブーリン(1507?-1536)との間に第2王女エリザベス(のちのエリザベス1世)がいました。
生前ヘンリ8世は男子継承を望んでおり、また背景にはキャサリン・オブ・アラゴンへの疎遠と当時キャサリンの侍女を務めていたアン・ブーリンとの求婚問題があり、メアリは最初こそ大事に育てられたものの次第に関係が冷えてしまい、王女位は奪われて庶子扱いとされ、しかもアン・ブーリンから、自身の子エリザベスに従うよう命じられるなど冷遇されました(エリザベスはメアリの異母妹です)。またアン・ブーリンの伯父第3代ノーフォーク公トマス・ハワード(1473-1554。公位1524-47,53-54)もヘンリ8世に寵愛された貴族で、アン・ブーリンの結婚計画を支持しました。
ところがアン・ブーリンも姦通罪で1536年斬首刑に処され、第3王妃ジェーン・シーモア(彼女も1537年に病死)が男子エドワードを産んだことで、アン・ブーリンの子エリザベスも庶子として冷遇されるようになりました。そこでメアリ、エリザベス、エドワードの教育を任されていた第6王妃キャサリン・パー(1512-48)の嘆願により、1543年にヘンリ8世が王位継承に関する法律を制定し、継承順位は1位エドワード、2位メアリ、3位エリザベスとなり、メアリとエリザベスはヘンリ8世と和解、王女としての身分と王位継承権を回復したのです(当時王女としての身分が回復したかどうかは疑問の声もあり)。
エドワード6世は病弱のため夭逝の気配が漂うと、摂政をつとめていたノーサンバランド公ジョン・ダドリー(ウォリック伯位1547-53。ノーサンバランド公位1551-53。軍人出身)はある策謀を考えました。この頃のジョン・ダドリーはイングランド国教会を基盤に諸行政をなしとげて周囲の支持を取り付け、財産も地位も絶頂の時期に来ていましたが、これまでの王位継承順位でいくと、次はメアリです。彼女の母はカトリック国であるスペインの王家の出で、メアリも熱心なカトリック信者です。また彼女はスペイン王子フェリペ(1527-1598。のちのスペイン王フェリペ2世。位1556-1598)との結婚が秒読み段階に来ていました(1554年に周囲の反対をものともせず2人は結婚)。勢い盛んなスペインのカトリック政策の波にイングランドも呑まれる怖れがあり、失政により摂政ジョン・ダドリーは自分の身も危ういと察知しました。そこで1553年、ジョン・ダドリーは自身の六男・ギルフォード・ダドリー(1536-1554)を、テューダー朝初代国王だったヘンリ7世(位1485-1509)の曾孫に当たる、ジェーン・グレイ(1537?-1554)に結婚させたのです。そしてこの報告を病床に伏すエドワード6世に伝え、次期王位をジェーン・グレイに指名すると遺言させて、王位継承権を取得させたのでした。そして程なくして、エドワード6世は15歳で崩御し(1553.7)、ジョン・ダドリーはエドワード6世の遺言を発表、ジェーン・グレイを第4代テューダー朝国王として即位させることに成功しました(位1553.7.10-7.19。在位期間から王として認めない見方もあります)。
メアリは身の危険を感じて、その間、アン・ブーリンの伯父である第3代ノーフォーク公のハワード家に匿われていました。もっとも、第3代トマス・ハワードはエドワード6世の治世の間、長男のヘンリー・ハワード(1517?-47)の起こした反逆の罪で父トマスと共にロンドン塔に幽閉されていたのです。メアリにとってトマス・ハワードとは、メアリの母キャサリンの離婚問題の時は敵も同然であったが、エドワード6世の治世となり、王室に執心するハワード家にとって、そして次期国王を約束されたメアリには貴重な存在であり、そもそもハワード家は反国教徒のカトリック信者であったため、メアリを保護するのは至極当然でした。トマス・ハワードは獄中からハワード家の一族にメアリを匿うように頼んだのです。
