2018年12月02日
12月2日は何に陽(ひ)が当たったか?
1848年12月2日は、ハプスブルク家(正確にはハプスブルク・ロートリンゲン家)のフランツ・ヨーゼフ(1830-1916)がオーストリア皇帝フランス・ヨーゼフ1世として即位した日です(オーストリア皇帝位1848-1916。ハンガリー王位1867-1916)。
ハプスブルク家のオーストリア皇帝・フランツ・ヨーゼフ1世は、まさに激動の時代に生きた皇帝でした。生年がウィーン体制の反発期にあたり、フランスで勃発した七月革命(1830)によってウィーン体制は揺さぶられて、同体制の主導国だったオーストリアも隣国の反乱などで手を焼いた年です。また帝位についた1848年というのは、フランス二月革命(1848)の影響で自由主義者や民族主義者がウィーン体制の崩壊運動を勃興させ(諸国民の春)、同年ドイツで三月革命が起こり、ウィーン暴動が起こった年です。さらに5月にはフランクフルト国民議会ではドイツ統一の論争が勃発してプロイセン中心の小ドイツ主義が、オーストリア中心の大ドイツ主義に勝つなど大嵐のような年であり、オーストリアの帝室は憂き目の連続でした。当時18歳のフランツ・ヨーゼフはその年の12月2日に即位したのです。
フランツ・ヨーゼフ1世はその後ヴィッテルスバハ家(バイエルン)のエリザベート(1837-1898)と結婚しました(1854)。"シシィ"の愛称で知られるエリザベート王妃は宮廷でも一、二を争う美女で、同じバイエルン出身で、フランツ・ヨーゼフの母后ゾフィー(1805-1872)も妬むほどでありました。2人の間には、4人の子どもに恵まれました。長女ゾフィー・フリーデリケ(1855-57)は2歳の時に夭逝しましたが、次女ギーセラ(1856-1932)は後にバイエルン公へ嫁ぎ、三女マリー・ヴァレリー(1868-1924)はトスカナ公へ嫁ぎました。男子は、ギーセラとマリーとの間に長男ルドルフ(1858-89)がおり、帝位継承者として期待が寄せられていました。
また、フランツ・ヨーゼフ1世の兄弟に目を向けると、彼は長男で、2歳年下の弟にフェルディナント・マクシミリアン(1832-1867)、さらに弟カール・ルートヴィヒ(1833-1896)、妹マリア・アンナ(1835-40)、弟ルートヴィヒ・ヴィクトール(1842-1919)らがいました。また伯母にはナポレオン・ボナパルト(1769-1821)に嫁いだマリ・ルイーズ(1791-1847)がおり、伯父が前皇帝のフェルディナント1世(帝位・ハンガリー王位1835-1848。ハンガリー王ではフェルディナント5世)です。
即位したばかりのフランツ・ヨーゼフ1世は、ロシアの協力などを得ながら、ウィーン暴動から派生したハンガリー暴動、ベーメン暴動など次々と鎮圧し、"血で染まった若き皇帝"の異名が付けられ、中央集権的威厳を轟かせましたが、イタリア統一戦争(1859.4-59.7)での激戦地、ソルフェリーノでの敗戦、また普墺戦争(1866。プロイセン・オーストリア戦争)ではたった7週間でビスマルク(1815-98)率いるプロイセンにあっさり敗北を喫するなど、皇帝の権威は失墜していく有り様でした。同1866年、オーストリアを盟主とするウィーン体制の要でしたドイツ連邦は解体、オーストリア抜きのドイツの諸領邦は、プロイセンを盟主として北ドイツ連邦となり(1867)、オーストリアは5月末、ハンガリーと二重帝国(1867-1918。オーストリア・ハンガリー二重帝国)となり、1804年に大公国から昇格したオーストリア帝国は、フランツ・ヨーゼフ1世の代を最後に、60年余の歴史に幕を下ろしました。しかしフランツ・ヨーゼフ1世は、二重帝国誕生後も皇帝として、帝室を守りました。
二重帝国成立から3週間後、フランツ・ヨーゼフ1世のもとへ、予期せぬ悲報が飛び込んできました。皇帝の弟、フェルディナント・マクシミリアンがメキシコで処刑されたのです(1867)。なぜオーストリア皇帝の弟がメキシコにいたのか、実はマクシミリアンはメキシコ皇帝マクシミリアン1世(位1864-67)として帝位についていたのでした。
