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2018年12月10日
12月10日は何に陽(ひ)が当たったか?
"Long, Long Way From Home"は、1977年3月8日にリリースされたデビュー・アルバム"Foreigner(邦題:栄光への旅立ち)"からの3曲目のシングル・カットとして選ばれたナンバーです。メンバーの Mick Jones(ミック・ジョーンズ。gtr,key,vo)、 Lou Gramm(ルー・グラム。vo) そしてIan McDonald(イアン・マクドナルド。gtr,key,horn)の共作です。エキゾチックなイントロとは裏腹にLouのエキサイティングなヴォーカルが炸裂するハード・ロック・ナンバーです。間奏におけるIanのサックス・ソロもこの曲のハイライトです。B面はアルバムA面最後に収録された"The Damage Is Done(邦題:ダメージ・イズ・ダン)"でした。
デビュー・シングルとして選ばれたMick作のポップな"Feels Like the First Time(邦題:衝撃のファースト・タイム)"は 1977年6月18日付HOT100で4位を2週続けて記録、22週チャートインし、上々のデビューを飾りました。セカンド・シングルとして選ばれたプログレ風の"Cold as Ice(邦題:つめたいお前)"は10月22日付で6位を記録、21週チャートインしました。この2曲でForeignerのサウンドとイメージが確立された上での、パンチ力のある"Long, Long Way From Home"の登場です。
チャートの上では、陽の当たった12月10日付HOT100で81位にエントリー後、70位→59位→59位(12月31日付はお休みのため先週と同位)→47位と進み、年が明けて1978年1月14日付で37位とTop40入りを果たしました。その後は30位→27位→23位→21位と順調に上昇し、2月18日の20位をピークに下降していきました。結果、前2作と比べて本シングルのアクションは緩かったものの、14週チャートインするヒットとなりました。
3曲のシングル・ヒットにより、デビュー・アルバム"Foreigner"は1977年10月22日付Billboard200アルバムチャートで4位を5週続けて記録する大ヒットを打ち出しました。結果的には通算113週チャートインする名作となり、全米でクインティプル(×5)・プラチナ・ディスクを獲得したのです。
"Long, Long Way From Home"のヒットで、1978年もForeigner人気は消えることなく、同年6月に早くも2作目のアルバム"Double Vision(邦題:ダブル・ヴィジョン)"をリリースし、ヒット街道をまっしぐらにばく進していくのでした。
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2018年12月09日
12月9日は何に陽(ひ)が当たったか?
1600年代のイギリス(イングランド)王室は、国王ジェームズ1世(位1603-25)が統治する第一次ステュアート朝(1603-49)で幕を開けました。ジェームズ1世は、王権神授説に基づき、イングランド国教会を重視、議会を圧迫あるいは無視する姿勢をとる専制君主主義、いわゆる絶対王政を敷いていきました。一方でプロテスタントのピューリタン(清教徒)は、王室の絶対王政に抵抗を示し、宗教的・政治的対立を徐々に深めていきました。
そんな中で、陽の当たった1608年12月9日、イギリスのロンドンにて、1人の男児が誕生しました。彼こそがジョン・ミルトン(1608-1674)です。父は公証人と金融業を営み、生活は裕福であったとされています。そして、一家はピューリタンでした。
1616年、エリザベス1世(王位1558-1603)の時代に活躍したウィリアム・シェークスピア(1564-1616)が没しました。彼は後に四大悲劇と呼ばれる名作群(『ハムレット』『マクベス』『オセロー』『リア王』)を1601〜08年頃の間に発表しており、衰退期にさしかかっていたイギリスのルネサンス文学を再び呼び起こし、文学者のみならず、文化的・社会的に大きな影響を与えました。彼の作品は、その後世界文学の原点として永遠に愛されていきましたが、母国イギリスではピューリタニズムの影響と相まって、ピューリタン文学と呼ばれる新しいジャンルが確立していった。ミルトンはこのブリティッシュ・ルネサンス文学とピューリタニズムの融合がはかられた時代に生きた人物でありました。
1625年、ミルトンはケンブリッジ大学のクライスト・カレッジに入学しました(1625-32在籍)。学生時代は、"キリストの淑女"・"貴婦人"とあだ名され、女性と見紛われるほど、端麗な容姿・容貌でした。在学時から詩作にとりかかりましたが、本格的に活動を始めたのは大学卒業後でした。父の援助で別荘を借り、6年間詩の創作に耽りました。そこで仮面劇『Comus(1634)』、哀詩『Lycidas(1637)』を発表し、その名が知られるようになりました。1638年、母と死別したミルトンは、一思いにフランスやイタリアなど、ヨーロッパ諸国を1年かけて周り見聞を広めました。途中晩年期のガリレオ・ガリレイ(1564-1642)にも対面しています。
この頃イングランドでは、国王チャールズ1世(位1625-49)のもと、スコットランドと国教会論争をおこし、スコットランドでは反乱が勃発していましたので、11年ぶりに議会を召集して戦費捻出をはかりましたが失敗(短期議会。1640.4)、11月には再度議会を召集しましたが議会派から強い反発を受け、ついに王党派と内戦が勃発しました(1642)。このピューリタン革命(清教徒革命。1642-49)は、ミルトンにも大きく影響を及ぼしました。帰国後のミルトンは、国内の動揺を肌で感じ取り、しばらく詩作を中断、一人のピューリタン信仰者として論争を展開、宗教改革の必要をもとに、多くの散文を執筆してイングランド国教会への非難を主張しました。
革命勃発の年、ミルトンは、自身のちょうど半分の年齢にあたるメアリー・ポウエル(1625?-52?)と最初の結婚を果たしました。4人(1男3女)の子宝にも恵まれたが、家庭を持つことになれず、夫婦間は別居生活となってしまいました(1643年頃)。このときミルトンは離婚の教義や人生の自由についての論文を執筆しています。これが世に出ると大きな批判を浴び、その結果としてミルトンは、当時の王政を批判して革命を成し遂げようとし、王権縮減を主張する独立派(Independents)に加入しました。独立派は、あのオリヴァー・クロムウェル(1599-1658)が指導していたグループでした。
独立派が国王軍を破り、ついに国王処刑が果たされ(チャールズ1世処刑。1649.1)、イギリスに共和政がもたらされました。独立派に属していたミルトンは国王処刑後、クロムウェルの外交秘書となって国王処刑の正当化を主張する政治論文を矢継ぎ早に発表、革命擁護の理解者として世に示しました。
しかし革命達成後のミルトンは激務でした。彼の過労は両目にふりかかり、視力が衰退、1652年頃にはとうとう完全に失明してしまいました。また同年には離別した妻メアリーと長男に先立たれました。こうした中、クロムウェルは、1640年11月から行われてきた長期議会を解散(1653.4)、終身の護国卿(ごこくきょう。Lord Protector。政治・軍事の最高官職。任1653-58)に就任、クロムウェルの軍事独裁が始まりました。
クロムウェルが政権をとる間はミルトンの生活も安定していたわけであり、1656年には二度目の結婚を果たしました。しかし翌々年(1658年)に妻が出産による体調悪化で死亡、子も早世しました。しかしとりわけ重要なのは、この年はクロムウェルが没した年でもあります。護国卿就任後は厳格なピューリタニズムを展開しましたが、これが災いして国民の反発を買い、軍隊と議会に再度対立が生まれ、王政の復古策が叫ばれて独裁国家の存亡が危ぶまれていたのです。結局クロムウェル没後には長男のリチャード・クロムウェル(1626-1712)が護国卿に就任し(任1658-59)、共和政はしばらく維持できると思われましたが、リチャードの無能さにより支持は失われ、彼は護国卿就任8ヶ月後に辞任に追い込まれてしまいました(1659)。
大クロムウェル没後も共和政擁護を主張し続けていたミルトンでしたが、護国卿職消滅により王政復古が成立(1660)、ミルトンも職を剥奪となってしまいました。ミルトンの著書は発禁・焚書処分され、私有財産もすべて没収させられる憂き目にあいました。ミルトンは逮捕を怖れて数ヶ月の潜伏生活を強いられ、その後革命派の処分が執り行われましたが、ミルトンは友人の努力により恩赦令を受けることができ、辛うじて処刑を免れました。しかし直後は逮捕されて、莫大な罰金を支払わされました。ミルトンにおける人生最大の危機でした。その後ミルトンは政界を完全に引退しました。
1663年、ミルトンは三度目の結婚を果たし、"詩人"としての活動を再始動した。盲目の身であるため、口述による詩作活動となったが、政界にいたよりも充実していました。結婚生活も成功し、彼の詩作は大作へと展開していきました。こうして1667年、ミルトンの代表作であり、ピューリタン文学における不朽の傑作と謳われた一大叙事詩『失楽園(しつらくえん。Paradise Lost)』が誕生したのです。
"失楽園"の原点は旧約聖書の『創世記』にみられます。この『創世記』の1章から3章にかけての内容を題材としていますが、内容は以下の通りです。
神によって天地が創られ、地にはエデンの園がつくられ、園の中央に"善悪を知る木"を生えさせた。さらに園においてこの木の実を守らせた人間、すなわちアダム(男性)とイヴ(女性)が神によってつくられた。神より善悪を知る木の実を食することを禁じられた人間であるイヴが、最も狡猾な生き物である"へび"にそそのかされ、アダムとともにその禁断の木の実を食べてしまい、楽園を追放させられてしまった("楽園喪失")....
