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2018年12月20日
12月20日は何に陽(ひ)が当たったか?
シーラカンスは今から約4億1600万年前から約3億5920万年前、いわゆる古生代のデボン紀においては、乾季が原因で水中の酸素濃度が低い環境だったこともあり、このシーラカンスやハイギョなど、肺機能を持った魚が登場し始めました。今から約6550年前の中生代の白亜紀(ドイツ語でKreide)末期から新生代の古第三紀(英語でPaleogene)のちょうど間の時期に、巨大隕石の落下などによる恐竜などの大型動物をはじめ、大量の古代生物が絶滅した、"K-Pg境界"と呼ばれる事件があり、シーラカンス目もすべて絶滅したと思われていました。
1938年12月22日、に南アフリカ・東ケープ州のカルムナ川河口で、漁船の網にかかった5フィート(約150cm)もある魚を発見しました。南アフリカの女性博物館員、Marjorie Courtenay-Latimer(マージョリー・コートニー・ラティマー。1907-2004)は「虹のような光沢、固い鱗、足のような4本のヒレ、子犬のような尾」と表現しました。コートニー・ラティマー氏はこの魚をタクシーに乗せて博物館に運び、生物学書で調べますが、どの魚とも特定ができませんでした。彼女は 魚類学者のJ. L. B. Smith(J.L.B.スミス。1987-1968)に見せたところ、1939年2月においてこの種がシーラカンスの現生種であると特定され、スミス氏はこの現生種をLatimeria chalumnae(ラティメリア・カルムナエ)と命名しました。Latimeriaはコートニー・ラティマー(Courtenay-Latimer)氏の名から、chalumnaeは発見地のカルムナ川(Chalumna)の名から取られました。コートニー・ラティマー氏と、当時発見されたシーラカンスの写真はこちらです(Wikipediaより)。
そして陽の当たった1952年12月20日、モザンビーク海峡にある、コモロ諸島のアンジュアン島(ジョハンナ島)付近でシーラカンスが発見されました。スミス氏が駆けつけると、第一背びれが見当たらなかったため、コートニー・ラティマー氏の発見したラティメリア・カルムナエではないとそいて別の名を考えていましたが、学術調査が徹底的に行われて、結果的には背びれが欠損したラティメリア・カルムナエであると決着しました。この陽の当たった12月20日は、シーラカンスの日として讃えられています。
その後、シーラカンスは1997年9月18日、インドネシア中部にあるスラウェシ島北東岸のメナド(Manado。マナド。北スラウェシ州の州都)で新種のシーラカンスが発見され、"Latimeria menadoensis"と名付けられました。
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2018年12月19日
12月19日は何に陽(ひ)が当たったか?
1066年ノルマンディー公国(911-1259)によるノルマン・コンクェスト以降でのノルマン朝(1066-1154)は、イングランドでは国王であり、ノルマンディーではフランス王の臣下という立場でした。ノルマンディー公は西フランク王国(843-987)の封建臣下であったが、ほとんど形式のみで、実質は自立傾向にありました。西フランク王国も987年、カロリング王統が絶え、パリ伯のユーグ・カペー(位987-996)によってカペー朝(987-1328)がおこされ、パリを首都にフランス王国が誕生した頃には、その臣下のノルマンディー公国は、フランス王権の弱さにつけ込み、フランス王の統制を無視することも多くなっておりました。その後、ノルマン朝の3代目国王ヘンリ1世(位1100-1135)は、内政改革によって諸侯の支持を獲得、王権を強化し、イングランドにおけるノルマンディー公国併合を実現させました。
その後、ヘンリ1世の娘マティルダ(1105-1167)は、フランス西部のアンジュー家から出たジョフロワ(アンジュー伯位1129-1151。ノルマンディー公位1144-1150)と結婚、さらに子アンリ(1133-89)は、母マティルダからイングランドとノルマンディーを、父ジョフロワから大陸のアンジュー伯領を相続、そして1150年にノルマンディー公となり(位1150-1189)、4代目国王スティーヴン(位1135-54)のあと、陽の当たった1154年12月19日にイングランド王を継ぎ(王位1154-1189)、ヘンリ2世としてプランタジネット朝を開いたのです(1154-1399)。
その後プランタジネット朝のヘンリ2世は、フランスの西半分に相当する広大な所領を持ち、アンジュー帝国とも呼ばれる大国を実現しました。イギリス国内ではフランス国王と対等の王としつつ、フランス臣下のアンジュー伯という複雑な立場でした。こうした複雑な英仏情勢であるがために、カペー朝に始まり、その後ヴァロワ朝(1328-1589)、ブルボン朝(1589-1792,1814-30)へと続くフランス王国と、ノルマン朝に始まり、その後プランタジネット朝、テューダー朝(1485-1603)と続くイングランド王国との関係は次第に深くもつれていき、領土や王位などの継承抗争に巻き込まれ、これが百年戦争(1339-1453)や植民地戦争といった発展形を出現させていくのでした。ノルマン・コンクェストによって変化した西欧世界は、これから長く続く英仏対立を中心として、新たな国際関係の歴史が繰り広げられることになるのです。
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2018年12月18日
12月18日は何に陽(ひ)が当たったか?