溯ること1519年、メキシコはスペイン・ハプスブルク家(カルロス1世時代。1516-56)が差し向けた征服者コルテス(1485-1547)によって征服され、(メキシコ征服)、当時の文明・アステカは滅亡しました(1521)。その後スペインはユトレヒト条約(1713)によってハプスブルク家から手を離れますが、ナポレオン率いるフランスによってスペインが一時征服(1808-13)されるまでの約290年間、メキシコはスペイン領でした。フランスのスペイン征服によって、メキシコはスペインからの独立気運を高め、1821年、スペインから独立を果たしました(メキシコ独立。1822年帝政。24年共和政に移行)。
しかし情勢は不安定で、1836年テキサスが独立(1845。アメリカの一州へ)、1846年には米墨戦争(べいぼく。アメリカ・メキシコ戦争。1846-48)の敗戦で、1848年にカリフォルニア(1850年に州昇格)とニューメキシコ(1912年に州昇格)など国土の半分以上をアメリカに奪われ、1850年代はスペインを始めイギリスやフランスなどの外債に依存する羽目となり、利子ですら支払われない逼迫した財政状況でした。また国内でも帝政時代やサンタ・アナ独裁政権時代(大統領任1833-35,39,41-44,47,53-55)に守られた軍隊や教会ら保守派と、これらに反発したインディオ出身の司法家フアレス(1806-1872)ら自由主義派との内戦が過激になり(レフォルマ戦争。改革戦争)、結果自由主義派が勝利を収め、フアレスは亡命先のアメリカで臨時政府をおこし、1861年メキシコシティーに戻ってメキシコ大統領となり(任1861-63,67-72)、メキシコの民主化を目標に始動しました。
ところが、思わぬ横槍が入った。折しもアメリカは南北戦争(1861-65)が勃発し、忙殺されたアメリカ合衆国はメキシコに対して隙を見せ始めます。これに目をつけたのがフランスでありました。第二帝政となったフランスではナポレオン3世(位1852-70)の治世であり、国民の人気を維持するため、数々の対外遠征・侵略を行ってきました。ナポレオン3世は、フアレス大統領が行った外債利子不払い宣言を機に、1861年10月、メキシコへの武力干渉を決定、翌1862年、フランス・イギリス・スペインの三国が共同出兵しました(メキシコ出兵)。ナポレオン3世は、フランスの傀儡カトリック政権をメキシコにたてる腹づもりがありましたので、フアレス大統領の返済計画に了承したイギリスとスペインは撤退しても、フランスは共和政府を倒すため、その後も干渉を続けました。またレフォルマ内戦に敗北していた保守派は、フアレス政権打倒を目論んでいたためフランスに接近し始めます。1863年、遂にメキシコシティを占領したフランスは、フアレス政権を現在のシウダー・フアレス市に追いやることに成功、メキシコ保守派は以前の帝政に戻すことをフランスに提案、つまりナポレオン3世の傀儡カトリック帝国樹立に賛同したことで、メキシコ帝政が急ピッチで行われることになったのです。
ナポレオン3世はメキシコの新たなロボット皇帝として、オーストリアのフランツ・ヨーゼフ1世の弟であるマクシミリアンを推しました。ハプスブルク家はかつて"カトリックの帝国"として神聖ローマ帝国(962-1806)を支えた王家であったが、ナポレオンによって帝国を潰され、オーストリアに留まって復活の機会を窺うも、フランクフルト国民議会でドイツ統一論争に負け、もはや王家の名声はピークを過ぎていました。
