2018年12月16日
12月16日は何に陽(ひ)が当たったか?
1773年12月16日は、ボストン茶会事件の勃発年月日です。
1620年、イギリス国王ジェームズ1世(位1603-25)の抑圧を離れようとしたピューリタン(清教徒)の一団・ピルグリム・ファーザーズ(102名。非清教徒もいた)は、信仰の自由を求めて、小帆船メイフラワー号で渡航し、プリマス(ボストン東南)に上陸、植民地建設を始めました。1629年にはマサチューセッツ植民地を建設しはじめ、北東海岸部一帯はニューイングランドと呼ばれて、自治をおこして植民地議会(最初の議会はヴァージニア。1619年)を作りました。最終的には1732年にジョージアが建設されて、計13の植民地が完成しました。13植民地の中には、1632年に建設されたメリーランド、1664年にオランダのニューネーデルラント植民地をイギリスが奪った植民地ニューヨーク、クェーカー教徒のウィリアム・ペン(1644-1718)により建設されたペンシルヴァニアなどがありました。植民地住民は自治・議会を通して、宗教的・政治的・経済的自由に関する発言権を増大させていき、本国イギリスからの移住者も増加傾向になっていきました。
イギリス本国は利益を重んじる重商主義政策をしき、植民地は原材料供給の場とし、本国においては貿易振興・産業保護の形態をとりました。また航海法(1651)で本国と植民地間の貿易をイギリス船に限定させてから、重商主義政策はその後も羊毛品法(1699 植民地の羊毛製品輸出禁止)・帽子法(1732ビーバー皮製帽子輸出禁止)・糖蜜法(1733 本国以外から植民地に輸入される糖蜜に高関税)・鉄法(1750 製鉄品法。植民地の工場・溶鉱炉増設禁止)と展開し、結局は本国の産業保護に対する植民地の産業制限というように、植民地側は自由を奪われていきました。イギリスの重商主義政策はさらに勢いを増し、糖蜜法を修正した砂糖法(1764他国領から植民地に輸入される砂糖に重税)を発表、植民地側は徐々に本国の政策に不満を高めていきました。しかし、本国は植民地への圧迫を怠らず、極めつけとされる印紙法(Stamp Act。1765)で、植民地人の抵抗はいっきに爆発しました。
印紙法は商業取引の証書、法律上の書類、また植民地で発行される新聞・パンフ・トランプなどに印紙を貼らせて税収入を増やすために作られたので、植民地人の生活・社会・文化に大きく影響し、猛烈な反対運動を引き起こしたのです。翌1766年には印紙法は撤廃されましたが、植民地議会ではその後も本国政府に対することで議論していきました。植民地は本国議会に代表を送っていないわけであり、同意のない課税は認められないとし、本国政府は植民地側に課税することは間違いであると唱え、「代表なくして課税なし」の言葉が植民地中に飛び交いました。
印紙法の替わりとして、本国は1767年、蔵相チャールズ・タウンゼンド(1725-67。蔵相任1766-67)の提案でガラス・ペンキ・紙・鉛・茶の課税を定めました。しかしこれに関しても本国製品の不買運動などで茶税以外は撤廃となりました。反対派の運動はエスカレートし、マサチューセッツで1770年、反対派を抑えようとした本国の軍隊と、ボストン市民が衝突し、5人の市民が虐殺される事件が起こりました。
1773年、本国議会は、茶税に関して修正し、イギリス東インド会社に限ってアメリカ植民地へ輸出する茶の税を免除、つまり直送とし、同社には茶の独占販売権を与えたのです。これを茶法(Tea Act)といいます。当然のことながら植民地側の商人、その中でもボストンの急進派市民は猛反対しました。そして陽の当たった同年12月16日、ボストンの急進派市民はネイティブアメリカンに変装し、ボストン港に入港していた東インド会社船を襲撃、茶の積み荷342箱を海中に投げ込みました。ボストン港の海が茶に染められた、このボストン・ティーパーティー(ボストン茶会事件)によって、本国政府は、報復として植民地側の高圧的に弾圧することに転じ、ボストン港封鎖・マサチューセッツ自治権剥奪・軍隊駐屯・移住制限などの4つの強制条例を発したのです。