美声を持った歌唱で、"Everybody's Talkin'(邦題:うわさの男)"や"One(邦題:ワン)"など、60年代後半に多くのヒット曲を世に送り出したHarryは、7枚目のアルバム"Nilsson Schmilsson(邦題:ニルソン・シュミルソン)"の制作を構想しました。Harryは収録に入れる曲を模索している間、ふと耳に入ってきた楽曲を気に入りましたが、この曲が"Without You"で、歌っていたのはイギリス・ウェールズのロック・バンド、Badfinger(バッドフィンガー)でした。
Badfingerの"Without You"はメンバーのPete Ham(ピート・ハム。vo,gtr,key)とTom Evans(トム・エヴァンズ。bass,vo)によるもので、The Beatles(ビートルズ)が設立したアップル・レコードに所属しており、1970年にリリースされたアルバム"No Dice(邦題:ノー・ダイス)"収録の楽曲でした。このアルバムから"No Matter What(邦題:嵐の恋)"はBillboard HOT100シングルチャートで8位を記録した他、本国でもUKシングルチャート5位を記録して、人気グループとなっていました。
Harryはこの"Without You"をカバーとして"Nilsson Schmilsson"に収録し、"Nilsson"名義でアルバムをリリース、"Without You"がシングル・カットされました。Harryらしくシンプルで聴きやすいのは言うまでもありませんが、切ない歌詞、Harryの透きとおり且つ哀愁漂う美しい歌声、そしてGary Wright(ゲイリー・ライト。1975年の大ヒット作"The Dream Weaver"で知られる)の奏でるピアノが見事に調和して、ドラマティックなバラードに仕上がり、Harryらしさに圧倒的な完成度が加わった、最高のバラードとなったわけです。
陽の当たった1971年12月18日付HOT100で99位と、最下位一歩手前でエントリーした"Without You"は、長い道のりで上昇をたどるかと思いきや、76位→68位→54位、そして5週目にして36位とTop40入り、続いて21位→14位とハイスピードでTop10を狙う位置に付き、"Everybody's Talkin'"が1969年10月11日付で記録した、Harryの過去のキャリアでの最高位である6位に近づいてきました。1972年2月5日付にあたる翌週、なんと"Everybody's Talkin'"を飛び越える5位へジャンプアップして自身2曲目のTop10入りを果たし、3位をはさみ、2月19日付から4週連続で、Harry初の全米1位を記録したのです。3月18日付より4位と下降し、6位→7位→17位→27位→51位と後退しましたが、合計19週チャートイン、Top40内14週という見事な大ヒットでした。オーストラリアやカナダ、アイルランドのシングルチャートでも1位、UKチャートでも1位で、英語圏での強さが光りました。当然ながらバラードに強いBillboard Adult Contemporaryチャート(当時はEasy Listening)でも1位を獲得しています。
各チャートにおいて大健闘した"Without You"でしたが、結果的に1972年の全米Year-Endチャートでも4位を獲得、他国でのYear-Endチャートは軒並み上位を獲得しました(イギリス4位、オーストラリア2位)。このヒットでHarryは1973年のGrammy AwardにおけるBest Male Pop Vocal Performanceにもノミネートされ、Gilbert O'Sullivan(ギルバート・オサリヴァン)の"Alone Again (Naturally)"や Don McLean(ドン・マクリーン)の"American Pie"といった強豪を押しのけて見事受賞し、"Without You"は後世に残る不朽の名作として残りました。
アルバム"Nilsson Schmilsson"からは"Coconut"と"Jump Into the Fire"もカットされ、前者は1972年8月26日付で8位、後者は1972年4月29日付で27位を記録、アルバム"Nilsson Schmilsson"もBillboard200アルバムチャートでは1972年4月1日付から3週連続で3位を記録しています。
1994年1月24日、Mariah Carey(マライア・キャリー)が"Without You"をカバーし、3月19日付より6週連続で3位を記録しましたが("Never Forget You"とカップリング)、リリースから9日前の1月15日、HarryはMariahの完成を見ることなく、52歳でこの世を去りました。
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2018年12月17日
12月17日は何に陽(ひ)が当たったか?
ヨーロッパのウィーン体制が確立されたことで、かつてナポレオン(1769-1821)が発令した大陸封鎖によって、ヨーロッパ本国、特にスペインやポルトガルとの連絡が絶えたことで、自立化が促進されたラテン・アメリカ(メキシコ以南の中南米)は、大陸の先住民(インディオ)、植民地生まれの白色人種(クリオーリョ)、先住民と白人の混血(メスティーソ)、白人と黒人の混血(ムラート)、奴隷貿易で大陸を渡ってきたアフリカ出身の黒色人種といった住民構成でした。
ブラジルはポルトガル領でしたが、それ以外のほとんどのラテン・アメリカ諸国はスペインの海外領土でした。スペイン領植民地では、本国から派遣され特権を付与された特定の官僚や商人が(彼らは"ガチュピン"と呼ばれました)、実権を掌握してクリオーリョらを搾取しました。元来ラテン・アメリカ諸国は本国からの圧政に不満を持っており、1804年カリブ海エスパニョラ島にある、フランス領だったハイチが、強力化していくナポレオン支配を振り切って独立したことで、各ラテン・アメリカ諸国の独立熱は次第に高まり、また1808年にスペインがナポレオンの支配下におかれたため、独立運動はさらに急加速し始めました。こうした中で、フランシスコ・ミランダ(1756-1816)とシモン・ボリバルによる出身地ベネズエラでの独立宣言を皮切りに、各地で次々と独立国が誕生していきました。
ボリバルは、クリオーリョを支持基盤とし、奴隷解放宣言によってメスティーソやムラートらの支持を加えて運動規模を拡大し、ベネズエラ(1811)、コロンビア(1819)、ボリビア(1825。"ボリバル"に由来)を解放・独立させました。
ボリバルはコロンビアをスペインから解放したあと、ベネズエラやエクアドル、パナマを含む大コロンビア共和国を樹立して、陽の当たった1819年12月17日に大統領に就任しました(大統領任1819-30)。
1825年のボリビア独立においても大統領に就任(任1825)しますが、のちに大コロンビアからベネズエラやエクアドルが分離独立へと進んでいき、大コロンビア構想は瓦解、失意の内にシモン・ボリバルは大統領を辞任、引退し、1830年、コロンビアのサンタ・マルタ近郊で没しました。奇しくも、陽の当たった大コロンビア共和国大統領に就任した、12月17日が命日となりました。
参考文献『世界史の目 第73話』より
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2018年12月16日
12月16日は何に陽(ひ)が当たったか?