ミルトンの『失楽園』では、神と戦い暗黒に落とされたルシファー(神に反逆して堕天した最高位の天使。サタン)が登場します。ルシファーは蛇に化けて、アダムとイヴをエデンの園から追放させようとします。神の被造である人間が、神の命令に背いて禁断の木の実を食したという人類最初の罪、すなわち原罪(original sin)により、"死"という運命を与えられますが、これは、蛇に化けたルシファーがイヴに禁断の木の実を食するように誘導させたものなのです。ミルトンは、天使から悪魔に堕ちたルシファーと、罪を背負った人間とのたたかいを通じて、これらを創造した父なる神の摂理を説き、神の尊さや偉大さを訴え、これを哀れと憂いに満ちた当時の現世にたとえたのでした。
神の絶対的意志や人間の理性の無力さといった主張を持つピューリタニズムは、国王を主張とするイングランド国教会を不徹底と批判し続けました。そして、国家権力と教会は別個の物であり、神の至上権からくる真の自由は、神意への絶対的服従が必要であるという思想を、ミルトンは『失楽園』において力説したのです。真の教会制度の徹底、共和政と自由主義の必要性といった政教両面を常に論文を通して主張してきましたピューリタン、ミルトンの集大成とする作品でありました。
その後もミルトンは神の摂理をさらに深く主張し続け、『復楽園(Paradise Regained)』・『闘士サムソン(Samson Agonistes)』などを執筆し、1674年11月、65歳で没しました。ピューリタニズムを全生涯にかけて全うし、その精神は革命を通して絶頂に立ちました。内なる様々な苦悩を乗り越えて生きた、まさに大詩人でありました。
引用文献『世界史の目 第123話』より
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2018年12月08日
12月8日は何に陽(ひ)が当たったか?
"Babe"の誕生秘話は8月16日のブログ、アルバム、"Cornerstone(邦題:コーナーストーン)"は10月19日のブログでご紹介しましたが、"Babe"がどれだけヒットチャートを賑わしたかまではご紹介しませんでしたので、本編にてお話ししたいと思いますが、Styxが放ったシングルの中で、これほどのアクションを起こした楽曲はありません。
1978年の前作"Pieces of eight(邦題:古代への追想)"収録の"I'm Okay(邦題:アイムOK)"をフリップ・サイドにして、1979年の9月にリリースされました。9月と言っても、12月25日のクリスマスにしっとりと聴くことのできる名曲として計算していたわけではないと思いますが、陽の当たった12月8日に1位ということは、必ずや聖夜にて愛する彼女へこの名曲を聴かせた、あるいはこの曲をバックに愛する彼女に恋の告白をした確率は高いと思いますし、その日が最高の結果になったならば、彼らにとって人生を変えた、また後世に残る名曲として永遠に心に刻まれるでしょう。
Styxにとって最高のバラードとなった"Babe"は、1979年10月6日付HOT100シングルチャートに72位でエントリーしました。すると翌10月13日付では30ランクも上昇するという42位へジャンプアップします。10月20日付、"Babe"は3週目にして26位とTop40入りを果たし、翌週14位とTop20入り、エントリーから5週目の1月3日付で7位とTop10入りを果たし、1978年1月28日付で8位を記録した"Come Sail Away(邦題:永遠の航海)"の記録をあっさり塗り替え、次週で6位と、1975年3月8日付から2週連続6位を記録した"Lady(邦題:憧れのレディ)"の最高位記録に並び、翌週11月17日付で4位と最高位記録を更新、2週2位を記録した後、陽の当たった12月8日付HOT100でStyx初の全米No.1を記録したのです。2週1位を続けて、上位へ猛追してきたRupert Holmes(ルパート・ホルムズ。「ホームズ」、「ホームス」、「ホルムス」表記もあり)の"Escape (The Pina Colada Song)"に座を譲って下降していきました(3位→3位→6位→10位→23位→50位→79位→96位)。19週のチャートインのうち、Top40内14週、Top10内11週という見事なアクションを見せ、翌1980年のYear-Endチャートで堂々の20位を獲得しました。Adult Contemporary(当時はHot Adult Contemporary Tracks)でも16週チャートインし、1979年11月17日付で9位を記録、ゴールド・ディスクに認定されました。カナダでは早くから人気が定着しており、RPMシングルチャートではすでに4曲のTop10入りヒットを記録していましたが("Lorelei"の6位、"Come Sail Away"の9位、"Blue Collar Man [Long Nights]"の9位、"Renegade"の10位)、今回の"Babe"では6週間1位を記録する金字塔を打ち立て、同様にカナダのAdult Contemporaryチャートでも1位を記録、結果ゴールド・ディスクに認定されました。さらにイギリスのUKシングルチャートでも6位と健闘(シルバー・ディスク認定)、南半球でもニュージーランドやオーストラリアでそれぞれ3位まで上昇し、南アフリカでも13週チャートインして最高位1位を記録しています。
"Babe"の大ヒットで、その後にリリースされた3枚のアルバムからも、それぞれTop10入りを果たしたバラード・シングルが生まれ("The Best of Times"の3位、"Don't Let It End"の6位、"Show Me The Way"の3位)、パワー・バラードでも十分闘えることが証明されたのでした。
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2018年12月07日
12月7日は何に陽(ひ)が当たったか?
9月16日のブログでもデビュー・シングルの"Best Thing(邦題:ベスト・シング)"を紹介して、Styxのデビューまでの経緯を載せておりますが、"Styx I"は1972年9月25日(諸説あり)にリリースされ、待望のアルバム・デビューとなりました。1973年には日本でもリリースされ、グループ名および邦題は"スタイクス"と表記されておりました。
Styxは1972年2月22日にWooden NickelレーベルWooden Nickel(ウッドゥン・ニッケル。活動期間1971-77。RCA傘下)とレコード契約を結び、"Styx I"がリリースされました。Wooden Nickelは1977年にStyxのベスト盤"Best of Styx(邦題:レディ〜スティクス・ベスト)"のリリースを最後に解散しましたが(Styxが1975年にA&Mへ移籍、当時Wooden Nickelのドル箱だったStyxの離脱は大きく、Styxに対して移籍を契約違反として法廷闘争に発展、Styxは違約金を支払うという顛末もありました)、その後親会社のRCAレーベルがこの権利を担い、"Styx I"をはじめ、2作目"Styx II(邦題:スティクスU。1973年)"、3作目"The Serpent Is Rising(邦題:サーペント・イズ・ライジング。1973)"、4作目"Man of Miracles(邦題:ミラクルズ。1974)"、そして前述のベスト盤"Best of Styx"の計5作品は1980(1979?)年に再発され、RCAからリリースされました。この再発に合わせて、デビュー作は本編で表記している"Styx I"、2作目は"Lady"、3作目は"The Serpent"、4作目は"Miracles"とそれぞれ改題され、ジャケットデザインもすべて他に差し替えられました。
アナログ盤からCDへの、メディア媒体の移行が進んだ80年代、RCAはBMGに売却されましたが(1986年)、1990年頃にはCD化がすすみ、BMG/RCAより、"Styx I"を除いた、上記4作品のCD化が実現しました。4作品のうちベスト盤"Best of Styx"には"Styx I"収録の"Best Thing"と"What Has Come Between Us"が選曲され収録されたにもかかわらず、デビュー作"Styx I"そのもののCD化はなぜか実現しませんでした。
1999年にもBMG/RCAとして"Styx I"を除いた4作品の再発と同時に、Wooden Nickel時代のベスト盤"Best of Styx 1973-1974"をリリースしました。しかし"1973-1974"のタイトルが示すとおり1972年リリースの"Styx I"からは1曲も選曲されていないことから、RCAがまだ権利を残していた1990年のCD化の時はベスト盤"Best of Styx(1977年リリースの方)"に収録された"Best Thing"と"What Has Come Between Us"のみ使用権が認められていたものの、アルバム"Styx I"自体の販売権は所有していなかったらしく、1999年のBMG/RCAでは"Best Thing"と"What Has Come Between Us"の楽曲使用権も無効になっていたことが窺えます。
"Styx I"の原盤権を持っていたのはOne Way Recordsという再発に特化したレーベルで、経緯は不明ですが、このレーベルより1998年にようやく"Styx I"のCD化が施されたのです。そして同じBMGでも子会社であるBMG Special Productsも原盤権を得たことで、このレーベルからも"Styx I"がCD化されました。こうして、長らく耳に届かなかったStyxのデビュー作が、CDを通して聴くことができるようになったのですが、日本国内盤はこの時点ではリリースの予定はありませんでした。そのため、輸入盤での購入となりました。これが陽の当たった2000年12月7日なのです。
その後One Way Recordsは消滅し、2016年には、"Styx I"はUniversal Music Group(UMG)傘下であるUniversal Music Enterprises(UMe)からついに日本国内盤CDがリリースされることになりました(再発とベスト盤に特化した、UMe傘下のHip-O Recordsからリリース)。"Styx I"の日本における初めてのCD化リリースとなり、1973年にLPとしてリリースされて以来、43年ぶりのデビュー盤の再来となり、当時の"スタイクス"名義での帯ラベルを添えた、懐かしい形でのリリースとなりました。またWooden Nickel時代の他の作品も同時に日本国内で再々発されました。
以上のことから、"Styx I"がまずは本国アメリカでCD化されるのに非常に時間がかかり、日本国内盤がCDとしてリリースされるまでも気の遠くなるような時間を要したわけですが、自分が輸入盤CDが発見できたのは1999年当時の海外ネット通販で、現在のようにネットから試聴もできたりしていたのですが、"Styx I"を発見した時は非常に喜んだものの、これまで自分の中で聴くことができなかった幻のデビュー盤をようやく試聴できると思いきや、当時の通販サイトは、他の作品は視聴できたにもかかわらず、なぜか"Styx I"の試聴だけファイルが損傷していたのか、全然聴くことができず、買うまでは音源自体がわからない状態でした。
これが余計に神がかった印象を持ってしまい、しかも当時買おうとしたのは"One Way Records"の方で、後にも述べますがジャケットは1980年再発時の差し替えられた方でした。しかし届いたのはBMG Special Productsの方で、デビュー当時のジャケットでしたので、さらに超常的な魅力を持ってしまいました。手に取って当時のCDデッキから聞こえてきた音源は、自分が勝手に想像していたStyxの原点を大きく覆す、素晴らしい作品でありました。