1774年9月、植民地の代表は、本国政府に抗議するべく、かつてウィリアム・ペンが建設したフィラデルフィアに結集し、第1回大陸会議を開き、通商の断絶を宣言したが、本国政府は無視を続けました。1775年には、もとヴァージニア植民地議会議員パトリック・ヘンリ(1736-99)がリッチモンドでの非合法の協議会で、「自由か、しからずんば死を与えよ」という”自由か死か”の演説で開戦の不可避を説きました。現地住民、特に農民は民兵団を組織して、1分間の予告ですぐに戦闘態勢にうつれるよう(ミニットマン)、準備を始めました。
1775年4月18日、イギリスのトマス・ゲージ将軍(1719-87)が、ボストン郊外のコンコードで、同地の農民が武器弾薬庫を作っており、そこには大量の武器が貯えてあるとの情報をかぎつけ、700人の部隊を派遣し、武器接収に乗り出しました。捜索を済ませた本国軍は、帰る途中のレキシントンで、ミニットマンと衝突、ミニットマンはゲリラ銃撃を浴びせました(レキシントンの戦い)。実は最初の発砲はどちら側か明らかではありませんでしたが、植民地側は本国側がしかけたものとして発表し、それぞれの植民地中にこのことを広め、植民地人を奮い立たせていきました。5月にはフィラデルフィアで第2回大陸会議が開かれて、大陸軍が組織されて最高司令官にジョージ・ワシントン(1732-99)が任命されました。戦争が進み本国イギリスとの和解は薄れていく中で、次第に独立の意識が高揚し、戦争は文字通りの独立戦争となっていったのでした。
引用文献:『世界史の目 第11話』より
1620年、イギリス国王ジェームズ1世(位1603-25)の抑圧を離れようとしたピューリタン(清教徒)の一団・ピルグリム・ファーザーズ(102名。非清教徒もいた)は、信仰の自由を求めて、小帆船メイフラワー号で渡航し、プリマス(ボストン東南)に上陸、植民地建設を始めました。1629年にはマサチューセッツ植民地を建設しはじめ、北東海岸部一帯はニューイングランドと呼ばれて、自治をおこして植民地議会(最初の議会はヴァージニア。1619年)を作りました。最終的には1732年にジョージアが建設されて、計13の植民地が完成しました。13植民地の中には、1632年に建設されたメリーランド、1664年にオランダのニューネーデルラント植民地をイギリスが奪った植民地ニューヨーク、クェーカー教徒のウィリアム・ペン(1644-1718)により建設されたペンシルヴァニアなどがありました。植民地住民は自治・議会を通して、宗教的・政治的・経済的自由に関する発言権を増大させていき、本国イギリスからの移住者も増加傾向になっていきました。
イギリス本国は利益を重んじる重商主義政策をしき、植民地は原材料供給の場とし、本国においては貿易振興・産業保護の形態をとりました。また航海法(1651)で本国と植民地間の貿易をイギリス船に限定させてから、重商主義政策はその後も羊毛品法(1699 植民地の羊毛製品輸出禁止)・帽子法(1732ビーバー皮製帽子輸出禁止)・糖蜜法(1733 本国以外から植民地に輸入される糖蜜に高関税)・鉄法(1750 製鉄品法。植民地の工場・溶鉱炉増設禁止)と展開し、結局は本国の産業保護に対する植民地の産業制限というように、植民地側は自由を奪われていきました。イギリスの重商主義政策はさらに勢いを増し、糖蜜法を修正した砂糖法(1764他国領から植民地に輸入される砂糖に重税)を発表、植民地側は徐々に本国の政策に不満を高めていきました。しかし、本国は植民地への圧迫を怠らず、極めつけとされる印紙法(Stamp Act。1765)で、植民地人の抵抗はいっきに爆発しました。