1620年、イギリス国王ジェームズ1世(位1603-25)の抑圧を離れようとしたピューリタン(清教徒)の一団・ピルグリム・ファーザーズ(102名。非清教徒もいた)は、信仰の自由を求めて、小帆船メイフラワー号で渡航し、プリマス(ボストン東南)に上陸、植民地建設を始めました。1629年にはマサチューセッツ植民地を建設しはじめ、北東海岸部一帯はニューイングランドと呼ばれて、自治をおこして植民地議会(最初の議会はヴァージニア。1619年)を作りました。最終的には1732年にジョージアが建設されて、計13の植民地が完成しました。13植民地の中には、1632年に建設されたメリーランド、1664年にオランダのニューネーデルラント植民地をイギリスが奪った植民地ニューヨーク、クェーカー教徒のウィリアム・ペン(1644-1718)により建設されたペンシルヴァニアなどがありました。植民地住民は自治・議会を通して、宗教的・政治的・経済的自由に関する発言権を増大させていき、本国イギリスからの移住者も増加傾向になっていきました。
イギリス本国は利益を重んじる重商主義政策をしき、植民地は原材料供給の場とし、本国においては貿易振興・産業保護の形態をとりました。また航海法(1651)で本国と植民地間の貿易をイギリス船に限定させてから、重商主義政策はその後も羊毛品法(1699 植民地の羊毛製品輸出禁止)・帽子法(1732ビーバー皮製帽子輸出禁止)・糖蜜法(1733 本国以外から植民地に輸入される糖蜜に高関税)・鉄法(1750 製鉄品法。植民地の工場・溶鉱炉増設禁止)と展開し、結局は本国の産業保護に対する植民地の産業制限というように、植民地側は自由を奪われていきました。イギリスの重商主義政策はさらに勢いを増し、糖蜜法を修正した砂糖法(1764他国領から植民地に輸入される砂糖に重税)を発表、植民地側は徐々に本国の政策に不満を高めていきました。しかし、本国は植民地への圧迫を怠らず、極めつけとされる印紙法(Stamp Act。1765)で、植民地人の抵抗はいっきに爆発しました。
印紙法は商業取引の証書、法律上の書類、また植民地で発行される新聞・パンフ・トランプなどに印紙を貼らせて税収入を増やすために作られたので、植民地人の生活・社会・文化に大きく影響し、猛烈な反対運動を引き起こしたのです。翌1766年には印紙法は撤廃されましたが、植民地議会ではその後も本国政府に対することで議論していきました。植民地は本国議会に代表を送っていないわけであり、同意のない課税は認められないとし、本国政府は植民地側に課税することは間違いであると唱え、「代表なくして課税なし」の言葉が植民地中に飛び交いました。
印紙法の替わりとして、本国は1767年、蔵相チャールズ・タウンゼンド(1725-67。蔵相任1766-67)の提案でガラス・ペンキ・紙・鉛・茶の課税を定めました。しかしこれに関しても本国製品の不買運動などで茶税以外は撤廃となりました。反対派の運動はエスカレートし、マサチューセッツで1770年、反対派を抑えようとした本国の軍隊と、ボストン市民が衝突し、5人の市民が虐殺される事件が起こりました。
1773年、本国議会は、茶税に関して修正し、イギリス東インド会社に限ってアメリカ植民地へ輸出する茶の税を免除、つまり直送とし、同社には茶の独占販売権を与えたのです。これを茶法(Tea Act)といいます。当然のことながら植民地側の商人、その中でもボストンの急進派市民は猛反対しました。そして陽の当たった同年12月16日、ボストンの急進派市民はネイティブアメリカンに変装し、ボストン港に入港していた東インド会社船を襲撃、茶の積み荷342箱を海中に投げ込みました。ボストン港の海が茶に染められた、このボストン・ティーパーティー(ボストン茶会事件)によって、本国政府は、報復として植民地側の高圧的に弾圧することに転じ、ボストン港封鎖・マサチューセッツ自治権剥奪・軍隊駐屯・移住制限などの4つの強制条例を発したのです。
1774年9月、植民地の代表は、本国政府に抗議するべく、かつてウィリアム・ペンが建設したフィラデルフィアに結集し、第1回大陸会議を開き、通商の断絶を宣言したが、本国政府は無視を続けました。1775年には、もとヴァージニア植民地議会議員パトリック・ヘンリ(1736-99)がリッチモンドでの非合法の協議会で、「自由か、しからずんば死を与えよ」という”自由か死か”の演説で開戦の不可避を説きました。現地住民、特に農民は民兵団を組織して、1分間の予告ですぐに戦闘態勢にうつれるよう(ミニットマン)、準備を始めました。
1775年4月18日、イギリスのトマス・ゲージ将軍(1719-87)が、ボストン郊外のコンコードで、同地の農民が武器弾薬庫を作っており、そこには大量の武器が貯えてあるとの情報をかぎつけ、700人の部隊を派遣し、武器接収に乗り出しました。捜索を済ませた本国軍は、帰る途中のレキシントンで、ミニットマンと衝突、ミニットマンはゲリラ銃撃を浴びせました(レキシントンの戦い)。実は最初の発砲はどちら側か明らかではありませんでしたが、植民地側は本国側がしかけたものとして発表し、それぞれの植民地中にこのことを広め、植民地人を奮い立たせていきました。5月にはフィラデルフィアで第2回大陸会議が開かれて、大陸軍が組織されて最高司令官にジョージ・ワシントン(1732-99)が任命されました。戦争が進み本国イギリスとの和解は薄れていく中で、次第に独立の意識が高揚し、戦争は文字通りの独立戦争となっていったのでした。
引用文献:『世界史の目 第11話』より
アメリカ人の物語8 独立戦争へ至る道: 青年将校 ジョージ・ワシントン7 アメリカ独立戦争(ボストン茶会事件・レキシントン=コンコードの戦い) (歴史世界叢書) |
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2018年12月15日
12月15日は何に陽(ひ)が当たったか?