ナポレオン3世はこれに付け入ったのでしょうか?古くは、フランス王家とハプスブルク家とは対立的関係であり、同じカトリック国である強国同士が、お互いに権力を拡大し合っていきましたが、1860年代では、国力はオーストリアよりフランスの方が上であり、過去の関係を利用しようとしたのであるのなら、ナポレオン3世にとっては、当時のハプスブルク家がメキシコ皇帝に適任だったと考えたのではないのでしょうか?伯父ナポレオンのおこないに対する謝罪の気持ちを表しながら、今一度ハプスブルク帝国の復興、カトリック帝国の復活をハプスブルク家に思い起こさせようといった悪知恵が働くのも自然な発想だとされますが、真実はわかりません。
ただ、マクシミリアンの妻シャルロッテ(1840-1927)は、フランツ・ヨーゼフ1世の妃エリザベートとは対立的で、母后ゾフィーに依っていました。バイエルン出身のエリザベートがオーストリア皇后であることによる嫉妬があり、シャルロッテ自身は、父がベルギー国王であり、さらに祖父はフランス七月王政を支えたルイ・フィリップ(1773-1850。位1830-48)です。当然、エリザベートよりも高身分を主張していたシャルロッテは、フランスからのメキシコ皇后としての誘いを疑念と感じつつも前向きでありました。マクシミリアン自身も野心があり、仲が良いと言いながらも常に兄に勝ちたいという意識は捨てず、皇帝の座をいち早く獲得したかったのです。結局マクシミリアンは、メキシコ国民の同意を得ることを条件に、ナポレオン3世からの要請を受け入れることになり、ナポレオン3世の本当の狙いを知らないマクシミリアンはマクシミリアン1世としてメキシコ皇帝につき、シャルロッテはメキシコ皇后となります。これまで仲の良かった兄フランツ・ヨーゼフ1世も彼を見限り、関係は破綻、マクシミリアンのオーストリア・ハンガリー帝継承権を放棄させました(フランツ・ヨーゼフ1世はルドルフに継承権を与えることになるのです)。ナポレオン3世は、メキシコ保守派に、強引な方法で、メキシコ国民にマクシミリアン即位の同意を得させました。
メキシコ皇帝に即位したマクシミリアン帝は、即位前から、皇帝としての野望を存分に発揮しようと考えていました。自身の国を造ることを前提に、外債利子不払い、教会財産の没収や保守派の特権剥奪案など、極端な自由主義的独裁政策を施そうとしました。これは、シウダー・フアレス市に追いやられたフアレスの政策と全く同じ行いでありましたので、保守派から疎まれ、ナポレオン3世も動揺しました。さらに、フアレスに入閣させ、首相就任を打診しましたが、フアレスはマクシミリアン帝がフランスの傀儡政権であることと、反帝主義であることから、マクシミリアン帝の受け入れを拒否し、南北戦争を終えたアメリカの援助を受けて抵抗しました。このことから、マクシミリアン帝はメキシコ全国民から敵視されるようになり、人望を失いました。
やがて普墺戦争でマクシミリアン帝の母国オーストリアは大敗、ビスマルク・プロイセンの次の矛先がフランスへ向けたことで、ナポレオン3世は、メキシコに駐留していた自国の軍隊をフランスに戻させ、プロイセン戦の準備に入りました(フランスのメキシコ撤退。1867.2)。メキシコ駐留軍は、マクシミリアン即位後、頻繁に起こっているメキシコ兵のゲリラ抵抗に悩まされており、しかも疫病蔓延が重なって、続行不可能な状態でした。ナポレオン3世は、マクシミリアン帝を見捨てて、軍の撤退を叫びました。こうして、メキシコにフランス軍は消え、帝室は数少ないオーストリア義勇軍によって守られるだけでした。唯一の光でありました、シャルロッテ皇后の父が国王をつとめるベルギーも、国王病没により助けが途絶えて、遂にシャルロッテは発狂し、その後祖国ベルギーに戻って幽閉され、60年後の1927年に没しました。