ジェーン・グレイの女王即位で、ジョン・ダドリーは摂政として王政を手中に収めることができると鼓舞しました。しかし甘くはありませんでした。にわかにつくられた王室にイングランド議会は紛糾し、カトリック復帰を心配する声はあるものの、メアリを正当な次期王位継承者とし、ジョン・ダドリー政権は無効となってしまいました(1553.7.19)。こうしてメアリは直後に即位して、メアリ1世となりました(位1553-58)。ジョン・ダドリー他ギルフォードら子どもたち、そして10日天下となったジェーン・グレイ前女王は逮捕され、翌8月、ジョン・ダドリーは処刑されました(ノーサンバランド公も剥奪)。六男ギルフォードと女王ジェーン・グレイはロンドン塔に幽閉され、翌1554年2月に斬首刑されました(1554年1月から2月にかけて、ジェーン・グレイ王政支持派が起こしたワイアットの乱が起こったことで、処刑が決定したとされますが、メアリの婚約条件にジェーン処刑を要求したスペイン側の圧力があったともいわれています)。この年、メアリ1世によって釈放された3代目ノーフォーク公トマス・ハワードも病没し、ノーフォーク公は孫が継ぎました。
カトリック国スペイン王・フェリペ2世を夫に持つメアリ1世は、正統と認めたイングランド初の女王となりました。母キャサリン・オブ・アラゴンを転落させたアン・ブーリンの娘エリザベスを、妹と思わずに冷遇しました。メアリは母の離婚でイングランド国中がカトリックから離れて、国教会に改宗したことに苛立ちを隠せず、国教会教義の無意味さを主張しました。エドワード6世の時代に祈祷書がつくられるも、各教区でもカトリックから抜けきれない状態でやきもきしている聖職者がおり、ローマ教皇との関係修復を第一に考えていました。
そもそもヘンリ8世は離婚を成立させるため、カトリック離脱を決行しカトリックの首長であるローマ教皇と決別しました。そして、イギリス国王を首長とするイングランド国教会の設立を果たしましたが(1534年の国王至上法。首長法。いわゆるイギリス宗教改革)、教義がカトリックと同義であることが多く、首長がローマ教皇からイギリス国王に代わっただけでした。
1554年11月、イングランド議会は国王至上法の失効を決定し、遂にカトリック復帰を決めました。当時ローマ教皇ユリウス3世(位1550-55)の意向により教会財産は戻らなかったが、イングランドでは実に20年ぶりの旧教復帰でした。
しかしメアリ1世はこれだけでは収まりませんでした。母を離婚に追いやったヘンリ8世の支持者、ヘンリ8世にならって改宗したイングランド国教徒を弾圧する策に出たのです。イングランドの非カトリック教徒は異端とする法律を基に、メアリ1世最大の汚点と評された過酷なプロテスタント迫害が始まったのです。
老若男女を問わず処刑された殉教者数はおよそ300人、ヘンリ8世を支持してきたヒュー・ラティマーやトマス・クランマーも処刑台の露と消え、メアリの半生で積み上げてきた怨恨の復讐は思わぬ形で爆発しました。この過酷な迫害によって、女王メアリ1世は"ブラッディ・メアリ(流血好きのメアリ)"と呼ばれました。このため、メアリ退位とエリザベス即位を望んだ庶民が反乱を頻発させるようになっていきました。
1556年、メアリの夫フェリペがスペイン王フェリペ2世として即位しました。翌1557年、イギリスはフェリペ2世の要望でスペインの対フランス戦に武力支援を求めました。戦争に加担したイギリスでしたがフランスに敗れて、百年戦争(1339-1453)以来、当時唯一の大陸領土であったカレーを奪われてしまいました(1558.1)。このときカレーを奪ったフランス諸侯はギーズ公フランソワ(公位1550-63)です。メアリ王政の信用を失墜させた象徴的事件でした。
メアリ1世はフェリペ2世と結婚後、懐妊騒動が幾度かありました。しかしそれはメアリ1世の想像妊娠であり、卵巣腫瘍を患っていたため、子孫を残せませんでした。結局在位5年余の後、1558年11月17日、メアリ1世は没しました。