アウグストゥス(オクタヴィアヌス。位B.C.27-A.D.14)没後、2代皇帝ティベリウス(位14ー37)、3代皇帝カリグラ(ガイウス。位37ー41)、4代クラウディウス(位41ー54。カリグラの叔父)と、ユリウス・クラウディウス家から古代ローマ帝国皇帝に次々に即位しました(ユリウス・クラウディウス朝。B.C.27-A.D.68)。
クラウディウス帝は先帝カリグラが41年暗殺されて即位した皇帝で、自身も殺害されるという恐怖感に満ちた統治生活を余儀なくされました。4度結婚しましたが、3人目のメッサリナ(23ー48)といたときは、まさしく彼女に振り回された時代でした。皇帝の恐怖と警戒を利用して、メッサリナは多くの敵とみなした人物を死に至らしめていきました。
メッサリナは48年に自身の不倫問題で処刑されますが、クラウディウス帝はアウグストゥス帝の曾孫アグリッピナ(小アグリッピナ。カリグラの妹。15ー59)と結婚しました(41)。アグリッピナはそれまで結婚しており、前夫(39年病没)との間にできたのがネロです。
クラウディウス帝とメッサリナとの間にオクタヴィア(40ー62)とその弟ブリタニクス(40ー55)がいました。養子となったネロは彼らとは義兄弟関係となります。皇位継承権を得たネロは、53年オクタヴィアと結婚しました。これらの背景には母アグリッピナの働きがありました。アグリッピナは、メッサリナと同様に悪妻として知られ、ネロに皇位を継承させるためにあらゆる策略を練ったとされます。ネロがブリタニクスより年長であっても、皇帝の実子はブリタニクスのため、皇位継承者はブリタニクスになると予感したアグリッピナは、ネロを、別の婚約者がいた姉オクタヴィアと結婚させて、ブリタニクスの完全な兄に仕立て上げました。オクタヴィアの婚約者はアグリッピナによって自殺させられたとも言われます。
54年、アグリッピナは遂に夫であるクラウディウス帝をも毒殺し、同年、16歳のネロを皇位につけさせることに成功しました(位54-68)。ネロの治世の初期5年間は、近衛隊長ブッルス(1?-62)や、もと元老院(ローマ帝国の最高機関)議員で、ストア哲学や修辞学を研究する家庭教師セネカ(B.C.1?ーA.D.65)らの後見を得、善政をしいていましたが、アグリッピナは、彼女自身による政権掌握を考えており、あくまでわが子である若きネロ帝に対しては、母親の指示するがままに統治すれば良いという志向でした。ネロがアグリッピナの指示を拒否すると、アグリッピナは、相姦でもってネロを誘惑するなど、あらゆる手段をとったとされます。やがてアグリッピナの思惑が表面化し、ネロは師セネカらと組んで対立しました。そこでアグリッピナはネロを廃位してネロの義弟ブリタニクスを擁立しようと考えました。ネロは55年、弟であるブリタニクスを毒殺、さらに59年、刺客をつかって実の母アグリッピナを刺殺しました。この頃から、ネロは暴虐・凶暴な性格を現わすようになります。
ネロの妻オクタヴィアは不妊症のため、夫婦関係も良くなかったとされます。母メッサリナ・父クラウディウス・弟ブリタニクスの死から来る恐怖と孤独に悩まされたオクタヴィアをよそに、ネロは旧友であり、のち69年に皇位につくオト(32〜69)の妻ポッパエア(30-65)と愛人関係にありました。62年、ネロはオクタヴィアに対し、不妊を理由に離婚を言いつけ、姦通の罪でオクタヴィアを処刑、その後人妻ポッパエアと結婚しました。義弟・実母・妃の殺害を貫いた帝の姿を見て、師セネカは身の危険を感じ引退しました。同年にブルルスが没したことで、ネロの良き指導者は姿を消し、ネロは悪臣のティゲリヌス(?-69)を重用、結果ローマの国政は大いに乱れました。皮肉にも後世では"パックス・ロマーナ(ローマの平和)"と呼ばれた、アウグストゥス帝から五賢帝末期までの約200年間の黄金期のさなかでした。ポッパエアは妊娠したが、65年、単純な理由による口論から、身重にもかかわらず、ネロによって腹を蹴り殺されたといわれています(諸説あり)。ポッパエア死後は、ポッパエアに酷似した解放男性奴隷(スポルス・サビナ)を去勢し、"侍女"として側近に置くなど、ネロの性格破綻はますます顕著になっていきました。
こうした中、64年にローマで大火がおこり、市の大半が焼失、これをローマ市民はネロ帝が"黄金宮殿"の建設を口実として放火したと噂するようになりました。この噂を抑圧するため、ネロ帝は当時増えつつあったキリスト教徒に目を向け、大火の責任を彼らに転嫁しました。この時代の皇帝は現人神(あらひとがみ)として崇拝(皇帝崇拝)する観念を重んじ、皇帝の権威を強力なものとしていました。崇拝を拒否すると謀反罪に問われるため、キリスト教徒は、常に標的となっていました。ネロ帝は皇帝崇拝を拒否するキリスト教徒を謀反とみなし、未曾有の大弾圧を行いました。歴史上初めてのキリスト教徒への大迫害です。キリスト教の始祖イエス(B.C.7/B.C.4?-A.D.30?)の十二使徒の1人ペテロ(?-A.D.64?)や、十二使徒ではないが伝道に尽力したパウロ(?-A.D.64?。"異邦人の使徒")らは、この迫害で殉教したと伝えられています。
ネロ帝の動向に困惑した元老院や軍隊は、彼を見限るようになりました。65年には元老院議員のネロ帝暗殺の陰謀が発覚し、これに加担した多数の人物を処刑しました。かつての師セネカも事件に関与したとされ、ネロに自殺を強要されて、死に至ったとされております。この事件によってネロ帝の恐怖政治はエスカレートし、属州(イタリア半島以外の征服地。総督や徴税請負人によって、属州民は束縛された)に重税を負担させ、富裕者から財産を略奪し、拒む者は処刑されました。ネロにかわる次期皇帝候補の人物も次々に殺していきます。66年には、A.D.6年から属州となっていたユダヤで、4年に及ぶユダヤ戦争(66-70)が勃発しましたが、総督による皇帝崇拝の強要、徴税請負人による重税賦課などからくるローマ帝国への怒りが大反乱となりました。その間、ネロはギリシア文化を好み、ギリシア旅行の際、オリンピアやデルフィの競技に強引に参加したほか、詩作や歌唱にも興じたりするなど享楽に耽っていました。
これによりネロ帝に対する信望は薄れ、68年、ガリア(現フランス地方)の総督が反乱を起こしました。これがヒスパニア(現スペイン地方)に波及し、同地のガルバ総督(B.C.3-A.D.69)が挙兵しローマに進軍しました。この年ガルバは皇帝即位の宣言を行い(位68-69)、元老院はこれを認め、ネロを"敵"とみなし、ネロ本人が不在のまま"死刑"を宣告しました。元老院、軍隊、市民から見放されたネロはローマを逃れ、同68年、"世界は偉大なる芸術家を死して失う"という言葉を残して、自殺を選んだのです(享年30歳)。これにより、アウグストゥス帝から続いたユリウス・クラウディウス朝は遂に断絶したのでした。
引用文献:『世界史の目 第38話』より
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2018年12月14日
12月14日は何に陽(ひ)が当たったか?