1867年5月、遂にメキシコはフアレス軍の手に落ちました。マクシミリアン帝は捕虜となり、フアレス軍が樹立した臨時政府によって帝位は剥奪されて、マクシミリアンは6月19日銃殺刑に処されました。印象派画家マネ(1832-83)が描いた『マクシミリアンの処刑』を見れば分かりますが(こちら。wikipediaより)、威風堂々とした姿のまま撃たれています(「顔だけは撃たないでくれ」と嘆願して執行人に金貨を渡すも、受け入れられなかったといわれています)。メキシコ政策に失敗したナポレオン3世は、フランス国民の人気も下がり、プロイセンとの戦争にも負けて(プロイセン・フランス戦争。普仏戦争1870.7-1871.2)、プロイセン軍にスダン(セダン)で捕まり、第二帝政を終わらせてしまうことになるのです。
オーストリア・ハンガリー皇帝の弟が海の向こうで顔を撃ち抜かれて処刑されたというショッキングな事件は、ハプスブルク家にとっては精神的打撃でした。フランツ・ヨーゼフ1世はメキシコ帝に就いた弟を快く思いませんでしたが、フランスに見殺しにされ、処刑されたことで、彼の死を深く嘆きました。しかし、その涙が乾く間もなく、フランツ・ヨーゼフ帝に次々と事件が襲いかかりました。
エリザベートは、子ルドルフの養育を母后ゾフィーに横取りされ、ハプスブルク家の儀式・礼儀・慣習を窮屈に思うようになっていきました。皇帝との夫婦生活においても何かとゾフィーが干渉することになり、徐々にフランツ・ヨーゼフ1世のそばから離れ、小旅行に出向くことが多くなりました。
ルドルフは1881年、ベルギー王女と政略結婚しましたが、夫婦生活は悪く冷え切っておりました。保守的な父帝と違い、自由主義的なルドルフ皇子は、女優や娼婦と交遊をおこないましたが、決して政治的に無能ではなく、単に父にはない漸進的な部分があり、父とは相容れられないだけだったのです。1888年、ルドルフは外交官だった男爵の令嬢、マリー・フォン・ヴェッツェラ(1871-1889)と禁断の愛を育んだことで父帝の怒りを買いました。翌1889年1月30日、ルドルフは狩猟館マイヤーリンクにおいて、マリーとピストルで心中、絶命しました。これが多くのナゾを生んだマイヤーリンク事件です。
帝位継承者を失ったフランツ・ヨーゼフ帝は悲嘆を隠せず、「この世では、あらゆるすべてが私の中から奪われていく」と発したとされています。やむなく次の帝位継承者として弟のカール・ルートヴィヒ大公を指名したが、彼も1896年に病死、彼の息子フランツ・フェルディナント(1864-1914)を推しました。
そして1898年、フランツ・ヨーゼフ1世の最大の衝撃が起こります。この頃はウィーンでは全く姿を現さなくなった妃エリザベートが旅行先のスイスのジュネーヴ湖畔で刺殺体となって発見されたのです。犯人はイタリアの無政府主義者でした。エリザベートはルドルフが没して以降、その死に悲嘆、常に喪服を手放しませんでした。エリザベートが暗殺されるにあたって、窮屈だったハプスブルク家の縁を切られることに不満はありませんでしたが、唯一心残りだったのは、愛児ルドルフを母后に預けることなく、母の手で育てたかったことでした。しかし、皇后の思いとは裏腹に、フランツ・ヨーゼフ1世は、常に皇后を愛し、片時とて忘れることがなかっただけに、彼女の死は子ルドルフ以上に落胆したのです。
マクシミリアンの処刑からふりかかった皇帝の不運は、"呪われたハプスブルク"に取って代わりました。これを象徴するのが、フランツ・フェルディナント皇太子夫妻の暗殺、いわゆるサライェヴォ事件(1914.6.28)です。エリザベートの死により、フランツ・ヨーゼフ1世がこれまで以上に政務に没頭することができ、ドイツと同盟を組んで強いオーストリアを目指す最中の出来事でした。しかしすでに多くを失ったフランツ・ヨーゼフ帝に、もはや驚きはなく、サライェヴォ事件によって引き起こされた第一次世界大戦(1914-18)の戦局を案じていました。しかし、勝敗を見届けることなく、フランツ・ヨーゼフ1世は1916年11月11日、86歳で没しました。
大戦での敗戦が決まると、帝位を継いだカール1世(位1916-18。フランツ・フェルディナントの甥)は為すすべなく退位し、二重帝国は解体、オーストリアは共和国となりました。メキシコ事件以降、惨劇を繰り返したハプスブルク家は名実ともに終焉を迎えたのでした。