"Styx I"の制作にあたったラインナップは、John Panozzo(ジョン・パノッツォ。drums)、Chuck Panozzo(チャック・パノッツォ。Bass)、Dennis DeYoung(デニス・デヤング。vo,key)、John [JC] Curulewski(ジョン・クルルウスキー。gtr,vo)、James [JY] Young(ジェームズ・ヤング。gtr,vo)の5人です。Styxの初レコーディングは紛れもなくこの"Styx I"なのですが、デビュー前、まだTradewinds(TW4)のバンド名で活動していた彼らの初レコーディングとして、Destinationレーベルから1966年にリリースされた、“Oop-Oop-a-Doo/Floatin'”が挙げられたものの確証はなく、サーフィン・サウンドを特徴とするThe Cambridge Fiveのメンバー、Chuck Francour(piano,vo。参考サイト)なる人物が結成したR&BバンドのTradewindsを指すものと思われます(参考サイト)。いわゆる"New York's a Lonely Town"のヒットで知られるThe Trade Windsを含めて、60年代半ばにはTradewindsのフレーズをグループ名に使用したバンドが少なくとも3組存在したと言うことになります。
シカゴのParagon Recording Studios(運営期間1969-2015)にて、レコード契約する前年の1971年よりカナダ人プロデューサーのJohn Ryan(ジョン・ライアン。1928–2010)によるレコーディングは行われており、それをキャッチしたWooden Nickelの創業者の一人、Bill Traut(ビル・トラウト。1929-2014)の目に留まったことで、Bill Trautによるプロデュースも加わりました。Paragon Recording Studiosの設立者であるMarty Feldman(マーティ・フェルドマン)と、Foodという60年代サイケデリック・バンドのドラマーをつとめたBarry Mraz(バリー・ムラッツ)がエンジニアをつとめました。
バンド名「Styx」のロゴはRCAレーベル所属ミュージシャンのアートワークを担当していたAcy Lehman(エイシー・リーマン)が手掛け、ダンテによる『神曲』の「the Inferno(地獄編)」を彷彿とさせるアルバム・デザインが、グループ名の「Styx(訳:三途の川)」とよく調和しています。個人的にこのジャケットに写っているJYが少しGuns N' Roses(ガンズ&ローゼズ)のAxl Rose(アクセル・ローズ)っぽく見えて格好いい印象です。当時は髭を蓄えていなかったので全盛期の風貌とはまた異なって見えます。
1980(1979?)年のRCAが再発した時のジャケットはJoseph J. Stelmachがアート・ディレクターをつとめ、Tim Clarkによるイラストによるもので、火山の噴火のように、Styxのロゴが勢いよく飛び出している様を表しているように見えます。前述の通り、初のCD化となった1998年のOne Way Records盤ではTim Clarkヴァージョンのジャケットで、自身が購入したBMG Special Products盤は、初回リリースのジャケットが使われました。
オリジナルとカバー曲をうまくブレンドされ、オープニングを飾る大事なトラックには13分11秒からなる4部構成の長編組曲が収められました。楽曲は以下の通りです。
※2016年リリース時の邦題は原題のカタカナ表記です。
A面(アナログ盤)
- "Movement for the Common Man"
- a. "Children of the Land"・・・JY作
- b. "Street Collage"・・・John Ryan作
- c. "Fanfare for the Common Man"・・・Aaron Copland作
- d. "Mother Nature's Matinee"・・・JY,Dennis DeYoung作
- "Right Away"・・・Paul Frank作
B面
- "What Has Come Between Us"・・・Mark Gaddis作
- "Best Thing"・・・JY,DeYoung作
- "Quick Is the Beat of My Heart"・・・Lewis Mark作
- "After You Leave Me"・・・George Clinton作
プログレ・ファンにしてみればトラックリストの並びといい、構成と言い、文句の付けようがありません。そしてこのアルバム最大のハイライトとなるのが、オープニングのロック巨編である"Movement for the Common Man"です。1973年の日本でのリリースでは"平凡な人間のための楽章"という直訳に近いタイトルで、まずは子どもたちに呼びかける "Children of the Land"からのスタートです。
ノリの良いテンポでスタートする"Children of the Land"はJYのリード・ヴォーカルで早くもStyxの世界に引き込まれます。Styxと言えばコーラスの美しさが持ち味ですが、この曲でもサビのコーラスが絶品で大器の片鱗を窺わせます。次の"Street Collage"へつなぐこれでもかと言わんばかりのJohnのパーカッション連打も非常に心地良いです。なおこの曲はStyx最初のTop10入りヒット曲、"Lady(邦題:憧れのレディ)"のB面として使用されました。
"Street Collage"では効果音も使ってセリフ仕立てでスタートし、子どもに呼びかけたあとは現実の大人社会での会話がDennis、JY、JCの声で流れます。Dennisが発したWPAとは戦前の公共事業促進局のことで、1929年の世界恐慌への対策として不況による失業者に公共事業の雇用を促す機関を言っております。不況を知る大人に対して、特にJCが発するくだりでは、最近の若者は金持ちで、仕事ができるありがたみや不況の苦しい現実を知らないなと嘆いており、若者を啓発させて途を開かせるところで、Aaron Coplandの"Fanfare for the Common Man"の登場です。
ELPのカバーでもお馴染みのこのインストゥルメンタル・ナンバーは原邦題が"市民のためのファンファーレ"というタイトルで、庶民を奮い立たせるクラシック音楽の名作です。Styxによるカバー作品ではエレキ・ギターでドラマティックに決めております。そして続く "Mother Nature's Matinee"で組曲のフィナーレに向かいます。
"Mother Nature's Matinee"はますJYが、若者が意気揚々に飛び込んで目の当たりにした現実の世界を歌います。このパートではヘビーでスリリングなサウンド展開になっていきます(b〜d章までは明確な区分が不明なので、ここまでを"Fanfare for the Common Man"とする表記も見られます)。そしてゆったりとしたシンセサイザーの音色が聞こえて、スロー・テンポに進みます。そしてDennisの歌声の登場です。"Mother Nature(母なる自然)"とあるように、日常を忙しく生きる平凡な人々は朝起きると太陽の光が差し、生きていることを実感して、マチネー(西欧で、通常である演劇や音楽会の夜間公演に対して、特定日に行われるお昼の公演。ここでは歌詞内容から朝に上演)で癒やし、休日を過ごすという内容を情感たっぷりとDennisが歌い上げ、テンポが上がってシンセとギターのソロによるこれぞプログレといえるグランド・フィナーレで終わります。デビューにしてこの大作、圧巻の一言です。
続くA-2の作者、Paul Frankとはデトロイトのハード・ロック/ブルース・ロック・トリオ、Head Over Heels(ヘッド・オーヴァー・ヒールズ)のギタリスト兼ヴォーカリストで、1971年に発表したアルバム"Head Over Heels"の2曲目に収録されている"Right Away"をStyxがカヴァーしたものです。ヴォーカルはJYで、ややミドル・テンポでありながらヘビーに歌い上げるJYの凄味が伝わってきます。出だしはサザンロック・グループのLynyrd Skynyrd(レーナード・スキナード)が放ったヒット曲"Free Bird"を彷彿とさせ、Gregg Rolie(グレッグ・ローリー)が歌っていた頃の初期のJourney(ジャーニー)にも通じたり(ただしJourneyはStyxより3年遅れてのデビューですが)、非常にアーシーなロックに仕上がっています。
B面1曲目は"Best of Styx"にも収録された、いかにもStyxらしいプログレ・ナンバーで、デビュー・シングルとなったB-2のB面に収められた、いわばStyxのB面におけるデビュー曲です。1973年の日本でのリリースでは"二人に何が起こったか"という邦題が付けられました。作者はミネソタのシンガーソングライターとしても知られるMark Gaddisで、70年代を中心に自身のフォーク・ロック系のアルバムもリリースしています。中間部のチェンバロ風のシンセ・ソロも見事で、Dennisが哀愁漂う歌声を聴かせてくれます。
B-2は言わずと知れた、Styxのデビュー・シングルです。JYとDennisの共作で、二人でヴォーカルを分け合っています。Billboard HOT100シングルチャートで82位を記録しました。この曲は9月16日に陽を当てておりますので、そちらをご参考下さい。
B-3はハワイのロック・バンド、Kalapana(カラパナ)のプロデューサーでも知られるLewis Markの作品です。次の"Styx II"でシングル・カットされた"I'm Gonna Make You Feel It"のB面としても選ばれました。ヴォーカルはJYで、緊張感漂うヘビーな作品です。エンディングがどことなくミステリアスで、本編とは違った流れで終わり、変わった余韻を残します。Styxはラスト・パートでこの手法をよく採り入れておりました。例えば"Styx II"収録の"You Better Ask"、"The Serpent Is Rising"収録の"Jonas Psalter"などが挙げられます。
最後を飾るB-4はテネシー出身、George Clintonの作品です。と言ってもParliamentやFunkadelicを率いたPファンクのミュージシャンではなく、映画音楽を手掛けたり、作曲や編曲を手掛けるシンガーソングライターで、PファンクのGeorge Clintonと区別するために「George S. Clinton」と表記される場合もあります。自身が結成したGeorge Clinton Bandの1974年のアルバム"Arrives"にも収録されたロック・ナンバーです。やや気怠さとヘビネスを合わせ持った作品で、JYが泥臭く歌い、サビの澄んだコーラスで絶妙に調和します。
Dennisのみ単独でリードヴォーカルをとる作品はなく、ほぼ全編JYがヴォーカリストとして前面に出たデビュー盤でしたが、両者がソングライティングに関わった3作品は、その後のStyxの作品の原点を見たような印象です。またカバーもWooden Nickel時代に見られたヘビーなStyxらしさを出したアレンジになっております。
さてこの"Styx I"ですが、残念ながらBillboard200アルバムチャートにエントリーすることはありませんでした。しかし、BillboardのHOT100シングルチャートとアルバムチャートの圏外には、エントリー予備軍の順位を記録したアクティブ・ゾーンがあり、Bubbling Underというチャートがあります。このチャートは公式のトップ200ではないにせよ、後世の評価をはかるための記録として残ります。このゾーンに"Styx I"が1972年10月7日付で、当時Bubbling Underアルバム最下位の214位でランクインしました。すると10月14日付で210位、10月21日付で208位と、Top200にゆっくり近づいていきますが、次の10月28日付で207位をピークに翌週はランクから消え、結果Bubbling Underエリアでは4週間のランクインを果たしております。
さて、今回はStyxのデビューをご紹介しましたが、Styx初の全米制覇を非常に早い段階でこのブログでご紹介できるでしょう。デビュー作のリリースから7年、全米No.1ヒットのラブソングの誕生です。
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2018年12月06日
12月6日は何に陽(ひ)が当たったか?