1948年から南アフリカでしかれていた人種隔離体制、いわゆるアパルトヘイト政策への問題提起を投げかけたアーチスト達が結集して、アルバム"Sun City(邦題:サン・シティ)"を制作、1985年12月7日にリリースされ、このアルバムからのタイトル・トラックがシングルとしてリリースされました。
アパルトヘイトが敷かれていた、南アフリカの白人専用の高級リゾート地であるサン・シティは、南アフリカの北西部、ボプタツワナ(1972-1994)と呼ばれる自治区域に属していました。この自治区域は、"バントゥースタン"と呼ばれて、南アフリカのネイティブを専用地域に追いやり、これを"ホームランド"と呼ばせて南アフリカ政府より独立を無理矢理承認させられるという、現代では考えられないような差別政策でした。生まれ故郷を追われ、強制的に移住させられた地を"ホームランド"と呼ばせることで、内外から大きく非難がおこりました。しかもこの地に白人が遊ぶためのレジャー・ランドを占有する当時のサン・シティがあったわけです。サン・シティのコンサート会場で多くの国際的に著名なミュージシャンが高額のギャランティで招かれたり、南アフリカでは避けられた風俗(たとえばストリップなどのショー)やカジノによる賭博なども盛んに行われました。
早くから、南アフリカでのアパルトヘイト政策を批判する運動は相次いでおり、中でも南アフリカの黒人運動家Steve Biko(スティーヴ・ビコ。1946-77)はよく知られています。スティーヴ・ビコによるアパルトヘイトに反対する学生運動やナショナリズム運動に率先して立ち上がりますが、彼は1977年に制圧されて亡くなりました。イギリスのミュージシャン、Peter Gabriel(ピーター・ガブリエル)による1980年リリースのアルバム"Peter Gabriel(邦題:ピーター・ガブリエルIII)"では、最後に収録された"Biko(邦題:ビコ)"は紛れもなくスティーヴ・ビコの事を歌ったものです。
そもそも楽曲"Sun City"は、Bruce Springsteen(ブルース・スプリングスティーン)のバンド、The E Street Band(Eストリート・バンド)のメンバーであるSteven Van Zandt(スティーヴン・ヴァン・ザント。リトル・スティーヴンの名で有名)が、Peter Gabrielの"Biko"を聴き感銘を受けてこれを書き、自身のアルバムに収録する予定だったものです。
80年代半ばは、Band Aid(バンド・エイド)の"Do They Know It's Christmas?(邦題:ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス?)"、USA for Africa(USA・フォー・アフリカ)の"We Are The World(邦題:ウィ・アー・ザ・ワールド)"といったチャリティ・ソングの制作や、大規模なチャリティ・コンサートである"Live Aid(ライブ・エイド)"やFarm Aid(ファーム・エイド)といった、音楽界のチャリティ・イベントが流行していました。入れ替わり立ち替わり、世界的にも著名なアーチストたちが歌い、奏で、パフォーマンスするわけで、リスナーにしても興奮度が高く、どれも好評を得てセールスも大きく伸びました。
Steven Van Zandtは、多くの著名なアーチストにも歌ってもらう方がメディアに伝わりやすいと考え、折しもチャリティが流行している1985年ということもあり、バンドのリーダー、Bruce SpringsteenやThe E Street Bandのサックス・プレイヤー、Clarence Clemons(クラレンス・クレモンス。1942-2011)ら、そしてBand Aid、Live Aidの提唱者であるBob Geldof(ボブ・ゲルドフ。アイルランドのパンク・バンド、The Boomtown Ratsのヴォーカリスト)らに呼びかけを行い、総勢50余組のミュージシャンが集まりました。"Biko"を歌ったPeter Gabrielも参加しました。
結果的に"Sun City"はチャリティ・ソングとして流行に乗った形でのリリースとなりましたが、"Do They Know It's Christmas?"や"We Are The World"といった馴染みやすい楽曲および歌詞に比べて、やや攻撃的とも受け取れることもあって、アメリカでのエアプレイはやや控えめだったものの、この曲によって南アフリカの当時の状況が理解できた人も多かったと思います。プロモーション・ビデオも制作され、当時の売れっ子ビデオ作家だった元10ccのKevin GodleyとLol Creme(いわゆるGodley&Creme)他で作られ、参加ミュージシャンの次から次へと登場して披露し、最後は全員で合唱するというチャリティ・シングル特有の場面が中心ですが、本作はこれに加えて、南アフリカの当時の現状を生々しく伝える衝撃的な映像も流れ、"Ain't gonna play sun city(訳詞:サン・シティでは演奏しない)"と強くアピールするのです。
"Ahh〜Sun City"のフレーズと大御所Miles Davis(マイルス・デイビス)のトランペットでイントロが始まり、各ミュージシャンのプレイが入れ替わり立ち替わり登場します。Run DMC(ランDMC)、Grandmaster Melle Mel(グランドマスター・メリー・メル)、Duke Bootee(デューク・ブーツィ)、Afrika Bambaataa(アフリカ・バンバータ)、Kurtis Blow(カーティス・ブロウ)、Big Youth(ビッグ・ユース)らのラップとともにStevenの"We gotta say I ain't gonna play sun city"と叫び、"I"の部分を全員で合唱します。ビデオの最初の合唱シーンではU2のBono(ボノ)やNona Hendryx(ノナ・ヘンドリックス)らがアップされ、Pete Townshend(ピート・タウンゼント。The Whoのギタリスト)のパフォーマンスとともに本格的な歌い継ぎが始まります。