『世界史の目 第113話』より
ハプスブルク家のオーストリア皇帝・フランツ・ヨーゼフ1世は、まさに激動の時代に生きた皇帝でした。生年がウィーン体制の反発期にあたり、フランスで勃発した七月革命(1830)によってウィーン体制は揺さぶられて、同体制の主導国だったオーストリアも隣国の反乱などで手を焼いた年です。また帝位についた1848年というのは、フランス二月革命(1848)の影響で自由主義者や民族主義者がウィーン体制の崩壊運動を勃興させ(諸国民の春)、同年ドイツで三月革命が起こり、ウィーン暴動が起こった年です。さらに5月にはフランクフルト国民議会ではドイツ統一の論争が勃発してプロイセン中心の小ドイツ主義が、オーストリア中心の大ドイツ主義に勝つなど大嵐のような年であり、オーストリアの帝室は憂き目の連続でした。当時18歳のフランツ・ヨーゼフはその年の12月2日に即位したのです。
フランツ・ヨーゼフ1世はその後ヴィッテルスバハ家(バイエルン)のエリザベート(1837-1898)と結婚しました(1854)。"シシィ"の愛称で知られるエリザベート王妃は宮廷でも一、二を争う美女で、同じバイエルン出身で、フランツ・ヨーゼフの母后ゾフィー(1805-1872)も妬むほどでありました。2人の間には、4人の子どもに恵まれました。長女ゾフィー・フリーデリケ(1855-57)は2歳の時に夭逝しましたが、次女ギーセラ(1856-1932)は後にバイエルン公へ嫁ぎ、三女マリー・ヴァレリー(1868-1924)はトスカナ公へ嫁ぎました。男子は、ギーセラとマリーとの間に長男ルドルフ(1858-89)がおり、帝位継承者として期待が寄せられていました。
また、フランツ・ヨーゼフ1世の兄弟に目を向けると、彼は長男で、2歳年下の弟にフェルディナント・マクシミリアン(1832-1867)、さらに弟カール・ルートヴィヒ(1833-1896)、妹マリア・アンナ(1835-40)、弟ルートヴィヒ・ヴィクトール(1842-1919)らがいました。また伯母にはナポレオン・ボナパルト(1769-1821)に嫁いだマリ・ルイーズ(1791-1847)がおり、伯父が前皇帝のフェルディナント1世(帝位・ハンガリー王位1835-1848。ハンガリー王ではフェルディナント5世)です。
即位したばかりのフランツ・ヨーゼフ1世は、ロシアの協力などを得ながら、ウィーン暴動から派生したハンガリー暴動、ベーメン暴動など次々と鎮圧し、"血で染まった若き皇帝"の異名が付けられ、中央集権的威厳を轟かせましたが、イタリア統一戦争(1859.4-59.7)での激戦地、ソルフェリーノでの敗戦、また普墺戦争(1866。プロイセン・オーストリア戦争)ではたった7週間でビスマルク(1815-98)率いるプロイセンにあっさり敗北を喫するなど、皇帝の権威は失墜していく有り様でした。同1866年、オーストリアを盟主とするウィーン体制の要でしたドイツ連邦は解体、オーストリア抜きのドイツの諸領邦は、プロイセンを盟主として北ドイツ連邦となり(1867)、オーストリアは5月末、ハンガリーと二重帝国(1867-1918。オーストリア・ハンガリー二重帝国)となり、1804年に大公国から昇格したオーストリア帝国は、フランツ・ヨーゼフ1世の代を最後に、60年余の歴史に幕を下ろしました。しかしフランツ・ヨーゼフ1世は、二重帝国誕生後も皇帝として、帝室を守りました。
二重帝国成立から3週間後、フランツ・ヨーゼフ1世のもとへ、予期せぬ悲報が飛び込んできました。皇帝の弟、フェルディナント・マクシミリアンがメキシコで処刑されたのです(1867)。なぜオーストリア皇帝の弟がメキシコにいたのか、実はマクシミリアンはメキシコ皇帝マクシミリアン1世(位1864-67)として帝位についていたのでした。