メアリが亡くなる前日、彼女が次期後継者として認めたのは、皮肉にもメアリが嫌うエリザベスでした。ローマ教皇はアン・ブーリンの娘をイングランド国王に置くことは反対であり、スコットランド国王だったカトリックのメアリ・ステュアート(1542-87。スコット王位1542-67)を推戴するほどでありました。メアリ1世のエリザベスに対する復讐は酷く、前述のワイアットの乱でエリザベスも加担したとして一時ロンドン塔に幽閉されていた時期もありました。しかし反動政策とも取れるメアリ1世の悪政はイングランド国民からは不満が増大し、諸侯も次期国王としてエリザベスを推す声が高まっていたため、メアリ自身も次期国王として認めざるを得なかったとされます。
そして陽の当たった1558年11月17日、メアリ1世の死とともに、ついにエリザベスは第6代テューダー朝国王エリザベス1世として即位しました。エドワード6世が即位した1547年に始まり、メアリ1世が崩御した1558年に終わる、狂い荒れた11年の歴史に幕を下ろし、イングランド国教会に基づいた父ヘンリ8世の政策に原点回帰して、安定した本当のイギリス絶対王政が始まるのでした。
引用文献:『世界史の目 第163話』より
1547年、イングランド国教会を導いた国王ヘンリ8世(位1509-47)が没し、彼が残した唯一の王子エドワード6世(1537-53。位1547-53)が9歳で即位しました。エドワード6世の治世では、ヘンリ8世支持派プロテスタントのヒュー・ラティマー(1485?-1555)や同じく支持派でケンブリッジ大学教授トマス・クランマー(1489-1556。カンタベリー大司教)らの尽力で、イングランド国教会の教義・規則が書かれた一般祈祷書(共通祈祷書。聖公会祈祷書)がつくられました(1549)。これにより旧教(カトリック)とローマ教会からの脱却策が本格的に行われ、イングランド国教会における諸制度が整えられました。
ヘンリ8世時代では王妃が6度入れ替わったことで有名ですが、エドワード6世は、第3王妃ジェーン・シーモア(1509-1537)の子です。ヘンリ8世には第1王妃キャサリン・オブ・アラゴン(1485-1536。カザリン。スペインのアラゴン家出身)との間に第1王女メアリ(のちのメアリ1世)、第2王妃アン・ブーリン(1507?-1536)との間に第2王女エリザベス(のちのエリザベス1世)がいました。
生前ヘンリ8世は男子継承を望んでおり、また背景にはキャサリン・オブ・アラゴンへの疎遠と当時キャサリンの侍女を務めていたアン・ブーリンとの求婚問題があり、メアリは最初こそ大事に育てられたものの次第に関係が冷えてしまい、王女位は奪われて庶子扱いとされ、しかもアン・ブーリンから、自身の子エリザベスに従うよう命じられるなど冷遇されました(エリザベスはメアリの異母妹です)。またアン・ブーリンの伯父第3代ノーフォーク公トマス・ハワード(1473-1554。公位1524-47,53-54)もヘンリ8世に寵愛された貴族で、アン・ブーリンの結婚計画を支持しました。
ところがアン・ブーリンも姦通罪で1536年斬首刑に処され、第3王妃ジェーン・シーモア(彼女も1537年に病死)が男子エドワードを産んだことで、アン・ブーリンの子エリザベスも庶子として冷遇されるようになりました。そこでメアリ、エリザベス、エドワードの教育を任されていた第6王妃キャサリン・パー(1512-48)の嘆願により、1543年にヘンリ8世が王位継承に関する法律を制定し、継承順位は1位エドワード、2位メアリ、3位エリザベスとなり、メアリとエリザベスはヘンリ8世と和解、王女としての身分と王位継承権を回復したのです(当時王女としての身分が回復したかどうかは疑問の声もあり)。