順を追うと、David Ruffin(デヴィッド・ラフィン)、Pat Benatar(パット・ベネター)、Eddie Kendricks(エディ・ケンドリックス。彼とDavidはThe Temptationsのメンバー)、Bruce Springsteen、George Clinton(ジョージ・クリントン)、Joey Ramone(ジョーイ・ラモーン。Ramonesのヴォーカリスト)、レゲエ界の大御所Jimmy Cliff(ジミー・クリフ)、Daryl Hall(ダリル・ホール)、Darlene Love(ダーレン・ラヴ)、Bonnie Raitt(ボニー・レイット)、サルサ・シンガーのRubén Blades(ルーベン・ブレデス)、Joan Oates(ジョン・オーツ。彼とDaryl HallはHall & Oatesのメンバー)、Lou Reed(ルー・リード。The Velvet Undergroundを率いた)、Bobby Womack(ボビー・ウーマック)、ここで、冒頭のヒップ・ホップ・アーチストたちとStevenによるラップで"Boputhuswana is far away(訳詞:ボプタツワナは遠く離れた国だ)"と叫びます。
そしてJackson Browne(ジャクソン・ブラウン)と当時交際していた女優Daryl Hannah(ダリル・ハンナ)の"I"の合唱の後に、Jacksonと大御所Bob Dylan(ボブ・ディラン) の掛け合いで歌い継ぎが再開、Peter Garrett(ピーター・ギャレット。オーストラリアのバンド、Midnight Oilのメンバー)、Kashif(カシーフ)、Nona Hendryx、Bonoで歌は締めます。その後は"I ain't gonna play sun city"の大合唱、その中にはPeter Gabrielの参加や、The Beatles(ビートルズ)のドラマー、Ringo Starr(リンゴ・スター)とその子Zak Starkey(ザック・スターキー)と親子共演が見られたり、Peter Wolf(ピーター・ウルフ。1983年までthe J. Geils Bandの看板ヴォーカリストとして活躍)の、あの独特の拳をぐるぐる回すパフォーマンスが見られたり、パーカッショニストRay Barretto(レイ・バレット)のコンガ、ナイジェリアのミュージシャン、Sonny Okosun(サニー・オコスン)のトーキング・ドラム、そしてClarence Clemonsのサックスが見られたり等、ビデオではプロフェッショナルな演奏やパフォーマンスシーンも非常に見応えがあります。
他にもラストの合唱シーンでは、メイン登場ならずとも、多くのビッグネームのあるミュージシャンが登場しておりました。ジャズ界からはジャズ・ベーシストのRon Carter(ロン・カーター)、ジャズ・キーボーディストのHerbie Hancock(ハービー・ハンコック)、そして独特の奏法で有名なジャズ・ギタリストのStanley Jordan(スタンリー・ジョーダン)が参加した他、ビデオではヒップ・ホップ・グループのFat Boys(ファット・ボーイズ)、Michael Monroe(マイケル・モンロー。グラム・ロック・グループ、 Hanoi Rocksのヴォーカリスト)、Stiv Bators(スティーヴ・ベイターズ。パンク・バンド、Dead Boysのヴォーカリスト)の顔も見られました。今を思うと非常に豪華な顔ぶれですが、それまでのBand AidやUSA for Africaなどに比べると、非常に個性派揃いで、音楽もロックやポップスだけにとどまらないワールド・ワイドな結集でした。
アルバム収録曲では、Keith Richards(キース・リチャーズ)とRon Wood(ロン・ウッド) がBono提供曲"Silver and Gold"で参加した他、Miles Davis、Ron Carter、Herbie Hancock、Tony Williams(トニー・ウィリアムズ。ジャズ・ドラマー)、Sonny Okosun、Stanley Jordanらでレコーディングした"The Struggle Continues"なども話題を集めました。
この"Sun City"をチャート分析してみると、1985年11月2日付Billboard HOT100シングルチャートで74位に初登場、その後71位→53位→46位→42位と、3週目を除いては上昇はゆるやかで、アクションとしては他のチャリティー・ソングとは異なりました。6週目の12月7日付で39位とTop40入りを果たしますが、陽の当たった12月14日、38位を最高位に下降していきました(40位→41位→41位→51位→63位→81位)。13週のチャート・インでした。メインストリームロックチャート(当時はAlbum Rock Tracks)では11月23日付で44位に初登場し、翌30日付で41位に上昇、これが最高位となり2週41位を続けてその後は下降(44位→50位)、わずか5週のチャート・インでした。当時は政治的メッセージを攻撃的なラップやロックを流すことは、アメリカの保守層の強いラジオ局などではなかなか受け入れられなかったせいもあり、チャートにおいても影響が見られます。
アルバムでは陽の当たった12月14日付のBillboard200アルバムチャートで2週連続31位を記録、18週チャートインしました。
その後、Frederik Willem de Klerk大統領(フレデリック・デクラーク。任1989-94)は、"人種隔離体制の終結"を宣言、アパルトヘイト抵抗運動により27年間投獄されていたNelson Rolihlahla Mandela(ネルソン・マンデラ。1918-2013)を釈放、マンデラはアフリカ民族会議(ANC)の議長に就任(議長任1991-97)しました。1993年、マンデラ議長、デクラーク大統領はノーベル平和賞を受賞しました。アパルトヘイトは1994年に撤廃が決まり、ボプタツワナは南アフリカに再び統合、バントゥースタン政策は撤廃されました。そして南アフリカでは初めて全人種が参加する国民議会・州議会選挙が行われて、マンデラは第8代南アフリカ共和国大統領に就任(1994-99)したのです。
サン・シティでは人種の壁は取り外されて、現在でもリゾート地として大いに賑わっています。
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2018年12月13日
12月13日は何に陽(ひ)が当たったか?