溯ること1519年、メキシコはスペイン・ハプスブルク家(カルロス1世時代。1516-56)が差し向けた征服者コルテス(1485-1547)によって征服され、(メキシコ征服)、当時の文明・アステカは滅亡しました(1521)。その後スペインはユトレヒト条約(1713)によってハプスブルク家から手を離れますが、ナポレオン率いるフランスによってスペインが一時征服(1808-13)されるまでの約290年間、メキシコはスペイン領でした。フランスのスペイン征服によって、メキシコはスペインからの独立気運を高め、1821年、スペインから独立を果たしました(メキシコ独立。1822年帝政。24年共和政に移行)。
しかし情勢は不安定で、1836年テキサスが独立(1845。アメリカの一州へ)、1846年には米墨戦争(べいぼく。アメリカ・メキシコ戦争。1846-48)の敗戦で、1848年にカリフォルニア(1850年に州昇格)とニューメキシコ(1912年に州昇格)など国土の半分以上をアメリカに奪われ、1850年代はスペインを始めイギリスやフランスなどの外債に依存する羽目となり、利子ですら支払われない逼迫した財政状況でした。また国内でも帝政時代やサンタ・アナ独裁政権時代(大統領任1833-35,39,41-44,47,53-55)に守られた軍隊や教会ら保守派と、これらに反発したインディオ出身の司法家フアレス(1806-1872)ら自由主義派との内戦が過激になり(レフォルマ戦争。改革戦争)、結果自由主義派が勝利を収め、フアレスは亡命先のアメリカで臨時政府をおこし、1861年メキシコシティーに戻ってメキシコ大統領となり(任1861-63,67-72)、メキシコの民主化を目標に始動しました。
ところが、思わぬ横槍が入った。折しもアメリカは南北戦争(1861-65)が勃発し、忙殺されたアメリカ合衆国はメキシコに対して隙を見せ始めます。これに目をつけたのがフランスでありました。第二帝政となったフランスではナポレオン3世(位1852-70)の治世であり、国民の人気を維持するため、数々の対外遠征・侵略を行ってきました。ナポレオン3世は、フアレス大統領が行った外債利子不払い宣言を機に、1861年10月、メキシコへの武力干渉を決定、翌1862年、フランス・イギリス・スペインの三国が共同出兵しました(メキシコ出兵)。ナポレオン3世は、フランスの傀儡カトリック政権をメキシコにたてる腹づもりがありましたので、フアレス大統領の返済計画に了承したイギリスとスペインは撤退しても、フランスは共和政府を倒すため、その後も干渉を続けました。またレフォルマ内戦に敗北していた保守派は、フアレス政権打倒を目論んでいたためフランスに接近し始めます。1863年、遂にメキシコシティを占領したフランスは、フアレス政権を現在のシウダー・フアレス市に追いやることに成功、メキシコ保守派は以前の帝政に戻すことをフランスに提案、つまりナポレオン3世の傀儡カトリック帝国樹立に賛同したことで、メキシコ帝政が急ピッチで行われることになったのです。
ナポレオン3世はメキシコの新たなロボット皇帝として、オーストリアのフランツ・ヨーゼフ1世の弟であるマクシミリアンを推しました。ハプスブルク家はかつて"カトリックの帝国"として神聖ローマ帝国(962-1806)を支えた王家であったが、ナポレオンによって帝国を潰され、オーストリアに留まって復活の機会を窺うも、フランクフルト国民議会でドイツ統一論争に負け、もはや王家の名声はピークを過ぎていました。
ナポレオン3世はこれに付け入ったのでしょうか?古くは、フランス王家とハプスブルク家とは対立的関係であり、同じカトリック国である強国同士が、お互いに権力を拡大し合っていきましたが、1860年代では、国力はオーストリアよりフランスの方が上であり、過去の関係を利用しようとしたのであるのなら、ナポレオン3世にとっては、当時のハプスブルク家がメキシコ皇帝に適任だったと考えたのではないのでしょうか?伯父ナポレオンのおこないに対する謝罪の気持ちを表しながら、今一度ハプスブルク帝国の復興、カトリック帝国の復活をハプスブルク家に思い起こさせようといった悪知恵が働くのも自然な発想だとされますが、真実はわかりません。