七月王政下(1830-48)に始まったフランスにおける産業革命は、労働者階級を形成しました。労働者は、社会的不平等の根源を私有財産に求める社会主義精神を身に付けるようになっていきました。これにより様々な労働運動・社会主義運動が勃発しました。これが共和政支持、すなわち王政打倒につながっていき、国王ルイ・フィリップ(王位1830-48。オルレアン家)はしばしばこうした運動を弾圧するようになっていきました。
当時有権者は全人口の1%に満たない状況(約0.6%)下に、工場者・労働者ら中小市民による集会(改革宴会)がフランス各地で結成され、選挙法改正を懇願する運動が始まりました。折しも1847年、恐慌に陥ったこともあり、改革宴会は1848年2月、パリで全国大会を開催、政府へ過激な改正要求を突きつけました。時の首相ギゾー(任1847-48)は「選挙権が欲しいのなら金持ちになれ」と発し、上層ブルジョワの代表として威厳を高め、これらの要求を拒絶し、逆に改革宴会の解散を命令したのです。1848年2月22日、改革宴会の選挙法改正運動は遂に暴動と化し、パリはデモの嵐となりました。ルイ・フィリップはこの事態を重く見て、23日ギゾーを更迭しましたが、暴動は収まらず、翌24日は武装反乱も始まってパリは火の海となってしまいました。ルイ・フィリップは遂に退位してイギリスに亡命、七月王政は崩壊しました。これが二月革命です。
王政崩壊後の2月24日に、臨時政府がおこされました。政府は、産業資本家や有産市民、またロマン派の詩人ラマルティーヌ(1790-1869)ら穏健共和主義者たち、また少数の労働者、そして、急進的雑誌『良識』の編集長をつとめていました、ルイ・ブランら社会主義者などで構成されました。政府はすぐさま共和国宣言を行い、フランス第二共和政が成立しました(1848.2-1852.12)。ルイ・ブランは、武装した下層市民を従えて徐々に台頭、リュクサンブール委員会という労働委員会を設置して、その委員長に就任しました。そしてその幕開けとして委員会に属する"国立作業場"の設置を発表、実行に移しました。ルイ・ブラン委員長は最低賃金・労働時間の設定など、労働者階級の改善策を施し、労働問題を収束させて、生産の国家統制をはかろうとしましたが、これは紛れもなく社会主義的改革でありました。
このため、穏健共和主義者は、ルイ・ブランの社会主義的改革に不満を呈し、やがて両者は対立しました。国立作業場は、恐慌における失業者対策としての土木作業などで有効でしたが、社会主義の理念に基づくため、開店休業中でも賃金を給付する義務があり、資本家やブルジョワは困惑するのも当然でありました。またにわか作りの工場であるため資材の流通、仕事の配分、土地の確保などで混乱してしまい、特に農民は社会主義化(農場国営化・集団化)による土地没収の不安が高まりましたので、ルイ・ブランら労働者・社会主義者側を離れて穏健共和主義者側を支持するようになっていったのです。
1848年4月、総選挙が行われ(四月普通選挙)、結果、労働者・社会主義者側は惨敗、穏健共和主義者による組閣が行われました。リュクサンブール委員会は解散させられ、国立作業場も閉鎖となってしまいました(6月21日)。このため、作業場の労働者は一転して再度失業者となり、23日から26日にかけて大規模な労働者暴動がパリを中心に展開(六月暴動)、ルイ・ブランはベルギー、その後イギリスへの亡命身分となり、彼の改革は崩壊してしまいました。
ナポレオン3世(帝位1852-70)の第二帝政期(1852-70)が終わると、フランスに帰国、政界復帰を果たしますが、折しも労働者層が中心となった政府、パリ・コミューンの時代でしたが、ルイ・ブランは共感を示すことはありませんでした。1882年12月6日、フランス南東部のカンヌで、ルイ・ブランは71年の生涯を閉じました。
引用文献『世界史の目 第102話』より
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2018年12月05日
12月5日は何に陽(ひ)が当たったか?
Chicago Transit Authority(シカゴ・トリンジット・オーソリティ)の名義で1969年4月にデビューしたChicagoは、グループ名を冠した2枚組デビュー・アルバム"Chicago Transit Authority(邦題:シカゴの軌跡)"でデビューし、Billboard200アルバムチャートで1969年7月19日付と26日付の2週連続で最高位17位を記録し、新人グループとして上々のスタートを切りましたが、シングルではPeter Cetera(ピーター・セテラ。vo,bass)とRobert Lamm(ロバート・ラム。愛称は"ボビー"。vo,key)がヴォーカルをとる"Questions 67 and 68(邦題:クエスチョンズ67/68)"が選ばれたところ、1969年8月9日付Billboard HOT100シングルチャートで99位にエントリーし、翌週は78位、8月23日付で71位を記録しますが、8月30日付で圏外へ消えるという散々な結果に終わりました。セカンドシングルでは、Robert Lamm作の"Beginnings(邦題:ビギニングス)"が選ばれましたが、チャートインすらできませんでした。
ブラス・ロック・グループでは他にBlood, Sweat & Tears(ブラッド・スウェット&ティアーズ)が先にでており、アルバム・タイトルにバンド名を冠した2作目のアルバム"Blood, Sweat & Tears(邦題:血と汗と涙)"は、"Chicago Transit Authority"より先んじて1968年12月にリリースされ1969年3月末に1位を獲得、シングル"You've Made Me So Very Happy(邦題: ユーヴ・メイド・ミー・ソー・ヴェリー・ハッピー)"は同年4月12日付から3週2位を記録、"Spinning Wheel(邦題:スピニング・ホイール)"も7月5日付から同じく3週2位を記録、"And When I Die(邦題:アンド・ホエン・アイ・ダイ)"もまた11月29日付で2位と、3曲もTop3に送り込んでおり、Chicago Transit Authorityに大きく水をあけられる状況でした。しかもアルバム"Blood, Sweat & Tears"は、"Chicago Transit Authority"と同じ、James William Guercio(ジェイムズ・ウィリアム・ガルシオ)のプロデュースでした。
さらにはCTA、つまりシカゴの交通局(Chicago Transit Authority)によって「Chicago Transit Authority」というバンド名にクレームをつけられ、バンド名を「Chicago」と改められることを余儀なくされました。結局デビュー作からは71位のシングル1曲を放ったのみで、仕切り直しでChicagoとしてのデビュー・アルバム"Chicago(Chicago IIとも。邦題:シカゴと23の誓い)"を前作同様、James William Guercioのプロデュースで1970年1月にリリースしたのです。
前作同様、2枚組の大作でしたが内容はより大衆傾向で聴きやすくなり、Billboard200アルバムチャートでは1970年5月23日付より2週連続最高位4位といっきに向上しました。シングルでは7部構成からなる組曲"Ballet for a Girl in Buchannon(邦題:バレエ・フォー・ザ・ブキャノン)"の中から、ファーストシングルとしてギタリストのTerry Kath(テリー・キャス。1946-78。gtr,vo)が歌う"Make Me Smile(邦題:ぼくらに微笑みを)"が同年6月6日付から2週連続9位、そしてPeter Ceteraがヴォーカルをとるセカンド・シングル"25 or 6 to 4(邦題:長い夜)"は1970年9月12日付4位を記録し人気を獲得、特に後者はChicagoの70年代の代表曲として知られています。
12週間チャートインした"25 or 6 to 4"は1970年10月17日付で圏外に消えましたが、Chicagoはヒットの流れを保つため、デビュー作"Chicago Transit Authority"からの曲をシングルとしてリリースすることを決めました。その第一弾が"Does Anybody Really Know What Time It Is?"です。
Robert Lammによって作られた"Does Anybody Really Know What Time It Is?"は、アルバムでは4分半の楽曲ですが、イントロのRobert Lammのピアノがそっくり削られるなど編集が施され、3分半弱のシングル・ヴァージョンでリリースされました(他にも3分弱のラジオ・ヴァージョンも存在します)。するとチャートにすぐさま反映され、1970年11月7日付で72位でエントリーし、翌週50位、3週目で37位、4週目で20位と大幅なジャンプアップでTop20に食い込んできました。当時のチャート・アクションは短い期間に激しい昇降がみられるのが特徴の一つでもありましたが、陽の当たった5週目である12月5日付で16位、翌週に9位に入って、3曲連続Top10入りを果たしたのです。その後8位→8位と続き、1971年1月2日付より2週7位を続け、これを最高位に下降していきました(17位→19位→24位→圏外)。13週のチャートインでしたが、年末年始のヒットであったため、集計期間の関係で1970年、71位年両年ともYear-Endチャートにはランクされませんでした。ただしカナダのRPMシングルチャートでは2位と健闘し、1970年カナダのYear-Endチャートで59位を記録しています。これによりデビュー作からもヒット曲が誕生したのです。