第一次世界大戦(1914-18)の勃発で金輸出(言い換えれば金の国外流出)が危ぶまれることにより、アメリカが金本位制の一時停止および金輸出禁止を発表後、日本も1917年の寺内正毅内閣(てらうち まさたけ。首相任1916-18)のとき、アメリカにならい金輸出を禁止して金本位制の停止を発表しました。金本位制では金を価値基準として円とドルを交換する固定の為替レートでしたが、価値基準の金を使わない変動相場制に移行したのです。しかし戦時下の日本では外国製品をたくさん買う輸入超過におちいり、円がたくさん流出して日本に入ってくるドルは少なくなっていく、つまり円安状態になり、円の値打ちが下がるので円の為替相場は変動、さらに下落していきました。輸入超過の貿易赤字に拍車がかかった上、関東大震災(1923)や金融恐慌(1927)の影響でさらに円の下落状態がおこりました。
こうしたことから1930年、浜口雄幸内閣(はまぐち おさち。首相任1929-31)では、円の下落と国際価値の低下を防ぐため、井上準之助蔵相(いのうえ じゅんのすけ。1869-1932)のもとで金輸出の解禁を行い、金本位制を復活させることになりました。これで円為替相場制は正貨である金によって価値づけられ、"変動"ではなく"固定"の為替相場制となりました。
金本位制度下では、金平価(きんへいか)という、国家間の通貨の交換に対する指標が必要になってきます。金本位制がしかれている場合、使われる通貨は、これと同じ価値の、法で定められた含有量の金でできた正貨と交換(兌換)できます。通貨はこの金貨で価値が付けられます。日本では、1897年の貨幣法で正貨の金含有量が定められておりました。そして、国際金本位制下で各国の通貨が交換されるとき、各国の金含有量を比較して算出される、各国通貨の交換比率を金平価と言います。正貨における金の含有量は法律で定められているため、法定平価とも言われます。
ちなみに、金本位制度の停止を発表する1917年までの平価は日本は1円=金0.75g、アメリカは1ドル=1.5g、100円換算で49.875ドルの交換ができました(旧平価といいます。1ドル=約2円)。
1917年の日本の金本位制停止以降は円安状態のため、日本経済が国際的な信用が低下していました。下落し続ける円をまた金と兌換できるようにするのに、平価を新しく定める新平価の検討もありましたが、浜口内閣は、日本経済の国際信用低下を防ぐため、また円為替相場をかつてのレベルで維持させたいと思ったのか、旧平価で金を解禁してしまいました。
この旧平価での金輸出解禁は、当時の日本の経済状況を一変させました。円安でさらに輸入超過のため、金の流出が進み、輸入さえも減少していきました。さらには1929年の世界恐慌で輸出も不振の追い打ちがかかってしまいました。このため、日本の平価を切り下げて、円の対外価値を引き下げ、輸出を上向かせる声があがり、強いては金輸出再禁止を叫ぶ声も聞かれるようになりました。
そこで陽の当たった1931年12月13日、組閣したばかりの犬養内閣では高橋蔵相のもとで、輸出の促進と金の国外流出に歯止めをかけるため、金の輸出を再び禁止させ、円の金兌換を停止させることになりました。これにより、金本位制度は再び停止され、信用通貨を使用するため、政府が最高発行額を管理する管理通貨制度の時代に突入していきました。景気回復を期待される中でしたが、軍部の台頭を許して1932年5月15日に犬養首相が暗殺され(五・一五事件)、高橋蔵相が首相代理を兼任するも内閣は1932年5月26日に瓦解、戦前最後の政党内閣はついに崩壊して、軍国主義の波にのまれていくのでした。
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2018年12月12日
12月12日は何に陽(ひ)が当たったか?