エドワード6世は病弱のため夭逝の気配が漂うと、摂政をつとめていたノーサンバランド公ジョン・ダドリー(ウォリック伯位1547-53。ノーサンバランド公位1551-53。軍人出身)はある策謀を考えました。この頃のジョン・ダドリーはイングランド国教会を基盤に諸行政をなしとげて周囲の支持を取り付け、財産も地位も絶頂の時期に来ていましたが、これまでの王位継承順位でいくと、次はメアリです。彼女の母はカトリック国であるスペインの王家の出で、メアリも熱心なカトリック信者です。また彼女はスペイン王子フェリペ(1527-1598。のちのスペイン王フェリペ2世。位1556-1598)との結婚が秒読み段階に来ていました(1554年に周囲の反対をものともせず2人は結婚)。勢い盛んなスペインのカトリック政策の波にイングランドも呑まれる怖れがあり、失政により摂政ジョン・ダドリーは自分の身も危ういと察知しました。そこで1553年、ジョン・ダドリーは自身の六男・ギルフォード・ダドリー(1536-1554)を、テューダー朝初代国王だったヘンリ7世(位1485-1509)の曾孫に当たる、ジェーン・グレイ(1537?-1554)に結婚させたのです。そしてこの報告を病床に伏すエドワード6世に伝え、次期王位をジェーン・グレイに指名すると遺言させて、王位継承権を取得させたのでした。そして程なくして、エドワード6世は15歳で崩御し(1553.7)、ジョン・ダドリーはエドワード6世の遺言を発表、ジェーン・グレイを第4代テューダー朝国王として即位させることに成功しました(位1553.7.10-7.19。在位期間から王として認めない見方もあります)。
メアリは身の危険を感じて、その間、アン・ブーリンの伯父である第3代ノーフォーク公のハワード家に匿われていました。もっとも、第3代トマス・ハワードはエドワード6世の治世の間、長男のヘンリー・ハワード(1517?-47)の起こした反逆の罪で父トマスと共にロンドン塔に幽閉されていたのです。メアリにとってトマス・ハワードとは、メアリの母キャサリンの離婚問題の時は敵も同然であったが、エドワード6世の治世となり、王室に執心するハワード家にとって、そして次期国王を約束されたメアリには貴重な存在であり、そもそもハワード家は反国教徒のカトリック信者であったため、メアリを保護するのは至極当然でした。トマス・ハワードは獄中からハワード家の一族にメアリを匿うように頼んだのです。
ジェーン・グレイの女王即位で、ジョン・ダドリーは摂政として王政を手中に収めることができると鼓舞しました。しかし甘くはありませんでした。にわかにつくられた王室にイングランド議会は紛糾し、カトリック復帰を心配する声はあるものの、メアリを正当な次期王位継承者とし、ジョン・ダドリー政権は無効となってしまいました(1553.7.19)。こうしてメアリは直後に即位して、メアリ1世となりました(位1553-58)。ジョン・ダドリー他ギルフォードら子どもたち、そして10日天下となったジェーン・グレイ前女王は逮捕され、翌8月、ジョン・ダドリーは処刑されました(ノーサンバランド公も剥奪)。六男ギルフォードと女王ジェーン・グレイはロンドン塔に幽閉され、翌1554年2月に斬首刑されました(1554年1月から2月にかけて、ジェーン・グレイ王政支持派が起こしたワイアットの乱が起こったことで、処刑が決定したとされますが、メアリの婚約条件にジェーン処刑を要求したスペイン側の圧力があったともいわれています)。この年、メアリ1世によって釈放された3代目ノーフォーク公トマス・ハワードも病没し、ノーフォーク公は孫が継ぎました。
カトリック国スペイン王・フェリペ2世を夫に持つメアリ1世は、正統と認めたイングランド初の女王となりました。母キャサリン・オブ・アラゴンを転落させたアン・ブーリンの娘エリザベスを、妹と思わずに冷遇しました。メアリは母の離婚でイングランド国中がカトリックから離れて、国教会に改宗したことに苛立ちを隠せず、国教会教義の無意味さを主張しました。エドワード6世の時代に祈祷書がつくられるも、各教区でもカトリックから抜けきれない状態でやきもきしている聖職者がおり、ローマ教皇との関係修復を第一に考えていました。