Chicagoにとって陽の当たった1970年12月5日はさらにもう一つあり、"Does Anybody Really Know What Time It Is?"が、初めてEasy Listeningチャートにチャートインし、7位と初めてTop10入りを果たした日でもあり、最高位は翌週の12月12日付と19日付の2週連続5位を記録しています。
これを機に"Chicago Transit Authority"からのシングル化を改めて仕切り直すことにし、当初シングルとしてリリースした当時はチャートに失敗した"Beginnings"を、2作目"Chicago"に収録された"Ballet for a Girl in Buchannon"を構成する内の1曲"Colour My World(邦題:ぼくらの世界をバラ色に)"と両A面扱いで再リリースすることになりました。するとこの曲は1971年6月26日付HOT100で83位にエントリーし、結果同年8月14日付HOT100で2週7位を記録、前回の失敗を見事に取り返しただけでなく、Easy Listeningチャートでは1971年8月28日付で初めての1位を獲得するという成果を成し遂げました。そしてデビュー・シングルだった"Questions 67 and 68"も、純粋に"Chicago Transit Authority"からの"I'm a Man(邦題:アイム・ア・マン。the Spencer Davis Groupのカバー)"をB面にして再リリースする挑戦を行い、71位で終わった前回に比べ、今回は1971年11月20日付HOT100で2週24位を記録するヒットとなりました。この結果、デビュー・アルバム"Chicago Transit Authority"はBillboard200アルバムチャートに171週チャートインする偉業を成し遂げ、アメリカでダブル・プラチナ・アルバムに認定、2014年にはGrammy Hall of Fameの殿堂入りを果たしたのでした。
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2018年12月04日
12月4日は何に陽(ひ)が当たったか?
イギリスのプログレッシブ・ロックを主体とするロック・グループは、トータル性の高いアルバムで勝負する傾向にあり、次々とシングル・カットできるような構成ではありませんでした。たとえば、全英UKチャート1位を記録し、アメリカでもBillboard200アルバムチャートで55位と健闘したPink Floyd(ピンク・フロイド)の"Atom Heart Mother(邦題:原子心母。1970)"からはシングルヒットは出ておらず、全英5位、全米80位を記録したKing Crimson(キング・クリムゾン)の"In the Court of the Crimson King(邦題:クリムゾン・キングの宮殿)"でもアメリカでのシングル・カットは"The Court of the Crimson King(邦題:クリムゾン・キングの宮殿)"の最高位80位のみで、アルバム重視の見方が強くありました。こうした中で、Yesも過去2作("Yes","Time and a Word")からは、"Sweetness"や"Time and a Word"、"Sweet Dreams"などといったシングルをリリースしながらも1曲のシングル・ヒットが出ず、英米ともにチャート・インしませんでした。
1971年2月にリリースされたYesの3作目、"The Yes Album(邦題:サード・アルバム)"は、組曲形式のナンバーあり、インストゥルメンタル・ナンバーあり、長尺曲ありといったYesならではの楽曲構成が並び、Yesの方向性がはっきりと示されたアルバムとなりました。
そして、このアルバムからのシングルとして選ばれたのは、B面1曲目に収録された組曲、"I've Seen All Good People(邦題:アイヴ・シーン・オール・グッド・ピープル )を構成する"Your Move(邦題:心の光)"でした。もともとこの組曲はアコースティックな「静」の"Your Move"と、エネルギッシュな「動」の"All Good People"の二部構成で成り立っているロック・ナンバーです。
1971年9月25日付Billboard HOT100シングルチャートで、99位という下位でエントリーし、めでたくYesのHOT100デビューとなりました。その後は96位→91位とゆっくり上がっていきましたが、エントリーして4週目でようやく79位と10ランク以上の上昇が起こり、その後70位→66位→55位→52位→51位→45位と再びスローペースで上昇したのち、陽の当たった12月4日付、11週目にしてようやく40位と、Top40入りを果たしたのです。2週続けて40位を記録した後は降下して(48位→50位)、結果14週のチャートインでしたが、シングルヒットのおかげでアルバム"The Yes Album"は長く売れ続き、年が明けて1972年1月22日付のBillboard200アルバムチャートで次作"Fragile(邦題:こわれもの)"が177位にエントリーした日に、"The Yes Album"は30週目にして最高位の40位を記録しました。翌週"The Yes Album"は降下していったものの(56位)、"Fragile"は51位とジャンプ・アップ、2月になってこのアルバムからのシングル"Roundabout(邦題:ラウンドアバウト)"もエントリー(最高位13位)、Yesの勢いは続いていき、その後の黄金時代へとつながっていきます。
地味に40位を2週続けただけに終わった"Your Move"でしたが、チャートに存在したその効果はYesにとって非常に大きなものでありました。ちなみにこの"Your Move"のB面は、アメリカでは"The Yes Album"のA-2収録の"Clap(邦題:クラップ)"、イギリスではA-3に収録の3部構成の組曲"Starship Trooper"から構成曲の 1つ、"Life Seeker(ライフ・シーカー)"が選ばれております。
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2018年12月03日
12月3日は何に陽(ひ)が当たったか?
3世紀のローマ帝国は軍人皇帝時代(235-284)と呼ばれ、専横化した各属州の軍隊が皇帝を擁立して争っていました。軍人皇帝の統一策は無定見であり、富裕層からは土地を没収し、軍人たちを昇級させました。また軍事力偏重により、一方では古代イランのパルティアとの戦いに明け暮れ、一方ではゲルマン人の侵入に悩まされました。政治・経済・軍事・社会すべてにおいて、不安定な時代でした。
また奴隷制度に基づく大土地経営(ラティフンディア)にも変化が生じました。帝政になって以降、奴隷人口が減少しつつあったローマでは、奴隷を使用する非効率的な経営が見直され、徐々に奴隷は解放されていき、解放された奴隷の中には平民の地位まで向上する者も出ました。よって労働力は何も奴隷だけに限ることはなくなり、自由農民によっても補えました。やがて、解放奴隷や自由農民たちを、コロヌスと呼ばれる小作人として大農地労働につかせました。コロヌスは土地とともに売買され、地主に隷属する身分であり、ここにコロナートゥス制度が確立、農奴制の先駆となりました。
さらに市民は、軍人皇帝の偏重的な軍政によって、さらなる圧迫を受け続けました。おりからのパルティア軍やゲルマン人との対戦によって、軍事力強化を主張した皇帝は、その搾取を市民に求め、多大な重税を課しました。経済的に行き詰まった市民は重装歩兵として軍隊を組むのが難しくなり、代わって報酬契約で雇われた傭兵隊が組まれていくことになるのです。
社会変化にともない、帝室では皇帝権力を強める傾向が出て、ユピテル(英語名ジュピター)神の体現者と称し、神的権威を持つ皇帝、ディオクレティアヌスの即位によって、遂に軍人皇帝時代を終わらせました。もともとディオクレティアヌス帝も軍人皇帝時代の擁立形式と同様であり、ニコメディア(現トルコのイズミット)で軍隊に推されて即位しましたが、その後皇帝崇拝主義を取り、ローマ市民は臣民として皇帝に対し跪拝の礼を行わせ、ローマ皇帝としての尊厳を高めました。これは、東方オリエント、特にペルシアの宮廷儀礼を応用したと思われます。
また広大な帝国であるがゆえ、元の同僚を副帝、ついで正帝に任命して帝国を東西に分け、さらに2人の副帝をたててテトラルキア体制(四分統治制)を成立させた。これにより、各地の軍隊の勢力は薄れていきました。ちなみにディオクレティアヌス帝は東の正帝であった。
ディオクレティアヌス帝の改革はさらに進みました。全域を4道・12管区・100余の属州に区画整理し、それぞれの代官・総督を皇帝が任命しました。経済政策では税制の統一化、物価騰貴の統制、また皇帝崇拝主義政策の一環としてキリスト教徒の大迫害を行った(303)。彼の帝政によって専制君主的な権力が定着したことで、彼以降のローマ帝政はドミナートゥス(専制君主政)と呼ばれたのです。305年に体調不良で退位し、311年12月3日に没しました。
引用文献:『世界史の目 第111話』より
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2018年12月02日
12月2日は何に陽(ひ)が当たったか?