ただ、マクシミリアンの妻シャルロッテ(1840-1927)は、フランツ・ヨーゼフ1世の妃エリザベートとは対立的で、母后ゾフィーに依っていました。バイエルン出身のエリザベートがオーストリア皇后であることによる嫉妬があり、シャルロッテ自身は、父がベルギー国王であり、さらに祖父はフランス七月王政を支えたルイ・フィリップ(1773-1850。位1830-48)です。当然、エリザベートよりも高身分を主張していたシャルロッテは、フランスからのメキシコ皇后としての誘いを疑念と感じつつも前向きでありました。マクシミリアン自身も野心があり、仲が良いと言いながらも常に兄に勝ちたいという意識は捨てず、皇帝の座をいち早く獲得したかったのです。結局マクシミリアンは、メキシコ国民の同意を得ることを条件に、ナポレオン3世からの要請を受け入れることになり、ナポレオン3世の本当の狙いを知らないマクシミリアンはマクシミリアン1世としてメキシコ皇帝につき、シャルロッテはメキシコ皇后となります。これまで仲の良かった兄フランツ・ヨーゼフ1世も彼を見限り、関係は破綻、マクシミリアンのオーストリア・ハンガリー帝継承権を放棄させました(フランツ・ヨーゼフ1世はルドルフに継承権を与えることになるのです)。ナポレオン3世は、メキシコ保守派に、強引な方法で、メキシコ国民にマクシミリアン即位の同意を得させました。
メキシコ皇帝に即位したマクシミリアン帝は、即位前から、皇帝としての野望を存分に発揮しようと考えていました。自身の国を造ることを前提に、外債利子不払い、教会財産の没収や保守派の特権剥奪案など、極端な自由主義的独裁政策を施そうとしました。これは、シウダー・フアレス市に追いやられたフアレスの政策と全く同じ行いでありましたので、保守派から疎まれ、ナポレオン3世も動揺しました。さらに、フアレスに入閣させ、首相就任を打診しましたが、フアレスはマクシミリアン帝がフランスの傀儡政権であることと、反帝主義であることから、マクシミリアン帝の受け入れを拒否し、南北戦争を終えたアメリカの援助を受けて抵抗しました。このことから、マクシミリアン帝はメキシコ全国民から敵視されるようになり、人望を失いました。
やがて普墺戦争でマクシミリアン帝の母国オーストリアは大敗、ビスマルク・プロイセンの次の矛先がフランスへ向けたことで、ナポレオン3世は、メキシコに駐留していた自国の軍隊をフランスに戻させ、プロイセン戦の準備に入りました(フランスのメキシコ撤退。1867.2)。メキシコ駐留軍は、マクシミリアン即位後、頻繁に起こっているメキシコ兵のゲリラ抵抗に悩まされており、しかも疫病蔓延が重なって、続行不可能な状態でした。ナポレオン3世は、マクシミリアン帝を見捨てて、軍の撤退を叫びました。こうして、メキシコにフランス軍は消え、帝室は数少ないオーストリア義勇軍によって守られるだけでした。唯一の光でありました、シャルロッテ皇后の父が国王をつとめるベルギーも、国王病没により助けが途絶えて、遂にシャルロッテは発狂し、その後祖国ベルギーに戻って幽閉され、60年後の1927年に没しました。
1867年5月、遂にメキシコはフアレス軍の手に落ちました。マクシミリアン帝は捕虜となり、フアレス軍が樹立した臨時政府によって帝位は剥奪されて、マクシミリアンは6月19日銃殺刑に処されました。印象派画家マネ(1832-83)が描いた『マクシミリアンの処刑』を見れば分かりますが(こちら。wikipediaより)、威風堂々とした姿のまま撃たれています(「顔だけは撃たないでくれ」と嘆願して執行人に金貨を渡すも、受け入れられなかったといわれています)。メキシコ政策に失敗したナポレオン3世は、フランス国民の人気も下がり、プロイセンとの戦争にも負けて(プロイセン・フランス戦争。普仏戦争1870.7-1871.2)、プロイセン軍にスダン(セダン)で捕まり、第二帝政を終わらせてしまうことになるのです。