そもそもヘンリ8世は離婚を成立させるため、カトリック離脱を決行しカトリックの首長であるローマ教皇と決別しました。そして、イギリス国王を首長とするイングランド国教会の設立を果たしましたが(1534年の国王至上法。首長法。いわゆるイギリス宗教改革)、教義がカトリックと同義であることが多く、首長がローマ教皇からイギリス国王に代わっただけでした。
1554年11月、イングランド議会は国王至上法の失効を決定し、遂にカトリック復帰を決めました。当時ローマ教皇ユリウス3世(位1550-55)の意向により教会財産は戻らなかったが、イングランドでは実に20年ぶりの旧教復帰でした。
しかしメアリ1世はこれだけでは収まりませんでした。母を離婚に追いやったヘンリ8世の支持者、ヘンリ8世にならって改宗したイングランド国教徒を弾圧する策に出たのです。イングランドの非カトリック教徒は異端とする法律を基に、メアリ1世最大の汚点と評された過酷なプロテスタント迫害が始まったのです。
老若男女を問わず処刑された殉教者数はおよそ300人、ヘンリ8世を支持してきたヒュー・ラティマーやトマス・クランマーも処刑台の露と消え、メアリの半生で積み上げてきた怨恨の復讐は思わぬ形で爆発しました。この過酷な迫害によって、女王メアリ1世は"ブラッディ・メアリ(流血好きのメアリ)"と呼ばれました。このため、メアリ退位とエリザベス即位を望んだ庶民が反乱を頻発させるようになっていきました。
1556年、メアリの夫フェリペがスペイン王フェリペ2世として即位しました。翌1557年、イギリスはフェリペ2世の要望でスペインの対フランス戦に武力支援を求めました。戦争に加担したイギリスでしたがフランスに敗れて、百年戦争(1339-1453)以来、当時唯一の大陸領土であったカレーを奪われてしまいました(1558.1)。このときカレーを奪ったフランス諸侯はギーズ公フランソワ(公位1550-63)です。メアリ王政の信用を失墜させた象徴的事件でした。
メアリ1世はフェリペ2世と結婚後、懐妊騒動が幾度かありました。しかしそれはメアリ1世の想像妊娠であり、卵巣腫瘍を患っていたため、子孫を残せませんでした。結局在位5年余の後、1558年11月17日、メアリ1世は没しました。
メアリが亡くなる前日、彼女が次期後継者として認めたのは、皮肉にもメアリが嫌うエリザベスでした。ローマ教皇はアン・ブーリンの娘をイングランド国王に置くことは反対であり、スコットランド国王だったカトリックのメアリ・ステュアート(1542-87。スコット王位1542-67)を推戴するほどでありました。メアリ1世のエリザベスに対する復讐は酷く、前述のワイアットの乱でエリザベスも加担したとして一時ロンドン塔に幽閉されていた時期もありました。しかし反動政策とも取れるメアリ1世の悪政はイングランド国民からは不満が増大し、諸侯も次期国王としてエリザベスを推す声が高まっていたため、メアリ自身も次期国王として認めざるを得なかったとされます。
そして陽の当たった1558年11月17日、メアリ1世の死とともに、ついにエリザベスは第6代テューダー朝国王エリザベス1世として即位しました。エドワード6世が即位した1547年に始まり、メアリ1世が崩御した1558年に終わる、狂い荒れた11年の歴史に幕を下ろし、イングランド国教会に基づいた父ヘンリ8世の政策に原点回帰して、安定した本当のイギリス絶対王政が始まるのでした。
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posted by ottovonmax at 00:00| 歴史