ハプスブルク家のオーストリア皇帝・フランツ・ヨーゼフ1世は、まさに激動の時代に生きた皇帝でした。生年がウィーン体制の反発期にあたり、フランスで勃発した七月革命(1830)によってウィーン体制は揺さぶられて、同体制の主導国だったオーストリアも隣国の反乱などで手を焼いた年です。また帝位についた1848年というのは、フランス二月革命(1848)の影響で自由主義者や民族主義者がウィーン体制の崩壊運動を勃興させ(諸国民の春)、同年ドイツで三月革命が起こり、ウィーン暴動が起こった年です。さらに5月にはフランクフルト国民議会ではドイツ統一の論争が勃発してプロイセン中心の小ドイツ主義が、オーストリア中心の大ドイツ主義に勝つなど大嵐のような年であり、オーストリアの帝室は憂き目の連続でした。当時18歳のフランツ・ヨーゼフはその年の12月2日に即位したのです。
フランツ・ヨーゼフ1世はその後ヴィッテルスバハ家(バイエルン)のエリザベート(1837-1898)と結婚しました(1854)。"シシィ"の愛称で知られるエリザベート王妃は宮廷でも一、二を争う美女で、同じバイエルン出身で、フランツ・ヨーゼフの母后ゾフィー(1805-1872)も妬むほどでありました。2人の間には、4人の子どもに恵まれました。長女ゾフィー・フリーデリケ(1855-57)は2歳の時に夭逝しましたが、次女ギーセラ(1856-1932)は後にバイエルン公へ嫁ぎ、三女マリー・ヴァレリー(1868-1924)はトスカナ公へ嫁ぎました。男子は、ギーセラとマリーとの間に長男ルドルフ(1858-89)がおり、帝位継承者として期待が寄せられていました。
また、フランツ・ヨーゼフ1世の兄弟に目を向けると、彼は長男で、2歳年下の弟にフェルディナント・マクシミリアン(1832-1867)、さらに弟カール・ルートヴィヒ(1833-1896)、妹マリア・アンナ(1835-40)、弟ルートヴィヒ・ヴィクトール(1842-1919)らがいました。また伯母にはナポレオン・ボナパルト(1769-1821)に嫁いだマリ・ルイーズ(1791-1847)がおり、伯父が前皇帝のフェルディナント1世(帝位・ハンガリー王位1835-1848。ハンガリー王ではフェルディナント5世)です。
即位したばかりのフランツ・ヨーゼフ1世は、ロシアの協力などを得ながら、ウィーン暴動から派生したハンガリー暴動、ベーメン暴動など次々と鎮圧し、"血で染まった若き皇帝"の異名が付けられ、中央集権的威厳を轟かせましたが、イタリア統一戦争(1859.4-59.7)での激戦地、ソルフェリーノでの敗戦、また普墺戦争(1866。プロイセン・オーストリア戦争)ではたった7週間でビスマルク(1815-98)率いるプロイセンにあっさり敗北を喫するなど、皇帝の権威は失墜していく有り様でした。同1866年、オーストリアを盟主とするウィーン体制の要でしたドイツ連邦は解体、オーストリア抜きのドイツの諸領邦は、プロイセンを盟主として北ドイツ連邦となり(1867)、オーストリアは5月末、ハンガリーと二重帝国(1867-1918。オーストリア・ハンガリー二重帝国)となり、1804年に大公国から昇格したオーストリア帝国は、フランツ・ヨーゼフ1世の代を最後に、60年余の歴史に幕を下ろしました。しかしフランツ・ヨーゼフ1世は、二重帝国誕生後も皇帝として、帝室を守りました。
二重帝国成立から3週間後、フランツ・ヨーゼフ1世のもとへ、予期せぬ悲報が飛び込んできました。皇帝の弟、フェルディナント・マクシミリアンがメキシコで処刑されたのです(1867)。なぜオーストリア皇帝の弟がメキシコにいたのか、実はマクシミリアンはメキシコ皇帝マクシミリアン1世(位1864-67)として帝位についていたのでした。
溯ること1519年、メキシコはスペイン・ハプスブルク家(カルロス1世時代。1516-56)が差し向けた征服者コルテス(1485-1547)によって征服され、(メキシコ征服)、当時の文明・アステカは滅亡しました(1521)。その後スペインはユトレヒト条約(1713)によってハプスブルク家から手を離れますが、ナポレオン率いるフランスによってスペインが一時征服(1808-13)されるまでの約290年間、メキシコはスペイン領でした。フランスのスペイン征服によって、メキシコはスペインからの独立気運を高め、1821年、スペインから独立を果たしました(メキシコ独立。1822年帝政。24年共和政に移行)。
しかし情勢は不安定で、1836年テキサスが独立(1845。アメリカの一州へ)、1846年には米墨戦争(べいぼく。アメリカ・メキシコ戦争。1846-48)の敗戦で、1848年にカリフォルニア(1850年に州昇格)とニューメキシコ(1912年に州昇格)など国土の半分以上をアメリカに奪われ、1850年代はスペインを始めイギリスやフランスなどの外債に依存する羽目となり、利子ですら支払われない逼迫した財政状況でした。また国内でも帝政時代やサンタ・アナ独裁政権時代(大統領任1833-35,39,41-44,47,53-55)に守られた軍隊や教会ら保守派と、これらに反発したインディオ出身の司法家フアレス(1806-1872)ら自由主義派との内戦が過激になり(レフォルマ戦争。改革戦争)、結果自由主義派が勝利を収め、フアレスは亡命先のアメリカで臨時政府をおこし、1861年メキシコシティーに戻ってメキシコ大統領となり(任1861-63,67-72)、メキシコの民主化を目標に始動しました。
ところが、思わぬ横槍が入った。折しもアメリカは南北戦争(1861-65)が勃発し、忙殺されたアメリカ合衆国はメキシコに対して隙を見せ始めます。これに目をつけたのがフランスでありました。第二帝政となったフランスではナポレオン3世(位1852-70)の治世であり、国民の人気を維持するため、数々の対外遠征・侵略を行ってきました。ナポレオン3世は、フアレス大統領が行った外債利子不払い宣言を機に、1861年10月、メキシコへの武力干渉を決定、翌1862年、フランス・イギリス・スペインの三国が共同出兵しました(メキシコ出兵)。ナポレオン3世は、フランスの傀儡カトリック政権をメキシコにたてる腹づもりがありましたので、フアレス大統領の返済計画に了承したイギリスとスペインは撤退しても、フランスは共和政府を倒すため、その後も干渉を続けました。またレフォルマ内戦に敗北していた保守派は、フアレス政権打倒を目論んでいたためフランスに接近し始めます。1863年、遂にメキシコシティを占領したフランスは、フアレス政権を現在のシウダー・フアレス市に追いやることに成功、メキシコ保守派は以前の帝政に戻すことをフランスに提案、つまりナポレオン3世の傀儡カトリック帝国樹立に賛同したことで、メキシコ帝政が急ピッチで行われることになったのです。
ナポレオン3世はメキシコの新たなロボット皇帝として、オーストリアのフランツ・ヨーゼフ1世の弟であるマクシミリアンを推しました。ハプスブルク家はかつて"カトリックの帝国"として神聖ローマ帝国(962-1806)を支えた王家であったが、ナポレオンによって帝国を潰され、オーストリアに留まって復活の機会を窺うも、フランクフルト国民議会でドイツ統一論争に負け、もはや王家の名声はピークを過ぎていました。
ナポレオン3世はこれに付け入ったのでしょうか?古くは、フランス王家とハプスブルク家とは対立的関係であり、同じカトリック国である強国同士が、お互いに権力を拡大し合っていきましたが、1860年代では、国力はオーストリアよりフランスの方が上であり、過去の関係を利用しようとしたのであるのなら、ナポレオン3世にとっては、当時のハプスブルク家がメキシコ皇帝に適任だったと考えたのではないのでしょうか?伯父ナポレオンのおこないに対する謝罪の気持ちを表しながら、今一度ハプスブルク帝国の復興、カトリック帝国の復活をハプスブルク家に思い起こさせようといった悪知恵が働くのも自然な発想だとされますが、真実はわかりません。
ただ、マクシミリアンの妻シャルロッテ(1840-1927)は、フランツ・ヨーゼフ1世の妃エリザベートとは対立的で、母后ゾフィーに依っていました。バイエルン出身のエリザベートがオーストリア皇后であることによる嫉妬があり、シャルロッテ自身は、父がベルギー国王であり、さらに祖父はフランス七月王政を支えたルイ・フィリップ(1773-1850。位1830-48)です。当然、エリザベートよりも高身分を主張していたシャルロッテは、フランスからのメキシコ皇后としての誘いを疑念と感じつつも前向きでありました。マクシミリアン自身も野心があり、仲が良いと言いながらも常に兄に勝ちたいという意識は捨てず、皇帝の座をいち早く獲得したかったのです。結局マクシミリアンは、メキシコ国民の同意を得ることを条件に、ナポレオン3世からの要請を受け入れることになり、ナポレオン3世の本当の狙いを知らないマクシミリアンはマクシミリアン1世としてメキシコ皇帝につき、シャルロッテはメキシコ皇后となります。これまで仲の良かった兄フランツ・ヨーゼフ1世も彼を見限り、関係は破綻、マクシミリアンのオーストリア・ハンガリー帝継承権を放棄させました(フランツ・ヨーゼフ1世はルドルフに継承権を与えることになるのです)。ナポレオン3世は、メキシコ保守派に、強引な方法で、メキシコ国民にマクシミリアン即位の同意を得させました。
メキシコ皇帝に即位したマクシミリアン帝は、即位前から、皇帝としての野望を存分に発揮しようと考えていました。自身の国を造ることを前提に、外債利子不払い、教会財産の没収や保守派の特権剥奪案など、極端な自由主義的独裁政策を施そうとしました。これは、シウダー・フアレス市に追いやられたフアレスの政策と全く同じ行いでありましたので、保守派から疎まれ、ナポレオン3世も動揺しました。さらに、フアレスに入閣させ、首相就任を打診しましたが、フアレスはマクシミリアン帝がフランスの傀儡政権であることと、反帝主義であることから、マクシミリアン帝の受け入れを拒否し、南北戦争を終えたアメリカの援助を受けて抵抗しました。このことから、マクシミリアン帝はメキシコ全国民から敵視されるようになり、人望を失いました。