シカゴで結成されたSurvivorはもともとはブラス・ロック出身のメンバーが多く、中心人物のJim Peterik(ジム・ピートリック。gtr,key,vo)は"Vehicle"という全米2位のヒット曲をもつブラス・セクションを採り入れたロック・グループ、The Ides of March(アイズ・オブ・マーチ)のメンバーでした。またDennis Keith Johnson(bass,moog)とGary Smith(drums)は1971年に24位まで上昇した"Get It On"のヒット曲を持つ、トランペットを盛り込んだロック・グループ、Chase(チェイス)で知られました。
Jim、Dennis、Garyに加え、バンドキャリア豊富な二人、ギタリストのFrankie Sullivan(フランキー・サリヴァン。gtr)とリード・ヴォーカリストのDave Bickler(デイヴ・ビックラー。vo,key)の5人編成で1978年冬にSurvivorは結成され、1979年に制作されたデビュー・アルバム"Survivor(邦題:サバイバー)"は1980年2月にリリースされました。
ところが、アルバム"Survivor"はブラス色の音色は皆無であり、メロディアスなアメリカン・ハード・ロック風のサウンドで、バンド名からもお分かりのように力強く生き抜いてきた男たちが、力強いロックを奏でるといったものでした。DennisとGaryはデビュー作のみの在籍で、2作目のレコーディングに取りかかる頃には、Stephan Ellis(ステファン・エリス。bass)とMarc Droubay(マーク・ドラウベイ。Drums)に入れ替わっておりましたが、結果的には苦労の末、新生5人で1982年の全米制覇(シングル、
"Eye of the Tiger"の全米1位)を成し遂げる黄金期を迎えることになるのです。
2作目"Premonition(邦題:予戒)"は1981年8月にリリースされ、今回の陽の当たったファースト・シングル"Poor Man's Son"がリリースされました。
この曲は次年に全米制覇を遂げる"Eye of the Tiger"の布石にもなった力強いロックナンバーで、タイトルや歌詞が示すようにハングリー精神の満ちた素晴らしい楽曲です。
"Poor Man's Son"は1981年10月17日付HOT100で78位に初登場、翌週は10ランクアップして68位を記録し、前回チャート・インし1980年5月に70位まで上がったデビュー作からのリード・シングル、"Somewhere In America"の記録を更新しました。その後58位→48位→44位と順調にアップし、11月21日付で40位とTop40入りを果たしました。その後は36位→34位と上昇、陽の当たった12月12日付の33位を最高位にその後は下降、14週チャートインするヒット曲となったのです。メインストリームロックチャート(当時はRock Albums & Top Tracks。1981年3月開設のチャート)では、最高位は1982年1月9日付および16日付の2週連続19位、16週チャートインを記録しています。このヒットを足がかりに、アルバム"Premonition"は翌1982年2月にもアメリカ以外でもリリースされ、グループはこの年夏の大きな成功へと昇りつめていくのでした。
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2018年12月11日
12月11日は何に陽(ひ)が当たったか?
チンギス没後の2年間は空位時代が続きましたが、1229年、チンギスの四男トゥルイ(1193-1232)の召集によって、ハン継承者選定のクリルタイ(モンゴル語で"集会"の意味)が開催され、オゴタイが次期皇帝として選出されました。次男チャガタイ(1178?/1185?/1186?-1242)やトゥルイの名も挙がりましたが、チンギスの子の中では、オゴタイが最も温厚な性格で、長男ジュチ(1177?/84?-1224?/25?)と次男チャガタイが不和になるとすかさず調停するという役割を果たし、チンギスもオゴタイを後継者として認めていたとされています。トゥルイは末子ということでチンギスから最も寵愛を受けましたが、チンギスの遺命と、トゥルイ自身による兄弟関係の安定を重視して、オゴタイを推挙しました。帝国では末子相続の慣習でモンゴル本国の領有権が与えられますが、トゥルイは皇帝にも立候補せず、監国(執政)を担当して、オゴタイ擁立後、本国領有権もオゴタイに譲ることによって兄弟間の亀裂(つまり帝国分裂)を未然に防ぎました。よって、モンゴル帝国第2代皇帝としてオゴタイ・ハン(オゴタイ・カァン)が即位し(廟号:太宗。位1229-41)、チンギスの遺志を継承することを宣言しました。オゴタイは父の時から仕えていた、遼(916-1125。契丹族の国家)の遺臣で諸学問に通じた耶律楚材(やりつそざい。1190-1244)を続けて重用し、都をオルコン川右岸のカラコルム(和林)に定めて、ジャムチ制度(主要道路に駅を設けて管理人を置き、宿泊や交通、搬送手段を提供する駅伝制。駅を"ジャム"、管理人を"ジャムチ"といいます)を拡大して公道を多数建設しました。また新しい領土に戸口調査を実施して新しい税制を定め、帝国進展に努めました。また1231年には再び勢いづいたホラズム・シャー朝(1077−1231。アムダリア川下流域のホラズム地方に興っていたトルコ系イスラム国家)を完全に支配下に入れました。
そして、父の果たせなかった偉業、つまり金王朝(1115-1234。中国東北地方。女真族完顔部の王朝)の征討の準備を練りました。チンギスは幼少期、金にそそのかされてモンゴル征討を任されたタタール部(モンゴル高原東部原住のモンゴル系部族。中国名は韃靼。だったん)の襲撃で、父イェスゲイ(生没年不詳。モンゴル部の首長)を亡くし、また妻も他部族に略奪された悲しい過去を経験し、打倒金王朝を掲げていました。オゴタイは父チンギスが無念にも金追討の前に没したことで、その遺志を引き継いでいました。オゴタイは中国・南宋(1127-1279)に使を遣わして、宋に河南地方譲渡を条件に、南北から挟撃する共同征討策を決めました。その間にトゥルイが病死する不幸もありましたが、1234年、スベエディ(スブタイ。1176-1248。チンギス時代からの名将)率いるモンゴル軍と南宋軍は、金の首都開封を包囲し、開城に成功、金の皇帝・哀宗(あいそう。位1223-34)を南宋国境の蔡州(さいしゅう)にて追撃し(金滅亡)、悲願の金征討を遂に果たせたのです。
その後、オゴタイ・ハンは、ヨーロッパ遠征軍の総司令官バトゥ(1207-55。ジュチの次男)にヨーロッパ遠征(大西征。1236-42)を命じて、キエフやノヴゴロドといったロシアの有力公国や都市を次々と攻略しました。1241年には、副司令官スベエディ率いる支軍もドイツ・ポーランドの諸侯連合軍をリーグニッツ東南のワールシュタットで破りました(ワールシュタットの戦い)。
しかしオゴタイ・ハンは深酒が原因でこの年の12月11日に没し、長男のグユク(1206-48)が第3代皇帝(帝位1246-48)として帝位を継ぎました。
引用文献『世界史の目 第41話』より
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