オーストリア・ハンガリー皇帝の弟が海の向こうで顔を撃ち抜かれて処刑されたというショッキングな事件は、ハプスブルク家にとっては精神的打撃でした。フランツ・ヨーゼフ1世はメキシコ帝に就いた弟を快く思いませんでしたが、フランスに見殺しにされ、処刑されたことで、彼の死を深く嘆きました。しかし、その涙が乾く間もなく、フランツ・ヨーゼフ帝に次々と事件が襲いかかりました。
エリザベートは、子ルドルフの養育を母后ゾフィーに横取りされ、ハプスブルク家の儀式・礼儀・慣習を窮屈に思うようになっていきました。皇帝との夫婦生活においても何かとゾフィーが干渉することになり、徐々にフランツ・ヨーゼフ1世のそばから離れ、小旅行に出向くことが多くなりました。
ルドルフは1881年、ベルギー王女と政略結婚しましたが、夫婦生活は悪く冷え切っておりました。保守的な父帝と違い、自由主義的なルドルフ皇子は、女優や娼婦と交遊をおこないましたが、決して政治的に無能ではなく、単に父にはない漸進的な部分があり、父とは相容れられないだけだったのです。1888年、ルドルフは外交官だった男爵の令嬢、マリー・フォン・ヴェッツェラ(1871-1889)と禁断の愛を育んだことで父帝の怒りを買いました。翌1889年1月30日、ルドルフは狩猟館マイヤーリンクにおいて、マリーとピストルで心中、絶命しました。これが多くのナゾを生んだマイヤーリンク事件です。
帝位継承者を失ったフランツ・ヨーゼフ帝は悲嘆を隠せず、「この世では、あらゆるすべてが私の中から奪われていく」と発したとされています。やむなく次の帝位継承者として弟のカール・ルートヴィヒ大公を指名したが、彼も1896年に病死、彼の息子フランツ・フェルディナント(1864-1914)を推しました。
そして1898年、フランツ・ヨーゼフ1世の最大の衝撃が起こります。この頃はウィーンでは全く姿を現さなくなった妃エリザベートが旅行先のスイスのジュネーヴ湖畔で刺殺体となって発見されたのです。犯人はイタリアの無政府主義者でした。エリザベートはルドルフが没して以降、その死に悲嘆、常に喪服を手放しませんでした。エリザベートが暗殺されるにあたって、窮屈だったハプスブルク家の縁を切られることに不満はありませんでしたが、唯一心残りだったのは、愛児ルドルフを母后に預けることなく、母の手で育てたかったことでした。しかし、皇后の思いとは裏腹に、フランツ・ヨーゼフ1世は、常に皇后を愛し、片時とて忘れることがなかっただけに、彼女の死は子ルドルフ以上に落胆したのです。
マクシミリアンの処刑からふりかかった皇帝の不運は、"呪われたハプスブルク"に取って代わりました。これを象徴するのが、フランツ・フェルディナント皇太子夫妻の暗殺、いわゆるサライェヴォ事件(1914.6.28)です。エリザベートの死により、フランツ・ヨーゼフ1世がこれまで以上に政務に没頭することができ、ドイツと同盟を組んで強いオーストリアを目指す最中の出来事でした。しかしすでに多くを失ったフランツ・ヨーゼフ帝に、もはや驚きはなく、サライェヴォ事件によって引き起こされた第一次世界大戦(1914-18)の戦局を案じていました。しかし、勝敗を見届けることなく、フランツ・ヨーゼフ1世は1916年11月11日、86歳で没しました。
大戦での敗戦が決まると、帝位を継いだカール1世(位1916-18。フランツ・フェルディナントの甥)は為すすべなく退位し、二重帝国は解体、オーストリアは共和国となりました。メキシコ事件以降、惨劇を繰り返したハプスブルク家は名実ともに終焉を迎えたのでした。
『世界史の目 第113話』より
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posted by ottovonmax at 00:00| 歴史