やがて普墺戦争でマクシミリアン帝の母国オーストリアは大敗、ビスマルク・プロイセンの次の矛先がフランスへ向けたことで、ナポレオン3世は、メキシコに駐留していた自国の軍隊をフランスに戻させ、プロイセン戦の準備に入りました(フランスのメキシコ撤退。1867.2)。メキシコ駐留軍は、マクシミリアン即位後、頻繁に起こっているメキシコ兵のゲリラ抵抗に悩まされており、しかも疫病蔓延が重なって、続行不可能な状態でした。ナポレオン3世は、マクシミリアン帝を見捨てて、軍の撤退を叫びました。こうして、メキシコにフランス軍は消え、帝室は数少ないオーストリア義勇軍によって守られるだけでした。唯一の光でありました、シャルロッテ皇后の父が国王をつとめるベルギーも、国王病没により助けが途絶えて、遂にシャルロッテは発狂し、その後祖国ベルギーに戻って幽閉され、60年後の1927年に没しました。
1867年5月、遂にメキシコはフアレス軍の手に落ちました。マクシミリアン帝は捕虜となり、フアレス軍が樹立した臨時政府によって帝位は剥奪されて、マクシミリアンは6月19日銃殺刑に処されました。印象派画家マネ(1832-83)が描いた『マクシミリアンの処刑』を見れば分かりますが(こちら。wikipediaより)、威風堂々とした姿のまま撃たれています(「顔だけは撃たないでくれ」と嘆願して執行人に金貨を渡すも、受け入れられなかったといわれています)。メキシコ政策に失敗したナポレオン3世は、フランス国民の人気も下がり、プロイセンとの戦争にも負けて(プロイセン・フランス戦争。普仏戦争1870.7-1871.2)、プロイセン軍にスダン(セダン)で捕まり、第二帝政を終わらせてしまうことになるのです。
オーストリア・ハンガリー皇帝の弟が海の向こうで顔を撃ち抜かれて処刑されたというショッキングな事件は、ハプスブルク家にとっては精神的打撃でした。フランツ・ヨーゼフ1世はメキシコ帝に就いた弟を快く思いませんでしたが、フランスに見殺しにされ、処刑されたことで、彼の死を深く嘆きました。しかし、その涙が乾く間もなく、フランツ・ヨーゼフ帝に次々と事件が襲いかかりました。
エリザベートは、子ルドルフの養育を母后ゾフィーに横取りされ、ハプスブルク家の儀式・礼儀・慣習を窮屈に思うようになっていきました。皇帝との夫婦生活においても何かとゾフィーが干渉することになり、徐々にフランツ・ヨーゼフ1世のそばから離れ、小旅行に出向くことが多くなりました。
ルドルフは1881年、ベルギー王女と政略結婚しましたが、夫婦生活は悪く冷え切っておりました。保守的な父帝と違い、自由主義的なルドルフ皇子は、女優や娼婦と交遊をおこないましたが、決して政治的に無能ではなく、単に父にはない漸進的な部分があり、父とは相容れられないだけだったのです。1888年、ルドルフは外交官だった男爵の令嬢、マリー・フォン・ヴェッツェラ(1871-1889)と禁断の愛を育んだことで父帝の怒りを買いました。翌1889年1月30日、ルドルフは狩猟館マイヤーリンクにおいて、マリーとピストルで心中、絶命しました。これが多くのナゾを生んだマイヤーリンク事件です。
帝位継承者を失ったフランツ・ヨーゼフ帝は悲嘆を隠せず、「この世では、あらゆるすべてが私の中から奪われていく」と発したとされています。やむなく次の帝位継承者として弟のカール・ルートヴィヒ大公を指名したが、彼も1896年に病死、彼の息子フランツ・フェルディナント(1864-1914)を推しました。
そして1898年、フランツ・ヨーゼフ1世の最大の衝撃が起こります。この頃はウィーンでは全く姿を現さなくなった妃エリザベートが旅行先のスイスのジュネーヴ湖畔で刺殺体となって発見されたのです。犯人はイタリアの無政府主義者でした。エリザベートはルドルフが没して以降、その死に悲嘆、常に喪服を手放しませんでした。エリザベートが暗殺されるにあたって、窮屈だったハプスブルク家の縁を切られることに不満はありませんでしたが、唯一心残りだったのは、愛児ルドルフを母后に預けることなく、母の手で育てたかったことでした。しかし、皇后の思いとは裏腹に、フランツ・ヨーゼフ1世は、常に皇后を愛し、片時とて忘れることがなかっただけに、彼女の死は子ルドルフ以上に落胆したのです。
マクシミリアンの処刑からふりかかった皇帝の不運は、"呪われたハプスブルク"に取って代わりました。これを象徴するのが、フランツ・フェルディナント皇太子夫妻の暗殺、いわゆるサライェヴォ事件(1914.6.28)です。エリザベートの死により、フランツ・ヨーゼフ1世がこれまで以上に政務に没頭することができ、ドイツと同盟を組んで強いオーストリアを目指す最中の出来事でした。しかしすでに多くを失ったフランツ・ヨーゼフ帝に、もはや驚きはなく、サライェヴォ事件によって引き起こされた第一次世界大戦(1914-18)の戦局を案じていました。しかし、勝敗を見届けることなく、フランツ・ヨーゼフ1世は1916年11月11日、86歳で没しました。
大戦での敗戦が決まると、帝位を継いだカール1世(位1916-18。フランツ・フェルディナントの甥)は為すすべなく退位し、二重帝国は解体、オーストリアは共和国となりました。メキシコ事件以降、惨劇を繰り返したハプスブルク家は名実ともに終焉を迎えたのでした。
『世界史の目 第113話』より
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2018年12月01日
12月1日は何に陽(ひ)が当たったか?
1974年11月リリースの4作目"Man of Miracles(邦題:ミラクルズ)"は大きなヒットに恵まれなかったものの、シングルとしてこのアルバムから選ばず、あえて1973年の2作目"StyxU(邦題:スティクスU)"から"Lady(邦題:憧れのレディ)"をシングルに選んだところ、まさかのTop10入りする大ヒット(Billboard HOT100シングルチャート6位)で、Styxは突如人気グループとなり、アルバム"StyxU"はBillboard200アルバムチャート20位を記録する大成功を収めたのです。
Styxは、大手レーベルであったA&M Records(現在のUniversal Music Group。UMG。もとMCA Records)との契約後に今回の移籍第1弾アルバムである"Equinox"をリリースすることになるのですが、実は、A&Mとの契約は、シングル"Lady"とアルバム"StyxU"がリバイバルして契約にこぎつけたものではなく、"Man of Miracles"の活動を終えた1975年の早い時期に契約することが決まっておりました。"Man of Miracles"から新曲をシングル・カットせず、既発表のBest Thing(邦題:ベスト・シング)"を選んだのも、"Man of Miracles"のリリース後、早めにA&Mとの契約との契約を考えていたからなのかどうかは不明ですが、"Lady"および"StyxU"のヒットは、当時のメンバーであるJohn Panozzo(ジョン・パノッツォ。drums)、Chuck Panozzo(チャック・パノッツォ。Bass,vo)、Dennis DeYoung(デニス・デヤング。vo,key)、John [JC] Curulewski(ジョン・クルルウスキー。gtr,vo)、James [JY] Young(ジェームズ・ヤング。gtr,vo)の5人からすればレーベル移籍時に舞い降りてきた予期せぬ幸運であったらしく、シカゴ市のDJがジュークボックスで偶然"Lady"を発見しこれを気に入ってエアプレイを試みたところ、数多くのラジオ・ステーションがエアプレイ率を上げてこの曲が知られていき、ヒットに結びついたものだったそうです。"Lady"とこの曲を収録したアルバム"StyxU"の大ヒットで出世の足がかりをつかんだStyxは、メジャー・レーベル移籍に加えて、既発表曲の突然のヒットが飛び込み、移籍第一弾作品である"Equinox"の制作に弾みが付きました(異なった見解では、"Lady","Best Thing"といった過去の栄光ばかりにすがりつき、"Man of Miracles"を強くプロモートしなかった当時のWooden Nickelレーベルに嫌気が差し、移籍願望が強まったという説もあります)。
4作目の"Man of Miracles"の時はレコーディング・スタジオを初めて変更しましたが、"StyxU"のヒットで験を担いだのか、3作目の"The Serpent Is Rising(邦題:サーペント・イズ・ライジング。1973)"まで使用していたParagon Recording Studiosでの制作となりました。Styxのセルフ・プロデュースですが、デビューからエンジニアや共同プロデュースとしてStyxサウンドを支えたBarry Mrazがプロデュースのサポート兼エンジニアリングを行いました。
Barry Mrazは"Equinox"制作の直前に、Paragon Recording Studiosでアメリカのファンクグループ、Ohio Players(オハイオ・プレイヤーズ)の、後にプラチナ・アルバムに輝いた7枚目スタジオ・アルバム"Honey(邦題:ハニー)"のエンジニアをつとめており、この時"Honey"のテープ・オペレーション・スタッフをつとめたRob Kingslandも"Equinox"制作に携わることになり、Barryのアシスタント・エンジニアを担当することになりました。Rob Kingslandはその後Styxが全盛期を迎える有力なヒット・アルバムのエンジニアリングに尽力し、Gary Loizzo(ゲイリー・ロワイツォ。1945-2016。"Equinox"には不参加)とともに名エンジニアとして名を馳せました。
