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2018年12月03日

12月3日は何に陽(ひ)が当たったか?

 311年12月3日は、ローマ帝国(B.C.27-A.D.395)の皇帝、ディオクレティアヌス帝(位284-305)の没年月日です。

 3世紀のローマ帝国は軍人皇帝時代(235-284)と呼ばれ、専横化した各属州の軍隊が皇帝を擁立して争っていました。軍人皇帝の統一策は無定見であり、富裕層からは土地を没収し、軍人たちを昇級させました。また軍事力偏重により、一方では古代イランのパルティアとの戦いに明け暮れ、一方ではゲルマン人の侵入に悩まされました。政治・経済・軍事・社会すべてにおいて、不安定な時代でした。
 また奴隷制度に基づく大土地経営(ラティフンディア)にも変化が生じました。帝政になって以降、奴隷人口が減少しつつあったローマでは、奴隷を使用する非効率的な経営が見直され、徐々に奴隷は解放されていき、解放された奴隷の中には平民の地位まで向上する者も出ました。よって労働力は何も奴隷だけに限ることはなくなり、自由農民によっても補えました。やがて、解放奴隷や自由農民たちを、コロヌスと呼ばれる小作人として大農地労働につかせました。コロヌスは土地とともに売買され、地主に隷属する身分であり、ここにコロナートゥス制度が確立、農奴制の先駆となりました。
 さらに市民は、軍人皇帝の偏重的な軍政によって、さらなる圧迫を受け続けました。おりからのパルティア軍やゲルマン人との対戦によって、軍事力強化を主張した皇帝は、その搾取を市民に求め、多大な重税を課しました。経済的に行き詰まった市民は重装歩兵として軍隊を組むのが難しくなり、代わって報酬契約で雇われた傭兵隊が組まれていくことになるのです。

 社会変化にともない、帝室では皇帝権力を強める傾向が出て、ユピテル(英語名ジュピター)神の体現者と称し、神的権威を持つ皇帝、ディオクレティアヌスの即位によって、遂に軍人皇帝時代を終わらせました。もともとディオクレティアヌス帝も軍人皇帝時代の擁立形式と同様であり、ニコメディア(現トルコのイズミット)で軍隊に推されて即位しましたが、その後皇帝崇拝主義を取り、ローマ市民は臣民として皇帝に対し跪拝の礼を行わせ、ローマ皇帝としての尊厳を高めました。これは、東方オリエント、特にペルシアの宮廷儀礼を応用したと思われます。
 また広大な帝国であるがゆえ、元の同僚を副帝、ついで正帝に任命して帝国を東西に分け、さらに2人の副帝をたててテトラルキア体制(四分統治制)を成立させた。これにより、各地の軍隊の勢力は薄れていきました。ちなみにディオクレティアヌス帝は東の正帝であった。

 ディオクレティアヌス帝の改革はさらに進みました。全域を4道・12管区・100余の属州に区画整理し、それぞれの代官・総督を皇帝が任命しました。経済政策では税制の統一化、物価騰貴の統制、また皇帝崇拝主義政策の一環としてキリスト教徒の大迫害を行った(303)。彼の帝政によって専制君主的な権力が定着したことで、彼以降のローマ帝政はドミナートゥス(専制君主政)と呼ばれたのです。305年に体調不良で退位し、311年12月3日に没しました。

引用文献:『世界史の目 第111話』より

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