印紙法は商業取引の証書、法律上の書類、また植民地で発行される新聞・パンフ・トランプなどに印紙を貼らせて税収入を増やすために作られたので、植民地人の生活・社会・文化に大きく影響し、猛烈な反対運動を引き起こしたのです。翌1766年には印紙法は撤廃されましたが、植民地議会ではその後も本国政府に対することで議論していきました。植民地は本国議会に代表を送っていないわけであり、同意のない課税は認められないとし、本国政府は植民地側に課税することは間違いであると唱え、「代表なくして課税なし」の言葉が植民地中に飛び交いました。
印紙法の替わりとして、本国は1767年、蔵相チャールズ・タウンゼンド(1725-67。蔵相任1766-67)の提案でガラス・ペンキ・紙・鉛・茶の課税を定めました。しかしこれに関しても本国製品の不買運動などで茶税以外は撤廃となりました。反対派の運動はエスカレートし、マサチューセッツで1770年、反対派を抑えようとした本国の軍隊と、ボストン市民が衝突し、5人の市民が虐殺される事件が起こりました。
1773年、本国議会は、茶税に関して修正し、イギリス東インド会社に限ってアメリカ植民地へ輸出する茶の税を免除、つまり直送とし、同社には茶の独占販売権を与えたのです。これを茶法(Tea Act)といいます。当然のことながら植民地側の商人、その中でもボストンの急進派市民は猛反対しました。そして陽の当たった同年12月16日、ボストンの急進派市民はネイティブアメリカンに変装し、ボストン港に入港していた東インド会社船を襲撃、茶の積み荷342箱を海中に投げ込みました。ボストン港の海が茶に染められた、このボストン・ティーパーティー(ボストン茶会事件)によって、本国政府は、報復として植民地側の高圧的に弾圧することに転じ、ボストン港封鎖・マサチューセッツ自治権剥奪・軍隊駐屯・移住制限などの4つの強制条例を発したのです。
1774年9月、植民地の代表は、本国政府に抗議するべく、かつてウィリアム・ペンが建設したフィラデルフィアに結集し、第1回大陸会議を開き、通商の断絶を宣言したが、本国政府は無視を続けました。1775年には、もとヴァージニア植民地議会議員パトリック・ヘンリ(1736-99)がリッチモンドでの非合法の協議会で、「自由か、しからずんば死を与えよ」という”自由か死か”の演説で開戦の不可避を説きました。現地住民、特に農民は民兵団を組織して、1分間の予告ですぐに戦闘態勢にうつれるよう(ミニットマン)、準備を始めました。
1775年4月18日、イギリスのトマス・ゲージ将軍(1719-87)が、ボストン郊外のコンコードで、同地の農民が武器弾薬庫を作っており、そこには大量の武器が貯えてあるとの情報をかぎつけ、700人の部隊を派遣し、武器接収に乗り出しました。捜索を済ませた本国軍は、帰る途中のレキシントンで、ミニットマンと衝突、ミニットマンはゲリラ銃撃を浴びせました(レキシントンの戦い)。実は最初の発砲はどちら側か明らかではありませんでしたが、植民地側は本国側がしかけたものとして発表し、それぞれの植民地中にこのことを広め、植民地人を奮い立たせていきました。5月にはフィラデルフィアで第2回大陸会議が開かれて、大陸軍が組織されて最高司令官にジョージ・ワシントン(1732-99)が任命されました。戦争が進み本国イギリスとの和解は薄れていく中で、次第に独立の意識が高揚し、戦争は文字通りの独立戦争となっていったのでした。
引用文献:『世界史の目 第11話』より
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posted by ottovonmax at 00:00| 歴史