マスタリングはThe Doors(ドアーズ)やThe Rolling Stones(ローリング・ストーンズ)など、多くのヒット・アルバムを手掛けたマスタリングの名匠、Doug Sax(ダグ・サックス。1936-2015)が担当しました。
ジャケット写真は当時A&M所属アーチストの多くのアルバム・デザインを手掛けたアート・ディレクターのRoland Young、女性デザイナーのJunie Osaki、グラフィック・デザイナーのChuck Beesonらによる製作で、砂浜で大きな氷が燃えているというメタンハイドレートのような物質がシンボルとなっています。個人的にも非常に気に入っているスリーヴ・デザインです。
では、オリジナル・ラインナップにおける最後のスタジオ・アルバムの曲目リストです。全8曲です。
A面(アナログ盤)
- "Light Up(邦題:ライト・アップ)"・・・DeYoung作
- "Lorelei(邦題:ローレライ)"・・・DeYoung,JY作
- "Mother Dear(邦題:マザー・ディア)"・・・JC, DeYoung作
- "Lonely Child(邦題:ロンリー・チャイルド)"・・・DeYoung作
B面
- "Midnight Ride(邦題:ミッドナイト・ライド)"・・・JY作
- "Born for Adventure(邦題:アドヴェンチャー野郎)"・・・DeYoung,JC,JY作
- "Prelude 12(邦題:プレリュード12)"・・・JC作
- "Suite Madame Blue(邦題:スィート・マダム・ブルー)"・・・DeYoung作
収録された全楽曲ともお奨めのクォリティの高いナンバーだらけです。A-1は"Equinox"でのファースト・シングル(B面はB-2)に選ばれたDennisがヴォーカルをとるポップな作品です。イントロのシンセサイザーといい、思わず体を動かしてしまう軽やかな間奏といい、インディー時代にはまず見られなかった、ソフトなStyxサウンドです。HOT100にはランクインしませんでしたが、新しいStyxのサウンドを堪能できる作品です。過去全4作では、アルバムのトップを飾るA−1はJYのリード・ヴォーカルによる作品で、スピード感のあるハードなロック・ナンバーで勢いを付けてきましたが、今回は初めてDennisのリード・ヴォーカルをA-1に持って来ました。
A-2の"Lorelei"はその後にリリースされたベスト盤には必ず収録されるStyxの代表曲で、A-1に次いでシングル・カットされた作品です(B面はB-1)。おそらくStyxのファンでこの曲を嫌う人はいないだろうと思います。個人的にもStyxの楽曲の中では一番繰り返して聴いていると思います。Dennisが奏でるキーボードのイントロで始まり、Dennisが愛を込めて"When I think of Lorelei, my head turns all around〜"と歌い上げるポップなラブ・ソングですが、後半にたたみかける"Lorelei, let's live together"のコーラスがまさにイリュージョンで、苦心して下積みを続けた彼らならではのなせる技です。美しいコーラスを聴かせるStyxの真骨頂ともいうべき作品です。さらにはコーラスのバックで奏でられるJYのリード・ギターも絶品です。
"Lorelei"のシングル・カットはHOT100のチャート・インに成功し、1976年2月14日付で90位にエントリーし、この週から5週連続で80位→70位→60位→50位と10ランクアップで上昇、次は40位かなと思えば44位でしたが、続いて39位とチャート・インから7週目でTop40入りを果たしました。その後は35位→31位→28位と順調に上がり、次の4月24日付で27位を記録、これが最高位となり下降し、結果14週間チャートインを果たしました。前にTop40入りした"Lady"の最高位6位、チャートイン17週間には及びませんでしたが、移籍して初めてのTop40ヒットが誕生したのです。一方カナダでは大きく躍進して、RPMシングルチャートでは"Lady"の記録(19位)を大きく塗り替える最高位6位を記録、カナダにおける初のTop10ヒットとなり、カナダのYear-Endチャートでも77位を記録するなど、"Lady"をはるかにしのぐ大ヒットとなりました。
前述の通り、"Lorelei"はその後にリリースされるベスト盤には必ずと言って良いほど収録されましたが、Dennis脱退後の2010年にリリースされたベスト盤(EP盤)の"Regeneration: Volume I"では共作者のJYがリード・ヴォーカルをとっています。
A-3はJCとDennisの共作で、Dennisのシンセサイザーが縦横無尽に活躍するプログレ・ナンバーです。メイン・ヴォーカルはJCで、Dennisもサポートで一緒に歌っていますが、JCがメインのヴォーカル・ナンバーはStyxのキャリアではこれがラストになります。JCは声域が広く曲調に合わせて歌声を使い分けており、たとえば各曲のバック・コーラスでは高いキーで軽やかに歌い、リード・ヴォーカルになると非常にエネルギッシュな歌声で歌います。この"Mother Dear"では、"StyxU"収録の"You Better Ask"や1973年の3作目"The Serpent Is Rising(邦題:サーペント・イズ・ライジング)"収録のタイトル曲や"As Bad as This"、"Krakatoa"のような凄味のある歌声というよりは、"StyxU"収録の"A Day"のような柔らかみのある歌声で、バック・ヴォーカルでの高いキーで歌っているのが特徴で、Dennisと歌っているので非常に軽やかに感じます。次作より参加するTommy Shaw(トミー・ショウ。gtr,vo)のメンバー加入の条件の一つに「高音を出せる」というのがあり、Styxはヴォーカル/コーラスのセンスを大きくとらえていたことがわかります。
A-4はDennisがヴォーカルのロック・ナンバーで、イントロはA-3と同じくシンセサイザーで始まります。後半での、魂が乗り移ったかのような"Come spend your life with me"のフレーズを何度も歌い上げるパートが印象的です。
B-1はStyx風のドライブ感あるメタル・サウンドで、アルバム収録中もっともヘビーな作品であり、JYが唯一リード・ヴォーカルをとる作品です。A&M移籍前は各アルバムの半分、またはそれ以上はJYが歌っていましたが、移籍後は各アルバムに1〜2曲のペースになり、JYはほぼこうしたヘビーなロック・ナンバーを中心に歌っていきます。シングル化された"Lorelei"のB面に収録された作品で、2003年のハード・ロック・ナンバー中心のベスト盤"Rockers"の1曲目に収録されました。それにしても、サビの部分のタイトルを叫ぶ高音コーラスはマネできないぐらいの美しさがあります。
B-2はChuck Panozzoのスリリングなベース・ソロで始まるミステリアスなロック・ナンバーです。ファースト・シングルのA-1のB面に抜擢された、Dennisがリード・ヴォーカルをとる楽曲です。後半にDennisがシャウトする声にディレイをかけているパートも心地良いです。
B-3はJCの美しいアコースティック・ギター・インストで、単独のインストゥルメンタル・ナンバーは"StyxU"でDennisが見せたバッハの"Little Fugue in G"によるパイプ・オルガン・インスト以来と言うことになりますが、このアルバム発売後にJCが脱退することを考えると、非常に切なさ、もの悲しさが感じられるインストゥルメンタル・ナンバーです。しっとりとした、いたってシンプルなギター・インストですが、次に収録された、このアルバムのハイライトであるB-4に繋がる重要な作品です。
B-4は、来たるアメリカ合衆国独立(1776年)の200年記念についてDennisが作ったナンバーとされ、ライブでの定番曲で観客が最も盛り上がるアメリカン・ソングです。B-3のギターに続いてここでもJCのギターをバックにバラード調で始まり、Dennisの"Time after time 〜"と熱唱していきます。サビの部分でドラマティックな展開になり、間奏は幻想的なシンセサイザー・ソロのあと、ヘビーでスリリングなギター・ソロが始まり、Dennis、JC、JY、そしてChuckも入っての"America"を連呼する美しいコーラスで大きな山場となります。ギター・サウンドとシンセサイザーをバックにDennisが最後に" 〜 And lead us away from here...."と歌い上げて締めのエンディングに入るところが本当に素晴らしく、まさにプログレッシブ・ロックの醍醐味です。6分半のナンバーですが、どこを取っても隙のない不朽の名曲というべきでしょう。この曲も"Lorelei"同様、多くのStyxのベスト盤で収録される名曲です。
"Equinox"は1975年12月20日付のBillboard200アルバムチャートで124位にエントリー、15週目での1976年の3月27日付で58位が最高位となりました。"StyxU"の20位には及びませんでしたが、その後も長く売れ続け、時折チャートにリエントリーするなどし、通算50週チャートインするロング・セラーとなったのです。2年後の1977年にはアメリカRIAAではゴールド・アルバムに輝き、カナダCRIAにいたってはプラチナ・アルバムに認定されるヒット・アルバムとなりました。
しかしJCはアルバム・リリース後に諸事情の理由で脱退し、Equinoxツアーを敢行する前に早急に新たなメンバー探さなければならないという騒動もありました。結果的にはTommy Shawが加入することで落ち着きましたが、この一連の騒動についてはこちらで詳しく紹介させていただいております。
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